第139回 須藤 晃 氏 音楽プロデューサー

インタビュー リレーインタビュー

須藤 晃 氏
須藤 晃 氏

須藤 晃 氏 音楽プロデューサー

 今回の「Musicman’s RELAY」はグラフィック・デザイナー 田島照久さんからのご紹介で、音楽プロデューサー須藤 晃さんのご登場です。石川啄木に憧れる文学青年として富山で過ごした須藤さんは、東京大学への入学を機に上京。大学在学中には渡米し、ニューヨークのソーホーで生活をしながら、大きな刺激を受けます。1977年、CBSソニー(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)入社後は、プロデューサー&ディレクターとして尾崎豊、矢沢永吉、浜田省吾、村下孝蔵、橘いずみ、玉置浩二らを担当。現在も精力的にプロデュースワークを続けられています。そんな須藤さんに生い立ちやキャリアのお話から、尾崎豊との日々までお話を伺いました。

2016年7月12日 掲載
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

プロフィール
須藤 晃(すどう・あきら)
音楽プロデューサー


1952年8月6日 富山県生まれ
1977年東京大学英米文学科卒業後、CBSソニー(現SME)入社
1996年より(株)カリントファクトリー主宰
尾崎豊、浜田省吾、村下孝蔵、玉置浩二、トータス松本、馬場俊英らと音楽制作のパートナーとして数々の名曲を発表。
言葉(歌詞)にこだわったプロデューススタイルでメッセージ性の強い作品を生み出し続けている。


 

  1. 優秀な兄に影響されて勉強熱心な少年に
  2. 「石川啄木になりたい」詩人に憧れた学生時代
  3. 東京大学入学とニューヨークでの刺激的な日々
  4. 学生結婚をきっかけにCBSソニーへ入社
  5. ボーカルは一回しか歌わせない〜矢沢永吉のレコーディングの衝撃
  6. 尾崎豊との奇跡的な出会い
  7. 詩と経験の“キャッチボール”が名曲を生んだ〜『I love you』『15の夜』
  8. 限界を設けず「音楽の可能性」を追求して欲しい

 

1. 優秀な兄に影響されて勉強熱心な少年に

−− 前回、ご登場頂いた田島照久さんとはいつ頃出会われたんですか?

須藤:僕は1976年に大学を卒業して、CBSソニーに入ったんですね。それで高久光雄さん(元ドリーミュージック 代表取締役社長)の下に制作アシスタントで就いたんです。高久さんは南佳孝さん、矢沢永吉さんとか当時のCBSソニーで唯一ロックっぽいものをやっているディレクターで、高久さんが一緒に仕事をしていたハウスデザイナーが田島照久さんだったんです。僕はアシスタントなので連絡係みたいなこともやっていたんですが、デザインの仕事にも興味があったので、田島さんと個人的にも話すようになったんです。それで自分がディレクターになって、浜田省吾や尾崎豊をやるようになったときに、田島さんにデザインを依頼するようになりました。

−− ウマが合ったんですか?

須藤:そうですね。田島さんは寡黙な感じの人なんですけど、やはりアートの匂いがもの凄くする人で、偏屈というか頑固な感じもしていて、僕はその人柄みたいなものに凄く惹かれたんですよね。

−− 田島さんとの仕事はどのように進められるんですか?

須藤:僕はデザインの仕事はデザイナーに全部任せるし、音響のことだったらエンジニアに全部任せるんですね。例えば、スタジオへ行って、音がどうだとかそういうことを全く言わないタイプなんです。要するに専門職の人に任せてしまうという。

ですから田島さんにも「こういうことをやりたいんだけど、あとお願いします」みたいな感じですね。後々「須藤君のそのやり方は凄くやりやすかった」って言ってもらえましたけどね。自分はこういう想いでこのアーティストをやっていると話して、「あとは自由につくってくださいよ」と。それで彼は常に期待を上回るようなものを作ってくれました。

−− お互い尊敬する間柄ということですね。

須藤:彼が僕のことを尊敬しているかは分からないですけど(笑)、よく一緒に仕事をしています。彼はデザイナーなんですが、ちょっと僕と似ているなと思ったのは、結局写真も自分で撮り出したじゃないですか。普通、デザイナーというのは自分のやりやすいカメラマンと組むわけですが、彼は写真も自分で撮り出して、とにかく自分の中で全部やるというね。で、僕のプロデュース・スタイルというのは…あんまり人を信用しないっていうか(笑)、全部自分の思うようにやるタイプなんですね。だからそういう部分が似ていたのかもしれないですね。

−− 田島さんはカメラマンに気をつかって色々こういう風に撮って欲しいって伝えるのが面倒くさいから結局自分で撮り始めたって仰ってました(笑)。

須藤:そうですか…なるほど(笑)。

−− ここからは須藤さんご自身のお話をお伺いしたいのですが、お生まれは富山だそうですね。

須藤:僕は富山県の富山市と高岡市の間にある小杉町という、海にも山にも近い町で生まれて、サラリーマンの父親と主婦の母親、兄弟は3つ上に兄貴がいて、5つ下に妹がいる家庭の次男坊として育ちました。これはMusicman-NETのインタビューということで、あえて音楽的な要素みたいなものを考えてみますと…ほとんどないに等しいですね。

−− (笑)。

須藤:ただ3つ上の兄というのが勉強のできる人だったんですね。それで色々比較されるので、自分も頑張って勉強するようになりました。不思議なことに、兄が先に東京の大学へ進学して、僕が東京に出るまでの間以外は、富山でも東京でもずっと兄と同じ部屋で生活していたんですよね。だから兄の影響は結構受けたんだと思います。ちなみに兄は静岡大学の工学部の教授をやっていたんですが、そういう堅い、というか、非常に頭のいい人だったんです。

家は普通のサラリーマンの家庭ですし、裕福ではなかったんですが、兄が小学校のときにクリスマスプレゼントでいわゆるガットギターみたいのを買ってもらったんですね。それでクラシックの教則本を買って来て『禁じられた遊び』とか、そういう曲を一生懸命練習していたんです。それで兄がいないときにこっそり借りて、僕はベンチャーズとかクラシックじゃないものを弾こうとして、まあ弾けなかったんですが、触ったりしていました。あとレコードは高くて買えないので、兄がソノシートを買ってくるんですね。それは洋楽が主なんですが、日本の歌手が歌っているソノシートでね。

−− カバーバージョンですか?

須藤:カバーバージョンなんですけど、カバーって分かっていなかったですね。それを兄が小さなステレオで聞いていて、これも兄がいないときにこっそり聴いていました。父親はSP盤でラテンとかタンゴとかダンス曲を何枚も持っていて、そういう音楽を聴いていましたね。

−− 須藤さんが初めて買われたレコードは何ですか?

須藤:初めて買ったレコードは多分ビートルズの4曲入りのレコードか、加山雄三さんの「夜空の星」とかが入っている4曲入りだと思います。あんまり大きい音でかけられないので、小さな音で何回も何回もかけて、手元にあるギターでちょっと音拾ったり、「ギターが弾けたらいいなぁ」なんて思ったりしていましたね。本当に恥ずかしいんですけど、全然音楽的な環境の中にはいなくて、その程度だったんですよ。

 

2. 「石川啄木になりたい」詩人に憧れた学生時代

須藤 晃 氏 音楽プロデューサー

−− 少年時代に何か熱中していたことはあったんですか?

須藤:僕はどちらかというと文学少年だったんですね。人と遊ぶことが苦手で、子どもって野球をやったり、外で遊ぶイメージですが、僕は学校が終わると隣接している図書館へ行って、閉館時間まで本を読んでいるみたいな少年でした。

−− 当時はどんな本を読まれていたんですか?

須藤:もう手当たり次第ですね。自分がちょっと興味ありそうなものは何でも読んでいました。自分が大人になってちょっと有名になった時期に、その図書館長だった人に会ったときに「図書館にあった本はほとんど全部読んでいたね」って言われたくらい、本ばかり読んでいました。それで子どもの頃から将来は詩人になりたいと思っていて、石川啄木が有名だったので「石川啄木になりたい」みたいなことはよく言っていたんですよ(笑)。それで高校のときに寺山修司が好きになって、彼からもすごく影響を受けました。

−− ご自分でも詩は書かれていたんですか?

須藤:ええ。小学校のときから夏休みの宿題とか出さなきゃいけないときに詩を書いて出していましたね。まぁ詩とは言えないようなものですけどね。散文を書くよりも詩を書くのが好きだったというか。妄想したり想像したり、お金もないし物を手に入れることができないので、そっちのほうにいっていた気がしますけどね。

−− 本物の文学少年ですね。

須藤:そうですね。レコードというメディアに出会わなかったら多分、物書きになっていたんじゃないかなって思いますけどね。最終的に音楽の仕事に就くわけですが、大学を受験するときですら親父に「将来詩人になりたい」って言って殴られていましたからね(笑)。「どうやって食うんだ!」って。

−− (笑)。やっぱりクラスの中でも須藤さんは変わった子だったんですかね?

須藤:変わった子だったと思いますね。でも、頭は悪くなかったんだと思うんですね。だから、なんていうんでしょうね…変わった人間なんだけど、あんまり喋らないし、夢想家みたいな感じなので、あんまり人が寄ってこないっていうんでしょうかね。

−− 孤高の少年っていう感じですかね。

須藤:そこまではいかないですけど、中学・高校で友達はあまりいなかったですね。まぁ大学のときも友達なんてほとんどいないですけど(笑)。その流れで就職して、仕事上の付き合いの人はいっぱいいますけど、人付き合いは未だに上手くないですね。仕事となればどんな人に会うのも全然平気なんですけど。

今もそうですが、僕は特にアーティストと一緒にご飯食べたり絶対しないんです。もともとお酒も飲まないですし、仲良しこよしというか和気あいあいとするムードというのが苦手なんですね。流石に最近はみんなそのことを知っているので、僕のことを誘わないですが、これだけ色々な仕事をしてきて、みんなが知っている仕事は凄く多いと思うんですが、その割には付き合いがどれも浅いです。仕事上は付き合うんですが「今度の休みみんなで釣り行こうよ」とか「サイクリングに行こうよ」とか、そういう遊びの類には一切参加しないんですよね。会社に入った頃はちょっと無理して付き合ったりもしていましたけどね。そもそも得意じゃないんですね。

−− いわゆる業界のパーティ的なものも苦手ですか?

須藤:ほぼ出ないですね。だからそうこうしているうちに嫌われることもあったでしょうし、「格好付けている」と思われたことも多いでしょうね。別に格好付けているわけじゃなくて、気の利いたことが言えないんですよね。だから女の子がいっぱいいるようなお店も連れてってもらっても、喋ることがないというか、例えば、女の子が一生懸命喋っていて、それに適当に相づち打ちながらちょっと親しくなるみたいなことが全くできないんです。「私って身体弱いじゃない?」って言われたって「いや、知らないんだけど…」ってそういう風に言っちゃうと元も子もないじゃないですか(笑)。良く言えば根が真面目なんでしょうが、なんか、気が利かないというか愛想がないんです。

−− 学生時代、クラスには女の子がいますよね。そういった女の子とはどうだったんですか?

須藤:いや女の子には凄くモテましたよ。女の子がついてきたり手紙貰ったり。

−− サービス精神がなくても向こうから寄ってきた?

須藤:寄ってきたというか声を掛けられたりしますよね。そりゃ、勉強ができるのに寡黙というか、ストイックな感じだと、思春期の女の子は興味を持つと思うんです。

−− 今チラッとおっしゃいましたけど、やはり勉強はできたんですね。

須藤:成績は良かったですね。特に英語と国語が得意でした。中学のときは富山だったんですが、近くに教会があって、そこにカナダ人の宣教師家族がいて、ちょっとしたツテで彼らから英語を習っていたんです。当時そういうチャンスってなかなかないじゃないですか。それで教会へ行っているうちに海外のカルチャーに急激に惹かれていくんですね。だから一生懸命英語の勉強をしていました。早く喋れるようになりたいとか、将来は外国に住みたいとか、そういうことは中学生くらいのときから思っていましたね。

数学とかはあまりできなかったんですけど、国語と英語の成績がいいのでなんとかバランスが取れていた感じがしますね。国語なんて試験があって「答えが違う」って先生に言われると、「それは正解が間違っているよ」って言いに行くタイプだったので(笑)。「これはそれぞれの解釈があって〜」みたいなね(笑)。

−− 扱い難い生徒ですね(笑)。

須藤:そうですね。でも、昔の先生ってある意味そういうことを受け入れてくれる度量があったような気がしますね。面白がられたというか。

 

3. 東京大学入学とニューヨークでの刺激的な日々

−− 東京大学はご自身で受かると思われていましたか?

須藤:ちょうど安田講堂事件の翌年なんですよ。だから試験が一回無かった翌年だったので、結構狭き門だったんですね。どうしても東大行きたい人もいっぱいいた年で、自分はとても合格しないだろうと思っていたんですが、今でも覚えていますけど「親子の断絶について書け」という長文の試験がメインだったんですね。僕はそこで「親子どんぶり」について書いたんですよ。米は新潟のコシヒカリ、三つ葉はどこのやつ、鶏肉は○○産だけど卵はどこどこじゃなきゃいけない、みたいなこだわりがあって日本一うまい親子どんぶりは作られるんだろうみたいなことを書いてね。で、親子関係の断絶については全く書かなかったんですよ。きっと受かると思ってなかったんだと思います。

でも、大学に入った後にある先生に「あ、お前か」って言われました。面白いこと書いているやつがいたんだよって。だからきっとそれが良い点数を取ったんでしょうね。その年はマークシート方式が無くなった年で、試しで長文の問題が出たんですよね。そういう風に変わった試験だったから合格したんじゃないかなと思ったんですけどね。

−− その文章は「鶏肉と卵が実の親子じゃない」というテーゼから書かれたんじゃないんですか?

須藤:そんなことも含めてですね。一番うまい鶏肉と一番うまい鶏卵っていうのは多分実の親子じゃないじゃないですか。細かいことは覚えてないですよ、でもそれがいい点数をとった。

−− とにかくめちゃくちゃユニークなことを書いたんですね。

須藤:他にそんなこと書いている奴はいなかったです。当時の東大って基本的には秀才ばっかりですからね。入ってみるとユニークな奴が本当に少ない大学でしたね。今は違うと思うんですけど。

−− 役人になるような人たちの雰囲気ですか?

須藤:同級生はほとんど学者になりましたね。僕みたいな仕事をしている奴もいないです。だから逆に今でも面白がられるというね。その当時の大学教授とかと仕事上で会ったりしたときも「先生の授業を受けていたんですよ」って言うと「俺の授業受けていて、お前はこんな世界にいるのか」って(笑)。東大を出てレコード会社に入ったときにみんなから「お前よっぽどできなかったんだな」って言われましたからね(笑)。なんでこんなとこにしたんだよって。でも僕はNHKとか電通とかも受けたんですけど、ものの見事に落ちたんです。それでレコード会社が受かったんですよね。これも何かの運命ですよね。

−− 大学進学で上京されて、東京での生活はいかがでしたか?

須藤:とにかく都会に出たい、東京に行きたいって思っていましたからね。僕はお金も無かったので、富山から東京まで各駅停車で上京しました。遠いですから24時間くらいかかりました。それで東京に着いた翌日に僕が最初にしたことは映画を観に行くことでした。東京はそういうことがいつでもできる街なんだって興奮しましたね。映画は好きだったんですが、自分が住んでいる町に映画館はなかったんですね。

−− その後、大学時代にニューヨークへ行かれていますね。きっかけはなんだったんですか?

須藤:小田実さんの『何でも見てやろう』を読んですごく感化されたのと、寺山さんの『書を捨てよ町に出よう』を読んで、「自分の知らないことが多すぎる」と思っていたので、とにかく海外へ行きたいという想いが強かったんです。お金もなかったので当時付き合っていた、まぁその人と結婚するんですけど(笑)、奥さんの親にお金借りて。

−− 奥さんのご両親にお金を借りたんですか?(笑)

須藤:そう。「アメリカに行きたい」って言ったら「じゃあ行ってきたら」と(笑)。グレーハウンドというバスがあるんですが、それは日本で500ドルくらいのチケット買うと乗り放題なんですよね。それを聞きつけてチケットを買って、トラベラーズチェックで1000ドルくらい持ってアメリカに渡りました。

−− それは大学何年のときですか?

須藤:大学3年のときですね。このままいったら卒業して就職するしかないと思って。自分のやりたいことも何にも見つからないし、とりあえずアメリカに行って見聞を広めれば、なにかヒントがあるかもしれない、くらいの気持ちだったと思います。

−− アメリカ横断は西海岸からですか?

須藤:ロサンゼルスからグレーハウンドに乗ってラスベガス、シカゴをまわって、それでニューヨークに着いて、日本で紹介してもらっていた画家の人がいたので、その人のアパートを尋ねたんです。そうしたらその人が凄くいい人で、歓迎してくれてアパートを紹介してくれて、そこを借りました。それでソーホーをぶらぶらしていたら、その日に日本人に声を掛けられたんですよね。それで「旅行者です」と言ったら「お前釘打てるか?」「打てますよ」って答えたら「じゃあ、お前明日から働け」と。「ギャラリーの改装とか、大工仕事がいっぱいあるから」って言われて。

で、次の日から大工仕事ですよ。要するにギャラリーの改装をするんですが、向こうはツーバイフォーといって1種類の材木を切ったり貼ったりするみたいな工法だったんです。ですから設計図みたいなものは無くて、口で指示されて釘を打つみたいなね。それを朝から夕方までやって、その後カフェバーみたいなところに行って、みんなでビールを飲むみたいな生活を始めたんですが、それをやっているのがみんな売れない画家なんですよ。そういう人たちから「スドウ、スドウ」って可愛がってもらって。しかも1日いくらってお金をくれたんですよ。ニューヨークに着いたときにはもうほとんどお金がなかったので「こりゃいいや」と思いましたね。まさに70年代当時のニューヨークを満喫できました。

−− 旅行というよりも、仕事をしつつニューヨークに住んでいたわけですよね。

須藤:住んでいました。池田満寿夫さんとかもいるような時代のニューヨークですよね。それで僕が知り合った人はみんなアーティストでしたけど、そこで色んなことを教えてもらって、このままずっとニューヨークにいようかなと思っていたときに、ある人が「君、東大生なんだろ? だったら帰れよ。みんなここに来て帰らなくなった人間ばっかりなんだよ」って言ってくれたんですよね。「また来たけりゃ、学校卒業してから来いよ」って。それでもう何かを得たような感じもしていたので「じゃあとりあえず帰ります」とニューヨークを出て、グレーハウンドでロスまで行って、それで帰国したんです。

 

4. 学生結婚をきっかけにCBSソニーへ入社

須藤 晃 氏 音楽プロデューサー

−− 結局アメリカにはどのくらいいたんですか?

須藤:3ヶ月くらいですね。本当は観光ビザが6ヶ月だったのでもっといられたんですけど、抗う勇気を持って帰って来て、それでまた行こうと思いながら本気でアメリカの現代詩について勉強しはじめたっていう感じだったんですね。何かが吹っ切れた感じがして。

−− 73、74年頃の東京とニューヨークの差って圧倒的な違いですよね。

須藤:圧倒的ですよ。もう刺激の度合いが違うというか。僕がニューヨークで得たものはあまりにも大きかったです。僕が尾崎さんと出会うのってそれから5、6年経ってからなんですよね。僕がそのニューヨーク体験の話をして、彼にニューヨークへ行くように薦めたんですよね。彼も1人で住んでいましたけど、結局彼はニューヨークで薬を覚えてしまった。同じ孤独の中にいても彼はアーティストで、しかももの凄く売れた状態で行っているからお金もあるじゃないですか。そりゃ僕とは条件が全然違っていたんですよね。僕が彼を送り出して、しばらくしてニューヨークに行ったとき彼はあまり良い状態ではなかったですからね。「あぁ、これはもう引き戻さなきゃダメだ」と思いました。

−− 尾崎さんは英語が堪能だったんですか?

須藤:全然喋れないです。ほとんど喋れないで1年くらいいたんじゃないかな。

−− それは結構きつかったんじゃないですかね。

須藤:だからほとんど部屋に閉じこもっていたと思いますよ。孤独ですよね。僕がニューヨークへ行ったときに、彼の制作ノートみたいなのを覗き見たんですが、ほとんど何も書いてないんですよね。1、2行書いては次のページにいくみたいな。それで「これは煮詰まっているな。やっぱり連れて帰らなきゃダメだな」と思ったんですが、そうこうしているうちに彼はソニーから移籍してしまって、僕との関係も一回切れてしまうんです。

−− 須藤さんがニューヨークから帰って来てCBSソニーに就職されたのは、「一応就職をしてみようかな」という感じだったんですか?

須藤:いや、アメリカに行くときにお金を借りた女性がいたじゃないですか。その人の父親が医者で、「須藤くん、もう一回医学部へ行きなおして、家を継いでくれないか」と言われたんですよ。結局僕は大学に6年いたんですが、それを5年目くらいのときに言われて、「それはないですよ」って話をして「だったら就職しなさい」と言われたんです。要するに娘と早く結婚してくれと。それで学生結婚することが決まって「もう就職しなきゃいけない」という状況になったんですね。

それで電通とかNHKとか受けたんですが、CBSソニーの「CBS」というネーミングに惹かれて、レコード会社という意識もあまりないまま受けたら、最初の面接で「他にどこ受けているんだ?」って言われたから正直に言ったら、「すぐ社長面接してやるからうちに来い」って言われたんですね。とりあえず内定を1個決めないと思って「分かりました」と。それで最終的にCBSソニーに就職することになったんですよ。当時はまだ景気が良かったのか同期が100人以上いました。

−− そんなにいたんですか。

須藤:いました。それで内定を貰ったら、その子の親も喜んで。それでうちの親なんかはCBSソニーというよりも「ソニー」という名前で乗り切るしかなかったので、「ソニーに決まったよ」と言ったら「おぉ凄いじゃん」みたいな(笑)。今はちょっと落ちぶれましたけど、昔のソニーってやっぱり破竹の勢いがあったんですよ。

−− ちなみにご自分の中で就職の本命はどこだったんですか?

須藤:本命はないですよ。そもそも就職なんかしたくなかったわけですから。

−− ではCBSソニーでは妻帯者の新入社員だったわけですね。

須藤:そうですね、僕だけだったですね。人事課長に「だまされた」って言われたので、「心配しないでください、すぐやめますから」って(笑)。「形として就職しないと結婚させないって言われたから就職していますけど、使い物にならなかったらすぐやめますから」って。でも会社に入ったら、本当にその日にやめたくなりました。この空気合わないなと思って。

−− 当時のCBSソニーは自由な雰囲気が漂っていたように思いましたが…。

須藤:考えてみてくださいよ。石川啄木になりたい、「何でも見てやろう」とアメリカへ行って、アメリカの現代詩を一生懸命勉強していたのに、会社に入ったら、周りはみんなチャラくて「おいシーメー行くかー?」みたいな芸能界用語で喋るわけですよ。もう耐えられなかったですね。音楽業界というかレコード会社っていうものの空気感が自分の中では合わない感じがしたんですね。「ここにずっといるのか?」という気持ちですよ。正直「失敗したな」と思いましたね。やっぱり売れなくても頑張って作家や詩人を目指すか…そういう気持ちは2、3年ありましたね。

−− 会社に入ったことによって身を持ち崩してしまった、みたいな。

須藤:そうですね…でも「これは神様がいるな」と思ったのは、そういう僕が普通じゃないアーティストと出会っていくんですね。それで引っ張り上げられたというんですかね。自分自身は全然たいしたことないんですけどね。

 

5. ボーカルは一回しか歌わせない〜矢沢永吉のレコーディングの衝撃

須藤 晃 氏 音楽プロデューサー

−− 最初の配属はどこだったんですか?

須藤:企画制作三部っていうところで、そこで高久さんのアシスタントをしていました。

−− 普通でいうと憧れのポジションですよね。

須藤:そうですね。同期が百何十人いて、ロック系の制作ディレクターは僕だけだったんですよ。酒井政利さんというスーパープロデューサーがいるんですが、そのセクションに2人行って。みんな「いいな、いいな」って言ってくれたんですが、自分はもうちょっと品があってアカデミックな雰囲気をイメージしていたので…(笑)。

−− (笑)。

須藤:もともとクラシック音楽が好きでしたし、郷ひろみとか山口百恵と言われると「えぇ…」って感じが当時の自分の中でありましたからね。僕の行った企画制作三部というのはその当時は売れているものは一つもなくて、これからというアーティストが多い部署だったんですが、高久さんという人がすごく面白い人で、可愛がってもらいましたし、色んなことを教えてもらいました。

あの人の下につかなかったら、多分今の僕はないと思いますし、1から10まで教えてもらった感じがありました。高久さんが夜連れ出してくれたところに東芝の石坂敬一さんがいたり、ワーナーの折田育造さんがいたりして、「こいつ東大出てこんなところに来ているんだよ。ちょっと鍛えてやってくれよ」みたいな。でも全然相手にされなかったんですけどね。そのアシスタント仕事の1、2年の間に色んなことを覚えましたけど、早く辞めたいなってずっと思っていました。

−− なぜ企画制作三部の配属になったんでしょうかね。

須藤:分からないですね。偉そうなことも何も言ってないんですけどね。でも後で丸山茂雄さんとかに「お前には何か感じたんだよ」って言われましたけどね。「目が血走っていた」って言われました。

−− アシスタントとして具体的にどんなお仕事をしていたんですか?

須藤:高久さんのアシスタントとしては、矢沢永吉さんの仕事がメインでした。矢沢さんの『ゴールドラッシュ』の頃ですね。矢沢さんからは「お前こんな会社にいないで、うちの息子の家庭教師やれよ。金倍出してやるよ」って言われましたけど(笑)、矢沢永吉さんって凄く魅力的な人ですよね。やっぱり男が好きになるタイプでしたし、矢沢さんにも凄く可愛がってもらいました。最初についたのが矢沢永吉さんだったのは大きかったと思います。

矢沢さんのレコーディング現場を見させてもらったりしたんですが、譜面も何もないんですよ。矢沢さんが来て、「オーケーオーケー」とか言いながらやるだけなんですよね。セッションを進めながら「そこ、こうしてくれ」「ああしてくれ」みたいな指示をその場で出すんですけど、バンドは高橋幸宏とか高中正義とか上手い人たちばかりなので、みんな適当にやっているように見えて、演奏は凄くかっこいいんですよね。「あ、レコーディングってこういう感じなんだ」って思ったんですが、あれは特別なレコーディングなんだと、その後、普通にレコーディングをしていると気付くんですけどね(笑)。

−− (笑)。レコーディング時における須藤さんのこだわりは何かありますか?

須藤:僕は自分がプロデューサーとしてレコードをつくっていくときに、ボーカルは一回しか歌わせないんですよ。「じゃあやろうか」と言って、歌ってもらって「はい、オーケー!」「えっ、もう一回やらせてください」「何回でもやっていいけど、俺は帰ります」と。最終的なボーカルの人事権みたいのは僕が持っているから「結局さっきのやつ使うよ」と言って、スタジオを去るんです(笑)。今、玉置浩二さんとやっていますが、玉置さんも最初は怒りました。でも今は「分かったよ。須藤さんの言う通りだよ。何回やっても良くなるわけじゃないよ」って言ってくれます。

−− 普通は何回も録ってボーカルセレクタでいいところだけ繋いだりしますけどね。

須藤:高久さんもそうやっていましたけど、「それはないな」って僕はいつも思っていました。結局それが確信になったのは尾崎さんをやったときですね。尾崎さんも僕もキャリアがなかったですから、「歌って一回しか歌えないんだよ」「そういうもんだ」と彼に説明して「分かりました」と。

−− あれ全部一回なんですか?

須藤:ほぼ一回です。ボーカルの鮮度みたいなものがあるじゃないですか。きっとレコードを出すくらいの人というのは、歌はみんな上手いんですよ。それで上手い人って何度もやっていくと、どんどん技巧的になる感じがするんです。でも、人を惹き付けるのって下手な部分だと思うんですよね。ある一定のアベレージを歌える人が息継ぎに失敗していたり、言葉飲んじゃったり、みたいな。よっぽどひどいときはそこをやり直しますけど、でもそういうのがいいんだなっていつも思っていて、繰り返しやっているうちにどんどん血を抜かれていく感じがしちゃって、何にも面白くなくなるんですよね。

今の若い子のレコードを聴くと、みんなピッチコントローラーを使っていて音程は良いんですが、ひとつも面白くないですよね。音程がいいってことはそんなに重要なことじゃない、って僕は昔から思っています。色んなアーティストから「尾崎さんって凄い音程が不確かなところが多いけど、でもそこが良いんですよね」って言われるんです。「でも、普通のプロデューサーは『オーケー、それでいいよ』って言わない。須藤さんの凄いところはそれをやってきたところだ」って褒めてくれるんだけど、「っていうか音程、そんなに変かい?」って(笑)。歌ってそんなものだし、誰かに自分の想いを伝えるときって理路整然とは言えないじゃないですか。どもりながらでも「好きだ」と遠回しに言ったりするわけで、かっこつけて「I love you」なんて言う人はいないでしょう? 歌ってそれと一緒だと思うんです。

−− 確か矢沢さんもほとんど一発ですよね。

須藤:そうですね。矢沢さんのあの雰囲気っていうのがもう凄いんですよ。例えばM1、M2、M3ってレコーディングしているでしょう? 例えば、M1のタイトルが『太陽』、M2が『月』だったとして、なんかのミスでタイトルが逆になっちゃって「すいません、これ印刷が逆になっています」って言うと「須藤さん、どっちでもいいんだよ、俺がどの曲か分かりゃいいんだから」って。「凄いな」と思ってね。「俺、M1、M2でもいいんだぜ」って。本当はそれじゃ困るんだろうけど(笑)、矢沢さんには物凄く大事なことを教えられましたね。本当に色んなことをね。

−− もの凄く演劇的な録り方ですよね。

須藤:レコードって言われるようになったのって「記録」しているからなんだと思うんですよね。「4月4日の14時半に録りました」という記録なんだと思うんですよ。それが例えば、夜録ったらまた違う感じになるじゃないですか。ということはその日のその時間にボーカルを録るという運命の中で録られたものだから、ひとつの記録として写真のように後に残るものだと思うんです。それがいいとか悪いとかじゃなくて、その運命で、そのタイミングで録られたものなんだと思うんです。

何にも決めないでスタジオに来て、ちょっと音出そうとドラムの奴がなんか叩いて、ベースとかギターが入って、今のかっこいいなぁって、そこにちゃんとメロディをつくれる人がいて、歌詞を書ける人がいて、それでぱっと歌ったら、それはもう二度と再現できないものじゃないですか。それが作品の瑞々しさみたいなものだって気がします。

−− なるほど…。

須藤:尾崎さんの『I love you』って本当に一回しか歌ってないんです。だから、それしか世の中に流れてないんですよね。『I love you』のレコーディングにはプロダクションの人間も来ていなくて、僕とエンジニアと尾崎さんの3人だけでやったんですが、「オーケーいいね、いい感じいい感じ」って言っていたものが今も世の中に流れていて、何百万枚も売れているわけでしょう? そう思うとちょっとドキドキします。

『I love you』のファーストテイクにOKを出したことが偉いんじゃなくて、僕が「じゃあ、やってみようか」と言ったタイミングで、彼もテンションを高めることができて、「じゃあ歌おう」という気持ちになる、そういうプロデュースができたことが重要なんです。若いディレクターのレコーディングを見に行くと、「じゃあちょっと声出してみようか」と5、6回歌わせて「じゃあ一番から録るね」なんて、こんなことではいい歌が録れるわけないなっていつも思います。

 

6. 尾崎豊との奇跡的な出会い

−− 改めて尾崎豊さんとの出会いをお聞きしたいのですが。

須藤:尾崎さんとはオーディションで出会ったんですが、最初、彼は岸田智史とかさだまさしみたいだったんですよ。声が綺麗で、生ギター一本で歌うみたいなイメージで、フォークっぽかったんです。その岸田くんもデビュー後はフォークというよりも、Jポップに近い感じになっていたじゃないですか。そういう時代だったので「フォークはもう売れないぞ、須藤」って言われて。でも尾崎豊というアーティストは詩も良いし、声も綺麗だから可能性がある、しばらく育ててみますと。それで僕が担当になったんです。

まだ尾崎さんは青学の高校生だったので「土曜日に会社へおいで」って黒ビルに呼んだんですよね。それで会社で待っていたんですがなかなか来なくて、僕もレコーディングがあるし、会社を出ようと思っていたらエレベーターがチンっと鳴って、若い子が降りてきたんですよ。で、ぱっとみたらもの凄く綺麗な顔をしていたのでびっくりして(笑)。学生服を着ていますし。

−− オーディションのときはライブで見たんじゃないんですか?

須藤:ライブで見たんですけど、そのときは変な雪駄を履いて、Tシャツで普通の学生ズボンみたいなのを履いていましたから。でも学生服を着て、ぱっと見たら背も高いし、顔が顔ですからね。「うわー」と思って。それで「こっちこっち」って手招きして二人っきりで色々話したんですが、凄く腰が低いというか礼儀正しい人で好感を持ったんですよね。「僕が担当になったのでよろしくね」って言ったら「若い人で良かった」みたいな。僕も20代だったので色んな話をしましたね。「芸能人水泳大会には出てもらうから」って言ったら「いや泳げない」って言うから、「曲なんか作ってないで、プールへ行って泳ぎを練習しておいてくれよ」って(笑)。

−− それ、冗談ですよね?(笑)

須藤:冗談ですよ(笑)。彼は凄くよく笑う人だったんですね。ケラケラ笑うんので面白がってよく笑わせていたんです。彼はジャニーズ的な感じとは違う、硬派なイメージがあるんですけど、めちゃくちゃルックスが良いわけじゃないですか。この子なんかあるなと思いましたけど、正直言ってあの音楽なので、そんなに売れないだろうなとも思っていました。でも、こういう新しい感じの詩を書く人と自分が関われるのは嬉しかったですね。

−− もうそのときに彼の未来は想像できたんですか?

須藤:全然できなかったですけど「良い仕事はできる」と思いました。とにかく彼とはたくさん話をしました。「今、何を読んでいるの?」と話を振ると、彼は「今エーリヒ・フロムの『愛するということ』を読んでいます」と。「あ、それは俺も読んだよ」「え、読んでいるんですか、須藤さん」「俺も高校のときちょっと熱がある時期はそういうもの読んでいたからさ。全然面白くねぇだろ」「そうですね」みたいな(笑)。あとフロイトがどうこう言うから「もうちょっと普通の小説読めよ」ってサリンジャーとかいっぱい紹介したんですよ。哲学書とか読まなくていいから、普通の青春小説みたいなものをもっと読みなよって。後々分かったんですが、彼は人生の指南書みたいなものを買って紐解いていくというか、意味は分からないんだけど読んでみるみたいな感じで、小説や物語系のものをほとんど読んでいなかったんです。

あと彼も3つ上に優秀な兄貴がいる次男坊なんですよ。それで兄貴に対してコンプレックス持っていたり、そういうところは僕と似ていました。どのアーティストをやるときでもそうですが、何か共通点みたいなものを一生懸命探して、何か一つでもそういうものがないと、僕はプロデュースできないんです。偉そうに何かものを教えるというタイプでもないですしね。だから女性アーティストって橘いずみと白井貴子くらいしかやってないです。よく「尾崎豊を発掘して育成した」なんて言われますけど、スカウト能力とか発掘能力があるわけでもなく、育成はしたのかもしれないけど、そんな大層なことはしていないんです。

 

7. 詩と経験の“キャッチボール”が名曲を生んだ〜『I love you』『15の夜』

須藤 晃 氏 音楽プロデューサー

−− 尾崎豊さんって僕の中では哲学者のようなイメージがあります。あの年齢であんな歌詞を書くなんて、という。

須藤:それを「何言ってんだよ」って否定していたら彼は存在しなかったと思いますね。例えば、ホームルームの時間があって今日は自習してください、って言われて、ぺちゃくちゃ喋っている奴がいたり、弁当を食っている奴がいたりすると、尾崎さんは「お前らそれでいいのか!」っていうようなことを立ち上がって言うタイプだったらしいんですよ。だからちょっと僕と似ているんですよ。

−− 彼はそういうタイプだったんですか。

須藤:ええ。生きることに対して真面目というか、恋愛にしてもさっさと女の子を口説いて仲良くなればいいのに、一晩中、真剣に語り合うみたいな人なんですよね。「なぜ生まれてきたんだ」「俺たちの出会いは正しかったんだろうか」みたいなことをね。そんなこと言われたって女の子は困るじゃないですか。でも、尾崎さんってそういうタイプの人だったんです。

−− 尾崎さんのファーストアルバム『十七歳の地図』制作時、彼の持ち歌は何曲あったんですか?

須藤:最終的に10曲に絞ったんですけど、2枚目、3枚目に振り分けたのもありましたから、20曲くらいありましたね。最終的に夏休みのあたりで停学になったので、じゃあレコーディングはじめようかと学校の先生に許可をもらって、彼がやりたい曲と僕がやりたい曲を選んで、それで2人がやろうと言った曲は無条件でやる。そうやって10曲選んだんです。

でも、バラードが『Oh my little girl』しかなくて、「バラードがないぞ」と言ったときに「1曲あるんですよ」ってスタジオで歌ったのが『I love you』だったんです。「ちょっと聞かせて、どんな感じの曲?」って聞いたら、ピアノの西本明に「じゃあA お願いしますね」ってポンって音を出してもらって「♪I love you」って。「あ、それでいいや」「そのかわり日本人なんだから『I love you』はないよ、英語使うなよ」ってそのとき言ったんですけど、後日持ってきたデモテープも『I love you』のままだった(笑)。

で、それを聞いていたら「もう『I love you』でいいや」って。まだ、あんな曲になると思ってないので、「でも『I love you』ってさ…」みたいなことを僕はまだブツブツ言っていたんです。あのときに僕がいきがって「”好きさ”に変えようか」なんて言っていたら、あの名曲は誕生してなかったってことですよね。曲ってそうやって誕生するんだなって思いますけど。

−− デビューアルバムのときには、詩に手を加えられたりしたんですか?

須藤:詩に手を加えたり直したりしたことはないです。詩を完成させる前にはもの凄く言いますけどね。最終的に「じゃあこれでいきます」って出してきたものを、「そこはこうしようよ」ってことは誰に対してもしないんですよ。

『15の夜』という名曲だって、最初は単に盗んだバイクを無免許でどうのこうのみたいなことが書いてある、ちょっと深みのない詩だったんですが、「そうやっていると自由になれた気がしたんです」って彼は言ったんですね。そこで「“自由じゃない”っていうことが分かっているんだ」ということを書けと言って、書き直してきた詩を見て「素晴らしいな」と思ったんですね。16、17歳で人生の諦観みたいなものを上手く表現していたので。拓郎さんの詩を書いていた岡本おさみさんに会ったときに「尾崎君っていうのは凄いね」と。「彼はどういう風にして人生を生きることの苦労を知ったの? 孤児なの?」とか色んなこと言われたんですけど、「いやいやそんなことないですよ」って(笑)。「凄いね。神がかっているね、彼は」って仰っていましたね。

−− そんな詩をあの声とあの顔で歌うわけですからね。

須藤:そうですね。スポーツもやらずに田舎で図書館の本ばっかり読んでいた僕の中にある色んなものが、会話をする中で尾崎さんにとってのアーカイブみたいなものになっていくわけじゃないですか。そのことで一気に彼が進化した感じはしますね。自分だってそんなに年を取っているわけじゃないんですが、でも本をたくさん読んだことによって、実年齢よりも人生体験が深みのあるものになっていたんだろうと思うんです。本を読むことで、自分が体験できなかったり直接的に感じられなかったものを得てきたという流れの中で、彼が書いてきた詩に触発されて、その経験を僕なりに話した。それを彼が吸収して…みたいなキャッチボールが、結果あのレコードになったんだと思います。

−− 尾崎さんを通して、須藤さんの想いも表現できたというような気持ちもありますか?

須藤:ストレートにそうは思わないですけどね。どちらかというと彼は音楽的な人ではなかったので。僕はずっと「音楽的には尾崎さんっていまいちだよ」ってずっと言っていたんですね。

−− メロディメーカーとしてはいまいち?

須藤:渋谷陽一さんは「そんなことない。メロディメーカーとしても一流だよ」って言ってくれているんですが、僕の中ではどちちかというと単調なタイプだと思うんですよ。ただ、歌の表現力というか声の情報量が凄く多いんですよね。「もう学校や家には帰りたくない」って言ったときに出てくる、それ以外の意味合いみたいなものがね。あの切ない感じというのは彼独特のものだと思います。

−− 切なさとか儚いとかやるせないとかが漂う声ですよね。

須藤:日本のロックにありがちなガラガラの声じゃなくて、基本すごく透明感のある声なんだけど、それでも彼は叫ぶじゃないですか。すごく悲しく聞こえるんですよね。怒鳴っている感じに聞こえないというか。本当の意味で「叫び」ですよね。

 

8. 限界を設けず「音楽の可能性」を追求して欲しい

−− 尾崎豊の成功から須藤さんにも色々仕事が来るようになったんじゃないですか?

須藤:今もそうですけど、尾崎さんみたいなのが売れてしまうと「尾崎豊みたいにしてくれ」とかね。それはなるわけがないですよね。尾崎さんと同じくらいの才能や資質を持っている人がいたとして、そのパターンの中にあてはめたって尾崎さんみたいになるわけじゃないじゃないですか。

−− 「〜みたいにしてください」って、音楽業界に良くある話ですよね。

須藤:そう。尾崎さん自身はどんどん売れるにしたがって、カリスマみたいに扱われていったんですが、彼は内省的なタイプだったのでそれがとても辛かったみたいです。彼はライブで「歌うな! 俺の曲だ!」って言ったんですよね。それはもう普通じゃないですし、そういう追いつめられ方をしたんですね。結局、覚せい剤で捕まって、最後はニコニコしながら歌うことで解放されていたと思いますけど、ほとんど事故のように亡くなってしまったので…。

でも、生きていて欲しかったです。今だったらもっと良い関係になれているだろうな、色んな話ができたんだろうなと思うと本当に残念です。自分のプロデューサーとしての人生は尾崎さんなしでは語れないです。新潮社の太宰治の担当編集者は、太宰の死後、作家につくことができなくなったという話を聞いて、自分はそれじゃダメだなって思ったんですよね。音楽というものが人に与える影響、彼がつくったものが人に与えた影響って凄いじゃないですか。やっぱりそれを信じて作品を守っていかなきゃダメだなって。今の高校生とか大学生とかがYou Tubeとかで尾崎さんを見て、「かっこいいよね」「本当にあんな人がいたんだ」って言っているんですよ。

−− 須藤さんは手掛けるアーティストをどう選んでいるんですか?

須藤:最近やっている石崎ひゅーいは、母親がデビッド・ボウイのファンで、その母親に対して歌いたいから歌うって聞いて、僕はやろうと思ったんですね。音楽というものをいかなるモチベーションでやり続けようとしているのか、その人間性、人間力にみたいなところに僕は興味があって、自分が興味のある人としか仕事はやらないです。ただ「有名になりたい」「お金持ちになりたい」という人たちとは仕事してこなかったですね。

−− アーティストとはその「音楽に対するモチベーション」みたいな話を最初に話し込むんですか?

須藤:そうですね。僕は制作に入るまでがすごく長くて、その間はとことん話をします。なんで音楽をやるんだ、なんで音楽じゃなきゃダメなんだっていうことを延々。辟易してギブアップする人もいますね。僕は来る人は拒まないですけど、去る人も絶対追わないんですよ。別に僕じゃない人とやればいいじゃないですか。コーチとして監督として、それに答えられない人はやっぱりできないんです。それで40年もやってきたんだから、それでいいんじゃないかなって思うんですよね。こっちにも選ぶ権利はありますし、瞬時の判断で「乗らない」と思ったら、そのアーティストはやらないほうがいいんですよ。仲良いアーティストから意見も求められたり、アドバイスもしますけど、「じゃあ一緒にやりましょう」とならないケースも多いです。でも、それでいいと思うんですよね。

−− 中途半端にはやれない?

須藤:今、玉置さんとメインでやっていますけど、彼と僕は凄い関係ですよ。本当に真剣勝負です。例えば、夫婦は夫婦喧嘩をするたびに別れていたらキリがないでしょう? それと同じなんですよ。この前、小林武史くんとちょっと話したんですよ。小林くんは素晴らしいプロデューサーですけど、やっぱり僕と違うなって思います。彼のように華麗にプロデュースできたら最高ですが、僕はもっと不器用なんですよ。

−− 須藤さんは生涯現役というお気持ちなんですか?

須藤:どうでしょうね。でも、倉本聰先生は75歳を過ぎても大酒飲んでいますし、酒井政利さんは81歳でバリバリですからね。めちゃくちゃお元気で。ですから、僕も75歳までは仕事しているんだろうなって気はしています。体もどこも悪いところがないですしね。

−− 最後に、音楽業界を担う若い人たちにメッセージをお願いします。

須藤:音楽に限らず、エンターテイメントがなくなることはないです。そのエンターテイメントの中でも音楽は歴史の浅いものですし、音楽に限界があると思わないで、その可能性を追求してもらいたいですね。最近「音楽業界・レコード業界は終わってしまった」みたいな雰囲気がありますが、僕はまだまだ可能性があると思いますし、若い人達が切り開いていってくれるんじゃないかなと期待しています。

−− 本日はお忙しい中、ありがとうございました。須藤さんの益々のご活躍をお祈りしております。

須藤 晃 氏 音楽プロデューサー

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