第138回 田島 照久 氏 グラフィック・デザイナー

インタビュー リレーインタビュー

田島 照久 氏
田島 照久 氏

田島 照久 氏 グラフィック・デザイナー

 今回の「Musicman’s RELAY」は(株)ロードアンドスカイ 代表取締役 高橋信彦さんからのご紹介で、グラフィック・デザイナー 田島照久さんのご登場です。福岡出身の田島さんは多摩美術大学を卒業後、CBSソニー(現ソニー・ミュージックレーベルズ)に入社され、矢沢永吉や五輪真弓、サンタナ、マイルス・デイヴィスなど多くのアーティストのジャケットデザインを担当。退社後、1年間のアメリカ生活を挟み、フリーとなって尾崎豊、浜田省吾を始めとする数多くのアーティストのジャケットデザインを担当。音楽関係以外でも、ポスターや広告、カレンダー、写真集、小説や文庫本の装丁など幅広い分野でご活躍される田島さんにご自身のキャリアから、デザインへの思い、テジタルへの取り組みと今後の展望までお話を伺いました。

2016年6月9日 掲載
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

プロフィール
田島 照久(たじま・てるひさ)
グラフィック・デザイナー


1949年福岡県生まれ、多摩美術大学グラフィック・デザイン科卒業。
CBSソニー(現SonyMusic Labels Inc.)デザイン室の勤務を経て渡米、1980年よりフリーランスとなり、1992年に現在のデザインプロダクション “THESEDAYS” を設立。
浜田省吾、尾崎豊をはじめとする多くのミュージシャンの撮影とパッケージカバーのアート・ディレクターを務める。
以降、仕事はエディトリアル、ポスター、広告、カレンダー、写真集、小説やコミックの装丁などグラフィック全般に及ぶ。
アニメーション関連のデザインも多く「攻殻機動隊」や「機動警察パトレイバー」などは企画の起ち上げ時から関わっている。
MACの創成期からコンピュータによるデジタルデザイン、デジタルフォトグラフィーに表現分野を拡げ、1994年に世界初のCGによる恐竜写真集 “DINOPIX” を発表、欧米でも出版される。
自身による著書として、CG写真集、アナログ写真集、デザイン本、小説などがある。
近年はPremierProを使った映像制作にも積極的に取り組んでいる。


 

    1. 創作の原点は50年代アメリカのイメージ
    2. 16才の頃から始めたレコードジャケットデザイン〜多摩美へ入学
    3. 「音楽好きだし、レコード会社はいいな」CBSソニーへ入社
    4. 会社を辞めてアメリカへ〜横尾忠則さんたちとの刺激的な交友
    5. デザインを通じてアーティストのブランドイメージを形作る〜尾崎豊、浜田省吾 etc.
    6. デジタルへの積極的な取り組みとアナログの発想
    7. こんなに楽しい60代が待っていたとは思わなかった

 

1. 創作の原点は50年代アメリカのイメージ

−− 前回ご登場頂いたロードアンドスカイの高橋信彦さんとはいつ頃出会われたんですか?

田島:僕が入社したCBSソニー(現ソニー・ミュージックレーベルズ)から、高橋さんがメンバーだった愛奴が75年にデビューしました。そのときデザインは担当していなかったんですが、ハウスデザイナーとして印刷などのコーディネーションを担当しました。レコード会社からのデザイナーとして印刷会社とメンバーたちの間に入るんですが、そのときに高橋さんと出会いましたね。高橋さんは長髪でベースを弾いていて、とても印象に残っています。今思えば、愛奴はメンバー全員に強力な個性があった気がしますね。

−− 40年前ですね。

田島:遠い昔ですね(笑)。愛奴は東京のバンドにはない荒々しさがあって、みんな歌えて、いろんなタイプのサウンドを出していました。

−− 最初はミュージシャン/アーティストの高橋さんと出会ったんですね。

田島:はい。ただ、当時はあまり高橋さんと話をした記憶はないですね。新宿にあったスタジオに練習風景を見に行ったのは良く覚えていますが、バンドのみんなとも話した記憶がないです。高橋さんと次に関わるのは80年代、浜田省吾さんとの仕事を通じてで、そこからはずっと一緒にお仕事をさせてもらっています。

−− ここからは田島さんご自身のことお伺いしたいのですが、お生まれは福岡だそうですね。

田島:小学校3年まで福岡市東区の松原団地というところに住んでいました。松原団地は当時としては珍しい高層の市営団地で、父は九州製糖という会社に勤めていました。朝鮮戦争時に米軍の基地だった雁ノ巣飛行場が現在の海の中道にあって、そこから博多市内に遊びに行く米兵たちが、団地の前の国道3号線を走っていくのですが、シボレーやポンテアックといった彼らが乗っている流線型の車の形をたくさん覚えましたね。僕は小学生のときに見ていたその国道3号線の光景から大きな影響を受けていると思います。

−− 当時の子どもからみるとアメ車に乗った米兵は別世界の人間だったんじゃないですか?

田島:ええ。映画もそんなに観る機会がない時代に、アロハシャツの姿のライダーがハーレイに跨ってフォードの黄色いスポーツカーを追い越して行った場面は忘れられない思い出です。まさに『アメリカン・グラフィティ』の世界でした。僕の団地にはその雁ノ巣飛行場に勤めている方もたくさんいたんですが、その人から頂いたアイスクリームの味は今でも忘れないですね。家庭には冷凍設備なんかない時代ですから、お鍋にアイスクリームの大きな塊が入っているんですよ。それで「溶けるから早く食べて」と、日本にはまだアイスキャンディしかない時代でしたからとろける感触とその味は衝撃でした。

−− そういった経験はデザイナーとしての原点ですか?

田島:はい、僕の創作の原点にはアメリカナイズされたものが焼き付いている感じがしますね。

−− 小学生のころから絵やデザインは好きだったんですか?

田島:そうですね。後にプラモデルの箱絵で活躍された小松崎茂さんという画家に憧れていました。当時の少年誌には必ず小松崎さんが描かれた未来都市や戦艦などがカラーで載っているんですが、その絵をよく模写していましたね。その後、小学校3年の2学期に福岡県の筑後市というところに引っ越しました。

−− 生活は変化しましたか?

田島:もう、すぐにでも福岡市へ帰りたかったですね。母親に言わせると、毎日泣いていたらしいです。子どもながらに筑後市は田舎って感じがしたんですよね。周りには畑しかなかったですから、アメリカ的なものが遠のいて寂しくて仕方がなかったようです。ただ、いじめられたりはなくて、逆にあっという間に人気者になりました。それで、何故か放課後は、みんなに向かって創作話をしていました。神話を元にした作り話なんかで、先生に「はい田島くん、今日も何か面白い話してください」とか言われて、教壇に上がって話をするんです。毎回みんなが真剣に聞いていたのを覚えています。あの頃は転校生ってあまり居なかったですし、福岡市は大都会でしたから、こいつは何か面白い話を持ってそうだとか、そんな理由からだったと思います。そして小さいころから絵は得意で、転校後も、校内スケッチ大会ではいつも金賞で、ある日の全校生徒の朝礼のときに、3回呼ばれて、県大会と地区大会と校内の大会と合わせて一度に3枚の賞状をもらったことがありました。三回目はみんな笑ってました。

そして、中学は地元の学校に行ったんですが、ここはあまり居場所がない3年間でしたね。背が高かったのでバスケット部入ったものの馴染めなくて、勉学もあまりできなかったし、相変わらず小松崎茂の模写ばかりやっていました。それと同時に音楽にだんだんのめり込み始めるんです。

−− どのような音楽を聴かれていたんですか?

田島:当時の皆さんと一緒で、坂本九やザ・ピーナッツといった日本のポップスはテレビで楽しんでいたんですが、次第に洋楽に熱中しだして、中でもイギリスのクリフ・リチャードはお気に入りでした。初めて買ったシングル盤は彼の「ラッキー・リップス」という曲でした。僕がギターを始めるきっかけはシャドウズの影響なんですが、シャドウズはクリフ・リチャードのバックバンドで、クリフのヒット曲のほとんどはシャドウズが書いていたので、そういったところもかっこいいなと思っていたのですが、ビートルズが出てくると、もう、それまでの嗜好が一変しましたね。まだ最初のアルバムが出る前で、シングル盤の「プリーズ・プリーズ・ミー」を買ってB面の「アスク・ミー・ホワイ」と一緒に毎日、何回も何回も聴いてました。

 

2. 16才の頃から始めたレコードジャケットデザイン〜多摩美へ入学

−− 田島さんは中3からバンドを始められたそうですね。

田島:最初は兄とふたりで始めたのですが、兄はすぐに興味をなくしたので、高校に入ってから友達とバンドを組みました。最初はシャドウズのインストものをコピーしてましたが、高校3年のころは歌ものをやるようになっていきましたね。学校にバレないように隣町の久留米のダンホールに出たりしてました。高校の卒業生を送る会ではそのバンドで出演して大受けしました。「イエスタデイ」や「カリフォルニア・ドリーミン」や、ジェファーソン・エアプレインなんかをやったら音楽の先生に「あんたたちはどこでコーラスを覚えたの」って言われました。3度上をハモってるだけなのに。友達は幕が上がる前に聞こえてきた僕のギターのイントロでレコードがかかったと思ったそうです。そんなわけで、生の演奏に関してはまだまだ当時の地方は田舎だったわけなんですが。

−− ちなみにFENは聞くことができたんですか?

田島:ええ佐世保のFENを毎日聴いてました。筑後市は田舎でしたが、アメリカの最先端の音だけは入って来てたわけで、音楽でもアメリカの影響は強かったです。ビートルズを知ったのもFENだったと思います。それで、高校では美術部に入りました。もともと筑後地方は美術が盛んなところで、青木繁や坂本繁二郎といった多くの画家を生みだしているところなんですが、僕も15歳くらいから本格的に美術の勉強を始めたわけです。毎日授業が終わると美術部に行ってデッサンをしてみたり、デザインの本を見たりしていましたね。

−− そこで美術の基礎を学んだんですね。

田島:田舎だったので東京の美大に進学できる技術を身につけられるかというと厳しかったですが、その頃から見よう見まねでレコードジャケットを作っているんですよ。文化祭では美術の先生が「何でも良かけん、好きなもんば作らんか」と言ってくれて、好きなミュージシャンをモデルにしたLPをデザインをしていました。

さくらじま 観光ポスター 1966 さくらじま 観光ポスター 1967
▲田島さん 高校生時代の作品。左:さくらじま 観光ポスター 1966、右:askurajima  観光ポスター 1967 福岡の高校県展で当時最高賞をもらった田島の16歳と17歳のときの手描きによる作品。

−− キャリアが長いですね(笑)。

田島:そうですね(笑)。15歳からやっていることになりますね。その頃はFENではサーフ・ミュージックが流行っていて、僕はビーチ・ボーイズやジャン&ディーンが好きだったのでウエストコーストっぽいジャケットを作ったりしていました。

−− 将来は美術の世界に進もうと思っていたんですか?

田島:漠然とですかね、地方ですから、将来の美術的な情報なんて得られず、どんな美術大学を目指せば良いのかもわからなかったんです。東京だったら美大向けの予備校とかありますが、筑後市ではそうもいかず、高校3年の2学期になって「美術大学へ行きたい」と言ったら、美術部の先生に「お前は、なんば言いよっとか、この期に及んで、受かるわけなかろうもん」と叱られました(笑)。

−− そんな状況でも多摩美に現役で合格したわけですよね。

田島:本当に不思議なんですけど、何故か受かったんですよ。この前同窓会をやったときに、友達が「あの頃の多摩美の倍率知っているか? デザイン科なんて40倍だったんだぞ」って教えてくれました。多摩美に入って、すぐにクラスでデッサンの授業があったのですが、僕は55点でクラスで最低点だったんです。だから一番下で受かったんだと思います。美術大学は1浪で入ればラッキーで、2浪や3浪が多くて現役なんてあんまりいないんですよ。だから同学年でも髭は生えている、タバコはバンバン吸っている、そんな連中ばっかりでした。

−− 多摩美での学生生活はいかがでしたか?

田島:カルチャーショックの連続でしたね。当時の多摩美って、校舎が世田谷の上野毛にありましたから、武蔵美や芸大とかと比べてファッションだけは進んでいたのではと思います。面白いヤツが多いと週刊誌が取材に来ていたくらいで、ぼくもグラビアに載ったことがあります。後ろから見ると女で、前に回ると男だったというオチで。長髪で、髭は伸ばし放題という小汚いヤツがたくさんいましたが、気が付いたら僕もその仲間になっていたわけなんです。

多摩美術大学時代,バンドの練習風景 1971年頃
▲多摩美術大学時代,バンドの練習風景 1971年頃

−− 多摩美でもバンドをやっていたんですか?

田島:ええ。ジャズのバンドに参加したり、R&Bのバンドを組んだり、女性ボーカルのバックなど色々やっていましたね。

−− 多摩美には音楽やっている人が多かったんですか?

田島:多摩美は元々フォーク系というか、ウエスタン系が盛んな学校で、あまりロック系はいなかったんですよね。石川鷹彦さんとかフォーク系の優秀な先輩はたくさんいらっしゃるんですが、僕たちはロック系だったので仲間はあまり多くなく地味に活動してました。ロック自体その頃やっと始まったくらいですからね。

−− 音楽に費やした時間と美術に費やした時間では、どちらが長いですか?

田島:音楽のほうでしょうね(笑)。他の大学のダンスパーティーに呼ばれたり、文化祭ではいろんなバンドを掛け持ちしたり、当時バンドをやっている人はみんなそんな感じだったと思います。一方で学校の課題だけはしっかり提出していましたが、将来の展望なんてまるで考えられずにいました。就職に熱心な連中は先々のことを考えて、アートディレクションのやり方なんかを勉強するサークルに入ったりしていましたね。

田島 照久 氏 グラフィック・デザイナー
▲現在でもギターを演奏されている田島さんのギターコレクションの一部

−− 田島さんもそういったサークルに入っていたんですか?

田島:僕は一切やらなかったです。美大って、電通とか博報堂とか一流の広告代理店に入社するのが最大のステータスなんですが、僕は広告代理店がどういうものなのか全然わからなかったですし、電通も博報堂も頭の中になかったんですよ。「お前しっかりしろよ」という感じですよね(笑)。

−− ということは熱心に就職活動をされなかったわけですか?

田島:してなかったです。かといってもちろん、音楽のプロを目指してたわけでもないんです。自分に技量がないことはわかっていましたから。ただ、一緒にやっていたバンドで5人のうち2人は後にプロのミュージシャンになってしまうんですよね。

−− デザイナーとして自分は優秀だという意識は当時はあったんですか?

田島:いやいや、全くないです。でも、卒業間近に描いたデッサンは94点をもらったったんですが、先生から「ぼくが生徒にやった点数では最高点だ」と言われました。55点で始まった下手クソなデッサンも、さすがに4年間やっていればそこまで上達するんですよ。

−− きちんと影では努力なさっていたんですね。

田島:ずっとやっていくうちに技法を習熟したというんですかね。当時グラフィックデザイン科には200人くらい学生がいたんですが、その中で自分はどの位置にいるかなんて全くわからないですし、むしろ駄目なほうだとずっと思っていました。かといって「こいつには適わないな」というのもないんですよ。一番わかりやすいのは絵が上手いやつですけど、デザインって不確定要素が多くて、パッと見て「こいつすごいな」というのは少なくとも多摩美時代は、あまり経験しませんでした。それも世間知らずだったからだと思いますし、審美眼も当時はなかったんだと思います。

 

3. 「音楽好きだし、レコード会社はいいな」CBSソニーへ入社

−− CBSソニーに就職するきっかけはなんだったんですか?

田島:4年になってすぐの頃だったと思いますが、地下鉄で横に座った友達が「CBSソニーというところがデザイナーを募集している」って言うんです。CBSソニーはレコード会社ですし、高校の頃からジャケットを作っていたわけですから「これは受けるしかないな」と初めてそのとき就職を意識したんです。

−− 友達の何気ない会話が情報源だったんですね。

田島:そうです。彼から聞かなければ受けてなかったと思います。それまで、学生課なんて行ったことなかったし、就職のことも真剣に考えてなかったですからね。まあ、とにかく、レコード会社だったら本物のレコードジャケットが作れるんだ、これは僕のためにある会社だと勝手に思い、受験しました。

−− CBSソニーも倍率はすごかったんじゃないですか?

田島:東京のすべての美大から80人ほど受験にきてました。それで、出てきた総務の方が「こんなにいっぱい来ていただいて…でも、採用は一人なんですよ、すみませんね」と言ったんです。みんな「えー」って大騒ぎ。

−− 一人しか採らないと。

田島:はい、冷ややかにそう言われたんです。結果的には始まったばかりの関連会社を含めて4人が採用されることになるのですが、僕は念願のレコード会社本体に決まりました。そのときの試験なんですが、30センチの枠が書いてある紙と鉛筆を渡されて「この枠のなかに2時間でレナード・バーンスタインのレコードジャケットをデザインせよ」という課題でした。バーンスタインのタキシード姿の写真と入れるべき文字要素、ベートーベンのシンフォニーだったと思いますが、それが書いてある紙を渡されましてね。試験が始まって見渡すとほとんどの人が「俺は絵がこんなに上手いんだぞ」とバーンスタインの顔を必死に描いているんですよ。そこで僕は、あえて顔を描かずに、顎から下を描いたんですよ。タクトを持っている手とタキシードに蝶ネクタイを描いて、白いシャツの部分に文字を並べてレイアウトしたんです。僕はタイポグラフィ(※)が好きでアルファベットは結構正確に書けたので、顔を描かない分、タイポグラフィに時間を掛けたんです。デザインって文字のセンスが重要だと思ったんです。いかにバーンスタインに似ているかなんて実は意味がないことなんです。デザイナーってプロになると絵を描くことなんてほとんどないですからね。多分顔を描かなかったのは僕だけだったのではと思います。

(※) タイポグラフィ:デザインにおける、活字の書体や字配りなどの構成および表現のこと。

−− 確かに…デザインの本質に即した課題作成だったんですね。それ以外のテストは何かあったんですか?

田島:それ以外は音楽の常識問題でしたね。「アンディ・ウイリアムスの代表曲は次のどれ?」といった簡単なものでした。そっちは満点だったと思います。それで試験の次の日にすぐ電報が来て、学生時代の作品を見たいので持って来てれ、と連絡があったんです。これは2次試験なんだろうな、と軽く考えて以前作っていたジャケットをいくつか持って行きました。マイルス・デイヴィスのジャズっぽいのと、グランド・ファンク・レイルロードのロックぽいのとかです。そしたら大賀典雄専務とデザイン室長が待ち受けていて、色々質問されましたが、終始穏やかな感じでした。それで、帰ったらあっという間に内定の電報が来て、初めての就職試験が簡単に受かってしまったんです。でも、僕はこれは当然の結果だと思いました。生意気もいいとこですよ。それで、夏休み前に能天気にバンドをやっていると「お前は就職が決まっているから、そんなこと出来るんだよ」とみんなに言われてましたね(笑)。申し訳ないけど、ラッキーもいいところですよね。人から聞いた情報で、あっという間に就職が決まってしまって。

−− 早めに出社しろとは言われませんでしたか?

田島:夏休みには遊びに行ったりしましたね。ですから入社したときには知り合いは多かったです。レコード会社ってソニーにしてもワーナーにしても、当時は制作畑でスーツを着ているヤツなんてひとりもいなくて、大学の延長みたいな感じで、遊びにいく度に「自由な会社に入ってよかったな」ってつくづく思ってました(笑)。

もちろん会社に入るとプロの仕事をしなければいけないので、大変な思いをしていろいろ学んでいくんですが、すぐに「田島、お前これやれ」って任されたのが五輪真弓さんのデビューアルバム『少女』だったんです。実は僕、五輪真弓さんの存在はデビュー前から知ってたんですよ。だから「僕があの五輪真弓をやるんだ!」って思いましたね。アルバム『少女』は日本初に近い海外録音の作品なんですよね。

五輪真弓「少女」1972
▲ソニーミュージックに入社して初めてのデザイン作品、五輪真弓「少女」1972

−− キャロル・キングとかが録音に参加しているんですよね。田島さんも初仕事からすごいですよね。

田島:結構売れましたしね。彼女は歌が驚くほど上手いですし、当時はウエストコースト的な先端の音楽でしたから、「この人と仕事できて良かったな」と思いましたね。彼女とは同世代ですから、すぐに仲良くなって、お互い呼び捨てでした。向こうは「タジマー」と言うし、僕も「イツワー」って呼び合ってました。学生のノリで(笑)。

−− (笑)。

田島:その頃は会社のデザイナーって感じじゃなくて、一緒に仕事するとすぐに友達感覚になっちゃうんですね。クラブ活動の延長ですよね。その後は、洋楽の仕事も増えていって、入社2年目にサンタナの『ロータスの伝説』をやります。ディレクターの磯田秀人さんが「田島さあ、俺はサンタナのライブ盤を横尾さんのデザインでやりたいんだよ」と言っていて「それは面白そうだな」と思っていたんですよ。本当は先輩のデザイナーがアシスタントをやる予定だったんですが、先輩が家業のことで急遽会社を辞めなくてはいけなくなって「田島、お前がやれ」と。それで磯田さんと一緒に横尾忠則さんのところに行って、世界最大の「22面体ジャケット」を作ることになります。

−− 『ロータスの伝説』はとてつもないジャケットでしたよね。

田島:そうですね。横尾さんはその頃はスーパースターで、平凡パンチやプレイボーイ誌などの週刊誌の巻頭ページでいつも特集が組まれるような時代でしたからね。最先端の世界を経験していくんですが、横尾さんには本当に色々なことを勉強させてもらいましたし、気に入られて、その後、横尾さんのデザインを手伝ったジャケットは結構あります。邦楽洋楽を問わず、制作の誰かが横尾忠則さんを起用するときは僕が担当に付いていました。

−− 横尾さんからはどのようなことを学ばれたんですか?

田島:仕事の取り組み方ですね。横尾さんに影響されたデザインをしていくかと言うと、そうじゃないんです。手法とかを学んだわけではなくて「こういう考えで臨むべきだ」みたいな教えを無言のうちに学んだような気がします。ダンディズムのようなものでした。

 

4. 会社を辞めてアメリカへ〜横尾忠則さんたちとの刺激的な交友

田島 照久 氏 グラフィック・デザイナー

−− その後、6年半勤めてCBSソニーをお辞めになりますね。なぜ辞められたんですか?

田島:実は僕、いい仕事から次第に干され気味になるんですよ。どうしてかはわかんないんですけど、地方のお祭りの音のLPとか、演歌っぽいのとか、僕にとっては全く興味ない仕事ばっかりやらされるんですよ。そのときはあまりにも仕事がつまらないので、円形脱毛症になりかけました。そんなこともあって、もうここには長く居られないなという気がしていたかもしれないですね。CBSソニーには6年くらいいて、その間に矢沢永吉さんの『ゴールドラッシュ』を作ったり、VSOPのライブ盤をやったりと、自分の中で「これはいいもの作ったな」という作品がいくつか出来ていたので、「もういいや」と思い始めていました。会社は毎月15日が締め日だったのですが、本当に辞めたいなと思ったその日がちょうど15日で、きょうだ!と思って、昼休みにデザイン室長のところに行って「僕、きょうで辞めます」と言ったんです。

矢沢永吉「ゴールドラッシュ」
▲矢沢永吉「ゴールドラッシュ」

−− 辞めたあとのこととかは考えていたんですか?

田島:いや、何のあてもないですし、食べていけるかどうかもわからなかったです。親からしたら「ソニー」と名のつくところに入社できたんだから、そのままいてくれたらいいのにという感じですよね。その頃はカメラマンやイラストレーターではフリーの人がいましたけど、フリーでデザイナーをやってる人なんてほとんど居ない時代だったんです。

−− 引き留められましたか?

田島:デザイン室長は頭を抱えていました。室長はいい方だったのですが、僕が干され気味になっているのに気付いてくれなかったわけですからね。それから、何となくこのまま社員デザイナーとしてやっていく未来もつまらない気がしていたんだと思います。だから、色々な思いがその日に重なって「潮時だ」と決断したんです。

−− 結婚はしてなかったんですか。

田島:まだ一人でした。でも不安で、辞めた日はちょっと眠れなかったかな。独立するという考えすらなくて、ただ「ここを去りたい」という気持ちだけでした。そしたら、横尾さんが「一緒にジャケットだけをやるスタジオをやろうよ、記者会見もやるからさ」と提案をしてくれて、僕も「イギリスのヒプノシスみたいなのができたら面白いな」と思ったんですけど、同時に「その前に海外をちょっと見ておきたい」と思って、アメリカへ旅立つんですよ(笑)。

−− そんなときにアメリカへ行っちゃったんですか(笑)。

田島:そう(笑)。78〜79年のほぼ一年、いろんなところへ行って、200万ほどあった貯金を使い果たしました。それ以前にも1回アメリカへ行っていたんですが、やはりデザインとか写真とかを学ぶのはアメリカがいいなと思って、ロサンゼルスを拠点に1年滞在しました。

−− 写真はいつから撮りだしたんですか?

田島:会社入って3年目くらいから少しずつ撮り始めていました。五輪さんの『マユミティー』というアルバムがあるんですが、それは僕が撮っています。アメリカに居るときは山口百恵さんのアルバム「LA BLUE」の写真も撮りました。

−− これからも「音楽関係のデザインがしたい」という気持ちはあったんですか?

田島:それしかできなかったですからね。それこそ広告の分野に行くってことも考えられないし、東京に戻ったら働かなければいけないわけですからね。アメリカへ行った当初は1ヶ月くらいで帰ろうと思っていたんですよ。旅行して写真を撮って帰ろうと。それが、あっという間に1年経ってしまって(笑)。ただ、何となく音楽のデザインといったものが周りの環境にあり続けている感じでした。

−− 毎日が刺激的だった?

田島:刺激的でしたね。はじめは横尾さんと一緒にアメリカに行く予定でしたが、横尾さんが忙しくなって、結局僕ひとりで行くんです。そんなこともあって、何ヶ月か経ったときに、横尾さんが一緒にニューヨークへ行こうと誘ってくれて、マンハッタンのポールデイビスさんの家に泊まらせてもらって、毎日のように横尾さんが色々な人に引き会わせてくれたんです。イサム・ノグチさんや「I ♥ NY」のロゴで有名なミルトン・グレイザー、現代美術のジャスパー・ジョーンズとか、凄い人ばっかり、僕が大学時代から憧れていた人たちにはその時に随分会えました。

−− 普通、イサム・ノグチやジャスパー・ジョーンズにはなかなか会えないですよ(笑)。

田島:ほかにも、池田満寿夫さんと一緒にクロッキーを描きに行ったりもしましたね。ロサンゼルスに横尾さんと一緒に戻ってからも、ソール・バスのスタジオへ行ったり、全部横尾さんの知り合いなんですよね(笑)。ノーマン・シーフの家へ食事に誘われたりとかね。僕が友達になっていたアーティストも何人かいて、例えば、ウェザー・リポートの『ヘヴィー・ウェザー』のジャケットをデザインしたルー・ビーチは友達だったので、彼が横尾さんと会いたいと言ってきたり、あとカルロス・サンタナと買い物に行ったり、高倉健さんにもお会いました。

−− 錚々たる方々ですね…。

田島:横尾さんとは今でも「あの旅行は楽しかった」って思い出話をするんですよ。あのときの旅はオフィシャルなものじゃなかったですからね。横尾さんのプライベートな旅行だったから出版社がついて回って記事にすることもなかったですしね。ふたりだけで自由に遊び廻ったことが、いまでも新鮮な記憶として残っているのだと思います。

−− 田島さんが少年の日に見た米兵の世界を追体験できたわけですよね。

田島:まさにその世界ですよね。どこに行っても異国に来ている感じは全くしなかったです。それで、借りていたアパートに(日本の)レコード会社の洋楽の連中が来て、あれやこれやと僕に地元のレコード関係者との連絡係をさせるんですよ。「田島が今アメリカにいるぞ、利用しよう」って(笑)。「田島さ、悪いけど、来週行くから、何処何処の誰に連絡とっといてくれ」とか、僕はコーディネーターじゃないって言うのに。

−− (笑)。

田島:僕はそのころコロムビアレコードのデザイン室に遊びに行っていて、プロモーションの人からよくコンサートのチケットをもらったんです。大して英語も喋れないのに元CBSソニーの社員だということで色々便宜を図ってくれて、貴重なライブをたくさん観せてくれたんです。TOTOのデビューライブでは隣のテーブルがボズ・スキャッグスでした。アース・ウインド・アンド・ファイアのゲネプロなんかを観に行ったりもしました。それから、ロキシーというサンセットにあるライブハウスには毎週のように行っていて、チケットもぎりのおじさんとも顔見知りになって、違う日のチケットを持って行っても「いいよ、いいよ」って入れてくれるんですよ(笑)。しかも、写真撮影も僕はオッケーだったんです。だからロキシーではバシバシ写真を撮っていました。

ROXY-THEATER チャックベリー
▲<ROXY THEATER で撮影したミュージシャンたち>チャックベリー 終始お茶目なステージだった。1979

ROXY-THEATER ジャン&ディーン
▲<ROXY THEATER で撮影したミュージシャンたち>クルマの事故から復活したジャン&デーン。もちろん「Dead Man’s Curve」では大盛り上がり 1978

−− 常連だからいいやってことですか?

田島:そういうことじゃないと思うんですけど、何故かオッケーでした。不思議ですよね。普通カメラを持っていたら「撮影はダメ」とか言われそうですけどね。まあ、日本人だからいいやと思われたのかな?

−− 観光客だと思われた?

田島:いやいや、毎週来ていますからね(笑)。「コイツやけに写真に熱心だな、プロになりたいヤツに違いない」とかは思われていたかもしれない(笑)。そのほかに、ほとんどのライブやコンサートでも写真は撮っていました。版権にうるさいはずのアメリカで、有名なミュージシャンたちを撮っていても誰も咎める人がいなかったのが今でもわかりません。でも、僕はフォトグラファーとしてもやっていくことになるので、その経験の場でもあったということなんです。

 

5. デザインを通じてアーティストのブランドイメージを形作る〜尾崎豊、浜田省吾 etc.

−− そして1年経って帰国されますね。

田島:ええ。オープンチケットの有効期限が1年だったんですよ。だからオープンチケットじゃなかったら、あのままずっとアメリカに住んでいたかもしれないですね。夢のような一年でしたから、帰りたくはなかったです。

−− 帰国されてからのことは考えていたんですか?

田島:全く、何も考えていませんでした(笑)。お金も、ビザも、チケットも底を突いたので、仕方なく日本に帰ったというだけです。それで今の奥さんの家に転がり込んで(笑)。

−− (笑)。そして80年に個人事務所を設立されますね。

田島:それが麻田浩さんの事務所の上だったんですよね。

80年代に初めて導入したパソコン、Mac SE
▲80年代に初めて導入したパソコン、Mac SE

−− トムズキャビンの上ということですか?

田島:そうです。でもそこに入居したのは僕の方が先なんですよ。一軒家の2階なんですが、和室が二間あって。茶室になっていて、畳の上に座って作業をしてました。

−− その個人事務所はジャケットデザイン専門の会社だったんですか?

田島:いや、最初は何でもやりました。鉄道の記念切符のデザインとかパチンコ屋さんのネオンとか、友達が見るに見かねてか分からないですけど(笑)、色々な仕事を持ってきてくれたんですよ。横尾さんもいくつか仕事をくださって、とにかく何でもやらなくてはと思ってましたから、ありがたかったですね。

南佳孝「モンタージュ」1980
▲フリーランスのデザイナーになり初めての仕事となった、南佳孝「モンタージュ」1980

−− その個人事務所が「Thesedays」に発展するんですか。

田島:そうですね。最初はタジマデザインという有限会社を設立しましたが、すぐに音楽の仕事が入ってくるようになって、それから2年くらい経ったときに、自分のデザインしたアルバムがオリコンのベスト20の中に何枚くらいあるかな?と数えたら、6枚も入っている週がありました。それはピークでしたが、ハウンドドッグ、尾崎豊くん、浜田省吾さん、永井真理子さんなどの写真を撮ってデザインをしていて、そのほかにもいろんなアーティストから依頼が舞い込んでいて、自分でもちょっとやり過ぎのような気がしたものです。

−− 手掛けられたアーティストがことごとく売れていったわけですよね。

田島:尾崎くんもデビューアルバムの『十七歳の地図』から仕事を始めたわけですから、まだ未知数な時期からで、浜田くんもそろそろ売れ始めるか?ってくらいのときですし、基本的に売れてから担当したアーティストって全くいないんですよ。

尾崎豊「十七歳の地図」
▲尾崎豊「十七歳の地図」

−− 最初の頃から関わって、その後長く担当されていますよね。

田島:そうなんです。尾崎君の場合は最初はレコード会社の期待感もないので、自由にデザインの方向性が組み立てられたのです。これが「この人は100万枚売れるアーティストだから」ということだったら、販促とかが色々言ってきたりするもので「ジャケットはカッコイイ顔写真にしてくれ」とか。そういうことがないから本当に自由に始まって行きましたね。

−− なるほど。

田島:『十七歳の地図』は真っ黒い人影だけみたいなジャケットにしましたが、尾崎豊は綺麗な顔をした人ですから、もしこれがすでに売り上げが期待されているアーティストだったら、こんなジャケットは許されなかったと思います。

−− ある意味、デザイナー冥利に尽きますね。

田島:ええ。でも、それが結果的にブランドを作っていくんですよね。尾崎君もデビューアルバムで「俺、格好いいんだぞ」と顔のアップのジャケットにしていたら、あの「尾崎豊」にはならなかったと思いますけどね。ミステリアスな人影がジャンプをしているイメージがみんなの頭にあって、それが逆にロックな楽曲の世界を膨らませていると、手前味噌ですけどそう思うんですよ。

尾崎豊の初の自著26版まで増刷が続いた驚異のベストセラー「誰かのクラクション」のために撮影したもの。1985
▲尾崎豊の初の自著26版まで増刷が続いた驚異のベストセラー「誰かのクラクション」のために撮影したもの。1985

尾崎豊2冊組写真集「FREEZE MOON」9年間のアーティスト活動期の全記録 1992
▲尾崎豊2冊組写真集「FREEZE MOON」9年間のアーティスト活動期の全記録 1992

−− ちなみにあのジャケットはアーティストと深く話し合って生まれたとか、そういったことはなかったんですか?

田島:ないですね。尾崎君はまだ17、8ですから、ジャケットに関して自分がどうやって姿を現したらいいのか掴めていなかったと思いますし、その頃はプロデューサーの須藤晃君に全てを任せていました。尾崎君に関して言うと、二十歳まではモノクロ写真しか撮らないとか、尾崎豊をOZAKIと表記するとか、基本的には全部僕が提案してやっていたんです。デザイン的には欧文を多用して、ひたすらロック色を打ち出すとかしてました。今見ても、尾崎君のアルバムジャケットはそんなに古くなっていないと思うんです。彼の音楽が普遍的であるように。

−− 田島さんはデザインする際に対象のアーティストの音楽を聞き込むんですか?

田島:もちろん聞き込みますが、特別にアーティストと何度も会って、ジャケットのヒントになるようなことを探りたいみたいなことはないですね。

−− 深い話はしていない?

田島:いや、深い話もしますよ。打ち合わせのときとかにはね。尾崎くんとは最後のアルバムになった「放熱への証」の内容なんかは、プロデューサーということもあって、彼から、しっかりとした企画意図を話してくれました。ちなみに僕は酒が飲めないんですよ。だから時間がある限りひたすら仕事をするんですが、もし酒が飲めたら、きっといままでやってきた仕事の半分もできていないような気がします(笑)。

−− (笑)。浜田省吾さんのアルバムもたくさんデザインされていますね。

田島:浜田さんは確固とした自分の世界観を持っているアーティストなんです。ですからまず「こういうものにしたい」という、はっきりした提案が彼の方からあります。「今回は田島さんに任せるから」というときもありますが、「こういうものにしたい」と提案されることが多いので、そこへ、いかに近づけていくかというデザインをすることになります。彼が提案したアイデアを相談しながら僕のテイストを加味して進めるケースが多いですね。

浜田省吾「Dream Catcher」2014
▲ケープコッドでロケーション撮影した、浜田省吾「Dream Catcher」2014

浜田省吾「ON THE ROAD」1982
▲浜田省吾のツアーイメージを決定したともいえる画像になった「ON THE ROAD」1982

浜田省吾写真集「ROAD OUT」1994
▲浜田省吾写真集「ROAD OUT」1986年からカメラとレンズをひとつだけで撮り続けた写真集 1994

 

6. デジタルへの積極的な取り組みとアナログの発想

−− 田島さんはかなり早い段階からデジタルを駆使してデザインされていたそうですね。

田島:コンピューターを使い始めたのは88年からで、当時は自分の周りのグラフィックデザイナーは、まだ誰もやっていなかったですからね。そういえばイラストレイターは「Illustrator 88」という名称だったんですよね。僕はそのころから使っています。それから、僕のフォトショップのシリアルは二桁台というもので、現在のAdobe社も持っていない最初期のものなんです。

−− 田島さんは新し物好きなんですか?

田島:ええ。滅茶苦茶新し物好きです。意識してやっているわけではないけれど、自分がこれに興味があるなと思ったら迷わず行きますね。そうすると何年後かに状況がそれ中心になっているということが多いですね。

−− 先見の明があるということですよね。

田島:そこは分からないです(笑)。常にそれを意識しているかというとそんなこともなくて、たまたま自分が興味があることをやっているだけなんですよね。「コンピューターをやらなきゃ!」と思ってやり始めたわけでもないのですが。

−− デジタルを導入するとデザインは変わるんですか?

田島:基本的には変わらないですね。自分の中のアイデアを出すということを考えると、コンピューターはそれを具現化しやすいというのはあります。でもアプローチは基本的に一緒だと思いますね。「こういうものを作りたい」というのが、コンピューターを使ったからといって変わるわけもなく。

−− 表現したいイメージが先に無ければ駄目?

田島:そうですね。よくコンピューターから始めた若いデザイナーに言うんですが「もし君の前にコンピューターがなかったら、どんなものが作れるのか、一度真剣に考えるべきだよ」 とね。そういったツールがなくても作れるのが本来のデザイナーですから。

「攻殻機動隊」DVD 1995
▲アニメーション関連のパッケージデザインも90年代から数多く手掛けている「攻殻機動隊」DVD 1995

「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」シリーズ blu-ray BOX 2011
▲「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」シリーズ blu-ray BOX 2011

−− デジタルの勉強を誰もやっていないときに始めるというのは、独学みたいなものですよね。

田島:そうですね。最近、僕が取り組んでいる、Museというソフトは、まだ僕の周りでは誰もやっていなくて教則本もないのでちょっと大変なんですが、すごく惹かれています。Museはウェブを作るソフトなんですが、ドラッグ&ドロップで全てが出来てしまうんです。HTMLの知識が必要がない画期的なソフトなんです。

−− つまりキーボードが要らない?

田島:要らないですね。グラフィック・デザイナーをやっている人は基本的にPhotoshop、Illustrator、あとはInDesign、この3つに精通しているひとがほとんどだと思うんです。でも、今のAdobeのソフトは年間契約ですから、黙っていてもソフトが20個くらい付いてきて、その中にMuseというのがあるんです。僕は5年も経ったらデザイナーは全員Museをやっていると思います。グラフィック・デザイナーって今まで、ウェブのデザインは提案できても、ウェブの分野へは入っていけなかったんですよ。敷居が高すぎて。

−− Museでその敷居がガクッと下がる?

田島:そうなんですよ。HTMLの言語を学んだり、講習会に行ったりと、難しいことをやっていかないとできなかったことが、僕はつい2ヶ月くらい前に始めて、あっという間に自分のウェブサイトと、それから浜田省吾さんのツアーサイトとか、いくつか実用レベルのものができちゃったんですよ。

−− ウェブのデザインができちゃう。

田島:グラフィック・デザイナーが。ウェブのデザインを提案するだけではなくて、完成形まで出来てしまうんです。

−− それはデザイナーにとって朗報ですね(笑)。

田島:待ってましたなんです。しかもレスポンシブデザインと言って、パソコン用に作ればiPad用もiPhone用も全部労せずにできちゃうんです。これは凄いソフトなんですが、私の周りでやっている人はひとりもいない。それでも、なぜ飛びついたかというとウェブを自分のセンスでやりたかったからなんですよ。でも、この歳になって今からHTMLとか覚えて、細かいことをするのはできないなと思っていたところにMuseと出会ったわけです。

−− これさえ使いこなせれば、オレの出番は増えるということですね。

田島:もう楽しくてしょうがないです。この先のデザイン人生が、また5年くらい延びたかなと勝手に思っています(笑)。それから、僕は十年くらい前から映像制作も手掛けていますが、それにはPremiereというソフトを使っています。映像制作もひとりで出来る時代なわけですから、デザイナーは、もっと皆やるべきだと思いますけどね。

 

7. こんなに楽しい60代が待っていたとは思わなかった

−− LPの時代からCDの時代になって、デザイナーとしてはちょっと悲しかったりしましたか?

田島:僕はそうでもなかったですね。そのへんは柔軟かもしれないです。「やっぱりジャケットデザインはLPサイズだよね」というデザイナーは多かったのですが、CDはブックレット的発想にもなるし、ボックスセットなど3次元的な違うアプローチもあるから、そういった考えにシフトしたんです。ですから、そんなに抵抗はなかったですね。

−− 今、CDジャケットというのは誰に発注する権限があるんですか? やはりアーティストですか?

田島:いろんなケースがあると思います。僕に依頼が来る場合はアーティストからのような気がしますね。前に、GACKTくんの「GHOST」という作品をデザインしたのですが、それは彼が僕でやりたいと希望したものでした。それから若いボーカロイド系のアーティスト、JINくんの場合も、ぼくが手がけているアニメのパッケージ「攻殻機動隊」のデザインが気に入ってのことでした。

GACKT「GHOST」の限定盤 2009
▲GACKT「GHOST」の限定盤 2009

−− 逆に、田島さんの方からこのアーティストを是非やってみたいなということはあるんですか?

田島:いや、それはないです。それは失礼というか、おこがましいと思いますから。「やってください」と依頼された仕事を「はい」と言って、やらせていただいているだけです。僕は基本的にデザイナーって裏方だと思っているので、「この人がやっているんだ」と後で分かるくらいが一番良いかなと思っているんですよね。

−− そう仰いますが、田島さんのデザインはやはりアーティスティックですよ。すぐに田島さんの作品だと分かりますし。

田島:僕は一介のデザイナーのつもりなんですが、「いやあ、田島さんはアーティストだから」とよく言われますね。普通グラフィック・デザイナーだと「これ風にやって」とか要望を受けるものなんですかね。僕の場合は、僕の特質に合わせたオファーが来ている気がするので、アーティスト的なアプローチの方が正解なのかもしれませんね。だから、あまり、僕の本質とは掛け離れたデザインを望まれたりはしないみたいです。

−− 素晴らしいデザイナーさんはたくさんいらっしゃいますが、写真も自分で撮られるというのは田島さんの強みですよね。

田島:いそうで実はあまりいないんですよね。自分がアートディレクターだとして、「今、この角度が良いんだけどな」と思ったとしてもカメラマンには伝わらないですし、言葉で細かく伝えたとしたら、それはカメラマンに対する越権行為のような気がします。でも、本当に1センチの角度の違いでも、表情って変わるものなので、だったら自分で撮るしかないなと思って撮り始めたんですよね。それこそ頭の中に「尾崎豊だったらこの角度が一番鋭く収まる」というイメージがあるわけですよ。「浜田省吾だったらこの角度がいちばん魅力的に撮れる」とかね。僕がそれを撮れば良いわけで、別に全然難しくないんですが…。

浜田省吾「ON THE ROAD 2011」ではステージ映像の制作、ディレクションを担当
▲浜田省吾「ON THE ROAD 2011」ではステージ映像の制作、ディレクションを担当

−− それは、自分で音源をミックスするアーティストと近いんですかね。人に頼むとドンピシャにならないからみたいな。

田島:そうですね。でも、違うカメラマンに撮ってもらったら、もっと良い写真が撮れる可能性ももちろんあるんですよ。

−− 違う表情が撮れるかもしれない。

田島:ええ。それを否定するわけではないんですが、僕は自分で撮った方がそのチャンスは多いかな? と思っているんですよ。それともうひとつはカメラマンに「この写真、もうちょっと濃く焼いてくれない?」とかお願いしなくて良いんですよ(笑)。つまり、自分で撮ったものだから全部自由にできるんです。

−− それはそうですね。

田島:先日、尾崎君の写真展をやりましたが、もし尾崎君の生涯を20人のカメラマンが撮っていたとしたら、写真展なんて難しいと思いますね。カメラマンそれぞれの要望もあるでしょうし、ギャランティーも膨大なものになってしまいますからね。全部の写真の権利が僕にあるので、そういった展覧会が企画できるわけなんです。

田島自身の作品展「田島照久の全仕事展」が2016年4月2日から5月8日まで九州芸文館にて開催された
▲田島氏自身の作品展「田島照久の全仕事展」が2016年4月2日から5月8日まで九州芸文館にて開催された

浜田省吾と田島照久のコラボレーションによる作品展「浜田島」はこれまでに全国4カ所で開催されている
▲浜田省吾と田島照久のコラボレーションによる作品展「浜田島」はこれまでに全国4カ所で開催されている

−− 数多い仕事の中には、アートディレクターとしてのポジションでやるということもあったりするんですか?

田島:ほとんどないですね。大体全部写真も撮って、デザインもして、アートディレクションもするというスタイルでやってきましたので。指示だけでデザインの仕事をやるのが大人のやり方なのは分かりますが、僕は細部まで全部自分のセンスで仕上げないと気が済まないのだと思います。

−− 素晴らしいですね。田島さんはデザイナーとして心残りというものはあるんですか?

田島:やりきってきたので、ないかもしれないです。すいません、本当に。勝手気ままな人生を送ってきたみたいで。

−− (笑)。

田島:ただ、今でも僕は徹夜をしたりしますから、完成度を上げて、とことんやるタイプなんですよ。それは信じてくださいね(笑)。デザインの仕事がどんどん進化して行くのが面白いんです。こんなに楽しい60代が待っていたとは思わなかったくらいです。昔はグラフィック・デザイナーなんて50歳くらいになると仕事はなくなるだろうし、終わりだろうなと思っていましたけど、あっという間に66歳になりましたからね。それで3〜4年後くらいまで、なんとなく仕事が見えていますから、今すぐにはリタイアできないし。

−− まさに生涯現役ですね。最後になりますが、今後やりたいことは何ですか?

田島:ネットの世界でパブリッシュなものをやっていきたいなと思っています。今までは出版社に頼まないとできなかったりしたものを自分でやってみようと。小説などを発表したり、イメージを展示したり、何でもできる一方で激変を繰り返して行くのがウェブの世界ですが、それを最大限まで利用することにデザインの未来もあるのだと思います。とにかく、この先の老境を迎えたときの楽しみを今からいっぱい作っておきたいですね(笑)。

−− 本日はお忙しい中、ありがとうございました。田島さんの益々のご活躍をお祈りしております。

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