第68回 吉田 建 氏 プロデューサー/アレンジャー/ベーシスト

インタビュー リレーインタビュー

吉田 建 氏
吉田 建 氏

プロデューサー/アレンジャー/ベーシスト

今回の「Musicman’s RELAY」はフジテレビ プロデューサーきくち伸さんからのご紹介で、プロデューサー/アレンジャー/ベーシスト 吉田 建さんのご登場です。大学卒業後、プロとして活動を始められた建さんは、リリィのバックバンド「バイバイ・セッション・バンド」や沢田研二のバックバンド「エキゾティックス」、泉谷しげる&LOSERなどに参加され、以降、氷室京介やウルフルズなど数多くのアーティストのレコーディング、アレンジ、プロデュースを手掛けている日本を代表するベースプレイヤーです。また、TBS『『いかす!!バンド天国(イカ天)』の審査員として、最近ではフジテレビ『堂本兄弟』の堂本ブラザーズバンドのバンドマスターとしての姿を思い出される方も多いかと思います。そんな建さんに今までのキャリアを振り返っていただきつつ、日本の音楽シーンに対して感じられていることや、プロデュース・ワークに対する思いなど語っていただきました。

[2007年12月7日 / 世田谷区代田 サウンドアトリエにて]

プロフィール
吉田 建(よしだ・けん) 
プロデューサー/アレンジャー/ベーシスト


’49年11月21日生。東京都出身。
’72年早稲田大学商学部を卒業後、プロミュージシャンとして活動を始める。リリィのバックバンド「バイバイ・セッション・バンド」では全国をツアーに参加。’81年、沢田研二のバックバンド「エキゾティックス」のベーシスト、アレンジャーとして活躍し、以降、泉谷しげる、氷室京介、HOUND DOG、globe、B’z、吉川晃司、ウルフルズなど、数多くのアーティストのレコーディング、アレンジ、プロデュースを手掛けている日本を代表するベースプレイヤー。’89年TBS「いかすバンド天国」の審査員として、辛口の批評で注目を集める。また、’96年よりフジテレビ『LOVE LOVEあいしてる』にベーシスト・アレンジャーとして参加。続くフジテレビ『堂本兄弟』でも堂本ブラザーズバンドのバンドマスターとして参加中。

 

    1. 音楽とは無縁だった少年時代
    2. ジャズ喫茶の衝撃
    3. 様々な音楽に触れた大学でのサークル活動
    4. レコード会社への就職を押しとどめたプロ・ミュージシャンへの思い
    5. 数多くの才能との出会い
    6. メジャー・シーンへの足がかりからプロデューサーへ
    7. 素晴らしい音楽は未来へと受け継がれる

 

1. 音楽とは無縁だった少年時代

−−前回ご登場いただいたフジテレビ きくち伸プロデューサーとの出会いはいつ頃だったんですか?

吉田:きくちPとの最初の出会いは、彼が言うには『夜のヒットスタジオ』のAD時代らしいんですが、僕は正直あまり憶えてなくて、自分としては今から11年前の『LOVE LOVE あいしてる』で吉田拓郎さんに声をかけていただいて、武部聡志君なんかも含めてみんなでスタジオに集まったときが今に繋がると言う意味で最初ですね。

 それで話していくうちに泉谷しげるさんのバンドで『HEY! HEY! HEY!』に出たときに僕が恐かっただとか色々なことを言われましたが(笑)、彼はJ-POPやフォーク、アイドルとものすごく色々な知識を持っていて、「あのとき建さんはこうでしたよね」とか、とにかく抜群の記憶力なんですよ。きくちPは非常にユニークで優秀な音楽プロデューサーですね。僕は彼に敬意を持っています。

−−『LOVE LOVE あいしてる』は生演奏の魅力が伝わる音楽番組でしたよね。

吉田:きくちPのこだわりの一つは「生演奏」なんです。80年代からカラオケでしかバックができないような音楽が増えて、生演奏が疎遠になった時期がありました。テレビの音楽番組もほとんどがカラオケになってしまったわけですが、そんな流れの中でも「絶対に生演奏でやるんだ」という強い意志を持ってました。皆さん信じてくれないんですが、今やっている『堂本兄弟』もアーティスト側の要望でほんの数回シーケンスを使った以外は全て生演奏です。

−−やはり生だとグルーヴが違いますよね。

吉田:そうですね。歌手の方もそれを感じてくれていると思います。もちろんPAやモニターのバランスとか、生演奏は難しいことが多いんです。特にアレンジが打ち込みで出来ている曲は苦労しますね。そこで「これはオリジナルの再現は無理だよ」と言っても「そこをなんとか!」というきくちPの食らいつきがあって(笑)、みんなでやりきったときは本当に嬉しいですね。僕も含めてメンバーはきくちさんに随分鍛えられましたよ。

−−きくちさんはテレビ業界でNo.1の音楽プロデューサーであると。

吉田:きくちPはフジテレビ系の音楽番組のTOPですし、これからも独自のフレイバーをもっと出していくんじゃないでしょうか。それが楽しみですね。

−−ここからは建さんご自身のお話を伺いたいんですが、ご出身は東京と伺っております。

吉田:育ちは渋谷の常磐松というところで、國學院大学や実践女学院があるあたりです。幼稚園から高校までそこで過ごしました。

−−どのようなご家庭だったんですか?

吉田:僕はしがない大工の長男ですから(笑)、普通の幼稚園、小中高に通ってました。

−−お父さんは大工さんだったんですか。

吉田:そうです。だから親父は「建築の”建”」と僕を名付けたんです。だからという訳ではないですが、どこか職人の血を引いている気がしますね。実は泉谷しげるさんもお父さんが確か大工さんなんですよ。だから、お互い「馬鹿野郎! ふざけんじゃねえよ!」みたいな言葉が挨拶と言いますか(笑)、どこかに職人気質があるので、そういうところも気が合ったんですよね。

−−子供の頃はどんなお子さんだったんですか?

吉田:特に特徴があるわけでもなく、ごく普通の子供だったと思います。体はあまり強くなかったのでスポーツは今も不得意ですね。

−−そうなんですか? 建さんは背も大きいですし、スポーツは得意なのかなと思ってました。

吉田:いや、全然駄目なんですよ。持久力もないですしね。ゴルフはやりますけど220ヤードが精一杯です(笑)。学力はまあまああって、塾とか全然行ってませんでしたが、割と成績はよかったですね。小学校は常磐松小学校といって、そばに御用邸があったり、周りは高級住宅街でしたから、育ちのよい子が結構いましたが、うちは親父がニッカポッカ履いて授業参観にくるような家庭でしたね(笑)。

−−(笑)。では、家庭内に音楽的な環境があったとかではなかったんですか?

吉田:全くないですね。家の近所にはヴァイオリンやピアノを習っている子もたくさんいましたが、家なんかとんでもないですね。近所の子たちと遊んでいると「ピアノの時間よ」とお母さんが呼びに来て、「なんだよ、ピアノって・・・」と思っていたくらいです。

−−建さんの最初の音楽経験はなんだったのですか?

吉田:小学校のときの鼓笛隊だと思います。鼓笛隊に入ったときに「建くんは背が高いから大太鼓」と言われて、大太鼓をやるようになったんですよ。「ドンドンドドドーン」と叩いていればいいと言われて(笑)。僕はすごくやせっぽちだったので、「行進のときに倒れないでよ」と母親にはよく言われたんですが、大太鼓は得意気にやっていました。

 でも、日常には音楽は全くなかったですね。音楽で最初に褒められたのは中学の指揮の授業のときで、『ちいさい秋みつけた』という曲を出席番号順に教卓の前で一人ずつ指揮したんですね。僕は最後の方に振ったんですが、先生が「このクラスは吉田建君が一番上手い」と言ってくれたんです。僕は見よう見まねでやったんですが、普通だったら恥ずかしくてうつむいてやるのを、僕は人を誘うような指揮ができていたのかもしれない。そこで「僕はもしかしたら歌心みたいなものが少しはあるのかな」と感じていました。

−−建さんご自身、歌はどうなんですか?

吉田:歌は全く駄目ですね。だからこそ歌手に望むことが僕は多いんです。「こういう風に歌って欲しい」「こういう歌が聴きたい」という気持ちがすごく強いですから。

 

2. ジャズ喫茶の衝撃

吉田 建80

−−建さんはまさにビートルズ世代ですよね。

吉田:そうですね。ビートルズの『プリーズ・プリーズ・ミー』を聴いたのが中学2年です。あとベンチャーズですね。「テケテケテケ・・・」と嫌でも聴こえてくるじゃないですか。うちにはプレイヤーもありませんでしたから、友だちの家で聴かせてもらって、その音は少年心をくすぐるわけです。ベンチャーズのアルバム『ウォーク・ドント・ラン』はアメリカの女の子がセーター1枚の姿で中央に立っていて、その周りにベンチャーズが楽器持って立っているジャケットだったんですが、それを眺めていると、その女の子が醸し出す多少のエロティシズムと(笑)、アメリカ文化に対する憧れが一気に噴出しましたね。

−−ビートルズやベンチャーズに影響されてギターは始めなかったんですか?

吉田:音楽は聴いていましたが、やる気はさらさらなかったです。そもそも「ギターが欲しい」と言える家庭環境でもなかったですしね。実際にギターに触り始めたのは高校のときです。高校生になると昼休みにギター持ってくるやつが増えるわけですよ。

−−学校にギターを持ってくるんですか!?

吉田:そうですよ。休み時間に学校の踊り場でエレキバンドが演奏していましたからね。文化祭では先輩のバンドが『サージェント・ペパーズ』を演奏したり。

−−やはり東京は進んでますね・・・私の地元だとエレキギターは全面禁止でしたよ(苦笑)。

吉田:あの頃、エレキギターを弾いているやつは不良扱いでしたからね。でも、広尾高校は自由な気風だったので全然平気でした。学内にはエレキ派とキングストン・トリオやPPM、ブラザーズ・フォーが好きなフォーク派、あとグループ・サウンズ派がいて、その周りに女の子が集まって歌を聴いてたりしていて、「ギターが弾けるとなかなかいいことあるんだな」と多少思いましたし(笑)、『花はどこへ行った』くらい弾けるようになりたいと思いました。

 それでギターが弾ける友だちに「これを知ってれば大体の曲はできるから」とロー・ポジションでできるコードを4つくらい教わって、弾いてみると確かに3コードで曲が弾けるわけですよね。それまでイ長調とか嬰ハ短調とか音楽の授業では全く分からなかった自分が、「嬰ハ短調ってC#mのことなんだ」とパッと分かるようになっちゃったんですよ。「こういうことなんだ」って。それは目から鱗でしたね。

−−ギターの演奏を通して音楽を理解していったんですね。

吉田:そこまで次元はたかくないですけどね。あと、大学に入るまでにもう一つ大きかったのがモダン・ジャズとの出会いです。同じクラスにものすごくモダン・ジャズを知っているやつがいて、「お前らはビートルズやベンチャーズみたいな軽薄な音楽を聴いているけど、ジャズというすごい音楽を知らないだろう」と言われたんです。それで「えっ、ジャズって何?」って訊いたら、「じゃあ一緒に聴きに行こうぜ」とジャズ喫茶に連れて行かれました。当時、渋谷の百軒店のあたりには『Blue Note』や『ありんこ』、『ブラックホーク』といったジャズ喫茶が10軒以上あったんです。暗い店内の中でみんな腕を組んでしかめっ面しながら(笑)、セロニアス・モンクやジョン・コルトレーンを聴いているという、あの世界ですよ。

 初めて行ったときは「なんだここ!?」と思いましたね(笑)。あんなに大きな音を聴いたこともないですし、ジャズを聴くのも初めてでしたし、みんな煙草を吸っていて、中には昼間から酒飲んでいるやつもいる。親に言ったら絶対に行っては駄目だと言われるような環境ですよ。それで・・・たちまち虜になってしまって(笑)。

−−高校生でジャズ喫茶ですか。すごくませた友だちだったんですね。

吉田:おませさんでしたね。それで彼から色々なことを教わって、水を吸うように知識を覚えていきました。僕は渋谷区内に住んでいましたが、友だちはみんな目黒や世田谷に住んでいたので渋谷駅から帰るんですが、僕も一緒に渋谷駅まで行ってジャズを2時間くらい聴いていました。夜はあの頃民放には『ミッドナイト・ジャズ』とかジャズの番組が色々ありましたから、それを楽しみにしていました。高校3年になるとそういった番組を受験勉強しながら聴いていましたね。

−−ジャズに熱中していたんですね。

吉田:すごく聴き込んでいましたね。高校3年の頃にはブラインド・テストで「このドラムは誰?」とか分かりましたから。プレイヤーも買ってもらい、初めて買ったジャズのレコードはアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズだったと思います。

−−特に好きな楽器とかあったんですか?

吉田:特にこれが好きというのはなかったですね。でもピアノ・トリオが好きだというのは分かっていました。管楽器があまり好きではなくて、それは今でもそうですね(笑)。あとウェス・モンゴメリーのギターが好きで、今でも大好きです。

 で、当時好きな女の子がいて、自分のことを分かってもらいたくてその子をジャズ喫茶に連れて行ったんですよ(笑)。そうしたら「建くん、ここはなに? 私たちこんなところにいていいの?」って言われました(笑)。ジャズ喫茶ってリクエストを受け付けてくれるんですけど、そのリクエストをするのがすごく勇気がいるんです。例えば、あまりにもポピュラーな曲をリクエストすると他の客から「誰だ、こんなのリクエストしたやつは」みたいな視線が刺さってくるんです(笑)。ちょっとディープでマニアックなモノをリクエストするとちょっと敬意の視線がきたり、そういう嫌な感じのところなんですよ(笑)。

−−おたくの巣窟みたいな感じですね(笑)。

吉田:今だとそうなるのかなあ、ちょっと違うと思いたいですけどね(笑)。そんなところで『モーニン』なんてリクエストしようものなら、大変なことになっちゃいます(笑)。そのときに僕の大好きなバド・パウエルの『クレオパトラの夢』をリクエストして彼女に聴かせたんですが、全然分かってくれませんでした。まぁ、当たり前ですよね(笑)。「そんなことより世界史のここ教えてよ」って言われて、「え〜?」みたいな感じですよ(笑)。

 

3. 様々な音楽に触れた大学でのサークル活動

−−大学は早稲田大学に進まれたんですよね。

吉田:ええ。実は最初は国立に行こうと思っていたんですよ。それで横浜国立大学を受験して、おかげさまで受かったんですが、うちから遠かったのとサークルが面白そうじゃなかったんですよね(笑)。

−−なるほど(笑)。早稲田を選ばれたきっかけは何だったんですか?

吉田:僕は大学に入ったらギターやジャズを本格的にやってみたいなと思っていました。それで受験勉強をしていたときにラジオを聴いていたらトロンボーンが流れてきて、「このトロンボーン誰かな?」と、さっき言ったように耳は割と肥えていたので考えたんですが、全然思い当たらない。それでエンディングでビックバンドが出てきて、「そうか、ビッグバンドが後ろにいてトロンボーン・ソロを吹いていたんだ。でもカウント・ベイシーでもデューク・エリントンでもないよな・・・」と思っていたら、司会の大橋巨泉さんが「早稲田大学ハイソサエティオーケストラでした」と紹介したんです。それを聞いて「学生でこんなに上手い人たちがいるんだ・・・」と思いましたね。その当時は早稲田のハイソが一番すごかったときで、アメリカ巡業までしてUCLAとかで演奏していたらしいんです。

 本当はコンボをやりたかったんですけど、コンボってアドリブが多くてすごく難しそうな感じもするし、ビッグバンドはアンサンブル指向なので意外といいかもなと思って、早稲田大学も滑り止めで受験して受かったので、早稲田に入ってサークルはハイソに決めました。

−−ラジオで聴いた早稲田大学ハイソサエティオーケストラの演奏が大きかったんですね。

吉田:あと、キャンパスライフが華やかじゃないですか。やっぱりハデなのが好きなんでしょうね、きっと(笑)。もし横国に行っていたら違う人生だったんじゃないですかね(笑)。それで早稲田の商学部に入ったんですが、授業は全然面白いとは思わなかったので、だいたいサークル棟に行ってました。そうしたら全然違う世界が待っていたと・・・。ハイソはものすごく体育会系なサークルで、4年は雲の上の人で1年、2年は全く口を聞いてもらえなくてローディー扱いですよ。部室の掃除やツアーのときは先輩の楽器や荷物を持って・・・(笑)。

吉田 建75

−−ハイソでは入ってすぐに担当の楽器とか言われるんですか?

吉田:そうですね。僕はギターをやりたかったんですが、先輩から「ギターだとなかなかレギュラーになれない」と言われ、「ベースだったら来年4年の先輩が抜けるからレギュラーになれるよ」って甘い言葉で誘われて(笑)。

 ちょうどその頃マイルス・デイヴィスが『ビッチェズ・ブリュー』を発表し、ジャズもだんだんエレクトリック化してきて、ラリー・コリエルみたいなギタリストが現れたり、この間亡くなったジョー・ザビヌルがエレクトリック・ピアノを弾いたり、マイルスもトランペットにイフェクターを付けたりし始めた時期でした。ロックもニューロックやアートロックというネーミングでどんどん変わってきた時代で、アメリカではシカゴやチェイス、BS&Tとかジャズとロックを融合させたブラス・ロックが出てきた時代だったんです。

 当然サークルでも流行ものをやらなくてはならなかったので、シカゴやBS&Tのコピーをやるようになったんですね。そうするとウッド・ベースじゃなくてエレキ・ベースが必要となって、「エレベだったら先輩よりもお前の方が上手いんじゃないの?」という話になったんですよ(笑)。僕は「えっ、まぁギターの下四本だから」とか適当なことを言って(笑)。それからシカゴとかたくさんコピーしましたけど、当時はそういった音楽は大好きでしたね。BS&Tも間奏がジャズみたいな編曲が多くて、今で言うミクスチャーみたいな感じがすごく好きでした。

−−ロック畑でもジャズがわかっているプレイヤーは重宝されるんじゃないですか?

吉田:別に僕はわかってもないですし、そんなこともないと思いますけどね。僕は今でもそうなんですが、何か一つに突き進むよりも割と様々なジャンルを広くやってみたいと思うほうで、それがいい引き出しにもなったんだろうと思いますね。もちろんすごくよく知っているバンドもありますよ。もちろんビートルズはほぼ全曲知ってますし、僕の大好きなフェイセズは詳しいと思います。フェイセズのベースだったら僕は日本一上手いと思っていますしね(笑)。とにかく色々なジャンルを聴きましたね。

−−ハイソではどのような演奏活動をされていたんですか?

吉田:3年でレギュラーになり、ライトミュージックコンテストに出場しました。そのときはチューリップの財津和夫さんや大村憲司がいた甲南大学カウントロックバンドとかが出てたんですが、学生音楽がものすごく盛り上がっていましたね。毎年合歓の郷でコンテストをやってましたし、グランプリはロンドン・レコーディングとか、みんな垢抜けてましたよ。

−−学生バンドの質がとても高かったんですね。

吉田:11月〜1月なんて毎日ダンスパーティなので、授業なんて全く出られませんでした。サンケイホールやホテル、ボーリング場のパーティールームとか、特にビッグバンドなんか重宝されるわけですよ。

−−滅茶苦茶稼げたんじゃないですか?

吉田:ギャラは全部、部費になってしまうんです。その貯めたお金で年に一回ホールを借りてリサイタルをしていました。とにかくものすごく忙しかったですね。あの頃、学生の主催でダンパとかコンサートとかたくさんやっていたんですが、大隈講堂や記念講堂に当時ヒットしていたプロの歌手を呼んで、学生バンドがバックをやり、チケットは600円くらいのコンサートが平気で成り立っていたんですよ。

−−今はありえないですよね。

吉田:そうですね。今まで色々な方と仕事をさせていただきましたが、早稲田祭のときにやった東海林太郎さんとか、貴重な経験もさせて頂きました。

−−東海林太郎さんのバックですか・・・すごいですね。

吉田:東海林太郎さんは本当に礼儀正しい方で、「学生さん、今日はどうもありがとう」とわざわざ挨拶にきてくださいました。それで色々な営業で書き込みされたオリジナルの譜面を観ながら演奏したんですが、その譜面を見たときは本当に感動しましたね。あと、田谷力三さんの三文オペラとかすごく素敵でしたよ。

 

4.レコード会社への就職を押しとどめたプロ・ミュージシャンへの思い

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−−ハイソでの活動を通じて大学時代は本当に色々な経験ができたんですね。

吉田:あの頃は今みたいにポップスばっかりじゃなくて、昭和歌謡もありましたし、とにかく色々な音楽に生で触れることができました。もし、ジャズ・コンボをやっていたらそういうこともなかったでしょうけど、ビッグバンドをやっていたので色々な経験ができたんでしょうね。

 それで早稲田に来てくださった方々の中に長谷川きよしさんがいらっしゃったんですよ。長谷川さんは当時『別れのサンバ』という曲が大ヒットしているときで、僕たちがバックを務めたんですが、そのときに長谷川さんが「君のベースすごくいい」と褒めてくださったんです。先輩にも褒められたことがなかったのに(笑)、プロの人がそんなことを言ってくれることがすごく不思議でした。その後、長谷川さんから「バックで弾いて欲しい」と頼まれて、銀巴里やジャンジャンといったシャンソン喫茶へ行って演奏していました。その頃から「プロになりなよ」と言われていたんですが、そんなことは全く考えていませんでした。僕は商社か外務省へ行きたかったんですよ。

−−エリート・ビジネスマンになる予定だったと。

吉田:親もそうなって欲しくて早稲田に行かせたんでしょうしね。大工はあきらめて(笑)。だからプロのミュージシャンなんてとんでもないと思っていましたし、そんな考えは全くなかったです。

−−結局商社とかは受けられたんですか?

吉田:いや、最初は商社とか外務省を考えていたんですけど、だんだんコピーライターになりたくなったんですよ。後に糸井重里さんのような方が出てきてコピーライターが花形商売みたいになりましたが、それ以前はそれほど花形商売ではなかったんです。でも、キャッチフレーズとか考えるのは楽しいと思って。僕は今でも曲のタイトルとかアルバムのタイトルを考えるのがすごく好きなんですよ(笑)。それでゼミも優をもらったし、ゼミの担当教授が広告論の権威だったので、「推薦状くらいは書いてもらえるのかな?」と思っていたんですが、電通は「コネがないと駄目だ」と見事に落っこち(笑)、第一企画、博報堂も駄目で、東急エージェンシーだけ面接までいったんですね。

 ただ、音楽に対する気持ちも強かったですから色々考えて、変な言い方ですが、音楽とビジネスマンの間をとったら、レコード会社が頭に浮かんだんですよ。レコード会社だったらちゃんとした企業で、しかも音楽に関われると。レコード会社は時期的なこともあってフィリップスしか受けなかったんですが内定をいただいて、気持ちとして音楽の方が強かったので代理店よりフィリップスを選びました。

−−レコード会社にいらっしゃったことがあるんですか。知りませんでした。

吉田:フィリップスには一日だけ入ったんですよ(笑)。

−−それはどういうことなんですか?(笑)

吉田:入社前に東中野にあった流通センターで研修させられて、『マミーブルー』とポール・モーリアのレコードを嫌というほど運んだんですが(笑)、その間に長谷川さんから「プロにならないか?」と口説かれて、あの頃はそれほど就職難でもなかったので、親父に「3年間プロのミュージシャンをやって、それで食えなかったら絶対に企業へ就職するから3年だけやらせて欲しい」と拝み倒しました。「このままでは俺はおさまらない」と。

 それで「具体的な仕事はあるのか?」と訊かれたので、長谷川さんのことを話して、長谷川さんの仕事だけで初任給が3、4万の時代にその3〜4倍くらいにはなったのでしばらくはやっていけると説明しました。そうしたら親父からは「お前なんか音楽の勉強をしてきたわけでもないし、音大を出たわけでもないんだから、できるもんかよ」ときついこと言われましたね。親父からしてみたら広く芸能の仕事というのはとんでもないと。うちの家系にいたこともないし、ろくなもんじゃねえというのが大方の見方ですよ。

−−歌舞音曲は許さぬと。

吉田:ええ。それでもなんとか親父を口説き落として、当時は僕のことをサポートしてくれた叔父もいましたので、入社式の日に一日会社へ行って、入社式には出ずにそのまま人事課で「すいません!辞めます!」って言ったんです(笑)。

−−ということは、長谷川きよしさんとの出会いがなかったら、ミュージシャンになっていなかったんですね。

吉田:そうですね。当時スタジオ・ミュージシャンになる方法もわからなかったですし、事務所の伝手もなかったですからね。長谷川さんの伝手が唯一あったから決心したと思います。

 それで’72年に大学を卒業して、長谷川さんの仕事でお金を貯めて、本場のロックを聴きたくてロンドンに行ったんですよ。とにかくフェイセズが大好きでしたから、「ロッド・スチュワートが観れたらいいな」と。当時「マジカル・ミステリー・ツアー」という怪しいツアーがあって(笑)、そこに加わって行きました。当時のお金で30万円、南回りでロンドンに行きました(笑)。

−−インドとかにとまっていくやつですよね。

吉田:そうですよ。マニラ、バンコク、デリー、テルアビブ・・・30時間くらいかかりましたね。それでアムステルダムに着いて、そこから乗る予定だった国内線が半分の人数しか乗れないことがわかって、乗る人をジャンケンか何かで決めたんですが、負けちゃったんですね。実はその日の晩にロンドンのラウンドハウスでジェフ・ベック・グループの解散コンサートがあったんです。乗る予定だった国内線に乗れなかったらまず観れないと言われていたので半ばあきらめていたんですが、奇跡的に間に合って、ラウンドハウスに入ったときにちょうど前座が始まるところでした。

 そこでジェフ・ベック・グループの演奏を間近で観てひっくり返りました。1曲目の『アイス・クリーム・ケーキ』、亡くなったコージー・パウエルのドラムのイントロ・・・もう最高に格好良かったですね。そして、今まで聴いたことのない大迫力のPAやホールの雰囲気。日本で聴いていたコンサートやレコードとは全然違うと思いました。

−−全然別ものですか。

吉田:もう全然違いました。俺なんて全然ロックじゃないし、ロックが好きくらいのレベルだと。そこで僕は「駄目だ」と凹んだわけではなくて、考え方を変えようと思ったんです。きっと二つの道があったような気がして、一つは本物のロッカーになるためにロンドンに残って修行する。そういう人は結構いたと思いますし、それは立派な選択なんだけど、僕はこれを一つの糧として日本でプロとしてやっていくノウハウとか技術や知識を見つけられたらいいなと考えました。つまり劣等感ではなくて、「コレはできない!」と思ったんですよね。やったとしても僕にとってはあまりいい結果にはつながらないかも、とね。

−−本物を間近で観てしまったからこそそう考えられたんですかね。

吉田:いや、イギリスのロックが本物で、こっちが偽物ということはないんですよね。本場のロックに対して尊敬しているし敬意も持っているけれど、自分の道ややり方ってきっとあるよねと。

−−自分のオリジナルの道を見つけなくては駄目だと。

吉田:うん、おこがましいですけどそんな風に感じました。そう感じながらも当時のロンドンはTレックスが大フィーバーしていて、デイヴィッド・ボウイ、ロキシー・ミュージックといわゆるグラム・ロックが大人気で、ファッションもユニセックスの時代でした。髪の毛はみんなグリーンとかブルーで、男の子もみんなラメつけてたんですよ。僕はミーハーなのでロンドンですっかりその洗礼を受けちゃって(笑)、ロンドンから帰国したときは髪の毛はグリーン、ラメを付けて、ロンドンブーツを履いてました(笑)。母親が羽田まで迎えに来ていたんですが、僕の姿を見て「これは私の建ちゃんじゃない」って言って嘆いてましたね(笑)。

 

5. 数多くの才能との出会い

−−ロンドンから帰国後はどのような活動をされたんですか?

吉田:日本では引き続き長谷川さんのお仕事をさせてもらったり、りりィの事務所からバイバイ・セッション・バンドという、後に土屋昌巳、斎藤ノブ、上原ユカリ、井上 鑑、坂本龍一といった優秀なミュージシャンを数多く輩出したバンドのメンバーとして声をかけていただいて、そこでは良いこと悪いこと含め色々なことを勉強しましたね。ちょうど、りりィが『私は泣いています』という曲でヒットしているときでした。また今でも忘れられない経験ですが、浅川マキさんにも声をかけて頂き、貴重なライブやレコーディングもさせて頂きました。

 当時は輸入音楽が色々な形で入ってきて、そういった音楽にも心を揺さぶられました。ロックはレッド・ツェッペリンのようなハードロックもあり、かたやウエストコーストからタワー・オブ・パワーとかブラックなグルーヴを出すバンドも出てきて、スライ&ザ・ファミリー・ストーンのファンクやジェイムズ・テイラー、キャロル・キングといったアーティストから音楽的にもの凄く色々なことを吸収できました。この頃はニューミュージックを作るための吸収時期だったんじゃないでしょうかね。アレンジ能力とかセンスとか。それが繋がっていったんだと思うんですよね。

−−確かにニューミュージックが登場して、日本の音楽が一気に洗練された印象がありますね。

吉田:’75、6年頃の日本は、僕がのちにお仕事をさせていただく沢田研二さんとか歌謡曲が全盛で、テレビではロックは全くなかったですし、フォークはあったけど拓郎さんをはじめとして、「テレビに出るのは嫌だ」と反発していたわけで、そうなるとテレビ、メディアを通じて世の中に流れてくるのはロックやフォークではなく歌謡曲でした。ただ、表だってメディアに出なかった間に色々な知識を吸収していたロックやフォークのミュージシャンの中から、ニューミュージックの旗手達が出てきて、それと同時に新しいセンスを持ったアレンジャーやミュージシャンも出てきたということだと思います。

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−−その中に建さんもいらっしゃったわけですね。

吉田:残念ながら僕はそのメインストリームにはいませんでした。僕はスタジオ・ミュージシャンとしてニューミュージックのアーティストのレコーディングにあまり呼ばれたことがないんですよ。

−−どこか事務所に所属されたりはしていたんですか?

吉田:いや、事務所には所属してませんでした。今までずっと大方一人でやってますし、かなり特殊な立場だと思います。当時僕は浅川マキさん、りりィや古井戸といったアーティストとのセッションやレコーディングにはかなり参加させていただいたんですが、メインストリームだったニュー・ミュージックの方には’70年代はあまり関わってないんです。

 ただその中で大瀧詠一プロデュース『ナイアガラ・トライアングルvol.1』に、当時バイバイ・セッション・バンドで一緒に仕事をしていた伊藤銀次のセッションに呼ばれたのは嬉しかったですね。大瀧さんとも初めてその時お会いして、ランチにピザをご馳走になりました。そのとき大瀧さんに言われたことは今でもはっきり憶えています。僕が割と高音域のフレーズを使ったりしたせいでしょうか、それとも風体でしょうか、こう言われました。『君はロンドン派だね』(笑)。

−−メインストリームとの関わりとなると、やはり沢田研二さんとのお仕事がきっかけになったんですか?

吉田:沢田さんはニュー・ミュージックという感じではありませんが、メジャー感という意味ではそうかもしれませんね。その前に泉谷しげるさんとの出会いがあるんです。確か‘75か6年頃、金沢で開催された『夕焼け祭り』というイベントがあって、僕は浅川マキさんのセッションでつのだひろとかと一緒に出たんですね。『夕焼け祭り』はめんたんぴんや久保田麻琴さん、山下洋輔トリオ、浅川さん、最後が裸のラリーズとすごい面子のイベントでした。

 そこに泉谷さんも出演されていて、全然知り合いじゃなかったんですが、イベントが終わった後に泉谷さんのマネージャーから電話がかかってきて、「泉谷が一緒にやりたがっている」と声をかけていただいきました。それでリハーサルに行ったんですが、泉谷さんの音楽はコードはシンプルなんだけど、コンセプトは厳しい音楽なんですよね。つまり「この曲はどういう気持ちで弾くんだ?」みたいなことを大切にするんです。実際に打ち合わせが長いバンドだったんですが、泉谷さんとはすごく気が合って仲良くなりまして、そこから十何年ずっと一緒にレコード制作やライブをやらせていただきました。

−−泉谷さんとの繋がりはとても深いんですね。

吉田:そうですね。ブルース・スプリングスティーンを教えてくれたのも、テレヴィジョンを教えてくれたのも泉谷さんです。テレヴィジョンの『マーキー・ムーン』なんてよく一緒に聴きました。ちょうどニューウェーブの時期で、トーキング・ヘッズなんて大好きでした。あの『Talking Heads ’77』というファーストアルバムは忘れられませんね。ベースのティナ・ウェイマスが僕の大好きなペンタトニックのスケールを弾いていて、「なにこれ!」って興奮しましたし、メンバーがみんな学生みたいな格好をしていて、ロックぽい要素が一個もない。その姿を見て「革命だ!」と思いました(笑)。それまでのロックのイメージが崩れて、僕は早速髪を切りました(笑)。

 でも、そのときにアーティストのパフォーマンスや見え方で音楽の聞こえ方も違うと気付いたんです。同じフライングVを持っても、例えばメタルみたいな格好でやるのと、Tシャツにジーンズ、スニーカーで弾くのとでは同じ楽器でも聞こえる音が違うんです。アーティストの見え方や雰囲気と音楽はものすごく繋がっている。それは今でも重要なことだと思っています。

 

6. メジャー・シーンへの足がかりからプロデューサーへ

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−−沢田研二さんのバンドに参加されるきっかけはなんだったんですか?

吉田:たまたま泉谷さんのマネージャーが「建ちゃん、井上尭之バンドが解散して、今ジュリーがベースとギターとキーボードのメンバーオーディションをしているから受けてきなよ」と声をかけてくれたんです。僕は28、9歳の頃ですからちょっと生意気だったので(笑)、「オーディション? 何だよそれ」みたいな感じだったんですよ(笑)。

 泉谷さんとの仕事はすごく楽しくて大好きだったんですけど、正直に言うと自分自身としてはどこか物欲しい感じもあったんですね。ちょうどその頃、渋谷のスタジオへ行くときに今は無き東急文化会館に沢田研二『TOKIO』のでっかい垂れ幕が掛かっていて、それを観て「沢田研二さんか・・・すごいな。俺もいつかあんなところでやってみたいな」と思った矢先のオーディションの話だったんですよ。

−−つまり建さんの気持ちとオーディションの話が来たタイミングが一致したんですね。

吉田:そうですね。「オーディション」と聞いて自分のプライドが傷ついたものの(笑)、「ジュリーさんくらいだったらオーディションも当然だよな。沢山やりたい人もいるだろうし、名指しでなんてこともそうないだろう」と考え直して、「じゃあ、気持ちよく受けに行ってみよう」と思いました。ただ、オーディションの経験なんてありませんでしたから、「オーディションって何やるんだろう?」と思ったんですよね。それで沢田研二さんってミック・ジャガーが好きだと聞いたことがあったので、たぶん『ブラウン・シュガー』や『サティスファクション』を一緒に演奏しながらギターやベースをどんどん替えていって、「誰のグルーヴが一番良いか?」で決めるのかなとなんとなく想像していたんです。それで事前に『ブラウン・シュガー』とか弾いてみたり下準備をして(笑)、オーディションへ行ったんですよ。

−−一応そういう準備をされたんですか(笑)。

吉田:そうしたらオーディション会場にはそんなに多くの方が来ていなくて、別の部屋でしばらく待たされて、僕の番が回ってきたのでオーディション会場に入るとご本人はいないわけです。そりゃそうですよね、沢田さんは大スターですから(笑)。ただ、プロデューサーの加瀬邦彦さんはいらっしゃったと思います。それでドラムとキーボード、ギターの人がいて、その三人の中に入って演奏するのがオーディション内容だったんですが、チューニングをしながら待っていると、「これお願いします」と渡された曲が『勝手にしやがれ』(笑)。「えっ!?」なんて思っているうちに「1,2,3,4!」とカウントが掛かって・・・(笑)。ただ僕は譜面に強かったので、割とすんなり弾けたんです。そうしたら「君、悪いんだけど、このあとギターとキーボードのオーディションがあるんだけど、ずっと付き合ってくれない?」と言われて、さすがに「受かったな」と思いましたね(笑)。

−−そりゃそうですよね(笑)。

吉田:その後一年間、井上尭之バンドの残った方々と僕も含めた新しいメンバーたちで活動しました。それが秋頃になったら、加瀬さんから「来年からお前がリーダーをやってくれないか?」と言われたんです。つまり、もっとバンドを若返らせたいと。それでドラムに上原ユカリを入れて、そのバンドを沢田さんが「エキゾティクス」と命名し『ス・ト・リ・ッ・パ・ー』というアルバムを作りました。でも沢田さんとは実は当時4年しかお仕事していないんですよ。

−−建さんというと「エキゾティクス」の印象が強かったんですが、沢田さんとのお仕事は4年間だったんですか。

吉田:そうですね。ジュリーのプロデューサーの木崎賢治さんに色々なことを教わって、「僕もいずれはプロデュースをできたらな」と考えていました。ただ、そうそうオファーが来るわけでもなく、木崎さんの下について勉強していたときに例の番組で審査員をやってくれないかと話が来て(笑)。最初、審査員を土屋昌巳がやっていたんですが、レコーディングの関係で出られなくなっちゃうので、1回代わりに出てくれと頼まれて出演したら「吉田建は言うことが面白い」と結局1年間出ることに・・・。

−−『イカ天』ですね(笑)。ちょっと辛口な雰囲気がよかったんじゃないですかね。

吉田:ちょっとどころじゃないですけどね(笑)。いまだに言われますよ。僕は本当のことを言った方が逆に優しいかなと思っていたんですけどね。それで番組をやっていた頃それに並行して泉谷さんがもう一回違うバンドをやりたいと作ったのが「LOSER」で、メンバーは村上”ポンタ”秀一、仲井戸麗市、下山淳に僕という非常にヘビーなロックバンドを作るわけです。これはとても面白かったですね。最近は割とクールにベースを弾いていますが(笑)、『火の鳥』や『国旗はためく下に』といった曲は演奏していると本当に熱くなるんですよ。泉谷さんとはもう一度やりたいですね。

−−プロデュース業が本格的になるのはいつ頃からだったんですか?

吉田:’88年にBOφWYが解散して、氷室京介の最初のソロアルバム『フラワーズ・フォー・アルジャーノン』を僕にプロデュースして欲しいというオファーが来るんです。実は布袋君とは泉谷さんのバンドで、ほんの短い期間ですが、一緒にやっていたんですよ。誰に言われたのか忘れちゃったんですが、「BOφWYの布袋っていうすごいギタリストがいて、建ちゃんとは絶対に合うから何かやった方がいい」と言われて、まだBOφWYがブレイクする直前だったので誘ったらセッションに来てくれて。布袋君と僕が身長も180以上あって、泉谷さんは小柄なので「お前らはタワーだな」と (笑)。ライブになると泉谷さんは客に隠れちゃうんだけど、布袋君と僕は頭一つ飛び抜けちゃうから、これはタワーズで間違いないなと(笑)。だから布袋君とマネージャーの土屋君は面識があったんですが、氷室君のことは全然知らなかったんです。

 もちろんそれ以前にも山下久美子さんとかプロデュースはしていましたが、氷室君の場合は確実に1位を獲らなくてはならないというプレッシャーがあり、いきなりそんなオファーが来て、かなり心痛でしたね(笑)。なにより布袋君に代わるギターを探さなくちゃならないから大変でした。最終的にギターを頼んだのがチャーリー・セクストンです。今チャーリーはボブ・ディランのバックでギターを弾いてますけど、ディランの最新作『モダン・タイムス』でも素晴らしいギターを弾いてますよね。

 そこからプロデュース業が少し展開できるようになりました。それでも別にマネージャーがいるわけでもないですし、事務所に所属しているわけでもない。電話一本待っているだけです。それは『LOVE LOVE あいしてる』の一時期を除いて、プロデビューしてからずっと変わりませんね。

 

7.素晴らしい音楽は未来へと受け継がれる

−−その後はやはり『LOVE LOVE あいしてる』での姿が印象に残っています。

吉田:『LOVE LOVE あいしてる』に出演するきっかけは、’95年かな、吉田拓郎さんの紅白歌合戦のバンド・メンバーとして演奏し、拓郎さんと初めて知り合ったことでした。そのときのバンドがすごくて、トランペット日野皓正、ドラム日野元彦、ギター渡辺香津美と石川鷹彦、ピアノ宮川泰、ウッドベース金沢英明、そこになぜかベース吉田建(笑)。それで「吉田拓郎、スーパーバンドで紅白登場!」とスポーツ新聞に出たんですが、そこに一人一人の顔写真が出ていて、それを見た母親から「お前はそんなにすごいのか?」と言われましたよ(笑)。

−−ミュージシャンはみんなそうですよね。紅白は田舎のおばあちゃんまで観ていますからね。

吉田:そうですよ(笑)。それで知らない親戚が増えちゃったり(笑)。それから先は『堂本兄弟』もやらせていただき、KinKi Kidsも4年前から生バンドでコンサートをやるようになって、そのバンマスに僕を指名していただき、今年も年末はずっとコンサートなんですが、還暦近い歳になってまで音楽に関わっていられるのは本当にありがたいことだと思います。

−−日本の音楽シーンの裏には建さんがいる感じですよね。

吉田:いや、そんな…、僕はかなり特殊な位置にいると思っています。純然たるスタジオ・ミュージシャンでもないし、アレンジャー専業でもないし、プロデューサーに特化しているわけでもないし、なんだろう・・・「吉田建」というキャラが求められたのかもしれませんね。

−−あと建さんは「バンドリーダー」「バンマス」という立場がすごく多いですよね。

吉田:確かに多くの現場でやらせて頂いていますね。どこにいっても最年長だからだと思いますよ。

−−『堂本兄弟』でも若いフロントを引っ張っている感じがあります。

吉田:先ずはきくちPのコンセプトを理解して、それを基にアレンジをするのですが、みんな僕のディレクションによくついてきてくれて本当に感謝しています。あの番組はリハーサルは当日だけなので、下準備は入念にやるようにしています。必ずひとりひとりにメールを送って、ディレクションしています。後ろを固めている屋敷豪太、浅倉大介、土屋公平、それに僕、あとトークにも参加している高見沢俊彦は音楽組ですが、それ以外は女優さんだったり、普段はピンで歌っている方がコーラスだったりするわけですから、そういったメンバーであの音楽を作るのは非常に大変なんですが、みんな本当に頑張ってくれて、しっかり結果を出していると思います。Kinki Kids、そして深田恭子ちゃんも時間がない中、一生懸命練習して、難しいギターやピアノをよく弾いてくれていると思いますしね。

−−建さんはあそこに参加している人たちを音楽に導いていますよね。

吉田:そんなに大それたなことをしているとは思いませんが、ある意味、教官みたいな所があるのかもしれませんね。自分は教育を受けていないのにね(笑)。メンバー同志、とても仲が良くて収録で会うのがみんな楽しいと言っています。

−−建さんは今日までずっと第一線で活躍されているわけですが、その秘訣はなんだとお考えですか?

吉田:秘訣などといっていいかどうかわかりませんが、もしそういうものがあるとするなら、目の前の仕事を絶対に投げないということじゃないかと思います。今までそれをしたことは一度もないと思いますし、「これでいいや」という放り出すような言葉を自分には絶対に言わないようにしています。自分の中でちゃんと落とし前をつけていないと嫌なんですよ。僕は内外の曲を聴いて自分なりの解釈でやってきたタイプで、イメージを具現化するのにものすごく苦労します。アレンジって、この曲をどういう質感でどういうイメージで作るかという考えがなければ、譜面にはできないと僕は思っているんです。確かに譜面をミュージシャンに渡して演奏すれば、それはそれで音楽ができますが、僕の場合は「こういうところに行きたいんだ」とイメージすることを大切にしています。一番気を遣うのは、テンポ、リズムの骨格、そしてイントロですね。

−−たくさんの人を動かす仕事ですから本当に大変ですよね。

吉田:それはアレンジャーさんもプロデューサーもみなさんそうだと思いますよ。ステージスタッフもそうですし、舞台監督もそうでしょう。ですから、自分のことをわかってくれるミュージシャンじゃないとスタジオ・ワークもなかなか難しいんですよね。みなさんもそうでしょうが、誰でもいいという感じでもないんですよ。

 また、プロデュース業というのは、こちらから「こうしよう」と提案することも多いんですが、プロデュースする側の僕も刺激を受けたいんですね。プロデューサーはそのアーティストにとってファースト・リスナーだという部分があると思います。アーティストが書いてきた元詞を見たり、その歌を最初に歌った仮歌を聴くことができる。それはものすごく得難い体験です。仮歌や元詞は具体的にCDになったり、印刷されないですけど、その原石を見る体験は非常に貴重だと思います。

−−例えば、どんなアーティストに刺激を受けましたか?

吉田:そうですね・・・トータス松本にはものすごく刺激を受けましたね。トータスは本当に奇抜な才能を持っていて、僕なんかとても考えつかないようなハモのラインや歌詞のアイデアを考えてきたりするんですよ。本当に魅力的なアーティストですし、プロデュースしながら「この男の心の引き出しは一体どうなっているんだろう?」と思っていました。それは僕の心をドキドキさせてくれる最高の魅力になってくるんです。

 アーティストになる理由ってやっぱりあるんですよね。僕たち、つまりプロデューサーやアレンジャーというのはアーティストとはちょっと違うんじゃないかなと思います。ここで言うアーティストという意味はシンガーという意味ですが、アーティストはアーティストであるべき理由があるからアーティストになっている、我々とは同じ音楽をやっていても違う次元にいるというか、あまりうまく言えないですけど…。それはKinKi Kidsの2人ももちろんそうですし、トータスもそうです。

 プロデュースをしているとシンガーの生理、気持ちを見失しないがちな時があるんです。例えば音楽理論的には合っていても彼らにとっては感覚的に歌いにくいということもあると思うんです。

−−建さんの音楽的興味は尽きないんですね。

吉田:そうですね、新しい感覚や価値観に出会うとドキドキしますね。時には色々不満というか疑問もありますけどね。例えば最近の男性アーティストはみんな歌詞が優しすぎるなってちょっと感じてます。女性の方が性根が据わっているような歌を歌っているような気がするんです(笑)。

−−確かにそんな感じがしますね。

吉田:もちろん男らしいバンドも数多くいますけど、メジャーどころでは優しい感じの人の方が多いじゃないですか? だからもう少し男らしい感じのアーティストが出てきて欲しいですね。もちろん僕は色々なアーティストがいることは素晴らしいことだと思ってますし、今は地に足がついたJポップの爛熟期だとも思います。また、10代の若者と僕のようなもうすぐ還暦を迎える人間が同じ曲の話ができるようになった。僕らが小学生のときに60歳のじいさんたちが聴いていたのは浪曲ですよ(笑)。僕がプロになったときのバンマスが32歳で、その人とはビートルズの話ができませんでした。そういう意味でもとてもいい時代になったと思います。

−−そう考えるとすごい時代ですよね。小田和正さんは60歳でアルバムチャート1位を獲られているんですからね。

吉田:そうですよ! 拓郎さんもすごいですけど、小田さんも矢沢永吉さんも本当にすごいと思います。70年代からやってきた人は本当にしぶとい!(笑) みなさんステージで駆け回ってますよ。

−−建さんの世代は一番色々な音楽から栄養をもらった世代でしょうから強いですよね。

吉田:今の子たちはJ-POPフォロワーだと思うんですが、それはやっぱり‘70年代ニュー・ミュージックの先駆者が本当にいいサウンド、作品を残したからこそだと思うんです。拓郎さんがおっしゃっていましたが「日本の音楽で影響し合っていない音楽はない」というんです。例えば、Kinki Kidsの音楽には『はっぴいえんど』が絶対に影響しているというか、そういう線は必ずあると思うんですね。

吉田 建79

−−日本の音楽シーンもしっかりと歴史ができていると。

吉田:日本はたかだか50年、アメリカはそれを200年やっているわけですから、アメリカのミュージシャンはすごいなと思います。日本も僕らの世代がいなくなって、今の20代が僕らくらいの年齢になると2世代入れ替わるわけですから、そのときにどうなっているかを考えるとワクワクしますね。また、主流でない音楽でも排他的にすることがないのが僕は嬉しいです。ギター一本の弾き語りに対して、みんな否定的な印象を持たないでしょう? こんなに豪華なシークエンスがいっぱいあって、そういうものを使った音楽が今は主流だと思うんですが、ギター一本の弾き語りも認めてくれるという懐の深さがリスナーにもできてきたんだなと感じますね。

−−建さんも少なくともあと10年くらいは軽く現役という感じですか。

吉田:そうですね。そういう機会をいただけけるのであれば、年齢に関係なくいくらでもやりたいです。「若者には負けないぞ!」みたいな意識は全然ありませんが、自分が理解できて体が反応できるうちはどんどんやっていきたいですね。

−−これからも建さんの生み出す音楽とベース・プレイを聴くのを楽しみにしています。本日はお忙しい中ありがとうございました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

 今回のインタビューでは、建さんの音楽の話をされるときの生き生きとした表情と、若手アーティストに対する厳しくも暖かい眼差しがとても印象的でした。建さんはインタビューの中で「”吉田建”というキャラが求められているのかも」と仰っていましたが、明るくオープンな人柄にはお話を伺っていても惹きつけられました。また、建さんのベテラン、新人問わないフラットな視点と音楽に対する好奇心、そして柔軟な姿勢が長きに渡って活躍されている秘密なのかもしれないと感じました。個人的に建さんにはまた泉谷しげるさんと熱いライブを繰り広げて欲しいと切に思います。建さんの今後の活躍に期待です。

 さて次回は、プロデューサー/アレンジャー/ドラマーの屋敷豪太さんのご登場です。お楽しみに!

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