第43回 梅津達男 氏 日本ミキサー協会(JAREC)理事長/レコーディングエンジニア

インタビュー リレーインタビュー

梅津達男 氏
梅津達男 氏

日本ミキサー協会(JAREC)理事長/レコーディングエンジニア

今回の「Musicman’sリレー」は、豊島政実さんのご紹介で、レコーディングエンジニアの梅津達男氏の登場です。ビクター入社から現在に至るまで絶えず第一線でご活躍される一方、現在は日本ミキサー協会の理事長としてレコーディングエンジニアという職業を取り囲む諸問題に取り組んでおられる梅津氏。ご自身のキャリアのお話から始まったインタビューは、エンジニアにとって「真に大切なこと」へと迫っていきます。

[2004年5月26日 / 世田谷区船橋 (株)ミキサーズ・ラボにて]

プロフィール
梅津達男(うめつ・たつお) 日本ミキサー協会(JAREC)理事長/レコーディングエンジニア


1949年 12月18日生。福島県郡山出身。
1968年 日本ビクター(株)入社。RVC録音部に所属。
1983年 フリーランスエンジニアになる
1986年 Sound Valley Studio設立とともにチーフエンジニアを務める。
1987年 DELTA Studio 設立に伴いチーフエンジニアを務める。
2003年 DELTA Studio 解散。
2003年 (株)ミキサーズ・ラボにスケジュールを預けるとともに取締役顧問となり現在に至る。
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1999年〜 日本ミキサー協会設立とともに理事長に就任。
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<主な作品(順不同)>
高橋真梨子、吉田兄弟、川井郁子、岩崎宏美、郷 ひろみ、KAN、ソルティーシュガー、チェリッシュ、はっぴぃえんど 他多数

 

  1. ビクター築地スタジオへの道のり
  2. 内沼映二に追いつきたい!〜切磋琢磨のビクター時代
  3. 自己責任としてのフリー
  4. ホームグラウンド「DELTA STUDIO」誕生
  5. ドラマと歌が同時にヒット!織田裕二の大ブレイク、松本晃彦との出会い
  6. 緊張感の持続といい演奏を引き出すエンジニアの力量
  7. 自分の目指す音を捉えよう!

 

1. ビクター築地スタジオへの道のり

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−−前回ご登場の豊島政実さんとは、どのような出会いだったのですか?

梅津:僕が最初に就職したのは日本ビクターなんですが、入社後に2ヶ月くらい研修をして、配属先にスタジオを希望して、そして運良くスタジオに入れたんです。その当時、スタジオは築地にあって、メンテナンスは音研(日本ビクター音響研究所)がやっていたんです。それで豊島さんがAMPEXを修理に来ていたりして、それが最初の出会いですね。僕が18才くらいで、まだ詰め襟を着て会社に行っていたときです(笑)。

−−そこからのお付き合いが長いですね。

梅津:そうですね。スタジオの機械もそうですし、スタジオそのものもそうです。青山スタジオが出来て、その改修とか、やはり豊島さんにお願いして、「ああしたい、こうしたい」というわがままを色々聞いてもらいました。

−−豊島さんからだと、梅津さんは教え子じゃないですけれど、同僚という感じなのですか?

梅津:豊島さんは大先輩なので、「同僚」なんて言ったら大変失礼なことになってしまいます。ただ、一緒に仕事をすることは多かったです。

−−ところで、ご出身はどちらですか?

梅津:福島県郡山市です。僕が住んでいたところはわりと市の中心でした。

−−ご兄弟はいらっしゃるんですか?

梅津:僕は8人兄弟の末っ子です。僕は工業高校に行ったのですが、中学の時に父が亡くなったものですから、早く働きたいという気持ちがありまして、卒業後は放送局に行きたかったんです。でも、田舎の工業高校ですからそういう就職口がなくて、そんな中、日本ビクターから求人があったんです。その当時、日本ビクターはカラーテレビの工場を作ったばかりで、電気系の工業高校生を150人くらい採用した年なんですよね。

−−梅津さんのビクター入社は何年になるんですか?

梅津:昭和43年ですから、1968年です。

−−ビクター入社時からミキサー志望だったのですか?

梅津:「ミキサーになりたい」という気持ちは、ビクターに入ったときからありましたね。

−−それはいつ頃から思っていらしたんですか?

梅津:小学校5年の時に、子供児童館に遊びに行っていて、アマチュア無線をやっている方が催し物をやってくれたんです。その方が放送局を紹介してくれて、見学に行ったりしていました。あと、中学校2年の時にNHKで「放送局の仕事」みたいな番組を見たんです。その時に副調整室でMIXをしている姿を見て、憧れちゃいまして、それで放送局に入りたいなと思っていたわけです。

−−それは「音楽」というよりも、「放送」に対する憧れだったんですね。

梅津:そうですね。わりと技術関係に対する憧れでしたね。

−−ちなみにその当時、音楽はお好きだったのですか?

梅津:子供の頃から好きは好きだったんですけど、別に楽器をやっていたわけではなくて。まぁ、小学校の頃にハーモニカを吹いていたぐらいで(笑)。ただ、小学校6年生の頃 合奏団に入って、その合奏団が日本一になったような合奏団だったんですよ。でも、中学校に入ったときにそのままブラス・バンドに入るのは何か嫌で、結局入らなかったんです。僕はビートルズ世代ですが、「このグループが好きだ」といった具合に、深くのめり込みはしなかったです。

−−ビクター入社後、最初の配属先はどこだったのですか?

梅津:配属といいますか、最初に導入訓練があって、工場で研修しました。僕はラジオ事業部で研修をしたんです。ビクターの安いラジオ付きのプレイヤーのキットを買わされて、作るみたいなことをしましたね(笑)。

−−その後、配属が決められるわけですか。

梅津:そうですね。その当時スタジオの部門は「レコード事業本部 業務部録音課」とかそういう名前だったんです。でも、そこがそういうスタジオの部署だということは分からないわけですよね。それで人事の方と面談したときには、「東京スタジオに行きたい」と言ったんです。

−−放送局ではなく音楽のビクターだったので、そのまま音楽のミキサーの道へ進むようになったということですか?

梅津:そうですね。配属のとき敵が増えるのも嫌だったので(笑)、「東京スタジオに行きたい」とあまり口に出しては言いませんでしたが、でもその時に6人くらいスタジオに行きたいという人がいましたね。それで、僕も含めた6人が「ちょっと来なさい」と築地スタジオに呼ばれて、確か聴力検査とか、楽器の名前とか、ステレオで聞いてレベルの差とか、低音をブーストした、してないの差とか、そういったテストをやったんですよ。

−−耳の感性に対するテストといった感じですね。

梅津:まぁ、判断できるかということでしょうね。それでスタジオに配属になった1人が、運良く僕だったんです。僕なんか田舎の子なのに対して、周りの人たちは「若林(駿介)さんの本を読んでいます」とか、そういう人がいるわけですよ。ですから、そのテストをやった帰り道は結構暗い気持ちで、寮に戻りましたけどね(笑)。

−−でも、一番いい感性を持たれていたわけですよね。

梅津:感性というよりは、楽器の名前を結構知ってたから、意外とテストの点数が良かったとか、そんな感じだったんじゃないですかね。

−−それにしても、150人も採用となると入ってからが大変ですね。希望の部署に辿り着くまでが…。

梅津:3つぐらいまで希望を書くんですけどね。

−−ちなみに残りの二つはどのような希望だったんですか?

梅津:放送機器の関係と、実習へ行っていたのでラジオ関係です。放送関係のあるところに行きたいと思ったんですよね。でも、工場にいるときは「田舎の電気屋さんになったほうがいいかな?」と思ったりしました。

 

2. 内沼映二に追いつきたい!〜切磋琢磨のビクター時代

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−−では、音楽に深く関わるようになるのは、ビクターに入ってからということですね。周りには刺激的な方々がいらっしゃるわけですよね。内沼さん然り。

梅津:そうですね。3月に入社して、スタジオに配属になったのが5月だったんです。で、RCA事業部が邦楽を制作するということで、内沼さんがRCA事業部に入ったのが、その年の12月だったと思います。内沼さんは僕が右も左もわからないときに、もう大ベテランで、凄い人でしたね。

−−内沼さんとは何年一緒だったんですか?

梅津:RCAが邦楽をやり出し、内沼さんが録音課に移られ、それでRCA事業部が独立してRVCになったときに、内沼さんはそちらの録音課長ということで移ったので、それまでの期間ですから、4年とか5年だったと思うんですけど。

−−最初は今で言うアシスタントをされて、だんだんビクターのアーティストを手がけていったわけですか?

梅津:僕がスタジオに入ったときには、4人のエンジニアがいらっしゃったんですけど、皆さんベテランで、レコーディングはワンマンだったんです。例えば、スタジオのセッティングとか大変ですよね? そういう時には朝にその4人の方々でセッティングしてしまうわけです。

−−それですと、新人はなかなか仕事をさせてもらえませんね。

梅津:僕が入った頃、新人は「1ヶ月スタジオにつきなさい」、「1ヶ月メンテナンスをしなさい」、「1ヶ月テープの編集をやりなさい」と指示されて、4ヶ月目からは「マイク一本からレコーディングを始めましょう」と計画を立ててくれたんです。

−−レコーディングにはつけてくれないんですか?

梅津:「1ヶ月スタジオにつきなさい」というときは、朝から晩まで築地の第1スタジオに入りっぱなしです。でも、ベテランのエンジニアの方々は、全部自分で出来ちゃうんで、別に新人を頼りにしようと思っていませんから、「ちょっと手伝って」とか「あれやって」「これやって」と頼まれる中で、教わるというか。あまり教わるという雰囲気もなかったんですが(笑)、まぁ、見てなさいという感じでした。

−−初仕事は覚えていますか?

梅津:おそらく尺八のソロですね。確か山口五郎さんという方で、教材用のレコードで、「尺八を録りなさい」と言われました。曲名は「鹿の遠音」で、それはステレオ録音だったんですが、何せ尺八一本ですから(笑)、「どうしたらステレオなんだろう」ということもわからずマイクを立てて、という感じでしたね。距離感も全然わからなかったので、録ったものを聞いてもらったら「本当に遠いね」と言われました。確かマイクを3メートルくらい離して録った憶えがあるんですよね。そんな失敗の連続をいっぱいやって、それから色々教えていただいたという感じですね。

−−その尺八のソロはレコードになったのですか?

梅津:教材用のレコードになりましたね。マイク一本で録るナレーションとか、教育物みたいなものから始めて、その後にフォーク・ダンスとか軽い編成の録音をやるようになりました。

−−その頃の機材はどのような感じだったのですか?

梅津:内沼さんの話にもありましたが、ビクターは6CHでしたね。

−−その6CHというのは面白いですよね。

梅津:特注したんですよね。3CHから4CHになって、「はて、次は何CH?」といったときに、3の倍数で6を選んだと思うんです。僕が入ったときには6CHのテープレコーダーがスタジオに1台とトラックダウン・ルームにありましたね。

−−その当時、他のレコード会社のことはご存じでしたか?

梅津:あまり僕には(情報が)入ってこなかったですね。ビクターの中では6CHだったということだけで。他のスタジオは4CHに行ったんじゃないかなと思いますけどね。ビクターで4CHで録音するということは、僕はなかったですね。

−−3CHから6CHに行ったわけですね。

梅津:でも、世の中は4CHから8CHに行きましたからね。

−−エンジニアとして最初に録音したアーティストは誰ですか?

梅津:一番最初にビクターでやった仕事でヒットしたのがソルティー・シュガーの「走れコータロー」だったんです。あの頃ってフォークソングが流行った時代で、あれは8CHで録ったんですけど、自分としてはあまりバランスが良くないと思ったテイクを、みんなが「いい、いい」と言っちゃって、それが売れちゃったんですよ(笑)。Cメロのハモのバランスがとっても悪いんです。その頃ヒット・ソングのインスト盤というのがあって、アレンジャーがそれを聴いて、ハモのフレーズが大きくなるように書いてくるわけです。で、メロはサックスとかがやるんですけど、でかすぎるハモのパートをクラリネットがガンガンやるわけです(笑)。そういう失敗ばっかりでしたね。そのインストの仕事が月に1度くらいありました。それは割と気楽に出来たわけではないんですけど、歌ではないんで、練習になりましたね。場に慣れるというのもありましたし。

−−曲がヒットするとミキサーとしては気分が良かったんじゃないですか?

梅津:そうですね。でも録音課も人を採るようになって、みんながアーティストをやるようになりましたし、その時期は出せば売れるというような雰囲気がちょっとあったんですね。だから「エンジニアで誰が売れている」というわけでもなく、レコード会社に入って、エンジニアをやっていれば、ヒットソングに関わるという流れがありましたね。

−−他にはどのようなアーティストを手がけられたんですか?

梅津:チェリッシュとかフォーク関係をやって、あとは岩崎宏美さんですね。その頃から筒美京平先生とか、川口真先生といった大御所と仕事をするようになっていきました。

−−内沼さんは「筒美京平さんと仕事をしてとても勉強になった」とおっしゃっていたのですが、梅津さんにとってそういうミュージシャンの方は誰になりますか?

梅津:当然、岩崎宏美さんのときは筒美先生の最新のアレンジが来ますから、勉強になるという部分も大変あったんですけど、それ以前に緊張していましたね。当初はキーボードも、生ピアノも筒美先生自身が演奏されていたんですよ。だから凄い緊張の中で録ってましたね。で、一言「普通のバランスで聞かせてくれる?」とか言われて、「精一杯やったつもりが…」と思ったり(笑)。そういう中で揉まれていったという感じですね。ですから、録音で刺激を受けたっていうのは、そういった先生方の与えてくれたチャンスもあるし、あと内沼さんとかが天才的なバランスをとってましたから、それを間近で見て真似たりしながら、少しでも追いつきたいなと思いながら頑張っていたという感じですね。

−−内沼さんの他に影響を受けられたエンジニアはいらっしゃいますか?

梅津:もうお亡くなりになったのですが、モウリスタジオを作ったときの最初のチーフ・エンジニアである関口東司さんという方が当時ビクターにいらして、僕がビクターに入って3年くらいで辞められたんですが、それまではすごく可愛がってもらいました。

−−築地スタジオから青山スタジオへ移る変わり目で、梅津さんが手がけられたアーティストでいうとどの辺になるのですか?

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梅津:ソルティーシュガーは青山で録りましたから、19才で録って20才くらいで売れて、入社してから2年くらいで青山に移りましたから、どの辺だろう?

−−では、青山スタジオで録った最初って覚えてますか?

梅津:ちょっと記憶にないですね。ただ覚えているのは、岡林信康を録れと言われて、そのときのバックバンドが「はっぴいえんど」だったんですよ。で、「アシスタントは誰がいい?」って課長に言われて、僕はペーペーでしたから当然自分でやろうと思っていたんですけど、そう言われたので「内沼さん」って答えました(笑)。

−−本当ですか!?

梅津:そうですよ(笑)。内沼さんについてもらったんですよ。

−−それはどういうお気持ちでご指名されたんですか?

梅津:いや、教わろうと思ってですね。

−−面白い話ですね(笑)。

梅津:「ピアノに音が被る! こんなに被っちゃ駄目だ!」って、内沼さんがピアノにカバーをしたり(笑)。

−−全然アシスタントじゃないですね(笑)。でも、「アシスタントは内沼さんで」と言って、「冗談じゃない」ということにはならなかったんですか?

梅津:ならなかったですね。あの頃は和気あいあいという部分もあったし、内沼さんとはレコードを聴いて「あれがいいよ」「これがいいよ」「この音どうするんだろうね」というようなことを、一緒にやっていましたからね。

−−内沼さんとは、結構楽しいご関係だったわけですね。腕の磨き合いといいますか。

梅津:面白かったですね。結構いたずらをやったりとかもしましたよ。ラージ・スピーカーとスモール・スピーカーの出力を変えておいて、「気がつくかな?」とか(笑)。

−−ちなみに内沼さんはすぐに気づかれたのですか?

梅津:内沼さんは気がつかずに、トラックダウンしてるんですけど、「キックがやたら歪むなあ」とか言ってましたね。それで30分くらいして「やられた!」って言ってましたね(笑)。

−−梅津さんはその当時はスタジオに入りっぱなしの状態だったのですか?

梅津:そうですね。当時トラックダウンといっても、ディレクターには最後に聞きに来てもらうわけです。制作部も同じビルにありましたから、「出来た頃に行くよ」みたいな感じなんですよ。今でもそうですけど、ディレクターの都合が悪いと「これお任せ」みたいな感じなんです。だから、ヒット曲のインスト物なんかは、1日とかでアルバム全部をトラックダウンするんですけど、16CHとか8CHですから出来ることはそんなに多くはないんですよね。でも、僕なんかはまだ下手な駆け出しの頃ですから、時間がかかるので、夜まで作業していたんです。そうすると上で作業をしていた内沼さんが、自分の作業を終えた後に覗いてくれたりしてました。

−−内沼さんは作業が早いと言われますけど、周りにおられた方も早くなったとかそういうことはなかったんですか?

梅津:それはないですね。内沼さんは天才だと僕は思っていますから。

 

3. 自己責任としてのフリー

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−−’83年にフリーになられていますが、それはどういったいきさつだったんですか?

梅津:青山スタジオに移って14年目で改装しようという話になって、その時も豊島さんにお世話になるんですが、結構大きな改装で、その改装のまとめを僕がやったんです。その後、人事面と言ったらなんですが、そういった管理職的話が徐々に来るようになったんですね。そういうことが自分の中に少しずつストレスになっていって、「この先何年エンジニアをやるのかな?」と考えていたんですけど、先輩のように管理職になって現場を出来なくなってしまうのが、すごく寂しくて、「基本的にエンジニアはいつまでもエンジニアであるべきかな」と思ったんです。マネージメントはマネージメントが出来る専門の人がやったほうが上手くできると思っていましたし、エンジニアが管理職になったからって、優秀な管理職になれるかっていうと、僕は違うと思っていましたから、その中で「自分は10年後どうなるんだ?」と考えたときに、「自分に責任を持てるかな」と生意気なことを考えて、フリーになろうと思ったんです。

−−ビクターで15年目に決意されたと。

梅津:一人になろうと、一人でやってもいいんじゃないか、と考えたんです。

−−フリーになってからマネージメントはご自分でやられていたんですか?

梅津: 全部自分でやっていました。

−−それまでご関係があった事務所やレコード会社を挨拶して回ったりなされたのですか?

梅津:ちょっとずるかったんですけど、当然アルバムの仕事が途中のものがあって、「その仕事どうしますか?」って各ディレクターに聞くと、「そのままやれば?」みたいな感じになって、何の抵抗もなく次の日からまたビクタースタジオに行っていたりしていましたね(笑)。

−−(笑) もう内沼さんはフリーになられていたわけですよね。

梅津:そうですね。もう日音スタジオはありましたね。

−−その当時、エンジニアが独立していくという流れであるという認識は会社にはありましたか?

梅津:引き留めてもしょうがないのかな、という感じでしたね。

−−その当時、フリーのエンジニアというのは今ほど多くいませんでしたよね。

梅津:今のような環境ではなかったですけども、わりといらっしゃいましたね。吉野(金治)さんもずいぶん前にフリーになっていて。

−−完全にお一人でやられていたのは、何年ですか?

梅津:3年か4年くらいまるっきり一人でしたね。

−−もっと早く独立すれば良かったと思いましたか?

梅津:それは全然思わなかったですね。内沼さんがビクターから独立したときに、自分にそれだけの力があるかどうかすごく疑問でしたから。そんなに自信もなかったし、僕が一人でやったら内沼さんのようには上手くいかないだろうと思っていたんですよ。だけど、自分の中のストレスみたいなものがあったので、自己責任みたいな感じでフリーになったわけです。

−−そのストレスはフリーになってからはなくなったんでしょうね。

梅津:なくなりましたね。ちょっと時間が出来て、その年に豊島さんとニューヨークに行ったんですよ。当時、豊島さんは小杉理宇造さんのスマイル・ガレージを作ろうとしていて、「そのスタジオをどういう風にするか?」ということで、ニューヨークのパワーステーションを見に行くことになって、豊島さんが「行くけど、お前行くか?」と僕を誘ってくれたんです。本当は豊島さんと僕と、ソナさんの設計士の方と一緒に行く予定だったんですけど、たまたまソナさんが行けなくなってしまって、結局豊島さんと2人だけのニューヨーク旅行になったんです。豊島さんはとても気さくな方ですから、どこへ行ってもノーコンタクトで、スタジオの扉をトントンと叩いて中に入って行って、色々見てきてしまうんですよね(笑)。

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−−豊島さんはスッと入って行けちゃうんですね(笑)。その旅行は楽しかったですか?

梅津:とても楽しかったですね。4泊5日くらいだったと思うんですが、スタジオ視察以外にもミュージカルやコンサートを見たりしましたね。

−−その頃のお仕事で印象に残っているものはありますか?

梅津:飯島真理さんですね。教授(坂本龍一)が全部アレンジをやったんですよ。確かDX-7の出始めの頃で、まだ一般に売っていないときだったと思うんですよね。それでヤマハが教授のところにDX-7を持ってきて、試しに使ってみて、それでもう本番という感じでした。’83年くらいですかね。

−−DX-7の音は新鮮でしたよね。

梅津:そうですね。マリンバの音が良かったですね。で、フリーでしたから、飯島真理さんをやったときにはレコードだけではなくて、一年くらい過ぎてから 「一緒にツアーに出ない?」と言われて、PAの方もちょっとやったりしたんですよ。

−−PAもやられたんですか?!

梅津:メンバーとPAエンジニアが色々あったみたいで、それでディレクターが「やってみないか?」と言ってきたみたいなんです。

−−それがPA初体験ですか?

梅津:そうです。

−−全然勝手が違うんじゃないですか?

梅津:全然違いますね。最初は酷かったですね(笑)。ハウリングの大会みたいな感じで。PAの人は「この音でハウったら、ここ」みたいな周波数的な感覚を持っているじゃないですか? まだ僕にはそういうものは備わっていない頃ですから、「どうしよう…」と思いましたね。でも、後半くらいから面白くなってきたところもあったし、逆に辛くもなってきたんですが…(笑)。

−−その後、PAをされる機会はあったのですか?

梅津:調子に乗って岩崎宏美さんのPAも、ちょろっとやったんですけどね。

−−でも、両方される方は珍しいですよね。

梅津:そうですね。例えば、大阪にツアーで行ってて、朝の新幹線で帰ってきて、13時からレコーディングで、また3日後に九州へ行ってみたいな話になると、だんだん辛くなってきて(笑)。重いものを持つと腰が痛くなってきちゃって、「これは無理かな?」と思いましたけどね。でも、いい体験をさせてもらいましたね。

 

4. ホームグラウンド「DELTA STUDIO」誕生

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−−’86年にSound Valley Studio設立とともにチーフエンジニアに就任されていますね。

梅津:サウンドバレイが出来たときに、ミキサーズ・ラボがエンジニア周りをやるということで、内沼さんが中心になってスタジオを立ち上げる中で、あまり色の付いていないエンジニアをチーフにしたいと言われて、サウンドバレイに入ったんです。

−−その時はミキサーズ・ラボの社員だったのですか?

梅津:サウンドバレイに入ったときに、実は1年だけミキサーズ・ラボの社員だったんです。その後、すぐにデルタスタジオに移ったので、1年間だけだったんですけどね。

−−サウンドバレイは1年間だけだったんですか。

梅津:そうですね。1年でミキサーズ・ラボを辞めまして、デルタスタジオで16年ですね。

−−デルタスタジオは長いですね。ほぼビクター時代と同じということですものね。

梅津:同じになっちゃいましたね(笑)。でも、アーティストに関しては高橋真梨子さんとかビクター時代からずっとやっていましたし、僕がどこへ行こうとそういう仕事は来ていましたから、エンジニアリング的にはどこに行っても同じだったみたいですね。

−−サウンドバレイからデルタスタジオへ移られた理由は何だったのですか?

梅津:サウンドバレイの出資者とデルタスタジオの出資者の方が、懇意なところがあって、デルタの出資者がビルの中にあったアスレチック・ジムを辞めるというので、サウンドバレイの出資者の方が「スタジオをやらないか?」「やらないならサウンドバレイに貸してくれないか?」という話があったらしいんです。それだったらスタジオをやろうということになって、「新しいスタジオをやってくれないか?」と僕のところに話が来たんですね。

−−ということはデルタスタジオは設計の段階から関わられているんですか?

梅津:そうです。その時も豊島さんにお願いして(笑)。

−−どのようなスタジオにしたいと思って、デルタスタジオは作られたのですか?

梅津:設計の人が出してきた最初のプランというのが、ちゃんとリズムが録れて、スタジオが結構な大きさで、調整室が凄く狭いプランだったんですけど、場所的にもそんなに恵まれた場所ではなかったですから、そんなに時間売りができるかな? と思ったんです。それでアルバムのトラックダウンを落ち着いて出来るスタジオにしようと思ったんです。リズムはリズムの録れる広いスタジオで録ればいいと思っていましたしね。

−−確かにデルタスタジオと言えば、「トラックダウン重視」というイメージでしたよね。

梅津:そうですね。歌がキチンと録れる環境があって、ピアノがあって、音程がしっかりとれる環境があって、コントロール・ルームがしっかりしているという感じですね。

−−コントロール・ルームはかなり広かったんですか?

梅津:そんなに広くもないんですけど、横幅は結構ありましたね。6メートルくらいありました。奥行きはビルの関係で取れなかったんですけどね。

−−梅津さん自身も納得のいくスタジオが出来たわけですね。だからこそ16年やれたということですか。

梅津:そうですね。まぁ、デルタスタジオに帰ってくれば、よそでわからない音も自分の中では判断が出来た感じですね。

−−完全にホームスタジオだったわけですね。

梅津:はい。デルタスタジオがあることによって、仕事をする上で非常に助かりましたね。

−−デルタスタジオはいつまであったんですか?

梅津:去年ですね。色々な話が重なって、去年デルタスタジオの入っていたビルを解体ということになってしまったもんですから。そのビルが残るのだったら、そのまま借りようかなと思ったんですけどね。

−−ビルが壊されるときは、やはり感慨深いものがありましたか?

梅津:そうですね。やっぱり人も育っていった部分もありますしね。

−−16年の間には、相当人も育てられたわけですよね。

梅津:いや、ミキサーズ・ラボみたいに一杯人は採れなかったので(笑)。たぶん10人くらいだと思います。

−−現在ご活躍されている方は?

梅津:今自分でProToolsのスタジオを作っている松本大英さんとか、植月 隆さんですかね。あと最後の5、6年、山口州治さんが所属していました。

−−山口州治さんとはビクター時代、一緒に仕事をされていたんですか?

梅津:そうですね。山口州治さんは僕のアシスタントをやってくれたりしました。山口州治さんが入ってきたときに僕はパンタ&HALとかをやっていたんですけど、プロデュースは鈴木慶一さんがやっていたので、その関係で彼もロックの方に行く、みたいな感覚が出来ていきましたね。

−−山口さんは先鋭的なロックをよく聴いていましたよね。

梅津:そうですね。わりとデルタスタジオは音がわかりやすかったということで、以前から彼は結構使ってくれていたんですよ。それで「じゃあ一緒にやろう」ということになったんです。

−−デルタスタジオに関しては運営も任されていたんですか?

梅津:最初はやっていなかったんですが、最後の5年くらいは運営もやってましたね。

−−もうエンジニアだけでは済まされなくなったんですね(笑)。

梅津:そうですね(笑)。

−−年を取るごとに負わなければいけないものが出てくるんですかね。

梅津:そうなんですかね(笑)。ビクターを辞めたときの意気込みはどこに行ったんだ! みたいな感じですね(笑)。

 

5. ドラマと歌が同時にヒット!織田裕二の大ブレイク、松本晃彦との出会い

−−そして現在は、日本ミキサー協会の理事長も務められていますね。

梅津:これも内沼さん経由なんですよね。何で僕がやっているのか分からないところもあるんですが。独立したエンジニアはスタジオ協会とはまた違った形でものを見るということと、エンジニアの地位向上というか、社会的にそんなに知られている職業ではないし、そういったことを広めていこうということも含めて、ミキサー協会を立ち上げようという話が出てきたわけですね。で、発起人として内沼さんを始め色々な方々が名前を連ねて。

−−日本ミキサー協会というのは社団法人 日本音楽スタジオ協会の中から話が出てきたんですか?

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梅津:だと思います。確かにミキサー協会の趣旨は理解できる。ごもっともだし、でもそういったことは誰かがやればいいと思っていたんです。が、改めてよく考えたら「もうそんな年かな?」 と思いましたし、みんながまとまるために都合のいい人ということで、推されたと思うんです。それで「やってもいいかな?」と思って、引き受けたわけです。僕は身勝手なものですから、そうしたことは個人で考えればいいと最初は思っていたんですが。

−−そこで逃げないところが素晴らしいです。

梅津:逃げたい部分もありますけど、今逃げても何も始まらないですよね。やるならやるで、きちんとやらないといけませんしね。

−−日本ミキサー協会の趣旨に関して、ご説明していただきたいのですが。

梅津:先ほども言いましたが、エンジニアの社会的な地位向上というか、隣接権などを含めた権利的なものを取れないかということと、僕は今ミキサーズ・ラボという組織の中で活動していますから、ミキサーズ・ラボから情報は得られるわけです。でも、本当に僕が一人で活動していた時というのは展示会とか、催し物からしか情報を得られないわけです。エンジニアが活動するための情報をフリーのエンジニアに提供できる形にならないか? フリーのエンジニアが何か聞きたいときに聞ける形を作れないか? エンジニアの輪と言ったらおこがましいところもあるんですけど、そういったものの中心に成ることを目指して活動しています。

−−孤立するよりも、そういう場があるんだったらということですね。

梅津:そうです。基本的にエンジニアというものは個人で行動するものだと思うんです。でもそれだけでは進まないこともあって、何かを欲しいときには、個人の力というのはどうしても薄くなってしまうし、微力だと思うんですよね。それをまとめるところが一つあったらいいんじゃないかなと思います。それにミキサー協会がなれたら、価値があるんじゃないかなと思います。

−−現在会員は何人いらっしゃるんですか?

梅津:86名です。

−−具体的にはどのような活動をされていらっしゃるんですか?

梅津:理事の方を含めて、皆さんお忙しい中、ボランティアでご協力いただいていますし、僕自身もアルバムの制作に入ってしまいますと、なかなか時間が割けないので大変なんですが、毎月定例会という形で、皆さんで集まって、会の運営の相談をしています。あと、隣接権といった問題もあるのですが、それに対しては焦らず、皆さんにご理解を頂ける時期が来た時に初めて取れることだと思いますので、それまで我々が情報提供や意見交換をする場を提供したりといった活動をしていかなくてはいけないと思っています。また、日本プロ音楽録音賞を昨年から日本音楽スタジオ協会と日本ミキサー協会の共催でやらせていただいて、審査員や運営といったところでお手伝いしていこうと思っています。

−−日本プロ音楽録音賞というのはどういう形で選ばれるのですか?

梅津:大きく分けて、CDパッケージメディア部門とニュー・パッケージメディア部門、それと放送部門の3部門あるんですが、放送部門の方は、NHKや民放連から選出いただいた審査員で構成し、パッケージメディアに関しては、レコード協会スタジオ協会ミキサー協会の中で、現役でエンジニアをされている経験を積まれた方の中から12人ぐらいで審査をしています。それでノミネートに関しては、2年前までは自分でエントリーするという形式だったのですが、それを推薦という形式も取り入れました。意外とエンジニアって照れ屋な人が多くて、自分で自分の事を褒めるなんてもってのほかというところがあるじゃないですか?(笑) ですからそういったところを外してあげて、出来るだけ制作側から、ないしは一緒にやったアーティストからの推薦で賞が盛り上がっていったらいいなと個人的には思っているんですけどね。

−−もっと輪を大きくしていきたいですよね。

梅津:そうですね。どうしてもエンジニア同士の話になってしまいますからね。

−−制作側を巻き込む形になるといいですよね。

梅津:そのためには皆さんにご協力願わないとならないわけですが、この賞自体を知らない制作者の方々もたくさんいらっしゃると思います。レコード協会さんを通じて応募用紙を回すんですけど、制作者だけの会みたいなものは少ないですから、そういった応募用紙もスタジオを持っている録音部と呼ばれるところに伝わることが多いので、制作者というよりはエンジニアが一年間自分のやったもので一番良い作品を出すようになってしまっているんですよね。ですから、そこら辺の仕組みも少しずつ変えていかないといけないのかなと思っています。

−−仕事がどんどん増えていらっしゃいますね。

梅津:そうですね。やらなくてはいけないことは、やり出すとどんどん出てきますね。
 

 

6. 緊張感の持続といい演奏を引き出すエンジニアの力量

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−−若い才能がどんどん出てくるこの世界で、長く現役で活動をされている梅津さんですが、その秘訣は何だと思われていますか?

梅津:僕は基本的に天才ではないし、自分のことは努力型だと思っているんです。今でもフルオケを録るというときは、とても緊張します。そういう緊張感と「これを誰かがやったら、どう音を作るのだろう?」ということに対する興味はすごくありますね。その中でどうやって自分が音を作らなくてはいけないのかというのは、必然的にベストを尽くせる自分を作っていくということに繋がっていくと思います。それはトレーニングでもあると思うんですけど、同じ事を一回でやれる人って本当に少ないと思うんです。MIXでも何でもそうなんですけど、自分で納得がいかないんだったら何度でもやればいい、100回やって出来るんだったら100回やればいいと思うんです。でも100回やれば次に同じ事をやるときには、たぶん10回で出来るんじゃないか? という組み合わせといいますかね。大切なのは自分の中で納得する形、納得できる形に自分を持っていくということを続けることなんじゃないかなと思うんですよね。

−−1つ1つの仕事に対して真剣勝負という気持ちを持ち続けられているということですね。

梅津:自分ではそのつもりなんですけどね。

−−その持続力が普通の人にはないものなのかもしれません。

梅津:「これが面倒くさいな」とか、「これは辛いな」と思ったら、その人はもうやめた方がいいんでしょうね。

−−つまり仕事に半端なものがないってことですよね。

梅津:まぁ、どの仕事もその時の自分のベストだと思っていますけどね。でも、一日過ぎちゃうと「あそこをこうすればよかったな…」という反省は残るんですけどね。そうしたらこの次はこうしようという目標が出来ますしね。

−−エンジニアに限らず、長く活躍される方は同じような緊張感を保ち続ける事が出来る人たちなのかもしれませんね。

梅津:緊張感といいますか、臆病なところもあるのかもしれませんけどね(笑)。でも、一生懸命やっていると、ミュージシャンもノッてくれるというか、逆にそっちからの評価もよくなりますよね。

−−それは一番大事なことかもしれませんね。エンジニアの腕というのもありますが、いい演奏を引き出すということに対するエンジニアの役割は大きいですよね。

梅津:はい、大きいと思います。例えば、単純に歌を録るといっても、歌う人というのは基本的に歌が上手い人なわけですから、自信を持ってスタジオに来ているんでしょうけど、歌うという行為そのものは恥ずかしいじゃないですか?(笑)、照れるじゃないですか? だけど照れない形を作ってあげないといけないと僕は思うんです。

−−歌手の目の前に立っているマイクが、実はエンジニアですものね。

梅津達男5

梅津:「楽に歌っていいんだよ」、「失敗してもいいんだよ」と受け止めるといいますかね。

−−そこがエンジニアの腕って感じですね。

梅津:腕というか…僕なんか本当に思うんですけど、エンジニアは5年もやれば基本的な技術力というのは変わらないと思うんですよ。

−−それ以外の部分の差が、実はすごく大きい。

梅津:そうですね。やっぱり、「やさしくないといけない」「素直じゃないといけない」かなと思います。あんまり音程が取れない人に「音程が取れないね」と言ったところで、音程が良くなるわけじゃないんですよ。じゃあ、音程が取りやすい形というのを考えてあげればいいだろうし、一瞬でも気楽に伸び伸びと声が出せたら、音楽は出来てくるのかなと思いますね。

−−そういった様々な場面に対応するということは、若い人にはなかなか難しいのかもしれませんね。

梅津:でも、そういうふうに自分が見せている部分もあるから、ずるいことはずるいかもしれないですね(笑)。安心感を植え付けちゃうと楽かもしれません。

−−それはずるいとは言えないでしょう(笑)。

梅津:そうですかね(笑)。

 

7. 自分の目指す音を捉えよう!

−−ハードディスク・レコーディングが主流となった現在、スタジオとエンジニアの関わり方についてどのようにお考えですか?

梅津:CDがなかなか売れなくなってきたというところから問題が始まっているのかなと思うんです。アナログからデジタルになったことによって、音が素晴らしく良くなったのかな? という疑問もあるんですが、アナログを完璧に調整し、全てを良い状態に持っていくという労力は大変なもので、それに対してデジタルというのはすごく楽な、便利な機械として登場したわけです。で、ソニーのヨンパチ(PCM-3348)に代表されるデジタル・テープレコーダーというのは、素晴らしい音に進化していったと思うんです。そして、我々もそれに慣れていった、それで出来る音がいい音になるように、という風に慣れ親しんでしまったと思うんです、ここ十何年間で。

−−16ビットの世界でいいんだと。

梅津:いいんだというか、エンジニアとしてはヨンパチが全て、というものを体験してしまったということがあると思うんです。これがその時点の最高の音だったし、次生まれるとしたらハイビットであり、ソニーさんもHRという形を出してきましたし、そういった形で行くのかな? と一瞬は思ったんです。でも、それを導入するにはかなりの資本力がいるというところに突き当たったんですよね。その反面、次はハードディスクだろうということは、ずっと言われてきたことだと思うんです。エディットも簡単に出来る、ピッチも直せるという中で、プロデューサーやアレンジャーの方から(ProToolsの導入が)進んでいった気がするんです。制作のバジェットも少なくなってくると、アレンジャーの自宅で制作が出来る、ファイルで受け渡しが出来るProToolsの登場によって、制作費のコストダウンが図れたわけです。僕自身ProToolsを使い出したのはずっと後なんですが、エンジニアの方も少ないバジェットで、ヨンパチも回せない、それでA-DATという8CHを何台か組み合わせて、24CHなり32CHなり作っていくとなると、シンク関係は大変なことになるわけで、その救世主がProToolsだったわけです。僕も「ProToolsって一体何なんだろう」と3年か4年くらい前に思って、「これは1つくらい持たないといけないのかな?」ということで、僕と山口州治さんの二人で1台購入して、「これはこういうものか」と色々研究しました。2年くらい前に自分がやっていたプログラムの中でも、打ち込みのオケはある程度ファイル化されたもので受け取るという形になって、ProToolsからスタートしてしまうという時代が来たんですね。でも、その時自分で持っていたProToolsもそんなにグレードが高いものではないですし、I/Oにしても少ないですから、ProToolsの中でのMIXというのは考えていなかったです。なので、そういったI/Oの関係でいったんヨンパチにコピーして、トラックダウンするというのが生まれてきたのが2年前。今もProToolsで始まりますが、ProToolsはテープレコーダー代わりとして自分では受け止めているんです。今後、ProToolsで最終的なMIXまでするかどうかは思案中ですね。

−−ProToolsの登場以来、エンジニアが編集を任されたりすると、アレンジャーの仕事と交錯するような場面が出てくると思うんですが、その辺はどうお考えですか?

梅津:僕の中では、棲み分けは出来ているつもりです。当然僕もサイズを変えるとかもしますし。でもそれは本来アレンジャーがすることなのかもしれませんが、アレンジャーの思うことを表現出来るのであれば、それに越したことはないと思うんです。これは単にMIXをすることも同じだと思うんですよね。アレンジャーが、どういった音で積み重なって欲しいと思っているかは、当然アレンジャーの頭にあるわけで、それを表現するのがエンジニアです。そこにプラスアルファで、エンジニアの個性が加わっていくということですから、基本的にはアレンジャーがやるようなエディットなどの音楽的なことまで、自分たちがやることに対して僕は全然抵抗なくて、それが出来るのであれば、とってもいいことだし、それを考えるのはエンジニア個人ではなくて、プロデューサーでありアレンジャー、そしてエンジニアといったチームの中で考えるわけですから、一瞬エンジニアが手を加えたというだけの話だと思うんですよね。それでアレンジが本当に変わったというわけでもないと思いますしね。

−−棲み分けをキチンとされている梅津さんでしたらいいんですが、「自分の範囲を大きくして…」というような考え方の人が増えていませんかね?(笑)

梅津達男7
 

梅津:ああ(笑)。それはそれで出来るのであれば、素晴らしいことだと思うんです。自分の中に作曲能力があったり、アレンジ能力があったりしたら、やりたいのかもしれない。ただ、僕はそれほど能力はないし、エンジニアとしていい音を提供してあげたいし、歌う人にも気持ちよく歌ってもらいたいと思っています。

−−あと最近、ProToolsのオペレーションが出来る=エンジニアと勘違いをしている人が多いような気がするんです。

梅津:それはあくまでもProToolsのオペレーターであり、オペレーターと呼ぶべきだと思うんですよね。レコーディングエンジニアではないと思います。でも、そういうことをやることによって、レコーディングエンジニアの仕事に巡り会うチャンスは多くなっています。これが、ちょっと誤解の元だと思うんですよね。それで、フリーのエンジニアもそれに左右されているところがあるんです。自分が一杯仕事を受けようと思うならば、「ProToolsを買った方がいいのかな?」とか、「持たなくちゃいけないんじゃないか?」という気運が出てきていると思うんですよね。確かに持てるものだったら、持ってそういったチャンスを増やすというのは、1つの道だと思うんです。僕は否定しないです。でも、持ったからといって、いい音楽が出来るわけでもないし、いいMIXが出来るわけでもない。入れ物がどんなものであっても、いい音を録るということにおいて、大切なことは違うところにあって、経験だったり、自分の目指す音を捉えているか? というところにあったりすると思うんですよね。自分が教わったときもそうなんですけど、「一体この音は何でこんなにいい音をしているんだろう?」という洋盤をヒントに、「こういう音だったらいいね」という形を自分の中で想像して作っていると思うんです。僕はその想像できる形というものを勉強すべきだと思うんで、ただ単に「ProToolsが出来るからエンジニアか?」と問われれば、否定したいところですね。

−−今、生音を録るチャンスって少ないですよね?

梅津:少ないですね。だから、「生音を録るのにどうやって録ったらいいんだ?」「一体何のマイクを立てたらいいんだ?」というような質問はよくされます。もちろんマイクを選ぶのもエンジニアリングです。でも、マイクって人間の耳と違ってとても不自由なものなんですね。生音で、人間の耳で聞いた方が全然いい音をしているのに、マイクを通して聞くと必ず不自然な音に感じるんです。だから、その楽器の音がどういった音をしているのかしっかり聞いて、それをどこでいい音と捉えるか、考える必要があるんです。楽器1つ1つで指向性も違いますから、そういったものを聞き分ける力を養っていけば、いいポイントは選べるんじゃないかなと思うんですけどね。いいポイントを選ぶ努力をしているか、していないかというところで、変わってくると思います。だから、同じマイク、同じ機械を使ってもエンジニアによって全然音が違う。ましてやミュージシャンが同じであっても違う。この不思議さの実体は、それぞれのエンジニアの感性と言えるのかな、と思いますね。

−−エンジニアは日頃の鍛錬と共に感性が求められるシビアな世界ですね。

梅津:でも、音楽は楽しくなくちゃいけないと思っています。かっこいいか、気持ちいいか、それが達成できたら、きっとその音楽はいい音楽なんじゃないかなと僕は認識しています。

−−その思いが梅津さんの作り出す音楽を豊かなものにしているのでしょうね。本日はお忙しい中、ありがとうございました。益々のご活躍をお祈りしております。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

「僕は努力型」とおっしゃる梅津氏ですが、若い頃からの仕事に対する一貫した緊張感と集中力、そしてその前向きな姿勢にこそ現在の梅津氏を作り上げた源があるのではないかと感じました。「100回やって出来るんだったら100回やればいい」- わかっていてもなかなか実践できないこの言葉を重く受け止めるインタビューとなりました。

 さて次回は、キーボード奏者・アレンジャー・プロデューサーとして、寺尾聰氏の「ルビーの指輪」を始め数々のヒット曲を手がけられたミュージシャンの井上鑑氏です。お楽しみに!

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