新たな音楽&才能との出会いは一種の“麻薬”である Tom’s Cabin代表、SXSW Asia代表 麻田 浩 氏インタビュー

インタビュー フォーカス

麻田 浩 氏
麻田 浩 氏

モダンフォークカルテット、ソロとアーティスト活動を通じて、60年代後半のアメリカを“実体験”した麻田浩さんは、トムズ・キャビン設立後、大手が手掛けない、でも音楽好きが支持する多くのアーティストたち(エリック・アンダーソン、トム・ウエイツ、エルヴィス・コステロ、グラハム・パーカー、トーキング・ヘッズ、B-52’s、XTC などなど)を次々と招聘。ロック文化・洋楽文化に大きく寄与されます。邦楽アーティストのマネージメントを開始後はSION、コレクターズ、コシミハルを手掛けられ、ピチカート・ファイブを海外での成功に導きました。また、昨年Perfumeも出演して話題となったSXSW(サウスバイサウスウエスト)での活動を通じて、多くの日本人アーティストを海外へ送り出し続けています。正にポピュラー音楽の歴史の目撃者とも言うべき麻田さんの、音楽愛に貫かれた活動と来月3月に開催が迫ったSXSW、そして今後の展望まで話を伺いました。

(インタビュー・山浦正彦、屋代卓也 / 文・Kenji Naganawa)
2016年2月23日 掲載

 

  1. キングストン・トリオをきっかけにギターを手に取る
  2. ショーで回ったアメリカの地を再び踏む〜ボブ・ディランの復帰ライブを目撃
  3. 「お金があれば誰だって映画を作れる」一攫千金を狙ってソロデビュー
  4. 自分の好きなアーティストを呼んでライブハウスを満杯にする
  5. 「新しい世代のお客さんが育ってきた」パンク・NW時代〜スティッフ、コステロ、トーキング・ヘッズ etc.
  6. 「国内で売れないなら逆輸入させよう」ピチカート・ファイブの成功
  7. いいアーティストをサポートする手立てとは
  8. これからも日本のアーティストを海外に出してあげたい

 

キングストン・トリオをきっかけにギターを手に取る

——麻田さんは44年生まれとのことですが、ご出身はどちらですか?

麻田:横浜です。最初、保土ヶ谷にいて、綱島に引っ越し、それからはずっと綱島でした。親父やおふくろは本牧に住んでいたんですが、戦争で焼き出されて、おふくろの実家の保土ヶ谷に移ったんです。

——お父様は何をされていたんですか?

麻田:親父は日本郵船の船長だったんですよ。

——船乗りですか?

麻田:そうです(笑)。兄弟は下3人女の子だったので、話が合わなかったんですが、親戚が横浜にたくさんいたので、小学校5、6年になるといとこの家に一人で遊びに行っていました。音楽の一番最初の記憶は、親戚の家にあった手回しの蓄音機の音で、それでパティ・ペイジの「テネシーワルツ」とか聞いていたんですが、中でも「セブン・ロンリー・デイズ」という曲が凄く好きでしたね。

——聴いていたのは洋楽ばかりですか?

麻田:そこの家はほとんど洋楽でした。お金持ちの家で、結構新しい作品がありました。その後、FENというものがあると知って、中学校に入ってからはほぼ毎日のようにFENを聴いていましたね。あの頃のFENから流れる音楽は凄く面白かったですね。

——その頃の横浜は最先端の文化が真っ先に入るような場所だったんですか?

麻田:文化的にはそうですよね。有名な映画俳優が元町に色々な物を買いに来ていたりしていましたからね。僕は小学校の頃そんなに友達がいなかったんですが、中学に入ったら音楽好きな子たちがいて、仲良くなりました。その頃からドーナツ盤を買い出して、みんなお小遣いがあまりないですから、「お前はこれ買えよ」とか、そういうことをやっていましたね。

——その頃のヒット曲っていうと何になるんですか?

麻田:ポール・アンカやコニー・フランシスといったポップスですよね。僕はガールズ・グループ、ダイアナ・ロスのシュープリームスとか、そういうのが好きでした。あとアトランティックとか、ソウルですね。ただそういうものはFENではかからないんですよね。

——黒人音楽はかからなかった?

麻田:黒人音楽はほとんどかからなかったですね。あの頃はまだ「レース・ミュージック」って言っていたのかな。カントリーは必ずかかるんですが、僕はカントリーも好きだったから、それは嬉しかったですね。番組的には土曜日が一番良くて、一番最初はハワイの番組があって、その次がナッシュビル、一番最後はトップ40。ですから土曜日はずっとFENを聴いていました。

——それが講じてギターを手にすることになるんですか?

麻田:いや、ギターを手にするのはもっとずっと後ですね。僕らはずっとポップスを聴いていたんですが、ある日キングストン・トリオの「トム・ドゥーリー」という曲が聴こえてきたんですよ。それが凄く新鮮で「えー、こんなのあるんだ!」と思って、それからフォークにのめり込んでいくんです。それで僕らが高校3年のときに謝恩会で何かをやらなくてはいけなくなって、僕のクラスはなにもやるものがなかったので、友達3人を誘って、大好きだったキングストン・トリオのマネをしようよと(笑)。それがギターを買うきっかけですね。

——キングストン・トリオがきっかけだったんですね。

麻田:そうです。僕は中学から明治学院の付属に通っていたんですが、その友達3人はすんなり大学への推薦をとったのに、僕は高校時代ずーっと遊んでいて、全然勉強しなかったので、「高校から大学に入れない」という通知が来たんですよ(笑)。友達とは「大学でバンドやろう!」と話していたのに、僕だけ推薦がとれなくて、結局、外部受験で明治学院を受け直したんです(笑)。そのときは必死でしたね。

——付属なのに外部受験ですか…(笑)。

麻田:そう(笑)。親父に本当に怒られてね。「なんのために中学から付属に通わせたんだ!」って。で、大学に入って、バンドを組んで、1人メンバーが辞めて、そこにマイク真木が加わって、4人でモダンフォークカルテット(MFQ)をスタートさせました。

——大学に入る目的もバンドやりたさですか?

麻田:うーん、そのときは音楽で飯を食うという意識はなかったですよね。だから大学でバンドやっている人たちも3年になると辞めて、4年になると就職活動をやるというような時代でしたし、僕らも「大学3年になったら辞めよう」と話はしていましたね。

——そんな中、マイク真木さんがソロデビューしますよね。

麻田:実は真木は浪人していたので、僕らの一学年下だったんです。それで僕らは3年でバンドを辞めて、彼だけ1人ソロでやり始めたんですが、「これからはフォークが流行りそうだから」とハマクラさん(浜口庫之助)が作った曲のデモテープ作りに真木が呼ばれて歌ったら、「これでいいじゃん」という話になったらしいんですよね(笑)。

——真木君の歌でいいやと(笑)。

麻田:それが「バラが咲いた」ですね。

 

ショーで回ったアメリカの地を再び踏む〜ボブ・ディランの復帰ライブを目撃

——聴くものもフォークが主体になったんですか?

麻田:そうですね。キングストン・トリオを聴いてから、それまで集めていたポップスのレコードを売って、それでフォークのレコードのコレクションを始めました。それこそ銀座のハンターや新宿のオザワ、神田のミューズ社、あと渋谷にあった進駐軍の払い下げ屋さんが結構穴場で、中村とうようさんとかとしょっちゅうレコードの取り合いしていたんですよね。自分が「あっ、これ絶対欲しい!」というレコードがあっても、同時に2枚も買えないですから、そういうときは、それをクラシックの箱の中とかに入れちゃって隠しておくんですけど、翌日お金持って行っても、もう無いんだよね(笑)。分かっているやつがいるのか、お店の人が移しちゃうのか。

——結構姑息なこともしていたんですね(笑)。

麻田:そうですね(笑)。当時のフォークグループはキングストン・トリオかブラザーズ・フォーのコピー、あるいは小室等が最初にやったピーター・ポール&マリーとかそういうグループの曲を演奏していたんですが、僕らのレパートリーは全然人が知らないようなところから選んでやっていました。

——MFQは人気でしたか?

麻田:人気はありましたね。それで65年にロビー和田が「アメリカにあるMRA(Moral Re-Armament:道徳再武装)という団体が世界大会をやるんだけど、そこに日本からのバンドを1つ招待したいって言ってきている」と言ってきて、あの頃アメリカにタダで行けるなんて夢のような話でしたから、僕らはすぐ乗っちゃって(笑)、アメリカに連れて行ってもらったんですよ。

——そのときロビー和田さんは何をなさっていたんですか?

麻田:まだ学生ですよ。彼は僕より年下で、大学1年とかだったんじゃないかな。

——でも、そういう美味しい話を持って来てくれたんですね。

麻田:ありがたいことにね。彼のお母さんは外国人で、そういうネットワークがたくさんあったんですよね。で、僕らはアメリカに行って、すぐ帰ってくるはずだったんですが、「Sing Out ’65」というショーで日本の曲を演奏することになり、3ヶ月くらいアメリカ中を回ったんですよ。これは凄く良い経験になりました。

——あの時代にアメリカで3ヶ月は凄いですよね。

麻田:あの頃ってビザを取るのも大変だったんですが、僕らはなぜか知らないですが数次のビザを貰えたんですよ。数次というのは1回だけじゃなくて3年間有効なんです。ただ、そのツアーは「道徳再武装運動」っていうくらいですから、男女の交際はダメとか色々厳しかったんですけど(笑)、それでも面白かったですね。若い子たちが100人くらい一斉に車に乗ったり飛行機に乗ったり、アメリカ中、いわゆるショーをして回るわけですよ。その中にグリーン・グレン・シンガーズという女の子の上手いバンドがいて、そのメンバーの1人が女優のグレン・クローズ(※)だったり。

本当に色々なところへ行ったんですが、それでもアメリカの本当の音楽シーンみたいなものは見られなかったので、数次のビザをもらえたし、これは絶対もう1度アメリカに行こうと思って、帰国してからアルバイトに精を出して、お金を貯めました。本来なら67年に大学を卒業できるはずだったのですが、卒業できず(笑)、でも、アメリカ行きを決行して、1年間アメリカをぶらぶらしていました。そのときに結構色々なミュージシャンを観ましたよ。

※グレン・クローズ…’47年生まれ。トニー賞を3回受賞、アカデミー賞には6回ノミネートの名女優。代表作に映画「ガープの世界」「危険な情事」など。

——例えば、どなたですか?

麻田:その頃、僕はフォークでも、いわゆるカレッジ・フォークみたいなものからブルースやトラディショナルな方にどんどん傾いていった時代で、アメリカでの1番の目標は「ニューポートフォークフェスティバル」に行くことだったんですが、とにかくライブはいっぱい観ました。マディ・ウォーターズも観ましたしね。

——1年間で全米中を回ったんですか?

麻田:ウエストコーストに行って、それからシアトル、シカゴ。シカゴは2ヶ月くらいいたのかな。それからニューヨークへ行って、ニューヨークは1番長くて多分7、8ヶ月いました。

——67年のニューヨークなんて、その後有名になる錚々たる人たちがいたんじゃないですか?

麻田:そうですね。ニューヨークのフォークロア・センターという楽器やレコード、本とかが売っている店があって、そんな有名な人は来ないんですが、週末になるとコンサートをやるんですよ。でも、僕はお金がなかったので、イジー・ヤングというそこの名物オヤジに「日本から来たんだけど、タダでライブを観させてもらえないかなぁ?」みたいなこと言ったら「センターを手伝えば観てもいいよ」と。そこは普段お店になっていますから、レコードの箱を運んだり、椅子を並べたり色々手伝うと、タダでライブを観させてくれたんです。そこではレコードデビュー前のジョニ・ミッチェルも観ていますし、ティム・バックリーも観ました。あと、凄くレアなグループもたくさん観ています。

——麻田さんはボブ・ディランの復帰ライブも観ていらっしゃるんですよね。

麻田:「ウディ・ガスリー・メモリアルコンサート」を観に行ったんですよ。結局、そのイベントが、ディランのオートバイ事故からの復帰ライブでした。僕もグリニッジ・ヴィレッジに通っていましたから、その情報は入ってきたんですが、チケットはすぐ売り切れて、でも当日券あるだろうなと、当日カーネギーホールの前に行ったら、周りにそういう人がいっぱいいてね(笑)。だからチケットは争奪戦だったんでしょうね。

それでコンサートが始まったら微かに音が聞こえてくるので、それを聴きながら階段のところでずっと待っていたんです。そうしたら第一部が終わって人がドッと出て来て、あるおばさんが「あなたチケット持ってないの?」と声を掛けてきたんです。それで「持ってないです。観たいけど買えなかったんです」「なら、これあげるわ。私はもう帰るから」って言ってくれて、2部のちょっとは観られたんです。そこでディランを初めて観たんですよ。

——初めて観るディランはやはり凄かったんですか?

麻田:あまりに感激して、実はあんまり良く覚えてないんですよね(笑)。

 

「お金があれば誰だって映画を作れる」一攫千金を狙ってソロデビュー

Toms Cabin代表、SXSW Asia代表 麻田 浩氏

——NYではどのへんに住んでいたんですか?

麻田: 65年に行ったショーで、そのとき一緒に回っていた黒人の女の子がいて、最初は彼女の実家に居候していました。場所は130丁目のハーレムで白人なんて誰もいないところで、そこには1ヶ月くらい住んでいたかな。その後、日本食レストランで働き初めて、お金が入り出したので、コロンビア大学の近くに移ったんですが、毎日のようにグリニッジ・ヴィレッジに行っていましたね。

——単身でそういうことができるって大変な行動力ですね。何も怖くなかったんですか?

麻田:あの頃は、小田実の『何でも見てやろう』という本がベストセラーになっていて、あの本には凄く勇気づけられましたね。でも、65年にアメリカを回っていたときに100人くらいと一緒に回って、みんなと仲良くなっていましたから、例えば、シアトルからシカゴ行く間にアイダホの知っている女の子のところに1日2日泊めてもらったり、あんまり怖いとかそういうことはなかったですね。とにかく本場でライブが観たい、「ニューポートフォークフェスティバル」に行きたいという想いの方が強かったですから。

——好奇心の方が勝っていたと。

麻田:ええ。とはいえ、お金を貯めたと言っても、貯めたのは片道の飛行機代と400ドルだけでしたから、よく入国できたなと思いますけどね。あんまりお金持っていないと税関に捕まりますから。やはり数次ビザのおかげかな?と今にして思いますけどね。

——ちなみに英語はどのくらいできたんですか?

麻田:唯一の強みと言えばずっとFENを聴いていたので、聞く方はなんとかなったんですよ。でも1人で生活し始めたときに1番覚えたんじゃないですかね。自分がご飯を食べるのだって、なにをするのだって、自分で言わなきゃダメですから。団体で行動しているときは良かったけど、1人で住み出したら嫌でも必要に迫られちゃいますよ。

——その後、68年に映画『トラ・トラ・トラ!』の助監督をされていますが、それはアメリカにいるときに来た話だったんですか?

麻田:いや、それは帰国してからです。単位が取れていなかった簿記一科目のためにだけに日本に帰ってきたんですよ。一応親父の手前卒業はしなくてはいけなかったので。それで卒業後はちゃんと会社勤めしようと思っていたんですが、卒業する次の年の春まで何かアルバイトをしなきゃいけないというときに、黒澤明監督の息子の黒澤久雄はフォーク仲間だったから良く知っていて、親父さんが映画を撮るという話を聞いたので、親父さんに「手伝わせてくれないか?」とお願いしたら「良いよ」と助監督をやらせてもらったんです。

——ちなみに映画もお好きだったんですか?

麻田:NYでアルバイトしていた日本食レストランが56丁目くらいにあって、そのすぐそばにMoMA(ニューヨーク近代美術館)があるんですよ。それでMOMAの会員になるとタダで映画が観られたんです。だから、ほぼ毎日のように映画を観に行っていました。とはいえ映画を志していたわけでもなく、ただ観ていただけですけどね。

——アメリカから帰って来て、自分はどうしていこうかなというときにアルバイト感覚でやったのが映画『トラ・トラ・トラ!』の助監督ですか。これも凄い話ですね(笑)。

麻田:そうですね(笑)。それで映画の仕事も結構面白くなって、そのあと勅使河原宏監督の大阪万博の映画とかもやったんですよ。ただ、ちょうどあの頃、映画産業もダメになってきて、例えば、若い助監督とかみんなCMをやりだしたりしたんですね。日本って助監督を何年かやって1本撮らせてもらうみたいな、そういう世界じゃないですか。徒弟制度みたいな世界。アメリカにはそういう仕組みはなくて、助監督は助監督で、監督は監督という別の仕事なんですよね。要は「お金があれば誰だって映画を作れるんだよ」という話なんですが、「そうか! お金を作ればいいんだ!」と思って、まぁ真木もソロで売れたし、僕も歌をやればお金が入ってくるかなと、単純に思ったんですよ(笑)。

——それで72年にアーティストデビューされるわけですね。一攫千金を狙って(笑)。

麻田:そうですね(笑)。全然ダメでしたけどね(笑)。

——麻田さんのデビューアルバム『Greetings From Nashville』はナッシュビルで録音されていますよね。しかも凄いメンツで。

麻田:当時って、ディランもニール・ヤングもエリック・アンダーソンも、みんなナッシュビルに行っていたんですよね。だから僕も「ナッシュビルでやりたいんです」とシンコーミュージックの草野昌一さんにお願いしたら、すんなりOKになったんですよ。そんなこと言う人がいなかったのかな(笑)。でも、ナッシュビルって凄く仕事が早くて、制作費的には実はそんなにかかっていないんです。日本でわがまま言っている奴よりよっぽど安いんですよね(笑)。

——(笑)。レコーディングは何日で終わったんですか?

麻田:それこそ5日くらいで終わっちゃっています。1日リハーサルをやって、みんなが例の数字の番号を譜面に書くわけですよ。Cが1で「1-6-5」とか、そういうのもナッシュビルで初めて知りました。ちなみにナッシュビルへは石川鷹彦と僕の二人で行ったんですが、アーティストとして売れて金儲けに繋がることはなく、その後、キョードー東京でアルバイトをしながら司会とかツアーマネージャーとか色々なことをやるようになるんです。

 

自分の好きなアーティストを呼んでライブハウスを満杯にする

——コンサート・プロモーターとして「トムズ・キャビン」を始めるきっかけは何だったんですか?

麻田:例えば、ジャクソン・ブラウンは2枚目のレコードを出している頃でも客席が2〜300のところでしかやっていないし、そういった状況をアメリカで観て「なぜこれが日本でできないのかな?」と単純に思ったんですよね(笑)。それで永島達司さんや内野二朗さんに相談したら「そんなの日本で客が入るわけがないだろう」と言われて(笑)。

——ビジネスにならないから大手は手を付けていなかった?

麻田:そう。でも極端なことを言ってしまうと、僕らの周りってみんなそういう音楽が好きだったわけじゃないですか。だから、日本のライブハウスを一杯にするくらいはできるだろうと。大手の呼び屋さんはビジネスですし、社員もたくさんいますが、僕らは最初2人くらいで始めましたしね。

でも、あの頃、招聘業務は凄く難しくて、ちゃんと株式会社にしないといけない、銀行にお金が入っていないといけない、外貨は日銀に行って許可を得ないといけないとか大変だったんですけど、そういったことはキョードーでアルバイトしていたので何となく分かっていたのと、あと、新聞社で比較的マニアックな招聘をしているところがあって、そこの人に「ちゃんと会社を作ればできるよ」と教えてもらいました。

聞くところによると当時はキョードーも大変な時代で、一つ前の世代の呼び屋さん、例えば、神彰さんとか強烈な個性のプロモーターさんたちの時代から、キョードーやウドーのように会社としてプロモートするようになる転換期だったんです。そんな頃に、誰でも知っている大物ではなくて、僕たちが好きなアーティストを呼ぼうと。僕らはそういった音楽が好きな人間でしたし、そういう音楽のファンがいるということは知っていましたからね。

——麻田さんご自身もミュージシャンですし、海外のミュージシャンのお友達も多かったんじゃないですか?

麻田:そうですね。ほとんど日本に来たことがない人たちだったから、「日本に行きたい!」と言ってくれる人たちは凄く多かったですね(笑)。みんな日本の文化に触れたいみたいなところがあって。

ただ、呼び屋を始めたといっても、交渉する伝手はなかったですから、まず3週間くらいロスアンジェルスに行きました。当時「McCabe’s」というギターショップがあって、そこでは売れる前のジャクソン・ブラウンやデヴィッド・リンドレー、JDサウザー、あとニューヨークからハッピー・トラウムとかが演奏しに来ていたんですが、そこでボビー・キンメルという男と出会ったんですね。彼は最初リンダ・ロンシュタットのバンド「ストーン・ポニー」のリーダーだったんですが、彼もずっと長いことMcCabe’sのブッキングをやっていて「そろそろ違うことをやりたい」と。それでMcCabe’sとかけ持ちで、日本にアーティストを呼ぶブッキング・エージェントをやってくれることになったんです。

最初にロスに行って、その次にサンフランシスコにもマーケットがあるんですが、ボビーと二人で行って、彼の友達だったデヴィッド・グリスマンに会って、グリスマンの家でやっていたリハーサルを見学したんですが、とにかく凄い演奏でね(笑)。ちなみにギターはトニー・ライスだったんですが、「こういうアーティストたちを呼ばなきゃな!」と思ったんですよね。彼らもまだレコードを出していないときだったけど圧倒されました。

——そのときの麻田さんは「ミュージシャンの顔」をしていたんですか?

麻田:いや、もうその頃は完全に「呼び屋に賭けよう」と思っていました。僕が呼びたいと思ったアーティストで商売になると思っていましたし、結局、そこが隙間だったんですよ。誰もやっていなかったですから。

——勝算はあった?

麻田:勝算はありましたね。最初のエリック・アンダーソンだって満杯になりましたし、トム・ウェイツだって凄く入りましたしね。

——それを見てキョードーの先輩たちは何とおっしゃったんですか?

麻田:途中から今度、加わりだしましたね(笑)。

——やめとけって言っていた人たちが。

麻田:やめとけって言っていたのに。結局ジャクソン・ブラウンもとられちゃったし、ライ・クーダーもとられちゃったしね。だから僕が今までやってきたのは隙間ですよ。それが今度キョードーとかと取り合いになると負けちゃうから、他にやっていないのは何だろう?と考えたときに、次に浮かんだのがブルースとサザン・ソウルです。あの頃O.V.ライトをPヴァインが大売り出ししていて、みんなが「いい」と言うので、「やろう!」と思ったらO.V.ライトが体調不良で来日できなくなって、代わりにオーティス・クレイをやったら凄くうけたんですね。だからそれ以後も結構やりました。シル・ジョンソンだとかメンフィス系が多かったですけどね。

——麻田さんは音楽の引き出しが多いですよね。

麻田:そうですね。音楽的には僕、節操ないんですよ。それでシンガーソングライターをやって、ブルース、ソウルとずっとアメリカの音楽をやってきたんですが、だんだん「今アメリカの音楽あんまり面白くないな」と思うようになって、そう思っていたときにイギリスのスティッフというレーベルの存在を知ったんです。


2016年2月26日 掲載

 

「新しい世代のお客さんが育ってきた」パンク・NW時代〜スティッフ、コステロ、トーキング・ヘッズ etc.

——スティッフにいたアーティストたちの音楽はやはり新鮮でしたか?

麻田:ええ。グレアム・パーカーやコステロを聴いて、「凄くいいな」と思いましたし、みんなで一つのバスに乗って、ツアーして回ったりするスティッフのやり方って凄く新鮮でした。こういうビジネスのやり方があるんだと思って。あと、その頃、後楽園ホールのストラングラーズで初めてスタンディング・ライブをやったんですよ。

——語り草になっているコンサートですよね。

麻田:結構トラブルが多かったですけどね。ジャン=ジャック・バーネルが客席に飛び込んじゃったり。あの頃のイギリスのアーティストはとても刺激的でしたね。ブリンズレー・シュウォーツ出身のニック・ロウ、グレアム・パーカー、コステロのアトラクションズ、あとXTCだとか、イギリスの方が全然面白かったですね。

——新鮮でしたよね。

麻田:でしょう? その代わりめちゃくちゃでしたけどね。そういう人種のライブをやったことなかったから(笑)。

——コステロの銀座ゲリラ・ライブとか。

麻田:あれはね、コステロが「東京で一番有名な通りはどこだ?」って訊くから、「銀座通りだ」と言ったら、「俺たちはそこで練り歩く」と(笑)。「車に乗って演奏するから機材を揃えてくれ」って言われて、レンタカー1台借りて、楽器と機材を乗せて、銀座に入ってから音出してね。

——これはヤバイとは思いませんでしたか?(笑)

麻田:「これ絶対に捕まる」と思いました。捕まらないわけがない(笑)。だから新聞の記者とカメラマンを銀座で待たせておいて、「絶対捕まるから絶対撮ってよ!」って。でも、コステロたちは英語で滅茶苦茶やっているから、警察もよく分からなくて「もういけ! ここでやっちゃ駄目だ!」って追っ払われるくらいで済んだんですよ。

——大事にはならなかったんですね。

麻田:でも問題はいっぱいありましたよ、コステロたちは。初日だったかな?アンコールでキーボードのスティーブ・ナイーブの言っていたキーボードが無くて、レオ・ミュージックに新しいのを買ってもらったんだよね。その後、大阪でバンド内のもめ事があって、スティーブがキーボードを思いっきり蹴っ飛ばしたんですよね(笑)。買ったばかりだし、凄く高かったんだけど、マネージャーちゃんとお金払っていたからね。僕たちには分からないけど、よく起きる出来事なんだろうね、向こうのマネージャーにとっては。

——やっぱりパンク時代ですからね。みんな気性が荒い(笑)。

麻田:そうなんですよね。あの頃のお客さんは、それまでのトムズ・キャビンのお客さんとは違う全く新しい世代のお客さんが育ってきたんですね。集客も結構良かったですから「これでいけるかな」と思ったんです。当然ウドーさんとかキョードーさんとかやってなかったですしね。しかもトムズに投資をするって人が現れて、その話をしていたときに、新聞に「トムズ・キャビン倒産か?」って大きく書かれちゃって。

——その記事は根拠があったんですか?

麻田:ないでしょう。あの頃はどのプロモーターさんも大変なときで、みんなそんなに上手くいっている時代じゃないですし、ましてや、うちなんかそんな新聞記事になるような会社じゃないんですよ。しかも、ずっといつ倒産するか分からない会社だったから(笑)、なんで今さらこんな記事が出ちゃうんだろう?と思いましたね。

——トムズキャビンにとっては調子良さそうなときですよね。

麻田:一番調子良いときです。トーキング・ヘッズもやり、B-52’sもやり、だから僕の友達も投資してあげるからって言ってくれたんですよね。でも、そういう記事が出ちゃって、投資の話もなくなり…倒産する会社に誰が投資するかって話ですよね。それで出資してくれるお金をあてにして会社を回していたところが、さっと手を引かれちゃったんで、不渡りを出したんですよね。結局倒産して、その当時で多分7000万くらい負債がありましたね。

——その負債はどうしたんですか?

麻田:2、3ヶ月経ったら、ゴダイゴをやっていたジョニー野村が「うち(ジェニカミュージック)に来いよ」って言ってくれて、「でも何をやったら良いか分かんないな」と言ったら、「ゴダイゴを1つブッキングするごとにギャラ払うから」と言ってくれて、それで少しずつ返済していって、3年くらいやっていたかな。

で、僕と同じくらいに日高氏(日高正博:現スマッシュ 代表取締役社長)がジェニカに入っていて、僕がブッキング、日高氏がプロモーションみたいに分担して、邦楽アーティストはゴダイゴ以外にも新人だったルースターズとか、そういうものもやっていました。そこで、邦楽アーティストを初めてやったんです。

 

「国内で売れないなら逆輸入させよう」ピチカート・ファイブの成功

——その後、日高さんとスマッシュを設立されますね。

麻田:日高氏とジェニカをほぼ同時に辞めて、83年にスマッシュを設立するんですが、2人ともやることがないので、最初は僕の伝手で昔のアーティストをやろうと、いくつかアーティストを呼びました。ただ、その頃、僕は呼び屋稼業にほとんど興味がなくなっていて、ジョニーのところでやっていた日本人アーティストをやりたいと思っていたんですね。でも、日高氏は呼び屋稼業に目覚めちゃってね(笑)。それで、SIONというアーティストに出会って、「よし、彼だったら」とSIONを連れてスマッシュを辞めたんです。

——そこからコレクターズ、コシミハル、ピチカート・ファイブと仕事されることになるわけですね。

麻田:そうですね。呼び屋さんって何も残らないというか、権利をほとんど持ってないんですね。マーチャンダイジングといったって、そんな大して売れるものじゃないですしね。そこで音楽の権利ビジネスというのを教えてくれたのはジョニーなんですね。

——また、麻田さんはSXSWへ日本人アーティストを送り込んでいますよね。これはどういうきっかけからだったんですか?

麻田:ピチカート・ファイブをやっていて、僕は個人的には良いアルバムを作っていると思っているのに、全然売れなかったんですよね。それで、ソニーを解雇されちゃって、コロムビアに飯塚さんというディレクターの方がいて、飯塚さんに相談して、レーベルを作ったんですね。だから、その頃やっていたコレクターズだとか、みんな一緒にして、セブンゴッド・レコードというのを作ろうということになったんです。それで、コロムビアに移籍してやったんですけど、やはりなかなか売れない(笑)。特に、ピチカートは関係者の評判はいいのに全然売れないんですよ。

——玄人受けする感じだったんですね。

麻田:そうですね、ただ僕の友人の外国人はみんな良いって言ってくれるんですよそこで、YMOの例じゃないですが、アメリカで売れていると言われれば日本の人も買うんだろうなと思ったんです。当時すでにSXSWはやっていたんですが、今ほど大きいイベントではなくて、もう一つの「ニューミュージックセミナー」という音楽コンベンションにピチカートを出したんです。そこで「サイコ・ナイト(Psycho Night)」というのを立ち上げました。日本語の「最高」と向こうの「サイコ」をかけて。それこそ、近田春夫くんのバンドやボアダムス、少年ナイフといったバンドを連れていってショーケースをやったんです。ピチカートは2、3年出したかと思います。

そうしたら、アメリカのソニーの人が凄く興味を示してくれて、その人は日本人アーティスト、例えば、NOKKOとか松田聖子をやっていたんですね。それで「ピチカートをやりたい」と言われたので、「500ドルでシングル3曲」というプランを作ってプレゼンしたんですが、ソニーで会社の配置換えというか、その人の上司が辞めてしまって破談(笑)。最終的にマタドールというレーベルの人が興味を示してくれて、マタドールからリリースして20万枚以上売れました。日本人で言ったらそれまで坂本九、ラウドネスが売れていたんですが、それに次ぐぐらいピチカートは売れました。

——20万枚は大成功じゃないですか。

麻田:そう思いますけどね。その後「ニューミュージックセミナー」が倒産しちゃうんですが、「ニューミュージックセミナー」にはSXSWの連中も来ていて、「オースティンでも日本人のショーケースをやってほしい」と言われていたんです。僕はそのときSXSWについてよく知らなかったんですが、「ニューミュージックセミナー」が潰れた途端にSXSWが急浮上してきて、そこで「Japan Nite」をやりだしたんです。

——それが94年頃ですね。

麻田:ですから、もう20年以上やっていますね。本当は第二のピチカート・ファイブを出さなくてはいけないんですが、なかなか出なくてね。ある程度のところまで行っている連中もいるんですが、やっぱり難しいです。そもそも音楽ビジネスのシステムがだんだん変わってきたじゃないですか。

昔は、例えば、トーキング・ヘッズやB-52’sがいたサイアー・レコードはシーモア・ステインという男がやっていて、彼は直接電話してきて「何か必要なものあるか?」と言ってくれたり、向こうのレコード会社の人やマネージャーと一緒に取り組んでいたんですが、最近はそういうことがなくなっちゃったんですね。

——アメリカのインディーズレーベルもシステムが変わってしまった?

麻田:そうですね。アメリカもレコードビジネスというのが本当に厳しいですよね。だからライブ・ネイションみたいな会社が、マドンナの権利を全部買っちゃうわけです。レコードが売れなくてもライブで儲かるとか、そういうシステムになるしかないんです。

——実際CDを売ろうというやり方ではもう通用しないですからね。逆にCDが売れなくてもライブでちゃんとビジネスになっているアーティストもいっぱいいますよね。

麻田:いますよね。

——となると、今、コンサート・プロモーターがみんな儲かっているように見えるんですけど、麻田さんはもう1回やらないんですか?(笑)

麻田:僕も毎年、細々とはやっていますよ。2つ、3つとか。ちょうどSIONと独立した頃も、やっぱりSIONだけでは食っていけないから、呼び屋さんもやっていたんですよ。例えば、ラウンジ・リザーズとか、そういうのをやっていました。ラモーンズもその頃です。だから、今でも時々やっていますね。特にラウンジ・リザーズだとマーク・リボーというギタリストがいるんですが、彼関連はずっとやっています。

——ちなみにスマッシュとはもう一緒にやらないんですか?

麻田:向こうは大きい会社になりましたからね。でも、マーク・リボーは一昨年、フジロックに出してもらったりしています。それこそ、彼はトム・ウェイツのバックだったり、本当に色々な人とやっています。今、アメリカで一番売れっ子のギタリストじゃないですかな。

 

いいアーティストをサポートする手立てとは

Toms Cabin代表、SXSW Asia代表 麻田 浩氏

——麻田さんは本当に幅広く、また新しいアーティストまで滅茶苦茶詳しいですね(笑)。

麻田:音楽好きですからね。本当にレコードとかCDをたくさん買っちゃいます。やっぱり僕は配信というのが好きじゃなくて、CDを買って聴くのが好きです。やっぱりお金出して買うから良いのであって、僕は色々なところからCDを貰ったりするんですけど、貰った物はあまり聴かないですよね(笑)。やっぱり、自分が面白そうだと思って、お金出して買ったら聴きますよ。

——いわゆる聴き放題サービスとかは全然利用されていない?

麻田:ほとんどやってないですね。ネットでは音楽の記事みたいのを結構読んでいます。あとビルボードチャートとか。

——最近の若いミュージシャン対して何か思うことはありますか?

麻田:僕が思うのは、良いバンドはいっぱいいるんですよ。それこそ、SXSWに出たいというバンドは、年間100バンドくらい応募が来るので、それを全部聴くんですが、面白いバンドがいっぱいいますし、日本でなかなか売れないけれど、SXSWに出て何か糸口を掴みたいと考えている人もいるんですね。僕は毎年のようにSXSWへ行って、向こうの音楽シーンの人たちと話をするんですが、日本のアーティストは恵まれていないなと思いますね。

——どういったところが恵まれていないんでしょうか?

麻田:やはり国のサポートが全然ないですよね。毎年、カナダ政府がお金を出して、10アーティストくらいカナダから日本に呼んでショーケースをやるんですが、シンガーソングライターで、ランディ・ニューマンみたいな子がいたから、この間プロモーションしてあげたんですが、そういうサポートが日本ではほとんどないですよね。もちろん、イギリスもカナダもそれで凄く経済が潤っている部分があるんでしょうけど、それに比べると日本のアーティストは恵まれてないなと思います。

——それこそ韓国だって国を挙げてやっていますよね。

麻田:韓国は今、凄いですよ。お金出して。台湾もそうですね。

——国策としてやっている。

麻田:そう、国策ですよ。今、日本のアーティストで「これは絶対に良いのにな」という人たちがいっぱいいますが、レコード会社も事務所もみんな余裕がないから、なかなか外に売り出せないという。僕がピチカートをやったときはコロムビアとウチの事務所とフジパシの3社でお金を出し合ったんですね。今はレコード会社でそういうお金を出すところはなかなかないんですよね。

ちょっと発想を変えて、日本国内がダメだったら、外からお金を稼いでくれば良いじゃないという発想を持てる人がいない。もちろんそれは、たやすいことじゃないですよ。僕だってSXSWを20年やっていて、なかなかうまくいってないんだから(笑)。そんな偉そうなことは言えないんですが、でもそういうことがないと、日本の音楽業界はこのままどうなっちゃうんだろうと思うんですよね。

あと、もっと地方の音楽が活性化したらいいなと思っています。今年も100バンドくらいSXSWの応募があったんですが、その80%以上が東京のバンドなんですね。これがアメリカだと、今どき「ニューヨークに住もう」とか「ロサンゼルスへ行かなきゃ駄目だ」なんて誰も考えないです。いわゆるレコード会社、音楽ビジネスの体系が変わっちゃったから。昔はニューヨークへ行って、ニューヨークのレコード会社に当たっていかなきゃ始まらない。あるいはロサンゼルスのワーナーへ行くとか。今は全くそうじゃないし、自分で住んでいるところの方が物価も安いし、はるかに生活しやすい。しかも、昔と違ってインターネットを使えますからね。

——アメリカでは地域格差みたいなものがないと。

麻田:そうです。日本でも地方の放送局やイベンター、ライブハウスが「今年はこの子を推したいんだ」と少しずつお金を出し合ったり、例えば、大阪だったらFM802でもなんでも良いんですが、その地域で一緒になって、大阪から新人を売り出すとか、そういうことをやれば面白いと思うんですけどね。

 

これからも日本のアーティストを海外に出してあげたい

——最後になりますが、麻田さんの今後の目標をお聞かせ下さい。

麻田:僕も年ですし、あと何年できるか分からないんですが、日本のアーティストを海外に出してあげたいというのが一番ですね。

——今、注目しているアーティストは誰ですか?

麻田:まず京都のバンド、パイレーツ・カヌーですね。彼らはもう2回SXSWに出したんですが、今は自分たちでアメリカツアーをやっています。彼らのようにきちんとビジネスをやっている人たちは結構いて、今年のSXSWからはそういう人たちをゲストに迎えて、色々と話もしてもらおうと思っています。日本は未だに恵まれていると思うのは、レコードを出したらすぐマネージャーがついて、ローディがついたりするじゃないですか。外国でツアーをやるというのは、そういうのとはほど遠い世界ですから、そういった状況に耐えなきゃいけないんです。

でも、本当に一所懸命やっているバンドはたくさんいますし、みんな面白いです。今でもどちらかというと、ボアダムスを始めとするあの手の音楽が日本って強いんですね。それこそジム・オルークだとか、そういう日本の音楽に惹かれたようですしね。僕も「昔、ボアダムスとやっていた」なんて言うと、未だに「そうなのか!」なんて興味を持たれますしね(笑)。今、日本には女性のソウルシンガーみたいな人が多いですが、上手い人はアメリカに掃いて捨てるほどいますから、この辺はなかなか難しいんですよね。

——日本でR&Bとか、そう呼ばれる人たちですよね。

麻田:だから僕は、隙間を狙うんです(笑)。実は今バンドって狙い目だと思うんですけどね。先ほどお話したパイレーツ・カヌーなんて、編成はマンドリンとバイオリンとギターですからね。他にあまりない、非常に面白いバンドです。

——韓国が世界中を席巻していますが、全部ダンス系でバンドはあまりいませんよね。

麻田:いないですね。日本はバンドが強いですし、オリジナリティ溢れるバンドが結構いますから。

——ちなみに言葉の問題はどうなんですか?

麻田:言葉の問題も本当にないと思いますよ。英語を歌わなきゃいけないということもないですしね。

——要するに、海外仕様の味付けはしないでオリジナルで勝負できる?

麻田:そうですね。そういえば、去年のSXSWでPerfumeをやったんですよ。これは凄く評判が良かったですね。みんな驚いていました。あと、BABYMETALも「良いところを突いているな!」と思って、彼女たちが中学生のときに「SXSWに行こうよ」と提案したんですが、卒業試験かなんかでダメでした(笑)。あれだって独創的なアイデアを実現させた“隙間”じゃないですか(笑)。

——良いところ突きましたよね。

麻田:本当に良いところ突いています。あとPerfumeは凄いです。彼女たちのライブは世界の最先端を行っていると思います。ステージを演出しているライゾマティクスというチームがとにかく凄い。ディレクターの真鍋大度さんが作る映像も含めたあのステージね。SXSWでは1日しかやらなくて、それも1時間くらいのライブでしたが、スタッフは70人くらい行っていますからね。恐らく1千万円以上かかっているんじゃないかな?

実はPerfumeはSXSWでやる何ヶ月か前に、ロスとニューヨークでライブをやったんですが、全然記事が載らなかったんですよ。つまり、その辺は売り方のノウハウがないんですね。結局、来るお客さんは、向こうに住んでいる日本人で、2000〜3000人なんてすぐ集まっちゃうじゃないですか。

——それはもったいない話ですよね。

麻田:そう、本当にもったいないんですよ。僕がピチカートをやっていたときに、マタドールは「ツアーをやってくれ」と言ってくるんですけど、僕は金がかかるからツアーに出したくなかったんです。そうしたら「ツアーをやらないんなら何ができるんだ?」と言われたので、「とにかくビジュアルで攻めたい」と提案したんです。ビジュアル的には群を抜いて良いから、ポストカードを作ったり、ポスターを貼ったりしました。あとはどういったところにプロモーションしたら良いかなと向こうの人に訊いたら、ゲイの人たちにプロモーションした方が良いとアドバイスされたんですね。

——ゲイの人たちにですか?

麻田:そう。ゲイの集まるライブハウスやバーですね。ゲイの人たちってセンスがとても良くて、先物買いの人たちなんですよ。あの人たちが面白いと言えば後はついてくるだろうと。そういうアイデアみたいなことをきちっと考えた上で、コンサートをやらないとやはり刺さらないんですよね。

——準備をしないと行っただけで終わってしまう?

麻田:本当に行っただけで終わっちゃうんですよね。その代わり、SXSWでやったときは凄く評判が良くて、アミューズの人も大喜びでした。でも、それはホールクラスになった人たちの悩みであって、ライブハウスでやる分には、とにかく来ているお客さんを掴めばOKです。ギターウルフなんてまさにそうですよ。ギターウルフも本当によくツアーをやっていましたからね。

——そういった事情がよく分かっている麻田さんには音楽の輸出商社みたいな仕事をして頂きたいです。

麻田:僕も今後はそういうことをやった方が良いのかなと思っているんですけどね。無駄なことをしてもしょうがないじゃないですか。

——現地の動向に合わせて適切なタイミングで商品をリリースするという。

麻田:でも、ちゃんと見ている人は見ていますからね。3年前くらいかな、浅草ジンタという変わったバンドがいるんですよ。そのバンドが僕は好きで、SXSWに2回出てもらったんですが、そうしたらヨーロッパのエージェントが気に入ってくれて、翌年にヨーロッパツアーをやって、2013年のグラストンベリーに出たんです。ですから、きちっとした人が見て「これ面白い」となったら、意外といけるんですよね。そこを無駄なく売り込んでいくのが大切になるんです。

——お話を聞けば聞くほど、これからも麻田さんの力が必要な気がします(笑)。生涯現役でお願いしたいです。

麻田:どうでしょうねえ(笑)。やっぱり年は感じていますよ。ライブは相変わらず観に行っていますけどね。SXSWがあるから、やっぱり観ないと駄目じゃないですか。ただ、SXSWの出演に関しては基本的にはアメリカの方へみんな申し込むんですよ。それでむこうが選ぶんですが、僕たちとしても「今年はこれを推したい」という1枠持っているんです。でも、基本向こうの人たちがセレクトしますから。どんなに有名な人でもそれは関係ない(笑)。

——やっぱりこの商売に引退はないですね。好きなものはやめられないんですよね。

麻田:そうなんですよね(笑)。いまだに「え? こいつら凄えな!」と思うアーティストが時々いますからね。そういった出会いは一種の“麻薬”みたいなものなんですよね(笑)。

——不謹慎な言い方ですが、「分かっちゃいるけど止められない」(笑)。

麻田:「え? こいつら今までどこで何やっていたの?」という興奮があるんです。それはアメリカのSXSWでも日本でもそうです。そういう素晴らしい出会いがあるから、この仕事はやめられないんですよ。

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