第209回 RAD CREATION株式会社 代表取締役社長 綿谷 剛氏【前半】
今回の「Musicman’s RELAY」は株式会社CLOUD ROVER 代表取締役 / 「見放題」主催の髙橋“民やん”祐己さんのご紹介で、RAD CREATION株式会社 代表取締役社長 綿谷 剛さんのご登場です。
サッカー少年だった綿谷さんは、中学時代に出会ったGLAYやラルクの影響でバンド活動を始め、高校卒業後は名古屋で結成したバンドの活動の傍ら、上前津ZIONでバイトを始めます。次第に裏方業務の楽しさを知った綿谷さんは、バンド活動をやめ、TRUST RECORDS設立したのちに独立、最初のライブハウス「R.A.D」をオープンさせます。以後、ライブハウスや飲食店など店舗数を拡大。無料のロックフェス「FREEDOM NAGOYA」や「でらロックフェスティバル」の主催など、名古屋の音楽シーンの中心でご活躍する綿谷さんにじっくり話を聞きました。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也、長縄健志 取材日:2023年10月24日)
民やんさんは、ちょっといい人すぎる
──前回ご登場頂いた髙橋“民やん” 祐己さんとはいつ頃出会われたんですか?
綿谷:民やんさんと最初にお会いしたのは、10年ぐらい前だと思います。多分、名古屋の「SAKAE SP-RING」というサーキットの打ち上げ、ではないんですけど、バンドやスタッフのみんなが中華料理屋に集まって勝手に打ち上げするみたいな会があって、そこで初めて会いました。もちろんお名前はずっと存じ上げていたのですが、民やんさんはギターロックというか歌もののバンドやアーティストとの交流が多くて、僕はどちらかというとパンクとかラウド系の仲間が多かったので、それまでは交流がなかったんです。で、その飲み会で初めて一緒になりました。
──そのときすでに民やんさんはサーキットのプロデューサーをやっていたんですか?
綿谷:「見放題」はやっていました。僕も独立してライブハウスとレーベルやっていました。
──そして、今は仕事がらみのお付き合いがあって?
綿谷:「TOKYO CALLING」というサーキットイベントをLD&Kさんと民やんさんと九州のPROJECT FAMIRYというイベンターさんとうちの4社で年に1回やっています。今年は9月16日から18日までの3日間開催しました。
──今年の「TOKYO CALLING」も盛況だったんですか?
綿谷:大盛況でした。やはりコロナが明けたこともあり人がたくさん集まってくれて、すごくいいイベントになったと思います。
──民やんさんに対してはどういう印象をお持ちですか?
綿谷:民やんさんは本当にいい人ですね。「ちょっといい人すぎるんじゃないかな・・・」と思ったりもします(笑)。あまり音楽業界にいない感じの人というか、悪意がないというか。商売の意味でもいい人すぎるので、「もっと商売っ気を出してもいいのに・・・」と思うんですけど(笑)。
──音楽業界には悪意のある人が結構いますか?(笑)
綿谷:いやいや(笑)。悪意というか、損得勘定じゃないですけど、ビジネス的なお付き合いみたいなのっていろいろあるじゃないですか? でも、民やんさんって単純に音楽が好きで、ライブハウスが好きでって感じなんですよね。実は今夜うちのレーベルのバンドのライブがあるんですが、多分、民やんさんは来ると思います(笑)。民やんさんは、自分が関係なくてもライブに来て、ライブを観て、打ち上げ出てみたいな感じなので、もういい人としか言いようがないんですよね。
──不思議な人ですけど、すごく魅力的な人ですよね。
綿谷:本当にそうですね。いつも良くしてもらっています。
──わかりました。ここから綿谷さんご自身について伺いたいのですが、綿谷さんは今年でおいくつなんですか?
綿谷:1984年生まれなので今年39で、来年40になります。
──お若いですね(笑)。お生まれはどちらですか?
綿谷:愛知の豊川市です。
──豊川稲荷の豊川ですか?
綿谷:そうです。メチャクチャ田舎でも、メチャクチャ都会でもないという土地柄で。
──ご家庭には今の仕事に繋がるような音楽的環境などありましたか?
綿谷:音楽関係はなにもなかったですね。両親も特別音楽が好きだったわけでもないですし、普通のサラリーマンと専業主婦の家庭に生まれました。弟と妹がいて、一応長男です。
GLAYとラルクで音楽に目覚めた中学時代
──綿谷さんはどんな少年だったんですか?
綿谷:小学校のときはサッカーを熱心にやっていて、小中はサッカーしかしていなかったですね。その他の勉強とかは全然普通で、通信簿はオール3みたいな感じでした。もう可もなく不可もなく、ですね(笑)。
──(笑)。サッカーはかなり本格的にやったんですか?
綿谷:地元のサッカークラブと部活の両方でやっていまして、休みのたびに遠征とかいろいろ行きました。
──そんなサッカー少年だった綿谷さんの音楽との出会いはいつだったんですか?
綿谷:中2ぐらいでGLAYやラルク(L’Arc〜en〜Ciel)を聴いて、好きになったのが音楽にのめり込むきっかけですね。当時ってビジュアル系が一般的になったときで、それとともにロックに出会ったという感じです。
──だいたい2000年前後?
綿谷:その頃ですね。GLAYも20万人ライブをやったり。
──GLAYとラルクで音楽に目覚めた。
綿谷:はい。その2バンドの存在は大きかったです。ライブには行ったことはなかったですけど、彼らに憧れて学校にギターを持ってきている友だちとかも結構いて、それで自分もやりたいなって思ったんです。
──それで学校で即バンドを結成した?
綿谷:そうですね。GLAYとラルクのコピーバンドから始めて、文化祭とか街のお祭りとかで定期的に仲間と演奏していました。
──続く高校では音楽一色ですか?
綿谷:高校ではサッカーをやめちゃったので、もう音楽だけでバンドは遊び道具みたいな感覚だったんですよね。友だちと集まる理由がバンドだったのかもしれないです。田舎なので、友だちの家が音を出しても全然大丈夫で、スタジオ代わりになっていたんですよ。なので学校が終わったら、その家に行って練習していました。
──それはほぼ毎日?
綿谷:毎日ですね。高校生のときは特にやることもなかったので(笑)。
──(笑)。でもそれってすごく恵まれた環境ですよね。プライベートスタジオがあるわけですから。
綿谷:ただ楽器を弾くだけですけどね。防音とか吸音はなにもしていない部屋でしたけど、家と家が離れていたので、苦情にもならずやっていました。
──高校3年間はバンドに没頭して、当然プロデビューを目指すわけですよね?
綿谷:はい、一応(笑)。大学とかは全く考えなくて、卒業後も普通にバンドをやりたかったんですけど、一緒にバンドをやっていた高校の友だちはみんな地元に残って就職したり、進学したりしたんですよ。なので、僕は家を出て、名古屋へ行きました。
──ちなみに豊川と名古屋って通える距離じゃないんですか?
綿谷:60キロぐらいなので通えなくはないんですよね。1時間ぐらいですか。絶妙な距離というか「ちょっと遠い」という感じですかね。
──距離感からすると東京23区と八王子ぐらいですかね。
綿谷:イメージ的にはそうかもしれないです。23区内の人からすると八王子的な場所かもしれないですね、豊川は。
──でも、綿谷さんはとにかく家を出たと。
綿谷:そうですね。豊川は本当に田舎すぎて、僕はその場所になにも未来を感じなかったんですよね。
新バンドの活動と並行してライブハウスで働き始める
──名古屋へ行ったときに、働き先はすでに決まっていたんですか?
綿谷:いや全然。高校卒業してフリーターとして名古屋で1人暮らしをしてバイトして、でしたね。
──「ミュージシャンになってくるわ」と家を出ていって、ご両親はなにか言いましたか?
綿谷:全然なにも言われなくて(笑)。
──「いってらっしゃい」みたいな?(笑)
綿谷:はい。恵まれていたんですかね。就職しろとか、大学へ行けとかは全く言われなかったので、自分のやりたいようにやったという感じです。
──それはすばらしいですね。で、名古屋に行ってみて、いかがでしたか?
綿谷:名古屋に行ったときは1人も知り合いがいなかったので、最初は楽器屋のメンバー募集からメンバーを集めて、割とすぐにバンドを始めたと思います。
──名古屋には全く知り合いがいなかったということは、別に名古屋じゃなくてもよかったわけですよね?一気に東京へ行ってしまうとか。
綿谷:東京に行くという概念は全くなかったですね。「都会つったら名古屋だろ!」みたいな感じで(笑)。
── 一番身近な都会が名古屋だったと(笑)。
綿谷:高校のときから名古屋に遊びに行ったりしていたので。もう子どもすぎて、東京や大阪に行くという発想がなかったですね。それで、組んだバンドの子たちは同い年で、その子たちの顔なじみのライブハウスがあって、そこでライブをやるようになりました。
──メンバー構成はどんな感じだったんですか?
綿谷:女の子2人と僕の3ピース・バンドで、女の子2人は地元が名古屋だったんです。
──バンド活動を始められて、普段はバイトとかをしていたんですか?
綿谷:していましたね。コンビニや漫喫の夜勤とか。夜勤は割がいいので、色々なところで夜勤していました。
──そのバンドはメジャーデビューとかまでいったんですか?
綿谷:いや全然。ただそのバンドで売れたくて、僕は外交というかブッキングの窓口をしていたので、まず自分のバンドが売れるために仲間を増やそうということでイベントを始めたんです。今の仕事に繋がるきっかけは多分そこですかね。
──もともとは自分のバンドのプロモーションのためにイベントを始めたんですね。
綿谷:自分のバンドを売るために仲間を増やして、いろいろなイベントに誘ってもらおうと思っていました。それで、自分のバンドのライブがないときも、自分が格好いいと思うバンドや、有名なバンドのライブへ遊びに行って、「こういうバンドやっているので、今度一緒にやってください」としゃべりかけていました。
──そのあとバンドの活動はどういう展開になっていくんですか?
綿谷:そのバンドを売るための宣伝活動として、月1回ぐらい僕個人で、自分のバンドが出て、友だちのバンドや東京の人気バンドを呼ぼうと思ってイベントを始めました。その後、栄TIGHT ROPE、上前津ZIONというライブハウスで働き始めました。
──ZIONは地元では有名なライブハウスだったんですか?
綿谷: ZIONは僕が働き出したとき、まだできて2、3年ぐらいの新しいライブハウスだったんです。勤める理由も、自分でイベントを月1とかでいろいろなライブハウスでやっていて、ときには赤字を切ることもあったんですが、ZIONは「また次に返してくれればいいよ」って言ってくれて、恩を感じていたんです。そこで「もうここで働いて、イベントをやったらいいんじゃないか?」と思い、働きだしました。そうしたら箱代とかもいらないし、好きにやれるよ、みたいな(笑)。
──(笑)。それですぐにブッキングの中心メンバーになったと。
綿谷:イベントはずっとやっていましたし、ZIONはまだシステムが確立されてなかったので、大分自由にやらせてもらいました。
──オーナーは若い方なんですか?
綿谷:僕より一回り上をいっていないぐらいの年齢なので、今の僕より若かったかもしれないですね。30中盤ぐらいでしたから。
22歳で「俺はアーティストじゃないな」と気づき裏方へ〜TRUST RECORDS設立
──ライブハウスではブッキングのほかにどんな仕事をしていたんですか?
綿谷:あらゆる仕事をしていましたね。ブッキングと帳簿付けみたいな仕事もしていましたし、ビールが何本売れてとか売上とかも管理していましたし、バックヤード的なことは全部やっていました。
──その体験なくして、自分でライブハウスをやってやろうとは思わないですよね。
綿谷:そうなんですよね。全部知っちゃっていたのがよくなかったというか(笑)。お店の基本的なところを色々任せてもらうようになって、途中からバンドよりもイベントを組んだり、お店を回すほうが楽しくなってきちゃったんですよね。それで、バンドをやめました。
──バンドはいくつのときにやめたんですか?
綿谷:22ですかね。
──それは見切りが早い(笑)。自分の才能はステージの上に立つことよりも、イベントを仕切ったり、プロデュースする方にあるんじゃないか?とどこかで気づいたわけですか。
綿谷:まさにそうですね。早めに「俺はアーティストじゃないな」と気づいて、裏方だなと思ったんですよ。だから早く気づいてよかったと思います。
──誰の目から見てもアーティストとしての才能はないのに、本人は表舞台に立とうとあがいている30代後半とか、結構辛いものがありますよね。
綿谷:僕は早々に自分の才能に気づけてよかったです。もう、未練は全くなかったですし、スッパリあきらめられましたし、そこからは裏方にのめり込みました。
──綿谷さんにとってはバンドって大学生活みたいですよね。大学を出たから就職するのと同じように裏へ回ったみたいな。
綿谷:本当に。自分のバンドで売れたかったという気持ちがあったので、それでイベントをやったり、自分のバンドを売るためにいろいろなバンドに声をかけて音源をもらってコンピを作ったりし始めたら、バンドよりもそっちのほうが楽しくなっちゃったという感じですかね。結局、そのコンピからTRUST RECORDS設立へ繋がっていきます。
──TRUST RECORDSの設立は何年ですか?
綿谷:TRUST RECORDSは2006年に立ち上げました。ちょうどバンドをやめるかやめないかのときです。そのあともZIONには籍は残っていて、そこに「自分がやっていた雑務をできるやつとして」と連れてきた後釜が、今も一緒にやっている長尾(健太郎)です。
──長尾さんもミュージシャンなんですか?
綿谷:長尾もバンドマンで、僕がよく月1とか月2でブッキングして「じゃあこの日出てノルマ20枚ね」「はい、わかりました」みたいな関係だったんです。それで僕がZIONの社員になるためには、僕と同じ業務ができるバイトを1人探せと言われて、長尾に「俺社員になりたいからバイトをやってくれ」「わかりました」という感じで(笑)。
──(笑)。
綿谷:それで僕は社員になったんですが、1日10何時間働いて、休みが月4日で、月給が13万だったんです。仕事はメッチャ楽しいけど「これだけやって月13万の給料はヤバくないか?」となったんです(笑)。
──実態を知ってしまっていたわけですしね。
綿谷:毎日楽しくてしょうがなかったんですけど「あれ、これだけ頑張って…」と。
──これは自分でやらないとしょうがないと。
綿谷:でも多分、当時22、3とかですけど、月に30万とかもらっていたら多分辞めていなかったと思います。13万だったので辞められたというか、自分でやったほうがいいなと思えたんですよね。それで長尾に「独立するからお金を貯めておいて」って言ったんですよね(笑)。
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