第208回 株式会社CLOUD ROVER 代表取締役 / 「見放題」主催 髙橋“民やん”祐己氏【前半】

インタビュー リレーインタビュー

髙橋“民やん”祐己氏

今回の「Musicman’s RELAY」は渋谷O-Crest 店長 / ライブイベント「MURO FESTIVAL」主催 室 清登さんのご紹介で、株式会社CLOUD ROVER 代表取締役 / 「見放題」主催の髙橋“民やん”祐己さんのご登場です。

ライブハウスへ通い始めた大学時代にバンドスタッフとして活動を開始した民やんさんは、サラリーマンになっても毎晩ライブハウスへ通い続ける日々を過ごし、のちに個人イベンターとして数多くのイベントを主催します。2008年にはサーキットフェス「見放題」を立ち上げ、2012年に脱サラ。2015年には株式会社CLOUD ROVERを設立し、「見放題」の主催とともにインディーズレーベルの運営やマネジメント、ライブ制作、専門学校講師業など、その活動は多岐にわたります。

2015年からは「見放題」を東京でも開催し、「TOKYO CALLING」など年間5本のサーキットフェスを主催する、 “日本一サーキットフェスに詳しい男”民やんさんに、ご自身のキャリアからライブハウスシーンの現状、そして音楽業界を目指す人たちへのアドバイスまで、たっぷり話をうかがいました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也、長縄健志 取材日:2023年9月20日)

 

高校で落ちこぼれて、ラジオにハマる

──まず、前回ご登場いただいたO-Crestの室 清登さんとはいつ頃出会われたのでしょうか?

髙橋:室さんに出会ったのは2011年ですね。自分は大阪のバンドのマネージメントもしていまして、東京のO-Crestに出るというタイミングでお会いしました。

──室さんはその頃O-Crestの店長ですか?

髙橋:店長でした。初めて会ったときは「ザ・東京人」というか、ひょうひょうとしている感じで「とっつきにくいな」というイメージだったんです。今はそんなことないんですけど、表面と内面が全然違う人だなみたいな。最初はそんなイメージで苦手だったんですが、仲良しになりました(笑)。

──(笑)。室さんは一見優男風ですよね。

髙橋:だから「自分とタイプが違う」みたいなイメージがあったんですが、本当はメチャメチャ熱いというか、誰よりもバンドマン寄りというか、自分に似ているところがあったので共感できることが多くて、そこからは一緒にイベントをやったりしています。

──ここからは民やんさん自身のことを伺いたいのですが、最初にこの「民やん」って呼び名はどこから来ているんですか?

髙橋:僕は大学に入学してからインターネットに触れるようになったんですが、掲示板やチャットでハンドルネームがいるとなったときに、友だちが「お前ユニコーンが好きだから、『民やん』とかでいいんちゃう?」と言われたのがきっかけです。

──奥田民生からの「民やん」ですか?

髙橋:そうです。友だちが適当に言ってきたワードで「じゃあ、それで書き込むわ」みたいな感じで使っていたんですが、それが独り歩きしすぎて、戻れなくなってしまって(笑)。

──でも親しみがあっていいですよね。

髙橋:当時、ネット由来でそう呼ばれることに対して、すごく恥ずかしかったんですが、僕の本名の髙橋ってどこにでもいる名前ですし、さん付けすると堅苦しくなっちゃうんですよね。

──「髙橋祐己」ってやけに二枚目の名前ですよね(笑)。

髙橋:(笑)。「髙橋」も「祐己」も多すぎる名前なので、イメージに残らないんですよね。でも「民やん」だったらすぐに覚えてもらえますし、結果論なんですが、民やんという名前が定着してよかったなと思います。

──わかりました。民やんさんのお生まれはどちらですか?

髙橋:1978年、広島福山市の生まれです。でも、自分はそこで生まれただけで、すぐ母親の実家がある大阪の吹田へ引っ越したので育ちは大阪なんです。ただ、広島のDNAが入っているからか広島カープのファンだったり、広島好きではあるんですけどね。

──ご家庭に、音楽や今のお仕事につながるようなバックグラウンドはありましたか?

髙橋:いや、特になにも。ただ、小さいときを思い返せば、レコードでビートルズやカーペンターズが流れている家だったな、くらいですね。それも本当に好きで流しているとかではなくて、もっとライトな感じというか。

──BGMとして流れている?

髙橋:本当にただ流れていただけで。それを聴いていたのが幼少期の思い出としてあります。

──お父さんのお仕事は?

髙橋:普通の会社員です。それで母は専業主婦というごく一般的な家庭でした。

──ちなみにお父さんはどんな関係の仕事をなさっていたんですか?

髙橋:繊維系の会社勤めですね。ですから、小さい頃は親の仕事を聞いてもわからなかったです。「繊維を売っているってどういうことなの?」みたいな。しかも営業だったので平日は忙しくしていて、土日ぐらいしか親父を見ないみたいな感じで、それが当たり前だと思っていました。

──民やんさんはどんな少年だったんですか?

髙橋:中学までは部活のバスケに熱中していたんですが、高校に行ってから適当になってきて(笑)。本当にダメ人間でしたね。3限目から学校に行くみたいなやつで。

──中学まではちゃんとしていたと。

髙橋:中学まではエリートでしたね(笑)。「ちゃんといい高校に行けた」という自負があるくらい勉強もしていました。行ったのは千里高校という高校なんですが、いわゆる学力的には上のほうの学校だったんですよ。で、自分は優秀だと思っていたんですが、高校に行くと全員自分と同じ偏差値のやつが来ていることに気づいて「あれ?」みたいな(笑)。

──野球の名門校に入ったらすごいやつがいっぱいいたみたいな(笑)。

髙橋:そうそう(笑)。急にレギュラーがとれなくなったみたいな。それで落ちこぼれまって、次第にラジオにハマっていくんです。はがき職人とまでは行かなかったですけど、AM、FM両方とも夜中までラジオを聴いて、学校の1限目に行けなかったです。

──深夜放送まで聴いていた?

髙橋:オールナイトニッポンの2部まで聴くみたいな。そりゃ朝学校へ行くのは無理ですよね(笑)。そんな感じの高校時代でした。あと別にバンドをやっているとかではなかったんですけど、音楽は好きで聴いていました。

──ラジオ少年だったんですね。

髙橋:ラジオ少年でした。それで高校では完全に落ちこぼれていたんですが、そう言いながら大学へは行き、大学生のときに初めてライブに行くようになりました。

 

CHABAのスタッフとして音楽業界の入り口に立つ

──高校時代はライブへ行ったりしなかったんですか?

髙橋:落ちこぼれたと言っても高校までは部活をやっていたので行ってなかったんです。

──何部だったんですか?

髙橋:そのままバスケ部に入りました。結局、部活は途中でやめたんですが、部活をやっているとライブに行くという感覚がなかったですし、一緒に行くような友だちもいなかったんですよね。「音楽は1人で聴くだけのもの」というイメージだったので。

──音楽を語り合う友だちはいなかった?

髙橋:いなかったですね。大学へ行って、インターネットに触れて、ネット上でライブに行っている人と出会った感じですね。

──ちなみに民やんさんが学生時代に好きだったアーティストは誰ですか?

髙橋:スタートはユニコーンとTHE BOOMなんです。中学校ぐらいのときに友だちからCDを借りて好きになって。でも、いまだにライブを観に行っているアーティストはヒートウェイブですね。実は大阪でたまにライブのお手伝いとかもさせてもらったんですが、好きすぎて今も緊張しますね。

──民やんさんの世代からすると渋いですね。

髙橋:ほとんどの人に「誰?」と言われますが、ヒートウェイブやソウル・フラワー・ユニオンとかそういう硬派なバンドが好きなんですよね。

──大学はどちらに行かれたんですか?

髙橋:大阪学院大学という大学です。本当になにも勉強しないで入ったんですよね。特に大学へ行きたいわけでもなかったんですが、大学に行かないとダメみたいな感覚もあって。

──「当然、大学は行くものだ」という考えだった?

髙橋:いわゆる昭和的な考えですよね。ですから大学の記憶ってあまりないんですよね。目標や目的もなにもなかったですし、ただ行っただけというか、流れのままに生きているという感じだったんですが、大学時代にライブハウスに行くようになって、そこでCHABAというバンドと出会うんです。アコギと沖縄の三線とバイオリンという3人編成で、そこにドラムとベースを入れてバンドでもやるという変わったバンドで。

──基本は3人のユニット?

髙橋:そうです。先ほどもお話した通り、僕は中学の頃からTHE BOOMが好きだったので、CHABAが三線をやっているのを観て「面白いやつらがいる」と思ったんです。それでCHABAを好きになり、彼らのストリートライブに行くようになります。

──ストリートライブはそのCHABAだけ観に行っていたんですか?

髙橋:はい。それで何度もライブを観ていると、素人なりに彼らが苦労していることとかが見えてきたんです。「スタッフがいないから大変そうだな」とか。それで「スタッフをやらせてください」とCHABAのメンバーたちに申し出て、スタッフをやることになったのが大学3年のときで、音楽業界に入るきっかけになりました。

──それはファンだったというよりは「俺が関わればもっとよくなるのに」という感覚だったんでしょうか?

髙橋:いや、最初はファンの延長でしたけどね。好きだからこそもっと手助けしてあげたい、みたいな気持ちからですね。それでスタッフとして、ホームページを編集したり、フライヤーを作ったり、一緒にグッズを作ったり、あとレコーディングについて行ったりと色々経験させてもらいました。

その後、CHABAはメジャーデビューすることになり上京するんです。事務所はKICK THE CAN CREWが所属するエレメンツ、レコード会社はキューンに決まったんですが、そのときに「スタッフまでは雇えない」と所属事務所に言われて、僕は大阪に残ることになったんです。

──泣く泣くお別れみたいな。

髙橋:そうです(笑)。当時は「CHABAと一緒に仕事ができるならやりたい」という気持ちが強かったので、そうじゃないなら音楽業界のほかの仕事を探そうみたいな気持ちはまったくなかったんですよね。

──なんだかもったいないですね。関わっていたバンドがせっかくメジャーデビューしたのに。

髙橋:事務所的に言うと「大阪の子をそこまで責任持てない」みたいな感じだったんですよね。だから、もし僕が東京の実家暮らしだったら多分、バイトとかで雇ってもらえる方法はあったんだろうなと思います。また、僕も当時は「正社員しかない」みたいなイメージだったので、正社員で雇ってもらえないとダメだと思っていました。

──そこは堅かったんですね。

髙橋:そうですね。当時はなにもわかっていなかったので。

 

個人イベンターの中で目立ちたい〜サーキットフェス「見放題」をスタート

──アーティストと別れたときはまだ大学生ですよね? そこからいわゆる就職活動を始めたわけですか?

髙橋:はい。それで印刷会社の営業として就職したんですが、ライブは基本的に好きだったので、サラリーマンになってからもライブには毎日のように行っていて、大阪のライブハウスの人からしたら「いつもスーツでライブに来るやつ」だったんですよ。メジャーなバントも行きましたし、CHABAからの流れでインディーズも好きになったので、いわゆるインディーズのライブにもたくさん行きました。

──そこまで毎日行っていると、顔パスで入れるんですか?それともお金払うんですか?

髙橋:場所によりますね。CHABAの流れでスタッフとして繋がっているライブハウスは顔パスで入れるところもありますし、もちろんお金を払っているところもありますし。当時はどっちつかずの人だと思われていたと思いますね。もちろん民やんと知ってくれている人もいっぱいいましたけど。

──大阪のライブハウス界隈では有名人?

髙橋:変なサラリーマンがいるな、という感じだったと思います。

──その頃は会社が18時とかに終わって、19〜20時頃からライブが終わるまでずっと観ているんですか?

髙橋:ずっと観ていましたね。しかも半分裏方もやっていたので、2時とか3時まで打ち上げにも行っていました。僕は毎日6時半に起きないと間に合わない職場だったので、どんなに遅く帰宅しても6時半に起きて7時11分の電車に乗って8時半から働くみたいな生活をしていました。多分あの頃が人生で一番寝ていなかった自信があります(笑)。

──(笑)。通勤電車の中でぐっすり寝て?

髙橋:電車で1時間寝ていましたね。それでなんとか生きながらえていました。なんであんなに打ち上げとかまで行っていたのかはよくわからないんですが、まあ、楽しかったというだけなんですけど。

──そういう生活が何年ぐらい続いたんですか?

髙橋:サラリーマンを7年やっていました。

──その生活で7年もやったんですか?かなり頑張りましたね。

髙橋:でも、そのうち4年は「見放題」もやっているので、サラリーマンだけをやっていたのは多分3年ぐらいですね。

──サーキットフェス「見放題」を始めるきっかけはなんだったんですか?

髙橋:毎日のようにライブハウスへ通う中で、ライブハウスの人から「イベントやったらいいんちゃう?」と言われたんですよね。そう言われたとき、たまたまFM802のADをやっている女の子と、清水音泉というイベンターで働いていた女の子と3人で一緒にいたので「じゃあ3人でイベントやろうか」と、2006年に初めてイベントをやったんです。もし1人のときにそう言われたら多分やらなかったと思うんですよね。

──2006年ということは27、8で初イベントですか?

髙橋:そうなんです。それまでスタッフ期間も、ただのライブ好きな期間もありましたが、27、8でようやくイベントを始めて、3か月に1回ぐらいイベントをやっていたんですが、まだ大きく目立つようなイベントではなかったです。当時、関西は個人でイベントやっている子がメチャメチャ多かったですしね。

──同じようなことをやっている人がたくさんいたんですか。

髙橋:俗に個人イベンターと言われていたんですけど、その個人イベンターの1人みたいな立ち位置に変わってきたんです。僕のスタッフ時代を知らない、業界の人からしたら「民やんて素人がイベントをやっている」という感じだったんですが、僕からすると当時の個人イベンターは面白いことをやっているというイメージがあって、その個人イベンターの中でも目立ちたい、みたいな欲が出てきたんです。それで、他でイベントをやっていた潮大輔という男と「サーキットやらない?」という話になったんです。

──それが若くして亡くなってしまった方ですか?

髙橋:そうです。そいつは「大ちゃん」と呼ばれていたんですけど、2人とも同じシーンにいて、まったく同じことをやっているわけじゃないですが、同じようなものが好きなので、合わさったらいいものができるんじゃないかとお互い思っていました。

実はそこまで仲が良かったわけでもないんですが「一緒にやろうか」という話になり、居酒屋で大阪の地図を広げて「ここできるんちゃう?」みたいな感じでライブハウスに印をつけて、サーキットフェス「見放題」を2008年に始めました。

──サーキットフェスをやるとなったときに、ライブハウスとはどういう契約になるんですか?ライブハウスの取り分というのは固定なんですか?

髙橋:固定ですね。例えば「会場費として10万円ほしい」とか言われるので、それを払うと。仲が良かったライブハウスを使ったというのもあるんですけど、最初はそうでしたね。

──ライブハウスの側も、そういうことをしてくれる人は願ったりかなったり?

髙橋:そうですね。ですから、さっき言った個人イベンターをすごくウェルカムなムードが当時ありました。ライブハウス側としたら自分たちがやっていないようなものを持ち込んでくれますし、イベント後もそのライブハウスの利益に繋がることも多いので、全然ウェルカムでしたね。

──今もそのウェルカムな状況が続いているんですか?

髙橋:箱によるんじゃないですかね。結局ちゃんとやる子もいれば、ちゃんとできない子もいますしね。夢と憧れでイベントをやる子はいるんですけど、お客さんが入らないとか、会場は抑えたけどバンドが決まらないみたいなこともありますしね。それで連絡がつかなくなってしまったとか、一概に全員がよしと思っているかどうかはわからないです。

──とにかく大阪のライブハウス界隈では民やんさんは名プロデューサーと認識されていた?

髙橋:名プロデューサーかどうかは分からないですけど(笑)、僕も大ちゃんもそれまでやっていたイベントで信頼はあったと思います。それで2人で「見放題」をやり始めて、いわゆる大きいことを個人でやったので、そういう意味ではだいぶ注目を集めたと思いますね。

 

30歳過ぎにして音楽一本の生活を決意する

──「見放題」を始めたとき、民やんさんは会社員3年目くらいですよね。そこから何年かは「見放題」をやりながら会社へ行く生活を続けたわけですよね?

髙橋:そうです。その両立がどんどん大変になっていくんです。

──ただライブを観ているうちはよかったけど、イベンターとなると責任も出てくるわけですよね。

髙橋:それもそうですし、アーティストとのつながりも大事なので、色々な打ち上げに顔を出すようになり、どんどん大変になってきたんですよね。特に両立最後の年(2011年)なんかは「見放題」が心斎橋のアメリカ村へ移って、規模感が3倍ぐらいになったので、会社には「営業に行ってきます」と言いつつ、漫画喫茶でずっと「見放題」の仕事やっていました(笑)。

──とんでもない社員ですね(笑)。ちなみに会社は民やんさんがイベントをやっていることを知っていたんですか?

髙橋:いや、ずっと隠していました。でも「なんかやっているな・・・」みたいなのは多分バレているんですけど(笑)。会社でもだいぶ異端児だったので。それで会社員と両立していた最後の年に、仕事と音楽で一杯一杯になって、どちらか削らないとダメだなとなったときに、普通は音楽を削ると思うんですが、僕はそこで「仕事を削ろう」と、ようやく音楽をメインにしようと思ったんです。

──ずいぶん時間がかかりましたね。

髙橋:僕はとんでもなく保守的なんです。こんなことをやっているのに「石橋をどれだけ叩くねん」ぐらいに。

──その決心がついたのが30過ぎていたということですか。

髙橋: 31、2のときですね。例えば、バンドマンってみんな何の後ろ盾もないのにバンドをやっているわけじゃないですか?なのに僕は会社員として働いて、給料もあるなかで守られていたわけで「なんか勝負していないな」とその頃にやっと思ったんですよね。あと「見放題」もすでに4年やっていたので、「今、会社を辞めてもライブハウスでは絶対に働ける」みたいな自信もありましたしね。

──失礼ですが、その頃はまだ実家にいたんですか?

髙橋:いました(笑)。それも大きいですね。実は実家に住んでいたんですけど、両親は祖父母の世話をするために田舎へ帰っていましたし、兄弟はそれぞれ独立していたので実家に僕1人で住んでいたんです。ぶっちゃけ家賃もかかっていないですから、勝負できるというか、最低、食費さえあれば生きていけると思ったんですね。

──ある程度恵まれていないと、そこまで後がないことをなかなか考え付かないですよね。

髙橋:戻るべき場所があるみたいな安心感はあったと思います。最終的になんとかなるみたいな。それに加えて、ライブハウスで働けるというのも大きかったですね。

──実際に誘いはあったんですか?

髙橋:ありました。僕が会社を辞めるという話が大阪のライブハウス界隈に広まったときに、ライブハウス4か所ぐらいからガチめのオファーがきました。でも「1回、自分で頑張ってみたいんです」とお断りして、「もし挫折したら働かせてほしいです」みたいな話もしました(笑)。

──(笑)。ちなみに二足の草鞋を履いていたときに、ライブハウスで憧れていた人とか手本にしていた人などいましたか?それとも完全に独学だったんですか?

髙橋:本当に独学でしたね。先ほどお話したように個人でイベントをやっている仲間が多くて、1年目の「見放題」とかはそういう人たちが手伝ってくれたんです。ですから、仲間たちと一緒に成長しているみたいなイメージはありました。当然、目標というか、憧れのイベントとしてMINAMI WHEELみたいなものはありましたが、誰かを目標とかにはしていなくて、正解の分からぬまま、全部独学でやっていましたね。

──もしイベンターとかにバイトで入っていたら続かなかったかもしれないですね。

髙橋:正直、それはわからないですね。よく言うんですけど、音楽業界でバイトをしたこともなければ、就職もしたことないんです。よく「ライブハウスで働いていたんですよね?」と言われるんですが、ライブハウスで働いたこともないんです。まあ、イベントを通じてライブハウスの表と裏を俯瞰して見ていたので、見えているものに関しては理解していたんですけどね。

 

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