第206回 株式会社近松 代表 / THEラブ人間 森澤恒行氏【前半】

インタビュー リレーインタビュー

森澤恒行氏

今回の「Musicman’s RELAY」は有限会社トゥー・ファイヴ・ワン 代表取締役社長 安田 弾氏のご紹介で、株式会社近松 代表 / THEラブ人間の森澤恒行さんのご登場です。

広島県呉市出身の森澤さんは、中学時代にベースを始め、高校ではバンド活動に熱中。大学進学のため上京後、大学2年よりライブハウス「下北沢CAVE BE」のアルバイトを始め、それが縁で2009年にバンド「THEラブ人間」を結成。楽器をキーボードに持ち替え、2011年にビクターよりメジャーデビュー。平行して2010年よりサーキットフェス「下北沢にて」の開催や、リハスタの運営、そして株式会社近松の設立など、バンド活動と音楽ビジネスの両輪で活動されてきました。

2017年にはライブハウス「近松」、そして2023年にはライブハウス「近道 / おてまえ」をオープンと、コロナ禍を乗り越えますます勢力的な森澤さんに話を伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也、山浦正彦 取材日:2023年8月4日)

 

最初に始めた楽器はベースだった

──前回ご登場いただいたトゥー・ファイヴ・ワン 安田弾さんとはどのようなご関係なのでしょうか?

森澤:弾さんと仲良くさせてもらいだしたのは、実はここ最近なんです。僕は「下北沢にて」というサーキットフェスを2010年からやっていて、今年で14回目なんですが、そのスポンサードの話をもらったのが最初で、それが2019年とか2020年とかだったと思います。もちろん昔からライブハウスの集まりにもよくいらっしゃるのは知っていましたが、きちんとお話したのはそれが最初だったと思います。あと、自分が店舗を増やしていくのにあたって、いろいろ相談に乗ってもらうようになったのも大きいですね。

──出演者としてではなくて経営者としての付き合い?

森澤:そうなりますね。経営者としてという感覚はあまりなかったですけど(笑)。CAVE BEというライブハウスを引き継いだときは、僕はもともとCAVE BEで働いていたのでノウハウは全部わかっていたんですが、ここ(ライブハウス「近道/おてまえ」)を始めるときはゼロからだったので、いろいろ教えてもらったのが弾さんと深く付き合うきっかけですね。本当にたくさんアドバイスしてもらいました。

──ここからは森澤さんご自身のことをお伺いしたいのですが、お生まれはどちらですか?

森澤:広島の呉です。映画『仁義なき戦い』の舞台となった港町ですね。

──どういったご家庭だったんでしょうか?

森澤:ひいじいちゃんが近松商店という会社を明治時代にやっていて、その会社は漁師さんの網を作る仕事をしていたんですよ。当時はその網を九州のほうに売ったり、あと網の作り方を教えていたそうです。

──明治時代からの会社って歴史がありますね。

森澤:昔は名前を長男が継承するみたいな流れがあって、ひいじいちゃんの代まで、長男が「近松」という名前を継承してきたらしいんです。それがじいちゃんの代で名前を継承しなくてもいいことになり、じいちゃんはその会社を継がずに別の会社を始めて、その会社を親父や弟が今引き継いでいます。

──おじいさんが始められた会社は何の会社だったんですか?

森澤:ガス会社ですね。プロパンを扱っているんですが、僕も高校生の夏休みや冬休みとかバイトで手伝っていました。

──ご兄姉は?

森澤:姉と弟がいます。僕は勉強もスポーツもどちらもある程度はできたと思うんですが、お姉ちゃんがものすごくできる人だったので、出来の悪い弟2人みたいな感じでしたね(笑)。

──スポーツはある程度できたとのことですが、何か部活はやっていたんですか?

森澤:部活に入らないといけない中学に行ったので、一番楽な部活がバレーボール部と聞いて「とりあえずそこに入っておけば、あまり頑張らなくていいかな」と思って入部したんですが、2年生になったときに新しい顧問の先生が入ってきて、メチャクチャ厳しい部活になっちゃったんですよ(笑)。朝練も昼練も夜練もやらされるみたいな。

──熱血先生が顧問になった?

森澤:そうなんです(笑)。それでみんな鍛えられてなぜか必死にバレーボールをやっているみたいな感じでしたね。

──バレーボールは中学3年間やっていたんですか?

森澤:一応3年間やりました。とにかく「先生が変わるとこんなに変わるんだ・・・」というぐらい別の部活になっちゃって。

──指導者のリーダーシップがどれだけ大切かという(笑)。

森澤:今にして思うとそうですね。だから、僕らが3年生のときの1年生が3年生になったときは市の大会で優勝していましたからね。入学時から鍛えられて。それだけ違うんだと強く感じました。

──それはいい経験ですね。

森澤:当時は「なんでこんなにやらされなきゃいけないんだ」と思っていただけですけどね(笑)。あと、中学生のときに1万円とか2万円くらいのベースを通販で買ってもらって、親父のレコードのベースとかを聴きながら真似て弾いたり、友だちと2人でアコギを弾いたりしていました。

──お父さんはどんな音楽を聴かれていたんですか?

森澤:ディープ・パープルとかレッド・ツェッペリン、エリック・クラプトン、クリームとかロックですね。あとエンケン(遠藤賢司)さんとかフォークも聴いていましたね。

──でも、森澤さんって今キーボーディストですよね。

森澤:楽器はベースからなんですよ。まあ、やっていたといってもベースもアコギもガチャガチャ弾いていたくらいなんですけどね。

 

高校時代に1年間カナダへ留学

──高校は地元の学校に進学されたんですか?

森澤:ええ。呉の、かなり田舎のほうの共学校に行ったんですが、そこで初めてバンドを組みました。ボーカルが2人いて、ギター、ベース、ドラムの5人組バンドで、僕はベースを担当していました。

──コピーバンドですか?

森澤:完全にコピバンですね。僕らが中学生のときに流行っていたハイスタ(ハイ・スタンダード)や、あと高校時代に流行っていた青春パンク、例えばゴーイング・ステディとかをコピーしていました。

──高校3年間はバンド漬けですか?

森澤:そうですね。ほぼバンドをやっていて、ライブハウスとかにも出演していました。高いノルマを払わされて(笑)。

──(笑)。そのシステムは広島も一緒ですか?

森澤:一緒です。なんなら高校生のほうが客を呼べるので。やっぱり友だちが観に来るじゃないですか?

──ちなみにバンドを始めて突然モテるようになったとか、そういう変化はありましたか?

森澤:「やったらモテるかな」と思っていたんですけどね・・・でも、全然そんなことはなくて(笑)。それで、高校の途中で1年間カナダへ留学に行ったんですよ。カナダのバンクーバーに行って、ホームステイして。そこでも友だちとバンドを作ったりしていました。

──カナダのバンクーバー時代に何かカルチャーショックとか受けたりしましたか?

森澤:一番カルチャーショックだったのは、うちのホストファミリーは両親ともに離婚経験がある再婚同士で、子どもも全員連れ子みたいな家だったので、家庭環境が結構複雑だったんです。ですから、最初は「なんでこんなことになるんだろう?」とすごく思っていたんですよね。

──その家庭環境が理解できなかった?

森澤:最初はそうでしたね。しばらくして分かったのは「お母さんやお父さんの幸せが一番なんだ」ということで、両親が幸せだから子どもたちも幸せになるというか、自分の幸せが周りを幸せにしていくという考え方なのかなと思ったんですよね。

──あくまでも主体は親だと。

森澤:日本だと子どもの幸せが自分の幸せ。でもむこうではお父さんとお母さんが幸せだから家族が幸せになっていくという。まあ、その家族だけだったのかもわからないんですけど、それはすごくカルチャーショックでしたね。

──そのカナダでの1年間で英語は上達しましたか?

森澤:英語は結構頑張りました。現地にはアジア人とかも多かったんですが、なるべく英語圏の友だちを作るようにして、せめて喋ることはできるようになろうと思って生活していました。

──カナダって香港からとか移民が多い国なんですよね。

森澤:そうですね。カナダって移民大国で、アジアだけじゃなくてヨーロッパからも多かったです。でもバンクーバーって本当にきれいな街でしたし、アメリカとかと比べたら差別も少ないですし、すごく住みやすかったですね。

 

下北沢CAVE BEでのバイトをきっかけにTHEラブ人間結成

──その後、大学はどちらに進まれたんですか?

森澤:1年遅れで和光大学に入ります。

──和光大学ですと、音楽業界に先輩がたくさんいらっしゃるんじゃないですか?

森澤:メチャクチャ多いです(笑)。ミュージシャンも多いですし。

──大学生活はどうでしたか?

森澤:1年遅れて入ったというのもあって、音楽好きな友だちがなかなかできなくて、それでCAVE BEというライブハウスにアルバイトで入り、学校へ行かずにほぼ毎日ライブハウスにいました。

──その頃はどこに住んでいたんですか?

森澤:新百合ヶ丘という、和光大学の近くのところに住んでいて、大学3年になるときに下北に引っ越してきました。

──ライブハウスのバイトのために?

森澤:バイトのためというか、単純にこっちのほうが楽しいので(笑)。

──(笑)。バイトとバンドが中心の生活ですね。

森澤:実は大学生のときにバンドは組めなかったんです。バンドを組みたいと思ってライブハウスで働きだして、大学卒業後にメンバーを見つけてという感じでしたね。

──学校では見つからなかった?

森澤:見つからなかったんですよ。軽音サークルとかあったんですけど「ちょっと違うかも」って、輪の中に入っていけなかったです(笑)。

──それで下北でCAVE BEで働いたらすぐに集まった?

森澤:それも大学4年生のときから始めたバイトだったので、その後2、3年かかってバンドを組むという感じでした。

──ちなみに大学は卒業できたんですか?

森澤:できました(笑)。和光って当時、単位を何単位でもとっていいみたいなシステムだったんです。だから1、2年で60単位ずつとれて、3、4年はほぼ行かなくても卒論とゼミに行けば大丈夫みたいな感じだったんですよね。

──それで卒業生にはちょっと極端な方が多いのかもしれないですね(笑)。

森澤:多分そうだと思います(笑)。学校ならどこでも焚き火をしていいとか、フリマもやっていいとか、かなり自由な校風でした。とにかくバンドマンやアーティストは多いですね。いい会社に入りたいとか、そういうことを考えている人があまりいなかったですね。

──では、大学4年からはほぼライブハウスに住んでいるみたいな状態だったんですか?

森澤:ほぼいました。終電なくなったらステージで寝ていましたし。

──で、そこで見つかった仲間たちとバンドを組んで。

森澤:そこに出ていた子たちがバンドをやめたりとか解散したりとかで「一緒にやろうか」と組んだのがTHEラブ人間です。そのときぐらいからキーボードをやろうと思い、キーボードに転向したんです。

── 一つ疑問なんですが、キーボードって突然弾けるようになるものなんですか?

森澤:やはりすぐには弾けませんよね(笑)。だからマジに大変で、最初はクビになりそうでした(笑)。

 

メジャーデビューで環境激変〜自主イベント「下北沢にて」スタート

──THEラブ人間は、2011年にメジャーデビューしますね。

森澤:僕らはメジャーデビューできるなんて思っていなかったんです。バンドを2009年の終わりから始めて、とにかくライブを毎月10本、15本とやる中で、2010年ぐらいからどんどんお客さんがつき始めて、自分たちで焼いたCDもメチャクチャ売れるようになると、大人の人が現れて「一緒にやらない?」と(笑)。

──それはビクターの人ですか?

森澤:いや、それはMIDIレコードの渡邊(文武)さんというちょっと変わり者のおじさんで、サニーデイ・サービスとかをやっている人なんですけど、そのときはMIDIじゃなくてフリーでやっていたのかな?その人と1年間ぐらい一緒にやって、いろいろなメーカーを探していた中でビクターが興味を持ってくれたんです。今はもうないんですけど、当時ビクターにFlyingStarというレーベルがあって、そこの人から「一緒にやろう」と言われました。

──まだSPEEDSTAR RECORDSに高垣(健)さんとかがいた時代ですか?

森澤:高垣さんはギリいたかな?小野(朗)さんとか松元(直樹)さんとかが中心でやっていた頃です。で、FlyingStarではいろいろあって1年でSPEEDSTARに移籍し、SPEEDSTARで2枚目を出しました。THEラブ人間は2010年に「出れんの!?サマソニ!?」というオーディションにギリギリ通ってサマソニに出演したんですが、その翌年には普通にサマソニへ出られましたし、ROCK IN JAPANや、あとMONSTER baSHとか各地方のフェスとかも新人枠でプッシュして出してもらったんです。

──それはすごいですね。

森澤:でも、右も左もわからなくて、メジャーデビューになっちゃったので。もうちょっと下積みがあるのかなと思っていたんですが、2年ちょっとでそんな状況になっちゃったので、正直わからないことだらけだったんですよね。

──でも、短期間でたくさんのフェスに出られたわけで。

森澤:最高だったんですけど、曲を作ってレコーディングして、リハをやって、週末はツアーに行ってみたいなことを2、3年繰り返していたら、わけがわからなくなってきちゃったんですよね(笑)。環境が一気に変わりすぎたというのもあって、非常に混乱していたと思います。ただ、その間もサーキットフェスとかいろいろなイベントは仕掛けていて、THEラブ人間の自主企画として始めたのがサーキットフェス「下北沢にて」です。

──「下北沢にて」も大きなイベントになりましたよね。

森澤:そうですね。ライブハウスが20参加して、150バンド呼ぶイベントになりました。今は毎年12月の第一土曜日にやっています。

──THEラブ人間はそういうパワーがあるバンドだったんでしょうし、森澤さんもそういうパワーがある人だったんでしょうね。

森澤:どうなんですかね(笑)。THEラブ人間って、リーダーでボーカルの金田(康平)が曲を作って方向性を決める、バイオリンの谷崎(航大)がサウンドプロデュースというか、レコーディングも彼はできるのでエンジニアとしてもちょこちょこ動いたりする、そして僕はなんでも屋というか(笑)、イベント制作とかそういう調整をやるみたいな、それぞれ役割があるバンドなんですよね。

──YouTubeで演奏を拝見したんですが、バイオリンが入っていて、その影響でサウンドが一種格調高くなっていると思いました。

森澤:ありがとうございます。はちみつぱいとかあがた森魚さんとか、そのへんの音楽を金田がすごく好きだったのと、バイオリンの谷崎はもともとドラマーとして知り合ったんですが「バイオリンが弾ける」とわかって「面白いからやってみよう」となって始まったという。

──そういえば元メンバーのベースの女性は別のバンドをやっていますよね。

森澤:ええ。辞めてフレンズというバンドをやってます。THEラブ人間ってメンバーが8人ぐらいやめたんですけど、なんかみんな大成しているんですよね(笑)。辞めたギターは、今スタジオミュージシャンとして活躍しています。

 

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第206回 株式会社近松 代表 / THEラブ人間 森澤恒行氏【後半】

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