第205回 有限会社トゥー・ファイヴ・ワン 代表取締役社長 安田 弾氏【前半】

インタビュー リレーインタビュー

安田 弾氏

今回の「Musicman’s RELAY」はスローハンド・リレイション 代表取締役社長 佐藤亮太さんのご紹介で、有限会社トゥー・ファイヴ・ワン 代表取締役社長 安田 弾氏のご登場です。サッカーやDJ、クラブミュージックに熱中した安田さんは、アパレル勤務を経て、父親が経営するライブハウス(CLUB251、440)運営会社へ。

経営不振だった会社を建て直し、現在は中目黒solfa、恵比寿BATICA、下北沢COUNTER CLUB、Andys’studio、全4店舗を運営。さらにコロナ過の2020年からはアーティストマネージメント業務をスタートさせ、楽曲提供や若手アーティストのプロデュースを始め、近年はアパレル商品を中心とした店舗のオリジナルアイテムやアーティストコラボグッズの企画制作を新たな事業や、映像制作をスタートさせるなど、音楽に関わるビジネスを拡げている安田さんに話を伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也、山浦正彦 取材日:2023年6月6日)

 

ピアニストだった父親の影響で音楽に触れる

──前回ご登場いただいたスローハンド・リレーションの佐藤亮太さんとは、どうやってお知り合いになったんですか?

安田:僕は彼のことを亮ちゃんと呼ぶんですけど、亮ちゃんは同い年で、いろいろなクラブで遊んでいる中で知り合ったんですよね。

──佐藤さんとは同い年ですか?

安田:同い年です。クラブで知り合った仲間って結構多くて、それも大体20年前からの付き合いですね。そこから、みんなそれぞれの仕事で実績を残して、今一緒に仕事ができている人たちがたくさんいるんです。昔の西麻布イエローとか恵比寿みるくとかMixとかで知り合って、亮ちゃんのようにフェスの仕事やっている人もいれば、飲食店の仕事や制作の仕事、あとお店を経営していたりですね。

──では、佐藤さんとは今も公私ともにお付き合いがあるわけですね。

安田:そうですね。亮ちゃんがやっているフェスにはよく行きますしね。

──なるほど。じゃあその辺のネットワークというのはいまだに密接だと。

安田:いろいろな現場でいまだに一緒です。あと、イエローを立ち上げた村田大造さんとか、DJもレジェンドの人たちが現役ですから、そういう方々ともご一緒したりします。僕の親父は完全にバンドカルチャー、ライブハウスカルチャーの人なんですが、自分は好きなカルチャーがクラブの方でしたから。

──本職はクラブで。

安田:本職はそっちです。ここのスタジオ(下北沢COUNTER CLUB)もどちらかというとバンドが使う用になっているんですが、打ち込みのアーティストのミックスとか、あとボーカル録りとかのほうが増えています。

──ここからは安田さんご自身のことを伺いたいのですが、お生まれはどちらですか?

安田:世田谷の用賀です。

──お父さんはライブハウス(CLUB251、440)を経営されていたそうですが、生まれたときにすでにやっていたんですか?

安田:まだやっていませんでした。もともと親父はジャズのピアニストをやっていて、Charさんとかあの辺の人たちとつるんでいたんです。仕事で忙しかったり、あと離婚とかで、僕は子どもの頃、おじいちゃんとおばあちゃんに育てられていて、父が下北にライブハウスを出してやっと落ち着いたという感じですね。

──お父さんがライブハウスを始めたのはおいくつのときですか?

安田:親父が43ぐらいのときです。ちゃんと一緒に住んだのはそこからですね。でも、それまでおじいちゃんとおばあちゃんが一緒にいてくれましたから、全然グレたりしなかったです。

──お父さんがミュージシャンとなると音楽との出会いも早かったですか?

安田:そうですね。親父も家にいたり、いなかったりする中で、ピアノを弾いて見せてくれていたんですよ。僕は詳しくないんですけど、「251」というのもジャズのコード進行らしいんです。ですから、親父の影響は完全にありまして、ジャズやスティービー・ワンダーなどブラックミュージックを聴かされていたので、音楽はそこから好きになっていきましたね。

 

サッカーとDJに熱中した学生時代

──安田さんご自身、楽器の演奏は?

安田:ピアノは親父にやらされていたんですが、とにかくヘタクソで2年ぐらいでやめちゃって(笑)。それ以降サッカーやDJをやるようになったので、楽器とは縁がないですね。それで親父と一緒に住むようになったのは中学からなんですが、埼玉県に家を購入したので用賀から埼玉に引っ越したんですよ。下北が会社なのに(笑)。それで親父と再婚したお母さんと6年ぐらい埼玉に住んでいました。

──埼玉のどちらですか?

安田:浦和です。今のさいたまスタジアムのすぐ近くですね。

──浦和での学生生活はいかがでしたか?

安田:サッカーばかりやっていましたね。音楽はDJのターンテーブルをやっと買ったぐらいですかね。それでDJの真似事を始めて、どこかを貸し切ってパーティするみたいなのを高3ぐらいでやりだしたという感じです。

──その頃、ライブハウス経営というお父さんの職業に興味はあったんですか?

安田:ライブハウスをオープンしたのが中学のときだったんですが、中学の友だちと一緒にオープニングのイベントに行ったりはしていました。その時、なんとなく「いずれ俺がやるんだろうな」という意識はありましたし、「俺が継ぐんだろうな」という気持ちは高校ぐらいからありましたね。

──その後、大学へ進学されたんですか?

安田:ええ。とにかくサッカーをやりたくて、全国の大学でサッカーやれるところを探して見つけた新潟の大学に入りました。自分の学力で受かるところで、サッカー推薦みたいなのがOKなところを探して。

──では大学時代はサッカーで一色ですか?

安田:サッカーをやろうと思って行ったのに、DJとかクラブのほうにのめり込んでいっちゃって(笑)、結局DJやイベントばかりやっていました。一応サッカーも4年間やりましたけど。

──段々と音楽がメインになっていった。

安田:サッカーは「プロにはなれないな」と思ったので切り替えて。新潟では一人暮らしだったんですが、夏休みの2か月でここの地下でバイトをして、ロックバンドとか見ていましたね。そのときにバイトで一緒だった人で、何人かはいまだにうちの会社に残っています。

──大学卒業後、最初はどこかにお勤めになったんですか?

安田:そうです。親父がすぐに自分の会社に入るより、どこかほかの会社に入ったほうがいいということで、普通に就活して、音楽とともに洋服も好きだったので、アパレルメーカーに入社して3年ぐらい勤めていました。

──それは営業とかで入社されたんですか?

安田:企画営業でした。中国で洋服を作って、それを日本で卸すみたいなことをやっていました。

 

「うちの会社に戻ってこいよ」就職したアパレルが倒産し家業へ

──アパレルの仕事は楽しかったですか?

安田:楽しかったですね。でも、入社3年目のある朝、全社員が集められて、前に社長とか役員がワーッと並んで「倒産しました」と。あれは面白い体験でしたね(笑)。

──(笑)。

安田:「あ、これニュースでよく観るやつだな」と思って。社員が100人ぐらいいた会社なんですけど。

──それなりに大きいじゃないですか。

安田:まあまあ大きな会社で。帝国データバンクのサイトで「倒産速報」というサイトがあるんですけど、倒産するとそこにバンッと載るんです。そうすると取引先から一斉に電話がかかってくるんですが「出るな」と言われて。でも仲がいいお客さんとかからも「お前のところ倒産したのか?大丈夫か?」と携帯にかかってきて、通常業務プラス倒産対応みたいなことを26ぐらいで体験できたのは、自分にとっては結構いい経験でしたね。

それで倒産した翌日ぐらいに親父から「そろそろ社会勉強終わっただろうから、うちの会社に戻ってこいよ」って連絡がきたんですよ。倒産のことを知らないのにタイミングよく。

──偶然ですか?

安田:偶然。だから「こういうものなんだな」と思って、すぐに会社に「辞めます」と言って、その3日後ぐらいに440のオープンだったんですよね。親父もオープンだから誘ってくれたんだと思うんですが、その後440のオープニングスタッフを1年間やりました。

──まったく違う世界ですよね。

安田:全然違う世界ですから、最初はキツかったですね。なんかもうトイレ掃除とか、ゴミ捨てとか、接客とか・・・とにかく大変でした。

──それは社長の息子だからしなくていいとかじゃなくて?

安田:時給もバイトと同じ扱いで。でも、その方がやりやすかったですし、それでよかったと思います。ちゃんとみんなと同じことをやらされるというのは大切なことだと思いますね。

──仕事を一から始めたんですね。

安田:はい。そうしたら親父のところから独立したBASEMENTBARのオーナーが、僕はその人から「弾」と呼ばれているんですけど、「弾は440にいるより、うちの会社に来てクラブの店長やったほうがいいんじゃない?」と言われたんですよ。「だってお前、バンドじゃなくてDJでしょう?」って(笑)。

それで親父の会社を辞めて、その人の会社に4年間ぐらいいたんです。それでBASEMENTBARの隣にWEDGEというクラブがあって、今はTHREEというライブハウスになっていますが、そのWEDGEで4年間クラブの店長をやり、4年後に親父から「そろそろ社長を交代したいから戻ってこいよ」と言われて、また戻るんです。

 

店舗は黒字なのに借金だらけだった会社

──お父さんから「うちの会社に戻って社長をやれ」と言われたのがおいくつのときですか?

安田:31です。トゥー・ファイヴ・ワンと440ってライブハウス業界の中では結構知名度が高い箱で、目の前を通ると行列ができている事も多かったので、すっかり儲かっていると思っていて、「社長として戻ったら月々いくらもらえるんだろう?」と浅はかな気持ちで戻ったら、実際はメチャクチャ大変な状況でした(笑)。

──(笑)。

安田:もう借金だらけでしたね。店舗自体は黒字なんですが、店舗の利益より毎月の返済額の方が上回っていて、毎月返済するのが本当にキツかったです。ビルも購入しているのでビルの購入費用の返済や、運転資金の返済とかで、本当にヤバい状態でバトンタッチしちゃったんです。

で、最初は半年ぐらい自分の分の給料をとれず、しかも他の人の給料も給料日に払えないとなったときに、自分で買った車を売ってそれを給料に充てたりとか、そんな状態からのスタートでした。ですから、貯金はあっという間に全部なくなっちゃいました。それに親父は当時とてもお酒が好きで、夜の街で豪遊・・・ということも月に数回あったので、そういうのも全部なしにしました(笑)。

──経営はしなきゃいけないし、お父さんの教育もしなきゃいけない・・・大変でしたね。

安田:だから当時は親父と結構ケンカしましたね。それで会社に戻ってきて1年ぐらい経って、自分がプロデュースする店(solfa)を中目黒に出して、その2年後に恵比寿(BATICA)に出して、いろいろな人に独立してもらったりとか、社内の体制を整えました。

あと、下北の駅前にトライトオンというスタジオもやっていたんですが、そこを売却したり、もともとあった店舗を整理しながら、自分のお店だけにして、2019年にやっと全部整理できたんです。そうしたら今度はコロナになって・・・という感じでしたが、でも整理したタイミングがコロナ前だったのでそれが本当にタイミング良くて、もしそのままトゥー・ファイヴ・ワンを運営していたら今よりもっと大変だっただろうなと思います。

 

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