第180回 ユニバーサル ミュージック合同会社 EMI Record マネージングディレクター 兼 制作本部本部長 兼 レーベルズマーケティング ゼネラルマネージャー 岡田武士氏【前半】

インタビュー リレーインタビュー

岡田武士氏
岡田武士氏

今回の「Musicman’s RELAY」はエンズエンターテイメント 丸野孝允さんからのご紹介で、ユニバーサル ミュージック EMI Records マネージングディレクター 岡田武士さんのご登場です。

幼少期からお父様の仕事の影響で音楽に親しんだ岡田さんは、新卒でユニバーサル ミュージックに入社。入社1年弱でデジタルマーケティングのセクションに配属され、配信業務などを担当。着うたフルの興隆とともに青山テルマやGReeeeN等のミリオンダウンロードを多数輩出します。

その後、レーベルに移りGReeeeN、少女時代などの宣伝を担当。エンズエンターテイメントとのレーベルNSwaVe(現U-ENS)ではC&K、ハジ→を手がけます。そして、2018年1月には34才でEMI Recordsマネージングディレクターに就任した岡田さんにキャリアのお話から、アフターコロナの音楽業界の行方までお話を伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦 取材日:2021年3月9日)

 

自然と音楽に触れていた少年時代

──今回ご登場いただいたエンズエンターテイメント 丸野孝允さんとはどのようなご関係なのでしょうか?

岡田:私が2012年にデジタルの部門からレーベルに移動してきたときに担当させていただいた最初のアーティストがC&Kだったのですが、そこで丸野さんと知り合いました。C&Kを一緒にやっていく中で、勝手ながら、丸野さんは感覚が非常に近い方だなと思いました。

そこからハジ→もそうですし、新しいプロジェクトをやらせていただいたんですが、丸野さんには音楽会社とマネージメントの関係含め色々と学ばせていただきましたし、レーベルとマネージメントが同じ目標に向かって色々なことにチャレンジできたことは自分にとっても非常に大きかったです。丸野さんに対する尊敬と信頼はずっと変わらないですね。

──ここから先は岡田さんご自身のことをいろいろお伺いしていきたいのですが、ご出身は東京だそうですね。

岡田:はい。父がラジオの制作会社をやっていたこともあって、小さいころから自然と音楽に触れられる環境にはあったと思います。

──お父様はどんなラジオ番組を作られていたんですか?

岡田:洋楽の番組ですね。父の仕事の関係上、小さいころからいろいろなメーカーの洋楽担当の方にかわいがってもらったり、父親に海外のライブに連れて行ってもらったこともありました。

──岡田さんもいろいろなラジオを聴いていたんですか?

岡田:いや、ラジオはあまり聴いていなくて、むしろテレビの音楽番組をよく観ていました。他の同世代の子よりはラジオに触れる機会は多かったと思いますが、いわゆる熱心なラジオリスナーでは全くなくて、あくまでもラジオは父の仕事として近くにあったという感じでした。父には現場に連れて行ってもらったこともありますが、当時はテレビの方が好きでしたね。

──音楽はよく聴かれていたんですか?

岡田: そうですね。CDもレコードも自宅にたくさんあるので、ビデオでアーティストのライブやミュージックビデオが流れていたみたいな感じでしたね(笑)。

──すごい環境ですね。家自体が音楽のメディアで埋まっているみたいな。

岡田:そうですね。そういう環境が普通だったこともあり、思春期になるまでは、あまり音楽を意識しなかったです。

──CDというのはもらうものであって買うものじゃない?

岡田:父の会社に行くとサンプル盤がいっぱいあるので、好きなものが聴けるんだと思っていました。邦楽のCDは買っていましたが、洋楽に関してはほぼ父の会社でCDを聴き漁っていましたね。

──家がすでにサブスク状態ですね(笑)。その頃好きだったアーティストは誰ですか?

岡田:僕のルーツはマイケル・ジャクソンですね。小さい頃にマイケルのミュージックビデオやライブのビデオをひたすら観ていたので。多分子どもにもわかる音楽とビジュアルということだと思うんですけどね。

──ちなみにマイケル・ジャクソンのライブは実際にご覧になっているんですか?

岡田:「BAD」ツアーと「DANGEROUS」ツアーを観ています。5歳のときと12歳に。

──5歳はすごいですね…。

岡田:さすがに5歳のときは全く記憶がなく、12歳でかろうじてあるみたいな感じですね。ただ、当時マイケルを音楽として観ていたのかはわからないですけどね。ヒーローものみたいに観ていたかもしれません。

 

ひたすらテニスに打ち込んだ中高時代

──音楽以外に興味があったことはなんですか?

岡田:変わらず音楽は家の中にはありましたが、中学・高校はひたすらテニスを6年間365日やっていました。

──ご自身で音楽を演奏したりはなかった?

岡田:全くなかったです。小さい頃にピアノを習っていましたが、中高生時代は音楽をやろうとは全く思わず、自分の中では聴いて楽しむだけで、自分の時間を過ごす時のエンタメのひとつみたいな感覚でした。コンサートを観に行くのは好きでよく行っていました。

──音楽はあくまで聴くだけだったと。

岡田武士氏

岡田:そうですね。父の仕事の関係もあり、なんとなく音楽に詳しそうに思われていたのか、友だちからお勧めのアーティストや作品など聞かれることが多く、なんとなく勝手に回りの友達に宣伝みたいなことはしていました。「こういうのが流行っているよ」とか「こういうのがいいんじゃない?」みたいなことは、小中高とずっとやっていました。

──ちなみに岡田さんが小・中学生の頃に流行っていた洋楽ってなんですか? 90年代ですよね。

岡田: 90年代の音楽で洋楽だとコンピの『NOW』とか(笑)。僕も家に変わらず洋楽は流れていましたが、そんなに積極的に掘らずに邦楽を聴いていました。ちょうどミスチルが出始めたり、ビジュアル系が出始めたりした時期ですね。

──世代的には邦楽の世代ですよね。

岡田:そうです。90年代の中盤から後半でミリオン作品がたくさん出ていた時代だったので、テレビでひたすら邦楽のアーティストを観る感じでしたね。

──中学は公立に進まれたんですか?

岡田:中学受験をして大学の付属の学校に入りました。受験勉強をしていた小学校高学年が一番大変で、それ以降はあまり勉強せず、本当に伸び伸びと大学まで(笑)。大学までの10年間、ある意味とても自由な時間を過ごしていたと思います。

──それは…楽しそうですね。

岡田:はい(笑)。実は小学校の頃から早めに頑張っておけば先が楽になると考えていました。昔からそういう性格で、小学校高学年はひたすら勉強をして「これをやればもう一生遊べるんだ」と思って。だから大学の付属しか受けませんでした。

──都会っ子ですね。

岡田:そうですか?(笑)。家族からは全く「勉強しろ」って言われませんでした。そういう父だったので。

──大学は真面目に通われていたんですか?

岡田:大学でも同じように2年までに前倒しで取れるだけ単位をとって、3、4年は楽をしたいと思ってたので、とにかくたくさん単位をとっていました。

──そこも計画的だったんですね。

岡田:そうですね。それで自分でサッカーのサークルを作ったこともあり、そこで時間を過ごすことが多かったと思います。2002年の日韓ワールドカップの年に僕らは大学入学だったので、世の中がサッカー人気で盛り上がっていました。高校までテニスをずっとやっていましたが、サッカーもずっと好きで。

本当は中学のときにテニス部かサッカー部かバスケ部に入りたかったんです。『スラムダンク』世代でもあり、Jリーグ世代でもあり、テニスが一番縁遠かったと思います。当時の体育の先生がテニス部の顧問で、僕のスポーツテストを見て「君なら全国に行けるから来てくれ」と言われて、中学1年生の僕は舞い上がってしまい「これはテニス部に行くしかない」と(笑)。

──(笑)。実際に全国に行かれたんですか?

岡田:学校は神奈川県だったのですが、県3位までで負けてしまいました。県のレベルが高かったこともありますが、今プロになっている選手とかと試合もしましたし、テニスはある程度高校まででやりきったと思いました。なので、大学では逆にテニスをあまりやらず、中学生当時やりたかったサッカーをやっていました。

──今でも相当テニスはお上手なんじゃないですか?

岡田:今はもう駄目ですけど、大学時代はバイトでテニスコーチをしていました。それが一番時給が良かったんですよね(笑)。月~金は遊んで、土日の午前中だけコーチをしていました。「これだったら月~金で遊べるしいいや」と思って、それを4年間続けました。

──うらやましいです(笑)。

岡田:当時友だちに遊びに誘われたときにバイトを理由に断るのが絶対に嫌だったので、土日の午前は絶対に誘われないのでそこだけバイトしようと思っていました。

──賢いですよね。ずるずるあと延ばしにしてやっている人がたくさんいる中で。

岡田:いやでも、宿題やレポートの課題などは最終日にやるようなタイプでした。

──(笑)。

岡田:「最終日の夜にどうにかなる」と思っちゃっていて、むしろそこまで目いっぱい遊んで「最終日だけ頑張ればいいや」という感じでした。テスト勉強も一夜漬けばっかりでした。事前に勉強しちゃうと忘れちゃうので(笑)。

 

音楽を共有する楽しさ〜ユニバーサル ミュージック入社

──そして大学も卒業がせまってくるわけですが、就職についてはどう考えていたんですか?

岡田:最初から音楽業界を考えていたわけではありませんでした。実は僕の兄が先に音楽業界で働いていたので、自分は違う業界かなとなんとなく思っていました。大学3年生のときに、学生起業のブームが起こって、僕も「就職するのが嫌だからやってみようかな?」と運動会ビジネスを起こしたりもしました。失敗しちゃったんですけどね。

──運動会ビジネスですか?

岡田:大学生になると運動会がなくなるじゃないですか。だから大学生の運動会に需要があるんじゃないかと思って、それでビジネスにしよう、と友人と起こしました。

──それはイベント制作会社みたいな感じですか?

岡田:結果的にはそういうことになりますね。自分たちは失敗したのですが、数年後にニュースで企業の運動会ビジネスが紹介されていたことは面白かったですね。

──(笑)。

岡田:僕らがやっていたときは、単純に大学生も運動会をしたいだろうというアイディアだったんですよね。大学にはサークルがあるから、サークル対抗で運動会をしたらみんな楽しいんじゃないかなと思ってそれをビジネスにしようと思っていました。でも、全然上手くいかずに活動を終了し、就活に突入するわけです。

──負債は負わなかったんですか?

岡田:多少はありましたけど、学生がやるイベントですから、さほど痛い目にはに遭わなかったです。早めに撤退しましたし(笑)。

──比較的安い授業料で済んだ?

岡田:そうですね。あとは親にも自分で商売をやるのはいいけど、社会の仕組みを知った方がいいとはずっと言われていました。父は自分が就職せずにずっとやってきたタイプだったこともあり、そういう風に言っていたんだと思います。「じゃあ就活しなきゃ」となんとなく始めたという感じです。

当初はアパレル業界ばかり受けていて、選考もいくつか進んでいました。ただ、就職活動をする中で、ファッションは人に「この服を着てください」と言うのは無理があるなと思ったんですよね。でも、音楽は「このアーティストのこのアルバムはいいから聴いてよ」と言えるなと思いました。であれば、人と共有できるほうが自分も結局楽しいのかなと思って、そこから音楽業界を考え始めて何社か受けました。

──何社か受けたんですか?

岡田:はい。でも知っている人が多かったこともあり、なんとなくユニバーサルに行かなきゃという感じでしたね。面接ではいろいろとやってみたいことを話しました。ありがたいことに無事入れていただいたのですが、色々なご縁もあったんじゃないかなと思っています(笑)。

──音楽業界に入ったことに対してお父さんは何かおっしゃいました?

岡田:僕に対しては「同じ業界に来て欲しくなかった」みたいな空気もありました。大変だというのがわかっていますから、他の業界に行って欲しいという思いはあったみたいなんです。ただ、父と仕事をしていた方からは「喜んでいた」みたいなことは後々聞いたりもしました。

──お父さんは叩き上げで会社を作られたわけで業界の苦労は知っていたと思いますが、やっぱり嬉しかったと思いますよ。

岡田:業界に入ってから色々と話すことも多くなりましたし、そういう意味ではよかったと思います。

 

アナログな人間がデジタル部署へ配属

──2006年にユニバーサル ミュージックに入社されて、最初はどういったお仕事をされたんですか?

岡田:営業です。僕の年までは入社すると全員営業に配属されていました。僕はいわゆる都心部からちょっと外れた千葉、埼玉、八王子、立川といった場所のタワーレコードさんやHMVさん、新星堂さんといった店舗を担当していました。

──実際に入ってみてどうでしたか?

岡田:知らないことを知るという意味でも楽しかったですね。もちろん大変な場面もたくさんありました。

──営業はどのくらいやったんですか?

岡田: 営業部門には約1年でそのあと、2007年1月からデジタルの部署の配属となりました。

──それは岡田さんがデジタルに強かったからとかですか?

岡田武士氏

 

岡田:全くそんなことはないです。むしろ結構アナログな人間だったと思うんですけどね(笑)。デジタルの知識が豊富だったというわけでも全くなく。だから、言われたときに一瞬「左遷か」と思いました(笑)。

通常、営業は2年ぐらいやると聞いていたことや、同期のみんなも2年やっていたのに、僕だけ約1年で異動って言われたんですよね。しかもその頃のデジタル部署はまだ人数も少なくてそれもあって余計「これは完全に左遷なのかな?」って思ってしまったんですよね。

──当時は日の当たらないところに行く感覚だったんですね。

岡田:まさにそうです。やっていることは今のデジタルの部署とそんなに変わらないんですけどね。

──確かに黎明期のデジタル部署って地味な印象でしたよね。

岡田:最初立ち上がったときってそんなイメージですよね。多分、着メロを作るところから始まったと思うんですが、エンコードするとか、レーベル内でもどちらかというと技術的なことをしているという感じでしたからね。

──ぱっと見、あまりクリエイティブではない感じがしますよね。もちろん実際は違うんでしょうけど。そのデジタル部署に行ってからは、勉強はかなり必要でしたか?

岡田:必要な最低限の知識はもちろん覚えました。あとはこれまで担当していたフィジカル商品の営業と配信ビジネスが全然違うので一から勉強し直しました。ただ社会人としても半人前の状態で異動しているのでそれは逆に良かったのかもしれないなと思うんですよね。営業はこうあるべき、という固定概念がなかった分、すんなり配信ビジネスに入れたのはあるかもしれないです。

──先入観なく入れたと。

岡田:そうですね。知識か経験があったら、どうしてもその知識に頼って考えてしまうところだったと思うんですけど、一から配信ビジネスに取り組むことができたかなと思います。

──当時のデジタル部署でやっていたのは着うたですか?

岡田:着うたフルが出始めたころで、それをレコチョクやmusic.jp、ドワンゴとか、そういう配信サービス各社にむけての営業を行い、一緒に展開をしてもらったりしました。契約のやりとりから売り上げの報告をもらってデータ化したり、あらゆる業務をやりました。

──レコード会社だと事務作業が多いんですよね。

岡田:僕は唯一営業からきたこともあり、デスクワーク的な仕事だけではなくプロモーションやマーケティング的な業務に取り組めるかな?と思って、配信会社さんとかに相談し始めました。それまでは割とルーティン業務も多かったと思います。

──当時、音楽配信となったらやはりレコチョクが大きいサービスでしたか?

岡田:レコチョク、music.jp、ドワンゴの3社が大きなサービスプロバイダーだったと思います。多分iTunesも始まったか始まってないかぐらいの頃で着うたフルが始まって、これからというタイミングにデジタル担当として異動になりました。

──要するに、日本のレコード会社がデジタルを使ってビジネスを始める、その黎明期にその部署へ異動になったと。

岡田:そうですね、本当にたまたまそこに居られたという感じです。今思えばものすごくラッキーでしたし、今の仕事に活かされている面が色々あったと思っています。

──その分野にあまり先輩とかいないわけですよね。

岡田:入社2年目ながら好き勝手やらせていただいたと思います。もちろん上司はいましたが、担当している部分に関してはある程度自分の裁量として任せてもらえましたし、その時点ではユーザーの立場に一番近かったことも大きかったと思います。

──そのときに部署の人員は多かったんですか?

岡田:それがメチャメチャ少なくて…(笑)。ですからそのときが会社生活で一番忙しかったかもしれません。

──実は大変に重要な仕事なんだけど、会社はまだその大変さも重要さも理解していなかったのかもしれませんね。

岡田:とにかく人がいなかったです。最初は全部で数人とかで、それで全社のデジタルをやらなくてはいけませんでした。営業だった時はお店に行って、そのあとお客さんと飲みに行ったりということもありましたが、全然違って「なにこれ」みたいな。あまりにつらすぎて「やっぱり左遷だ!」って思いましたよ(笑)。

──そこを耐えたんですね…。

岡田:でもその中でも、自分の裁量でできる部分をやらせてもらって、結果が出るところにも居合わせられたので、そういった充実感を糧になんとか続けることができました。

──そもそも、なぜ岡田さんがその部署に行くことになったんでしょうね。

岡田:若い人が欲しい」というのはあったかもしれないですね。その部署に若い人がいなかったので。真相は正直わからないです。

 

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第180回 ユニバーサル ミュージック合同会社 EMI Record マネージングディレクター 兼 制作本部本部長 兼 レーベルズマーケティング ゼネラルマネージャー 岡田武士氏【後半】

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