第155回 bar bonoboオーナー 成浩一氏【後半】

インタビュー リレーインタビュー

今回の「Musicman’s RELAY」は音楽評論家 吉見佑子さんのご紹介で、bar bonoboオーナー 成浩一さんのご登場です。学生時代から音楽活動に熱中していた成さんは、大学卒業後、バブルに浮かれた東京を脱出し、ニューヨークへ。ニューヨークではノイズバンド「のいづんずり」への参加を皮切りに音楽活動をしつつ、多くのアーティストたちやカルチャーとの交流を通じて刺激的な10年を送ります。帰国後、様々な仕事を経て2005年、原宿に世界一小さいナイトクラブ bar bonoboをオープン。そのユニークな内装と音響セッティングで常にたくさんのお客さんで溢れています。そんな成さんに波瀾万丈なキャリアから今後のbar bonoboについてまでたっぷり伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

 

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第155回 bar bonoboオーナー 成浩一氏【前半】

 

テクノ、ハウスのムーブメントをヨーロッパで体感

ーー ちなみにニューヨークでは何かバイトをしていたんですか?

成:最初は英語もできないのでマンハッタンのお寿司屋さんでキッチンヘルパーのバイトをしていました。その後、人の紹介で、NHKニューヨークで中東のモニターをずっと見て何か起きていないか報告するようなアルバイトをしていました。日本と時差が12時間あるんですが、日本の局員が出社してくる9時くらいまでの間、モニターを眺めて「今日は何もありませんでした」みたいな報告をするんですよ。当時は湾岸戦争が起きるか起きないかという緊迫した状況だったんですよね。

ーー 爆弾とか落としていないかチェックすると…。

成:そうです。それでしばらくして湾岸戦争がはじまって「これで僕の仕事もなくなるんだ」と思っていたら「お前まだ働いてみるか?」と言われて、NHKニューヨークで7、8年ビザいただいて。

ーー 成さんはNHKの方だったんですね。

成:衛星放送の方ですけどね。衛星放送の手配師というか。たとえばペルーの日本大使館でなにか起きたというとき、どこの地方局が映像を持っていて、どの衛星で飛ばして日本に届けるかとかテクニカルな仕事をやりつつ、気分的には変態ミュージシャンで。

ーー 1年間というご両親との約束はどうなったんですか?

成:1年後に一旦帰国して、でも気持ち的に盛り上がっていましたから「申し訳ないけれどもうちょっと音楽やりたくなった」と言いました。そうしたら「なにをやってもいいけど、もういい年なんだから一切サポートしないよ」と。ですからNHKに入れたのはすごくラッキーでしたね。やっぱりキッチンヘルパーのバイトだけではニューヨークに10年間もいられなかったんじゃないかなと思います。

ーー そのヘルパーだけでは精神的にもキツイですよね。

成:キツイですね。まあNHKではぼちぼちのお給料もいただいて、気分的にはミュージシャンでやっていたんですが、「のいづんずり」が終わって、深夜の仕事だったこともありちょっと音楽に集中できていないなと思って、上司に「一回お休みをください」と言ったんですよ。それでヨーロッパからモロッコまで一人旅をバックパッカーでやったんです。

アムステルダムから最終的にフランス・スペイン・モロッコまで2〜3か月。特に知り合いもいないんですが、とりあえずアムステルダムに行ってみようと。オランダはクイーンズデイ、女王様の日というのが一番国民的な日らしいんですが、たまたまアムステルダムに着いた日がクイーンズデイだったらしくて、着いた途端、ものすごく盛り上がっているわけですよ。クイーンズデイのことは知らないから「アムスすごい!」と(笑)。ちょうどテクノも来ている時代ですから、色々なクラブをハシゴして、最終的に大きい運河に辿り着いて、船上で紅茶パーティー(笑)。

ーー 紅茶パーティーですか(笑)。

成:ニューヨークではテンション高くやっていましたが、「ここはここで違うやり方があるんだなぁ」と思いましたね。「僕だけちょっとテンパっているな」みたいな。当時エイフェックス・ツインが「アンビエントワークス」という名盤をリリースしたばかりで、それにオランダ人たちが騒いでいる状況を目の当たりにできたのは非常にラッキーだったと思いますね。テクノ、ハウスのムーブメントがヨーロッパで起きたまさにそのときに現地で体感できたのはよかったと思います。ニューヨークに帰って来たら「ギターなんか弾いている場合じゃないでしょう!」と早速シンセサイザーを買って(笑)。

ーー わかりやすいですね(笑)。

成:僕は影響を受けやすいんですよ(笑)。で、そこからテクノ的、ハウス的なダンスミュージックにシフトしていったんです。それが90年代中盤でしょうか。

本当はモロッコに行ってからアルジェリア・チュニジアとか北アフリカを渡って帰ろうと思ったんですが、資金がモロッコで尽きて、サハラ砂漠横断の旅はギブアップして、エッサウィラという昔ジミ・ヘンドリックスがお忍びで来ていた港町で遊んで、ニューヨークに戻ってきました。ニューヨークではNHKに復帰できまして、友だちとテクノミュージックを作り出したという感じですね。

ーー なぜ日本に戻ることになったんですか?

成:ニューヨークに10年いて、ぼちぼち楽しいんですけど、すごく売れるわけでもなく、「50になってもこのまま音楽をやるのか」と自問したときに「もういいだろう。十分やった」という感じになって戻ってきました。

ーー ニューヨークでの生活は日本とは全然違いましたか?

成:僕はダウンタウンとブルックリンに住んでいたんですが、目的なく生きていたら、ちょっと不安になってしまうかもしれないですね。特に僕はアートが盛んなところに住んでいましたので、何もなしに生活していると「俺はなにをやっているんだろう…」って感じになる街ではあるかな。

ーー 周りは日本人の方が多かったんですか?

成:いや、日本人の方も海外の方も、両方付き合っていましたね。ブルックリンにウィリアムスバーグという場所があるんですが、僕たちがいた90年代前半は寂れて誰もいないビルがいっぱいあって、それでアーティストたちが安く住んでいたんですよ。ポーランド人の方がメインで住んでいて、日本人は僕たちだけだったと思いますね。体育館みたいなところで、みんなで壁を取り払って。巨大なロフトですよね。でも、僕が99年に日本に戻る頃には再開発が始まっていて、そこから劇的に変わったみたいです。今ではもう家賃が高くて住めないような場所になっているようです。

ーー 街自体が変わってしまったんですね。

成:ニューヨークが面白いのは、街が急激に変化していくんですよね。日本って街の流行り廃りってそこまでないと思うんですが、ニューヨークは世界中からアーティストが集まってきますから「次はどこが面白いんだ?」って街ができていくので面白いんですよ。僕たちが住んでいた頃のウィリアムスバーグは寂しい街でしたが、「週末に誰かの家でパーティーがあるよ」って言われて行くと、売れないアーティストたちがいっぱいいて「この街にこんなたくさんのアーティストが住んでいるんだ」と。僕の家でも何度かパーティーをしましたけど60人くらい来たのかな。結構広いところですから。全員手料理を持ってくることが条件のパーティーをしたり、面白く遊んでいました。

ーー 楽しそうですね。

成:ええ。非常に満喫したと言える10年でしたね。

 

 

沖縄での肉体労働で身も心もリハビリ

ーー いよいよ帰国されるわけですが、仕事のあてなどはあったんですか?

成:実は「渋谷のNHKで働かないか?」って誘われたんですよ。でもニューヨークだからNHKでも働けたけど、渋谷は自分を殺すかなと思って、断ったんですよ。

ーー 殺すかなって、またもったいない(笑)。

成:それで35歳にして、無職に戻ったと(笑)。親なんかガッカリしたと思いますよ。何かニューヨークで楽しくやっていて、帰国したらNHKに入るのを断ったらしいよと。「あいつは馬鹿者だ」みたいな。

ーー ご両親はそう思われるでしょうね。

成:そうですよね。でも僕的には「無理だな」って気分だったんですよ。で、僕はパソコンが得意じゃないですから、35歳で日本に帰って来て「ローソンとセブンイレブン、どっちが時給良いんだろう?」って世界ですよね、仕事を探すとなると。当時、弟が新小岩に家を持っているんですけど家を出ると言うので、ニューヨークから帰って来て新小岩に住んでいて2、3か月様子を見ていたんですが、いきなりコンビニの店員というのも踏ん切りがつかなくて、仕方ないので1週間くらい沖縄に行って、魚と戯れて、スキューバダイビングでもして、気持ちを切り替えようと思ったら、沖縄を気に入ってしまって…。

ーー またですか…(笑)。

成:1週間のつもりだったんですが、沖縄を気に入っちゃって「もうしばらくここにいようかな」と。それでホテルの建設現場の仕事があると聞いて、大将に会ったら「おまえ身体デカイからいいな」って言われて、型枠大工の見習いになったんです。でも夏だからめちゃくちゃ現場が暑いんですね。沖縄の人でさえ逃げ出すような暑さで、しかも型枠大工はコンクリートを固めるための一番最初の基礎を作る大工ですから、常に最上階にいるわけですよ。

とにかく地獄のような暑さなんですが、ニューヨークでの言ってみればデスクワーク、それと享楽的な生き方をしてきた反動として、そういうシンプルな仕事でよかったなと思うんですよね。弁当を10分くらいで速攻食べて昼寝して、みたいな生活がよかったんですよ。東京のコンビニで働くよりは、身も心もリハビリになったじゃないでしょうかね。

ーー 成さんは基本的に身体が丈夫なんですね。

成:そうだと思います。その仕事をやって、ずいぶん元気になったなと思います。でも流石に石垣島で大工というのは僕の一生の仕事ではないだろうと思って、もういいかなと新小岩に帰って来ました。

それでサンジャポに出て有名になった僕の同級生のオカマがいるんですが、彼から「成ちゃん帰って来たって聞いていたけど、どうせお姉ちゃん遊びとかしてお金なくなるだろうから、僕が就職先を見つけといてあげたよ」って留守電が入っていたんですよ(笑)。それで電話すると、銀座8丁目のスナックのボーイとしての仕事だったんです。昔はきれいだっただろう50代後半くらいの着物姿のママがいらっしゃってね。ただそこが「五寸釘バー」というところで、杉の木があって、わら人形を「部長死ねー!」とか言いながらOLさんが五寸釘を打つ、とんでもないバーだったんですよ。沖縄で「俺も元気になったなー」と思っていたら、いきなりそんなバーのボーイになってしまうという(笑)。

ーー 店中に怨念が溢れているんですね(笑)。

成:ママの手作りのわら人形を「打てー!打てー!」なんてやっているわけですよ。毎日、その五寸釘を抜くのが僕の日課でした。

ーー 大工の経験が活きましたね(笑)。

成:そうなんですけど(笑)。「なんでここに来ちゃったかなぁ」と思いましたけどね。結構そういうヒキが強いんです、僕。

ーー お客さんは女の方だけだったんですか?

成:いえ、男の方も来ていましたね。ママが明るいものだから人気でした。それでママに「昼間、店を貸してくれないか?」とお願いして、カレー屋さんを始めたんです。サラリーマンが多い街でしたし、「まあカレーくらい作れるだろう」と。家賃もなしで、ビーフカレーにチャツネとか色々作って、サラリーマンに非常に人気でしたね。

それで、小岩のほうに親族が持っている場所があったので、そこで音楽スタジオでも作ろうかなと思ったんですよ。そろそろ音楽に戻りたいなと。それを作るためにカレー屋さんを閉めて、色々計画しました。そのスタジオはレコーディングスタジオとリハーサルスタジオの両方を考えていたんですが、作るのに何千万もかかってしまうので無理だと思って、結局諦めたんですよ。

ーー スタジオはお金がかかりますからね。

成:スタジオをやるためにカレー屋さんを閉めたのにどうしようと思いました。当時ガールフレンドもいましたから食わせなきゃいけませんでしたしね。それで新聞広告を見ていたら「芸能マネージャー募集」とあって、どんな仕事かよく分からないけど、寝たきり老人に布団を売りつけるよりはいいと思って、応募したところがいわゆるグラビアの事務所だったんです。グラビアのマネージャーって人でなしじゃないとできないんじゃないか?と勝手に思っていたんですけど(笑)、もちろんそんなことはなくて「これなら俺でもできるな」とすぐ独立して、インリン・オブ・ジョイトイという台湾の子を売り出したんです。

ーー M字開脚で一世を風靡した。

成:そうです。たまたまあるカメラマンと話をしていたら、「台湾の子で、3年くらいやっているけど売れないんだ。俺はいいと思うんだけど諦めなきゃいけないかな…」というから、「どんな子かちょっと見せて」と。すでにM字開脚はやっていて「この子おもしろいなー」と思って、知り合いの編集者に声をかけて写真集を出したら、無名なのに13万部売れたんですよね。当時でもすごい数字だと思います。

ーー 写真集で13万部はすごいですよ。

成:売れている子が5万部とかですからね。普通だったらセブ島かどこかへ行って、初対面のカメラマンが3〜4日で撮るんですね。でもインリンは3年撮り貯めた写真ですから、その蓄積が伝わったんだろうと思います。M字とか過激な表現だったんですけどね。それでちょっと小銭ができはじめて、この通り(原宿)に住み始めたんです。

ーー インリンさんとのお仕事で成さんはどのような役割だったんですか?

成:カメラマンが社長、インリンが副社長で、僕が専属の営業ですね。あとインリンのDVDの音楽をやったりとかもしていました。僕は会社には入ってないんだけど、そういうことでやりだしたんですね。僕は芸能界のピラミッドには興味ないんだけど、その巨大なバビロンシステムに入っていかなくてもやっていけるんだ、これならいい、と思っていろんな仕掛けを考えてやっていたんです。

でも、あることでカメラマンとの間に「これはちょっと許したくないな」ってことが起きて、「君とはもう仕事をしない」と彼に言ったんです。「ここで辞めちゃうんだ」って自分でも思いましたが、またいつもの俺の人生だなと思って(笑)。もっとうまくやれればいいんですけどね。ただ「これを許しては俺じゃない」みたいな若気の至りもあって、インリンがテレビに出だした頃に営業を辞めました。ちなみにそのカメラマンの彼とは一昨年くらいに沖縄で会って、仲直りしました。

 

 

トラさんとの偶然の出会いから始めたbonobo

 

bar bonoboオーナー 成浩一氏

ーー インリンさんがこれからってときに辞めちゃったんですね。

成:本当はもうちょっと過激なアイデアがあったんですけどね。まあ世間的には十分あれで過激だったんでしょうけど。売れているのを見ながら「随分柔軟路線にいったなあ。迎合しているな」なんて思っていましたけど(笑)。

実は当時、この辺に住んでいて、ここ(bonobo)はトラさんという方が18年間やっていたバーだったんです。ここのカウンターの所に今カレー屋さんがあるんですが、そこでトラさんの愛人のティナ・ターナーみたいな方が小料理をやっていて、仕事終わりにそこへ飲みに行っていたんですよ。ただの客として。で、そうしているうちに、カウンターの隅っこに酔っ払いのおじいちゃんが1人で座っていて、ただの常連さんだと思っていたんですが、通っているうちに、ティナ・ターナーは彼の元愛人で、関係は終わったけれど、その後もティナ・ターナーがお店を全て切り盛りして、トラさんの面倒をみているということが分かったんですね。そうしたら14年前のある日、「みんな長い間ありがとう。トラにはもう飽き飽きです」って張り紙がしてあって、夜逃げしちゃったんですよ。

ーー ティナ・ターナーが(笑)。

成:棚から一切合切なくなっていて(笑)。それで「トラさん、これからどうすんの?」って言ったら、「わしはもう働けん」なんて言っているんですよ。このトラさんって方は、会った当時はただの呑兵衛おやじでしたけど、もともとは服飾関係の仕事をしていて、越路吹雪さんとか森進一さんとかの紅白の衣装を作られていた方なんです。それとともに超ド級のオーディオマニアでもあって、マイルス・デイビスが大好きで「日本一のマイルスを聴かせるんや!」と言って、この1階を防音にして500万くらいするスピーカーを金持ちに聴かせて、年に1セットくらい売れるという。だからbonoboは防音になっているんです。

ただそれも昔の話で、僕が出会った頃にはカラオケルームみたいになっていたし、ドラムも置いてあったので酔っ払うとみんな勝手に演奏したりするスタジオでもある、みたいな場所だったんですよ。

ーー 面白いところだったんですね。

成:そうですね。で、「もう働けん」と言っても、家賃の支払いもしなきゃいけないじゃないですか。そうしたら「お前なんかやらないか?」って話になったんです。それで有志2人で下のカウンターと1階をやって売上をあげて、トラさんはここ(2階)で寝て。

ーー この2階はトラさんの寝室だったんですか?

成:そう、普通の部屋だったんですよ。1階の不思議な内装は僕が作りました。最初、僕は個人的な音楽スタジオにしてギターでも弾くかなんて思っていたんですよ。ただ、なんだかんだ東京の真ん中ではありますから「これはもったいないな」と思ったときに、僕がニューヨークにいるときに非常に影響を受けた「ロフト」のことを思いだしたんです。そこはデヴィッド・マンキューソという2、3年前に亡くなったDJの部屋で、マークレビンソンとかを使って、とんでもなく良い音でホームパーティーをしていたんです。デヴィッド・マンキューソはディスコを始めた方とも言われていたんですけどね。

ーー ホームパーティーの場所だったんですか?

成:ええ。広いロフトで、彼一人で10時間くらい回すんですが、一曲も繋がないんです。普通DJって曲を繋ぐじゃないですか? でも彼は「良い曲っていうのは、一曲でストーリーがあるから、勝手に繋ぐことで作り手の意図を曲げたくない」と。ですからどんなジャンルの曲もかかって、最初チャイコフスキーのくるみ割り人形からヴァン・モリソンもかかれば、ピンク・フロイドやハウスミュージックもかかるんですが、そのスタイルに衝撃を受けました。

ロフトに入ったとき黒人の方もいればゲイの方もストレートの方もいろんな人たちがいるんですが、音はそんなに大きくないんですよ。だから会話もできるんですが、彼のシステムでシャーデーとかを聴くと、タンバリンが入ってきたときに鳥肌がバーっと立つような感覚になるんです。とにかくすごい体験でした。

トラさんから「ここでなんかやらないか?」と言われたときにそれを思いだして、「日本にはそういう場所が作れないかな」と。まだ全然追いついていないですけど、ちょっと良い音で、普通のクラブとは違った環境が作れたらなと思いました。デヴィッドはアメリカのオーディオマニアですが、トラさんもオーディオマニアですから、これもなんかの縁だろうと。それで「トラさんの機材を使わせてくれるんだったら僕ここやります」と言って始めたのがbonoboなんです。だからしばらくはトラさんが2階で寝ていて、下でわいわいやっていると、下に降りてきて「神様登場」みたいな。

ーー bonoboはオープンして何年ですか?

成:14年かな? 途中で11周年を2回やっちゃったらしくて、そこからもうどうでもよくなっちゃって…(笑)。たぶん14年位だと思います。それで始めて1年経たずにトラさんが急性白血病で亡くなってしまって、大家さんのところに行って「トラさんが亡くなりました」と言ったら、大家さんは台湾の方だったんですけど「えーっ、トラ死んだの? あんたたち又貸しでしょう? じゃあ出てってね」と言うんですよ。まあ、契約してないんだから当然そうなりますよね。でも盛り上がっていたので、これはやめられないと思って大家さんと交渉してここをローンで買うことになったんです。僕は東京で土地を持つなんて全く思ってなかったんですが、そのことでようやく音に戻ってきたんですよね。やっぱり音が好きだったんでしょうね。

 

 

bonoboの“神主”として見守っていくのが使命

ーー ここは自社ビルなんですね。

成:ええ。じゃないとこんな好き勝手できませんからね。東京において場所を持つなんてあまり意味がないことだと思っていましたが、ここまで好き勝手できるんだったら意味があるなと。で、今、新bonobo計画というものがあるんです。防音していると言っても日本家屋ですから、たまに近所から苦情がきたりするので地下に潜ろうかと。そのときにここも更地にしてビルを建てるとすると、この建物を潰すことになりますから、悩んでいるんです。ビルではこの面白さは出ませんからね。

ーー この建物を潰すのはもったいないですよね。

成:そんなことしたら「成の正体見たり」ってみんなに言われる(笑)。ですから形は違えど、相当面白いものを作らないといけないなと思っていて。

ーー 古い外観を下に残して上にビルを建てるってケースもありますよね。

成:そうですね。トラさんは無意識に僕という後継者を見つけたんだろうと思うんですよ。この場所は昭和35年から残っている、大袈裟に言えば現代の神社のような気がするんですよね。音楽と踊りの。若い子たちはあまり神社に行かないけど、ここでは「教義のない神聖な場所」として遊んでくれる。そこで僕は神主として、この場所を見守っていくというかキープすることが役目だと思うんです。最近は所有欲も抜けてきて、オーナーとしてのエゴもなくなって、ここを守るのが僕の役目みたいになってくると気が楽になるんですよね。

ーー 昔からあるものを今はたまたま管理しているだけ。それが神主だと。

成:そうそう(笑)。トラさんは18年間ここを守っていたんだけど、僕を後継者として見つけてという。僕はあんまりスピリチュアルな人間ではないですけど、そんな愉快な考えになって楽しいです。bonobo神社と言いますか。

ーー 守るということですよね。

成:どんなことがあっても守っていく。そうでないと合点がいかないです(笑)。この店が面白いのは、日替わりでバーテンダーがいるんです。フロントにもバーがあって、そこも日替わりなので、20人ぐらい働いているんですよ。それでその日その日でブッキングとかウェブでの告知とかを全部そのバーテンにやらせているんです。

ーー プロデューサーでもあると。

成:その日のオーナーですね。とにかく色々な人がここに出入りしていて、それが上手く機能しているのも面白いです。

ーー バーテンさんが音楽の選曲も全部やるんですか?

成:DJを誰にするか考えたり、告知文も書いたり、あとオリジナルの酒を自分で出したりとか。

ーー bonoboのようなスタイルのお店って他にあるんですか?

成:世界でもあまりないかもしれませんね。ニューヨークとか東京という大都市は常に緩やかに発狂していて、そこに住んでいる人も少しずつ発狂していると。その毒には毒を以て制すじゃないけど、そういうつもりで僕はニューヨークでノイズバンドをやっていましたが、ずっとやっていてもその狂気が凶悪すぎてなかなか倒れないので、国を変えるというよりは独立国家を作ろうと。それがbonoboなのかもしれません。

bonoboではドリンク代だけは頂きますけど、そこでマッサージしている人も物を売っている人もいるんです。僕にことわっている人もいればことわっていない人もいますが、何をやっても場所代はいただかないですし、この小ささだと上手く成り立つんです。そういう風にbonoboではある種の無政府主義的なところが実現されているのかなと思います。

ーー でも14年も続いているのはビジネス的にも成功しているってことですよね。

成:たぶん業界で一番くらいに給料はいいです。歩合もつけていますから。例えば、ブッキングを頑張って良い内容にしてお客さんがいっぱい来れば、彼らは結構持っていけるんですよ。

ーー bonoboは毎晩満員って感じなんですか?

成:週末はすごいですね。200人位くらい来るときもあります。ただ平日は静かだったり、読めないんですけどね。平日はバーテンダーがブッキングしますけど、週末はいろんなオーガナイザーの方がイベントを企画して、ドリンク代以外は全部持っていってもらうんですね。だから、入れば入るだけ、入らなかったら入らなかっただけとすごく正直なんです。

ーー ちょっとライブハウスに似ているんですね。

成:そうですね。ただ、ノルマがないですからね。ノルマってよくないなと思っていて。ここはハコ貸ししないんですが「ハコ貸してください」って言われたときには、1時間につき1万円分のドリンクの売上を作ってくださいとお願いしています。例えば、5時間借りるときには、5万円ドリンクの売り上げがあれば、ほかは何ももらいません。でもそれが4万5千円だったときに5000円だけ補填してくださいと。だから誰かが持ち出すってことはないですし、盛り上がれば大抵越えられる数字を設定しているので、お客さんを呼んで飲めばDJも幸せ、オーガナイザーも幸せ、ハコも幸せになる感じです。

ーー それで成立しているというのは素晴らしいですね。言うのは簡単ですが、成さんも客商売ってカレー屋さんくらいしかやってなかったわけですよね。

成:そうですね。ティナ・ターナーがいなくならなかったら僕は客のままだったでしょうし、最初にやるときに「え、俺が客商売やるの?」と思いましたよ。

 

 

bonoboを通じてアートをより身近なものにしたい

ーー bonoboが上手くいっているのはなぜだと思いますか?

成:最初はグラビアモデル事務所との掛け持ちでやっていましたから、好きなことだけやっていたんですね。つまり少し余裕をもってやっていたんです。もしbonoboだけだったら「もっと人を入れなきゃいけない!」ってがむしゃらにやったと思うんですが、売り上げよりも音だったりコンテンツといったところで妥協せずにやったのが、逆に良かったかなと思いますね。で「もう好きなことだけにしようかな」と思ってbonobo一本にしたのが7、8年前で、収入は減りましたけど、気分的には楽になりました。その選択は正解だったと思います。

ーー やはり海外からのお客さんも多いですか?

成:多いですね。例えば、海外からアーティストが来たりしますよね。そうすると、大きいクラブに行ったりするんですが、そういったクラブはニューヨークにもベルリンにもあるわけですよ。それでアテンドする方が東京にしかない面白いところに連れて行きたいときにbonoboに来るんです。ジェーン・バーキンさんが来たり、アニエス・べーさんが来たりするのは、アテンドする人が「東京ではここを見せなきゃ!」と思って連れてきてくれるからなんです。

ーー ジェーン・バーキンが来ているってすごいですね。

成:アニエス・ベーさんがある有名なDJと話していたりとか、そういう交流がすごく面白いです。ここの特徴は近所のおじさんたち、サラリーマンの人、音楽好きの若い子、海外からの観光客とか、色々な人たちがここでごっちゃになるんですね。普通のサラリーマンとヒップホップの男の子が話しているのって他ではなかなか見られない光景だと思うんですよ。「君たちこんな音楽好きなの?」「いやー最高ですね」なんて言って。そのカオス状態は面白いと思いますね。

ーー 空間の使い方としては、音は下のフロアで鳴らしているんですか?

成:ええ。その音が上がってくることもありますし、あとここでお座敷DJをやったりもします。

ーー ちなみに成さんもbonoboでDJをするんですか?

成:僕もたまにDJします。僕のDJって本当にオールジャンルかけるんですよ。ハウスとかディスコとかだけじゃなくて。ラテンから実験音楽とか全てミックスしてかけるので、かなり独特なスタイルだと思います。それは「色々なものを聴かせよう」という僕の思想でもあります。

ーー お店にはほとんど毎日いらっしゃるんですか?

成:家が近いので、僕の気分次第ですね(笑)。基本的にフロアでお客さんとお話したり踊ったりするのが僕の仕事なので。ホスト役というか。ですからお酒を作ったりはしないです。

ーー bonoboは朝までの営業なんですか?

成:はい。ただ、今話題になっている風営法の「踊れる踊れない」ってところで言うと、bonoboは深夜営業をとっているのでバーとしての営業でなんです。同様にほとんどの小バコは法律的にアウトになっているところが多くて、この間も青山蜂というハコが摘発を受けましたが、今まで営業できていたのが急にそんなことになってしまってね。そういうハコを法律的にバックアップしていこうと弁護士さんたちと僕も中心になって今やっているところです。ただ、所轄によって対応が違うみたいで、bonoboは原宿警察署の所轄なんですが、「成、頼むよ。また苦情入っちゃったよ」って注意するくらいで帰ってくれるんですけどね。まあ、いつどうなるかわからないですからね。

ーー 風営法って改正されたんですか?

成:されました。それまではどこも踊ってはダメだったんですね。それはダンスホールで娼婦たちがお客さんを引っ張ると風紀が乱れるから作られた法律なんですよ。

ーー 何時の法律だよ…って感じですね。

成:そうなんですよね。この間、アムステルダムに行ったときに「日本って踊れないって本当?」って質問されましたけど、現実に踊れない国だったんですね。で、僕の知り合いの弁護士さんたちが頑張って動いて、あるエリアである規模であれば夜中も踊ってもいいよということになったんですが、結構外れているところが多いんです。

実はbonoboも地域からは外れていて、本当は踊っちゃいけないので、たまに警察の方が「中見せてよ」って来るときがあります。でも、制服の人が入ってきたらみんな驚いちゃうから私服の人だけ入れて、「踊っているじゃないか」って言われたら「いや、揺れているだけです」って(笑)。「いや、踊っている」「あれは揺れているんです」ってもう漫才みたいなやりとりですよ。でも、その辺で帰ってくれればいいですけど、青山蜂が摘発を受けて見せしめにテレビ報道させたり、そんな事態になっているわけです。

ーー つまらない法律ですよね。

成:本当に。これから外国人の方もいっぱいくるのになって思います。

ーー では、最後に今後の展望をお伺いしたいのですが。

成:そうですね、やはり新bonoboの計画を実現させたいです。地下にフロアを作ることによってもっと苦情がなくなるだろうし。今はたまに来ますが、申し訳ないなと思っているので。

ーー 地下80坪だったらすごいですよね。

成:ちょっと大きすぎるかな?とも思ったんですけど、例えば、地下80坪を2つくらいに分けて、ある時期だけギャラリーにしたりとか、そういう上手い使い方ができないかなと考えています。本当は映画館くらい作りたいんですけどね。

ニューヨークでは夜「遊びにいこうか」というとき、映画観に行くとかクラブに行くのと同じように現代美術を見に行くという選択肢があって、アートが身近にあったものですから、そういった感じを日本でも実現させたいんですよね。映画を見る、コンサートに行く、アートを見るという横並びな感じと言いますかね。

ーー それは楽しみですね。さっき聞きそびれてしまったんですが、この「bonobo」という名前は何から付けたんですか?

成:「bonobo」っていうのはサルですね。彼らはすごく平和的なサルで、チンパンジーにバナナをあげると一人で全部食べちゃうんですが、ボノボにあげると半分に割って隣のボノボにあげるという、非常にすばらしいやつでね。あともう一つのポイントは、ボノボ同士が森で出会うと、男女関係なしに性器を擦り合わせて(笑)、それによって非常に仲良くなるんですね。

ーー 成さんにとってボノボは平和の象徴なんですね。

成:そうですね。bonoboもだんだんそういう平和的な場所にはなっているかなと思います。色々な方たちがごっちゃになっている空気感というか、そこがここの特色だと思います。

ーー バーテンさんが変わっても、共通したbonoboのムードがやっぱりある?

成:あるんですけど、日によってちょっとずつ個性が違うから、またそれも面白かったりするんじゃないですかね。

ーー 今度遊びに来たいと思います。

成:ぜひぜひ。今日話せなかったおかしい話がまだいっぱいありますので、飲みながらその話の続きをしましょう(笑)。

 

 

bar bonobo 店内

 

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