第156回 晴れたら空に豆まいて プロデューサー 宮本端氏【前半】

インタビュー リレーインタビュー

今回の「Musicman’s RELAY」はbar bonoboオーナー 成浩一さんのご紹介で、「代官山 晴れたら空に豆まいて」プロデューサー 宮本端さんのご登場です。学生時代から音楽にのめり込んだ宮本さんは、一度、銀行に就職するも音楽業界の道を諦めきれず、2年でブルーノート東京へ転職。「サービス業とは何か?」を肌で感じながら、希望だったブッキングとしてジャズだけに留まらず井上陽水、忌野清志郎、矢野顕子、チャーリー・ワッツ(ローリング・ストーンズ)、ボズ・スキャッグス、ミルトン・ナシメント、ルイ・ヴェガ、パット・メセニーなど数多くのライブを企画・制作。フリーとしての活動の傍らライブハウス「代官山 晴れたら空に豆まいて(以下「晴れ豆」」を個性的なハコへ磨き上げた宮本さんに、ご自身のキャリアからブッキングの裏話、そして今後の目標までじっくり伺いました。
※2018年12月4日より、Zepp TokyoおよびZepp ダイバーシティ東京の副支配人としてご活躍中。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

 

図書館のような家で育った少年時代

── まず前回登場いただいたbar bonoboの成浩一さんとの関係をお伺いしたいんですが。

宮本:成さんとお酒を飲みにいってそこで二人で盛り上がって、っていうのは実は一度もないんです。初めてお会いしたのは渋谷の『Red Bull』のスタジオだったと思います。居合わせた晴れ豆の音響チーフが紹介してくれて、それから何度か偶然お会いしたという程度なんです。「最近、座りキャパ150にも満たない小さいハコで変なことやってる変わった奴がいるな」みたいに思ってくれていたのだとしたらちょっと嬉しいですね。

── それは何年くらい前ですか?

宮本:この2、3年ですね。以来、たまに晴れ豆でのイベントにいらした時に二言三言ご挨拶するくらいで。そんな感じだったので、逆に良い意味で、今回ご指名いただいて驚きましたし、とても光栄です。

── 成さんも宮本さんの話を聞いてみたいと思ったんじゃないですかね。

宮本:そうだったら嬉しいですね。大先輩ですからね。

── Bar bonoboには何度か行っているんですか?

宮本:まだなんです。僕、たまに心の準備というか理由が必要というか、動くまで時間がかかっちゃう時があるんです。ひとたび動き始めたらパンパンパン!ってやるんですけど,これに関しては動けてません。千駄ヶ谷はブルーノート時代に7年ほど住んでいたりして馴染みのある街でもあるんですが。

── 「リカリスイ」の看板が目印で。

宮本:場所は明確にわかるんですけど、まだという。千駄ヶ谷はいつかまた住みたい町でもあるんですけどね。僕は、自分でライブを企画する以上は、終電を気にしてそわそわして「すいません」って先に帰るとか絶対に嫌なので、基本的に徒歩圏内に住みたいんですよ。満員電車は嫌いだし。今も晴れ豆から徒歩1分のところに住んでいます。

── 楽ですけど仕事とプライベートの切り替えが大変じゃないですか?

宮本:気持ちを切り替えたくて意識的に遠くに住んでいるという方も僕は沢山知っていますけど、僕は自分で決めた現場では、終演後もアーティストやマネージャーと無駄話含めて色々話して、そのまま頭をドライブさせたいんです。それでアイディアが生まれることが圧倒的に多かったですから。なのでブルーノートのときは南青山と千駄ヶ谷。逗子海岸音霊では砂浜に建っていた店舗の楽屋。朝の海が綺麗でした(笑)。今は代官山。時間をお金で買っています。

── 交通費はかからないですよね(笑)。

宮本:ゼロです。だから普段はもうほんとにギリギリまで寝てます。通常出勤時刻が午後2時半なので、その15分とか20分前に起きてシャワー浴びて、オフィス着いたら、これは最近凝っているんですがコーヒーを自分で淹れて、職場のコーヒーおじさん(笑)として「淹れたけど、飲む?」とか言って皆に振る舞ってから、ぼんやり考え事を始める。担当現場の時はもう少し早くアーティスト入りの1時間くらい前に入りますが。

ただ、長年「自分は近くに住んで時間を気にせずドライブしたら回しっぱなしというスタイルじゃないと仕事はできない」とずっと思っていた僕も、最近少し考え方が変わってきました。昨年結婚したのですが、妻は小淵沢をベースに僕は代官山をベースに生活して、たまにお互い行き来する通い婚なんです。東京から2時間ちょいの小淵沢では、何をするまでもなく、バスを降りた瞬間に頭がクリアになって、結果非常に快適に仕事ができるということが判明しまして。遠くで切り替えるメリットというか心地良さをようやく知ったところです(笑)。

── わかりました。では、ここからは宮本さんご自身のことをお聞きしていきたいのですが、水戸の生まれでお父様が校長先生だと伺いました。
 
宮本:はい。正確には日立市の病院で生まれて、すぐ水戸へ移りました。当時父は社会科の教師で、僕が後に入ることになる高校に、僕が生まれてからずっと勤めていました。親子が一緒はさすがにまずいのか、僕が入学すると同時に父は別の高校へ異動しました。ちなみに僕、ほんと申し訳ないことに郷土愛というものが全くなくて。まず、茨城県っていうのは「自分の田舎が好きじゃありません」ランキングでだいたい一位か二位なんですよ(笑)。

── 不人気(笑)。

宮本:東京から近いので「東京で一旗あげてやるぞ!」という気概もないし、言葉もちょっと汚いし、文化的に特別なものも特にない。故郷が京都とか福岡とか羨ましいなと思っちゃいます。茨城を出るまでは結構悶々と過ごしていました。

── どんなお家だったんですか?

宮本:本だけは図書館や神保町の古本屋並みにある家でしたね。国語の先生とか卒業生が論文のために本を借りに来るくらい。小さい頃は絵本代わりに美術全集なんかを眺めていました。

── めちゃくちゃアカデミックな環境ですね。

宮本:父親は昭和一桁生まれの真面目な、家に帰ってずっと本読んでいる人でした。コマーシャルに「くだらない!」って怒るみたいな(笑)。相撲をやっていたら相撲!7時はニュース!

── NHKしか観ない?

宮本:はい。テレビは1つで、おもちゃなんか買ってくれないですし。よく殴られましたけど、当時はそういう家庭が多かったと思いますよ。厳格に育てられたというのとは違う気がしますね。先生ですが「勉強しろ」とは言われなかったし、教わったこともなかったと思います。「犯罪はするな」以外、ああしろこうしろは無かったですね。あ、父の名刺の威力で、本はツケで好きなだけ買える状態にはありました。

── ご兄弟は?

宮本:兄、姉、僕の3兄弟で、見事に全員タイプが違います。兄はいわゆるフツーの人で、テレビの歌番組が大好き。聴くのは売れ売れの王道です。ジャズを聴くといっても駅で売っている「スタンダード全集」みたいな廉価版のCDを喜んで聴くような。

── (笑)。マニアな方向に行かない?

宮本:全く。姉は耽美系というかルックスが良い人が好きで、最初はカルチャー・クラブとデュラン・デュランあたりから始まって、ジャパンとか好きだったみたいですね。

── 案外、洋楽嗜好なんですね。

宮本:日本人でも本田㤗章さんとか、とにかく美形が好きで、当時のカッコいい人を追いかけて行くと結構とんがった音楽に行くので。

── カッコよくなきゃ駄目なんですね。

宮本:僕が考える姉の好みはそうでしたね。デュラン・デュランだったらニック・ローズ。ちょっと女性的な美形。後におどろおどろしい系にどんどん曲がって行ってそれが隣の部屋から聴こえてくるんですけど(笑)。

── お兄さん、お姉さんの影響はありましたか?

宮本:あると思います。兄に頼まれてエアチェックに励んでたまった何十本もの歌謡曲カセットを聴きまくったおかげで僕は歌謡曲が大好きですし、同時にメインストリームではない尖ったのも好きだし。相反するものが根っことして同居しているんだろうなと思います。歌謡曲はたまたま今まで仕事として関わって来なかっただけで是非やりたいですしね。僕のiTunesライブラリは古今東西入り乱れて10TB超えて今も増殖中です。

 

 

音楽を歴史的に聴くことの大切さ

── 音楽を聴き始めたのはいつ頃ですか?

宮本:幼稚園前から親にせがんでソノシートをかけてもらったりしてました。で、歌謡曲を経て洋楽を聴き始めたのは中学です。放送委員長として学校史上初、先生に掛け合ってお昼の放送でロックをかけたりしてました。その頃から交渉してますね。高校は、受かったらコンポを買ってくれるならとこれも交渉して入った一応県で一番の公立で、部室にあったオンボロのギターを弾き始めました。ギターを弾く人って、最初はロックスターに憧れたりするのが多いと思うんですけど、僕はそう思ったことは一度もないです。「これ弾けたらいいな。あ、できた。嬉しいな」だけで。

── 音楽によってスポットライトに当たりたいという気持ちはなかったんですか?

宮本:全く。この仕事をしてると「楽器やるんですか?」って会話は多いと思うんですが、特に外国人には「弾くけど、自分のためにだけ。セラピーみたいなもんだよ」って言うと「わかる」って。弾いているのは楽しいんですけど、自分のライブをやろうと思う回路はゼロです。

── 目立つのが好きじゃなかった?

宮本:考えてみると昔から裏方で、高校2年の時に学苑祭の副委員長、3年で委員長をやって、委員長特権で学苑祭にバンドで出たりしましたけど、軽音部には入らなかったし。部員じゃなくても鍵の番号をわかっていれば部室に入れちゃうんで、バンドも組まず、独りで勝手にヴェルヴェッツとかをジャカジャカやってました。ちなみに最初に弾いたのはビートルズの「Blackbird」で(笑)。

── あれって結構難しいですよね。

宮本:何が難しいのかすら分からないので「あ、これ弾きたい」と思っただけなんですよね。

── それは耳コピですか?

宮本:とっても雑な譜面がありました(笑)。それを必死こいて1週間かけて練習して、クラシックギターをやっている奴に「こういうのを覚えた」って言ったら初見で弾かれて「わーっ」って(笑)。「あぁ、弾ける人っていうのはこういう人なんだな」と。

── 初見で弾かれてしまった(笑)。

宮本:もう必死に覚えたのに「へえ、いい曲だね」って言いながら簡単に(笑)。

── ちなみにその頃、勉強はどうだったんですか?

宮本:中学校までは黒板や教科書を一目で全部理解してあとは寝ている神童だったんですが(笑)高校で見事にやらなくなって付いて行けず落ちこぼれました(笑)。学校自体は地方の進学校あるあるの、自由すぎるくらい自由な学校で、全校集会ではオープンマイクで好きなことを言って良かったり、制服も校則もないし。だから凄く良かったですよ。みんな自立していたし。

── 例えば、洋楽の情報とかは結構入ってきたんですか?

宮本:昔は全国各地に信頼できる「街のレコード屋さん」があったと思うんですけど、僕の場合は2軒ありました。国内盤を売っている『FUJI DISK』。もう1軒は輸入盤専門の『Rock Bottom』。買えなくても入り浸っていました。中高生の僕にも「宮本くん、ドクター・ジョンが入ったよ」とか、大人が教えてくれるんですよ。

── 音楽の喜びを共有できる友達は学校とか身のまわりにはいましたか?

宮本:1人だけいました。彼は中学の時の転校生です。お互い当時はヒットチャートを聴いていて、僕はブライアン・アダムス、彼はブルース・スプリングスティーンが好き。高校は別だったんですが、「ヴァン・モリソン買ったよ」とか「ニック・ロウのこれ知っている?」とか、お互いの家を行き来しては「発見」したレコードを聴いていましたね。

── そういう仲間が1人でもいるといいですよね。いるといないじゃ大違いで。

宮本:全然違います。小遣いも大してなかったのでレコード貸し借りしたり。4月に教科書代を貰って一冊も買わずに全部レコード買うのに使っちゃったり(笑)、毎週土曜日に「お昼ご飯を買いなさい」って渡されるお金もお昼を食べないで貯めて。だってLP1枚2,800円ですから全然買えないですよ。

── 情報も『ベストヒット USA』とかそういうのですよね?

宮本:そうですね。当時の全国の皆さんと一緒だと思います。「沢山聴きたい!」っていう熱意だけはありました。『FMステーション』のCASH BOX 100(チャート)に「この曲は聴いた」って蛍光ペンで線弾いてました。FMもNHK FMしか入らないし。

── 水戸ってTOKYO FMとか入らないんですか?

宮本:入りません!TVK(テレビ神奈川)も観られないし。でも、新聞のテレビ欄にはあるので目に入るんです。

── TVKって音楽好きはそそられる放送ラインナップでしたよね。

宮本:「この『ミュートマ(ミュージックトマト)』っていう番組は夢のような番組じゃないか!」と思っても観られない(笑)。当時の洋楽番組や音楽番組はもう必死で観ていましたね。文化的基準も高かったというか。僕が小さい頃って、映画でも成瀬巳喜男監督の作品とかテレビで普通に流れていて、知らずに観れてましたよね。今はそんな番組は無く、成瀬や小津は邦画マニアのものになってしまいましたが。

音楽でも、それこそ久保田麻琴さんのことを初めて知ったのはNHKで観たサンセッツのライブですし、最近高野寛さんとお仕事した時に「デビュー曲演奏されているの、何度もNHKで観ました!でもシングルもアルバムもチャートインされていなかったんですね」というお話をしたんですが、「何故そういう心ある番組は無くなっちゃったんだろう?」って思います。

僕「マニアックだなあ。一般の人はわからないよ」っていう考えは撲滅したいですよ。NHKの『レッツゴーヤング』にPLASTICSが出てた事、凄く覚えています。「なんだろう、この人たちは?」って地方のガキの目で観ても明らかに浮いていましたけど強烈に印象に残った。当時のNHKスタッフが意図的に「日曜夜全国放送のアイドル番組にPLASTICS出しちゃおうぜ!」ってやった筈なんですよ。で、40年経っても僕はそれを強烈な体験として憶えている。そういうのが大事だし、メジャーな送り手の役目だと思うんですけどね。

── ご自身の初のライブ体験はなんですか?

宮本:僕の世代の音楽業界人ってほぼ全員ピーター・バラカンさんとYMOと佐野元春さんのどれかに影響を受けているんですが、僕もご多分に漏れずで。佐野さんは当時『ヴィジターズ』というアルバムでラップをやってオリコン1位を穫っているんですよね。一聴して衝撃的だったので「何だろう?」と思って、高校の時、次のアルバムのツアーで茨城県民文化センターに来た時に、友達と観に行ったのが初めてのライブです。

── 初ライブは佐野元春さんだったんですね。

宮本:はい。佐野さんってライブでアレンジをガンガン変える人で、レコードで耳タコの「アンジェリーナ」も歌い出すまで全然気がつかなかったんですよ。それで「へえ、ライブってこういうものなんだな」って思ったんですよね。忠実に再現するという考えも勿論存在するわけですけど、僕の場合一番最初の体験がそれなので「ライブならでは」というものがあるんだということが本当に強く植え付けられたんです。佐野さんには色々感謝しています。好きなアーティストが「僕はこれに影響を受けた!」と自分の言葉で語ってくれたらファンは必死で聴きますよね。民放FMが入らない茨城県水戸市民の僕も、そのお陰で十代のうちにトム・ウェイツやヴァン・ダイク・パークスを知ることができたんです。

佐野さんとはその後何度かお会いすることができたんですが、僕は彼が大きな影響を受けたニール・ヤングとボブ・ディランに会えた時「『ありがとう』と言った」というインタビューを読んでいたので、僕も佐野さんに直接「ありがとうございました」って言いました。ピーター・バラカンさんに会えたときにも、同じようにお礼を言いました。

── 音楽を体系的に聴くことができたんですね。

宮本:はい。別に知ってるのが偉いとか、そういう風には思っていませんよ。えっとですね、僕は「音楽というのは飲食みたいなものだ」とずっと思っているんです。知らない食べ物を初めて口にした誰かが「わあ、美味しい!なにこれ!」って感動した時、そこにウンチクやら知識なんかは要らない訳です。最高級品でも口に合う合わないとかアレルギーはあるだろうし。色々似ているなと。そしてそんな風に感動して興味持ってくれた人が「もっと知りたい」と思った時、プロとして関わっている人がちゃんとしていれば、結果皆が幸せになれると思うんです。だから音楽の供給側に居る人は、特にそういう歴史の知識って大切だと思いますし、必要なものだと思うんです。ちゃんと根っこがあって、幹があって、枝があって、葉っぱがあってという風に知ることが地方でもできたのは本当に良かったです。

あと、昔は聴いている間レコードとかCDのクレジットとかを暇つぶしでも読んでるうちに、「マスタリング」という言葉を知ったり、「パワーステーション」とか「ボブ・クリアマウンテンっていう人」とか誰でも知ることができたのに、それが今普通じゃなくなっているのは、正直、業界の怠慢だと思っています。クレジットは絶対細かく入れるべきです!ググれば良いじゃないんです。ググるためには言葉が必要なので。その言葉を書いておかないと!

── まして配信やストリーミングになってしまうとクレジットを見る機会もないですよね。

宮本:将来に繋がる芽をつぶしまくっていて、良くないと思います。また食べ物の例えになっちゃいますが、「飲食業界ってすごく健全だな」って思うんです。昔のブルーノート東京のアルバイト仲間には「いつかは自分の店を持ちたい」って夢を持った連中が沢山いて、実際何人も独立してます。夢と情熱を持った若き日の彼らが真剣にお酒の勉強をして、食べ歩いて飲み歩いて、サービスについて考えて、高いスタンダードを知って技を磨いていく過程を見てきました。質を伴わずにただ「頑張ったんです」って言ったところで不味かったらつぶれるだけだし。それは健全だと思うんです。でも、どうも僕は音楽業界だけ、お客さんが少なくなった時にサービスと質を落としたように見えて仕方がないんです。どの業界も、お客さんが少なくなったら絶対にサービスと質を上げると思うんですけど。

── それって心ある人はみんな言っているんですよね。

宮本:はい。例えば山下達郎さんは「こだわっていますね」って言われて「なぜみんなやらないのか、そっちの方がわからない」って答える。黒澤明さんは「馬が河を渡りましたっていう文字の説明じゃなくて、お客さんは馬が河を渡るとこが観たいんじゃないの?だから僕はそれを観せたい」って。宮崎駿さんはある映画について「生身の人間が潜水艦に張り付いて敵地に潜入?どうやって?あんなの潜入方法が思いつかなかっただけで、スタッフが下をうつむくべき失敗です。お客さんはスクリーンにトマトぶつけていい」

── はい。

宮本:128kbpsの圧縮音源を「CDと変わりません」って世界的に言い切っちゃったのは、歴史的な詐欺〜大罪だと思ってます。果汁10%以下の飲み物を、「100%ジュースと同じ味ですよ」って言っちゃったってことですから。そういう「飲み物」ばかり飲んできた人がつくる飲み物って美味しいでしょうか?本物は濃すぎて嫌だとか?本末転倒です。サウンドエンジニアになるための学校の生徒がCDを1枚も買っていないという状況が結構前から出てきていて、ハイレゾはまだ高級品だから無料で聴くのがほとんど。良い音で聴かせてくれるライブ会場は本当に少ない。それで育った彼らは果たして音楽関係者としてどんな音を作るんだろうと。これは非常にまずいと思うんです。でも彼らは被害者です。上の世代がそういう世界にしちゃったんですから。これは全員で真剣に考えないといけない問題だと思いますよ。

晴れ豆は様々な人たちのお蔭で本当に音が良いんです。正確に言うと「良い」というよりは、エンジニアとプレイヤーの音がそのまま出る。悪かったら悪いまま。晴れ豆の環境で有名アーティストの作品をかけてみると、音が潰れまくっていたり、びっくりするくらい音が前に出てこなかったりすることが結構あります。勿論素晴らしいものもある。何でわざわざ質を落とすのかが僕は本当にわからないです。「音、悪いけどこれでいいじゃん」と妥協したら、それはつまりマズいご飯しか食べさせないと同じ事なんだから、巡り巡ってお客さん来なくなって当たり前じゃないの?って思いますけどね。

 

 

間近で観たジミー・スミスのライブの衝撃

── 大学はどちらに進まれたんですか?

宮本:明治です。ラグビー応援したくて入っただけという失礼というかアホなんですが(笑)。小学校の頃から「学歴と関係ない生活を僕は送るんだろう」と思っていたので、受験勉強もテレビ前のコタツで一日2時間2ヶ月とかで、三年秋で英語と世界史は上位だったのに意識的に早慶受けないで好きで明治に入ったら、早慶に落ちてがっかりしている若者の吹き溜まりで、皆「人生終了」「俺たちは駄目だ」って愚痴っていたんですよ。「あ〜これに巻かれちゃまずい」と思って学校に行く気が完全に失せちゃったんです。僕も勉強極めるか現状受け入れて前に進めばいいのに、嫌なやつでしたねえ。当時の僕に今会ったら敬遠しますけど。

── 上京されてどちらに住んでいたんですか?

宮本:吉祥寺です。通り道にレコード屋さんも喫茶店も沢山あるし、街の外に出なくても全部済んじゃう。適度に都会で適度に田舎で居心地が良くて、楽しかったですね。バイトしてはCD買ってを繰り返してオールジャンルでひと月に50枚くらい買っていました。「これ知らないから買おう」みたいな感じですね。

── バイト代を全部CDにつぎこんで?

宮本:全部です。小さい頃おもちゃ買ってもらえなかった反動ですね。割のいい肉体労働やってCD買って、月50枚だから×12で年間600枚、大学4年間で2,400枚くらいですか。19歳のときに読んだピーター・バラカンさんの『魂(ソウル)のゆくえ』という本は決定的でした。

黒人音楽史がわかりやすく説明されていて、ディスクガイドには入手しやすい作品を紹介してくれていました。凄く影響を受けて、まだバブルの残り香がある時代にハタチ前後の若者がプロフェッサー・ロングヘアーとかコースターズとか(笑)。周りはディスコ貸し切ってパーティーとかやっていたんですが、そういうノリにも馴染めないし、同級生もアレだし、ますます吉祥寺から出なくなるんですよ。バイトしているか吉祥寺にいるかで、レコード屋さんに毎日3、4軒、1軒に何時間もずーっといて。一度に20枚とかレジに置いて。今思うと絶対病んでいたと思うんですけど、結果的に全部いい方向にいったので本当に良かったと思います(笑)。

── 吉祥寺には他にも変わった人たちが集まっていたんじゃないですか?

宮本:隣の部屋には某インディーバンドの人がいました。僕には優しかったけど変な人でしたね(笑)。面白い街でしたよね。当時はそれぞれの街に個性があって、レコード屋さんだってWAVEはこう、タワーはこう、レコファンはこうと、量販店にもそれぞれの役割があったと思います。当時はバイトして音楽を聴いていれば幸せでした。お酒も全然飲めなかったんですよ。で、明治って飲みがキツい大学だったのでそれもまた馴染めず「そのお金があったらCD買うわ」って。今はウイスキーが好きですけど。

── ライブにも結構行っていたんですか?

宮本:さっきのバラカンさんの本の最後に「ソウルを感じる音楽」としてジミー・スミス、ビリー・ホリデイ、アート・アンサンブル・オブ・シカゴ等が紹介されていたんです。「オルガンでジャズ?」とか思っていると、立ち読みした『ぴあ』に「ジミー・スミス 8000円 ブルーノート東京」って書いてあって。

── ライブの情報を見つけたんですね。

宮本:見つけちゃったんです。で「安くはないけど、楽しめない飲み会で二次会まで付き合わされても8,000円だよな。金額変わらないならこっち行こう」と思って、二十歳になる数日前に初めてブルーノート東京に行きました。開店2年目だったと思います。

── それは1人で行ったんですか?

宮本:あの中学生の同級生が神奈川の大学に行ってたので10,000円札を握り締めて2人で行きました。「こんな素晴らしい場所があるのか!」って思いました。一番前の席に座ったら、バラカンさんの本に載っている人が歩いてきて目の前で演るんです。ギターはフィル・アップチャーチ。終演後彼らがその辺で飲んでいたので慌ててCDを買って「サ、サインください!」って。天国ですよ。それまでは豆粒が袖から出てきて知ってる歌歌って袖に引っ込むホールのコンサートしか知らないわけです。勿論それも楽しかったですよ?でも生の指示出しが聞こえる、汗が飛んでくるっていう環境に衝撃を受けたんです。

── 臨場感がハンパなかったわけですね。

宮本:音楽そのものだけの力でバーンって来られて。

── しかも超絶プレイで。

宮本:そうです。いろんな表現の形があっていいと思いますけど、音楽そのものだけの力というものをその時強烈に体験して、以後味をしめたんですね。

── それが未来を決定づけたんですね。

宮本:もう完全にそうですね。その後少し回り道はしましたけど、原点です。

── では、それからはライブに通う日々ですか?

宮本:ブルーノートと別に、原宿駅前にも『キーストンコーナー』というジャズクラブがあったので、毎週何かしら観ていたんじゃないんですかね。本当にバイトをしては音楽で、「日当8,500円だから1日働けばチャージは払えるな」みたいな(笑)。当時そんなにお客さんが入っていなかったのか、第1部を予約して、うまくいったら第2部も通しで観られたり。そういう時代でした。

 

 

銀行を退職しブルーノート東京へ突撃

── そこまで音楽にのめり込んでいたにもかかわらず、大学を卒業されて銀行に就職されていますね。

宮本:はい。当時の僕は本当にダメで、常に何かのせいにして、誰かのせいにしてという曲がった人間だったんです。そして「音楽は趣味だ」と無理矢理自分を納得させてたんでしょうね。トライする事自体しませんでした。

── なるほど。

宮本:後にバイト仲間になるブルーノートの店員さんも凄くかっこよく見えて、「こういう仕事って、大きいコネとか無いと無理なんだろうな」って勝手に思っちゃってました。あと、自分が好きじゃない音楽も当然あるわけですよ。だから「例えばレコード会社に入ってもそういうの担当とか最悪だよな」と思ってたんです。

── 好きな音楽だけ聴いているほうがいいと?

宮本:当時はそれがいいと思ったんですよね。地方で銀行員なんて、変な話、結婚するにも良い履歴書だし、校長になっていた父親の給料も若いうちに抜けるくらいお金は稼げる。しかも就職した常陽銀行は地域のリーディングバンクだから仕事も楽。銀行って2番手、3番手は仕事キツいんですよ。こっちは7時には帰ってましたから。

── いわゆる地方のエリートコースは県庁に行くか地銀のトップに行くって言いますよね。

宮本:どっちかです。僕もそれに1回乗っかって、「お金稼いで趣味に生きよう」と。CDを買ってライブに行って、東京は特急で1時間だから遊びに行けばいいと自分に言い聞かせてきたんですが、2年位経つと悶々としてきました。当時僕が居た支店の支店長は銀行員の鑑みたいな人で「絶対この人にはなれないわ」って思いましたし。

── 2年間で見切ってしまったと。

宮本:勿論、若造の青い目ですからちゃんとは見えてないですよ。ただ、支店長も含めて全員同じフロアにいましたから、「20年後僕はこうしてるのか」と、なんとなく未来の姿を想像する訳ですよ。そして何よりも決定的だったのは、2年目の終わり頃に立て続けに起こった阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件ですね。

それまで「お金を稼いで趣味に生きて、将来は家建ててオーディオルーム作って楽勝」「何年か我慢して給料が良くなったら以後安泰」って思っていたら阪神淡路大震災が起きて「あれ? モノって簡単に壊れるな」、サリン事件で「あれ?毒を撒かれたらヒトって簡単に死ぬよな」と立て続けに。父親も病気していて「彼は真面目すぎるが故に病気になったけど、僕は楽天的な人間だから大丈夫!」と思っていたんですが、ある日仕事で「あれ? 僕、壊れるかもしれない」と感じたんです。

── 銀行の仕事で結構追い込まれたこともあったんですか?

宮本:はい。ある朝「ちょっと無理」っていう事が起きて、生まれて初めて手がプルプル震えたんです。すぐ支店長に「別室でお時間いただけませんか?」「辞めたいです。というか辞めます」と伝えました。

── 何の前触れもなく辞意を伝えたんですか?

宮本:誰にも相談せず。

── 辞めると伝えたとき、その先は決まっていなかったんですよね?

宮本:そうですね。「音楽の仕事をしたい!辞めよう」じゃなくて「僕、ここ居たら壊れちゃうので辞めます」です。その後に「さあこの先どうしよう? あ、ブルーノート東京に行ったらきっと僕は幸せになれる!」って思ったんですよ。それまで音楽ファンとして通いながら「ここであの人がやらないかな」とか考えていましたし、「あ、今気付いた。僕はそれがやりたいし、多分できる。そして僕は絶対に幸せになれる!」と。つくづく青いですねえ(笑)。でも他の選択肢は思いつかなかったです。「何でも良いから音楽業界へ」じゃなくて、ブルーノート東京。

── 銀行に「辞めます」って言ったらなんて言われました?

宮本:「折角銀行に入れたのに、何故そんな水商売に行くんだ」と言われました。でも、僕にそれを言った人は酒飲みだったんです(笑)。だから「あなたは毎日その水商売のお世話になっているじゃないですか。お酒飲むの楽しいでしょう?僕はそっち側に行きたいだけですよ」って言い返しました。でも、その場では収まらなくて、別の場所に親も呼ばれて三者面談もしました。

── 学校みたいですね。

宮本:「やっぱり辞めるの?」みたいに言われましたが、やたら決心は固かったので、結局すぐに辞めさせてくれました。95年3月末で銀行を辞めて、前後して3月中かな。募集告知もしていないブルーノートに突撃しました。土曜の夜で、最終日超満員の入れ替え中だったんですが、空気読めないからいきなり「すいません!ここで働きたいんですが店長さんか副店長さんいらっしゃいますか?」って聞いたら「わかった。で、今手が離せなくて無理だから、別の日に来てもらってもいい?」みたいな(笑)。で履歴書だけ渡して。

── (笑)。

宮本:その夜は「わかりました!」と無邪気に意気揚々と水戸に帰って。改めて面接の機会を設けてくれました。僕は「ここで企画をしたいです!でも何でもやります!」ブッキングなんて言葉知らないですからね。「ここで沢山のライブを観ました」「自分でこういう事をやってみたいです」って喋り倒しました。ほんの数年前の僕は「コネないと多分無理だよなあ」だったんですけどねえ。

── 一所懸命聞いてくれました?

宮本:聞いてくれました。上の人の器ですよね。そして入ってからわかったんですが、当時のバイト仲間も大体こんな感じで飛び込んでたんです。公に募集なんかしてないので熱意だけで突撃。

── それは飲食の人も含めて?

宮本:そうです。僕が入った当時から少なくとも数年間、求人雑誌にバイト募集はほぼ一切載せてない筈です。

僕はそれまで行動を起こさない人間で、ちょっと勉強ができても小手先だけで必死にやらずこじんまりしてて、Uターン就職すると言った時母親に「あんた案外臆病なんだね」って言われました。そんなプライドがひん曲がった臆病者が24歳にして初めて自発的に行動を起こしたんです。興行の仕事ってある程度臆病なのは良いことなんですけれどね。最悪を沢山想像して、ひとつひとつに備えて、その中で最善を尽くす。憂いていた事態が結果的に起きなかったら「よかったね。でも想定はしていましたよ」っていうのがライブの企画と現場の仕事ですから、臆病者くらいがちょうどいいんですよ。なんて後付けの自己弁護ですけど(笑)。

 

「お兄さん、仕事楽しそうだね」〜ブルーノート東京でサービス業の神髄を学ぶ

── すんなりブルーノートに入れたのはすばらしいですね。

宮本:僕、有り難い事に節目節目はどういうわけか上手くいくんです。面接後すぐに「銀行員だよね。時給これしか払えないけどいい?フロント業務。いつから来られるの?」って。嬉しかったですねえ。僕が入った当時開店7年目だったんですが、まだ専任の受付がいなかったんです。今でこそああいう佇まいですけど。

── それまで受付がいなかったんですか?

宮本:ええ。音響・照明さんが受付をして電話予約係がレジを締めていたんです。そこに「銀行出身の奴が入るぞ。札勘定は得意だろう」という事で配置されたのかなと。僕は飲食の経験も無くて、でも何でもやると言ったのでカクテルの本を買ったりしてたんですけど、「君、フロント。ひと月で満席の一週間回せるようになってね」って言われました。最初の週はジョン・マクラフリン。最終日、彼が帰るところを我慢できずに話しかけて、今までの思いの丈をばーっとぶつけたら、英国紳士なので楽屋に連れてってくれて、二人だけで笑顔で話を聞いてくれました。「一生懸命頑張って。そうすれば音楽が君の人生を祝福してくれるよ」ってメッセージを頂きました。

お金を扱う事務という点では銀行の窓口に比べたら全然余裕だったので、最初は「お、レジ毎日合うな。お金の扱いは優秀だな」って事務が褒められて。アホだから調子に乗っていたら、サービス業の権化みたいな店長に「お前のやっているのはサービスじゃない。作業だ。お前には無理だ。今すぐ帰れ」って。まあ2、3回言われたと思います。出来悪すぎですね。

── それは何を言われているのかすぐに理解できたんですか?

宮本:わかってないですよね。でも帰る所は無いので何とかしがみついていました。僕はあそこで企画をやりたいんですから。

── その後、店長さんのおっしゃっていた「サービス」というのがどういうものか理解できたんですか?

宮本:すぐには分からなかったと思いますが、いくつか印象的な出来事はあります。ある日お客さんが「最近ジャズを聴き始めたばかりなんですけど、これやあれが好きです」と言うので、「お客様の場合、タック&パティお好きかも。今度来ますよ」って言ったんです。数ヶ月後、タック&パティの週にアンケートを読んだら「2カ月くらい前に受付の人に薦められて観に来ました。とっても良かったです、ありがとうございました」って書いてあったんです。住所観たら仙台ですよ。その時「ああ嬉しいな。客商売ってこういうことなのかもしれないな」って思いました。それまでは「あの受付は態度が悪い」とか書かれたら見られないように内緒で捨てたりとかしていたんですけど(笑)、もう最低ですね(笑)。

あと、当時は入場前にお客さんを結構並ばせていたんです。青山で並んでいる店というのがちょっとステータスみたいな感じで。でも、僕はお客さんから面と向かってクレーム言われるわけですよ。僕自身は整理番号1番をゲットするために寒い中何時間も待てますけど、「そりゃ並びたくない人はやっぱりいるよな」「この列、崩しちゃっていいんじゃない?無駄に列作らないで、こっちが全員をしっかり見て漏らさず受付をして、順番をきっちり把握すればいい。そんなのこっちの努力次第じゃん」と思ったんです。それで一緒に列のケアをしてくれていた同僚に「ちょっとやってみない?多分2人でできると思うんだよね」って言って列を崩したらあっさりできたんです。

── ファミレスの入り口で名前を書いて、その辺にいるみたいな感じでしょうか?

宮本:それのちょい進化系ですね。色々細かくやりました。「チケットには8時半開場とありますが、今週はファーストの演奏時間の関係で実際の開場時刻は40分を予定します。お客様は100番ですので9時にお戻りいただければ。それまで自由にお過ごし下さい」って言って30分ただ待たせない、みたいな。当時のお店にはマニュアルも無かったし、全てにおいて前例とか関係なく「こうした方がいいんじゃない?」って自分で考える癖がついたのは良かったと思います。バイトの意見も、それが理にかなっていたらちゃんと聞いて実行してくれる職場でした。

── ブルーノート東京での仕事は楽しかったですか?

宮本:何をやっても楽しかったですよ。ある夜、グッズの棚卸しという、当時の僕の中で一番気が進まない仕事を独りでやっている時、道を聞いてきた酔っ払いさんに「お兄さん、仕事楽しそうだね」って言われて「ええ、楽しいですよ」ってパッと言い切れたんです。そうしたらその方は「俺たちさ『仕事ってつまんないもんだよね』って話しながら歩いて来たんだけど、お兄さんを見ていたら『楽しい仕事もあるんだな』って思ったよ」と。

── それはお店のお客さんに言われたんですか?

宮本:通りがかりです。当時のお店は骨董通りのど真ん中で、フロントは1階でガラス張りだったので頻繁に道を聞かれたんです。僕、銀行を辞める当時、その数年前までサッカー部のエースでモテモテみたいな1歳違いのイケメン先輩に「宮本、仕事ってつまらないものなんだよ」って言われたんです。僕は「この人25歳でもうこんなこと言うんだ」って心の底から思いました。だから辞める時に「俺は絶対仕事で幸せになる。なれる!」って同僚の女の子に言うと「私はやりたい事がなくてここに居るんだけど、宮本君はやりたいことがあっていいね」って言われました。でも音楽業界に入ってからは「宮本は音楽が好きすぎるのが駄目だ。2番目に好きくらいが仕事には丁度いいんだ」って散々言われてきました。

でも、どんなに青いと思われようが僕はずっとそれは違うと信じています。どんな仕事でも「別に…」って人 より「大好きだあ!」って人がやったほうが幸せな結果になると思いますよ。エンタメなら特に。もうこれは特に声を大にして若者に言いたいですが、音楽の仕事は楽しいですから!某大物ミュージシャンのインタビューで「『若いうちに我慢すれば後から好きな事ができるから』って大人は言うけれど、そんなの絶対嘘だからね。最初から好きなことをやりなさい」っていうの、本当にそうだなと思います。

── ブルーノート東京で軌道に乗ってから仕事は楽しかったですか?

宮本:最高ですよ。「ここは世界一のクラブだ」「NYCより良いぞ!」と思ってやっていましたから。支配人以下、全員がすごく高い基準と志を持っていました。勿論ぶつかることもありましたけど、それは真剣だからです。たまに「ツラいな。辞めようかな…」という気持ちがよぎっても、「いや、世界のどこにもこんな場所はないじゃないか」って思いとどまりましたよね。

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第156回 晴れたら空に豆まいて プロデューサー 宮本端氏【後半】

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