第110回 鈴木 竜馬 氏 株式会社ワーナーミュージック・ジャパン 第1制作本部本部長 / unBORDE レーベルヘッド

インタビュー リレーインタビュー

鈴木 竜馬 氏
鈴木 竜馬 氏

株式会社ワーナーミュージック・ジャパン 第1制作本部本部長 / unBORDE レーベルヘッド

今回の「Musicman’s RELAY」は、ポニーキャニオン 後藤 篤さんからのご紹介で、株式会社ワーナーミュージック・ジャパン第1制作本部 本部長 / unBORDE レーベルヘッド 鈴木竜馬さんのご登場です。米軍基地のそばで育ち、アメリカ文化の影響をたっぷり受けた鈴木さん。海外への憧れとともに世界へ飛び出し、旅三昧の学生時代を送り、ふとしたきっかけでソニー・クリエイティブプロダクツへ入社。大活躍するも再び放浪の旅へ。約3年の旅から帰国後、ワーナーミュージック・ジャパンへ。そのバイタリティーと遊び心を駆使してRIP SLYMEのブレイクや、BONNIE PINKの躍進に力を発揮。現在は、androp、きゃりーぱみゅぱみゅ、神聖かまってちゃん、高橋優など、注目アーティストが所属するレーベル「unBORDE(アンボルデ)」のトップとして、業界内に常に話題を振りまいています。今回のインタビューではその波乱の「旅」人生から、「unBORDE」のアーティストについて、そして今後の戦略までたっぷりお話を伺いました。

[2012年11月28日 / 港区北青山 株式会社ワーナーミュージック・ジャパンにて]

プロフィール
鈴木 竜馬(すずき・りょうま)
株式会社ワーナーミュージック・ジャパン 第1制作本部本部長 / unBORDE レーベルヘッド


69.7 東京生まれ。東海大学文学部卒業。
’93.4 (株)SONY CREATIVE PRODUCTS(SME GROUP)に入社、キャラクター・マーチャンダイジングを中心に、ビジネスの根本的なスキームを学ぶ。
’97.3 SONY×SME×SPEの合弁会社、(株)SPE VISUAL WORKS(現(株)ANIPLEX)へ転籍 
同年6月SME GROUP退社。
’97.夏〜’99.春頃まで、東南アジア各国〜欧米諸国を旅する。東京と海外を行ったり来たりする、ノマドワーキングな生活を送る。
’99.3 (株)ワーナーミュージック・ジャパン入社。営業本部配属。「RIP SLYME」のデビューから、「山下達郎」、「竹内まりや」等の販売促進担当として様々なプロジェクトに携わる。
’04.より「RIP SLYME」のA&Rとして、数々のナショナル・クライアントとのタイアップを獲得、様々なクリエイターとのコラボレーションによる新たなアーティストのプロモーションスタイルを構築。’05年より並行して、「BONNIE PINK」のA&Rを担当。映画「嫌われ松子の一生」や「資生堂ANESSA」のタイアップなどを機軸に、”デビュー10周年プロジェクト”を成功に導く。
’09.2プロモーション本部に異動。プロモーション本部、部長としてプロモーションに従事。邦楽、洋楽の様々なアーティストのプロモーションやタイアップに携わる。
’10.12 WMJ社内に邦楽レーベル「unBORDE(アンボルデ)」発足。”きゃりーぱみゅぱみゅ”のプロデュースなど、レーベルの陣頭指揮を執りながら現在に至る。
※unBORDE所属ARTIST:RIP SLYME、androp、きゃりーぱみゅぱみゅ、神聖かまってちゃん、高橋優ほか http://unborde.com/
※趣味:バックカントリースノーボード
※ベースとなった音楽ジャンル:50s〜60sに象徴されるR&Rミュージックに始まり、現在のダンスミュージック全般。

 

  1. アメリカ文化の風に吹かれた少年時代
  2. 旅行&パーティー三昧の日々からソニークリエイティブプロダクツへ
  3. 「とっぽい奴を連れてこい!」世界放浪の日々からワーナー入社
  4. 盟友RIP SLYMEとの出会いと100万枚の成功体験
  5. 10万枚×10組の方程式〜新レーベル「unBORDE」発足
  6. 「エッジさと時代感」を体現する所属アーティストたち〜神聖かまってちゃん、きゃりーぱみゅぱみゅ
  7. カッティングエッジと王道の共存
  8. ワールドワイドに楽しみながら仕事をしていきたい

 

1. アメリカ文化の風に吹かれた少年時代

−−ポニーキャニオン 後藤篤さんとはいつ頃お知り合いになったんですか?

鈴木:初めて後藤君に会ったとき彼はビクターにいて、その頃は現場現場で会うくらいだったんですが、とっぽくていいなというか(笑)、体制に流されず自分の仕事をしっかりする男だなと思っていました。その後、彼がポニーキャニオンへ移ってからコミュニケーションが増えてきていまして、今では現場で色々と情報交換しています。

−−年齢的には鈴木さんの方が上ですか?

鈴木:そうですね。確か僕の方が一級上です。付き合いは長いですが、大学が一緒だということはつい最近知ったんですよ(笑)。

−−学生時代はお互い知らずに。

鈴木:全くですね。巡り巡って、同じ業界で一緒に切磋琢磨する仲間になってから知ったんです。とにかく後藤君は骨っぽくていい男だなと思っています。

−−ここからは鈴木さんご自身のお話を伺いたいのですが、ご出身はどちらですか?

鈴木:母の実家が新宿なので、新宿で生まれたんですが、物心ついた頃には立川、厳密に言うとその下の東大和という街で過ごしました。環境的にはすぐそばに横田ベースがあって、そのそばに米軍ハウスがあるアメリカンカルチャーが身近な環境でした。小さい頃は年に一度米軍基地でカーニバル(基地の開放日)があると両親に連れられて遊びに行って、わらじみたいなハンバーグやホットドックを食べさせてもらったり。カーニバルではブルーインパルスが航空ショーをやったり、吹奏楽隊がマーチを演奏し、体のでっかい黒人たちがバスケをやり・・・そういった光景を見ていたので、子供の頃はアメリカが大好きでしたね。

−−鈴木さんの音楽のルーツは何ですか?

鈴木:聴く側ですと小学校の頃の入り口は、シャネルズと横浜銀蠅で(笑)、彼らがロックンロールやR&Bを教えてくれた感じでした。横浜銀蠅でロックンロールを知ってからエルヴィスやリトル・リチャードを聴く、シャネルズでドゥーワップを知ってR&Bに入っていくみたいな感じでした(笑)。中学に入ったと同時に世の中空前の洋楽ブームになり、中学時代は御多分に漏れず80’sの洋楽にどっぷりでしたね。

−−どちらかというとヤンキー文化の香りがしますね(笑)。

鈴木:そうですね(笑)。もう、街全体がそんな感じです(笑)。東京の西多摩では顔下げて歩いているとやられちゃうので、基本的にみんな気勢を張って生きているというか(笑)。

−−(笑)。楽器は何かされていたんですか?

鈴木:子供のときはピアノをやっていて、中学の合唱コンクールではクラス代表でピアノを弾いたりもしていました。ツェルニーやブルグミュラーくらいまではやりましたね。でも、ピアノは中学で止めてしまって、サッカーへ行っちゃったんですよ。ただ、ピアノは止めたのですが、バンドがやりたくなって、中3か高1のときにエレキギターが欲しくなって、生まれて初めて真っ赤なストラトを買ったんです。ただ、見た目で選んじゃってハムバッカー+ハムバッカーみたいな、いきなりヘビメタ仕様のギターを買っちゃって(笑)、高校の頃はその歪みまくったギターで普通に邦楽のコピーとか、あとは、ピアノは多少弾けたのでビリー・ジョエルのコピーとか、自分で作った曲を演奏したりしていました。あと当時、邦楽シーンはソニーミュージックの黄金期で、エピックのアーティスト、特に佐野元春さんに一番傾倒していましたね。で、バンドをやり始めてすぐに「あ、これは才能無いな」と気づいて。

−−それは何で気づいたんですか?

鈴木:たまに才能のある奴と一緒にやると、自分で努力してやっとできたことをいとも簡単に弾いてしまうとか、そういう奴を見て「これは努力というよりは天性のものなんだろうな・・・」と思ったんですよ。音楽は好きだけど、これで大成することはないなと(笑)。

−−意外と冷静だったんですね。

鈴木:もともとプロになろうと思ってバンドを始めたわけではないですし、高校時代も文化祭で演奏するとモテるからとか、モテたくてやっていたという感じですよね(笑)。サッカーやってギター弾いて歌えたら、まあモテるんじゃないかと(笑)。大学生になる頃、世の中は空前の渋カジブーム到来で、それまでは立川や福生で遊んだり、米兵がしょっちゅう飲みに来るバーでバイトをしたりしていたんですけど、20才越えたくらいからは渋谷や六本木にもちょこちょこ行くようになり。僕はいわゆるチーマー世代なんですよ(笑)。

−−センター街にたむろしていた?

鈴木:はいたまに(笑)。世代的には東幹久君が同級生の世代で、実は今でも彼とは仲がいいんですけど、彼らはスノッブというか都会っ子だったりもしますが、僕は多摩出身ですからね(笑)。当時、ヴィンテージのジーンズとかライダースの革ジャンが流行っていて、古いジーンズが10万だ20万だというときに、地元で安く仕入れて渋谷の古着屋で売るとかやっていましたね(笑)。「埼玉の川越でデッドストックが出たぞ」と聞いたら、弟と二人トラックに乗って行って、渋谷では3万円くらいした70年代ベトナム戦争直後のリーバイスが500円で山積みになっていたりして。それをガバっと買って渋谷の古着屋に持っていったり(笑)。まあ、しょっちゅうやっていたわけじゃないですけど、その出来事はインパクトがありましたね。僕は物としてもデニムとか革ジャンは好きでしたし、ファッションとしても渋カジ自体大好きだったんですよ。

−−今までお話を伺ってきて・・・鈴木さんは不良なんですね(笑)。

鈴木:不良・・・ですね(笑)。好きなワード「不良」という(笑)。中学のときは僕なんかよりもっと暴れているヤンチャな連中なんて周りにたくさんいましたし、そういうみんなともすごく仲は良かったんですけど、その連中と渡り合ってやれるほど強い感じでもなかったんですが。ただ、頑張って虚勢を張って生きている感じみたいなものは未だにありますよね(笑)。

−−一応ファイティングポーズをとりながら(笑)。

鈴木:そうそう(笑)。20代の頃は酒を飲みながらしょっちゅうケンカばかりしていましたからね。エネルギーが有り余っていましたから、居酒屋で飲んでもケンカ、バーで飲んでもケンカ。勿論クラブでも。渋谷もそうですけど、立川や福生は乱闘が日常茶飯事みたいなところでしたから(笑)。

−−大学時代、音楽はされていなかったんですか?

鈴木:バンドはもうやってなかったですね。演る側よりは聴く側に回ったと言うか、立川で友だちとつるみながら、渋谷や六本木、芝浦など・・・いわゆるクラブ遊びを始めた頃でした。ただ、クラブはともかく今でも福生とか立川って街は大好きなんですよ。今は大分開発されちゃいましたけど、当時の米軍基地からの雰囲気が大好きでしたね。たまに飲みに帰るとやっぱりアガります(笑)。

 

2. 旅行&パーティー三昧の日々からソニークリエイティブプロダクツへ

−−大学時代は何に一番熱中されていたんですか?

鈴木:もう旅ばっかしていました。もともと、死んだ親父が旅好きで、小さいときは東北一周したり小笠原諸島へ行ったり、日本中あちこち連れて行ってもらって、高校卒業するくらいまでには一都一道二府四十四県は立ち寄ったレベルも入れるとほぼ全て行った感じでした。ただ、沖縄だけ行った事がなかったので、20歳になって最後のシメという事で友人とヒッチハイクで沖縄に行ったんですよ(笑)。ちなみに、50円で鹿児島まで行きました!!(笑)。

−−「50円で鹿児島」はすごいですね(笑)。私もヒッチハイクは経験あるんですが、日本だとなかなか難しいんですよね。

鈴木:20年前の話ですが、そのときすでに「今どきヒッチハイクなんて見ないよ!」って言われていましたからね。でも、九州だけが、ヒッチハイクがそんなに珍しくない土地柄みたいで。それで、皆すぐに車に乗せてくれるんですが、みんな慣れているので短い距離しか乗せてくれないこととか多くて。それはそれで苦労したのが印象に残っていますね(笑)。

−−スタートはどこからだったんですか?

鈴木:用賀からだったんですけど、名古屋方面ってボードに書いてあっても車が全然止まらなくて。で、「名古屋は遠いんじゃねぇの?」と。それで、静岡方面に変えたらすぐ止にまってくれて。「これは小刻み作戦だろ!」って(笑)。

−−なんだかゴルフみたいですね(笑)。

鈴木:本当にそうですよ。距離より方向(笑)。アイアン短く持たないとなって。それで20才までに日本を制覇し、その後はすぐに「アメリカへ行きたいな」と思っていたんですよね。それで同じ年の冬にアメリカへ行ったら見事にハマっちゃって・・・、今でもLAやNYには比較的よく行きますね。

−−そうなると大学時代の一番の想い出は海外になりますか?

鈴木:大学時代のメインは海外ですね。特にこの頃はアメリカ。バイトで金が貯まったらすぐに安いチケットを見つけて、すぐLAに行って、サンフランシスコだラスベガスだNYだって。

あとは、学生時代も卒業してからも、90年代は国内外のトランスパーティー三昧。勿論フジロックなどのロックのフェスにも行きましたが、時間があれば海外のパーティーまで出かけて行って。タイにもよく行きました。その頃はいわゆるレイヴカルチャーの時代で、アジアの各地で踊り狂って、とにかく楽しかったですね(笑)。中でもコパンガンのフルムーンパーティーは大好きでした。かといってベルリンの「ラヴパレード」までは行きたくても行けなかったんですけど。

−−大学卒業後は一応就職なさったんですよね?(笑)

鈴木:一応しましたね(笑)。そもそも就職するつもりもなかったんですよ。それこそ「アメリカに行っちゃおう」と思っていたんですが、1冊しか見なかった就職雑誌の一番最初にソニークリエイティブプロダクツの「面白い奴募集」みたいなページがあって。周りのみんなは就職活動が終わった頃だったんですが、「すごく面白そうだな」と思って連絡をしたら「とりあえず、来い」と。

採用試験も変わっていて、「今から30分でこういうプレゼンをしてくれ」とか、「特技は何だ?」「一輪車に乗れます!」みたいな感じで(笑)。キャラクターのマーチャンダイジングの会社なので、「一輪車に乗れたら、セサミストリートの着ぐるみを着て、子供たちを楽しませることができるかもしれないです!」みたいなくだらないプレゼンしかできないレベルだったんですが(笑)、なぜか受かって、ソニークリエイティブプロダクツに入社しました。

−−そもそもマーチャンダイジングとかキャラクターグッズに興味があったんですか?

鈴木:もともと、アメリカのオモチャは大好きだったんですよ。因みに今でもアメリカン・トイはすごく好きで、家もオモチャだらけです。四十過ぎてそれもどうかと思うんですが(笑)、会社のデスクもまるで子供の机みたいで・・・、「いつ卒業するんだろう?」と思いながら、未だに止められないくらい大好きですね(笑)。

−−入社後、どのような仕事をされたんですか?

鈴木:入社した年にちょうどJリーグが始まって、世の中空前のサッカーブームが巻き起こりまして。そんな中、Jリーグのマーチャンダイジングの権利を全部ソニー・クリエイティブが持っていたこともあり、会社がいきなり過去最高収益をあげて。新入社員からすごく恵まれた状況でしたね。会社として跳ねているタイミングで入れてもらえたので、結構好き勝手にやらせてもらいました。

入社2年目だったと思うんですが、世の中ではキャラクターTシャツがすごく流行っていて、ご多分に漏れず「セサミ・ストリートのTシャツを売った方がいいだろう」と企画書を出したら、社内で通ったんですよ。その企画はTシャツをいわゆるソニーのレコード流通とか雑貨屋さんとかではなくて、服飾の流通でしっかり売ろうというプロジェクトで、これが大当たりしました。

当時、ソニーミュージックにはオフィス制というのがあって、それこそ歴々の方、古くは「酒井オフィス」とか、すごいオフィスが沢山あったのですが、プロダクツでも真似をして、今アニプレックスの代表をやられている夏目さんの「夏目オフィス」や同じくアニプレックスの越智さんの「越智オフィス」とかもそこにあって。その中のひとつに「鈴木オフィス」を作ってもらったんですよね。

−−入社二年目で自分の名前のオフィスを作ってもらったんですか!?

鈴木:そうですね。オフィスを作ってもらったのは三年目の年だったかと思います。まあ、オフィスと言っても一人なんですけど(笑)。それを1年くらいやらせてもらったんですが、「鈴木オフィスで自由に使っていいぞ」と25才で1億円くらい予算を渡されて。今だったらちゃんとビジネスライクに1億円を有効活用できたと思うんですが、25才の若造にとって1億円は本当に使いようがないから、とりあえず毎日飲みに行って、ガキながらに背伸びして派手なところへ行ったりもしました(笑)。それでも2〜3千万くらいしか使えなかったんじゃないですかね。肝っ玉が小さかったのかもしれませんね・・・残念ながら(笑)。

−−いや、25才でその額はどう使ったらいいかわからないと思いますよ。

鈴木:「鈴木オフィス」とか格好つけたことをやらせてもらいながらも、1億円与えられても何もできないということが分かった頃に、今でこそ日本のアニメーションが世界的に認められていますが、当時は大友さんの「AKIRA」が海外でも認められて、「ジャパニメーション」みたいな言葉がちらほら出て来た頃で、「そういったかっこいい日本のアニメーションを海外に出して行く仕事に携われたらな」と思い始めて。

ちょうどその頃にアニプレックスの前身であるヴィジュアルワークスという会社をソニー・ピクチャーズとソニー・ミュージックが立ち上げたんですね。僕は『花男』や、『鉄コン筋クリート』の松本大洋さんの作品をアニメーションにして、海外に持っていきたいなという思いだけで、もの凄い倍率だった社内の面接試験をクリアして、ヴィジュアル・ワークスに転籍したんですけど、結果的には、当時のボスと折り合いが悪くて、’97年にソニー・ミュージックグループを出ることになりました。

松本大洋さんの作品は、後々、アニプレックスで映像化されましたが、大洋さん御本人とも話して作った企画書は僕のものが一番最初だったと思います。

 

3. 「とっぽい奴を連れてこい!」世界放浪の日々からワーナー入社

株式会社ワーナー・ミュージックジャパン unBORDE レーベルヘッド 鈴木竜馬 氏

−−そこから放浪の旅に出てしまうわけですね(笑)。

鈴木:はい(笑)。ソニークリエイティブの「オフィス」時代に海外に権利を獲りにいく仕事も少し任せていただいていたので、例えば、ボローニャで絵本展があれば「もしかしたら日本でマーチャンダイズできるものがあるかも」と出かけて行ったり、カンヌで映像のコンベンションがあれば行かせてもらい、ロンドンに行ったり、ニューヨークに行ったりと海外に行くことが多くて。気づいたらマイルが相当貯まっていたんですよ(笑)。会社のお金で行かせてもらった出張で(笑)。

−−マイルを没収されなかったんですか? そういう会社もあるようですが。

鈴木:当時はされなかったですね。その貯まったマイルで退職後すぐに妹の住んでいるニューヨークへ遊びに行って、そこからLAへ行ってブラブラ遊んで、’98年はフランスワールドカップだったので、ヨーロッパにも行きました。それでもマイルが残っていたので相当貯まっていたんでしょうね。

−−地球二周分くらいあったんじゃないですか?

鈴木:そうですよね。基本的には一人旅だったのですが、’98年のワールドカップはソニーのときの縁もあって観戦チケットもどうにかなりそうだったので、まずドイツのフランクフルトから入って、ドイツ人とドイツ戦を観て、オランダでオランダ人とオランダ戦、ベルギーでベルギー戦、開催地のフランスで仲間たちと合流して日本戦も含めて何試合か観て、イギリスへ行って・・・とご当地の試合をその土地の奴らと観るという緩いテーマがありました(笑)。あとは何も決めてなかったんですけどね。

−−楽しそうですね〜(笑)。

鈴木:最高でしたね(笑)。その後でイタリアのミラノにも行って、現地の友人とワインを飲み倒して、最後にまたドイツのベルリンに戻って、みたいな感じでした。20代後半、同期の仲間は死ぬほど働いていたかもしれませんが、僕は滅茶苦茶ノマドで(笑)。実は、そのヨーロッパを訪れている中で、「なんで俺はこれまでアメリカばかり行っていたんだろう?」などと思い始めたりして。「こんなに深い歴史があって、街並も素敵で、食い物も美味くて」と。音楽ももっと早くから、貪欲にヨーロッパの音楽を聴いておけばよかったなとも思いましたね。勿論イギリスのパンクやロックなど基本的なものは聴いていないこともなかったですけど、もっと入り込んでいたら音楽偏差値はまた違っただろうなと思いますね(笑)。

−−でも、アメリカもヨーロッパもアジアもバランス良く旅されているじゃないですか。

鈴木:貯まっていたマイルのおかげですよね(笑)。「わかったよ、辞めてやるよ!」と啖呵を切って会社を辞めましたが、ソニー・ミュージックには足は向けられないですよね(笑)。

−−そんなに旅行されていて、ふと「この先の食い扶持はどうしよう?」とかそういうことは考えなかったんですか?

鈴木:全く考えなかったですね。今もあまり考えてないですけど(笑)。僕は良くも悪くもその日暮らしの刹那主義なところがあって。そもそも人生設計がないんです(笑)。今、音楽業界で働いていて「レーベル」運営をやらせてもらえるなんて最高に有り難いことですけど、今までかなりその場しのぎで生きてきました(笑)。

−−とはいえ、帰国してすんなりワーナーに就職されていますよね。

鈴木:旅はしていたんですけど、お金はなかったので、帰国するとソニーの同期も含めて、100人くらいの友達に「今回の旅行も超面白かったよ!!」と一斉にメールするんですよ(笑)。それで「話聞かせてよ」と返信があった奴に日替わりで旅の話をして、代わりに飯をおごってもらうと。だから毎日毎日同じ話をするんですけどね(笑)。でも、その頃の友人たちの恩は一生忘れません。

そんなことをやっているときに、ソニーからワーナーに電撃移籍された田邊さん(元 エピック ソニー・クリエイティブ)から「(当時、ワーナーの社長だった)稲垣さんから、とっぽい奴を連れてこいと言われているんだけど、お前どうだ? もうすぐ30になるのにその長髪は何だ。いい加減その日暮らしは止めて、ちゃんと働け!!」みたいなことを言われて(笑)。田邊さんはソニー時代の恩師の一人で、僕は、ソニー・ミュージックのグループを辞めるときは、ほぼ会社とは物別れに近い感じだったんですが、田邊さんだけは僕を守ってくれた人で。「絶対に竜馬みたいな奴はソニー・グループに置いておいた方がいい」と。田邊さんは普通に真面目な人なんですけど、不良だけど、仕事をする・・・みたいなタイプの輩を見極めるのが上手い人で(笑)。

−−(笑)。

鈴木:それで「とりあえず髪を切って、ウチに来い」と。僕は一瞬躊躇したんですが、「ワーナーに来たら、お前の好きなワーナーブラザーズに転籍して、カリフォルニアで映画を作れるかもしれないぞ!!」と、絶対にないような言葉に踊らされて(笑)、「マジっすか? カリフォルニア勤務は最高だなぁ」などと思って、「行きます!」と(笑)。それで当時社長だった稲垣さんとお会いする機会をいただき、ワーナーミュージックに入社することになりました。

−−ワーナーでは最初何をされたんですか?

鈴木:レコード会社の仕事を一からやった方がいいということで、改めてスーツを着て営業からやりましたね。セールス時代は、秋葉原地区を担当していたんですよ。秋葉原は当時、石丸電気さん、ヤマギワさん含め、「秋葉原に行けばCDのカタログが全部ある」と言われていたくらいなので、その営業をやるということはJ-POPだけじゃなくて洋楽もクラシックもジャズも担当するわけです。ですからクラシックのレーベル名や、洋楽もワーナーブラザーズやアトランティックがあるのは分かっているけど、エレクトラがあってイーストウェストがあってみたいなこととか、30才にして世界の音楽産業の成り立ちだとか、各国のレーベルカラーなどを改めて勉強させてもらったんですよね。バイヤーさんたちは本当にプロフェッショナルですから、そういった人たちと太刀打ちするには勉強するしかありませんでした。

−−営業の仕事自体は嫌いではなかった?

鈴木:はい。ディーラーのみなさんにもすごく可愛がってもらっていたので。当時の面白いエピソードがあるのですが、秋葉原ってベテランの営業の方が多かったので、僕みたいにこんなとっぽい?!のがいなかったので珍しがられてはいて。でも、どうにも毎日のスーツだけは嫌で嫌で。他の地区の営業というのは割と格好はラフだったんですが、秋葉原の営業はスーツが鉄則で、「どうにかしてそれを崩したいな」と思っていて・・・。とあるゴールデンウィークの休みの日に「休みだけどちょっと覗きに来ました」とアロハでお店に行ってみたんですよ(笑)。そうしたら「ずいぶんラフだね!」と言われつつも「今日はちょっとオフなので」というところから3日くらい続けてアロハで行って。で、「ウィークデーもそのままアロハで行ってみよう」と試してみたら、これが見事に成功して!!以後アロハで大丈夫になったんですよね(笑)。

−−秋葉原営業の慣習を変えちゃったんですね(笑)。

鈴木:はい。当時、レコード会社の秋葉原担当営業がカジュアルOKのきっかけを作ったのは僕だと思うんですよね。それまではみんなスーツだったのが、そこからだいぶカジュアルになりましたからね。「ワーナーの竜馬があれでいいんだったら」とネクタイを外し始め、ジャケットは羽織るけれどポロシャツみたいな(笑)。

−−私もレコード会社の営業経験がありますが、確かにスーツでしたね。足元はスニーカーでしたが・・・(笑)。

鈴木:この業界ってそういうところからアイデンティティを少しずつ出していくわけじゃないですか?(笑) 僕はアロハが大好きだったので。でも今考えてもあれはいいアイディアでしたね。休みの日にアロハで行って、景色を変えてそのままウィークデーに持ち込むと(笑)。

 

4. 盟友RIP SLYMEとの出会いと100万枚の成功体験

−−営業はどのくらいやられたんですか?

鈴木:セールスは1年くらいですかね。そこから販促、マーケティングの仕事に入ったんですけど、当時ジャパニーズR&Bやヒップホップがもてはやされていて、ワーナーでは、sugar soulやDJ HASEBEがシーンを切り拓き、レゲエアーティストのRYO the SKYWALKERも仲間入りし、その中でRIP SLYMEやKICK THE CAN CREWがデビューするという時期でした。

僕は基本的にロックが好きだったので、最初「日本のヒップホップかぁ・・・」などと思ったりもしたんですが、RIP SLYMEを初めて観た瞬間に「こいつらは面白い!」と思って。しかもマネージメントが田辺エージェンシーさんということで。当時の印象ですけど、「田辺エージェンシーがリップをやるということが、最高に面白いな」と思ったのを覚えています。ZOOを仕掛けた松尾さんが、またヒップホップのグループを手掛けると。そして、TOWA TEIさんなどの制作をやっていたプロデューサーの安藤さんから声を掛けてもらい、そのプロジェクトに入れてくれるというので喜んで販促として加わらせてもらいました。

RIP SLYME
▲RIP SLYME

−−ちなみに販促とはどういう役割なんでしょうか?

鈴木:宣伝と営業をつなぐような仕事ですね。ワーナーではもうちょっと宣伝的なことも一緒に考えたりします。イニシャルを何枚にするとか数字的なことも勿論やりますが、当時宣伝のアーティスト担当だった団野さんと僕とでスペースシャワーTVで番組を作ったり。特に、僕はちょっと特異と言いますか、結構出しゃばってアーティストともコミュニケーションを取る方でしたし、ライブや地方のツアーにもなるべく出かけるようにしていましたし、とにかく色々なことを勉強させてもらうために、マネージメントさんにもしょっちゅう出入りしていました。

RIP SLYMEのデビューは、コブクロと同じ2001年なんですが、コブクロはデビューからいきなりイニシャルが10万枚ついて社内でも大注目されていたんですよ。対してRIP SLYMEはカウンター的存在でしたから、イニシャルは1.8万枚。最初は社内でも振り向かない人が殆どだったんですが、徐々に巻き込まれてくるスタッフも増えていって・・・、「俺らは俺らでこっち側で頑張ろう」と言い合ったりして。プロジェクト自体は2000年から始まって、2001年3月にメジャーデビュー、その年にファーストアルバム『FIVE』をリリースして、翌年にリリースしたセカンドアルバム『TOKYO CLASSIC』が、日本のヒップホップとしては史上初の100万枚を記録しました。

−−ヒップホップで100万枚は凄いですよね。鈴木さんの企画でその100万枚を後押ししたものはありますか?

鈴木:マネージメントさんが、2日間押さえていた武道館の1日を販促に使わせていただくことにして、CD購入者先着1万人招待の「無料(タダ)武道館ライブ」というのをチームで企画したんですよ。それは、発売日当日に『TOKYO CLASSIC』を買ったら、携帯で即応募してもらって、先着1万人に入場認証のための「QRコード」が送られてくるという仕組みで。

「QRコード」は今でこそ生活に根付いていますが、当時は三菱商事さんがまだ開発したばかりで。二次元バーコードなんて呼ばれていました。その二次元バーコードが武道館の施策で初めて大々的な規模での施策として実験的に使われて、それがまた大成功に終わったということで、いわゆる五大紙の新聞各紙や経済雑誌に記事が出たり、翌日のTVの報道番組等でも取り上げてもらったり、かなり注目を集めました。勿論その企画は三菱商事さんやスタッフみんなでやったことだったんですが、CDを購入してから武道館に入場してもらうまでの導線は販促の仕事だったんですよ。ですから、滅茶苦茶大変だったんですが、同時に充実感もものすごくありましたね。

−−初の試みが成功したんですね。

鈴木:そうですね。でも、今考えるとすごくリスキーな企画でしたね(笑)。

−−「QRコード」の使い方をまだみんな分からないときに大規模に使っちゃったわけですよね。

鈴木:試験的にパルコ劇場で100人とかでのテストは何回かやったらしいんですが、僕らはいきなり1万人に踏み切りましたからね。今思うと、三菱商事の人もすごいベットだったと思います。

−−そのヤンチャさが当たりましたね(笑)。

鈴木:そうですね。博打ですよね(笑)。その企画は100万枚のうちの初動に多少は貢献できたと思います。ちなみに『TOKYO CLASSIC』はSMAPさんのアルバムと発売日が一緒だったんですよ。SMAPさんは国民認知度が96%とかで、RIP SLYMEは30%もないくらい、しかも当時RIP SLYMEはオリコンの期待度ランキングにも入らないくらいだったんですが、結局初週で40何万ポイントを取って、発売日の翌日には確か、6桁のバックオーダーがかかって・・・結果的に、その週はSMAPさんに勝ったんですね。勿論、僕はその一助でしかなかったですが、成功体験として100万枚を経験できたのは大きかったですね。

やっぱりヒットを体感できているか否かは経験値としてどうしても違いますよね。
僕の知る限りその最たる人は(亡くなられた)吉田敬さんだと思います。吉田さんは本当に何度も100万枚のヒットを作っているから、100万枚がアベレージになっているような人で、今でも本当にすごいなと思います。だからこそコブクロの350万枚オーバーみたいなことが起こるんですよね。

−−その頃からBONNIE PINKも担当されていますよね。

鈴木:そうですね。ちょうどBONNIE PINKが10周年を迎えるということでプロジェクトに加わりました。言い方は難しいですけど、数字的には一旦落ち着いてしまっている状況ではあったので。ただ、販促のときから彼女のチームは良く知っていたので、彼女を復活させたい!!と思いまして。A&RとしてBONNIE PINKをやることになってから、まずは10周年記念のベストを作ってメガヒットさせようと、1年くらい時間をかけて結構長い仕込みをしていたときに、映画『嫌われ松子の一生』の主題歌が決まったんです。そこにエビちゃんキャスティングの資生堂「アネッサ」のCM曲が決まったりと、どんどんいい風が吹いてきて。

「アネッサ」は夏のCMだったのですが、曲作りをしていた頃は真冬だったので、彼女は部屋の中で暖房を焚きまくって夏をイメージして(笑)、制作担当の高倉さんにダメ出しを喰らいながらようやく『A Perfect Sky』ができてきて。ただ、それを聴かせてもらったときに「これはもう間違いなく売れるな!」と確信しました。なので、もう絶対に売れるという前提でプロモーションの時系列を組んでいったのですが、その流れで、当時アルバムが2万枚くらいのセールスだった彼女のベストが50万枚の大ヒットにつながって。BONNIE PINKのステータスもより上がって、オリジナルアルバムも10万枚売れるまでに持ち直したので、すごく嬉しかったですね。

 

5. 10万枚×10組の方程式〜新レーベル「unBORDE」発足

株式会社ワーナー・ミュージックジャパン unBORDE レーベルヘッド 鈴木竜馬 氏

−−ちなみにワーナーはメガヒットを出すとご褒美とか出るんですか?

鈴木:出ます。吉田(敬)さんが、代表をやられていたときもそうでしたが、石坂(敬一)さんが会長兼CEOになられてからはより成果主義になっています。勿論、会社としてのアベレージが上がることが大前提ですが、ちゃんと結果を出した人は評価されます。ウチは外資なのでドメスティックな会社とはその辺りに関しては、若干違うかもしれませんね。

−−吉田さんはワーナーに来てからも次々ヒットを出していましたよね。

鈴木:印象的だったのは、コブクロを改めて大ブレイクに導いたり、絢香やSuperflyなど新人をブレイクさせるなど、大きな流れの作り方は横で見ていてとても勉強になりました。吉田さんのヒットに対するどん欲さはすごかったですから。とはいえ、個人的には当時は吉田さんと全て上手くいっていたかと言うとそうでもないんですけどね・・・(笑)。

−−そうだったんですか?(笑)

鈴木:勿論、僕のレーベルを作ってくれたのは吉田さんですし、仲が悪いとかそういうことではないんですけど(笑)。飲みにもよく連れて行ってもらいましたし、ゴルフもよく一緒に行きました。ただ、僕がRIP SLYMEだ、BONNIE PINKだ、やれカッティングエッジだ、なんて言って、自分が好きなことばかりやっていた頃から、吉田さんには「もっと視野を広げてマスに向いた仕事もしろ」と言われていました。それでも僕は「いや、マスに向けた仕事だけが音楽ビジネスではないよな」という思いもあったので、そういった部分でよくぶつかったりしましたね(笑)。勿論、RIP SLYMEやBONNIE PINKがマスでないと言う事でも無いんですけど。

実はレーベルを始める前に吉田さんから、1回宣伝部長を任されるんですよ。A&RにはA&Rなりの産みの苦しみや、アーティストと対峙するという大きな責任があるのですが、プロモーターにおいての責任や辛さも肌で感じてみろと。僕は当時もプロモーターの痛みとか、現場の人間はどう頑張っているかとか、それぞれの立場での責任を理解することはすごく大事だと思っていたのですが、それでも、それをもっと身体で分かれと。

−−身をもって体験してみろと。

鈴木:そうです。宣伝部のみんながどういうふうに頑張っているか、A&Rを一旦離れて宣伝部長をやってみろと。札幌から福岡のプロモーターまで部下は30〜40人と増え、しかもワーナーは一つの宣伝部で邦楽と洋楽を一緒にプロモーションするので、こっちでマドンナやレッチリの話をしながら、あっちではSuperflyの話もしている。その中で、宣伝部長の仕事としては、まぁ、ほとんどがアーティストサイドとメディア側との調整役なんですよね(笑)。勿論、基本的にプロモーションとしてお願いに行くことも多いですが、何か問題が起これば、状況説明や時としてはお詫びにも行く。宣伝は華やかなイメージがあるけれど、これは大変な仕事だなと改めて思い知らされましたね。

−−吉田さんはそれを鈴木さんにやらせたかったんですね。

鈴木:ええ。僕はRIP SLYMEを担当させてもらっていたこともあり、A&Rにしては媒体に対する人脈がかなりある方だと思っていたんです。でも宣伝ってそんなもんじゃないじゃないですか? 宣伝部長をやらせてもらったことにより、今まで付き合いのなかったより多くのメディアの人たちとも仕事を通じて出会うこともできましたし、本当に勉強になりました。それは勿論今も本当に役立っています。

その後、再度A&Rに戻るんですが、そのときに吉田さんから「お前はお前の方程式で100を作ってみろ。20×5でもいいし、10×10でもいい。違う方程式は俺がやるから」と言われたんですよ。それは勿論、海外からのミッションでもあったんですが、もう少しアーティストのロースターを増やして積み重ね方式のレーベルをやってみたら? ということだったんです。そのかわり10戦10勝しなきゃいけないから大変ですし、プレッシャーは大きいんですけどね。

−−時代の流れが変わってきたんですね。

鈴木:そうですね。制作に戻ってレーベルをやれ、しかも自分の方程式でいいと言うんですから、プレッシャーはありながらも、大変に有り難いし、やりがいのある話しだなと思いました。それで、実際に「人集めからやれ」と言われたときに「どうしようかな」と考えまして。とりあえず、はみ出したような奴と言うか、変わり種ばかり揃えてやってみたら面白いかなと、社内の突飛な奴ばかりをスタッフに集めました(笑)。『がんばれ!ベアーズ』じゃないですけど、通常のゲームは全然できないんだけど、新人見つけるのだけはうまい奴とか、商魂のある奴とか、気付けば「unBORDE」はそんな変わり種の多いチームになりました。会社人で中々出会えることのない降格人事になった輩が二人もいますからね(笑)。

あとは、うちのレーベルの特徴としては、通常、レーベルと言うのはジャンルで括られていることが多いかと思いますが、どちらかと言うとテーマで括ってることからジャンルは結構バラバラな感じになっているのも面白いところかなと。

−−「unBORDE」のスタッフは、やはり傍目にみて異様な雰囲気というか、他のチームとは違う印象なんでしょうか?

鈴木:いや、別に全員がパッと見がハジけてるとかいう感じではないですけどね。でも様子のおかしいのもいますね。街で職質受けるんじゃないか? っていう(笑)。皆、個性的ではあると思います。

−− (笑)。みなさんお若いんですか?

鈴木:下は30歳ぐらい、上が僕と同い年で43歳ですね。今はデスクを入れても8人の小さな所帯で、男だらけのレーベルなんですけど、A&Rとしてはきゃりーの担当の伊藤だけが、紅一点、女性なんです。彼女は吉田さんの秘蔵っ子の一人というか、福岡でずっと宣伝をやっていたんですけど、吉田さんが「あの子は面白いから東京に呼ぼう」ということで、東京に呼んだのですが、東京に来たばかりの頃は、別のセクションでA&Rをやっていたんです。

それで、僕がきゃりーを手掛けたいなと思ったときに、こんなモンスターみたいなアーティストを扱うなら、相応な子が担当した方がいいだろうということで、伊藤を呼んだんですよ。普通じゃない者同士をくっつけたらどうなるだろうということで(笑)。彼女はすごくヒットに貪欲で優秀なA&Rなんですが、一方ですごく変わっていて、きゃりーと一回り以上も年齢が違うはずなのに、同じ言語で会話できるんですよ。僕はきゃりーについては、全体的なことはやりますけど、細かいところは伊藤がやっています。勿論、それぞれどのアーティストにも個別のA&Rがいて、日々、切磋琢磨しています。

−−レーベル名の「unBORDE」とはどういう意味なんですか?

鈴木:スペイン語で「境界線」や「エッジ」という意味ですね。英語で言うところの「BORDER(ボーダー)」のラテン語です。レーベルをやれると聞いた時から“エッジ”という言葉をずっと使いたくて。で、2010年のワールドカップもスペインが優勝したのでスペイン語でと(笑)、響きもかっこいいですしね。あと僕はスペインが大好きなのですが、まさかの未だに行ったことがないので、強いあこがれも込めてあります(笑)。

 

6. 「エッジさと時代感」を体現する所属アーティストたち〜神聖かまってちゃん、きゃりーぱみゅぱみゅ

−−「unBORDE」の第一弾アーティストは誰だったんですか?

鈴木:神聖かまってちゃんです。彼らはすごい争奪戦でしたね。ほかにも「unBORDE」の所属アーティストは争奪戦だったアーティストばかりなんですけど。

神聖かまってちゃん
▲神聖かまってちゃん

−−勝因は何だったんですか?

鈴木:他のメジャーメーカーも手を挙げていましたが、最終的にサインするだけの度量というか、そこまでの心構えを他が持っていたかというと正直少し疑問ですし、その覚悟をウチの吉田(敬)さんは持っていたということだと思います。僕と現在A&Rを担当している野村とでかまってちゃんのプレゼンをしたときに、吉田さんが「本当にメジャーで勝負できるのか?」と訊くので、僕は「今時あんなに魅力的なパンクはいない」と。それこそ本当に、何度も何度も猛プッシュしました。吉田さんもボタンを押すかどうか相当悩んでいたと思うんですが、後日、突然電話がかかってきて「獲りに行け!」と決断してくれました。

確かにかまってちゃんはアーティスティックでデリケートですし、自らネットメディアを駆使して、ときには暴言を吐いたり、歌詞に入ってくる言葉も危険性のあるものが多く、リスキーなところがあるんですよ。でも、彼らと一緒にやれていることで多くの人たちを救えているという自負もあるし、「かまってちゃんをやっているレーベルだから」と言って、門戸を叩いてくれる新しいバンドの子たちもいますし、かまってちゃんでレーベルをスタートできたのは、とても良かったなと思います。

−−確かに神聖かまってちゃんはきわどい歌詞を書きますよね。

鈴木:でも、僕らは全く危険だと思っていなくて。担当の野村とよく話すんですが、映画も本も、みんなこれだけ冒険できているのに、メジャーの音楽産業だけがやたら日和見で、この言葉はどうだのこうだの言うじゃないですか? しかも洋楽は危ない言葉が入っていても全然OKなのに、なんで邦楽はダメなのか。確かに誹謗中傷などは良くない時もありますが、それ以上に神経質になっている感が否めないですよね。

−−しかも、他人から言われてではなく、自主規制していますよね。

鈴木:そうですよね。ロックとか言っている連中が全然ロックじゃねえみたいな。だから、かまってちゃんには基本的にはリミッターをかけていません。彼らの歌にはsuicide的なワードも多いんですが、それって結局、内面をさらけ出しているわけで、精神的に病んでいるときにリストカットするときもあるし、どうしても精神安定剤に頼ることもあるんだということを、詞というものを使って表現しているんですね。加えて、「の子」はもの凄く天才的なメロディメーカーなんですが、でもそこに乗るリリックはめちゃめちゃ生々しくてパンクなんですよ。かまってちゃんは今もパンクで、彼らがいてくれることはレーベルのアイデンティティとしては本当に最高だと思っています。

−−そして、きゃりーぱみゅぱみゅも加わりますね。

鈴木:そうですね。レーベルのテーマとして「エッジと時代感」というのが僕の中にありまして、ぱっと見バラバラに見えるんですが、端っこにかまってちゃん、反対側にいるのがandropや高橋優と、僕の中では一気通貫できていて。共通するのは全部時代感のあるアーティストなんですよ。ただ、新人ばかりで立ち上がるのは少しだけ不安だったので、RIP SLYMEのメンバーやマネージャーさんにも、「新しいレーベルを作る。新人ばかりのレーベルだけど、その背骨として、兄貴分としてRIP SLYMEにいてほしい」と言うような話しをし、そして、彼らもそれを快諾してくれました。

RIPが背骨としていてくれて、振れ幅的にかまってちゃんと高橋優やandropがいるという状況は、「もう一癖も二癖もあって最高だな!!」と思っていたときに、ブログが人気のスーパー女子高生がいて、この子が最高に面白いという話を聞いて。そこで実際に彼女のブログを読んでみたら確かに本当に面白かったんですよ。コメントだけでなくて、撮る写真のセンスなんかもズバ抜けていて。そのときすでに各メーカーの新人発掘がきゃりーをマークしてるような状況ではあったんですが、そもそも彼女の所属しているアソビシステムがやっているイベントにRIP SLYMEがDJをやりに行ったりしていたこともあって、社長である中川君とは以前からコミュニケーションがあったんですね。その中川君が「きゃりーを中田ヤスタカのプロデュースでやろうと思っている」と言うので、「もうデモなんかいらないから、絶対にunBORDEでやろう!」と持ちかけました。社名に「アソビ」という名前を使っているんだったら、レコード会社で一番遊び人の俺とやったほうがいい、みたいな(笑)。

−−すごい口説き文句ですね(笑)。

鈴木:遊びのスタイルは色々ありますし、別に合コンをやりまくっているとかそういうことではないんですが(笑)、「間違いなく俺と組んだ方がいい」と説得しました。僕は中田君ときゃりーだったら何の迷いもないからと。王道的なことで言えば1年後には紅白を狙う、エッジな面では海外、世界に行こうぜと二人で夜中まで話しました。

−−目標は達成したじゃないですか。

鈴木:いやいや。ただ、海外はまだまだこれからの部分も多いですけど、紅白に関してはお陰様で出場させてもらうことになりました。それはもうここまでくると自分たちだけの力じゃない、石坂さん以下、ワーナーミュージック全社、もっと言ったら関係各位全方位の皆さんのお力添えあってですよね。ただ、まあ、まだまだファーストステップですけど。

−−鈴木さんは「きゃりーぱみゅぱみゅ」をどのようなアーティストだと思われていますか?

鈴木:まずは、そもそも本人のポテンシャルが滅茶苦茶高いです。本当にクレバーで仕事にも一生懸命ですし、志や目線が高いです。あと嘘をつかない。すごくピュアで真っ直ぐな子なんですね。初めて出会った頃はまだ、17歳だったんですが、本当に正直な子なので、当初はテレビの生放送なんかでも結構ギリギリなことも言ったり、そういうところは少し怖かったんですけど(笑)ノンフィルターでいくと言うことを、リスクというよりはそのヒリヒリした感じを僕らスタッフも楽しんでいたのかもしれないです(笑)。

−−(笑)。

鈴木:そうは言っても、彼女はすごくクレバーなので、本当に伝えなければならないことをキチンと系統立てて話せますし、囲みの取材などでも本人の言葉で、本人の意志で判断して話せます。また、そのポテンシャルの高さですごいなと思わされたのは、先日の武道館公演ですね。現在、来年の2〜3月くらいまで、30分の予定をとるのも難しいぐらいにスケジュールが詰まっている様な状況だったりするのですが、そんな過密スケジュールの合間を縫って、武道館公演での全十数曲の振り付けを、自分で姿見を見つつ覚えてしまうんですね。使い古された言葉かもしれませんが、彼女は人に認められるだけの、才能と努力を持ち合わせているんです。

武道館に関して言えば、「チケットが売り切れた」と聞いた時点で、僕らレコード会社のスタッフは「よっしゃ!」とそこで安心してしまっていたんですが、ライブが終わった後によくよく考えたら、ものすごいプレッシャーを彼女に背負わせていたんだなあと反省しました。フライングのシーンなどの演出はシルクドソレイユの方などにも入ってもらったりしたのですが、それとは別に、例えば、当日はSMAPの稲垣吾郎さんがきゃりーの仮装をして出演してくださったり、そういうパフォーマンス以外の段取りなども含めて、全ての演出をあの超多忙スケジュールの中にあって、見事にこなしきってしまった彼女は本当にすごいなと、改めてそのポテンシャルの高さを見せつけられました。

 

7. カッティングエッジと王道の共存

きゃりーぱみゅぱみゅ
▲きゃりーぱみゅぱみゅ

−−きゃりーぱみゅぱみゅは、海外戦略も始まっています。

鈴木:iTunesで70数ヶ国に配信していますし、各国でチャートインするまでになったので、次はライブをもっとやっていこうと先日10ヶ国、20公演の海外ツアーを発表しました。通常ですと興行は事務所主導というケースがほとんどだと思うんですが、きゃりーに関しては最初から「世界に向けたアーティストをつくろう」という志のもとにマネージメントと二人三脚でやってきたので、ツアーに関しても様々な部分で共にやっていきます。

−−海外でのチャートアクションも好調ですよね。

鈴木:フランスのiTunesエレクトロチャートではアルバムが1位になっています。そのときのチャートを見るとすごいんですよ。ダフトパンクやアンダーワールドとか、そういう歴々が並ぶ中で1位ですから、なんかすごいことになっているなと(笑)。記念にスクリーンショットを撮りましたものね(笑)。フィンランドや北米でも1位になりましたしね。

−−きゃりーぱみゅぱみゅのMVはすごくクオリティーが高いですよね。

鈴木:はい。ありがとうございます。きゃりーのプロジェクトのスタート時は、言ってもまだまだロー・バジェットのプロジェクトだったんですね。まわりからは「すごく宣伝費かけているね」などと言われることが多かったんですが、いばれる話でもないですが、言うほど宣伝費はかけられていないんですよ。基本的にはマネジメントとの二人三脚の人海戦術です。今だから言えますけど、会社の中でも当時きゃりーは意外と端っこのプロジェクトだったので、関心を示さないスタッフもいるような感じでしたからね(笑)。RIP SLYMEのデビューの時みたいですね(笑)。

−−少し色眼鏡で見られていた?

鈴木:そんな感じもあったかもしれないですね。それで、なけなしの宣伝費をどうしようかとA&Rと考えたときに、彼女はもともとネットから出てきたわけですし、最終的にYouTubeを使ったプロモーションに繋げるためにも、圧倒的にクオリティーの高いMVを作ろうということで、宣伝費の多くをMVの制作につぎ込むという勝負に出ました。デビュー曲の『PON!PON!PON!』という楽曲には絶対の自信もありましたしね。「MTVやエムオン、スペースシャワーなどの映像の人たちはきっと分かってくれるだろう」と。そうしたらスペシャが、バンドものでもなく、シンガーソングライターでもなく、それまで音楽的なプロモーションなしのアーティストだったにもかかわらず、パワープッシュでMVをかけてくださったんですね。全くの新人ですし、スペシャとしてもこれは異例のことだったらしいです。

そのように評価をいただいたMVをYouTubeにアップしたら、あっという間に1,000万回再生を超えました。YouTubeのコメントを見てみると、半分から3分の2ほどは海外からの反応で、twitterには海外のユーザー間で動画URLを貼ってやりとりしている人も多くいて、SNSの広がりとちょうどリンクして拡散していきました。しまいには、ケイティ・ペリー本人が「she also makes me feel HIGH」とツイートしてリンクを貼ってくれたり、リンプ・ビズキットのメンバーがツイートしてくれたりと、沢山の海外のアーティストも拡散してくれたりしましたね。

−−きゃりーぱみゅぱみゅは時代に合ったという側面もありますか?

鈴木:そうですね、時代に助けられたと言ったらあれですけど、きゃりーのポテンシャルが今きちんと評価されているということに対しては、時代との相性が本当に良かったなとは思います。

−−「unBORDE」はネットを上手く利用していますね。

鈴木:神聖かまってちゃんもきゃりーもネットに出自のあるアーティストですし、今はネットが生活の中心となっている時代ですから、僕は音楽やエンターテインメントがネットを媒介にして何ができるかを常に考えています。例えば、PARTYというカンヌでもたくさんの受賞暦のある世界的な広告チーム、日本人の5人組なんですが、彼らと組んで作っているandropのMVは、作る度に世界中でbuzz(バズ)るんですね。何故かというと「あのPARTYの連中がまた何か仕掛けている」と海外のメディアが注目するからなんですが、そのbuzzを我々は最大限利用します。またYouTubeの在り方についての是非論は、社内でも常にあちこちで論じられていますけど、僕としては、そこを問うのではなくYouTubeも含めて、そこからbuzzを作って巻き返すという手法を今の「unBORDE」では全面的に行っています。

−−例えば、YouTube経由の収益もそれなりにあるんでしょうか?

鈴木:ワーナーはYouTubeのオフィシャルパートナーになっているので、多少の利益はありますが、たくさん稼げているかと言ったらまだそんなことはないです。ただ、iTunesへの導線としてはいい感じですね。きゃりーは弊社の国内アーティストの中でも、フィジカルは勿論、PCおよびモバイルの配信でも成果が出ています。

−−きゃりーぱみゅぱみゅを始め、「unBORDE」のアーティストはメディアの関心も高いですよね。

鈴木:はい、おかげさまで。メディアに対しても、弊社のプロモーターがきちんとプロモーションをしてくれている部分もありますし、それプラス、きゃりーで言うと元々の彼女自身のヒキも大きいんですよね。彼女って今Twitterのフォロワーが100万人近く、LINEの登録者も100万人いるんですよ(笑)。

−−100万人・・・もう本人がメディアですね。

鈴木:そうなんです。結局、情報解禁をするとき、普通だったらWebでどの様にニュースを流してなどと考えるんですが、彼女の場合、自分でツイートすればさらっと10万人がリツイートするなどされて、あっという間に情報が大量に拡散します。要するに彼女スタートで情報が発信できるんです。勿論、今はメディアの方々にも支えられていますが、プロジェクト起ち上げ当初の、認知度が低かった頃はそれが大きな武器になりました。

−−ネットでの戦略もさることながら、パッケージにおいても印象的な作品が多いですよね。

鈴木:今はフィジカルアゲインストと言われている時代ですが、だからこそ「圧倒的にクリエイティヴィティの高いものを作ろう」と我々は考えていて、ジャケットのアートワークには徹底的にこだわりますし、MVもしっかり作るという、いわゆる昔からレコード会社の制作がやっていた王道のことをきちんとやっています。お陰様で去年のミュージック・ジャケット大賞で準大賞にandropの『door』が選ばれ、今年はきゃりーの『もしもし原宿』が大賞を頂きました。CDショップ大賞でも「unBORDE」の作品は常にベストテンくらいまでに結構残ります。つまり、すごくカッティングエッジなことばかりやっている様に見えて、レーベルとして音楽的なことは勿論クリエイティブに関しても王道のことも同時にやっているんですね。

 

8. ワールドワイドに楽しみながら仕事をしていきたい

株式会社ワーナー・ミュージックジャパン unBORDE レーベルヘッド 鈴木竜馬 氏

−−「unBORDE」としての今後の目標はなんですか?

鈴木:きゃりーのワールドツアーで良いケーススタディを作れれば、他のアーティストも全世界とまでは言わないですが、例えばandropや神聖かまってちゃん、高橋優のライブをオムニバスのパッケージにして、アジアツアーをしたいな、などとは思っています。お陰様でアジアでも「unBORDE」のアーティストたちは評判になっていて、ネットの検索数も凄いので、ちょっと身体を持っていければなとは考えています。

−−レーベルとしてのワールドツアーも視野に入れたい?

鈴木:そうですね。ワールドまでは行かなくても、まずアジアまでレーベルで飛び出して行きたいですね。また、クリスマスイヴにZepp DiverCityで、「unBORDE」のほぼ全アーティストが出演する「unBORDE X’mas PARTY」というイベントをやります。そのクリスマスパーティーで来年仕掛けようとしている「チームしゃちほこ」というアイドルの子たちを、ある意味メジャーフィールドでの東京初お披露目をするのですが、やはり彼女たちもアジアでの展開の可能性を大いに秘めていると思います。

−−「チームしゃちほこ」ですか?

鈴木:はい。この娘たちは絶対にヒットします、と言うかさせます!!

−−(笑)。

鈴木:地元の名古屋ですでに20,000枚以上を売ったまだ中学生の6人組みアイドルなんですが、次に来るのは間違いなく彼女たちです。きゃりーと共に紅白に初出場するももいろクローバーZの妹分です。

−−わかりました。早速チェックしてみます。「unBORDE」として今後、何アーディストくらい増やす予定なんですか?

鈴木:先ほども言っていた「10×10=100」という方程式に乗せようとすると、ある意味勝率が良くないといけないので、アーティストはもう2、3組は増やす予定ですが、まずは目の前のアーティストをしっかりともう一つ上のステージに上げていくことに集中していきたいですね。10戦10勝と言えないけれど言いたいというか、気持ちとしてはそれくらいの想いです。

−−サブスクリプションなど新しい時代のデジタルサービスについてどのようにお考えですか?

鈴木:サブスクリプションのシステムについてはワーナーミュージックもオフィシャルでこれから始めていく予定で、邦楽はフィジカルの発売から3ヶ月後、つまりある程度のプロモーション期間が終わったら出していくということになります。僕はサブスクリプションに関しては全く抵抗感がなくて、サブスクリプションやストリーミングは音楽を聴く接点として全然良いと思いますし、一方でYouTubeやSNSはアルバムを売るための動機として使っていきたいと思いますね。具体的には、YouTubeで見たシングル曲の映像をきっかけに、アルバムを買うという行動の発端になればという。

−−新しい技術を前向きに使っていくと。

鈴木:そうですね。時代の流れと向き合うことは大切だと思います。また、デジタルではないところで、僕が常に意識しているのは、先ほどからお話している方程式と一緒なんですが、BUMP OF CHICKENやRADWIMPS、サカナクションを買っているまさに方程式で言うところの10万人の子たちなんですね。結構大切なことだと思っているのですが、そういう子たちは、例えば、WEBのナタリーで情報を得て、ラジオで「SCHOOL OF LOCK!」を聴き、スペースシャワーTVを観て、『ROCKIN’ON JAPAN』や他の音楽雑誌を買い、放課後にちゃんとCDショップへ行くんですよ。つまり「unBORDE」の方程式に乗せるとしたら、そういった子たちに対してダイレクトに情報を提供していくことが大切で、CDショップでの展開やスペースシャワーやMTV、エムオン!での番組など、その10万人に丁寧に届けるという作業は今だからこそものすごく重要だと思っています。CDショップに人が居ないなどと言いがちですが、それはアベレージの話であって、ちゃんと音楽を好きな子供達はCDショップに行っているんです。また、そういう意味でもレーベルのHPやTwitterも大切なダイレクトマーケティングの手法だと思っているので積極的に展開しています。

−−最後になりますが、個人的な目標というのは何かありますか?

鈴木:人生計画がない人間なので、あんまり…(笑)。でも、ワールドワイドに楽しみながら仕事のできる人間にはなりたいなとは思いますね。ものごとを日本国内だけでなく、海外とか地球規模で考えられる方が楽しいと思いますし、本来は刹那主義なんですけど、目の前のことというよりは、広い視野で仕事を楽しめたらいいなと思います。あと、エンターテインメントの業界なわけですし、やっぱり常に華々しくいたいですね。肩で風切って・・・みたいな(笑)。

−−レコード会社や音楽業界で仕事をしたい若者に対して、アドバイスを頂けますか?

鈴木:僕は仕事と遊びをガッチャンコできたタイプなんですね。ソニー・ミュージック グループを辞めてワーナーミュージックに入社するまでのフラフラしていた2年半で、クラブ遊びをしたり、飲んだりしている中で出会った人たちとの繋がりや支えで今やれているんです。だから、僕は「1に人脈、2に人脈」と言うんですが、人脈ってやはり現場にあって形成されていくんですよね。でも、最近のレコード会社の社員とか音楽業界の人って、意外とみんな遊んでなさすぎと言いますか、クラブへ行って会う奴も少ないし、ライブも一部の人たちを除いてみんなあまり観ていないですよね。若干、自戒の念も込めて言いますが、どうせ音楽の仕事をやっているんだったら、音楽にどんどん触れていかないと、と思いますし、楽しいこと、エンターテイメントを提供する仕事なんですから、遊び感覚で音楽に触れられるシチュエーションに常にいたいですよね。勿論、僕なんかよりも触れまくっている人も沢山いらっしゃるので、一概には言えないですけど。あくまで主観です。なのでアドバイスという意味で言わせてもらうならば、とにかく街に出ろ、と。

−−本日はお忙しい中ありがとうございました。鈴木さんの更なる大暴れと「unBORDE」の海外進出を楽しみにしています。(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

 取材前、「unBORDE」という刺激的なレーベルを率いている鈴木さんとは、一体どんな人なのかとても興味があったのですが、やはりご本人も大変刺激的な方でした。若かりし日の鈴木さんやその旅話に圧倒されつつ、絶えず笑いの巻き起こる取材となりました。「unBORDE」はネットを有効活用し、エッジなことをしている印象がありますが、そこにはクオリティーの高い楽曲やパッケージ、MVを作り、ターゲットを見定めて丁寧に送り届けていくという、レコード会社の伝統が共存しており、その両輪、プラス鈴木さんの遊び心があってこそ今の躍進があるのだろうと感じました。今後も鈴木さん率いる「unBORDE」の動向に注目です。

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