第62回 千住 明 氏 作曲家

インタビュー リレーインタビュー

千住 明 氏
千住 明 氏

作曲家

今回の「Musicman’s RELAY」は指揮者の大友直人さんからのご紹介で、作曲家 千住明さんのご登場です。東京芸大作曲科在学中から作曲家・編曲家・音楽プロデューサーとして、ジャンルを問わず幅広くご活躍され、同大学院を首席で修了(修了作品『EDEN』は東京芸大史上8人目の買上となる)。現在も映画・TV音楽やポップス、純音楽と千住さんの生み出したメロディーを聴かない日はないほどです。また、兄で日本画家の千住博さん、妹でヴァイオリニストの千住真理子さんとともに「千住三兄妹」としても大変有名ですが、その芸術家三人を生み出した千住家とは一体どのようなご家庭だったのか? そして千住明さんの目指す音楽とは? じっくりお楽しみください。

プロフィール
千住 明(せんじゅ・あきら)
作曲家


’60年10月21日東京生。
幼稚舎より慶応義塾で学び、慶応義塾大学工学部を経て東京芸術大学作曲科卒業。
同大学院を首席で修了。
修了作品「EDEN」(’89)は史上8人目の東京芸術大学買上となり、東京芸術大学大学美術館(芸術資料館)に永久保存されている。
南弘明、黛敏郎の各氏に師事。
’91〜’93年、東京芸術大学作曲科講師。’94〜’95年、’06年、慶応義塾大学文学部講師。
芸大在学中からその活動は、ポップスから純音楽まで多岐にわたり、作曲家・編曲家・音楽プロデューサーとしてグローバルに活躍。
ソロアルバム、メインアルバム、プロデュースアルバムは多数。
オーケストラ作品では、ヴァイオリン協奏曲「リターン・トゥザ・フォレスト」(’00)、ピアノ協奏曲「宿命」(’04)、「四季」(’04)、交響曲第1番(’05)、日本交響詩 (’05)、「ブレス・アンド・ロザリー」(’06)等がある。
また、映画「226」「RAMPO〜国際版」「わが心の銀河鉄道」「愛を乞うひと」「黄泉がえり」「HINOKIO」「この胸いっぱいの愛を」「涙そうそう」、ドラマ「高校教師」「家なき子」「聖者の行進」「世紀末の詩」「ほんまもん」「砂の器」「仔犬のワルツ」「恋の時間」 、アニメ「機動戦士Vガンダム」「鉄人28号」「雪の女王」「RED GARDEN」NHKスペシャル「世紀を越えて」、NHK「日本 映像の20世紀」、CM「アサヒスーパードライ」「コスモ石油」「パナソニック ビエラ&ディーガ」等、音楽を担当した作品は数多い。
’07年度はNHK大河ドラマ「風林火山」の音楽を担当。

’97年第20回、’99年第22回、’04年第27回 日本アカデミー賞優秀音楽賞受賞。
’99年第13回 TOYP大賞受賞。
’01年第28回、’04第40回 ドラマアカデミー賞劇中音楽賞受賞。

 

    1. 才能溢れる両親に育てられた少年時代
    2. あらゆるジャンルのバンドを掛け持ちする日々〜プロの世界への憧れ
    3. 音楽家になるための条件
    4. 芸大史上8人目の買上作品『EDEN』
    5. 自分の創る音楽は「祈り」でありたい
    6. 40歳を過ぎて分かった「日本人としての自分」
    7. 今生きている人たちと自分の音楽を分かち合いたい

 

1.才能溢れる両親に育てられた少年時代

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--前回ご登場いただいた大友直人さんとの出会いは?

千住:去年加山雄三さんの45周年記念コンサートをクラシックの殿堂と呼ばれている東京文化会館でやったんですが、東京文化会館の芸術監督である大友さんからの依頼で僕はその編曲と編曲監修をしまして、大友さんが東京フィルハーモニー交響楽団を指揮するというコンサートでした。それが割と最近の接点です。

 僕は自分の名前を出して仕事を始めたのは’84、5年からですが、おそらく大友さんも同じ頃から指揮者としてのキャリアをスタートされたはずなんです。ですから、年齢は大友さんの方が2歳上ですが、いつも同志のような感覚で大友さんのお仕事を見ていました。現在、大友さんはクラシックの世界でご活躍ですが、僕の先輩である三枝成彰さんとの仕事をスタジオでされていて、ポップスの世界も理解している方なんですが、昔よりも今の方が大友さんはより柔軟になったんじゃないかと思いますね。

--それはなぜですか?

千住:おそらく「自分のスタイルを作ってきた」という自信ができてきたんだと思うんです。実は僕も同じで、今でこそポップスの世界、クラシックの世界という言い方ができますが、昔は突っ張っていたと言いますか、「垣根なんかない。あるのは良い音楽か悪い音楽だけだ」と思っていたんです。でも、方法論としてこの二つの世界を一緒にしてしまうというのはあまりにも乱暴なことだというのが最近分かってきたんです。

--ここからは千住さんご自身のお話を伺いたいのですが、どのような家庭環境で過ごされたんでしょうか?

千住:父は慶応大学の教授でした。父が教えていたのは経済性工学という学問で、これは工場での生産性を向上させる上で機械の動線や人の配置、また人のマネージメントを考える学問なんです。これは父が始めた分野なので、学位を取るときの論文も日本では評価する人がいなくて、アメリカで評価されて帰ってきたんですが、父の理論は現在トヨタ自動車やコカコーラなど多くの会社のマネージメントに生かされています。

--お父様は新たな学問の領域を切り開かれたんですね。

千住:父は新しいものを発見し、それに没頭したフロンティア精神を持ったパイオニアでした。新しいものを考えて、それを続けていく父はまさに芸術家であったと僕は思います。母はメンタル的に余裕のある人で、才能豊かな人です。父は僕たちに勉強している姿しか見せなかったわけですが、母はいわゆる「才能」と呼ばれる部分を僕たちに継承したと思います。母の家は代々学者の家系だったんですが、祖父は医化学者で大正時代にドイツへ留学し、アインシュタインと旅をした人なんです。ドイツではウイルシュテッター先生というノーベル賞を獲った微生物学の権威のもとで勉強しました。また、母方の家系を辿ると、京都の高瀬川を掘った貿易商であり、蘭学者でもある角倉了以(すみのくらりょうい)がいます。

 つまり母方の家はもともと文化を持った家だったので、僕らが小さいときから祖父が持ち帰ったSP盤や絵画に触れる機会がものすごくありました。ですから、父とは対照的に母は色々なイマジネーションを与えながら、僕らを育ててくれました。

--お母様のイマジネーション溢れる子育てとはどのような感じだったんですか?

千住:母は子供達の興味をそそるような話をすぐにできてしまうんですね。例えば、僕と妹がほうれん草を食べられなかったら、急に母親が「ガオー! 俺はオオカミだ」と言い出すんです。そして、「今、お前たちの母親を食べてやった。お前たちがほうれん草を食べなかったら、母親を帰してやらない」と。僕らは母に戻ってきてほしいですから、一生懸命ほうれん草を食べるんですね(笑)。それでほうれん草を食べると少しずつ元の母親に戻っていく、みたいなことをするんです。

--そういうことがサッとできてしまうんですか・・・凄いお母様ですね。

千住:また、窓ガラスを割ってしまったとします。家はそんなに裕福な家ではありませんでしたから、割れたガラスをセロテープで貼るんですね。そこで母は「かけらに色を塗りましょう」と言って、大きなステンドガラスを作るとか、ものを創造する楽しみを教えてくれてくれました。父と母があまりにも両極端で、しかも才能のある二人だったので、僕らみたいな兄弟が生まれ、作られたんだと思います。

--千住さんは音楽は小さいときからされていたんですか?

千住:小さいときからヴァイオリンを習っていたんですが、決めごとをやらされるというのは男の子ですから続かないんですね。ですから、習い事でやっていた音楽にはあまり興味がなくて、しかも妹の真理子にヴァイオリンの腕は抜かれてしまって、彼女は12歳でデビューしましたから、逆に僕は肩の荷が下りて、「これからは好きなことができる」と思いました。

--真理子さんとはいくつ違いなんですか?

千住:2歳違いです。真理子が12歳でデビューしたときに、「天才」と騒がれて、彼女自身は「天才ではない」と悩みました。そのときに父が数学者らしい意見を言ったんです。それは「結果というのは才能と努力をかけたものだ。才能がないと言われている人が『1』、才能に長けていると思われている人でも『1.1』とか『1.2』とかそんなものだ。つまりこれに努力をかけないと結果は出ないんだ」と言ったんです。

 今の僕はそれが非常に納得できます。同業者同士だとよく分かりますよね。「才能があるのに何でこの人は出てこないんだろう?」という人は努力してないですし、「この人はそんなに才能がないのに、こんなに活躍している」という人は非常に努力しています。特に自分の世界を極めようとしている人たちはみなさんそうだと思います。

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--お父様からは他にどのようなことを言われましたか?

千住:僕が音楽家を志したときに「とにかく空(す)いている電車に乗れ」と言われました。みんなが群がっているところに乗っても、そこには可能性がないから、空いている電車へどんどん乗り移っていかないと駄目だと。何か新しいことをやったら必ずまねをされる。だから新しいものを生んだと思ったら、次のことを考えなければいけない。父の発想は常にそれだったんです。また、うちは趣味を許さない家でもありました。

--趣味を持つことがですか?

千住:はい。ただ、本気であれば応援すると。父は本当にまっすぐな学者で、趣味でゴルフをするなんてあり得ない人でしたから、一生懸命に熱中することがあれば一生懸命応援するという家庭だったんです。

--All or Nothingですか。

千住:そうですね。兄弟3人とも慶応幼稚舎に通っていたんですが、大学の最後まで行ったのは妹だけです。兄は日本画家になりたいと父に言ったときに、父から「芸大に入ったら許す。他の大学だったら駄目だ」と言われました。つまり、うちの場合は父を納得させるための「パスポート」が必要で、その「パスポート」が芸大へ入学することだったんです。

 

2.あらゆるジャンルのバンドを掛け持ちする日々〜プロの世界への憧れ

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--先ほどヴァイオリンから解放されて「これからは好きなことができると思った」と仰られていましたが、千住さんはその後どのような音楽に魅了されていったんですか?

千住:僕は中学でポップスももちろんですがジャズに巡り会いました。マイルス・デイビスやハービー・ハンコック、VSOPが活躍していた時代ですね。それで中学時代に高校生や大学生の先輩のカルテットに入れてもらっていたんですが、本来課外活動は許されないことでしたので親にも学校にも内緒でした。実はそこで僕はドラムを叩いていたんです。

--ピアノではなくドラムだったんですか?(笑)

千住:ええ。いきなり4ビートです(笑)。周りはディープ・パープルのようなハードロックから楽器に入っていったんですが、当時の僕はそれでは面白くなかったんです。そんなときにジャズと出会って、「これはなかなかいいぞ」と思いました。中学生のくせにジャズ喫茶に出入りして、渋谷の『ジニアス』や『デュエット』、『メリージェーン』、あと自由が丘に『アルフィー』というフリージャズのかかるジャズ喫茶があったんですが、そこでよくわからないのに学ランを着た中学生が静かに聴いているわけですよ(笑)。また、ジャズと同時にポップスにも魅了されました。当時、ポップスとなると皆ビートルズにはまっていたんですが、僕はビートルズが嫌だったんです。

--ビートルズは混んでいる電車であったと。

千住:そうですね。それでカーペンターズを聴いていました。また、『鬼警部アイアンサイド』の音楽をやっていた頃のクインシー・ジョーンズや、『黒いジャガー』のテーマをやっていたアイザック・ヘイズ、この辺が滅茶苦茶好きでしたね。その頃は自分のバンドもありましたが同時に学校の音楽部にも所属していましたので、そこに電気楽器を持ち込んで、『鬼警部アイアンサイド』の音楽をコピーしたりしました。ただ、あれはモードなので、中学生に理解しろと言っても難しいんですね(笑)。ですから、相当むちゃくちゃな録音が残っています。変なヴァイオリンが入ったり、リコーダーが入っていたり、すごい『アイアンサイド』ですよ(笑)。

--中学時代からそれだけ早熟だったとすると、高校時代は更に音楽へのめり込んでいかれたんでしょうね。

千住:高校に入ってからは世界がもっと広がりましたね。全てのジャンルのバンドを掛け持ちして、クラシックのオーケストラにも顔を出しました。やはり学校と関係なく組んでいたバンドが一番楽しかったですね。バンド仲間もみんなプロを目指してやっていました。学校の一年先輩には鳥山雄司さんがいたんですが、鳥山さんが一つ上のボスみたいな感じで、僕はその下の学年のボスみたいな感じでした (笑)。

 バンドによってやる楽器も違って、ドラムはジャズ・フュージョンコンボ、ベースはロックバンド、キーボードをブラック・コンテンポラリーのバンドで、あとハードロックのバンドではオルガンを弾いていました。ですから5、6個バンドを掛け持ちしていましたね(笑)。

--それは意図的に楽器を持ち替えていたんですか?

千住:いや、そういうオファーが来るんです(笑)。自分のバンドではドラムとキーボードを演奏し、自分のオリジナルをやっていましたが、それ以外のところではバンドごとに色々な楽器を頼まれるので、「たまにはギターも弾きたいからいいよ」みたいな感じで引き受けてました。

--ちなみに演奏された楽器は全て弾きこなせたんですか?

千住:そうですね。先ほどもお話しした中学時代の音楽部の顧問が「なにやってもいい」という自由な考え方の先生だったので、そこでポップスの楽器に関しては弾けるようになりました。僕は小さいときからクラシックをやってきましたので、「ポップスの楽器は何でこんなに自由なんだろう!」と思いましたね。

--ちなみにヴァイオリンはいつお止めになってしまったんですか?

千住:16歳くらいまで自分で持っていましたが、最後にきちっと弾いたのが中学3年生じゃないですかね。

--では、中学生でヴァイオリンは妹さんに譲って。

千住:そうですね。高校からは自分の好きな音楽の世界をやり続けました。それで色々な練習スタジオやデモテープを録音するスタジオ、学校のそばだったので特に日吉のヤマハに出入りしていますと、プロを目指している人たちとずいぶん巡り会いますし、そこでプロのように録音をしたり、アルバイトで採譜や音楽祭やコンサートのお手伝いをしたり、そういうことをやるうちにプロの世界というものに憧れるようになりました。その頃の僕の周囲からは優秀なアーティストがどんどん出て行ったんですね。

--例えば、どなたがいらっしゃったんですか?

千住:バービーボーイズや杉山清貴さん、作詞家の松井五郎さん、ベースの中村キタローさん、ドラムの江口信夫さん。あと、慶応の先輩で鳥山雄司さん、神保彰さん、スクエアの和泉宏隆さんといった人たちがごろごろいたんです。あそこから巣立っていった人たちは皆さん見事に成功されていますから、凄い時代だったと思います。

 

3.音楽家になるための条件

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--慶応大学を中退されて芸大へ行くことになったきっかけは何だったんですか?

千住:僕は慶応大学工学部に進学したんですが、やはり音楽への思いが募りまして、大学二年生のときに父に「音楽をやりたい」と言ったんですね。そうしたら、父が喜んで僕の学籍を抜いてきたんですよ(笑)。そして、「今日はめでたいから乾杯しよう」と。

--お父様は何が「めでたい」と仰ったんですか?

千住:それは僕がやりたいことを見つけたことですね。父に言ったが最後、とっとと学籍を抜いてきて、「こんなめでたいことはない」と(笑)。僕としても日陰の身だった音楽を日向に引っ張り出す良いチャンスでした。

--お父様は千住さんが工学をやるつもりはないと薄々分かっていたんでしょうかね。

千住:分かっていたと思います(笑)。ただ、工学部に進んだのも音楽をやるためで、コンピューター・ミュージックだったり、人間工学的に音楽ができたらと考えていました。あと、やはり父の跡を継いであげなくてはいけないなとも思ったんですね。兄は芸大へ行ってしまうし、真理子はヴァイオリンを弾いているので、父の跡は僕が継いでもいいなと思っていたんです。でも、兄に「作曲家になりたい」と告げたときに、兄は「だったらこんな遠回りは止めろ。本丸(=芸大)に行かなかいでどうするんだ」と言われました。確かにあのとき芸大行きを決断しなかったら、一生コンプレックスになっていたと思います。

 また、将来的に僕は真理子と一緒に仕事がしたかったんです。僕もヴァイオリンをやっていましたが、それは真理子に託したので、今後ヴァイオリンの音を使いたかったら、真理子の音が中心にあって欲しいなと思ったんです。実は真理子は学閥を持たなかったので、デビュー後も色々苦労をしました。ですので、真理子の先生から「この子はこれだけ苦労をしているのだから、君が作曲家になり、将来彼女に演奏してもらいたいなら芸大の作曲科へ行って、しかも大学院を首席で卒業しなさい。そうでなければこの子にもっとハンデを負わせることになる」と言われました。

--芸大に入る前からそのような条件を掲げられていたんですか・・・。

千住:そのときは「はい。わかりました」と答えましたが、今考えると恐ろしいです(笑)。そのときに父から「30歳まで時間をやる」と言われました。そして、「30歳で芽が出ないと思ったら、もう一度普通の大学を受け直して、やり直しなさい」と。なぜなら、父は30歳で人生をやり直した人なんです。父は炭坑のエンジニアをしていたんですが病気をしまして、九死に一生を得て、その後、慶応大学が工学部を創設したときに教授として迎えられたんです。ですから自分の経験から男子の場合、30歳ならまだ人生はやり直しがきくと考えていたので、そのように言ったんですね。

--でも、まず芸大に入ること自体が大変ですよね。

千住:20歳で芸大受験を決意ですから本当に大変でした。ほとんどの人は小学生の頃からソルフェージュやピアノなどの基礎教育を受けています。僕もピアノは弾いていましたが、適当にポップスの曲を弾いていただけなので、左手なんて動かしたことがなかったんです。しかも、芸大に入るためには覚えることが一杯ありますし、非常に高いレベルに到達しなくてはならないんですね。ですから、とにかく必死になって勉強しましたが、次男ですからどこかおっとりしてもいるんです(笑)。兄が芸大を受験したときはかなり悲壮感がありましたが、僕はもうちょっと明るかったと思うんです。ただ、勉強を始めた頃に「10年はかかる」と言われたので、10年は覚悟していたんですが、上手くいって3年で入学できました。

 実はその頃クラシックサイドの方々から、「クラシックが書けなくなるから、ポップスを書くのは止めろ」と忠告されたんです。また、あるポピュラーの有名なアレンジャーからは「クラシックを勉強したらポピュラー曲を書けなくなる」とも言われたんですね。その狭間で僕は苦しむのですが、その当時両者にはそういう意識があったんですね。ただ、僕はAB型の天秤座なので、いくつもの顔を持てると思ったんです(笑)。それで受験時代も隠れて両者を書いていたんですが、例えばポピュラーの理論を知っていれば、クラシックの理論を非常に簡単に理解できますし、その逆もあるんですね。芸大作曲科に入ってくるほとんど人が受験のための虎の巻を教えてもらっているんですが、僕の先生はそれをあえて教えない人だったので、自分なりの理解の仕方で勉強していく中で、両者は助け合うなと思いました。

 

4.芸大史上8人目の買上作品『EDEN』

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--芸大に入学されてから仕事も本格的に始められたわけですか?

千住:そうですね。入学してから一応仕事も解禁にしようかなと考えました。でも、その当時の芸大は学生も先生も学外で仕事をする事に厳しくて、もし、仕事をするときは教授会にかけられるんです。ただ、師匠の南弘明先生は、僕の活動に対して、ものすごく理解を示してくださいまして、仕事ができるように届けを書いてくださったんですが、そこに「本人の研究のために非常に有意義なので許可したい」という一文を添えてくださいました。ですから、僕は芸大生の中でダントツに早く仕事を始めることができました。

--正確には何年にデビューされたんですか?

千住:芸大に入った’85年からきちんと名前を出して、作・編曲家として音楽業界で活動を始めました。その最初の仕事が大貫妙子さんの『アフリカ動物パズル』というアルバムで、アレンジをやらせていただいたんですが、これで芸大受験をする前にセミプロとして活動していたポップスのスタジオに再び帰ったわけです。そのときの感動は凄く大きかったですね。音響ハウスに入ったときは「もう一度ここに来れた。ここまでよくがんばったな」と思いました(笑)。

 それ以後は学校と仕事を上手く両立させながら、遅れていた分・・・と言いましても芸大の友達から見たら遅れていなかったのかもしれませんが、慶応時代の友達から見たら遅れていると感じていました。例えば、高校時代一緒にバンドをやっていたバービーボーイズの近藤敦(KONTA)や今道友孝(いまみちともたか)、杉山清貴君もすでにトップスターでしたし、あのときの仲間達はみんな第一線で大活躍していましたから、「取り戻さなきゃ!」と思ったんです (笑)。ただ、クラシックはクラシックで妹の師匠との約束がありましたからしっかりやらないといけませんでした。

--そして、妹さんの先生との約束通り、芸大大学院を首席で修了されるんですね。

千住:そうですね。これは何をもって首席とするかというと、僕の修了作品である『EDEN』が東京芸大の買上になるんです。買上というシステムは東京芸大には美術学部がありますから、絵などを資料として買い上げておくという名誉的なものなんですが、音楽学部作曲科にも時々そういうことが起こるんです。僕は約100年の歴史の中で8人目でした。

--史上8人目ですか・・・凄いですね。

千住:当時の学長である平山郁夫先生から「君はこの賞をもらった運命があるのだから、これに背いて生きちゃ駄目だ」と言われました。このとき僕は29歳でものすごい責任を感じると同時に「父から言われた30歳に間に合った」と思ったんですね。これからはこの世界を生きていかなくてはならない。もううすうす感じていた自分の運命に正直に生きて行けると思いました。

--ポップスのお仕事を大変な量こなされていて、学校の勉強もあったわけですよね。それで首席で大学院を修了されるとは、勉強の方も相当な密度でされたんですか?

千住:僕は慶応時代は劣等生、しかし東京芸大時代は優等生という両極端だったんです。慶応時代は本当にぎりぎりで進級するような状態でした。ところが芸大に関しては、猛勉強しなくてはならないのは大学に入るまでなんです。つまり、大学に入るためには400年分の全ての理論やスタイルを頭の中に入れなくてはならないので大変なんです。

 ただ、逆を言えば、芸大は入学の時点で勉強は終わっているとも言えます。では、入学して何をやるかと言えば、勉強してきた知識を生かして曲を書くことなんですが、受験勉強をずっとやってきた人は入学してもなかなか曲が書けないんです。芸大入学という目的が果たされてしまい、そこで「新たに創作活動をしてみなさい」と言われても、受験の虎の巻しか出てこない状態なんですね。

 先ほども言いましたが、僕は師匠にそういった虎の巻を使うような受験勉強をさせてもらえなかったんです。「とにかく時間をかけてもいいから、じっくりと自分の実力を蓄えなさい」と言われて、自力で勉強していましたから、芸大入学前から僕の中にはやりたいことが一杯ありました。ですから、入学後は思い切りドアが開けたような気分でしたね。

--でも、テレビ、映画にCMとものすごい仕事量ですよね。

千住:僕の一番の目的というのはテレビの音楽や映像音楽をやることではなく、アルバム・アーティストになることだったんです。ただ、その当時、映像音楽の世界というのは「空いている電車」だったんですね。過酷だからということもあったと思うんですが(笑)、あまりみなさんやりたがらない分野だったんです。今でこそ映画界は活気がありますが、その当時の映画界というのはどん底の時代でしたから、テレビの方が活気がありました。ですから、その中でドラマの音楽ですとか色々なことをやりながら、自分を磨いていていきました。

--ちなみに曲というのはそんなに無限に出てくるものなんですか?

千住:映像音楽の場合は条件が多いですので、ポイントがどんどん絞れて割と書きやすいです。1週間に20曲、3週間で50曲とかそういう感じですから、とにかく手を動かさないと終わらないです(笑)。でも、自分発のものを書こうとしたときはなかなか大変です。僕は人間としてまだまだ修行が足りないということを思い知らされますね。

 

5.自分の創る音楽は「祈り」でありたい

千住 明2

--アルバム・アーティストとして作品を出されたのはいつですか?

千住:映画『226』の音楽をやった年(’89年)にアルバム『PIEDMONT PARK』と、映画『226』のサントラ扱いなんですが『226 SUITE』という作品を2枚ほぼ同時にリリースしました。それを最後にしばらくは劇伴やサウンドトラック中心の作品作りを続けたんですが、ずいぶん作品が溜まったので、ポリグラムから2枚組のアルバム『AKIRA SENJU / SOUNDTRACKS 1988-1997』を出したあたりから、自分のアーティスト活動というものに再びスイッチしていきたいと思いまして、’97年頃から活動の中心を東芝 EMIをおいて、そこから約9年ぶりにオリジナルアルバム『アフリカの夢』を出しました。

--アーティスト活動へ再びスイッチされるきっかけは何だったのでしょうか?

千住:やはり大人の音楽を作らなくてはいけないと思ったんです。90年代当時、Jポップがワンパターンな状態であったことは皆さんご存じだと思いますが、CDを買う層が10代、20代だけになっているのはおかしいと思いました。僕は色々な仕事でアメリカやヨーロッパへ行くんですが、例えばクリスマス・シーズンになると、アルボ・ペルトというクラシックの作曲家のアルバムが、レコード店の売り場全面に置かれていて、それを買っていく人たちがたくさんいるんですね。その大人の文化が格好良いし、うらやましく思いました。日本もそうなるべきであり、そうならないと日本人は子供の耳のままだと思いました。日本の音楽ビジネスのトップの人たち、つまり50代、60代の人たちがみんな10代、20代のご機嫌を伺っているなんて、こんなおかしい世界はないです。ただ売れるからとそっちについて行っていいのだろうかと思います。

--そういった傾向は少なからず今も続いていますよね。

千住:同時に僕もプロとしてやっているわけですから、自分にも責任があると思いました。子供の耳を大人の耳にするには育てなくてはならないんですね。人間というのは学習する動物です。どんどん上を目指します。例えば、ワインがそうです。10年ほど前まで日本にこれだけワインが分かる人たちはいなかったと思うんです。本当に美味しいか、不味いかさえもわからなかった。でも、今は違います。「今日はドライな白が飲みたい」とか、「シャンパーニュが飲みたい」とか、「ブルゴーニュの赤が飲みたい」とか、その程度の事は感覚だけでも分かる人が随分増えたし、ワイン文化も根付いてきました。

 また、食文化を見てもイタリアのシェフも、フランスのシェフも、スペインのシェフも今は日本がお手本なんですね。今世界中の美味しい料理が日本に集中していますし、日本にヒントがあると。京都の懐石料理からヒントを得て、エル・ブジという天才料理人がスパニッシュ料理に革命を起こして、その流れが今フレンチの料理界を支配し、昔のようなフレンチではなく、ほとんど懐石料理のようなフレンチが主流になっています。

 つまり、日本という国はそれだけ文化を持っている国なんですが、どうして音楽だけが取り残されているのかということですよね。40代、50代の人たちが入れないシステムがレコード店にあるのかもしれませんが、どういう音楽があるかということを分かってもらうことをレコード会社はもっとやっていかないと絶対駄目ですし、僕はこれからもアルバム・アーティストとしても活動していきたいので、その部分の耳を持ってもらえる、聴いてもらえる人を育てたいと思い、僕にとってステップになったのが『feel』のシリーズです。

--『feel』の登場はとても新鮮かつ画期的な出来事だったと記憶しています。

千住:実は2000年に3人兄妹で初めて一緒のコンサートを東京オペラシティでやるときに、真理子や兄のファンの方々に、つまり大人の文化を知っている人達に受け入れられるライトミュージックのコンピレーションとして会場で売られました。つまり『feel1』発売日は僕たちのコンサートの日でした。この『feel』シリーズには色々なアーティストの作品がコンピレーションされていますが、当初僕もその中心にいて僕の関係している曲が何らかの形でどれにも入っています。『feel』という作品がブレイクしたというのは、やはり大人で音楽を求めている人たちがいたということなんです。僕はこの人達を大切にしたい。この人達と一緒に育っていきたいんです。

--『feel』は「リラクゼーション」や「癒し」というキーワードで語られましたよね。

千住:僕は「癒し」という言葉が実は嫌いなんです。僕から見れば音楽で癒すなんて、そんなおこがましいものではないんです。僕は自分の音楽が何でありたいかと言われたときに、「祈り」でありたいと思っています。これは「9.11」が起きたときにも考えたのですが、「音楽家はこの世の中で一体何ができるんだろう?」と思うんですね。もし、音楽を使って祈りたい、または精神的に会話をしたい人々がいたとしたら、僕はその人に寄り添えるような音楽を創りたいですし、僕の音楽はそうであって欲しいと思います。

 同時にクラシック的な発想をするとスノッブになるということは、僕には考えられないことなんです。やはり音楽というのは聴いてもらって、あるいは必要とされて初めて命をもつと思っています。聴いてもらう人がいなかったら単なる騒音です。僕はプロとして騒音を作るほど、時間を無駄にはできないんですね。そう強く思うようになったきっかけが、慶應を辞めようと思ったときにやっていたゴミ回収のアルバイトだったんです。

--千住さんがゴミ回収の仕事をされていたんですか?

千住:そうです。どの生活にでも戻れるように、何でもできるようにしないといけないと考えたんです。つまり、学歴とは関係のないところで働くにはどうしたらいいかと思いまして、友人の紹介で横浜にある残飯を回収する業者でアルバイトをしていました。これは朝の五時から夕方まで契約をしている飲食店の残飯を集める仕事で、家に帰ってきたらそのまま玄関に寝てしまうような過酷さだったんですが、臭いも大変きつくて職場ではカップラーメンくらいしか食べられなかったんです。でも、職場のおじさんが「そんなものばかり食べていたら体が持たないから、ご飯を食べなさい」とお弁当を半分分けてくれたんですね。そのお弁当は9割が白いご飯で、残りの1割に半分に切られたちくわが一本入っていました。

 これはあとで分かったんですが、このおじさんはそのお弁当を昼と夜に分けて食べていたんですね。つまり僕はおじさんの夜のご飯をもらったわけです。「これは悪いことをしたな・・・」と思って、それからそのおじさんの前では嘘でも白いご飯を食べるようにしたんですが、このおじさんというのが満足な教育を受けてなかったので、僕が職場に持っていったマンガ雑誌のひらがなの部分しか読めなくて、僕に読んで聞かせてくれと言うわけです。しかし初めて他人の親切な暖かい心をこのおじさんから教えてもらいました。その時に僕は「このおじさんの心にも届くような音楽を創りたい」と思いました。僕の基本は今もここにあるんです。音楽はコミュニケーションが出来る言葉でなければ意味がない。ですから、僕はプロとして独りよがりの音楽は創りたくないんです。

--そのおじさんとの出会いは千住さんにとって大きな経験だったのでしょうね。

千住:今でも時々「あのおじさんに僕の音楽は届いているだろうか?」と思いますね。もしかしたら、数年前のNHKテレビ小説『ほんまもん』や、今年の大河ドラマ『風林火山』の音楽であれば耳にしてくれるかもしれない。僕の名前は忘れているかもしれませんが、音楽は届くでしょうと。

--まず聴衆ありきの音楽作りを心掛けていらっしゃると。

千住:聴く人がいないと書いた音符たちがかわいそうですよね。音符というのは人類のコミュニケーションツールです。これは人間にしかないものであり、しかしその反面、音楽家は大変なものを操っているんだと感じます。最近、「あなたの音楽を聴いて人生が変わりました」とか、「死のうと思ったけど止めました」とかよくお手紙を頂くんですが、そういったお手紙を頂く度に「これは大変なことをしているんだ」と思います。ですから、僕はできるだけ繊細にアンテナを張り、人の痛みに対して鈍感にならないように心掛けています。

 

6.40歳を過ぎて分かった「日本人としての自分」

千住 明9

--千住さんご自身もお父様に倣って趣味はないんですか?

千住:父が亡くなったのは僕が40歳のときなんですが、僕は見事に20年ごとに転機が来るんです。芸大受験を思いついたのが 20歳の時で、ともかく後ろを振り返らず突っ走って20年。父は在宅介護で亡くなりましたから、その時初めて父と一緒に過去を振り返ったんです。そのときに「これからはちょっと違う自分を発見しないといけない」と思いました。それまで学ぶべきことは学びましたし、音楽という言葉を喋れるようになるのに20 年かかったと思うんです。ただ、それまで蓄えてきた引き出しも空っぽになったとも感じました。

 そう考えたときに、兄が自分の絵画を生み出すために色々なことをやっているのを目にしたんですね。兄は今ニューヨークに住んでいるんですが、緑を眺めたり、茶道をしたり、ワインを集めたり、洋服やインテリアを買いそろえたりと、色々趣味を持っています。それで兄の真似をして、少しずつ音楽以外の興味を広げることを40歳頃から始めました。

--具体的にはどのようなことをされたんですか?

千住:ワインや食事に凝ったり、あと時間があったら京都へ行って、日本の文化に触れたりし始めました。今の僕の趣味は「京都へ行くこと」かもしれません。そこには母方のルーツがあります。先ほどお話しした角倉了以という僕らの先祖の銅像が高瀬川のふもとに建っているんですが、うちはそもそもこういう文化を持っていたんだと再確認するわけです。ひいては千利休に繋がり、お茶の文化もあった家です。でも、いつの間にか僕らは自分の専門分野ばかり一生懸命やってきました。

 僕たちが存在しているのは父の考え方があってこそだと思いますから、勿論父の考え方は認めます。しかし、お茶があったり、それとともに花鳥風月という文化を知ることによって、かつて日本人の音楽の聴き方は違ったということが分かるわけです。例えば、かえるが池に飛び込む音も音楽として聴いたり、つまり音楽も花鳥風月であったと。そういった経験を通じて初めて日本人という自分を意識し、日本の文化の上に僕らは成り立っているということが、40歳過ぎに分かりました。

--それが千住さんの音楽にフィードバックされるわけですか。

千住:必ず還元されます。日本の「間」がある音楽というのは大切だなと思いますし、日本でしか作れない音楽があると感じます。例えばヨーロッパにはキリスト教の文化がありますが、現代音楽の世界で聴きやすい音楽を創る人たちのほとんどが「キリスト教の音楽」というエクスキューズのもとに書いているんですね。アルボ・ペルトもそうですし、ペンデレツキ、あとポーランドのグレツキもそうですが、結局ミサ曲を書くことによって綺麗な曲を先端の音楽として発表できるんですね。でも、僕はそこにエクスキューズを持ちたくないんです。純邦楽を創るという事ではなくて、僕の書く作品は活気のある現在の日本の文化の中にありたいと最近思いますね。

--先ほど伺ったスペイン料理界、フランス料理界を席巻する日本料理のように、日本の音楽からの音楽が世界を席巻することがありうるかもしれませんね。

千住:そうですね。もちろん音楽業界というのは若者中心に動かざるを得なかったところもありますが、これからは多くの人たちにとってもっと豊かであって欲しいです。

 

7.今生きている人たちと自分の音楽を分かち合いたい

千住 明10

--配信やヘッドフォンでしか音楽を聴かない人たちが増えている現状と、大友さんもインタビューで仰っていたように、クラシックのコンサートが一番開かれている都市=東京といったギャップに我々は驚かされているんです。

千住:確かに配信で音楽を楽しむケースも増えていると思いますが、大人の音楽というものに対しては、必ず聴くスタイルを持つはずなんです。そうなったときに勿論配信の音源をiPodに入れて聴くのはいいと思うんですが、何かこだわりを持っている音楽ファンが聴く上においてパッケージや良質なスピーカー、または会場が絶対必要になってきます。そこに対する音楽のあり方というのは変わらないと思います。

--大人の音楽を聴く人たちをもっと増やそうとしているのが千住さんであり、それがライフワークであると。

千住:ええ。でも、そういった人々は確実に増えていると思いますし、いつまでも行け行けゴーゴーでは人生を渡っていけないと思うんですね。僕らの時代にも中学生で大人の音楽を聴くような人たちは必ずいましたが、そういうことが起きて全然いいと思うんです。

--中学生時代の千住さんに影響を与えたのは、まさに先人達が創った大人の音楽なわけですからね。

千住:そうです。ジャズもそうですが、みんなが知らない音楽を知っていたことは、中学生の僕にとって嬉しいことでした。

--でも大人がしっかりしていないと、子供はそういう音楽を受け取れないですよね。

千住:ただ、今の50代、60代の人はビートルズ世代ですから昔よりもヴァラエティーに富んでいますし、Jポップもこの5年くらいで海外にひけをとらないくらいに向上しました。それは画一化が無くなったからで、色々なヴァリエーションがあり、優れた人たちが出てきています。実は僕はクレイジーケンバンドと同世代なんですね。クレイジーケンバンドのドラムの廣石恵一とはバンドで一緒に演奏していたんですが、彼らみたいな大人が頑張って、ああいったソウルフルな音楽をやっているというのはとても嬉しいんです。あれこそ大人の音楽です。本当に見事だと思います。

 ですから、僕が大人の音楽と言うときに、それは決してジャンルを言っているわけではないんですね。クレイジーケンバンドは彼らなりのアプローチをしていますし、僕はクラシカルなアプローチをするでしょう。ただ、オーケストラを使って新曲を発表したとしても、僕は決して現代音楽とは呼ばれたくないんですね。僕はそういうスノッブな世界にいたくはないんです。新しいジャンルと呼んで欲しいです。

--新しいジャンルとは一体どのようなものと考えられているんでしょうか?

千住:羽田空港第二ターミナルの到着ロビーに兄の絵が飾ってあるんですが、そこで流す音楽を僕が書いて、真理子に演奏させたいということで『四季』という曲を書いたんです。これが僕たち兄妹が初めてコラボレーションした作品なんですが、そのときに兄がその絵を額縁に入れずにそのまま掛けると言うんですね。その絵は日本画で和紙に描いているんですが、兄に「全ての現存する絵画の中で和紙が一番寿命が長い。和紙は千年保つ。だから千年保つ音楽を書いて欲しい」と言われました。

 今後、千年後に残っている音楽はどういう音楽かを考えたときに、決してアカデミックで難解な理論的な音楽ではないと思います。千年後も古くならない音、それも今書いておかしくない音というのは必ずあるはずなんです。次に行こうと思っている音楽の答えが実はそれなんです。兄は大真面目に「この絵は千年そこに置いておくのだから」と言いました。音楽も目先の新しいことをやるのではいけないと思います。千年残そうと思ったらなかなか大変ですが、今まで色々と淘汰されてきた歴史の中に答えはあると思います。それは人間の肉体的に無理のない音楽、しかし単なるイージーリスニングではない音楽ではないかと考えています。

--そして、それは千住さんが創る限り「聴衆ありきの音楽」であると。

千住:僕が聴衆がいて欲しいと言うのはなぜかというと、今生きている人たちと自分の音楽を分かち合いたいだけなんです。ですから、共感を持ってくれる人たちを絶対に裏切ってはいけないと思いますね。

--本日はお忙しい中ありがとうございました。益々のご活躍をお祈りしております。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也 山浦正彦)

 ポップスとクラシックの双方に精通し、だからこそ安易な融合をせずに、それぞれの利点を生かしつつ日々作曲されている千住さんは、とてもアカデミックな面を持ちつつも、絶えず聴衆を意識し、音楽を通じて日本の文化そのものの未来も深く考えていらっしゃいました。耳にした瞬間ふっと心に入り込むメロディー、しかし、その奥には豊かな世界が拡がっている千住さんの音楽は、そういった広い視野によって支えられているのかもしれません。これからも益々、千住さんの音楽を耳にすることが多くなりそうです。

 さて次回は、今年古希を迎えられてなお精力的に活動されている永遠の若大将 加山雄三さんのご登場です。お楽しみに!

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