第61回 大友直人 氏 指揮者

インタビュー リレーインタビュー

大友直人 氏
大友直人 氏

指揮者

今回の「Musicman’s RELAY」は、放送作家/音楽プロデューサー 木崎 徹さんからのご紹介で、指揮者の大友直人さんのご登場です。桐朋学園大学在学中からNHK交響楽団の指揮研究員となり、22歳で同楽団を指揮してデビュー。以後、数々のオーケストラを指揮され、現在は東京交響楽団 や京都市交響楽団の常任指揮者としてご活躍中です。また、’04年から音楽監督を務められている東京文化会館では、ポピュラーミュージックをテーマにしたコンサートを企画されるなど、ジャンルを越えた企画にも積極的に取り組まれています。そんな大友さんにご自身のキャリアから、普段なかなか知ることができない「指揮者」という仕事について語っていただきました。

プロフィール
大友直人(おおとも・なおと)
指揮者


2004年〜 東京交響楽団  常任指揮者
2001年〜 京都市交響楽団 常任指揮者兼アーティスティック・アドヴァイザー
       (アーティスティック・アドヴァイザーは2004年〜)
2004年〜 東京文化会館 音楽監督

 1958年東京生。桐朋学園大学卒業。指揮を小澤征爾、秋山和慶、尾高忠明、岡部守弘各氏に師事。タングルウッド音楽祭において、A.プレヴィン、L.バーンスタイン、I.マルケヴィッチからも指導を受ける。桐朋学園大学在学中からNHK交響楽団の指揮研究員となり、22歳で同楽団推薦によりNHK交響楽団を指揮してデビュー。ほぼ同時期に東京交響楽団、日本フィルハーモニー交響楽団、新日本フィルハーモニー交響楽団、東京都交響楽団、読売日本交響楽団等に次々に客演。以来今日まで在京オーケストラをはじめ各地のオーケストラの定期演奏会に出演している。
 日本フィルハーモニー交響楽団・正指揮者、大阪フィルハーモニー交響楽団・指揮者、東京交響楽団・正指揮者、京都市交響楽団・首席指揮者を経て、現在、東京交響楽団常任指揮者、京都市交響楽団・常任指揮者兼アーティスティック・アドヴァイザー、東京文化会館・音楽監督を歴任。また、これまでにコロラド交響楽団、インディアナポリス交響楽団、ロイヤル・ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団などへの客演も行ない、欧米での活躍にも大きな期待が寄せられている。

 

    1. 自ら決意した音楽家への道
    2. 作曲家と指揮者の両立を夢見て
    3. 指揮科は潰しがきかない?〜齋藤秀雄氏との出会い
    4. 大学4年で指揮者デビュー
    5. 指揮者とは天涯孤独な職業
    6. 日本の音楽シーンをより活性化させたい〜真の国際化を目指して

 

1. 自ら決意した音楽家への道

--前回ご登場いただいた木崎 徹さんとの出会いのきっかけは何だったのですか?

大友:TBS TVの日曜日の朝に音楽番組がありまして、最新の音楽からオールディーズまで色々な音楽をセレクトして、映像と一緒に紹介する15分番組だったと思うんですが、その司会を私が担当しまして、台本と構成をさんが担当してくださったんです。その当時、私はNHK交響楽団(以下 N響)でクラシックの指揮者としてデビューをしていたんですが、より幅広い音楽の経験を色々してみたいと思っていました。たまたまTBSさんからそういうお話を頂いたので、お受けして、さんとはかなり長くご一緒していました。それが出会ったきっかけです。

--それは何年前のお話ですか?

大友:20年以上前ですね。その後、私は基本的にクラシックのオーケストラの仕事を軸に活動してきたんですが、今から5年くらい前に、あるパーティーで偶然さんと再会したんです。お互いフィールドは違いますが、この20年間に色々な経験をしてきましたから、「また一緒に仕事ができたらいいですね」というようなことを語り合いまして、ここ数年は私の方からさんに色々とお願いしています。

 現在、私は東京文化会館の音楽監督をしていますので、 さんにはクラシックから少し幅を広げた企画などを立てていただいて、今年2月に東京文化会館の主催で「ポピュラーウィーク」というポピュラー音楽のアーティストだけのウィークというのをやり、3月には加山雄三さんとのジョイントコンサートを企画して、そのときにさんには大変お世話になりました。実は東京文化会館はクラシックに限られたホールだったんですが、その垣根を取り払って、これから先もさらに彼と知恵を出し合い、色々なことをやっていきたいと思っています。

--ここからは大友さんご自身のお話を伺いたいと思います。大友さんはご出身が東京ということですが、どのようなご家庭でお育ちになったんですか?

大友:父はビジネスマンだったので、特に音楽や芸術といったものとは関係のない仕事でしたし、母も別に音楽家ではありませんでしたので、特別音楽的な環境ではなかったです。

--では、家の中でクラシックがずっと流れているような環境ではなかったんですか?

大友:クラシックが好きな家庭でしたが、両親が楽器を演奏するというようなことはありません。私は小さい頃からピアノを習っていましたし、そういったお稽古ごとはやっていましたけれど、いわゆる英才教育を受けた子供ではありませんでした。

--お話を伺う前までは、てっきり英才教育を受けられていたのかと思っていました。

大友:私の世代ですと、音楽家として三代目くらいの家があるんです。ですから、そういう意味での芸術家としての血が濃いというのはうらやましいなと思うところもありますけれど、こういう仕事は世襲というわけでもなく、一人一人の能力の問題だと思うので、環境はとても大事だと思いますが、私はそういう意味でのコンプレックスは感じたことがありませんね。

大友直人8

--ということは、大友さんご自身で「音楽の道に進みたい」と決意されたんですね。

大友:そうですね。音楽の道と言いますか、音楽が大好きで、特にオーケストラの作品など好きでしたから作曲家になりたいと思いまして、ずいぶん演奏会にも通いました。それで、高校・大学への進学や先々のことを考えて、「どうしても音楽家になりたい」という気持ちが強く、親を説得して、本格的に勉強することにしたんです。

--説得されたということは、ご両親は音楽の道に進まれることに乗り気ではなかったんですか?

大友:やはり母親は現実的ですから相当悩んでいました。対して父親は結構無責任でしたが(笑)、私にとっては夢のような言葉を言ってくれたんです。それは「芸術家として生計を立てることができれば、それに勝る幸せはない」と。そのあとに「ただし、そんなことができるわけないじゃないか」という言葉が続いたのかもしれませんが(笑)、子供としては良い方にしか受け取らないですから、私は本当に嬉しかったんです。ただ、母親は無責任な発言としか思わなかったでしょうね。

--普通の小学生のように野球だ、サッカーだという感じとは無縁でしたか?

大友:いいえ。小学校の頃はよく遊び、運動も好きでしたし、中学校も本当に音楽学校の受験に取り組むまでは、ごく普通の学生生活でした。本格的に音楽の勉強に邁進したのは高校に入ってからですね。

--桐朋学園へは高校から通われたんですか?

大友:そうです。桐朋学園の音楽科というのは不思議な歴史がありまして、昭和20年代ですけれど教育熱心な音楽の先生方が、終戦直後にこれからの復興を考えたときに、音楽の英才教育によって優れた子供達を育てていきたいと、「子供のための音楽教室」を作られたんです。その子供達が中学生になり、やがて高校生になるというときに、この子供達が十分な音楽教育を受けられる形で高校に進学させられないかということで、私立学校の中で音楽科を併設してくれる学校を探したらしいんですね。そこでたまたま桐朋女子高等学校の校長先生が理解のある方で、桐朋学園に音楽科を併設してもらったというのが、桐朋学園音楽科の始まりなんです。

--あとから音楽科を併設したんですか。

大友:そうなんです。もともとある学校に音楽科を併設してできたのが桐朋学園の音楽科です。その一期生の子供達が大学生になるときに、これも大あわてで作ったのが桐朋学園大学です(笑)。その一期生では小沢征爾さんが有名ですが、そのほかにも今の日本の音楽界を支えているような人材をたくさん輩出しました。

--以前、インタビューにご登場いただいた井上鑑さんも桐朋学園大学のご出身ですよね。

大友:そうですね。井上さんとは残念ながらお会いしたことはないんですが、憧れの先輩の一人ですね。井上さんのお父様は井上頼豊先生と仰って、日本チェロ界の大御所中の大御所なんです。それこそ先ほど申し上げた子供達に音楽の英才教育を受けさせようと、とても熱心に教育活動に関われていた、日本クラシック界のパイオニアの一人です。私も井上頼豊先生の演奏会には何度も行きました。

 桐朋というのは本格的なクラシックの学校ですから、卒業生のほとんどがソリスト志向と言いますか、クラシックの中核を成すところを目指しているんですが、そういう中にあって井上さんは本格的にクラシックの作曲の勉強をなさった上で、在学中から幅広いご活動をされて、大成功されましたよね。寺尾聰さんの『ルビーの指輪』のアレンジなんか本当に秀逸で、素晴らしいと思いました。

 

2. 作曲家と指揮者の両立を夢見て

--桐朋学園高校の音楽科の男女比率はだいたいどのくらいなんですか?

大友:私の学年は男子学生が比較的多かったですが、それでも一学年90人中10人いませんでした。またクラスが細かく分かれますので、男子学生が1人という授業もたくさんありましたね。これは我々の世界では誰でも知っている話ですが、桐朋学園高校の学生証は女子校なんですよ。あくまでも「桐朋女子高等学校音楽科」なんです。でも、男子学生もいますので、括弧書きで「男女共学」と書いてあるんです(笑)。

--女子校の中に男子生徒がいるようなものなんですね。なんだかうらやましい話です(笑)。

大友:中学までは普通の中学に行っていましたから、その当時は女の子が周りにたくさんいて嬉しいなという感じではなくて、何とかそこに馴染んでいかなくてはいけないと必死でした。それで大学を卒業する頃になってやっと「結構いい環境にいたんだな・・・」と考えるんです(笑)。

--高校時代はどのような学校生活を送られていたんですか?

大友:桐朋という学校は今でも大変好きな学校で、母校愛みたいなものは強いですけれど、もともとが英才教育から始まった学校で、自由な校風と言いますか、日本的な上下関係があまりないような学校でした。

 面白いのは高校に入学しますと、教室に灰皿が置いてあるんです。なぜかと申しますと、校舎がとても小さい学校で、高校と大学が教室を共有しているんですね。今の時代はどうか分かりませんが、大学生は結構たばこを吸いますから、共有する教室にはすでに灰皿が置かれていました。ですから、高校に入ったときから大学生の生活と同じような感じでした。授業のコマ割りも大学のカリキュラムと同じで、先生も共通ですしね。

--先生も一緒なんですか?

大友:基本的に同じです。もちろん数学や英語といった科目は高校専属の先生がいらっしゃるんですが、音楽の授業は先生が一緒ですから、高校と大学の境目がないんです。しかも学校の規模自体が非常に小さいですから、先輩、同級生、後輩のつながりが非常に強いです。ですから、桐朋学園の出身者はみな親近感を持っていると思います。

 ただ、個人的には社会に出てからはいわゆる学閥みたいなものが非常に嫌いで、なるべくそういうものがない世界にしたいと思いますし、仕事の中ではなるべく気にかけないようにしています。音楽の場合、卒業免状や出身校はほとんどあてにならないと言いますか、音楽家は音を出してこそですから、極端なことを言えば、学歴はいらないわけです。良い音楽を作ることができれば、どこの学校を出ていようが、国籍がどこであろうが、年齢がいくつであろうが、全く関係ないのが音楽の社会ですし、そこが音楽の素晴らしさだと思います。

--そもそも色々な音楽学校がある中でなぜ桐朋を選ばれたんですか?

大友:小沢征爾さんや昨年亡くなられた岩城宏之さんをはじめ、素晴らしい指揮者の方々が何人もいらっしゃるわけですが、私もそういった方々のように世界を股にかけて仕事ができるような指揮者になりたいというあこがれを持っていました。実は日本のほとんどの指揮者を育てられたのが齋藤秀雄先生で、その齋藤先生がお作りになった、そして教えていらしたのが桐朋学園なんです。それで齋藤先生にどうしても教わりたいという気持ちで、桐朋学園に入りました。

--では、もうその頃には指揮者を目指されていたんですね。

大友:そうですね。先ほど作曲をやりたかったと申し上げましたが、一番の理想は自分が書いた曲を自分で指揮して、オーケストラで演奏することなんです。でも、色々調べてみますと、大昔はモーツァルトやベートーベン、ブラームス、マーラーといった作曲家はみんな自分で作った曲は自分で演奏していたんですが、近年になればなるほど、作曲もして指揮もして成功をおさめた人が少ないんですね。

--それは分業が進んだということですか?

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大友:そうですね。マーラーの時代くらいから職業音楽家のビジネスが急速に発展してきて、フルタイムで一年中演奏するオーケストラが出てくる。作曲家も次から次へと作曲をしていく。そういった分業化が進んで、オーケストラに関してはプロフェッショナルな指揮者が常に演奏会を作っていくということで、指揮者という仕事自体はここ150年くらいで確立されたものなんです。

 指揮者と作曲家の両立という点で、我々に一番近い世代でそれを実現させていたのがレナード・バーンスタインなんですが、基本的な仕事は指揮者なんです。私もバーンスタインのように日頃はオーケストラの指揮者として活動しながら、その合間に作曲をして、そして自分の作品も発表することができたら最高だなと思っていました。実は現場から離れて作曲だけしていることによって、自分の作品を演奏する機会がないという作曲家が多いんです。逆に自分が演奏の現場に立っていれば、ひょっとしたら自分の作品も合間に演奏できるかもしれないと子供の頃に思いまして、まず指揮者になろうと考えたんです。

--とても深い部分まで考えていらっしゃったんですね。

大友:ですから、指揮の勉強とともに作曲の勉強もずいぶんしたんですが、どうも作曲家になるほど自分の頭は緻密でもないし、才能も溢れていませんでしたので、まずは指揮者の道を極めて、時間の余裕があったら・・・と思っていたんです。ただ、この年になっても実現できていませんから、もう作曲家になることはないと思います(笑)。

 

3. 指揮科は潰しがきかない?〜齋藤秀雄氏との出会い

--桐朋学園には指揮者としての学科があるんですか?

大友:ええ。世界中の音楽学校を見ますと、指揮科という学科がある学校の方が少ないんです。日本の音楽学校だと指揮科がある学校で有名なのは桐朋学園と東京芸大ですが、国立音大のように歴史のある学校にも指揮科はないんですね。

 これは私の仕事にも大きく関わる複雑な話なんですが、指揮の仕事というのは一口で説明するのがなかなか難しい仕事だと思います。私も指揮者を志して勉強し、デビューして25年以上になりますけれど、それでも指揮者を育成するのにどういう勉強法がふさわしいか、ということに関する回答は自分の中でも出せていないんです。色々お誘いは頂くんですが、教育活動に従事していないのはそういう理由があるんです。この仕事をどうやって若い人たちに伝えていったらいいのか、継承していったらいいのかということは、本当に難しいと思います。

--それはメソッドが確立されていないということですか?

大友:それは確立されているとも、確立されていないとも言えるんですね。先ほどお話した齋藤秀雄先生は、もともと井上頼豊先生と同じく日本の誇るチェロ界のパイオニアだったんですね。また、チェロの教師としても大変有名な先生で、日本の名だたるチェリストを多く育てられた方でもあります。この齋藤先生はN響の前身、新交響楽団のチェロ・セクションの主席奏者で、オーケストラ・プレイヤーですから指揮者を見ながら演奏されるわけですね。

 第二次世界大戦に突入する過程で、日本に一時期、今では考えられないほどユダヤ系の素晴らしい音楽家が滞在していた時期があるんですが、その中にヨーゼフ・ローゼンシュトックという大変優秀な指揮者が、新交響楽団の常任指揮者として赴任してきたんです。この方が大変素晴らしい指揮者で、齋藤先生はチェロを弾きながら非常に感銘を受けて、チェロと同時にその指揮者に指揮法を教わるんですね。

 齋藤先生は指揮の勉強をもの凄く分析的かつ緻密に勉強なさって、『指揮法教程』というメソッドを書かれたんです。これは世界的にも有名な指揮のメソッド本で、賛否両論ありますが、私は素晴らしいメソッドだと思っています。そして教育者として取り組まれた最初の成果が、小沢征爾さんや岩城宏之さん、秋山和慶さんだったんですね。そういうわけで、指揮者の教育者としても大変功績のあった先生なんです。

--大友さんは齋藤先生のメソッドにならって勉強されたわけですね。

大友:そうです。実は私が中学二年の時に母親と一緒に齋藤先生の門を叩いて、「指揮者になりたい」と相談させていただいたことがあったんですね。今でもよく憶えているんですが、齋藤先生がまず自慢話をされたんです。それは教え子の小沢征爾さんがちょうどアメリカの名門ボストン交響楽団の音楽監督に就任されたときなんです。そのことに先生はもの凄く喜んでらっしゃって、恥ずかしそうにですけど新聞の切り抜きを私の母親に見せたんですね。私は「こんなに偉い先生でも自慢話をするんだな」と思いました(笑)。

--とても素直な感想ですね(笑)。

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大友:その時、指揮者への思いもあったのですが、同時に弦楽器を何とかマスターしてみたいと思っていました。ただ、中学生から弦楽器を始めてマスターできる楽器は限られているんです。ヴァイオリンは3歳くらいから始めないといけないですし、チェロでも10歳くらいから本格的にやらないとなかなか難しい。そんな中で中学生から始めてマスターできる弦楽器はコントラバスだという話を聞きまして、本格的に習ってみたいと思いました。

 つまり、オーケストラの中でコントラバスを弾きながら、指揮の勉強をするのがいいかなと中学生なりに考えていたんです。それで齋藤先生にその考えを話したら、「それは一番良い考えだから、コントラバスをやりなさい」と仰って、母親には「楽器をちゃんと買ってあげてください。先生は私が見つけますから」と仰ってくれました。

 齋藤先生は「桐朋学園の指揮科を作って20年以上経つんですが、近頃は指揮科を卒業しても仕事がない卒業生がちらほら出てきて、困っているんです」と仰いました。この言葉は凄く印象に残っているんですが、「指揮科ほど潰しがきかない科はない」と(笑)。だから楽器で一本立ちできるようにしなさいと言われました。「一生コントラバス奏者として音楽家になるという気持ちでいなさい。そのかわり指揮は私が十分教えますから、その心配はしないでください」と。

--それは大変現実的なアドバイスですね。

大友:私は今でもそれは正解だと思っているんです。まさに先生が仰った指揮科を出ても潰しがきかないというのは本当にそうだと思います。私は今かろうじて指揮者の仕事をしていますが、指揮者を志望している若い人たちに「君は指揮者になれるぞ」と実は誰も言えないです。

 指揮者ほど抽象的な仕事もなくて、若い人を教えるのは大変難しいです。もちろん色々な決まりはありますし、分かりやすい話からすれば、譜面が読めること、音を聞き分けられることなど能力的なことはとても大事ですが、指揮者はオーケストラという人間集団が仕事場ですから、そういうことに全く不向きな人にはやはりできないでしょうね。

--あくまでも人を相手にするお仕事なんですね。

大友:得手不得手はありますが、それこそ教えようがないことなんです。ですから、学校の指揮科で教えられることには限りがあるんです。実際に指揮の仕事というのは、学校では教えられない部分の方が多いかもしれないです。

 例えるならば、指揮者は野球監督と近い部分があると思います。野球の監督も選手の経験が全くないというのはあり得ないと思うんです。齋藤先生が「楽器を弾けるようにしておきなさい」と仰っていたのと同じことで、自分が野球選手としてグラウンドに立つ、プレーをするという経験がまずないといけない。しかし、名選手がみんな名監督になれるかというとそういうわけではないですよね。逆に名監督がみんなスタープレイヤーであったかというと、そうでもない。選手時代は知る人ぞ知る存在だったけど、名監督になっている人というのはいるんですね。この辺は指揮者と似ていると思います。

--でも監督として良い成績を出しても、「華やかさがない」「つまらない」といったような理由で解雇されてしまうところなんかも、音楽の世界と似ていますよね。

大友:そうですね。私は教育に対して非常に興味がありますし、後輩を育てていくことも大事な年齢にもなっています。それは若い頃からずっと考えてきたことなんですが、一方でどうしたらいいのか分からない部分もたくさんありますね。

--ちなみに現在、日本で指揮だけを生業にしていらっしゃる方は何人くらいいらっしゃるんですか?

大友:見方にもよると思うんですが、日本のメジャーオーケストラで指揮をしている指揮者というのはせいぜい4〜50人くらいじゃないでしょうか。というのは、日本にプロフィッショナルのオーケストラというのが、北海道から沖縄までで24〜5しかない。そのなかで私のように兼任している人が何人かいますので、そうなるとオーケストラで常任でやっている人の数は10人くらいしかいないんです。

--たったの10人ですか・・・それは少ないですね。

大友:あとはゲストだったり、合唱だったり、そういう意味では指揮者の需要もありますし、世界は広いですから、世界に目を向ければ少し変わっていくとは思いますけどね。

 

4. 大学4年で指揮者デビュー

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--大友さんのデビューのきっかけは何だったんですか?

大友:私は桐朋学園でコントラバスを勉強しまして、同時に指揮も勉強して、楽しく学生生活を送っていたんですが、学校内の試験やオーディションを色々受けていたんです。そういうことが当時の学長で、作曲家である三善晃さんの目にどうやら留まっていたらしく、ある日突然私の家に三善さんからお電話を頂きまして、「3日後に迫った私の作品の演奏会で、急遽指揮者が必要になったんですが、大友さんやってくださらないか?」とお願いされたんです。

--学長直々のお願いですか! それは凄いですね。

大友:当時私は大学一年でしたが、学長から直接電話がかかってきたものですから、「これは大変なことになった・・・」と思いました(笑)。それで三善さんのご自宅にすぐに譜面を取りに行って、一夜漬けで勉強をし、翌日のリハーサルに臨みました。そのリハーサルに行ってみたら、当時のN響のメンバーがずらっと揃っていて驚いたんですが、もうやるしかないので一生懸命やりました。そうしたらN響のメンバーの方々が「よくやっている」と仰ってくれて、「指揮者は現場で経験を積んだ方が良いから、アシスタントになって勉強しなさい」と色々世話をしてくれまして、大学2年の終わりにN響の指揮研究生という学生契約で、学校に行きながら入団してしまったんです。

--そういう人は何人くらいいるんですか?

大友:私の時は一人でした。それで学校に行きながら、時間があるときはN響のリハーサルを見学したり、スタジオの仕事を少しずつ手伝っていました。そして、大学4年の1月に当時N響が「若い芽のコンサート」という新人を紹介する演奏会をやっていまして、そこにメンバーが推薦してくれて、正式にデビューさせていただきました。ですから、私はそういう意味で本当に幸運だったと思います。普通は指揮者がデビューするのはなかなか大変で、色々なコンクールを受けたりするんですね。

--我々も「指揮者の方はどうやってデビューするんだろう?」と思っていたんです。

大友:私の場合はコンクールを受けたり、人と競い合って何か獲得する経験をする前に引っ張り上げてくれる恩人のような方々が現れて、レールを引いてくださったので、非常に幸運なデビューでした。

--でも、それはN響の方々が大友さんに光るものを感じられたからこそなんじゃないでしょうか。

大友:どうなんでしょうね。

--指揮者を志されて、わずか7年でデビューされているのは凄いですよね。こんなに若いデビューの指揮者は他にいらっしゃるんですか?

大友:少ない方だと思います。ただ、デビューが早いことがいいことなのかというのは、今の私にも答えが出ないです。私は私なりにかなり強い意志で色々な仕事を続けてきましたが、客観的に指揮者という仕事を見た場合にはデビューが早いか遅いかというのは、それほど重要なことではないと思います。

 歴史上も、今現在もそうですが、素晴らしい指揮者の中には指揮者としてのキャリアを始めたのが50歳を過ぎてからとか、40歳を過ぎてからの人も大勢います。つまり、指揮者という仕事は50歳、60歳から始めても、その人に力があればできる仕事であるということは確かです。もちろんそこまでの色々な経験や積み重ねが必要なんですが。ですから指揮者は早いデビューが大きな成功に結びつくかどうかは難しいところですね。

 何故かと申しますと、指揮者は色々な意味で経験が必要な仕事なんです。もちろん才能や色々な意味でのエネルギーは必要ですから、若くて大きい才能があるというのは大事なことですが、経験を積めば積むほど良い仕事であることも確かです。

--ということはデビューされて25年経つ大友さんは、これからますます熟成される年代に入って行かれるわけですね。

大友:そうですね。あとは真面目に続けるかどうかですね(笑)。大事なのはそこだと思います。

 

5. 指揮者とは天涯孤独な職業

--なかなか指揮者の方にお話を伺う機会がありませんから、指揮者の人は普段どういった生活をしているのか大変興味深いんですよ。

大友:仕事に追われる日々で、孤独に一人で勉強している時間が長いです。リハーサルには自分の中でできあがっている状態で臨まないといけないんですが、その仕込みというのは自分でするしかないんです。ですから、リハーサルから帰ってきて、次のリハーサルに出かけるまでのプライベートな時間が勉強する時間になります。そういう意味では指揮者はみな時間と格闘していると思います。また、現場に行くと決められた時間内で曲を仕上げないといけませんから、そのプレッシャーは大変なものがあります。

--そうなると普通の職業のようにONとOFFの切り替えがあるような仕事じゃないですね。

大友:全くないですね(笑)。いわゆる仕事の時間が終わったところからが一番辛いと申しますか(笑)、一番大変な時間ですね。

--大友さんはその中でどのように切り替えられているんですか?

大友:長い休みもとれないですから、仕事の合間で気分転換をするように心がけています。仕事場への行き帰りの車の中では全然違う音楽を聴いていたりとか、そういったことが重要ですね。

--精神的に決して楽な職業ではないですね・・・。

大友:本当にゆとりのない生活で、絶えず時間に追われています。未だに学校に行っているようなもので、明日までの宿題が終わらないとか、そんな感じですね。我々は時間との勝負という部分があって、例えば、スタジオですと時間の制約はありますけれど、状況によって延長したり、翌日に繰り越したりできるかもしれませんが、オーケストラは100人の所帯でリハーサルしますから、時間というものに対してもの凄く厳格なんです。1分も伸ばすことはできないという世界ですから、とてもシビアですね。

--すべてライブですからね。

大友:こんなにコスト・パフォーマンスの悪い仕事もないです(笑)。東京交響楽団は年間170公演ぐらいしておりますが、同じプログラムを最大繰り返しても3回までで、ほとんどの演奏会が1回で終わりですから、2日間リハーサルして1日公演をやって、翌日には別のプログラムに取りかかるわけです。オーケストラ間の競争も激しいですし、そう考えると非常に過酷な仕事だと思います。

 おそらく、我々音楽家はどんなに辛くても貧乏してでも音楽家になりたいと思った人たちばかりなんでしょうね。ですから、根本的なところでそういうことに対する覚悟はおそらくみんなできているんですね。要するに金持ちになりたいとか、社会的成功を収めたいと思って音楽家になる人はほとんどいないのではないでしょうか。だからやり通すことができるんだと思います。

 以前、東京交響楽団がベースとしているミューズ川崎というコンサートホールができたときに、メンバーたちに色々アンケートを採ったんですが、そこに「もう一回生まれ変わったら何になりたいですか?」という質問がありまして、ほとんどのメンバーが「音楽家」と答えていて、それを見たときに大変感動しました。

--確かにまた生まれ変わっても同じ仕事をしたいと思えるのは素晴らしいことですよね。でも、指揮者の仕事の現状を伺うとやはり厳しい仕事だなとも感じます。

大友:これは若い頃に色々な先生方から言われましたが、指揮者は天涯孤独なんです(笑)。演奏会はオーケストラと力を合わせて作り上げていきますが、反面、天敵みたいな部分もあります。それは若い頃から分かりきったことなんですが、指揮者とオーケストラとの関係はまさに1対100の闘いなんですね。私も学生の頃オーケストラの立場にいたときもありましたが、喜びもストレスもぶつける人は指揮者しかいないんですよ。

--指揮者はそういった様々な感情を100人分受け止めなければいけないわけですか・・・。

大友:オーケストラにとっては目の前に立っている人間が最大の関心事だったりするわけですね。これが来る日も来る日も変わらないわけですから、そうなってくると色々な状況が生まれてきます。そういうものを全部受け止めて、そしてまとめていくというのは不思議な仕事だなと思います。

 昔、N響のコンサートマスターだった徳永二男さんが「オーケストラのプレイヤーなんて単純なんだ。この人のためについて行こうと思ったら、みんな死ぬまでついて行くという気分になるんだ」と仰っていましたが、みんながついていこうと思える対象の指揮者になるためには、少なくとも60歳を越え、酸いも甘いも全部知り尽くして本当に立派なキャリアを築かなくてはならないのかもしれませんし、そういう音楽家が目の前に立ったときに、初めてプレイヤーは「この人についていこう、この人のために弾こう」と思うのかもしれません。

--オーケストラには様々な年齢の方がいますしね。

大友: そうですね。オーケストラは不思議な職場で、20代の若手のプレイヤーから60歳を過ぎたプレイヤーまでが、同じ仕事場で同じ仕事をしているんです。他の職場だとキャリアのある人は管理職になったり、マネージャーになったり色々な立場に変わりますが、オーケストラはみんな対等で同じところにいるんですね。そうするといくら才能があるとはいえデビューしたばかりの若い人が指揮をしても、60歳近いキャリアを積んできた人々が「この人のために死ぬまでついて行こう」という気持ちになるかどうかですよね(笑)。「温かく見守ってやろう」という人はいるかもしれませんが、徳永さんが仰ったような意味での指揮者になるためには、それにふさわしい年輪、経験といったものが必要になってくるので、指揮者という仕事は良い年輪を重ねることが大事なんでしょう。

--若さが失われることによって通用しなくなる職業が多い中、良いワインのように熟成されることがよしとされる指揮者という職業は珍しい仕事ですよね。

大友:そうかもしれませんね。でも、歳をとることによる肉体の衰えは避けられませんから、続けていくのは大変なことだと思います。

--でも、先ほどお名前のあがった岩城宏之さんも亡くなられる直前まで指揮されていましたものね。

大友:本当に信じられないですね。私も最近目が悪くなってしまいまして、メガネが手放せなくなってしまったんですが、若い頃は視力が落ちて譜面が見えなくなるなんて想像もしていなかったわけです。今後、自分が70歳、80歳になってステージの上で小さい楽譜を見たり、憶えたりして、やっていられるかどうか・・・と考えるときがあるんですが、みなさんやってらっしゃるわけで、それは本当に凄いことだなと思いますね。

 

6. 日本の音楽シーンをより活性化させたい〜真の国際化を目指して

--大友さんは一貫して日本を活動のベースにされていますね。

大友:幸運にも早くデビューして、その後色々な経験して、「海外でも勉強してみようかな?」とアメリカやヨーロッパにもずいぶん行ったんですね。そのときに何とも複雑な思いを日本という国と日本の音楽界に対して思ったんです。というのは、私がデビューした頃(’81年)、すでに日本の音楽界はもの凄く活況を呈していたんです。どれぐらい活況を呈しているかというとオーケストラだけでも東京に9つありました。まだサントリー・ホール、オーチャード・ホールはできていませんでしたが、その9つのオーケストラが年間百数十回演奏をしているんです。また、その当時からひっきりなしにウィーン・フィルやベルリン・フィル、ニューヨーク・フィルなどが来日しているわけです。そして、その式台に立っているのはカラヤンやバーンスタイン、小沢征爾さんに岩城宏之さんと世界中のあらゆる指揮者が立っている。そういう意味で東京は凄い音楽都市で、今現在では間違いなく世界一のクラシック都市なんですよ。

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--東京はクラシックの都だったんですね。

大友:本当にそうなんです。昨日も知人から「今度の大友の演奏会には行けない」と言われまして、理由を聞くとその日はウィーン・フィルとニューヨーク・フィルが東京で同時に演奏会をやっているんです。それに東京の8つのオーケストラも演奏会をするわけで、それが今の東京の現状なんです。こんな街は世界中探しても他にはないんですね。

 そういう街、そういう国であるにもかかわらず、自分が学生として外国に行くと、向こうの人は誰もその状況を知らないんですね。「日本にオーケストラなんてあるの?」というような感覚の先生や学生が一杯いるんです。自分はこのギャップがどうしても理解できないというか、非常に複雑な思いになりました。「オーケストラあるの?」と聞かれて、「実はそんなもんじゃないんだけどな・・・ニューヨークよりもたくさんのオーケストラが来ているのが、東京なんだよね」と心の中で思いながらも、そういう扱いはされないわけです。

--言葉は大変悪いですがバカにされてしまう?

大友:極端に言うとそうですね。そういう扱いをされたときに「これはおかしいぞ」と強く思いました。やはり、日本が今持っているステータス、クオリティにふさわしい認識というものを世界のミュージックシーンで確立していくこと、それと同時に世界の中の音楽都市として、「東京は演奏会は多いけど、中身はひどいから」と言われるのではなく、ニューヨークや、ロンドン、パリと比較しても東京のミュージック・シーンは凄いんだと世界中の音楽家、音楽ファンに認識してもらう必要性があると強く感じたんです。

 ですから、日本、東京にはすでにこれだけの力があり、これだけのことができるという世界をしっかりと作り上げてから、外国と対等な立場でヨーロッパ、アメリカに出て行きたいと思いました。ただ、このような考え方は我々の世代やもっと若い指揮者の中でもレアなケースで、みんな基本的には外国志向なんです。外国でキャリアを積んで、いいポジションを取って、ということが凄くステータスになりますから、そのステータスを追いかけるんですね。

--演奏家もそうですよね。色々なコンクールに出たり。

大友:そうですね。でも、私はあえてそういう流れに逆らって、日本をベースに日本の音楽界を作っていきたいと思いました。今日本でやっている音楽家と一緒になってシーンというものを活性化させていくことにエネルギーを注ぎ、シーンをきちんと確立すれば、それこそが真の国際化になると今でも信じています。

--大友さんにとって今後の目標はなんでしょうか?

大友:私は長年、東京交響楽団と京都市交響楽団の指揮者としてチームを作っています。また、沖縄に琉球交響楽団というオーケストラを立ち上げまして、このオーケストラもアドバイザーとして深く関わっています。ですから、各オーケストラのクオリティを一層上げて、活動をより活性化させていきたいです。また、10年ぐらいのスパンで見ていただければ、オーケストラのメンバーを日本人だけではなく、あらゆる国から優秀な人材を募ることによって、よりバラエティーに富んだ国際的なチームにしていきたいと思います。それから、若い頃から培った自分なりの経験をもう少し生かして、クラシックのみならず、もう少し広い意味での音楽の発信をしてみたいとも思っています。

--「広い意味での音楽」とは具体的にどのようなものですか?

大友:クラシック音楽というのは100年前、200年前の作曲家が残した作品が基本的なレパートリーで、それはそれでとてもやりがいのある素晴らしい世界なんですが、もっと面白いのは今現在自分たちで作り出したものが社会の中で受け入れられる、あるいはリアクションがあるということで、これが一番エキサイティングであり、やりがいのあることなんです。その辺の活動がわれわれの世界は少し滞ってしまっていると感じています。

 第二次世界大戦後、全世界的にクラシックの世界は前衛音楽と言いますか、実験的な音楽に傾いた時期がありました。いわゆる現代音楽と呼ばれるものです。その世界もそれなりに面白かったのですが、一般聴衆が求めている音楽から少し乖離してしまった時代が長く続きました。今はその揺り戻しが少しずつ起きていて、宮川彬良さんや服部隆之さん、そして千住明さんのようにアカデミックなお仕事をしながらも、自分たちの新しい世界を作りたいと模索している人たちがずいぶん増え、そういった方々のこれからの仕事も大変興味がありますが、私も演奏家の立場から日本全体のミュージックシーンで、もう少し大きな活力を生み出せないかなと日頃から強く思っています。

--逆にクラシックの世界からポピュラーミュージックの世界に対して何か望むことなどございますか?

大友:普段は違うフィールドで活動しているミュージシャンの方々とも一緒にお仕事できるのであれば、徹底的に音の質、音楽の質にこだわった仕事を是非してみたいと思うんです。ただ一緒に演奏するような試みは過去にも数え切れないほどされていますし、そういうことはあまり意味がないと思います。ですから、一緒にコラボレーションして作るときに「これ以上のものは作れない」という音楽的に内容のある音作りをすることは、私にとっても一番興味深いことですし、相手のアーティストの方もそうだと思います。

--具体的にこの人とやってみたいという方はいらっしゃいますか?

大友:ここで具体的にお名前を出すのはどうかと思うんですが、例えば、この間木崎さんと一緒にやった加山雄三さんのコンサートでは、改めて加山さんの才能に敬服しました。

--それは作曲家としての加山さんですか?

大友:作曲家、シンガー、そしてエンターテイナーとして、加山さんは本当に才能がある方です。加山さんとは機会があればまたご一緒させていただきたいと心から思います。

大友直人10

--我々も若大将で育った世代ですからね。

大友:本当にそうですね。やはり加山さんは格好いいですよ。このコンサートの時のさだまさしさんも谷村新司さんもそうでしたけれど、第一線で活動し続けている人たちの底力は凄いものがあります。さださんでも谷村さんでも、あの頭の良さ、勘の良さには驚かされます。この前のコンサートは新しいオーケストレーションで、普段お歌いになっているサウンドと違っているはずなんですが、まず1回リハーサルして2回目の時にはもう完璧ですからね。加山さんも含めて、素晴らしいの一言ですね。並の人たちではないですし、私としても非常にやりがいのある仕事でしたね。

--そういう方々とのお仕事は刺激的でしょうね。

大友:本当に刺激的でした。こういったチャレンジは何度でもしてみたいと思っていますので、そういう趣向のある方は是非声をかけていただきたいですし、私自身もそういうアーティストを捜してみたいなと思っています。

--本日はお忙しい中ありがとうございました。m.gif

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

 まったくクラシックの世界には疎い我々の質問に対しても、丁寧に答えってくださった大友さんは、大変気さくで物腰の柔らかい方でしたが、その発言の一つ一つからは力強い信念と音楽に対する強い愛情を感じました。お話の中で一番驚いたのが、東京で開かれているクラシックの演奏会の多さです。一晩にだいたい20公演、12月ともなると30公演以上開かれているとは・・・。これからはクラシックのコンサートにもっと足を運んでみてはいかがでしょうか?

 さて次回は、作曲家の千住明さんのご登場です。お楽しみに!

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