【前半】身体を突き動かす「格好良い音」を追い求めて 日本屈指のマスタリング / カッティング・エンジニア 小鐵 徹(JVCマスタリングセンター)インタビュー

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小鐵 徹 氏
小鐵 徹 氏

「日本のマスタリングの父」と呼ばれ、72才の現在も日本屈指のマスタリング・エンジニア/カッティング・エンジニアとして大活躍されている小鐵 徹さん。CDやアナログレコードのクレジットでその名前を見ている人も多いはずだ。もはやブランドとも言える「小鐵 徹」の刻印は、良い音の保証マークである。今回は巨匠・小鐵 徹さんにご自身のキャリアからマスタリング/カッティングに対する信念までじっくり伺った。

 

(インタビュー・山浦正彦、文・Kenji Naganawa)
2015年11月30日 掲載

 

就職は音響機器メーカー以外、眼中になかった

——「日本のマスタリングの父」と呼ばれている小鐵さんですが、何年のお生まれですか?

小鐵:1943年(昭和18年)生まれです。昭和16年に第二次世界大戦が始まって、20年に終わったわけですから、ちょうどその真ん中ですね。だから戦中派に属するんでしょうけど、赤ちゃんでしたからね(笑)。

——ご出身はどちらですか?

小鐵:岡山県です。父も母も実家は農家でした。当時は「産めよ、増やせよ」の時代ですから、両方とも兄弟が8人とか9人とかいました。で、父は旧国鉄の職員で、私の兄弟は2人でした。正式には3人だったんだけど、僕のすぐ下の弟が事故で亡くなってしまったんです。まだ小さい時に。3〜4歳だったかな。その下の弟が、92歳の母親と岡山の実家に住んでいます。父はもう亡くなってしまいました。

——小鐵さんの音楽との出会いはいつ頃ですか?

小鐵:中学時代ですね。当時はまだFMもなくてAMだけでしたが、NHK第一と第二があって、第二が教育関係で、その第二で夜11時から『ジャズクラブ』という番組をやっていたんです。色んな評論家が出るんですが、特に油井正一さんや小島正雄さんが好きでした。そういう人たちの解説で、ジャズの色々なジャンルを知りました。

——いきなりジャズだったんですか?

小鐵:最初はブラスバンドでした。行進曲、マーチですね。初めて買ったレコードもマーチのアルバムでした。

——学校にブラスバンド部があった?

小鐵:そうではなくて、ただブラスバンドや行進曲が好きで(笑)。それからジャズの歴史を辿るんです。デキシーランド・ジャズが好きになって、それから基本的にはビッグバンドが好きなんですが、コンボも聴くようになって。大体そういう流れでしたね。

当時、箱型の「7球スーパーヘテロダイン」っていうのが最高のラジオだったんですよ。「7球」ってのは、真空管が7つ入っているという意味です。そのラジオで聴くんですけど、夜の11時からでしょう? 母親に叱られるわけですよ。「夜そんなのをかけたら、隣近所に迷惑だから」と。だから枕元にラジオを持ってきて、音が漏れないように布団をかぶって(笑)、一生懸命聴いていましたね。当時は三度の飯より音楽が好きで、食事のときも隣の部屋でレコードかけて、ご飯を食べたりしていました。

——音楽に夢中だったんですね。

小鐵:音楽がすごく好きだと、そのうちオーディオにも興味を持つようになるじゃないですか? それで大学を卒業して就職となったときにビクター、コロムビア、パイオニア、ソニーなど音響機器メーカー以外は眼中になかったです。

就職のときに、父親は子供が可愛いから「何とか自分のコネで少しでも良いところに」みたいな気持ちがあるじゃないですか? でも、僕はツテやコネを使うのは嫌いだったし、親父の薦める会社も好きじゃなかった(笑)。そうしたら親父が怒っちゃって「もうお前のことは知らん!」と。勘当ではないですが、それ以降、弟ばかり可愛がるようになりましたね(笑)。

——(笑)。ではご自身の力で就職されたわけですね。

小鐵:そうですね。当時は今ほどではないですが、年によっては結構な就職難だったりしたんですよ。僕が卒業した年も、たまたま就職難で1年前ならコロムビアでも、ビクターでも、ソニーでも、どこでも良いですよって状態だったらしいんですが、ダメで。結局、一番最初に入ったのはオーディオテクニカで、2年弱いました。

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