海外の音楽業界事情を引き出しとして持とう 高橋裕二氏インタビュー

インタビュー フォーカス

高橋裕二氏
高橋裕二氏

学生時代にはラジオの洋楽番組DJとして活躍、CBSソニー(現 ソニー・ミュージックエンタテインメント)入社後は、名物ディレクターとして、海外で話題のアーティストのみならず、日本独自の洋楽ヒットを生みだし、洋楽シーンを牽引した高橋裕二さん。その後もポリドール(現ユニバーサルミュージック)、ポニーキャニオンで要職を務められ、現在はご自身のブログ「洋楽天国」を通じて、世界各国の音楽業界事情を紹介されている。ご自身の豊富な経験を元にした切れ味鋭い記事、毎日更新による情報鮮度の高さなど、読み応え十分の「洋楽天国」をMusicman-NETでも紹介し始めて1年。今回はその「洋楽天国」を書いている高橋さんとは一体どんな方なのか? との質問に応えるべく、ご自身のキャリアから、アメリカの音楽事情までお話を伺いました。

[2012年6月15日 / 世田谷区代田 エフ・ビー・コミュニケーションズ(株)にて]

PROFILE
高橋 裕二(たかはし・ゆうじ)


1947年 新潟県生まれ
1970年 秋田大学鉱山学部卒業
1970年 CBSソニー(現ソニーミュージック・エンタテインメント)入社 洋楽の制作・宣伝担当。
     チェイス、アルバート・ハモンド、スリー・ディグリーズ、バーティー・ヒギンズ、ジェフ・ベック、ビリー・ジョエル等を担当。
1985年 CBSソニー大阪営業所長
1987年 EPICソニー洋楽部長 マイケル・ジャクソン等の宣伝を担当。
1988年 EPICソニー邦楽宣伝部長 佐野元春、渡辺美里、ドリームズ・カム・トゥルー等の宣伝担当。
1993年 ソニーコンピュータ・エンタテインメント取締役業務部長 プレイステーションのサード・パーティー、ナムコ、バンダイ、コナミ、スクウエア、エニックス等の獲得業務。
1996年 ユニバーサル・ミュージック宣伝担当取締役。 GLAY,山崎まさよし等の宣伝担当
1999年 洋楽インディーズ・レーベル、ネットワーク・レコード設立。
2002年 ドリーミュージック取締役就任。 柴田淳等の宣伝担当。
2003年 ポニーキャニオン洋楽部長 ボーイズⅡメン、サラ・コナー等を担当
2005年 ポニーキャニオン取締役
2008年 ポニーキャニオン取締役退任

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1.

——高橋さんのブログ「洋楽天国」をMusicman-NETでご紹介させていただいていますが、今回は高橋さんと洋楽との出会いから、ご経歴を含めてお話を伺えればと思っています。

高橋:’47年生まれで、出身は新潟の小千谷市です。洋楽は中学校の頃から聴き始めました。新潟放送を聴いていたんですが、当時は洋楽なんてほとんどかからない。それで夜の9時とか10時になると、かろうじて東京の放送局が入るので、そこで洋楽を聴いていました。それで高校に進学するとクラスに3人くらい洋楽好きがいて、前の晩に聴いたラジオのチャートで、電波が悪くて聴けなかった部分を情報交換していました。

——どのようなきっかけで洋楽に興味を持たれたんですか?

高橋:当時、まわりの友達は邦楽しか聴いていなかったんですよ。田舎でしたし、テレビでは邦楽しかやってなかったですからね。でも、私は当時のいわゆる歌謡曲みたいなものが好きではなくて、ジェリー藤尾や坂本九を聴いていたんですが、あるとき、それは本人たちの曲ではなくて、カバーだという事実を知ったんですよ。それで「カバーならオリジナルの方がいいに決まっている」と思って、洋楽を聴き始めたんです。

——歌謡曲が体質的に合わなかったんですか?

高橋:嫌いですね。あと、高校2年のときに「9500万人のポピュラー・リクエスト」でビートルズを聴いたのが大きかったですね。パーソナリティの小島正雄さんが「今イギリスで大変なことになっている」と。プレスリーなんかは、私よりちょっと上の世代がリアルタイムなんですよ。私たちの世代はコニー・フランシスとかで、ビートルズはそれまで全然聴いたことない音楽でした。

——高校卒業後は大学に進まれたんですか?

高橋:ええ。秋田大学の鉱山学部採鉱学科に入ったんですよ。

——そりゃまた、なぜ鉱山学部に入られたんですか?

高橋:元々天文が好きで、家には親に買ってもらった天体望遠鏡もあったくらいなんですが、天文学って、当時は東大と京大と北海道大学にしか学科がなかったんですよ。そこに行くのは100%無理ですからね。昔の地学の教科書は、天文と地学なわけですよ。それで「天がダメなら地でもまあいいかな」とものすごく安易に決めました。早稲田にも教育学部地学科という学科はあって、試験がものすごく簡単だったから受かったんですが、秋田大学の方が国立で授業料がすごく安かったので、秋田大学に行ったんです。

それで秋田に行くと、青森県の三沢基地からFENが結構よく聞こえました。当時はロックミュージックカルチャーがはっきり出てきた頃でしたが、秋田放送ではそういった曲が流れなかったので「いい番組がない。つまらない」と投稿したんですよ。そうしたら金子さんという当時の制作課長が「局に一度来い」と言うので行って、2〜3ヶ月ほど経った頃に「とりあえず選曲をやってみるか?」と連絡が来たんです。

今でも覚えているんですが、選曲の第1曲目はバッファロー・スプリングフィールドの「For What It’s Worth」です。それで最初は選曲をやっていたんですが、そのうち金子さんに「高橋君、電リクのDJやる?」と言われて。18時半から20時までの電リクのDJを女性アナウンサーと二人でやっていました。当時、電リク番組が2つあって、私は洋楽だけの番組で、その後、月〜金の23時からの15分も帯でやるようになり、公開放送の司会もやったりと、全部で番組を3つやっていたんですよ。

——それは大学在学中ですよね?

高橋:大学2〜4年の3年間ですね。当時のギャラは、その3番組で4万5千円くらいでした。ちなみに卒業後に入ったCBSソニーでは額面4万円、あれこれ引かれると3万2千円くらいしか残らなかったので「えらいことになったな」と思いましたね(笑)。

——高橋さんは金持ち大学生だったんですね(笑)。

高橋:秋田は寒いから毎晩飲んでいました(笑)。それで「秋田県民が聴いているか、どうせ分からないから、自分勝手にやろう」と思って、金子さんに業界誌のビルボードをとってもらい、そのビルボードのトップ100を見て、新しく入ってきたニューエントリーの曲をチェックしたんです。それで秋田放送の系列上にいた文化放送のレコード室は、7インチのシングル盤をすごく早く買っていたので、チェックした曲を全部オープンリールに録音してもらって使っていたんです。

——かけたい曲は全部かけられたんですか?

高橋:そうですね。だからジェファーソン・エアプレインとかドアーズとか、多分秋田の人はわけ分からないんだろうけど、かけていました。

——でも、高橋さんに育てられたリスナーもいたでしょうね。

高橋:ひょっとしたらいたかもしれないですね(笑)。それで、いよいよ就職しなきゃいけない時期になるんですが、当時、鉱山関係は大不況だったんですよ。石炭や鉄は瀕死の状態。石油だけよかったんですが、石油をやる人は日本から出て行くわけですよ。アラビア石油とか。とにかく超就職難で、クラスに30人くらいいたんですが、半分くらいが土木建築の会社に就職していました。

私もどうしようかなと思っていたら、知り合いの友達の人があるとき「音楽が好きなんだからレコード会社受けてみたら?」とCBSソニーの求人が載っていた朝日新聞を持ってきたんですよ。それで「まあ、就職口もないから受けてみるか」と東京まで受けに行ったんですよ。それで行ってみたら、中途採用だったから滅茶苦茶な試験で、今でもよく覚えているんですが、全6問あって、1問目が「新人女性アーティストのデビューシングルが10万枚のヒットになるための宣伝・販売促進のプランを立てなさい」というもので、未経験者に分かるわけがないんですよね。こっちは媒体費もラジオやテレビのスポット料金も知らないんですから。

——他のレコード会社から転職してくる人を前提にしていたような問題なんですね。

高橋:で、6問目に「自分のやりたいことを英文で書け」というのがあって、もうここしか書きようがないわけですよ。私は大学3年が終わってから、半年ほどカナダへ鉱山の実習に行っていたんですが、英語はたいしたことない。でも、他の問題は書きようがないから「日本独自の洋楽ヒットを作りたい」みたいなことを英文で書いたら、結果としては受かったんです。

——そのとき何人が受けて、何人入社したんですか?

高橋:たしか200人くらい受けたと思うんですが、入ったのは3人です。

——やっぱりすごい倍率ですね。やはり当時からレコード会社は人気があったんですね。

高橋:なぜかというと、「年齢・学歴・経験問わない」という条件でしたからね。

——でも、高橋さんは新卒で普通に受けて1発で入れたわけですもんね。

高橋:ラッキーでしたよね。それで入社したのが70年の7月6日。七夕の前日だったので、今でも覚えていますけど、入る前に後にソニーの社長になる大賀専務の面接があったんです。そこで「高橋君、君はなにをしたいんだ」と訊かれて、「日本独自の洋楽ヒットを作りたいんです」と答えたら、急に「ところで君は棒を振ったことあるかね?」と言われて「ありません」と答えたのですが、あとでよくよく聞いてみると、棒というのはゲバ棒のことでした(笑)。

——(笑)。

高橋:大賀さんはクラシック出身ですからね、タクトだと思いました。私は、クラシックは全然詳しくないので。それで、最初に配属されたのが、洋楽の宣伝だったんですよ。

 

2.

海外の音楽業界事情を引き出しとして持とう 高橋裕二氏インタビュー

——高橋さんがCBSソニーに入社されたのは、会社ができて何年目ですか?

高橋: 3年目くらいですね。当時流行っていたのは、リン・アンダーソンの「ローズ・ガーデン」とか、マーク・リンゼイ&レイダースの「嘆きのインディアン」で、シングル盤の担当ディレクターと毎日深夜1時くらいまで、アメリカの本社からきたシングルを延々と聴くんですよ。

——それが楽しいんですよね(笑)。

高橋:そうなんですよ(笑)。当時のCBSソニーは立派なもので、防音がちゃんとされているブースが3つあったんですよ。そこに閉じこもってずっと聴くわけですが、ある晩、聴いていた中にマシュマッカーンの「霧の中の二人」があって、ディレクターとイントロが長いから頭をちょん切ろうと、アメリカの本社に内緒で頭を切って出したんですよ。そしたらオリコン1位。

——内緒で頭を切ったらオリコン1位(笑)。

高橋:そう(笑)。入社して1年後に、洋楽を少し拡張するということで、CBSとその下にあったエピックをそれぞれ独立させたんです。私はエピックだったんですが、エピックはアメリカではCBSレコードのサブレーベルでしたから大したヒットがないんですよ。

それで、サンタナやシカゴ、ジョン・マクラフリンとかをやっている奴がいて、彼がやろうとしていたグループがいたんですが、エピックが独立することになって、そのグループはエピックなので「こっちでやらなくては」と、やったのがチェイスだったんですよ。それがまあ売れたんですよね。

——「黒い炎(Get It On)」の?

高橋:そうです。アメリカでは「黒い炎(Get It On)」が流行っていたんですよ。

——邦題は高橋さんがつけたんですか?

高橋:私です。当時はラジオで流れれば売れましたからね。私が邦題をつけるときは、ラジオで聴いたリスナーがわかりやすいように、カタカナが入らない邦題をつけると決めていたんですよ。ただラジオで流れると言っても、番組は深夜の「オールナイトニッポン」、「パックインミュージック」、「セイ!ヤング」の3つだけで、とにかくその3つの深夜番組を回るんです。

どの番組も特徴があって、ニッポン放送の糸居五郎さんは、レコード会社の言うことなんて全く聞かないんですよ。あとは今でもたまに飲みますけど、亀渕昭信さんも全く言うことを聞かない。今仁哲夫さんなんかは、音楽関係なくて、今仁さんが麻雀で勝つと流してくれる(笑)。

——(笑)。プロモーションしてもしょうがない感じですね。

高橋:TBSの那智チャコは、しゃべってばかりで曲なんかかからないですし、福田一郎先生はアメリカでヒットしないとかけないんですよ。ですから、おのずと足は文化放送の「セイ!ヤング」に向かうわけです。「セイ!ヤング」の部屋は、文化放送の奥まったところにある4畳半くらいの部屋で、文化放送で言えばポイントはレモンちゃんでした。

——落合恵子さんですね。

高橋:そうです。それで71年にチェイスを出す頃に高久氏(高久光雄氏 ※Musicman’s RELAY第100回参照)が私のところに新人を持ってきたんですよ。氏いわく、「シンコーミュージックの草野専務がカンヌのミデムで契約してきたんだけど、俺、興味ないからお前やらない?」と。それがビヨルン&ベニーで、私は聴いた途端に絶対ヒットすると思ったんですが、曲調も曲調ですし、スウェーデンのアーティストだから真冬の1月に出そうと決めて、タイトルも「木枯らしの少女」にしてアドバンスは200ドル。1ドル360円くらいの頃だから7万2千円ですね。あっという間に回収しました(笑)。

——功労賞ものですね(笑)。

高橋:ところがラジオだけのインパクトだとシングルをオリコン1位にするのは難しい。「やっぱりテレビだよね」なんて言っていたんですが、テレビは邦楽以外やってくれないですから、洋楽をテレビで流す唯一の方法は音楽祭に出すことだったんですね。

それで「第一回東京音楽祭」のときに、ナベプロの渡邊美佐さんから「『東京音楽祭』に来るから、このレコードを出してほしい」と言われたんです。で、聴いてみたらつまらない曲で「勘弁して下さい」と一度断ったんですが、大賀さんが「政治的に出すからいいよ」と。それが「第一回東京音楽祭」エントリーNo.1、 オーストラリアのリック・スプリングフィールドだったんですよ。

——「ジェシーズ・ガール」のリック・スプリングフィールドですか?

高橋:「ジェシーズ・ガール」が大ヒットする遥か以前の話です。そのときは「Speak to the Sky」という曲で、一応「大空の祈り」と邦題をつけてね。そうしたら、フリオ・イグレシアスとともに東京音楽祭で銀賞を獲ったんですよ。でも、レコードは全然売れない(笑)。

先ほども少し話しましたが、エピックにはあんまり売り物がないんですよ。私はスライ&ザ・ファミリーストーンが一番好きだったんですが、なかなか日本ではヒットしない。で、「次はどうしようかな?」と思っていたときにフィラデルフィア・サウンドが始まるんですよ。

——スリーディグリーズ、オージェイズ…。

高橋:そう。それでスリーディグリーズのレコードが来て、なかなかいいなと思ったんですが、シングルヒットしそうな曲もないわけですよ。アメリカでも「ソウルトレインのテーマ」でMFSBの後ろで歌っているくらいでね。それで東京音楽祭に彼女たちを出そうというときに、「曲どうしようかな?」と悩んだんですよ。そのときに「When Will I See You Again」という曲に目をつけて、LPでは「また会ったときに」とかそんな邦題だったと思うんですが、「天使のささやき」という邦題に変えました。この邦題もギリギリまで決まらなくて、最後は「歌い出しが” アアー、ウウー”と言っているから、ささやきでいいや」って(笑)。それで金賞を獲りました。

——でも「天使のささやき」は良い曲ですよね。

高橋:ええ。金賞を獲って、当時スリーディグリーズ関連だけで、十数億売り上げたんですよ。同じ手法で今度はビヨルン&ベニーを「ヤマハ音楽祭」に呼ぼうと計画して、彼らが日本に着いたら、もうビックリしちゃってね。

——何に驚かれたんですか?

高橋:ビヨルン&ベニーはいつの間にか四人組になっていて、しかも、名前もビヨルン&ベニーじゃなくて、「ABBA」って名前になっていたんですよ。

——もう「ABBA」になっていたんですね。それは実際に会うまで気づかなかったんですか?

高橋:知らない! 知らない!(笑) それで音楽祭で歌ってもらう曲がなかったので、事前に森田公一さんに曲を書いてもらって、それをスウェーデンに送って、ビヨルン&ベニーが詞をつけた曲を準備していたんですよ。これは「初恋の街」というタイトルなんですが、4人で来日してみたら、アグネッタかフリーダのどちらかが妊娠6ヶ月(笑)。「これで『初恋の街』はないだろう〜」って。それで落選(笑)。でも、私は一応天下のABBAに日本の曲を歌わせたんですよね。今じゃ難しいでしょうけど。

 

3.

——本当にあの手この手で洋楽を売るという感じですよね。アイディアが豊富というか、好き勝手というか(笑)。

高橋:そうですね(笑)。知らない洋楽アーティストをヒットさせる手法はラジオしかないので、ラジオでかかる曲を見つけなくちゃいけない。といっても、見知らぬアーティストをそんなにすぐにはかけてくれない。それでカバーレコードを作り始めたんです。

バーティ・ヒギンズを売るときに「カサブランカ」という曲があって、これがいい曲なんですよ。アメリカでは「キー・ラーゴ」という曲がヒットしていたんですが、「キー・ラーゴ」はお洒落すぎて、日本ではあまり受けないだろうと思って、「『カサブランカ』のカバーをやろう」と。それで、当時ニッポン放送で日曜に放送していた「オールナイト電リク」でこの曲をかけてもらって、「あなたの好きな歌手に歌わせるから日本語の詞をつけてください」とリスナーに呼びかけて、結果「郷ひろみに歌ってほしい」という応募が採用されたんです。それで郷ひろみが「哀愁のカサブランカ」として歌って大ヒットしたんです。

——「哀愁のカサブランカ」は当たりましたよね。

高橋:ああいったミディアムテンポの曲がヒットするというのはなかなかないです。次にドイツの弁護士が「ヨーロッパですごくヒットした曲だ」と持ち込んできたのが、イタリアのGazeboの「アイ・ライク・ショパン」で、社内の石井ちゃん(石井俊雄)がそれを聞きつけて「村松健でカバー作る」と言ってきたんですが、私は「ピアノはやめましょうよ」と断って、他社の岩崎宏美にやらせようと思っていたんです。それで岩崎宏美へ持っていく直前に、今度は邦楽が「小林麻美でやりたい」と言うんですが、私は当時、小林麻美を知らなくてね。

——そうだったんですか?

高橋:知りませんでした。「小林麻美ですか? 知らないですね、私たちは岩崎宏美でやろうと思っているんですけど」と言ったら、「だって、訳詞ユーミンが書くんだよ?」と言うので、私は「お願いします」と(笑)。それで小林麻美の「雨音はショパンの調べ」は大ヒットして、Gazeboも無名でしたけど売れました。

——洋楽をカバーするというのは高橋さんにとってどういった狙いがあったんですか?

高橋:私の中学高校時代と一緒で、例えば、郷ひろみがヒットするじゃないですか。そうしたら必ず誰かが「これって外国の曲なんだよ」と言うわけです。それで外国曲というとみんな「オリジナルって誰なの?」という話になる。そして、オリジナルが注目を集めて売れる。やや回りくどいですが、そういうことです。

——その手法は結構使われたんですか?

高橋:いや、これがそう簡単にはいかないです。私がサンタナの宣伝だったときの話ですが、彼らの「哀愁のヨーロッパ」という曲はいい曲ですけど、インストじゃないですか。インストってラジオでかからないわけですよ。それで私は内山田洋とクール・ファイブの事務所へ持っていったんです。

——「哀愁のヨーロッパ」をですか?

高橋:そうです。日本語の詞をつけてやらないか? とワクイ音楽事務所に持っていったんですが、結局、やることにはならなかったです。

——それはもったいないですね。

高橋:多分売れたと思いますよ。メロディがいいですから。あと、私が大阪営業所から帰ってきて、エピックの洋楽部長になったときに、売り物が全くなかったので、全世界のCBSに曲とアーティストを探しに行って、フランスから持ち帰ったのがジプシー・キングスだったんですが、持ち帰った中にアメリカ人なんだけどドイツで活躍していて、イギリスでも大ヒットしたジェニファー・ラッシュという女性の曲がありました。

これがまたいい曲だったんですが、ジェニファー・ラッシュなんて日本では誰も知りませんから、ワーナーのテラさん(寺林晁氏 ※Musicman’s RELAY第74回参照)のところへ「カバーレコードを作ってくれ」と持っていったわけですよ。それもアッコちゃん(和田アキ子)で。なぜかというと、当時「アッコにおまかせ!」が始まったばかりだったので、いいタイミングだと思ったからなんですね。「テラさんどうですか?」って聞いたら「いやーダメらしいなー」とか何とか言われて(笑)。

——(笑)。

高橋:それから4〜5年後かな? たまたま会社でラジオをつけていたら、その曲が流れてきたんですよ。でも、よく聴くとジェニファー・ラッシュではなくて、「あれ?」と思ってチェックしたら、セリーヌ・ディオンだったんです。それが「パワー・オブ・ラヴ」で、あの曲をセリーヌ・ディオンのために見つけたのは、プロデューサーのデヴィッド・フォスターなんです。

——こっちはその5年も前に見つけていたんだぞ、と。

高橋:もし、「あの鐘を鳴らすのはあなた」みたいなアッコちゃんの歌い方で「パワー・オブ・ラヴ」を歌っていたら、絶対ヒットしたと思います。それも阿久さんが詞を書いてね。

 

4.

海外の音楽業界事情を引き出しとして持とう 高橋裕二氏インタビュー

——昔の洋楽は本当に自由度が高かったんですね。

高橋: CBSソニーって上にあまりプロがいなかったんですよ。それで、私たちは好き勝手にやっていました。例えば、菅野ヘッケルがボブ・ディランの「武道館」を担当したのが29才のとき。野中が「チープ・トリックat武道館」をやったのが30才。で、私がジェフ・ベックの「ベック・ボガート & アピス・ライヴ・イン・ジャパン」をやったのが26才。サンタナの「ロータスの伝説」をやった磯田なんて25才、会社に入って三年目ですよ。「ロータスの伝説」のジャケットが22面体になるなんて、会社の誰も知らなくてね。彼は横尾忠則さんが大好きで、横尾さんも色々なアイディアを出すんですよ。で、磯田は会社には全く知らせずに忠則さん主導で作業が延々続いちゃうわけです。上司はサンプル盤が上がってくるまで何も知らなかったと思いますよ。

——あのジャケットはコストかかっていますよね。

高橋:ええ。それで発売になったら上から大騒ぎになって(笑)。私が担当した「ベック・ボガート & アピス・ライヴ・イン・ジャパン」は大阪厚生年金会館で録ったんですが、上司は誰も行かなくて、行ったのはヒラの私とエンジニアは鈴木智雄だけ。それで大阪厚生年金会館に行ったら、「スタッフの弁当はどうなってんだ」と(笑)。私は「えっ、弁当って何?」って感じで、何にも知らなくて(笑)。結局、大阪営業所の女の子に仕出しを頼んでね。

——何でも一人でやらされてしまったと。

高橋:でも、上がいないから楽ですよね。しかもCBSソニーはできたばっかりで、上に業界の人間がほとんどいませんでしたから、上から現場を見ていても文句の言いようがなかったんでしょうね。でも、菅野ヘッケルの「武道館」はすごく大変だったと思います。あれをリリースするためにはアメリカのCBS本体とボブ・ディランとの契約書の中に、一枚ねじ込まなきゃいけないわけですよ。それもスタジオアルバムじゃなくて、ライブ盤なわけで、すごく揉めて、結局、CBSの中の国際部門が面倒みることになったんですが、ヘッケルは多分私たちとは全然違ったバジェット、予算という問題に直面して、大変な思いをしたと思います。

——ディランの「武道館」はかなり売れたんですか?

高橋:売れました。しかも、ボブ・ディランはアメリカで売上が下り坂になり出したときに『武道館』が出て、またグッと持ち直しましたからね。チープ・トリックもあのライブ盤がなかったらアメリカでは絶対ヒットしなかったです。

——当時はそういった本国への逆輸入的なものもありましたし、日本独自の洋楽ヒットってたくさんありましたよね。

高橋:そうですね。アルバート・ハモンドの「カリフォルニアの青い空」は全米4位までいって、日本でもまあまあ売れたんですが、セカンドアルバムにはあまりいい曲がなくて、その中から選んだ一曲が「For the peace of all mankind」という大げさなタイトルだったので、「落ち葉のコンチェルト」という邦題をつけて10月21日に発売しようと思ったんです。東京で言うと絵画館前の銀杏並木みたいな、秋のイメージでね。

——原題とは全然違うんですね(笑)。でも、「落ち葉のコンチェルト」はいかにも女の子ウケしそうな曲でしたよね。

高橋: 26週間くらいオリコンのチャートに入っていましたからね。

——そんなにチャートインしていたんですか。それは何年頃の話ですか?

高橋:「カリフォルニアの青い空」がヒットしたのが、1972年だから、1973年くらいじゃないかな。例えば、ワーナーは、アメリカもいわゆる音楽っぽい人たちばかりだから、いい曲が多かったんですが、私たちにはそういう音源ってあまりなかったんですよ。だから、どこかから探してこないといけないんです。そのかわり一発屋になる可能性はありますけどね。

——確かに。マッシュマッカーンとかその後どうなったか知らないです。

高橋:面白い話があって、私がポニーキャニオンにいたときだから今から4年くらい前かな、カナダのトロントで、「SXSW」のように、ライブを中心にした見本市に行ったんです。そこで日本のパネルがあって、私も含めて4人くらいがパネラーだったんですが、日本でどうやってカナダのアーティストを売っていくかというテーマで、会場から質問が出て、50歳過ぎのおばちゃんが「昔、カナダのバンドが日本で1位になったと聞いたことがあるんですけど、そういうことは今でもできるんですか?」というから「その担当は私です」というので盛り上がって(笑)。

——(笑)。で、回答は?

高橋:今はとてもじゃないけど難しいです、と答えました(笑)。

 

5.

海外の音楽業界事情を引き出しとして持とう 高橋裕二氏インタビュー

——洋楽の現状をどのように見られていますか?

高橋:今の若い人たちはとても可哀想です。なぜかというと、ソニー以外は海の向こうの言うことを聞かなくてはならないからです。今、アメリカの、というかメジャーの人たちは、だいたい10月くらいまでに、翌年デビュー予定の新人が全部決まっていて、全世界的にお金をかけるアーティストも決まっているから、例えば、その中に入っていないアーティストを日本が独自にやろうとしても「バカ言っちゃいけない」って話になるわけです。

——そんな自由は日本にはない?

高橋:はい。映画会社と一緒で、日本の会社はほとんど出先機関ですよ。ですから、自分勝手にできないと思います。要するに「キミたち出先は何も考えなくてもいい」ってことですからね。本国でやっていることをそのままやりなさい、と。ソニー以外は、ユニバーサルでもEMIでも、来年やらなきゃいけないものが決まっている。それが全くないのがソニーです。アメリカの言うことは聞かないですから。

——ソニーにはまだそういう自由が残っているんですか?

高橋:アメリカはアメリカで、親会社のソニーが子会社のソニーミュージックに何を言ったって関係ないといった感じですね。そのかわり、子会社のソニーミュージックから印税が入ってくるだけでいい、と。で、ソニーは、海の向こうから何も言われないから、洋楽にヒットを出そうというDNAがなくなってしまいました。これほど私たちのDNAがなくなった会社って珍しいなと思っています。その元凶は、英語ができればそれでいいと帰国子女をいっぱい入れたことにあります。マーケティングなんか全然関係ない、みたいな。おそらくそこに起因しますね。

——英語が話せればいいという話じゃない?

高橋:重要なのはマーケティングですからね。もう亡くなってしまいましたが、日本コロムビアの社長をやっていたジャック松村と私なんかは、アメリカではアーティストをどうやって育成して、レコードをどうやって売るのか、そのメカニズムを知っておいた方がいいと思っていました。それを知っていれば、それが私たちにできることなのか、できないことなのかがまず分かる。そして、どこをどういう風に攻めていけばヒットするのかということをだいたい分かっていれば、多少の備えにはなるという考えがありました。そこで、CMJのMUSIC MARATHONを観に行ったり、当時、CBSソニーだけは、チップシートというラジオ局やレコード会社の人たちが読んでいる業界紙があって、そういうものを読んで研究していました。

それで、80年代に入って、ジェイ・ボバーグというI.R.S.レコードの社長が「ユージ、なんかアメリカで変なことが起きている」と言うんですよ。「ラジオのないところでレコードが売れたりする」と。「なぜ?」と訊くと「ケーブルテレビに宣伝用のフィルムやビデオを貸したんだけど、それを観た人たちが買うらしい」と言うんですね。それがMTVへ「とりあえず行ってみよう」ということで、ニューヨークのスタジオへ行ったら、すごく小さなところで「こんなのでレコードが売れるの?」と思いました。

——MTVはすごく大きくてメジャーなイメージがありますが。

高橋:当時は全然そんなことなかったですね。とにかくビデオを流すとレコードが売れ始めるということで、向こうからやたらビデオを送ってくるようになったんです。それをどうしようかと思っていた頃に、テレビ朝日で「ベストヒット USA」が始まったんですが、アメリカでヒットしていないものはかからないわけですよ。

そこで私たちは送られてきたビデオをテレビ神奈川に持っていって、番組を作ってもらったんですが、それが夕方の5時から始まる「ミュージックトマト」だったんです。そうしたらそれなりに効果が出始めました。そして、それを見ていた邦楽の丸さん(丸山茂雄氏 ※Musicman’s RELAY第48回参照)たちが「洋楽はビデオで何かやっているらしい」という話になって、TM NETWORKでビデオを作り始めたんです。

——邦楽PVが始まりだしたんですね。

高橋:丸さんが洋楽を真似して作ったんですが、やはりテレビ神奈川以外は全然相手にしてくれない。そこで丸さんたちはエピックの新人のビデオを集めて、各地方都市の一番大きなレコード店の会場を借りて、「BEE」というビデオコンサートを始めました。これの効き目はすごかったです。

——そういうことをやっていたのはソニーだけだったんですか?

高橋:当時はそうですね。でも、丸さんも、私たち洋楽がそういうビデオクリップをやってなかったら、多分気がつかなかったと思います。ところが佐野元春なんかはブルース・スプリングスティーンがすごく好きで、スプリングスティーンのビデオをすでに観ていましたから、早い段階で自分も作りたいということでした。浜田省吾もそうですね。

——邦楽のPVはそうやって始まったんですね。

高橋:そういう意味で、私たちCBSソニーは、とりあえず分からないことがあったらアメリカに聞きに行ったんです。聞いたら多分、ヒントになることがいっぱいありますからね。でも今の若い人たちは、多分、ユニバーサルもEMIもワーナーも、もう言われるだけ。逆にソニーはアメリカから何も言われないし、言うことを聞かないし、誰もアメリカなんか勉強に行かないと。ですから、私が「洋楽天国」を書こうと思ったのは、今のアメリカを含む各国の音楽業界では、こんなことをやっていると紹介することで、多少でも参考になればいいなと思ったからなんです。

——やっぱりあれは業界人に向けてのメッセージなんですか?

高橋:一般の人はなかなか分からない部分もあるんじゃないですかね。アメリカ人もイギリス人もバカじゃないですから、音楽業界の生き残りをかけて色々なことをしないとどうにもならない。日本だけガラパゴスになっても生きていられるのは、再販制度が残っていて、レコードを安売りできないからです。再販の対象は新聞と書籍とレコードですから、再版を撤廃するためには新聞社と出版社を説得しなければいけないんですが、その二つは絶対に抵抗します。それで再版が撤廃にならず、音楽業界はその中で温々とやっているんです。

いまどき、25〜30ドルでレコードを売っている国なんてもうないですし、外国で「タワーレコードが日本国内に70店舗くらいある」なんて言うと、みんな信じられないという顔をします。アメリカは今やほとんどベスト・バイみたいな、コンピューターを中心とした家電量販しかなくて、もう専門店がないです。でかいところに安売りされたら専門店は対抗できませんからね。でも日本は再販制度があるから、レコード会社は値段を下げない、着うたフルを300円で売るって、アメリカではありえないです。

 

6.

——アメリカのレコード会社はどのようなプロモーションをするんですか?

高橋:まず、アメリカのレコード会社はシングル盤をラジオ局に持っていって、それで宣伝をします。当初シングルが売れていましたが、そのうちにシングル盤がどんどん売れなくなり、その後CDシングルになりました。でも、CDシングルなんて、もともとアナログの7インチでも儲からないんですから、CDシングルは絶対に儲からない。それで赤字を出してしまい、CDシングルは出さないで、アルバムを買わせる方向に向かいました。

アメリカは通勤途中にラジオを必ず聴きます。自分の好きなステーションは決まっていて、行くときも帰るときも聴いています。そこでかかっている曲が気に入ったとして、ときどきはアルバムを買ってみようかという気にもなりますが、本当はその曲だけあれば済むわけです。ところがレコード会社はシングルをほとんど出さない。2000年代初頭、シングル盤の全メーカーの総売上が一週間でたったの15万枚ですよ。

——当時は1曲ずつ買う手立てがなかったんですね。

高橋:はい。欲しくてもレコード会社はシングルを出してない、かといってアルバム買うほどでもない。そこでスティーブ・ジョブズは自分でレコード会社にかけあって「曲を貸してくれたら使用料を支払いますよ」と交渉したわけです。レコード会社は最初「いや、それだとアルバムが食われてしまう」と抵抗したんですが、ジョブズは「いや、そんなことはない。プラスアルファとしてiTunesでの売上がいくし、時代はそっちに向かっている。だって、Napsterでいいようにやられているんでしょう?」と説得したわけです。

アメリカでジョブズの話になると「iTunesを作ってすごい!」という話になりますが、iTunes自体はすごくも何ともないです。ジョブズが偉いのは、大手のレコード会社4〜5社と話をつけて、ウォークマンなんかよりもたくさんの曲が入るもの=iPodを作ったことです。しかも、自分のところで工場は作らずに、部品をどこかにかき集めてアセンブルするだけでいい。

——アメリカではPandora Radioがユーザーを増やしていますが、これはレコード会社の宣伝の新たな手立てになっているんでしょうか?

高橋:いや、パンドラが宣伝の媒体になり得るかというと全然ならないです。アメリカのラジオ局がロザンゼルスに三十数局あるとして、ニュース専門局やスポーツ専門局、そして音楽専門局とかがあって、その音楽専門局もたくさん分かれています。フォーマットで言えばトップ40があって、ホットACがあって、AC、アーバン、アーバンAC、クリスチャン、オルタナ、ロック、というようにフォーマット別に分かれています。

——「AC」というのは何ですか?

高橋:アダルト・コンテンポラリー、大人が聴くヒット曲ですね。ラジオの業界紙には自分のエリアで、白人が何人、黒人が何人、他の有色人種が何人、あるいはパーセント。全部そういう調査があって、1番目が年収400万以下、2番目が600〜800万とか、そういう風に全部インカムが書いてあります。それをラジオ局の営業はスポンサーのところに持っていって「ウチのラジオ局は…」って営業するんです。だから、ラジオ局もプログラムディレクターもリスナー、消費者がどんな曲を聴くかをものすごく考えます。もし、それで間違った曲をかけると、リスナーはすぐチャンネルを切り替えてしまいますから。

——エリア別っていう分け方はさすがにPandora Radioもしてないですね。

高橋:SIRIUSなんかも細かくチャンネルを分けていますが、例えば、黒人が聴く音楽があったとして、それはニューヨークの黒人とワシントンの黒人とでは全然違います。アメリカのラジオ局の編成マンは、3ヶ月に1回、レーティング調査をされるんです。そのレーティングが下がっていたらクビになりますから、もう自分の局でかける選曲はチーフクラスがやるんですね。選曲表は大まかに言うと、例えば、トップ40の局の場合、1週間にかけられるのが40曲くらいしかない。それでその選曲表に入るのが、全メーカーで1週間に2〜3曲くらいしかなくて、この選曲表に入らない限り、1回もかかりません。

その選曲でかけ始めて、リスナーの反応がない場合、その曲はもう捨てます。逆にリスナーの反応が結構いいとなると、最初はせいぜい5〜10回くらいのライトローテーションから始まるんですが、1ヶ月くらいかけて50回前後のミディアムというところまで上がっていきます。さらにそこから落ちていく曲もあって、最終的に残った曲がヘビーローテーションになる。

するとヘビーローテーションの曲は1週間に100回以上かかるわけです。100回ってことは1日に14回ほどかかり、1時間半に1回はかかります。さすがにそれはレコードの宣伝になる。あと、リスナーも自分が聴いている局で、自分の気に入った曲のローテーションがどんどん上がっていくと、「やっぱり私の耳に狂いはない」という高揚感があります。アメリカではそういった状況がエリアごとに起こっているわけです。

——例えば、Pandora Radioがどこで誰が聴いているかを把握できて、そのエリアに合わせた広告がうてるようになれば、その問題は解決するようになるということですか?

高橋:いや、30kmくらいのエリアにある多くのラジオ局が、過去何十年間と戦争をする中で得たノウハウに対して、パンドラが入ってきても絶対太刀打ちできないと思います。LAのKIIS-FMが持っているノウハウからの選曲と同じようなものをパンドラが組めるかどうか疑問ですし、その上でKIIS-FMは毎週のように「この曲は今まで5回だったけれど、15回にしよう」とか「25回のものを、45回にしよう」とか、そういう作業を延々やっているわけです。

——FM802の栗花落さん(栗花落光氏 ※Musicman’s RELAY第102回参照)とも話したんですが「Pandora Radioのエンジンにラジオ局が負けるわけがない」とおっしゃっていましたが。

高橋:リスナーの肌感覚って、やっぱりそこのエリアにいないと分からないです。あと、基本的にアメリカ人って車の中でしかラジオを聴いていないんですよ。子供や学生以外は、家に帰ってパソコンで聴こうと思わないです。

レコード会社が今でも地方局を攻めるのは、そのラジオ局が自分たちのエリアにいるリスナーのことを本当によく知っているからです。だから、この曲だったらこのエリアの放送局のAに持ってくるよりは、Bに持っていった方が絶対に反応が早い、というようにレコード会社も考えるわけです。もっと細かいことになると、ニューヨークにWHTZというFM局があるんですが、そこの1週間の選曲表に1社で2曲入るって、もうほとんどないに等しいんですよ。

そこでレコード会社はどうするかというと、ニューヨークでも郊外にある同じような放送局を攻めます。そこはレーティングが低いんですが、レーティングの低い放送局は大きな放送局に比べて自由度が高いので、頼まれれば「まあ、いいかな」とかけてくれる。ラジオ用語で言うと「パラレル2」とか「パラレル3」っていうんですが、「パラレル3」はもう田舎。「パラレル2」っていうのは郊外。「パラレル1」が都市の真ん中。「パラレル2」とか「パラレル3」の放送局でヒットをさせて、最終的には「パラレル1」、例えばニューヨークのWHTZに「これだけ上がっているんですよ」って話を持ちかけるんです。

——アメリカのラジオ局というのは、やっぱりそんなに立場が強いんですか。

高橋:強いというよりも、会社はレーティングを取らないとスポンサーがつかない、そして、レーティングを取るためには、ニュース局でも、トーク局でも、スポーツ局も、音楽局も一緒ですよ。そして、その中でも例えばクラシックだったら、金持ちとか富裕層が聴いているから、そういうスポンサーだけでいい、みたいなね。ところがトヨタやコカコーラといったところから広告を取るには、レーティングがないと営業は絶対に取ってこられない。だから、とにもかくにも3ヶ月に1回のレーティングが重要になります。そのためには、自分たちのリスナーが何を聴きたいのかを知るのが最重要課題なんです。

——Pandora Radioのレコメンデーションエンジンがどのくらいのものか私たちも詳しくありませんが、可能性はあると思っています。そのパーソナルラジオっていうのが、現状を崩せるか崩せないかが見所ですね。

高橋:ただ、エリアごと、それも局ごと、ジャンルごとにやることになるので、すごく大変だと思います。例えば、アメリカで「クリスチャンミュージック」というイエス・キリストをテーマに歌う人たちがいるんですが、ソウルミュージックでも、ロックでも、ヘビメタでも、イエス・キリストについて歌うんです。これは田舎で毎週教会に通っているような人たちしか聴かない音楽なんですが、田舎で大ヒットし始めると、レコード会社は「この曲はクリスチャンミュージックですが、サウンドはポップだから、ACのラジオ局であるおたくのリスナーとかぶるかもしれません」と持ちかける。それでACのパラレル3くらいでかけ始めて、最終的にトップ40までもっていく。ラジオ用語にクロスオーバーという言葉がありますが、フォーマットの違うラジオ局へクロスオーバーする。それをいっぱいクロスオーバーしていった方が、みんなが聴くという。そういったことも起こっているんですね。

——現時点で高橋さんは「Pandora Radio」に懐疑的だということがわかりました。

 

7.

海外の音楽業界事情を引き出しとして持とう 高橋裕二氏インタビュー

——高橋さんは今後、音楽業界がどのようになっていくとお考えですか?

高橋:ワーナーミュージック・アメリカが進めている、360度契約でしょうね。そのアーティストが稼ぎ出すものをすべて包括した契約を結ぶ。それでレコードが売れたら、その人に印税は払うんですが、売上はこちらで取るという。コンサートの収益も数パーセントとる。グッズでもとる。また、テレビコマーシャルに出た場合はギャラもとると。

ところが、アーティストが所属する事務所もバカじゃないですから「なんでコンサートのカネをレコード会社に持って行かれるの?」となるわけです。コンサートの売上が一番大きいですしね。具体的には、今CDを1枚売った場合、それがBON JOVIクラスの大物でもせいぜい1ドル50セントとか2ドルくらいしか入らないんじゃないでしょうか。もちろん色んな付帯条項があるでしょうけど。そうすると100万枚売れても150万ドルとか200万ドルにしかならない。そんなものは1晩、2晩コンサートやったら、すぐ入ってきます。ですから、これから世界中の音楽業界は、興行が中心になるでしょう。

——やはりライブが中心になると。

高橋:興行はチケットが高いですからね。とはいえ、興行をするまでには知名度が必要です。例えば、iTunesで1位になったからといって、そんなので興行はできないわけですよ。ラップやヒップホップの人たちで大きな興行ができるのはほんの一握り。それこそビルボードじゃないですが、レコードとしてもそこそこ売れてくれないと、アメリカの媒体は書かない。例えば「USA Today」が、iTunesのチャート書くよりは、やはりビルボードのチャートを書くわけです。

——未だにそうなんですか。

高橋:はい。とにかくレコードからの印税では食べられません。そのかわり360度契約の中に音楽著作権は恐らく入ってないです。マドンナもライブ・ネイションと360度契約を交わしたことが話題になりましたが、自分が書いた曲は自分の出版社に全部納めます。とにかく出版は大きな出版社に預けておいた方が色んなチャンスを持ってきてくれます。例えば、あるハードロックバンド、今はもう全然売れていないですが、去年1億何千万円入ってきたというんですね。というのも、その人が書いた曲が何かのテレビコマーシャルに使われて、その分がドーンと入ってきたんですね。著作権というのはそういうものですよね。

また、インディーズの人たちはもうメジャーに行かないということも起きています。彼らの言葉で言うと「ファンベース」というんですが、Twitter、Facebook、オフィシャルサイトなどを使って、ファンを主体にした宣伝をやります。あとはライブ活動をやっていって、少しずつ動員を増やし、なおかつ会場でTシャツやグッズを売る。コンサートのチケットも少しずつ上がっていく、みたいなことですね。

——そうはいっても、大物アーティストなどすでに有名な人はいいですが、新人には厳しい時代っていうことですよね。

高橋:新人が名を売るいい方法が一個あって、それはロックフェスに出ることなんです。全世界に大きなロックフェスがいっぱいありますから、全くの無名アーティストでもロックフェスに出ることで多くの人たちに観てもらえて、それが口コミになります。フジロックが始まったときに、それを渋谷陽一が観ていて「なんだ。ロックフェスは要するに宣伝媒体なんだ」と看破して、やはり渋谷陽一は大したもんだなと思ったんですが、新人にとってロックフェスとはそういうものです。だから、アメリカの新人はとにかくサウス・バイ・サウスウエスト(SXSW)に行くんですよ。

——SXSWは年々規模が大きくなっているようですね。

高橋:大きいです。そこでメジャーと契約するアーティストもいれば、すごく有名になったから別にインディーズでもいいというアーティストもいます。ただ、メジャーのすごいところは先ほど言ったように、全米のラジオは隙なく押さえるところです。これはもう人海戦術ですから。

——メジャーじゃないとできないんですね。

高橋:はい。特にコストがかかるのが、ラジオのプロモーションじゃないかと思います。それでもやるのは、ラジオが火をつける役目を最初にやってくれるからなんです。

——最後になりますが、音楽業界で働いている、あるいは今後音楽業界で仕事をしたい若い人たちにアドバイスをお願いします。

高橋:少なくともレコードを売る、またはアーティストを見つけて育成するには、自分に引き出しがいっぱいあった方がいいと思います。でも、日本の音楽業界は新人を育成するのに、テレビCMのタイアップとか、番組やドラマのエンディングテーマとか、あまり参考にならないですし、面白くもなんともないです。

——つまり海外の状況とか、そういう知識はあった方が良いということですね。

高橋:そうです。でも、日本の音楽業界の人たちって全然時間がないですからね。制作マンはスタジオに行ったってお茶くみだけ。宣伝マンはテレビ局やラジオ局を回って、考えている暇がない。セールスマンは店回りしていて時間がない。

——では、誰に時間があるんですか?(笑)

高橋:というか、時間は自ら作ろうとしない限りないですよね(笑)。それと、ちょっと論点がずれるんですが、邦楽の人たちは「歌の最初に詞がある」という原点に帰るべきです。詞が書けないアーティストはレコード会社としてもどうしようもないんです。昔はプロ作家がいたからその人に任せれば良かったんですが、今はそういうプロ作家システムがありません。例えば、阿久さんの書く詞って「作り歌」じゃないですか。でも、今の日本で作り歌はゼロに等しいです。

でもアメリカのカントリーって、基本的には全部作り歌なんです。つまりストーリーテラー。「自分が親父から虐待受けて荒んだ少年時代。ケンカもした、刑務所にも行った」、でも「今の俺があるのはワイフのおかげ!」みたいなね。日本の「今朝コンビニ行った」とか関係ないですよ。「私、今日は気分が滅入る」とか言われても、滅入ったらそのままでいいよと思ってしまう(笑)。

——(笑)。

高橋:本で言うと、フィクションとノンフィクションがあったら、フィクションがもっとあるべきなんです。桑田佳祐やミスチルの桜井和寿、スピッツの草野マサムネとか、実力のある人たちはみんなそういった詞が書けますし、彼らが書く歌には普遍性があります。つまり、他の誰かが歌っても、成立する歌ですよね。今後、そういった歌が増えていったらいいなと思いますね。

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