第74回 寺林 晁 氏 ユニバーサルミュージック(株)執行役員 マーケティング・エグゼクティブ

インタビュー リレーインタビュー

寺林 晁 氏
寺林 晁 氏

ユニバーサルミュージック(株)執行役員 マーケティング・エグゼクティブ 

今回の「Musicman’s RELAY」は服部隆之さんからのご紹介で、ユニバーサルミュージック(株) 執行役員 マーケティング・エグゼクティヴ 寺林 晁さんです。学生時代、「伝説の呼び屋」と呼ばれた神彰さんとの出会いから音楽に携わるようになり、ウドー音楽事務所では数多くの海外アーティストの招聘を手掛けられ、成功に導いた寺林さん。レコード会社に活躍のフィールドを移されてからも持ち前の行動力と感性、そして音楽に対する情熱で洋楽・邦楽問わずヒットを生み出してきました。最近では徳永英明『VOCALIST』シリーズや中森明菜『歌姫』シリーズの大ヒットが記憶に新しいところです。現在はユニバーサルミュージックの執行役員 マーケティング・エグゼクティヴとして若手を見守りつつも、現場の第一線でご活躍中の寺林さんに、ウドー時代のエピソードから発売間近の作品のお話までじっくり語っていただきました。

[2008年9月10日 / 港区赤坂 ユニバーサル ミュージック(株)にて]

プロフィール
寺林 晁(てらばやし・あきら)
ユニバーサルミュージック(株) 執行役員 マーケティング・エグゼクティブ


1946年2月21日生
1972年ウドー音楽事務所 入社
1979年ワーナーパイオニア(株) 入社
1994年日本フォノグラム(株) 邦楽宣伝部長(制作宣伝担当)
1996年マーキュリー・ミュージックエンタテインメント(株)
(日本フォノグラム(株)より改名)取締役(邦楽担当)、常務取締役、専務取締役を歴任
2000年マーキュリー・ミュージックエンタテインメント(株)代表取締役社長
2000年 ユニバーサル ミュージック(株) キティ MME 執行役員会長、
Def Jam Japan エグゼクティブプロデューサーなどを兼任
2001年ユニバーサル ミュージック(株)執行役員 マーケティングエグゼクティヴ
 

 

    1. 大学には行きたくなかった?〜もう一つの夢
    2. 伝説の呼び屋 神彰さんとの出会い
    3. 音楽が好きだから苦にならなかった〜ウドー音楽事務所時代
    4. 呼び屋からレコード会社への転身
    5. ユニバーサル ミュージックの躍進と未来
    6. ずっと現場でやり続けたい!

 

1. 大学には行きたくなかった?〜もう一つの夢

−−前回ご登場いただいた服部隆之さんとのご関係は『服部良一生誕100周年トリビュート』からですか?

寺林:彼のことはパリに留学する前から知っています。隆之が帰国して最初の仕事がさだまさしさんの仕事で、そのギャラを決めたのが多分僕だと思うんです。そのときに随分安くしてしまったので、隆之は「寺林さんがあんなに安くしたから今でも安いですよ」って怒ってましたよ(笑)。

−−(笑)。隆之さんがデビューされる以前から知っていたということは、服部克久さんとのご関係からですか?

寺林:そうです。克久先生と知り合ったのは東京音楽祭の審査員をやっていらしたときだったと思います。その後、服部良一さんのお葬式をお手伝いしてから、克久先生とはずいぶん親しくなりました。一緒に海外に行ったりもしましたしね。克久先生は作家・作詞家との付き合いの中で一番古いかもしれないですね。

−−お父様の代からのお付き合いなんですね。最近、克久さんとご一緒したお仕事が『服部良一生誕100周年トリビュート』なんですか?

寺林:隆之が帰国した頃から、「三人の作品を何かやりたいね」って話は出ていました。

−−前から温めていた企画だったんですね。

寺林:そうなんです。ちょうど良一先生の生誕100周年でしたし、フジテレビなんかも乗ってきてコンサートも一緒にやりましょうかという話になったんです。

−−隆之さんに対してはどのような印象をお持ちですか?

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寺林:僕はそんなに一緒に仕事をしていなかったんですが、三谷幸喜さんの『ラヂオの時間』の音楽を聴いて、アレンジャーを超えて、サウンドプロデューサーと言いますか、素晴らしいアーティストになったなと思いましたね。

−−ここからは寺林さんご自身のお話を伺いたいんですが、ご出身はどちらですか?

寺林:生まれは北海道の苫小牧です。親父が銀行の支店長だったので高校3年までの間に北海道内で5回転校しました。3〜4年経つと転校していましたから、やっぱりよそ者ということでいじめられました。もう大勢に殴られたこともありますし、高校に入ってからはえらいリンチにあったりして、それで強くなろうと思って、駒澤大学では空手部に入部したりしたんですよ。

−−大学は駒澤大学に進まれたんですね。

寺林:実は大学なんて行きたくなかったんですよ。なんで大学に行きたくなかったかというと、僕はどうしても美容師になりたかったんです。

−−えぇ?! 硬派な印象からは想像できませんね。

寺林:これは初めて言うんですけどね。田舎なんて美容室が一軒くらいしかなくて、美容師も理容師も一緒じゃないですか? 僕は自分が髪を切られるのはすごい苦手だったんですが、女性の髪をいじるのは好きでしたし、これはきっと将来いい商売になるんじゃないかと思いましたね。それで親父に言ってみたら「男が女の髪をいじるなんてバカじゃないのか?」と反対されました。

−−それで渋々大学に進まれたと。

寺林:そうですね。それで札幌に入試を受けに行ったら、試験会場がお寺だったんですよ(笑)。お寺だからお線香も焚いてあるし・・・。そもそも駒澤が仏教の学校だなんて知らなかったですから「とんでもないとこに来ちゃったな・・・」と思って、しかも行く気もないですからテストを白紙で出したら、やっぱり落ちたんですよ。

−−それはそうですよね(笑)。

寺林:そうしたら二次試験の通知が来て、そこには「これだけ寄付をすれば入学できます」といったようなことが書いてあって、僕は全く行く気もなかったのに、知らない間に親父が寄付金を払ってしまって受かっちゃいました(笑)。

 

2. 伝説の呼び屋 神彰さんとの出会い

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−−上京されてからは?

寺林:大学1年の頃に知り合いの知り合いに、有吉佐和子さんの旦那さんの神彰さんがいたんですね。その神彰さんがそれこそ外国のアーティストを呼んだ一番最初の人だったんですよ。

−−神さんは伝説の呼び屋さんですよね。居酒屋のチェーンもやってらして。

寺林:そう、『北の家族』ですね。彼が最初に呼んだのがドン・コザック合唱団。それからボリショイ・バレエ団、レニングラード交響楽団、ボリショイ・サーカスと色んなのを呼んでいたんです。僕が大学1年生か2年生のときに彼が富士スピードウェイにインディ500マイルレースを呼んだんですよ。それで「寺林君、学生のアルバイトを200人位集めてくれないか?」と頼まれて、結局100人位しか集められなかったんですが、神さんが「寺林君はこの仕事になんとなく向いてると思うから、もし良かったら手伝わないか?」って誘われたんです。

 そのインディ500マイルレースは失敗して会社も傾いてしまったので、神さんは違う会社を作ったんです。その新しい会社ではジャズを始めて、マイルス・デイヴィスやアート・ブレイキーを呼んだんですが、僕はその手伝いもしました。僕はアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャースの何回目かの全国ツアーを通訳もボウヤも無しで一人で任されたんですよ。

−−それは大学何年生の時だったんですか?

寺林:大学2年か3年生の時だと思います。函館のコンサートのときなんか駅に着いたら、誰も迎えに来てなくて、その当時のタクシーは小さ過ぎてウッドベースが乗らないですし、楽器運搬用のトラックも来てないですから駅でリアカー借りて、楽器を積んで会場まで運びました。自分でそのリアカーを引きながら涙が出てきましたね。「俺はなんでこんなことしてるんだろう・・・俺の夢はこんなはずじゃなかったのにな」と・・・(笑)。でも、それ以来は何をしても辛いと思うことはなくなりましたね。

−−神さんとの出会いが全て今に繋がっているんですね。

寺林:もう180度、全部変えられちゃいましたね。それまでは他のこともやろうとしていましたし、親父からも「いい加減にしろ」と言われていて、就職活動では普通の会社に受かっていたんですが、結局、神さんの会社に入っちゃいました。

−−正式に神さんの会社に就職されたと。大学は無事に卒業されたんですか?

寺林:大学は10回か20回くらいしか行ってないんですが、卒業はできました。

−−10回か20回って随分少ないですね(笑)。

寺林:ただ、第二外国語にドイツ語をとっていて、ある先生だけが単位をくれなかったんですよ。それでどうしようかなと考えて、北海道から鮭を送ってもらって先生の自宅に直接持って行ったんですよ。そうしたら単位くれましたね(笑)。

−−新巻鮭一本ですか(笑)。学生時代はお仕事でまともに遊ぶ暇もなかったんですか?

寺林:ところがね、その頃は学生運動の最後のほうで、僕は学校側についたので学生課から教室に花を置く美化委員とかなんかの委員長になって、月々いくらかあげるからその代わり学生運動の奴らを抑えてくれと頼まれていたんですよ。

−−学校からお金が出ていたんですか! 何だかすごい話ですね。

寺林:本当に学生課からお金が出ていましたからね。そのお金で応援団長からみんなを連れて、渋谷の『黒い蝶』というキャバレーに毎日行ってました。その代わりちゃんと学生運動の奴らを抑えるという条件でね。

−−寺林さんは学校側から一目置かれていたんですね。

寺林:もちろん他にも何人かいて、僕一人にじゃないですけどね。僕は遊び回っていましたし、たまに神さんとこの車で学校に乗りつけたりしていましたから、やっぱり目立ってたのかもしれませんね。

−−なるほど。ゲバ棒を振り回す側ではなくて、それを抑えるほうだったんですね。

寺林:やっぱり全員とやり合うのは大変だから、相手のトップと親しくなって、飯でも食いながら「こんなことやってもしょうがないじゃないか」と話をつけるのが早いんですよ。その結果、応援団、空手部、合気道とかみんなの力で駒沢も学生運動が結構おさまったんですよ。

−−みんな強そうな人たちですね(笑)。

寺林:そりゃそうですよ。強くないと抑えられないですからね。学生側はみんな角材とか持ってて危ないでしょう? 夜だって一人では歩けなかったですしね。

 その後、卒業して入った神さんの会社も潰れて、しばらくブラブラしていたんですが、アート・ブレーキーと一緒に全国を回った時に彼が「寺林が独立して、もし俺を必要としたら日本に来てやる」と言ってくれていたのを思い出して、あの当時だからタイプとかテレックスで来日を打診したら、本当に来てくれたんですよ。しかもギャラ半分で!(笑)

−−それはアート・ブレイキーを個人で呼んだということになるんですか? まだお若い頃ですよね。

寺林:まだ20代前半ですね。ギャラは半分でしたが、その代わりに毎晩飲みに連れて行きました。それで長崎に行った時に、アート・ブレーキーが長崎のジャズクラブの女の子を好きになっちゃって、どうしても連れて帰りたいって言うんですよ。あの当時は女性が海外に行くのがものすごく難しい時代で、しかも、僕は神さんのところにいたときにソ連のものを呼んだりしていたので、どちらかというと左に見られていたんです。だからアメリカ大使館に行ってもなかなかビザをくれなくて、アート・ブレーキーを呼ぶときも別の人の名前を使ったりしていたんですが、何度か呼んでるうちに赤じゃないとわかってくれたみたいで、長崎の女性のビザも下りたんです。この長崎の女性がのちにアート・ブレイキーの奥さんになったんです。

−−’72年にウドー音楽事務所に入るまで、23、4歳から5年間フリーとしてそういうことをやられていたというのはすごいですよ。

寺林:今考えてみるとすごいですね(笑)。アート・ブレイキーのあともバーデン・パウエルやセロニアス・モンク、あとピアノのペペ・ハラミジョとか結構呼んだんですよ。でも、あぶく銭ってダメですね。儲かったんだけど、2〜3年でその儲けはどっかにいっちゃいました。

−−それは個人事務所、あるいは個人プロモーターという形だったんですか?

寺林:僕の名前は出さないで他の人を社長にしてね。

−−いつの間にか音楽の招聘を仕事にされていますが、それはやっぱり神彰さんの影響でしょうか?

寺林:ずっと神さんのところで見ていたからですね。それまで音楽的素養や知識は全くなかったんですが、仕事をしているうちに突然音楽に目覚めちゃったんですよ。

−−実際にお仕事をしながら学んでいかれたということですね。

寺林:そうなんです。ですから神さんにはすごく感謝してるんです。

 

3. 音楽が好きだから苦にならなかった〜ウドー音楽事務所時代

−−‘72年にウドー音楽事務所に入られたきっかけは何だったんですか?

寺林:ウドーってもともとキャンプとか色々やっていたんですが、キョードーと分かれてロックをやるとなったときに「寺林っていう暴れん坊で面白いやつがいる」ってスカウトされたんです。

−−ウドーの創成期の頃ですよね。

寺林:そうです。最初にやったのがC.C.R.(クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァル)ですよ。

−−ウドーで寺林さんはどのようなお仕事をされていたんですか?

寺林:なんでも屋ですね。マスコミやレコード会社を回ったり、全国の会場の予約もやりましたし、切符を作るのも朝チラシを撒くのも夜に立て看板つけるのも、とにかく何でもやりました。立て看板のときなんて警察に何回も捕まっていますしね(笑)。でも、音楽が好きだから全然苦にならないんですよ。

寺林 晁3

−−寺林さんのウドー時代は7年ということですが、一番苦労されたのはどのアーティストですか?

寺林:そういう話はたくさんあるのですが(笑)、一番覚えているのはジェスロ・タルですね。公演を予定していたNHKホールはそれまでロックは出さなかったんですが、僕は「クラシックだから」と言って交渉したんですよ。そしたら「クラシックなら問題ありませんね」とOKをもらって、契約を交わした後に持っていったジェスロ・タルのレコードを聴かせたら「寺林さん、これロックじゃないですか!」って駄目になりそうになったんです(笑)。そこで「もう切符もたくさん売れてるからこれは問題になりますよ」「僕がすぐ謝罪文を書きますから」と説得して、絶対に暴れたりゴミを落としたりしないという条件付で進めることができました。

−−当時のNHKはロックミュージックに対する偏見がそこまであったんですか。

寺林:完全に偏見ですよね。それからはNHKホールでもロックをやるようになりました。とにかく色々なことをやりましたね。トッド・ラングレンなんか切符が全然売れないから氷のギター持たせて新聞に載せたり、レオン・ラッセルも東京に1台だけある透明のピアノでやらせたり、アリス・クーパーもプロモーションで来日したときに渋谷公会堂を借りて、お金をばら撒いたしね。

−−現金をですか?!

寺林:そう、500円札だったかな。あとピーター・フランプトンを呼んだときに永島達司さん(キョードー東京の創立者)が渋谷公会堂と日本武道館を入れたんですよ。でも、客が入らないから、当時NHKに「NC9」というニュース番組があったんですが、そこに本人を出せば絶対に売れると思って、「今から行きます」とNHKのプロデューサーに電話して、いきなり会いに行ったんですよ(笑)。それで話を聞いてもらったんですが、「寺林さんの熱意は分かったけどネタがないと駄目だ」と言われて、文部大臣の砂田重民さんのことをよく知っていたので、砂田さんに電話して「申し訳ないんですが、砂田さんピーター・フランプトンと会ってくれませんか?」とお願いしたんです。砂田さんは「会って何するの?」と言ってたんですが、そりゃそうですよね(笑)。それでアルファ・スタジオに砂田さんを連れて行ってピーターに会わせて、その模様を「NC9」で流してもらったんです。

−−結局、会わせて何をしたんですか?(笑)

寺林:会わせて、「セイ、ハロー」で終わりですよ(笑)。ピーターだって「何でこいつと握手しなきゃいけないんだろう?」と思ったはずですよ。でも、僕は「これは全国ネットでたくさんの人が見ているんだから、ちゃんと笑って『こういう立派な人と会えて嬉しい』とお世辞言えよ」とピーターに言ったんですよ。結局、その効果で8割くらい入りました。

−−ピーター・フランプトンはまだ日本では人気が盛り上がっていない頃でしたものね。

寺林:スージー・クアトロを呼んだときもあまり売れてない頃でしたから、色々話題作りをしましたね。あと、ビリー・ジョエルもそうですよ。オーストラリアから「どうしても日本でやりたい。ギャラはタダでいい」とテレックスが入ったんですが、公演希望日の一週間か二週間前の連絡で空いている会場がなかったので一回断ったんです。それでビルボードを見たら『ピアノマン』が一位になっていて(笑)、有働さんに報告したら「取り戻してなんとかやれよ」と言われたはいいものの、やはり会場が見つからない。結局スージー・クワトロが土日で夜やっていたので「同じ会場で昼間にやりましょう」と提案して、とりあえず会場に交渉したんですがやはり駄目と言われて、機材をやっているスタッフからも「寺林さん、それは勘弁してくれ」と言われたんですが、「俺がやるって言ったらやるんだ」と押し切って(笑)、昼に公演をやったんですよ。結果チケットは一時間で完売しました。

−−それは押し切ったかいがありましたね(笑)。

寺林:ビリー・ジョエルはそのことを感謝してますから、ウドー以外ではやらないんです。エリック・クラプトンもそうです。クラプトンは初来日の時にドラッグにはまっていて、日本国内でクスリはできないから代わりに酒を大量に飲んでいたんですね。もうベロベロで一人では歩けないような状態でしたからステージに立っても全然駄目で、僕でも分かるくらい演奏を間違ってました(笑)。そうしたらお客さんから大ブーイングで、有働さんも「これではよくない」とクラプトンと話して、そうしたら彼も分かっていたみたいで「もう一度呼んでくれ」と。2度目の来日は素晴らしい演奏をしましたけどね。

−−クラプトンは一度目の失敗で改心したんですね。

寺林:そうですね。あと、サンタナは自家用機で来たんですが、最初羽田に降ろそうとしたら駄目で、「名古屋に降ろせ」と言われて、初日は福岡だったんですが、新幹線で急いで名古屋に行ったら、今度は「福岡に降ろせ」と言われて・・・急いで車で福岡に行ったんですよ(笑)。

−−最初からそうしてくれよ!という感じですよね(笑)。

寺林:そうそう! でも国が相手ですから(笑)。あとエマーソン・レイク&パーマーやレッド・ツェッペリンは飛行機が嫌いで、電車で移動したんです。寝台車を借り切って動いたんですが、それも大変でしたね。暴れてホテルはぶっ壊すしね(笑)。ロッド・スチュワートも酷かったです。彼はサッカーが好きで、ヒルトンホテルのロビーで平気でボール蹴って遊んでるんですよ。とにかくもう何アーティスト呼んだか数えきれないですし、喋れない話も含めて面白い話はありすぎますね(笑)。

 

4. 呼び屋からレコード会社への転身

−−ウドーからワーナーパイオニアに移るきっかけは何だったんですか?

寺林:ふと「このままだと呼び屋だけで終わっちゃうな・・・」「もう少しほかの仕事もしてみたいな」と思って、折ちゃん(折田育造氏)とかに相談したら「レコード会社に入ってみたら?」と言われたんですが、さんざん暴れてみんなに迷惑かけたから俺なんか無理だろうと言ったんですよ(笑)。誘ってくれる人なんて誰もいないだろうと。そうしたらまず折ちゃんが誘ってくれて、そのあともソニーやフォノグラムとか色々なところが誘ってくれたんです。

−−辞める前に仲間の人たちに相談されていたんですね。

寺林:そうですね。それでワーナーとソニーに絞ったんですが、その話が有働さんにばれちゃって、怒らせちゃったんですよね。

−−裏切り者みたいな感じですか?

寺林:そう。「何で先に言ってくれなかったんだ!」みたいにね。それで折ちゃんに相談したら「洋楽を手伝ってくれないか?」と言われて、ワーナーパイオニアに入ったんです。

−−ワーナーに入られて、最初のお仕事は何だったんですか?

寺林:宣伝です。

−−宣伝部長ですか?

寺林:宣伝課長だったと思いますが、入るときに特に役職はいらないと言ったんです。その代わりに自由にやらせてくれればいいと。ウドーでの仕事を通じて電通や博報堂の人たちはみんな知っていたので、ボニーMやロッド・スチュワートのコマーシャルをつけたりしました。

−−ワーナーには何年いらっしゃったんですか?

寺林:ウドーと同じで7年だったと思います。僕は7年周期で動いているんですよね。ワーナーで記憶があるのは、2年目に邦楽に行けってキース・ブルール((株)ワーナー・パイオニア 代表取締役副社長(当時))に言われたことですね。それで「嫌だ」と言ったら、「じゃあ辞めてもらう」と言われたので、「それはないだろう。話が違う」と(笑)。僕は「邦楽なんてやったことがないし、知らない」って言ったんですよ。そうしたら、実は矢沢永吉がワーナーに来ることになっていて、矢沢のことはキャロルの頃から知っていましたし、向こうも「一緒にやりたいと言っている」と。それで「僕のセクションを作ってくれるんだったら」と条件を出して、それで邦楽に移ったんです。

 その企画制作課というセクションのヘッドになり矢沢やCHAGE&ASKAといったアーティストをやっていたんですが、その後、邦楽を全てやることになって、その頃に来たのが中森明菜です。実はプロダクションもレコード会社も他のところに決まっていたのをひっくり返したんです。あと少年隊も僕が最初です。それでレコード協会がゴールドディスク大賞を作って、その第一回目は洋楽がマドンナ、新人賞が少年隊、大賞が明菜とワーナーが独占したんです。この3つを一社が独占したのは最初で最後だと思います。でも目立つところが嫌だから、表彰式には出席しませんでしたけどね(笑)。

−−その後、日本フォノグラムに移られるわけですか?

寺林:いや、実はその前にアップフロントの山崎社長が出資して下さって独立したんですよ。「寺、これだけお金を出すから2年半で駄目だったら止めよう」と言われてね。手掛けていたアーティストは私のところに来ると言ってくれてたんです。そこでアーティストに来てもらっていたら、それなりの規模のレコード会社の社長になっていたと思うんですが、「1からやりたい」なんて格好つけたものですから2年半で失敗しました。それで社員の再就職先を探して、自分は半年か1年くらいプラプラしてたんですが、当時ポリドールの水田皓規さんが「フォノグラムで人を探しているから、アレックス・アヴラハム(日本フォノグラム 代表取締役社長(当時))と会ってみないか?」と言われて会ったら、アレックスから「もう一度邦楽をやりたいので力を貸してくれないか?」とお願いされて、僕も1からやりたかったので好きなようにやらせてもらう条件でフォノグラムに入りました。

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−−フォノグラムではどんなアーティストを手掛けられたんですか?

寺林:一番はやはり松田聖子でしょうね。彼女がソニーから移籍して、2枚目か3枚目のシングルが『あなたに会いたくて』でミリオンです。あとVOLTEXというヒップホップのレーベルを作ったりしました。

−−ヒップホップに着目されたきっかけは何だったんですか?

寺林:僕と同い年で山中さんという人がいるんですが、彼はディスコやクラブに通っていて「寺さん、これからはヒップホップが絶対に流行るよ」と言われたので、どんなものかと渋谷CAVEに見に行ったら、これがとんでもなくてね。ここで僕の人生がまた変わっちゃいましたよ(笑)。

−−衝撃だったんですね。

寺林:ええ。「これだ!」と思いましたね。絶対にこの音楽は来ると思いました。

−−45歳を過ぎてヒップホップに衝撃を受けるって、寺林さんは本当に感性が若いですよね。

寺林:子供の影響もあるんですよ。うちの長男は結構聴いていたのでね。それですぐにレーベルを作ってくれと指示を出しました。

−− 時代的には結構早かったですよね。

寺林:早かったですね。だから四街道ネイチャーとかDJマスターキー・・・あとDJ KAORIなんか10年前からよく知っているんですよ。DJ KAORIは今ユニバーサルでやっていますけど、何年か前に再会して「えー!」なんて驚いていました(笑)。童子-Tも昔からよく知っています。それでユニバーサルに移ってきたらDef Jamがあるので、「絶対Def Jam Japanを作りたい」と思ったんですが、世界中どこでも作っていないから駄目だと言われて、それでリオ・コーエンに直接会いに行ったんです。「頼むからやらせてくれ」と。それで「お前の夢は何だ?」と訊かれて、「Def Jam Japanを大きくして自家用機を買いたいんだ」と言ったら「お前格好いいこと言うな。わかった。お前にやらせてあげる」と許可してくれました。

−−いきなり会いに行って話をまとめちゃうのがすごいですよね。

寺林:嘘つきじゃないんですけど、とっさに言葉が出るんですよね。

−−やや大風呂敷な感じで・・・(笑)

寺林:そうそう(笑)。でも、それは経験がないと出ないでしょう? 自信と経験の表れですよね。

−−なにか裏付けるモノがなかったらただの嘘つきになってしまいますものね。

寺林:そうです。それがなかったら今頃どこかで野垂れ死んでますよ(笑)。

 

5. ユニバーサル ミュージックの躍進と未来

−−その後、外資系の合併などで会社環境が目まぐるしく変わりますよね。

寺林:数年のうちに役職が3回変わったんですよ。常務から専務になって、社長になって、会長ですものね(笑)。激動の時代ですね。

−−正直何が何だか分からないような時代ですよね。外資の波に呑まれると言いますか。

寺林:そうですよ・・・もう何回辞めようと思ったか(笑)。ユニバーサルが六本木から目黒区大橋に引っ越したときも僕は絶対に行きたくないと言ったんですよ。石坂さんは残ってもいいと言ったんですが、アレックスが「そんなこと言わないでみんなで引っ越そうよ」と。あんな所に行ったら絶対に駄目ですよ(笑)。

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−−(笑)。

寺林:やっぱりこの業界は青山とか六本木のような場所に居なきゃ駄目だと思います。案の定、行って駄目になりましたからね。だからここ(現ユニバーサル本社)に引っ越すために、僕は積極的に動いたんですよ。だって、大橋のビルは修繕する前までトイレが和式だったんですよ(笑)。なおかつ冷暖房が20時に切れてしまう。しかも会議をしていて窓を開けると、対岸のアパートに干してある下着とか見えるわけです(笑)。そんな環境では、もうセンスとかそんな問題じゃないでしょう?(笑) しかも場所が場所だから人も来ない。駅からも遠いしタクシー代もかかる。それで随分色々なところを探して、ここに移ってきたんですよ。

−−引っ越しを誰よりも推進したのが寺林さんだったんですね。

寺林:でも、ここに移ってきてからヒットが出るようになったでしょう? 神さんの会社でもウドーでも青山だったんですが、やはりそういう場所にいないと新しい情報が入ってこないんですよ。

−−会社組織が合併などでコロコロ変わってしまうとやりづらい部分も出てくるかと思うんですが、ユニバーサルはいかがでしたか?

寺林:僕も石坂さん(石坂敬一氏/ユニバーサルミュージック(株) 代表取締役会長兼CEO)も「きちっといい音楽を作っていれば、会社が合併しようが大丈夫だ」と思っていました。だって、親会社がどこになろうとやることは同じですから。それとユニバーサルミュージックグループのマックス・ホール副社長が日本に対してすごく理解をしてくれているのも非常にプラスになっています。

−−石坂敬一さんとはユニバーサル以前から面識があったんですか?

寺林:そうですね。石坂さんは僕が来た半年後くらいに来たんですが、遊び回っている頃から石坂さんのことはよく知ってますし、やはり彼は社長になる器ですよね。独立して失敗したことからも分かるように僕は社長になる器じゃないですから(笑)。

 僕と石坂さんとはすごく良い関係だと思います。たまに一緒に呑んで「このやろう」と言われるくらいで(笑)。石坂さんの方が僕より一つ年上なんですが、ずっと同い年だと騙していたんですよ(笑)。それで何年か前にばれて、「この野郎! 今まで騙しやがって!」って今でもよく言うんですよ(笑)。

−−(笑)。そして、ユニバーサルでは徳永英明『VOCALIST』シリーズや、中森明菜『歌姫』シリーズなど数々の企画をヒットさせていらっしゃいますね。

寺林:僕は今でも現場をやっていますが、僕も石坂さんも「これからの現場は若い人だ」と思っているんです。CDを買っている人は若い人がほとんどですし、そういった人達の感性に訴えかける作品を作るためにも若い人を育ててやっていかなくては駄目だと思い、早めに身を引いて若い人の面倒を見つつ、自分では年に何枚か好きな企画をやるようにしています。

−−その好きなことをやり出してから、さらに寺林さんの企画は冴えてますよね。

寺林:そうですね。実は僕は役員にもなっていないんですよ。執行役員だけども。役員になると会議も多いし、そういうのは出たくないから役員にはなりたくないと言ったんです。その代わりに午前7時に会社に来て、石坂さんと30分くらい打ち合わせをしたり午前中の会議は出るんですが、午後一時には会社を出ちゃいます。それで映画を観に行ったり、原宿に行ったり遊び回ってアンテナを張っているんです。そういったことをもう6、7年やっています。だから変な話ですが、今の若い子よりも色々なことをよく知ってますよ。会議でも「なんで寺さんはそんなこと知っているんですか?」なんてよく言われます(笑)。

−− GReeeeNのヒットもそうですが、現在のユニバーサルはネットを使ったプロモーショ ンなど斬新ですよね。

寺林:そうですね。新しい売り方を石坂さんも自覚しているんじゃないですかね。青山テルマも800万ダウンロード行きましたからね。YahooにしてもmixiにしてもTOPページに載せてもらうことが大切で、それはお金だけでは駄目で努力しかないんです。ところが今はお金で色々なことができるようになってしまって、正直言ってつまらなくなってしまったとも感じますね。

−−ユニバーサルは新人をどんどん成功させていますよね。

寺林:若い人たちと僕たちの年代のバランスがうまくとれているんじゃないですかね。それが今のユニバーサルで、この勢いは当分続くと思います。そういう体質に石坂さんもしましたしね。当然現場に任せているんですが、毎週水曜日にチャート会議をしているんです。おそらくレコード会社でチャート会議なんてやっているところはないと思うんですが、オリコンのチャート見て「なんで10位に入っていないんだ?」とかそういう会議をやるんですね。

−−それは厳しいですね。

寺林:確かに厳しいですが、その会議を通じてチャートインしたときの楽しみとか達成感、喜びをみんなに植え付けているんですよ。「お前、1位になったら嬉しいだろう? ディレクターやってて」と。自分の名前も載りますしね。飴とムチじゃないですが、ユニバーサルは報奨金もかなり出ますから、もらっているやつは結構いると思いますよ。僕らはもらえないんですが(笑)。

 

6. ずっと現場でやり続けたい!

−−最後になりますが、今後のリリース予定を教えてください。

寺林:さだまさしが美空ひばりさんの曲をカバーしたアルバム「『情継 こころをつぐ』〜さだまさし 美空ひばりを歌う〜」を10月22日に出します。これはまっさんを口説くのに4年、コロムビアを口説くのにも3年くらいかかりました。

−−そんなに時間がかかった作品なんですか・・・。

寺林:ひばりさんの楽曲を使うために誰に交渉したらいいかと考えて、ふと思ったのが息子の加藤和也さんだったんです。それで和也さんを知る人に相談したら和也さんを紹介してくれて、直接お願いしました。また、まっさんに対しては「僕が何でやらなきゃいけないの?」というところから始まって、「ひばりさんのファルセットと君のファルセットは合うんだ」と説得しました。事実『悲しい酒』の出だしなんかひばりさんかと思うくらいです。

−−声の質が似ているんですか?

寺林:ええ。和也さんもビックリしていましたね。それで「寺林さんがさださんと言ったのはよく分かりました。これをお袋が聴いたらすごく喜んでくれると思います」とまで仰ってくれました。あと「これはお袋のファンの方々も買ってくれますよ」とも。

−−これは普通ではなかなかできない企画ですよね。

寺林:徳永や明菜の企画は僕じゃなくてもできたかもしれませんが、この企画は情熱と根性と経験、あとちょっとの政治力が必要ですからね(笑)。もうひばりさんの曲を何回聴いたか分からなくなるくらい全曲聴き込みましたし、そこから11曲に絞るのは大変でしたが、そこは隆之とまっさんも応援してくれました。

−−このアルバムのアレンジが隆之さんなんですね。

寺林:そうです。このアレンジがまた素晴らしいんです。やはり隆之じゃなかったら駄目だったと思います。

−−高い評価ですね。

寺林:本当に素晴らしいです。今回のカバーアルバムも「寺林さんやりましょう」って彼が乗ってくれたから多分できたんだと思います。もう初めからこの作品は彼にお願いしようと思っていましたからね。最初、この企画の話をしたときに、隆之は「えぇー、僕が!」って言うから「そんなこと言うなよ」と寿司を3回食べさせて、美味しいワインを飲ませて酔った勢いで「大丈夫だろ、隆之?」、「うーん…じゃあわかりました」と半年位かけてやっと口説いたんですよ(笑)。

−−(笑)。食わせて飲ませて…。

寺林 晁6

寺林:そうそう(笑)。

−−レコーディングにも付き合われたんですか?

寺林:そうですね。15年ぶりくらいにスタジオに入りました。本当にまっさんは歌が上手いですし、この企画はまっさんじゃないとできないんですよ。

−−普通ひばりさんのカバーをしてくれと言ったら、腰が引けちゃいますものね。

寺林:引くし、他の人ではできないですね。和也さんも「さださんだったらいい」と言ってくださいましたしね。女の人でやったんでは僕がやる意味もないですし、そういってくださったのはとても嬉しかったですね。

−−寺林さんの衰えるどころか年々冴えていく企画を見ていますと、もう生涯現役という感じですね。

寺林:是非そうしたいなと思っていますけどね。周りが求めてくれたならば、現場でやり続けたいです。あと11月に稲垣潤一と女性ヴォーカリストとのデュエット・アルバム『男と女』を出します。こちらも是非聴いていただきたいですね。

−− 両作品とも楽しみにしております。本日はお忙しい中ありがとうございました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

 今回の取材で一番印象に残った寺林さんの言葉が「現場が好きだから」です。圧倒的なキャリアを持つ寺林さんが若手と同じように日々動き回り、新しい情報や才能に対してアンテナを張っている姿にとにかく感心させられました。見た目も大変若々しい寺林さんですが、現在進行中の作品の話について熱く語られる姿からは、見た目だけでなく内面の若々しさをひしひしと感じました。これからも寺林さん発のヒットがたくさん生まれていくのではないでしょうか。ユニバーサルミュージックの今後と共に大いに期待しましょう!

 さて次回は(株)フジテレビジョン エグゼクティブ・プロデューサー/(株)フジパシフィック音楽出版取締役 石田 弘さんです。お楽しみに!

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