ゼネラル通商(株) 常務取締役 山田龍雄氏インタビュー

インタビュー スペシャルインタビュー

山田龍雄氏
山田龍雄氏

 40年間にわたりゼンハイザーの総代理店として最先端の音響機材を輸入し、NEVEのコンソールを始めとしたワイヤレスシステムなど、現在の音響システムのベースを作り続けてきたゼネラル通商。その40周年を記念したパーティーが5/20に行われた。同社に68年に入社以来、ゼンハイザーやNEVEの輸入販売事業を拡大し、現在は常務取締として活躍している山田氏も入社40年のくぎりということでこの40年間をふりかえっていただきながら、録音業界のこれからについてうかがいました。 

山田 龍雄 Tatsuo Yamada


1940年7月29日 東京生まれ、67才
1963年 東京都立大学工学部卒業
     日本電気音響(株)(現デンオン)入社
     特機営業設計担当
1968年 ゼネラル通商(株)入社
     SENNHEISER販売担当
1969年 ステラヴォックスの販売を担当
1971年 B&Oの販売を担当
1972年 UHF帯ワイヤレスマイクの販売を担当
1973年 NEVEの販売を担当
1975年 AKシンクロナイザーの販売を担当

[2008年4月22日 ゼネラル通商(株)にて]
▼ゼネラル通商株式会社
http://www.gentrade.co.jp/

——山田さんは’68年に御入社されたということは、もう40年前ということになりますね。

山田:そうです。その前に日本電気音響、現在のデンオンに勤めていたのですが、その当時のPA音響機器はスタンダード化されてなくて、一つ一つが手作りに近い状態でした。だからPA音響装置を店舗に合わせてカスタムメイドで作るような特機部門というところがあって、そこで設計を担当していました。当時は真空管の時代でしたが、多く出回っていたのが807/6F6/6V6という真空管でした。プッシュでだいたい15〜30ワット出ればいいほうでしたが、ちょうどそのころ6CA7というフィリップスフ系の球が出てきて、プッシュで100ワット出るって大騒ぎしてたものです。まだまだ高出力のトランスも出来ていない揺籃期だったんです。

——それがゼネラル通商入社前の若き日の山田さんのお仕事だったんですね。重宝されていたから転職しづらかったんじゃないですか?

山田:そうかもしれないですね。仕事を楽しんでましたから。そこでまさか輸入代理店に入るなんて思ってもなかったんですよ。

——ゼネラル通商は最初から営業のみの会社だったんですか?

山田:そうです。私がそもそもゼネラル通商と関わりを持ったのは、当時ゼネラル通商の社長だった上島がゼンハイザーのマイクロフォンを輸入したいということで、それを入社前に少し手伝っていたことがきっかけだったのです。

——ゼンハイザーの販売を手伝いながらいつのまにかゼネラル通商の社員になっていたんですか?

山田:いえそういうわけではないのですが、’68年に正式に入社しました。2〜3年手伝えばいいかなと。ただ、自身の気持ちとしてはエンジニアだったので輸入販売という創造性のない事業にあまりいい印象がなかったのです。それが変わったのが’70年にゼンハイザーの本社工場に行ったときでした。そこで引き合わされたのがドクター・グリーゼという方で、ゼンハイザーのRF型コンデンサーマイクロフォンMKHシリーズの設計者だったのです。ドクターと話し合ったときに、マイクロフォンというのはどういうものかという議論になったのですが、ドクターは「聴きやすく録れて、歪みがないものがいいマイクロフォンだ。ただそれは音響に携わる多くの人が判断するのであって、最初からその評価を得るために作るのは不可能だ」「良い評価を得ているマイクを調べてみると、必ず特性が良い。しかし、特性の良いマイクが必ずしも良いマイクとは評価されない」と言われた。当時ゼンハイザーは何を狙ったかというと、現場での評価テストを重視して評価の良いマイクの品質を維持し、同じ製品を作ることに全力を上げたわけです。つまり製造・製品管理の徹底化に取り組み成功した。だから今でもゼンハイザーは残っているのだと思います。このことがきっかけとなり、以後ゼネツウとして商品開発を積極的に行うことになります。

ゼネラル通商山田龍雄3

——他にゼンハイザーが日本のメーカーと違ったのはどのような部分ですか?

山田:当時日本の工場では、半固定のトリマーで感度やゲインを合わせていました。つまり使う前にアジャストするということを前提にして誤差を調整する生産管理体制を持っていたのですが、ゼンハイザーにとどまらずヨーロッパ系の会社はそういう不安要素を全部取り除いていたのです。生産管理の段階で抵抗コンデンサーの精度を上げているのです。半導体というのはバラツキが大きいので事前選別を強化したり、温度に対して非常に不安定だったので、最初から温度を上げて使用し、外部温度の変化に左右されないようにする考え方で設計していたのです。身近なところだとNEVEの設計基礎がそうなのです。

——NEVEが日本に入り始めたのはいつ頃なんですか?

山田:ソニーの六本木スタジオに’73年に入れたのが最初です。取り扱い始めたきっかけは、その当時、フィルターもないし、まともな電源もないガンマイクロフォンを海外ではどうやって売っているのだろうと思い、私はゼンハイザーの海外代理店回りをやりました。イギリスのゼンハイザー代理店を訪問したときにそこの社長と仲良くなり、BBCのエンジニアを紹介してもらい色々話をしている中で勧められて扱うようになったのです。その当時の日本の放送局のコンソールではイコライザーが付いてるのが少なかったので、これをぜひ日本でという思いが強くありました。

——なぜそれまで日本にはヨーロッパ製のコンソールが導入されなかったんですか?

山田:当時のコンソールは、放送局・レコード会社ともに一般的には日本製で占められていたと思います。録音業界でもテープレコーダーの輸入品はアンペックスに代表されるようにアメリカ製が多く、スチューダーに代表されるヨーロッパ製品は未だ少なかったと思います。ヨーロッパ製のコンソールはピークプログラムメーターの使用と、アンプのヘッドルームが小さく設計されていたので、VUメーターを使用するNAB規格またはBTS規格のミキサーを使い慣れている方々には使いにくかったので、ヨーロッパ製品があまり受け入れられなかったと思います。
 しかし、’72年の札幌オリンピックのときに、日本が世界配信のキー局になったのですけど、非常に低いインピーダンスで信号を送り出し、高いインピーダンスで受けるヨーロッパ製コンソールを使い慣れているヨーロッパやアメリカから来たスタッフが、どんどんパラパッチで出力を抜き出したのでコンソールの出力レベルがどんどん下がっちゃって・・・

——では、札幌オリンピックを契機に日本の放送が変わったんですか?

山田:そういうわけでもないのですが、当時私たちが直接お会いできる放送局の方々は十分理解されておりましたが、設備担当の方々にはご理解していただけなかった。そのような時期にグループサウンズのヒットがきっかけになって、各音楽番組の生番組の現場に私たちが入り始めたのです。グループサウンズのアーティストが使ってる機材ってみんな海外のものではないですか。ところが演奏してる人たちは技術的なことは分からないので、それで私みたいなのが呼ばれたのです。そうこうしてるうちに局の方々と顔見知りになり、NEVEの特徴とか説明させてもらったり、ゼンハイザーのガンマイクを導入してもらうようになったのです。

——山田さんの40年間というのは音楽産業の発展とともに常にいいタイミングでお仕事なさってますよね。

山田:私もそう思います。当社の社員にも言ってるのです。我々が扱っているものは売り込みのタイミングが大事だと。どんなにいいものでもお客様が必要になったタイミングでしか売れない。そのタイミングを逃すなと。今コンソールを売りそこなうとあと10年か15年先じゃないと売れないですね。新設されるか、10年、15年経ったようなお客さんを絶えず掴みながら売ってくしかない。ただそのときにお客さんが満足してくれる商品を売らなければならない。私がNEVEを扱ったときもそうですし、ゼンハイザーもそうですが、とにかく値段が高いですね。私が言うのもおかしいのですがNEVEにいたっては、高い、大きい、重い、3悪だと言われました。NEVEはVタイプコンソールになって操作性の向上を目指しました。当時のSSLに対抗して、どうせ作るならとこちらから色々と要望を出した結果なんです。その最たるものはコンソールを19インチの幅で分割できる構造にしたとですが、コンソールをスタジオに搬入する場合非常に容易なのです。

ゼネラル通商山田龍雄1

——NEVEは日本で一番売れたんですか?

山田:いやアメリカです。ただ、そのときのNEVE社のトップが日本で売れるものはアメリカでも売れると解釈をしてくれたのです。台数的に数多く販売されたVタイプコンソールの原型は66シリーズと呼んでいる放送局向けのコンソールで、新しく開発した音楽録音用のチャンネルユニットを搭載させたのです。

——ゼネラル通商としてNEVEのコンソールを入れたのはソニーの乃木坂が最後ですか?

山田:音楽録音スタジオとしてはそうです。ただ88シリーズは読売テレビさんやテレビ朝日さんにも入ってます。うちは放送局さんへもコンソールを販売しているのですが、NEVE製品での大ヒットは33609というリミッター/コンプレッサーです。ほとんどの放送局さんのマスターに入りました。しかし当時の33609は手つかずで納品OKっていうのは100台に1台ぐらいで、あとの99台は何かしらの技術的な問題がありました。

——それをゼネラル通商が直してから売ったんですか?

山田:そうです。今でもそうですけど、我々はアフターサービスの前に「ビフォアサービス」が大きなウエイト占めているのです。つまりお客様のところに出向いてトラブルを直すよりは納入する前にきちんと整備して売った方がはるかにお客さんの満足度も高いし、我々の手もかからないってことなのです。ですので、コンソールも全て一旦うちの工場に入れて、そこで総点検して、指定された日にちに納入するのです。ですから引渡しも確実なのです。

——先ほど10年単位でお客さんを捕まえていくとおっしゃっていましたが、10年後のスタンダードになる録音機材はどんなものだと思いますか?

山田:現状で具体的な製品を挙げるのは難しいですね、もっといい音で録れる録音機材があるはずなのに、必ずしもそうではないものが売れるという事実があります。そのような製品は必ずお客様のニーズに合わなくなり飽きられると思います。そうなったときに必要なものがまた出てくるのではないかと思います。NEVE社の古い友人がピュアAクラスのアナログ機材を作る話は出てきますが、未だマーケットガ出来ていないので、古いNEVEを作り直したりしています。結果として「やはりいいものはいいんだ」という評価が上がっていることも事実です。

——いい音を目指すっていうことは戻るってことなんですね。

山田:結果的にそうなりますね。エレキ楽器の世界で50年前のギブソンだとかフェンダーだとか、それと同じものが今でも作られヒットしているということです。それを私たちは忘れちゃいけないのじゃないかなと思いますね。つまりミュージシャンが欲してるものは今も昔も変わらないということだと思います。

——音楽スタジオにおけるデジタルコンソールの未来に関してどのようにお考えですか?

山田:自然楽器を録音するスタジオにおいては、デジタルコンソールの未来はないだろうと思ってます。やっぱりアナログに戻るのではないかと。さっきのギブソンの話ではないですけど、そういう古典的な楽器とか人間の歌声がベースになっている現在の音楽であれば、よりいいものを求めていくと結果的にアナログ機材になっていってしまうだろうなと思いますね。これは個人的な見解ですけど、問題はイージーなマルチマイク録音からスタートしたと思うのですが。音量・音響的に補填するために、マイクをどんどん増やしてしまったのではないのですか。マルチマイク録音が録音テクニックそのものをおかしくしていったのではないかと思っています。だから極端なこと言うと、例えば2マイクだけでステレオを録っていく。その中で音をどう作ってくかというところに最後はいくのではないかと思うんですがね。これも昔に戻ることになるのですか。

——古いジャズやクラシックを聴くと素晴らしい録音が多いですものね。

山田:そうですね。アンサンブルとしてバランスもいいですしね。それは素晴らしいテクニックに裏づけされているのだろうと思います。これがもし電子楽器を使った音楽が主流になり始めたら、デジタル化されたものをアナログで再生するような形になるのではないですかね。だからこれは別物だと思うのです。
 アナログ、デジタルという話ですが、うちの社員も含めてみんな「アナログ」「デジタル」という言葉の意味を十分に理解してない感じがします。アナログという言葉は数学の「相似形」という意味なのです。つまりアンプで増幅しても波形って入出力で変わってないんです。一方デジタルは数字なのです。デジット=数字。デジタルの場合は符号化して数字に置き換えてしまうのです。というわけでアナログから比べたらデジタルはコピーなのです。全く異質なものに一旦変えるわけです。

ゼネラル通商山田龍雄2

——それを極限までアナログに近づけるために試行錯誤しているんですね。

山田:でもサンプリングレートを192kHzにしてもコピーはコピーであって、オリジナルではないのです。よくヨーロッパのホテルに泊まるとロビーでジャズの演奏をしている場面に遭遇するではないですか。なにかほっとする感じ。音楽ってあれでなきゃいけないと思うのです。それを技術的に支えるための機材、そして日本の事情に合うようなものを私たちは海外から輸入する。かっこいい言葉で言うと今流行のソリューションビジネスが我々の仕事だと思ってます。

——では最後に山田さん個人としての目標とゼネラル通商としての目標をお伺いしたいのですが。

山田:私どもは長い間ゼンハイザーの総代理店という枠の中でいろいろ仕事をしてきました。総代理店契約というのはそのメーカーの商品を独占的に販売できる反面、メーカーの意図を汲んで積極的に販売しなければいけないのです。つまりゼネラル通商が好みで選んで売ってはいけないわけなのです。他社で優れている製品があっても競合製品の場合販売してはいけない。たとえ日本でこの商品は売れないと思っても手を抜いてはいけないという縛りがある。そういう条件の中で販売業務を行うというのはとても難しかったのですが、2008年1月1日からその枠が外れました。

——それはゼンハイザージャパンが設立されたことですね。

山田:そうです。それであらためてその枠の重さといいますか、それを感じたと同時に、「さあ、これからなんでもやれるぞ」という身軽さも感じました。ゼンハイザーには毎年色々なテーマがあるのですが、3年ほど前のテーマに「チャレンジ」という言葉があったのです。ゼンハイザーとして色々なものにチャレンジしようという意味の「チャレンジ」。私たちはそれに「チャンス」と「チェンジ」という言葉を付け加えました。私たちも変わらなければいけない。そして新しいものにどんどんチャレンジしていきます。時代の変遷とともに他のメーカーはどんどんいいものを作っている。我々もゼンハイザー以外は扱えないという縛りがなくなったので、これからはもっとお客さんに便利に使っていただける商品をどんどん販売していきたいですね。まさにソリューションビジネスです。それをゼネラル通商でやっていきたいと考えています。

——今後のゼネラル通商と山田さんの益々のご活躍に注目しております。本日はお忙しい中ありがとうございました。

-2008.5.21 掲載

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