第105回 金森 清志 氏 株式会社スペースシャワーネットワーク 代表取締役会長

インタビュー リレーインタビュー

金森 清志 氏
金森 清志 氏

株式会社スペースシャワーネットワーク 代表取締役会長

今回の「Musicman’s RELAY」はテレビディレクター/ 演出家砂田実さんからのご紹介で、株式会社スペースシャワーネットワーク代表取締役会長金森清志さんのご登場です。早稲田大学を卒業後、渡辺音楽出版へ入社。マーケティングや著作権の業務、カフェの開店、ラジオ番組制作、映像プロデュースなど様々な業務を担当、また、当時始まったばかりのプロモーション・ビデオの制作や、日本初のハイビジョン・ライブ映像も制作されました。その後、スペースシャワーTVの立ち上げに参加され、以降はスペースシャワーTVの成長とともに、編成制作部長、取締役、代表取締役社長を歴任。現在は、代表取締役会長に就任されています。そんな金森さんに幼少時代からスペースシャワー設立時、現在の音楽業界にいたるまで、様々なお話をお伺いしました。

[2012年5月8日 / 港区六本木 株式会社スペースシャワーネットワークにて]

プロフィール
金森 清志(かなもり・きよし)
株式会社スペースシャワーネットワーク 代表取締役会長


昭和52年3月 早稲田大学 第1文学部 卒業
昭和52年4月 (株)渡辺プロダクション 入社
同年8月 渡辺音楽出版(株) 配属
平成元年6月 (株)スペースシャワー 編成制作部長
平成5年6月 同社 取締役
平成9年6月 (株)スペースシャワーネットワーク 常務取締役 放送本部長
平成15年4月 同社 常務取締役 音楽チャンネル事業本部長
平成16年10月 (株)スペースシャワーTV 代表取締役社長
平成17年4月 (株)スペースシャワーネットワーク 取締役 SSTV事業統括 兼 常務執行役員 SSTV事業グループ担当
平成19年6月 (株)スペースシャワーネットワーク 代表取締役社長
平成23年4月 同社 代表取締役会長(現在)


 

    1. アジアに興味を持った学生時代
    2. データ解析から映像制作まで幅広い業務に接したナベプロ時代
    3. 日本初のハイビジョンライブ制作
    4. 無我夢中で取り組んだスペースシャワーTV開局
    5. 他業種とのコラボや新しい発想で活路を切り開く

 

1. アジアに興味を持った学生時代

−−前回ご出演いただきました、砂田さんとはどのようにお知り合いになったんですか?

金森:砂田さんは私がまだ若造だった頃にTBSから渡辺プロダクションに招かれたんですが、そのときは相当距離感がありました。私は渡辺音楽出版に在籍していたんですが、当時はやや低迷期で、新人を出すために渡辺プロで新人開発プロジェクトがスタートしたんですね。それでプロジェクト向けに色々と企画を書いていたら、それが砂田さんの目に止まったらしいんです。

 それで「一度話をしよう」と。砂田さんは自ら企画ミーティングを社内の会議室ではなくホテルのスイートでやったりしていて、外部の構成作家や演出家の方とか、多士済々な方を呼んでブレストをやっていました。そのうち私もそこに呼ばれるようになって、なんとなく砂田さんなりの企画の進め方に刺激を受けた記憶があります。そこからのお付き合いですね。色んな場所に連れて行っていただいたり、色んな方を紹介していただきました。

−−では、数十年来のお付き合いになるわけですね。

金森:そうですね。昨年、砂田さんは著書(『気楽な稼業ときたもんだ』)を出版されたんですが、そのときの出版記念パーティーは印象的でした。当時のTBSのザ・ベストテンのプロデューサーの方や往年のTV業界で活躍されていた著名な方々、所謂、芸能界で実力者と言われている方々も沢山いらしたんですが、バイオリニストのMASAKIさんのLIVEや、大学生の人達のお祝いのメッセージだとか、普通の出版記念パーティーとは一味違い、老若男女入り乱れて終始温かい空気に包まれた会でした。砂田さんの人望なのか、魅力なのかわからないですけども、年代を越えて慕われる方なんですよね。

−−本当にお元気ですし、雰囲気がありますよね。

金森:ええ。砂田さんはお酒を一滴も飲まないんですが、艶っぽい話も話題に事欠かない人なんで(笑)。砂田さんは良い意味での「不良」ですね。

−−ここからは金森さんご自身についてお伺いしたいのですが、お生まれはどちらでしょうか?

金森:生まれは富山です。富山は母方の田舎で、生まれてすぐに父の仕事の都合で父方の出身の金沢に移りまして、さらに幼稚園のときに東京に引っ越してきたんですよ。その後、小学2年生までは東京にいたんですが、父と母が別居しまして、また富山に戻ったんです。それから高校卒業まで富山にいました。

−−中学、高校時代に部活動はされていましたか?

金森:中学時代はブラスバンド部に入ってトロンボーンをやっていましたね。「お前、口がトロンボーンに合っている」と部活の教師に一方的に言われて訳わからぬままやっていました(笑)。

−−(笑)。

金森:高校ではがらりと変わってラグビー部と新聞部に入っていました。大学は早稲田大学だったんですが、その頃早稲田のラグビー部に宿沢広朗さんなど、かっこいい選手がいたんですよ。高校時代は憧れましたね。ただ、早稲田のラグビー部はあまりにも辛そうだから入りたくないなと(笑)。そこまで本気ではない趣味のスポーツサークルみたいなものがいっぱいあったのでラグビーのサークルに入って適当にやっていました。

−−その頃は音楽や芸能関係に進みたいとは考えていなかったんですか?

金森:全く考えていなかったですね。当時アジアに興味がありまして、早稲田には各国の大学と提携している交換留学制度があったんですね。その制度を利用してインドネシアのバンドンにある大学に1年半ほど留学しました。

 帰国後は、交換留学で日本に来る東南アジアからの学生のボランティアをやっていました。70年代迄は特に東南アジアからの留学生にアパートを貸してくれる大家さんがあまりいなかったんですよ。自国で一流大学を出て早稲田に来たというような優秀な学生も多かったのですが、日本から見たら「東南アジア人」というくくりでしかないので、当時は偏見のようなものがあったんですね。私はアジアからの友人が多かったので、「何かおかしいな」と思ってアジアに興味がある複数の大学の大学生達と横断的なボランティア団体を作って、大家さんと交渉したり、バイトを紹介したり、日本語を教えたりしていました。

−−それは素晴らしいですね。インドネシアを留学先に選ばれた理由は?

金森:結果的にインドネシアに行きましたが、明確な目的意識があった訳ではなく、早稲田の留学生の中にインドネシアからの友人がいて、インドネシアの話を色々聞いているうちに、一度行ってみたいなという軽い好奇心からが動機ですね。アジアであれば、バンコクだろうが上海だろうがどこでもよかったんです(笑)。

−−ボランティア活動までなさって、金森さんは真面目な学生さんだったんですね。

金森:ボランティアと言っても、今のボランティアとはちょっと違うんですよ。早稲田の近くにキリスト系の団体の文化施設があって、そこに色んな大学のサークルが集まっていて、そんな中でワイワイやっていたので、サークル活動をしているような感覚ですね。

−−とはいっても、麻雀やお酒ばかり飲んでいる学生も周りにいたわけですよね?

金森:それがあまりいなかったんですよね。みんな真面目というわけではないんですけど、中途半端な年代だったのかもしれません。団塊の世代の方はアクも強いし、遊びに遊んだ方もゲバに参加した方もいたかもしれないですが、私たちの世代は、あまり「俺が俺が」と前には出ない世代なんですよね。バックヤード的な事が得意な人が多いような気がします。

 

2. データ解析から映像制作まで幅広い業務に接したナベプロ時代

−−先ほど芸能関係には興味がなかったとおっしゃっていましたが、なぜ渡辺プロに入社されたんですか?

金森:大学が大学なので、マスコミ方面に興味があるという人が比較的多かったんですよ。当時、朝日新聞でバンコク・ソウルの特派員を務めた猪狩章さんという方が、新聞記者を目指す学生のための私塾みたいなものをやっておられたんです。僕も猪狩さんの書く記事には傾倒していたので、数人の仲間と参加して、「新聞記者になれれば」と漠然と思っていました。

 そして、いざ就職活動の時期となり、募集している企業の一覧を見に大学の就職課に行ったんです。就職課では、企業情報をアイウエオ順に並べていて、ア行から色んな企業情報を眺めつつ、たまたま最後にあったのが渡辺プロダクションだったんですね。興味本位で見ていたら「渡辺音楽文化フォーラム」という財団があって、“音楽を通じて日本とアジアの交流を図る財団”と書いてあったんですよ。これは面白そうだなと思って受けてみたんですが、プロダクションなので、テレビが好きだ、音楽が好きだという人の応募が多いじゃないですか?そんな中でアジアに興味がある奴なんて他にいないので、変な奴だとケチョンケチョンに言われまして「これは落ちたな」と思ったんですが、なぜか受かったんです。

−−その珍しさが良かったのかもしれないですね(笑)。実際入社されてからはその財団に配属されたんですか?

金森:渡辺グループとしての採用だったので、入社直後は、関連会社や部署を色々回って、3ヶ月後くらいに行きたい部署の志望を出す訳です。私はそのとき宣伝部を希望しました。宣伝部は新聞・雑誌社とかなり付き合いのある部署で、活字に親近感があったんでしょうね。多くの人はマネージメントや原盤制作ディレクターに憧れて音楽出版を希望したんですが、試用期間中、音楽出版の雰囲気とは絶対合わないだろうなあと感じていたので、「音楽出版だけは勘弁して下さい」と人事部長に頼んだのですが、意に反して同期8人の内、私だけが出版に行くことになってしまったんです。

−−音楽出版に配属されて、まずどんな業務担当されたんですか?

金森:入ってすぐ、アーティストのデータ分析をやらされました。当時オリコンに真鍋さんというデータ分析の神様のような人がいまして、詞や曲だけでなく、衣装やジャケットなど様々な面から指数化して分析していたので、各レコードメーカーやプロダクション、音楽出版は彼と契約して、データを元に詞や曲の制作の参考にしていたようです。

 その年の各新人賞を竹内まりやと桑江知子が争っていたんですが、渡辺プロからデビューした桑江知子が新人賞を獲るにはどうすればいいか、ということを調べてデータの結果を関連会社に行って話すんですよ。分かった顔して随分生意気なことを云っていたと思います。結果的には桑江知子の方が多くの賞を獲りましたけど、今思えばデータの分析はあまり関係なかったかもしれないですね(笑)。

−−(笑)。

金森:ただ、膨大なデータを数値化して分析していくので、そのデータの積み重ねには説得力がありました。数値傾向が出ていてそれに作品を合わせていくことは、ある種のマーケティングでしょうが、入社当初の一年位はそういうことをしていました。

−−当時は渡辺プロ内に「NON STOPプロジェクト」が立ち上がって、ニューミュージックを押し出していった時期ですよね。

金森:ええ。ヤマハのポプコンを筆頭としたニューミュージックが出てきて、アイドル、演歌に陰りが差し、「これからどこに向かえばいいのか?」と渡辺プロが迷っていた時期ですね。それで、鳴り物入りで大型新人として売り出したのが吉川晃司ですね。

−−その後はどのような業務を担当されたのですか?

金森:著作権の実務を担当しました。あの頃は会社にパソコンがなかったので手計算なんですよ。出版社は正確に権利者に再分配しないといけないので1円でも合わないと合うまで計算しないといけないんです。元々、計算業務なんて苦手な方ですから本当に大変でした。でも、今考えるととてもいい勉強になりました。やっておいてよかったですね。著作権の意識や、権利者に権利の対価を正確に渡すということの重要さが学べました。

 その後、出版の事業も段々多様化してきて、その流れで新規事業開発を目的とした企画・開発セクションという部署ができたんです。そこで色々と企画を考えました。渡辺出版は、ラジオ番組を収録して編集する小さなスタジオを持っていて、独自に番組制作も行っていたんです。当時私は映画が好きだったこともあって、今は『相棒』などを撮られている、和泉聖治監督と毎晩のように新宿のゴールデン街をうろついていたのですが、ひょんな事から、ラジオでリレー方式での映画監督のインタビュー番組を作れないかという話になった訳です。

 それで、色んな方に助けられながら、和泉さんからシリーズが始まったんですね。その後は大森一樹さんや相米慎二さん、長谷川和彦さん、井筒和幸さん等数多くの若手の映画監督が出演されたんですが、本当に楽しい番組作りでした。当時、話題作を色々作っている多くの監督に直に話を聞けて、さらにその後一緒に酒を飲みに行き、各監督の映画論を聞けるのも楽しい時間でした。先方からすると、渡辺プロだから映画を撮らせてくれるんじゃないか?という淡い期待も持っているので、そこにつけ込みながらやっていました(笑)。

−−(笑)。

金森:この映画監督シリーズを1年ほどやった後に、渡辺プロが渋谷西武で経営していたカフェをリニューアルすることになりまして、今の会長の渡辺美佐さんから担当するように言われたんですね。名前から何から全部変更するんですが、お店のリニューアルなどやったことがないので、当時「東京で流行っている店を色々観て勉強してきなさい」と、美佐さんが自分で乗っていたベンツを運転手付きで貸してくれました。3ヶ月くらい都内のお洒落なお店をぐるぐるまわって、色々なケーキを買い込んではスタッフで試食したり、パッケージや値段設定、各店のインテリアなどを調べて、美佐さんと話し合いながら決めていきました。

−−それはなんというお店なんですか?

金森:渋谷西武のA館の2階に今もあるんですが、当時は「サイドキックス」という名前でしたね。

 

3. 日本初のハイビジョンライブ制作

株式会社スペースシャワーネットワーク 代表取締役会長 金森清志氏

−−金森さんは渡辺音楽出版に在籍された12年で本当に色んな経験をされたんですね。

金森:データ解析に著作権、ラジオ番組制作、カフェの開店、それから、映像関係の仕事も多くしていました。プロモーションビデオですね。ディレクターの経験はなかったんですが、ちょうどMTVが始まって、プロモーションビデオが流行りだしたときだったので、映像のプロデュースにも関わるようになりました。たまたまイースト&ウエスト・ヴィジョンの井出情児さんという監督と懇意にしていたので、音楽映像のディレクションをお願いしていましたね。

−−映像を通じて色んな方と出会ったんですね。

金森:そうですね。その頃PVはあまり多くなかったですが、一本作る度に色んな広がりがありました。そういう流れがあって、吉川晃司のPVを作ったり、ライブ映像を作ったり、映画の宣伝プロデュースもやりました。86年には吉川のハイビジョンライブ映像も作る経験をしました。日本初のハイビジョンライブ映像ですね。

−−あの当時、既にハイビジョンでの撮影が可能だったんですね。

金森:作るのに1億以上かかると言われて、渡辺プロだけでは難しかったので、イマジカとソニーに共同制作のお願いに行きました。当時は日本にハイビジョンで撮れるカメラが2、3台しかなくて、先方としては実験として使いたいという意向もあったかと思います。吉川はその頃勢いもありましたから、ソニーとイマジカからの協力も得られて、スタジオ代、機材、編集代等はほとんど無料にしてもらったりと、随分力を貸していただきました。そして、ハイビジョンとしては、多分世界で初めて200インチサイズのライブ映像が完成し、関係者を招いて意気高々と有楽町の朝日ホールで試写会を行った訳です。

−−皆さん相当驚かれたんじゃないでしょうか?

金森:ええ。ですが、試写を観た吉川とは楽屋で大げんかになったんです。「画面が暗い。こんなものを頼んだ覚えはない」と。関係者から見れば当時の技術水準としては最高によくできていると思っていたんですが、アーティストから見た場合、そんなことは関係ないんですよね。技術的には良くできていても良い作品だと思えないと、それはもう失敗なんですよ。この出来事は非常に勉強になりましたね。同じように、ユーザーにとっては、レコーディングにかけた予算や期間は関係なくて、ただ良いか悪いかだけなんですが、関係者はかかった手間を作品の価値に置き換えるところがありますよね。

−−でも、苦労して作った作品を、アーティストが納得してくれないと辛いですよね(笑)。

金森:辛いですね(笑)。ですが、とにかくハイビジョンライブ映像においては、ハシリでしたね。先駆的なものでした。

−−では、そこから先はずっと映像の世界ですか?

金森:映像一筋というわけではありませんが、やはり映像関係の仕事が多かったですね。当時、キティエンタープライズとローソンが組んで色々なアーティストのライブ映像やインタビューが収録されたビデオマガジンを発売したんですよ。これをマンスリーでローソンの店頭で展開していました。渡辺プロも間髪入れずに、学研と組んでビデオマガジンを作り始めたんですが、その責任者を私がずっとやっていました。色んなアーティストのライブ映像や音楽情報、ファッション情報が入っているビデオマガジンで、2000円前後だったかな。毎月発行しなければならなかったので、メーカーやプロダクションからの権利許諾には苦労しました。

−−そして、89年にスペースシャワーTVに移られますが、どのようないきさつだったのでしょうか?

金森:88年に、中井(猛)さんが渡辺プロを辞めて、ヒップランドミュージックを立ち上げたんですが、その後にスペースシャワーTVの設立の話も進んでいたそうなんですね。それで私が渡辺音楽出版で映像のプロデュースをしているということで、声を掛けられた訳です。仕事の引き継ぎもありましたので、実際に移ったのは半年後の89年の6月ですね。

−−何か決め手はあったのでしょうか?

金森:すでにMTVの知名度はありましたが、日本でも24時間音楽を流すチャンネルが作れるということで、面白そうだなと思ったんですね。伊藤忠と組んで、衛星を使った日本で初めてのチャンネルを作るという話でしたので、スケール感がありましたし、誘われるがままというか、半分は業務命令みたいな感じでした(笑)。

 

4. 無我夢中で取り組んだスペースシャワーTV開局

株式会社スペースシャワーネットワーク 代表取締役会長 金森清志氏

−−金森さんはどのようなポジションでスペースシャワーTVに入社されたのですか?

金森:編成制作部長です。入社後すぐに立ち上げ準備を始めて、スタッフや事務所、スタジオを1から探しました。

−−実際移ってみたら、想像とはだいぶ違いましたか?

金森:全部初めてなので、イメージ自体が元々ないんですよ。だから右往左往しながらも無我夢中という感じでしたね。地上波と同じものを作っても仕方ないというイメージはなんとなくありました。スタッフが何人くらい必要か? スタジオの規模はこれくらい? どういった編成内容にするのか? …と試行錯誤の積み重ねでした。それはもう各人の勘とセンスでやるしかないんですよね。

−−ラジオ局とは違ってテレビ局の立ち上げは難しいですよね。

金森:中井さんの頭の中には、ラジオ局のようなイメージもあったらしいんですよ。ラジオ局のヘビーローテーションのように映像が流れればいいんじゃないかと。

−−それを少し大きくすればいいかと思っていたら違ったわけですね。

金森:映像と音はコストが全然違いましたね。みんなそこも分かっていなかったんです(笑)。皆最初は1億円くらいでできるかなと思っていたんですが、そんなサイズじゃ全く無かった。3年くらいであっという間に十億単位で増資しましたからね。

−−お手本がない中での開局は本当に大変だったんですね。皆さん家には帰れていたんですか?

金森:事務所にキッチンもバスも完備されていて、立派なマンションのような所だったので、帰らずに寝泊まりしている連中もいました。ずっとそんなですから、皆、公私のボーダーが崩れてきて、女性スタッフからは「いい加減に帰りなさい」「綺麗にしなさい」なんてしょっちゅう言われていましたね(笑)。日本で初めて通信衛星ができて、そのチャンネルを作るということですし、アメリカではすでにその成功事例もあって、情報通信のマーケットも拡大していたんですね。90年にはWOWOWがスタートしましたし、衛星時代の幕開けという感じで盛り上がっていましたね。

−−みんな明るい未来しか見えなかった?(笑)

金森:イケイケで資本金もどんどん膨らんでいきましたよね(笑)。バブルの時期と重なっていましたから、資本サイドもまだ余裕があったんでしょうね。もちろん資金的には途中から大変になりましたけど、スタート当初は皆、無我夢中で走っている感じでしたね。

−−苦労を忘れるほど面白かったという感じですか?

金森:正にそうですね。

−−ちなみに企業スポンサーなどはすぐに見つかったんですか?

金森:営業にはケーブルTV営業と広告営業があったんですよ。広告営業は、衛星放送という新しい媒体だったので、代理店もまだ先行事例がない。一般のクライアントは様子見の付き合いという感じで、当初広告では全然成り立たなかったですね。

−−では、基本はケーブルTVですか。

金森:ケーブルTVですね。その後96年にスカパーが立ち上がってインフラが広がってくると、だんだん媒体価値が出てきて、音楽業界の方からも出稿が増えてきました。

−−その後、色々なことがありつつもスペースシャワーTVは成長し続けていますが、その理由をどう分析されますか?

金森:やはり人と時代の組み合わせですね。この会社は半ば出会いの運でやってきた部分もありますよ。資金的には中井さんだけでは成り立たなかったでしょうしね。出資者の伊藤忠に篠木さん(元伊藤忠 常務執行役員)という方がいたんですが、音楽が全くわからないにも関わらず、資本サイドとしてガード役になってくれました。たまたま同世代だった中井さんと篠木さんの組み合わせの良さがあったから、成り立つものがあったんですよね。時代としてもいい時期に立ち上がりましたし、上場により、80億円近くに膨らんだ負債もチャラにできましたし。あとはやはり音楽に対する確固たる目線ですよね。スペースシャワーTVを立ち上げたときから、良質な音楽を流すメディアにしたいという想いがずっとスタッフの中心にあったので、基本的に音楽から外れたことはやってこなかったのもよかったと思います。

 

5. 他業種とのコラボや新しい発想で活路を切り開く

−−そして、金森さんは平成16年にスペースシャワーTV、平成19年にスペースシャワーネットワークの社長に就任されますね。

金森:スペースシャワーTVの社長をやっていた後半は、毎日のように中井さんからネットワークの社長をやれと言われていたんですよ。私のところに来て、耳元で「俺もう疲れたからさ、お前社長やれよ」って(笑)。

−−(笑)。

金森:私自身はスペースシャワーTVのサイズ感が丁度よかったので断っていたんですが、「身体の調子も悪いからさ」なんて言われると、ちょっと考えるじゃないですか。そういったことがきっかけで中井さんと代わったんですね。なので、ネットワークの社長がやりたかったというわけではなかったんですよ。

−−中井さんはやはり長年に亘る社長業にお疲れだったんでしょうか?

金森:本当に疲れていたと思いますよ。やはりストレスですよね。音楽業界や映像業界の企業が上場すると、立位置も違ってくるんですよね。得意分野以外の色々なタイプの方と関わらなければならないですし、常に業績は右肩上がりを求められますから、数字の負荷もあったでしょう。株価はいつも頭の中に貼り付いた状態だったと思います。

−−今、その大変さを実感されていますか?

金森:事業をやっていれば、みなさん同じですからね(笑)。ただ、違う尺度をもって物事を見ることができるという面もありますね。音楽業界の見方と、また違う目線が必要な場合もあります。

−−最近はライブハウス事業も展開したり、グループ全体としては拡大していますよね。

金森:基本的に音楽はアーティストが原点じゃないですか。私たちは放送から入りましたけど、ライブスペースがあれば、新人アーティストが出てくる為の機会も提供できますし、ビジネスとしても展開できるのではないかという部分でライブハウス事業もスタートしました。アーティストが生み出す付加価値として、レコードやライブ、映像、マーチャンダイジングと多岐に亘りますので、マネージメントビジネスも重要であると認識しています。

−−バウンディを子会社化してからは配信にも力を入れてらっしゃいますよね。(現在はスペースシャワーネットワークD&D事業部門に再編)

金森:2009年頃は、パッケージ流通の売上が45億くらいあったんですが、その45億が40億になって、35億、25億と減る中、その分配信が増えていますが、トータルではまだカバーしきれていない状況です。でも、バウンディの特色は、インディーズの各レーベルと幅広いお付き合いがあることなんですね。インディーズのレーベルを持っている方で流通の手段がない場合に、バウンディは、流通や配信、プロモーション機能があるというところで懇意にしていただいています。ですが、音楽自体がどんどんフリーに近いものになってきている現状では収益拡大化も簡単ではなくなりました。

−−頭の痛い問題ですよね。

金森:アーティストからユーザーに届ける手段に、どう付加価値をつけてマネタイズするかがすごく大事です。音楽業界すべての人が抱えている課題ですよね。

−−おっしゃる通りです。スペースシャワーTVの番組作りにおいて、どの年齢層に焦点を合わせているんですか?

金森:開局当時のターゲットは15歳〜20代前半でした。今でもそれはあまり変わっていないんですが20年経って、MTVやスペースシャワーTVなどの音楽専門チャンネルを経験した人たちが30代・40代になってきているわけですから、コアゾーンは変わってないんですけれど、年齢層はだんだん広がってきたという感じはします。

−−契約数は現在も順調に増え続けているんですか?

金森:前ほどは増えていないです。光以外は微増ですね。今はスペースシャワーTVが約850万世帯で、その内訳は、ケーブルTVが720万、スカパーが100万くらい、あとはNTTの光ですね。もう1チャンネルの「スペースシャワーTVプラス」が220万世帯ほどなので、合わせると1100万世帯弱くらいです。

 とは言え、媒体の大きさでメディアの価値が計れなくなってきています。新聞・雑誌もそうで、昔は何万部という発行部数で媒体の影響力が決まっていたんですが、ユーザーのライフスタイルはかなり変化していますし、契約世帯数が価値基準の中心というより、今後は例えば、スマートフォンなどの新しいデバイスでどうやってコンテンツをユーザーに届けるかということを考えていかないといけないですね。

−−スマートフォン対策はすでにされているんですか?

金森:KDDIと昨年資本提携して、ライブコンテンツをスマホ向けに生配信するなどの新しい試みも行っています。「1家に1台」のテレビからパソコン、ケータイへと個人のインフラツールとなり、それがスマートフォンになって映像も視聴できるとなると当然ライフスタイルが変わりますし、情報を得る方法や音楽を楽しむ方法がどんどん変化しています。

−−多様化がここまできてしまうと何が何だか分からないですよね。

金森:そうですね。多様化して価値が分散するのは時代の流れでしょうが、それが集約されて権利者に還元されにくくなってしまうことが問題なんですね。マーケット自体が細分化したものだから、その中からマネタイズできるものが少なくなってきている。それとリンクして音楽のマーケットも段々と縮小化しています。

−−従来のような手法でマネタイズしにくくなってきているのは、何も日本に限ったことじゃないですよね。

金森:10年程前、韓国や台湾で音楽チャンネルが立ち上がった当時は、日本国内のレコードメーカーもアジアに進出しようという積極的な雰囲気があったので、5〜6社からスポンサードしてもらって、韓国と台湾でSSTVで制作した音楽番組を放送したりしてました。日本人アーティストのプロモーションビデオを流すことで、アジアでもCDが売れるんじゃないかという考えがあったんですが、10年経って気がついてみたら、韓国の方が圧倒的に強くなっていたんですよね(笑)。

 先日も、当社も協力したM-netという韓国の音楽チャンネルのアワードイベントがさいたまスーパーアリーナで開催されたんですが、想像した以上に若い子たちがたくさん来ていて、チケットは即完らしいんですよ。大阪で開催された韓国の音楽アワードも同じように盛況だったそうなんですが、今後の音楽マーケットの拡大という視点で考えると、韓国の力強さに学ぶ点も多いかと思います。

−−現状、日本のアーティストでアジアを目指した人たちも、結局は大きな成果を出せていないですよね。

金森:マーケットはあるんでしょうし、日本の音楽は受け入れられているんでしょうけど、結局はそれを伝える為の継続的なインフラの有無が大事なのかなと思います。例えば、コンビニ業界はここ数年積極的にアジアに進出していますよね。一方、国内ではエンターテイメント業界もチケットや音楽商材、イベント、BGM等の情報発信のインフラとして、各コンビニ企業と連携を強めてますよね。コンビニでしたらアジアに今後も一万店単位で展開してゆくでしょうし、単独でアーティストなり、メーカーが進出してゆくにはリスクも大きい故、コンビニなど他業種とのコラボレーションによって進出を図ってゆくというような発想が求められるんじゃないかと思います。国内のようにはスムーズにいかないかもしれませんが、日本のエンタメコンテンツにとって重要なハブになる可能性はあるかなと思うんですけどね。

−−なるほど。具体的にそういう動きはあるんですか?

金森:チケット分野ではトライアルの動きもあるようですね。日本では韓国のように官民一体でできないので難しい部分もありますが、音楽業界の発展拡大のためにも積極的に取り組んでゆく課題かと思います。

−−本日はお忙しい中ありがとうございました。金森さんのご活躍とスペースシャワーネットワークの益々のご発展をお祈りしております。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

ハイビジョン映像の制作や、衛星放送局の立ち上げなど、何も前例のない中、時代の最前線を常に走ってこられた金森さん。ゼロから創り上げる苦労も楽しめてしまう精神力と、会長に就任された今でもコンビニなど他業種との協業を考えつく柔軟さも印象的でした。スペースシャワーネットワークを拡大し続けてきたその手腕で、音楽業界全体を盛り上げてくださることを期待しています。

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