第57回 林 真司 氏 エイベックス・マーケティング・コミュニケーションズ(株) 代表取締役社長

インタビュー リレーインタビュー

林 真司 氏
林 真司 氏

エイベックス・マーケティング・コミュニケーションズ(株) 代表取締役社長

今回の「Musicman’s リレー」は、(株)ワタナベエンターテイメント 取締役制作本部・音楽事業本部長 吉田雄生さんからのご紹介で、エイベックス・マーケティング・コミュニケーションズ(株) 代表取締役社長 林 真司さんのご登場です。学生時代は松浦勝人氏(エイベックス・グループ・ホールディングス(株) 代表取締役社長)と小林敏雄氏(同社 常務取締役)とともに、赤字経営だった貸レコード店を、日本全国に知れ渡る店舗へと押し上げ、松浦氏の誘いで入社したエイベックスでは営業・マーケティング活動の最前線で邁進。皆さん、ご存知のようにエイベックスは日本有数のレコード会社へと発展しました。林さんのルーツである貸レコード屋時代から、エイベックスの現在の取り組みまで、たっぷり語って頂きました。

 

プロフィール
林 真司(はやし・しんじ)
エイベックス・マーケティング・コミュニケーションズ(株) 代表取締役社長


昭和39年6月8日生
平成2年5月 エイベックス・ディー・ディー株式会社
(現:エイベックス・グループ・ホールディングス株式会社)入社
平成5年4月同社 取締役
平成8年3月同社 商品事業本部副本部長
平成8年6月同社 常務取締役(現任)
平成17年4月エイベックス・マーケティング・コミュニケーションズ株式会社
 代表取締役社長(現任)

 

    1. 商売の楽しさ、大変さを学んだ学生時代
    2. 「楽しんで売ってほしい」〜松浦氏の誘いでエイベックス入社
    3. 『ジュリアナTOKYO』シリーズの大ヒット
    4. 常識にとらわれない考え方と売る情熱〜エイベックスの大躍進
    5. 営業活動はマーケティングの川上である
    6. 音楽を聴く楽しさや習慣を伝えていきたい

 

1. 商売の楽しさ、大変さを学んだ学生時代

−−吉田雄生さんからのご紹介ですが、吉田さんとはどのようなご関係なのですか?

林:10年くらい前に私が宣伝部長をやっていた時に、吉田さんはニッポン放送で制作・編成をされていました。彼は人一倍音楽マインドを持っていて、常にアーティストの視点で考えてくれるので、アーティストの売り方の相談や、私たちが開発したアーティストの魅力について話し合いました。彼は僕の一つ先輩なんですが、同世代なので、いつからか友達のような感じで色々相談していまして、かれこれ11〜2年の付き合いになります。

 今は半年に一回くらいゴルフへ一緒に行ったり、食事をしたりしています。彼もニッポン放送を辞めて、一生懸命アーティスト開発をやっているので、時々お会いして、お話させて貰っています。

−−ここからは林さんご自身のお話を伺いたいと思いますが、ご出身はどちらですか?

林:生まれは千葉県館山市で、3才までそこで過ごしたんですが、その後は神奈川で育ちました。最初は横須賀の追浜にいまして、幼稚園くらいに横浜へ移り、そこで小中高と通いました。その高校時代の友達が、社長の松浦と常務の小林です。

−−その地元の友達3人が、エイベックスという組織の中で今でも繋がっているわけですから、すごいですよね。

林:変ですよね(笑)。

−−変と言いますか、滅多にないことだと思います。

林:小林は小学校1年2組の同級生ですからね。36年目の付き合いというのは、数奇な運命ですよ(笑)。彼以上に付き合いが長い人間は、今後出てこないんじゃないかと思うくらいです。

−−そこまで長いと親より付き合いが長い感じですね。ちなみに松浦さんとは?

林:松浦は高校1年の時の同級生です。これは1年4組です(笑)。彼とは音楽と言うよりもオートバイで接点があって、松浦も含めた高校の友人たちと、ツーリングをしたりしていたんですが、ひょんなところで、同じアルバイトをすることになってしまったのが19才のときです。

−−それがよく話に出る貸レコード屋さんですか?

林:もともと僕と小林で16歳の頃からアルバイトをしていた「小僧寿し」という持ち帰り寿司のチェーン店があって、そこのオーナーが貸レコードの「友&愛」のフランチャイズをやるというのが、僕らが19歳の時だったんです。

−−林さんは最初「小僧寿し」でバイトされていたんですか!?

林:そうです(笑)。今はああいった持ち帰り寿司は機械で握っていますが、当時は手で握っていました。今でも憶えているんですが、シャリの量が22gと決まっているんですよね。それで、おにぎりを握ったりする時に「昔みたいに握れるのかな?」と思ってやってみると、これがちゃんとご飯を22g取れたりするんですよ(笑)。ちょっと職人みたいな感じですよね(笑)。

−−ちなみに松浦さんもお寿司を握っていたんですか?

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林:いや、その時は僕と小林だけです。そこのオーナーの重野(正昭)さんという方が、飲食業ではなくて、会員ビジネスみたいなものをやりたいと始めたのが「友&愛」だったんです。その店は僕らが一浪して大学に入った時にできて、僕と小林が重野さんと一緒にやっていたんですが、なかなか上手くいかなかったんですね。

 それで、たまたま大学が一緒だった松浦と、大学の休講掲示板の前でバッタリ会って、松浦から「何のバイトをしているの?」と聞かれたので、「貸レコード屋でバイトをしている」と言ったら、「僕にもバイトをやらせて欲しい」とついてきたんです。  でも、店が上手くいっていませんでしたから、人件費は払えませんし、オーナーもバイトは増やしたくなかったのですが、松浦は音楽が大好きでしたし、「時給なんて幾らでもいいから」と入ってきたのが、3人で仕事をするきっかけでした。

−−そのお店はどちらにあったんですか?

林:横浜の港南区の港南台に第一店舗目がスタートして、よく話に出てくる上大岡店というのが、僕と松浦が2人だけでオープンさせた2店舗目だったんです。ですから、大学の4年間というのは、ほとんど大学へ行かずに、お店のオペレーションをしていました。

 今から考えますと、当時も今もあまり役割が変わっていなくて、貸レコードの仕入担当が松浦で、レコード会社で言うと制作じゃないですか。お店のオペレーションと毎日の営業の管理は僕で、これは営業・マーケティング。小林は経理をやっていましたから、それが今も全く同じなんです(笑)。

−−一部上場企業になっても全く同じですね(笑)。

林:こんなんでいいんでしょうか? という感じですよ(笑)。僕は制作も経理もどちらも上手くなかったので、エイベックスでは、営業、制作、宣伝、編成管理をやって、そして今、マーケティングや営業サイドをやっているので、僕だけポジションが動いているんですが(笑)、松浦と小林は全く変わっていませんね。

−−不思議というか、すごい話ですよね。林さんご自身は、ごく普通のご家庭で育った、ごく普通の少年だったわけですね。

林:そうですね。学校もずっと公立でしたし、ごくごく普通の育ちです。16才でオートバイの免許を取った時も、親には「絶対バイクは買わないから」と言いつつ、免許を取ってからこっそり買っちゃったり(笑)。オートバイで学校へ行って、小僧寿しへ行って…みたいな生活でした(笑)。

−−その当時、将来の夢とか何かありましたか?

林:そんな大それた夢はなにもなかったですね。ただアルバイトをしていたので、親からお小遣いを貰っているだけの子よりも、できることは多かったと思います。

−−他の級友達はあまりバイトをしていなかったんですか?

林:僕が通っていた高校は進学校だったので、夏休みとか期間限定でやっている人はいましたが、定期的にやっている人はあまりいなかったですね。

−−林さんは勤労少年ですね。

林:(笑)。小僧寿しでもシャリ炊きとかあって、夏休みの間は日曜日とか、小遣い欲しさに朝の5時半から店に行ってました。あとオーナーの重野さんがとてもいい人で、僕らもウマがあったんですよね。重野さんはつい2年前までエイベックスの監査役をやっていたんですよ。

−−そうなんですか。それは知りませんでした。

林:ですから、お金を稼ぐことよりも、そこにいることが楽しいみたいなところがありました。「将来何をやろう?」とか、「事業家になろう」とか、何もなかったですが、「小僧寿し」というお店を通じて、無意識に、お店の在り方や商売の楽しさ、大変さ、そして仕事をすることの楽しさを体験していたんじゃないでしょうかね。

−−では、嫌々仕事をされていたわけでは全然ないんですね。

林:それはなかったですね。だって、一番最初は時給390円ですよ。当時としても相当安かったと思います。

−−例えば、普通の高校生みたいに、学校でクラブ活動して、女の子と遊んで、みたいなことにはあまり興味がなかったんですか?

林:僕は中学でテニスをやっていたんですが、休みは元旦くらいしかないハードな部で、高校に入学して「中学であれだけやらされたから、もう嫌だな」みたいな反動がありましたし、アルバイトの方が面白いなと思ったんでしょうね。

−−音楽は当時から好きでしたか?

林:松浦と違って、僕はバンドを組んだ経験もないですし、楽器も弾きませんでしたから、単に一リスナーでしたね。僕らが16〜7才の時はFM局の開局ラッシュで、エアチェックがすごく流行った時期でした。小僧寿しでアルバイトしていても、寿司を握りながらTOKYO FMや、ニッポン放送のベストテン番組を聴いていました。3時間くらいラジオを聴きながら仕事していたのが思い出に残っています。

 

2. 「楽しんで売ってほしい」〜松浦氏の誘いでエイベックス入社

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−−ここまでお話を伺うと、本当に普通の高校生ですよね。今日のお立場を想像しづらいくらいに。

林:すごく普通だったと思います。ただ、大学時代に貸レコード屋を始めた時に、一軒目のお店でものすごく苦労をしたんです。つい2、3年前にオーナーだった重野さんに、当時1か月どのくらい赤字だったのか聞いたことがあるんですが、毎月100〜200万赤字だったらしいです。確か、その当時は月商が150万とか、そのくらいしかなかったのに、月100〜200万の赤字ですから、すごく大変だったとおっしゃっていました。

 そのお店をこのままじゃ閉めるしかないから、重野さんが「お前達の好きにやっていいよ」とおっしゃってくれて、そこから3人でやり始めたんですが、僕の記憶だと、その月商150万のお店を、最後は月商2,500万くらいにまで、みんなで持っていったんですよ。

−−それが港南台のお店ですね。

林:そうです。その間に上大岡にも店を作りましたから、2店舗合わせて月商4,000〜5,000万くらいまでになりました。

−−それはすごいですね!

林:「どうやって売上を上げていくか?」ということに取り組んだのが、僕らの大学4年間なんです。あえて言えば、ここが今に繋がる部分なのかなという気がしますね。

−−それは大学生とは名ばかりで、実態は起業家じゃないですか。

林:大きな声では言えませんが、お店で過ごす時間の方が大学で過ごす時間より圧倒的に長かったです。

−−では、学生時代からお三方ですでに事業をされていたということですよね。

林:事業と言いましても、借り入れとか、お金の負担はみんなオーナーが担いでくれていましたから、僕らは雇われマネージャーみたいな感じでしたね。

−−ちなみに何が月商150万の店を2,500万の店にしたんですか?

林:話すと長くなってしまうんですが、まず競合店と我々のお店の強みと弱みを考えました。そんなに学があったわけでもないですし、ロジカルに考えたわけでもないんですが、「なぜあの店の方がお客さんが多いんだろうか?」、「なぜうちは会員が増えないんだろ?」と考える中で、在庫数や会員数、入会金の設定など、強み・弱みを全部整理して、単純にそれに対する対策をしました。例えば、宣伝やキャンペーンなど、その繰り返しですね。

−−その当時、港南台には競合店があったんですね。

林:ありました。その競合店がおそらく月商500万くらいでやっていたんです。うちが月商150万で、その店が500万だから、この町には月650万のマーケットがあるわけじゃないですか? ですから可能性としては月商650万までは持っていける、というところから始めました。

−−きっちりマーケティングしてますね。

林:月曜日の朝から日曜日の夜の閉店まで、3人でカウンターを持って、ずっと競合店の来客数を調べて、平均客単価は大体分かりますから、向こうの売上を調査して、向こうが会員3万人で、こっちが3,000人だとしたら、論理的には会員を10倍にすれば月商500万までは行くんじゃないか? とか、今会社でやっていることと全く同じことを、当時もやっていましたね(笑)。

−−本当にやっていることが変わりませんね(笑)。

林:役割も変わらなきゃ、やっていることも変わりません(笑)。でも、自分たちが色々と取り組むことによって、来客数は増えましたし、お客さんには喜んで頂けたり、そういった反応が目の前で起こるので、すごく面白かったですね。

−−普通のアルバイトは、あまりそういうことを考えませんよね? もらっている時給で、いかに楽できるか考えちゃうじゃないですか?

林:確かにそうかもしれませんね。そういう意味では、オーナーの人柄とか、色々な要素があったのかもしれません。

−−オーナーの人柄と、林さん達が潜在的に持っていたマインドが上手くかみ合ったと。

林:そうかもしれませんね。

−−では、大学時代は貸レコード屋の店長みたいなもので、卒業したら就職とかは一切考えなかったんですか?

林:いや、僕は家族から「ちゃんと就職活動しろ」と言われていましたので(笑)、大学を卒業してから銀行員をやっていたんですが、意気地なしだったので2年で辞めました(笑)。

−−銀行員を2年間されていたんですか…。

林:ですから、最初からエイベックスでやっているメンバーという意味では、社長の松浦と常務の小林なんでしょうね。

−−林さんが銀行員をされている間に、エイベックスはできたんですか?

林:大学4年の時(’86年)に会社自体は登記しているんです。僕らが横浜で貸レコード屋をやっていて、月商2,000万をあげるくらいになったので、日本中で有名になっちゃったんですよ。それで松浦が作りあげたダンスミュージックの12inchの仕入ノウハウを、全国の貸レコード店に展開しないか? と話を持ちかけてきたのが、初代社長の鈴木一成なんです。

 ですから、立ち上げた当時のエイベックスというのは、別にレコード会社をやろうとして立ち上げたのではなくて、貸レコードの仲間達と、貸レコード業界に対して何か商売ができないか? ということで作られたんです。

−−銀行を辞められて、エイベックスに入られたきっかけは何だったのですか?

林:松浦が呼んでくれたんです。実は2回そういう話があって、1回目は僕が甘ったれて、「銀行は面白くないから…」と言ったら、松浦から「お前なんていらないよ」くらいの感じで突っぱねられました(笑)。2回目は向こうから、「輸入ビジネスだけではなくて、レコード会社をやろうと思っている」という話があって、僕からしてみれば、2年間ほとんどコンタクトがなかったのですが、いきなりそういう話が出たもので、「えっ!?」という感じでした。

−−当時のレコード会社はメジャーどころばかりでしたからね。

林:僕からしてみると当時のレコード会社は、東芝EMI、ソニー、ポリグラム、ビクターとか、大資本の会社というイメージがありました。しかもハードメーカー系や外資、あとTV局系みたいな感じで、インディーズなんてほとんどなかったですからね。

 それで詳しく聞いてみると、輸入盤を仕入れる付き合いのつてで、アーティストやレーベルからライセンスをしてもらう仕組みは作れたので、レコード会社をやりたいということだったんです。それで「それを売る営業担当で来てほしい。また一緒にやろう」と言ってくれたのが、全ての始まりだったと思います。

−−サクセスストーリーの始まりですね。

林:普通に音楽を聴いていた人間にしてみると、2年間その世界から離れていたというのは、まさに浦島太郎状態なわけです(笑)。ですから、「音楽を商売とする中で、僕ができることは限られているし、本当に僕でいいのか?」と質問をしたら、松浦は「楽しんで売ってくれる人間にやってもらいたいんだ」と言ってくれまして、「それだったらできるかもしれない」と思ったんです。

 

3. 『ジュリアナTOKYO』シリーズの大ヒット

−−松浦さんに声をかけられて、エイベックスに入って、そこからは破竹の勢いですか?

林:いや、そんなことないですよ(苦笑)。だって、初めはユーロビートだけですからね。僕らが貸レコードでユーロビートやハイエナジーと呼ばれるものを並行輸入で買っていた時は、六本木のスクエア・ビルなんか1Fから最上階まで全部ディスコ、みたいな状況でしたから需要もありましたが、ブームが去って、セールス枚数が下がっている時に、うちがユーロビートでレコード会社を立ち上げたので、最初は大変でした。

 当時、うちの販売会社は創美企画と言いまして、今のハピネット・ピクチャーズの前身なんですが、創美企画というのは映像の販売会社だったので、なかなか売れなかったです。

−−その当時はどんな日々だったんですか?

林:松浦たちが曲を見つけて、ライセンスして、ディスコでプロモーションして、というのに対して、僕らは創美企画の営業部だけだと商品がなかなか入っていかないので、小売店を個別訪問していました。

−−やはり、ディスコでのプロモーションが第一歩だったんですか?

林:そうですね。

−−千葉さん(千葉龍平氏:エイベックス・グループ・ホールディングス(株) 代表取締役副社長)とかがやっていたんですよね?

林:いえ、まだその頃は副社長の千葉とは知り合っていませんでした。うちが『スーパーユーロビート』という作品の後に『マハラジャナイト』というのを出したんですが、その時に千葉とは知り合ったんです。

−−『ジュリアナTOKYO』と『マハラジャナイト』はどちらが先ですか?

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林:『マハラジャナイト』が先です。当時ユーロビートは下火になっていたんですが、3万枚くらい売れたんですよね。

−−なぜ、売れたんでしょうか?

林:外から見ると、エイベックスという会社は制作とか企画が強いというイメージかも知れませんが、僕はマーケティングに長けた会社だと思っています。制作や企画というのは、その基盤にマーケティングがあるわけですからね。

−−ユーロビートもマハラジャも、すでにあったものですものね。それが売れたとなるとマーケティングに成功したことになる、と。

林:『スーパーユーロビート』も『マハラジャナイト』も、そこに収録されているアーティストの知名度は、圧倒的に低いわけです。また、1曲だったらいい曲を歌っているけれど、アルバムは作れないというアーティストばかりだったので、そういった曲を20曲入れてアルバム一枚にしたわけです。あとはそれを『スーパーユーロビート』という冠にするか、『マハラジャナイト』という冠にするか、ということですよね。

−−「スーパーユーロビート」シリーズというのは、今も出続けているんですか?

林:今も続いています。No.160を突破しています。その後、ユーロビートも30万枚くらい売れるようになって、色々なメーカーさんも再び参入されて、今は条件が変わってきていますが、あの当時はみんな出すのを止めてましたから、まさにニッチビジネスだったんでしょうね。

−−ユーロビート自体は松浦さんが好きだったんですか?

林:そうです。彼はダンス・ミュージックが大好きでしたからね。

−−「どこから見つけてくるんだろう?」というくらいマニアックでしたよね。

林:当時の情報収集源は「ビルボード」と「レコード・ミラー」くらいで、情報が全然なかったですからね。ロンドンのダンス・チャートに入っている楽曲を売っている店なんか、六本木にあったウイナーズという輸入盤店と、WAVE、CISCOくらいでしたからね。

−−’88年のエイベックス設立から、どのあたりで調子が出てきたんですか?

林:「ジュリアナ」の頃ですから、’90〜’91年くらいだと思います。

−−ということは設立2年後くらいには、もうすでにブレイクしたんですね。

林:そうですね。『ジュリアナTOKYO』の頃はすごかったですからね。それでも一番最初の『ジュリアナTOKYO」シリーズは、イニシャルで1万枚つけるのが大変でした。オムニバスで30万枚売れるなんていうのは、後からついた理屈であって、当時はそんな考えはなかったですからね。

−−確かに「オムニバスが売れる」という発想自体ありませんでしたよね。

林:ただ、当時はHMVとヴァージンが入ってきたばかりで、ものすごく個性的なバイヤーさんがいて、話していると乗ってくれる人も結構いました。今でも憶えているんですが、新宿のヴァージンに行って、『ジュリアナTOKYO』の説明をしたら、「うちは1,000枚とる」と言われて、思わず驚いちゃったんですよね(笑)。

−−その場で1,000枚ですか!?

林:その場でです(笑)。本当にビックリしました。それまで僕らの1店舗の最高イニシャルは、『スーパーユーロビート』や『マハラジャナイト』時代も20枚くらいだったのに、いきなり1,000枚ですからね。

−−一気に50倍ですものね。

林:そのバイヤーは、その後エイベックスに入ってきた本根 誠という男で、彼が「1,000枚」と言ったんです。でも、そういうお店があっても、イニシャルは全国で1万枚くらいしかいきませんでした。銀座の山野楽器さんはじめ、いろいろなお店のバイヤーさんに頭を下げて、なんとか全国で合計2万枚くらいからスタートしたものが、確か30万枚くらい売れたんです。

−−その時の感触というのは憶えてらっしゃいますか?

林:デイリーで来る注文に対して、ただ「どうやって商品を作って、追いつけようか?」と、そればかり考えていました。とにかく自分たちが経験したことのない追っかけ回され方だったので、感動するとか、ビックリする暇すらなかったですね。

−−でも、エイベックスで仕掛けた作品なわけですよね?

林:「ジュリアナ」という冠をつけたCDを仕掛けたのはエイベックスだったかもしれませんが、「ジュリアナTOKYO」というディスコを仕掛けたのは、うちじゃないですからね。

 今にして思うと、経験値にないものというのは、仕掛けている感というのも薄いのかなと思いますね。その後、200万枚売ろうとか、東京ドームをディスコにして5万人集めようとか、戦略的に仕掛けていった時とは、ちょっと違ったと思います。

 

4. 常識にとらわれない考え方と売る情熱〜エイベックスの大躍進

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−−先ほどお話に出た東京ドームのイベントは、どのようないきさつで始められたんですか?

林:松浦たちと「東京ドームみたいなところでディスコをやったら面白い」と話していて、CDがここまで売れたのもお客さんのおかげなんだから、お客さんに還元するイベントをやろうというところから始まったんです。でも、東京ドームでイベントやコンサートをやったことがなかったので、制作費が幾らかかるか全然わからなかったんですね。それで経費を積み上げていったら、最低でも1億8,000万円くらいになるとわかって、「これは大変だ…」と(笑)。

 当時の売上や経常利益を考えたら、いくらジュリアナが売れたからといっても、1億8,000万は我々にとって大変な額でした。そうしたら依田さん(依田 巽氏:現 (株)ドリーミュージック 代表取締役会長)が「無料でやれ」と言ったんですよ。松浦も「無料がいい」と言うのはいいんですが、そこで「どうやって5万人のお客さんを集めるか?」が問題になったんです。

−−確かにタダとは言え5万人を集めるのは至難の業ですよね…。

林:「ジュリアナでお客さんに招待券を配ればいい」という意見もあったんですが、来るか来ないか分からないお客さんに5万枚のチケットを配って、当日1万人だったら大問題ですからね。

 それで色々とアイディアを練る中で、0円のチケットをチケットぴあで配券してもらうことにしました。つまり、無料チケットを3,000円くらいの見なし価格にして、チケットぴあさんには手数料15%だったら450円を渡そうと。もう1億8,000万かかっているから、この手数料もコストに乗せようということになったんです。

−−タダのものを手数料かけて売ったんですか!

林:5万人の配券だから、2,000万くらいかかるわけです。ですから、結果、計2億円のコストになりました。それでチケットぴあで売ってもらったら、タダのチケットが15分で即完売しちゃったんです。ただ、これでもまだ信用できないので、当日はドキドキしながら東京ドームへ行ったんですが、なんとタダのチケットにダフ屋が出ていたんですよ(苦笑)。その時点でやっと「よし!」という感じになりました(笑)。

−−(笑)。

林:それで中に入ってみたら、東京ドーム内がすごいことになってました。

−−実は私も1、2回目とも行ったんですが、5万人が踊る様はとにかくすごかったです。

林:ご覧になっているのなら分かると思うんですが、あんな光景はないですよね(笑)。すごいエネルギーだったと思います。あの時はコンセプトもはっきりしてましたし、CDを応援してくれた人達に楽しんでもらうイベントを作ろうと、全て戦略的にやりましたから、東京ドームに入って、その光景を目の当たりにした時は、鳥肌が立ちました。

−−あのあたりからは「いける!」という感触があったんですか?

林:あれは本当に当たりましたし、あの東京ドームがTRFの実質的な初ステージでしたからね。

−−TRFというグループはどのようにして生まれたのですか?

林:当時、ロンドンのダンス・ミュージック・チャートを見ると、PWLというレーベルが新人のアーティストをどんどん送り込んでいたんです。そのPWLというのは、ストック・エイトキン・ウォーターマンという3人のプロデューサーがやっているらしいとわかったんですが、「なぜTVやMTVで見もしない無名のアーティストが、どんどんチャートに入ってくるんだろう?」というようなことを松浦が考えたんです。

−−そこにヒントがあったんですね。

林:そうです。PWLをヒントに、プロデューサーに小室哲哉さんを起用して、踊れて歌えるダンスユニットを作り、すでにダンスミュージックに特化したレーベルとして設立していた「avex trax」からリリースしようと、松浦が考えたんです。

 その後のglobeも、あの時はジュリアナが全盛で、売れるアーティストにはテクノで、ラップのパートは男子、そこにキーの高いクリアな声質の女性、というアーティスト、例えばアルファ・レコードから出ていた2アンリミテッドのようなアーティストが多かったので、これの日本語ヴァージョンを作ったら、絶対に売れるんじゃないか? というのが、一番初めのコンセプトです。

−−やはり綿密なマーケティングがあったんですね。

林:そうですね。綿密かどうかはわかりませんが(笑)。

−−その法則みたいなものを見抜くのはやはり松浦さんなんですか?

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林:当時も今も、そういうセンスは彼が一番ありますね。

−−数式を解く人ですね。

林:数式を解くのも、数字にするのも、彼はすごく苦手なんです。ただ、感覚的にそういうものを見抜く力はずば抜けていますので、「こういうことをやりたい」というアイディアが僕らの元におりてきて、それを具現化するというチームですね。

−−そこから先は誰もが知っているエイベックスのサクセスストーリーですね。

林:そうですね。ジュリアナ東京の頃には、販売会社も日本クラウンに変わっていましたし、日本レコード協会の加盟社となってましたから、いわゆるレコード会社の仕事になっていました。

−−傍から見て、エイベックスはヒットを出す確立が非常に高いですよね。

林:何でそんなに上手くいったのか? とよく聞かれるんですが、アーティストの素材に恵まれたんだと思います。

−−でも、その素材を見つけてくるのもセンスですよね。

林:今にして思うと、当時の僕らの考え方が業界の常識の範囲の中ではなかったと思いますし、だから外から見ると面白いことを考えているように見られたと思います。また、「売る」という情熱に関しても、ものすごく強く感じられたでしょうしね。この2つがすごく大事だと思います。

−−エイベックスの出現と成功は痛快ですよね。1インディーズレーベルのような存在であったエイベックスが、あれよあれよという間に、一気に昇りつめるていったワケじゃないですか?

林:その当時も今も、「なぜ? どうして?」と考えることを大事にしようと言っているんですが、その当時は特にその意識が強かったような気がします。

−−当時、夜11時くらいにエイベックスに電話をすると、「今から会議なんです」とか言われて、「なんだかすごい会社だな」と思いましたよ(笑)。

林:そういったところは、今もたいして変わっていないと思います(笑)。

 

5. 営業活動はマーケティングの川上である

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−−一昨年、エイベックスには大きな組織改編がありました。外部から見ていて、創業時から支えてくれた人々から、一世代若い人たちにバトンが渡されて、会社が若返ったのかなと感じていたのですが、林さんはどのようにお考えですか?

林:人間って不思議なもので、初めは何でも吸収して学び、色々な考え方を取り入れていたのが、それが身に付いてくると、その身に付いてきたもので物事をやろうとする癖があるような気がするんです。

 それは誰が良いとか、悪いという話ではなくて、僕の中にも「俺はこういう風に成功してきた」みたいなものを押し付けるようなところが、出てたんじゃないかな? というふうに思うんですよね。つまり、自分たちが10年、15年と経験を積むに至って、初めはすごくピュアに「なぜ?」と考えていたのに、15年経った時に「こうなんだよ」と言っている自分を見てしまったような気がするんです。

 だからこそ、そこからの脱却という部分において、第一創業期に一度ピリオドを打って、第二創業期に入ることは必要だったと思いますし、まだ不完全な部分も多いですが、組織自体が若返ってきていると思います。

−−ご自身も2年前で一旦リセットされた感じですか?

林:そういうところはあると思います。かれこれダッシュで15年間来てしまって、最後の5年間くらいは、もう走れないのに走っていたところがあったような気がするんですね。そこで一呼吸入れられて、もっと早く走るためには自分の体をどのように改造しなくてはならないのかを考えるきっかけになったと思います。

−−社内では色々と試行錯誤をされているんでしょうが、外から見るとエイベックスのこの2年間は上手くいっているんではないかと感じます。

林:トライ&エラーの繰り返しですけどね(笑)。

−−エイベックスの組織改革が行われて、大きく5つの組織に分かれましたが、林さんが代表を務められているエイベックス・マーケティング・コミュニケーションズ(以下 AMC)の役割をご説明頂きたいのですが。

林:エイベックス・エンタテインメントから供給された商品や、外部のプロダクション/レーベルから直接受託販売を請け負った商品を、営業・宣伝活動に乗せることが我々の仕事です。具体的には、全国レコード店及びCDを販売して下さっている契約店さんに対する商品の供給、ディストリビューションとマーケティング活動といった営業活動と、東京以外の地方のラジオ局やテレビ局、新聞や雑誌、フリーペーパーといったメディアに対するエリアプロモーションが大きな役割です。

−−営業所は全国にあるんですか?

林:札幌、名古屋、大阪、福岡にあります。

−−営業の現場にいる側として、制作サイドに何かフィードバックさせたりもしているんですか?

林:営業が得た「現場の生きた情報」は、マーケティングに特化したマーケティング戦略本部というセクションに集約され、日々「どのように売っていくか?」を考えています。さらにこうしたエンドユーザーのニーズやマーケットの情報を制作サイドにフィードバックしてコンテンツ制作に役立てています。

−−前身であるエイベックス・ディストリビューションとの一番の違いはやはりそこですか?

林:エイベックス・ディストリビューションは単純にエイベックス株式会社(現・エイベックス・エンタテインメント株式会社)の商品を販売していたので、在庫責任はありませんでした。AMCでは我々が在庫責任を持っているのと、価格やリリースのタイミングを決定する編成機能を持っているのが大きな違いです。

−−そのように組織を変えることによって、何か効果はありましたか?

林:先ほども申し上げましたが、音楽業界内外問わず、CDが売れるか否かは、企画制作能力によるところが大きいというのが、多くの方の認識かと思います。「ヒット創り」においては、アーティストや作品の良し悪し、プロモーション展開ばかりにスポットライトが当たりがちで、営業部門の寄与度は残念ながらあまり語られることがないんです。言い方を変えると、制作やプロダクションが川上で、営業が川下という意識なんです。この心理自体は極めて不健全で、働く人間たちのモチベーションが上がらないと、僕は思っているんです。

−−そんな扱いをされたら、いじけてしまいますものね。

林:でも、僕は「お客様やマーケティング側から見れば、我々は川上である」と考えるんです。ですから、マーケティング側の川上として、制作や宣伝に対して影響力を持つために、「我々には今何が足りないのか?」ということを、この一年間AMCでやってきました。

−−逆転の発想ですね。

林:笑い話ですけど、言葉のきつい先輩に言わせると、「11の理論」とか言って、「8割制作、2割宣伝、1割営業」と言うわけです。「10越えちゃうじゃないですか?」と言うと、「あってもなくてもいいんだよ」とか、本当に酷いことを言うんですね(苦笑)。それが本当だとしたら会社の中にそんな組織を作らない方がいいですし、アウトソーシングの方がいいですよね? でも、営業機能を持っているからこそ、当社はユーザー目線の商品展開ができているし、クリエイティビティを発揮できていると考えています。

 僕も過去営業経験者で、松浦から「楽しく売ってくれよ」と言われた一人として、それがこの会社のスタートだったという自負があるだけに、営業行為やマーケティング行為が、制作陣に非常に影響を与える位置にしたいと思っています。この1年、全社員と様々なコミュニケーションをとりながらやってきて、僕の考え方もだいぶ理解されてきたと感じますし、社員も自信が出てきていると思います。

−−それは数字にも表れていますか?

林:一見数字上は結果が出ているのですが、細かいところを見ていくと、色々な問題があります。僕は3年タームで考えていますので、その間にしっかりやっていこうと思っていますが、最終的に社員の笑顔みたいなものが答えかなと思っているんです。「売らされている」のではなくて、「売っているんだ」という意識に全社員がなれば、僕のミッションは成功かなと思っています。

−−「楽しく売る」ですね。

林:もちろん厳しいこともたくさんありますが、最後は笑顔になれないとやはり辛いですよね。

−−もともと人を楽しくするために作っているのが音楽ですからね。

林:本当にそうだと思いますね。

 

6. 音楽を聴く楽しさや習慣を伝えていきたい

−−最後になるんですが、林さんご自身は、この先音楽ビジネスがどうなるとお考えですか?

林:それは常にディスカッションしている内容です。そこでは、少子化や、音楽配信がパッケージビジネスに与える影響、また、CDの主要購買層の年齢上昇など、色々と話題に上ります。僕たちは様々な音楽の楽しみ方をユーザーの皆様に対し提案はしますが、どういったメディアを選ぶかは、最終的にはユーザーが決めることであると考えています。

−−あくまでも選択するのは消費者自身ですからね。

林:ただ、その中で、僕らが仮に「もうパッケージはダメだ」と投げ出してしまえば、お客さんの選択範囲を狭めることになってしまいます。僕らが魅力的なアーティストを開発し、パッケージの価値を最大化させユーザーに提供するという、最も基本たることをきちっとやった上で、お客さんに選んでもらうべきだと思っています。そうしたことをきっちりとやれば、パッケージの売上がゼロになるとは全く考えていません。

−−今が一番落ち込んでいる時期ということですか?

林 真司7

林:今から3〜5年のタームで、市場全体の売上がもう1、2割落ちる可能性はあります。でも、再度、CDパッケージが本来持つ魅力を突き詰めると、まだパッケージの売上を右肩上がりに上げられるだけの材料が、十分にあるんじゃないかと思っています。

 また、作り手であったり、営業や宣伝、また小売店やメディアの人たちも、あまり難しく考えずに「良い作品は良い」と大きい声で言っていく時期なのかなとも思っているんです。

 出来の良い・悪いの線引きをどこでするのかという話になると、もっと深い話になってしまうのですが、先ほどお話した「ジュリアナTOKYO」のCDを1,000枚売りたいと勝負をかけてくれるバイヤーさんや、自分の責任において「この作品は良いからたくさん売るよ」という人間が、メーカーにもお店にもメディアにも、もっと多く出てこないといけないのかなと思いますね。

−−音楽の楽しさ、素晴らしさを伝えていくことによって、音楽をもっと身近なものにできたらいいですよね。

林:親が音楽好きで、毎日音楽が鳴っている家に育った子供達は、CDを買って音楽を楽しむことが自然にできると思うのですが、そうではない子供達が初めてレコード店に行って、好きなものを買いなさいと言われても、迷うと思うんです。少し大げさかも知れませんが、僕らの仕事はそういった人たちに音楽の素晴らしさや接し方、楽しみ方を提案していくことだと思うんですね。

−−ただ売るだけではなく、音楽の素晴らしさや楽しさを次世代に伝えていくことが、これからのレコード会社には求められているのかもしれませんね。本日はお忙しい中、ありがとうございました。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

このリレーインタビューの中では、よくエイベックスの組織としての決断の速さ、実行力、そして、その先見性が話題になることがあります。今回、林さんにお話を伺うことによって、その秘密が少しだけ分かった気がしました。綿密なマーケティング活動や、アイディアを具現化させるチームワーク、現状に決して満足しない姿勢。そして、「売る」ことに対する情熱が、旧来の常識をうち破り、圧倒的なスピード感で、エイベックスを一大レコード・メーカーにしたのでしょう。今後もエイベックスの動きに注目していきたいと思います。

 さて次回は、(株)ソニー・ミュージックエンタテインメント コーポレイト・エグゼクティブ 秦 幸雄氏です。お楽しみに!