「良い音楽」の感動力でメガヒットを描き出す 〜 プロデューサー/川添象郎氏インタビュー

インタビュー フォーカス

川添象郎氏
川添象郎氏 Photos by Tomonori Kawazoe

1960年にニューヨークへ渡り、ショービジネスの世界に入ったのを皮切りに、舞台芸術の世界で活躍する一方、フラメンコ・ギタリストとして本場スペインでも活躍、1965年に帰国されて以降は、1968年に革命的ロックミュージカル「HAIR」の日本公演を実現、その後作曲家村井邦彦氏と共にアルファレコードを立ち上げ、ガロ、ユーミン(荒井由実)、サーカス、ハイファイセット、YMOなど数々のヒットを飛ばしてきたプロデューサー/ 川添象郎氏。その活動は音楽のみならず、新宿「エルフラメンコ」・六本木「キャステル」など今や伝説的な店舗の空間プロデュース、レノマ等のファッションブランドの立ち上げ、他にも数々のPRイベントまで、ジャンルを超えた幅広い分野で、常に時代の最先端を切り開いてきた。

だが、この20年間ほど音楽の仕事から遠ざかっていた川添氏がSoulja、青山テルマ,ふくい舞などのJ-POP系音楽のプロデューサーとして突如音楽シーンにカムバックし、大きな話題を呼び、われわれを驚かしたのは記憶に新しいところだ。そんな川添氏だが、現在の日本の音楽業界の状況に憂いを持ち、打開策を模索しつつ創作活動をしている。70才を越え、益々意気盛んな川添氏に彼のプロデュースワークの原点からその生き方までお話を伺った。

[2013年3月7日 / V3株式会社にて]

PROFILE
川添 象郎(かわぞえ・しょうろう)
プロデューサー


1941年生まれ。1960年にニューヨークへ渡り、フラメンコ・ギタリストとして本場スペインでも活躍、1965年に帰国して以降は、1968年に革命的ロックミュージカル「HAIR」の日本公演を実現、その後作曲家村井邦彦氏と共にアルファレコードを立ち上げ、ガロ、ユーミン(荒井由実)、サーカス、ハイファイセット、YMOなど数々のアーティストをプロデュース。また、新宿「エルフラメンコ」・六本木「キャステル」など店舗の空間プロデュース、レノマ等のファッションブランドの立ち上げ、数々のPRイベントをプロデュースした。一時音楽の仕事から離れるが、2007年にSouljaのプロデュースで音楽プロデュースを再開。青山テルマ「ここにいるよ」は1000万ダウンロードを超えるメガヒットとなった。また、2011年にプロデュースしたふくい舞「いくたびの櫻」で、2011年有線大賞、日本作詞大賞グランプリ、レコード大賞・作詞賞を獲得している。

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1.

——長い間、音楽の仕事から遠ざかっていた川添さんが突然カムバックなさった、その経緯からお伺いしたいのですが。

川添:僕の弟子のフラメンコギタリストがいるんですが、そのギターリストが「最近芸能プロダクションを始め、成功を願って一生懸命な「大郷 剛」さんという人物が発見したラッパーが居るんだけどなんとかメジャーデビューさせたい」ととても熱心なので、現在ポニーキャニオンアーティスツの社長をやっている千装敏夫さんという、アルファレコード時代のPRスタッフだった人物を紹介したのです。ですがなかなかデビューにまで至らず、紹介した手前、気の毒に感じて何とかしてみようと思い立ちプロデュースすることにしたんです。僕としては20年ぶりの日本POPシーンへの復帰でした。

——川添さんがラップをというのがすごく意外だったんですが、もともとお好きだったんですか?

川添:いや、ラップは黒人が愚痴を言っているようなものだし、特に日本人がやっているラップはまるで麻雀やっているような手振りで 「YO~」とか言っているのがなんとも滑稽でまるで興味がありませんでした。しかしSoulJaのお母さんはベルギー人で、彼の英語力はネイティヴ、アメリカに行った時に現地のラップバトルに参加し優勝した事もある才能の持ち主で即興ラップに不可欠な語尾をライム(韻を踏む事)しながら即興できるスキルを持っていました。

ただし僕はラップのみの作品ではHITするとは思っていませんでした。メロディーのある歌と組み合わることにより両方が活きて来ると思っていました。ラップがモノトーンな絵だとしたら、メロディーは色彩で、モノトーンと色彩を結びけることにより、ダイナミズ効果が生まれ、魅力的な作品になると思っていました。SoulJaが自分で創って来たデモ作品にはその要素が全くなく、バックトラックもかなり稚拙な打ち込みフレーズで8小節か、せいぜい16小節のフレーズをループ(繰り返し)しその上にラップを載せただけのものでした。

そこで、SoulJaと大郷剛には「もしボクに依頼するならば三年間はボクの方針に絶対に服従して欲しい! それを約束するなら一ヶ月以内にメジャーレコード会社とALBUM契約をし、そのファーストアルバムでSoulJa をブレークさせる」と宣言しました。

——すごいですね。普通はそこまで約束できないですよ。

川添:絶対の自信があったわけではないですけど、なんとかなるだろうと思って…(笑)。そして即座に古い友人で当時ユニバーサルミュージックCEOだった石坂敬一氏に相談に行きSoulJaの企画をお話ししたら 「川添さんが作るなら良いですよ」というほぼ即決に近いお返事が頂けました。ベテラン、レコードマンである石坂敬一氏の嗅覚には凄いものがあると感じました。

無事、ALBUM契約が成立し制作がスタートしたのですがSoulJaの作曲作品だけではALBUM 全部は到底無理だと判断し、佐藤博、細野晴臣、高橋幸宏、ピアゾラ等のスーパーミュージシャン達の作品を加えました。因みにアレンジメント、サウンドクリエーションは全て「佐藤博」さんが手がけました。

さて、前述のメロディー部分ですがSoulJa の声が男性的な質感なので、からむメロディーパートには可愛らしくしかもネイティヴな英語発音が出来る女の子が良いと思い5人程オーディションをした結果、当時全く無名だった「青山テルマ」を選びました。彼女のノリの良いリズム感、チャーミングな表現力、音程の確かさ、天性の明るさが決め手でした。SoulJa が大ブレークした作品 「ここにいるよ」での彼女の存在感は素晴らしいです。

しかし、あのやわらかで実に可愛らしくメロウな歌唱は天才ミュージシャンの故「佐藤博」さんの魔法の様なサウンドミックスの賜物です。断言して云えますが、昨今の素人サウンドクリエーター達が逆立ちしても、如何に真似ようとも絶対にかなわないでしょう…….!!

そしてボクにとって現在一番信頼出来るアレンジャー/サウンドクリエーターは「ヤナギマン」さんという方です。Soukaの#2ALBUMに収録されているColorz of Love と言う作品をお聴きになればこの人の実力が良く判る筈です。

 

 

2.

「良い音楽」の感動力でメガヒットを描き出す 〜 プロデューサー/川添象郎氏インタビュー

——青山テルマの「そばにいるね」は「ここにいるよ」のアンサーソングですよね。

川添:そうです。当時のユニバーサルミュージックのレーベルの一つ、UMJレーベルヘッド/北村氏から突然電話があり、「青山テルマ」の作品創りの依頼を受けました。「ここにいるよ」は遠距離恋愛がテーマで、女の子は確り待ってるけど男の子はラップで「愚痴」を言ってる昨今の若者の生態を描いたものでしたが、「そばにいるね」はその女の子の心情を描いた作品にしましょうと北村氏と話し合い、作品創りをしました。いわゆる「アンサーソング」というかたちです。

また、携帯の着うたがちょうど始まった時期でauとDoCoMoがCMで争っていたのですが、auが先行していました。「ここにいるよ」のPVではそれを意識してSoulJaに携帯を持たせたのはDoCoMo CMタイアップ戦略を考えた布石だったのです。

余談ですが「青山テルマ」はSoulJa の「ここにいるよ」のHITのお陰でユニバーサルミュージックと契約が取れ、UMJ所属になったのですがデビューシングルは全くHITせずユニバーサル内の他レーベルに移籍させられそうな状態だったそうです。後日、北村氏から聞いたところ実売ノルマが課せられていて、DL20万、CD5万枚を達成すればUMJに留める….というハードルでした。「そばにいるね」では楽曲内にモロに「ここにいるよ」のフレーズを取り込み、曲タイトルもひらがなの6文字にしてアンサーソング表現を明確にしました。

PR戦術として発売一ヶ月半前から携帯着ウタのみ先行することにして、それを始めるとあれよあれよという間にDL人気が沸騰し、なんと発売日前にノルマだった20万DLを超えてしまいました。必然的にCDのイニシャル枚数も、4万5千枚になり発売日を迎えられました。そして発売日初日に6千枚のバックオーダーが来たのです。つまりUMJ に与えられていたハードルは発売日初日にクリアーしてしまったのです。北村氏にすぐ会いに行ったときいつも冷静な北村氏が大喜びで「ヤッター〜、川添さんありがとう!」とハイタッチしたのが忘れられません。

おかげで「アンサーソング、コラボもの、そしてテルマファッション」 など社会現象化したそうです。着うたDL数は1000万を超え、ギネスブックからDL 数世界一の認定書が来ました。しかし、メガHITは一人のプロデューサーのクリエイティヴィティーのみで生まれるものではなく、レコード会社のPRアクセス力、会社内の全スタッフの活力、等の総合力が結集して生まれるものであることは肝に銘じてます。

——確かにコラボレーション、アンサーソングの先駆けでしたよね。川添さんは新しいものとか、革新的な作品創りを体質的にやってしまうのでしょうか?

川添:僕は昔から、既成概念には囚われません。ユニバーサルでSoulJaの宣伝会議をやっているとき、30人くらいのPR staffが出席してました。ボクが創った作品が当時のHIPHOPやRAPのスタイルに当てはまらなかったらしく、「この曲はどのジャンルに入れたら良いか?」みたいな議論を長々としているので遂に業を煮やし、SoulJa 担当A&R山崎吉史さんに「会して議せず、議して決せず、決して行わず、これをばかもの会議という」という紙を渡し、大きな声で読み上げてもらいました、今思えば気の毒なことをしちゃったとやや反省してます(笑)。

その上「ジャンルというものは送り手側が創るものであって、既製のジャンルに当てはめるのはいわば2番煎じだから無意味だし、面白くもなんともないですよ!」と言ったんです。流石に一瞬皆さんが目をパチクリして会議がシーンとなってしまいました(笑)。ボクの悪いクセなんでしょうね…でもショック療法的効果はあるかもしれません。

結局とどのつまりは「音楽」には二種類しか有りません。「良い音楽と、悪い音楽」です。「良い音楽」を創り、人々と感動を分かち合い、感動力で人々が動いてメガヒット現象が起き、その作品が長く残って行くことがレコード会社の真の財産」になるのです。キザにいえば「美は力なり」ということです。

 

 

3.

「良い音楽」の感動力でメガヒットを描き出す 〜 プロデューサー/川添象郎氏インタビュー

Photos by Tomonori Kawazoe

——川添さんは20年ぶりに音楽の制作現場に戻ってこられたわけですが、音楽業界の現状についてどのように思われていますか?

川添:1990年代のピーク時に9,000億円あったレコード会社全体の売上が、今は2,500億円くらいですか? これがもしひとつの企業だったら倒産しています。様々な複合要因があるのでしょう。

*インターネットの進化によるDL が普及しCD売上が激減した。
 (それを広めたアップルの創始者/スティーヴ・ジョブスは僕はスティール・ジョブス<仕事泥棒の意>と呼んでます:笑)
*彼にならったバカモノオタクが暇に任せてやる違法DL がハビこった。
*音楽以外のゲ—ム娯楽や、スマホに夢中になり音楽をじっくり聴く時間が激減した。
*東北大地震、原子力発電所の核メルトダウン恐怖、中国から飛んで来る黄砂公害や出鱈目し放題の違法DL、北朝鮮の核実験と幼稚なミサイル実験ごっこ…!! それを必要以上に恐怖をあおる日本のマスメディア(大笑)
* 安手な音楽番組しか創れない、日本のTV 番組制作状況、etc…..

しかし、現在の日本のレコード会社も「費用対効果」などといって極端に制作費をけちり、したがってろくに音楽の勉強もしていないアレンジャーもどきを安いお金で起用し聞くに堪えないTRACKを創る。おまけに歌手たちもド素人に毛が生えた様な連中を連れて来て、音程がおかしければ機械操作でムリヤリ電気的( ピッチコントロールという) 音程操作をして誤摩化す。要は安手のファーストフードのような作品を垂れ流しているとしか思えません。しかし、ファーストフードばかりに慣れている人たちも一度、本当に美味しいグルメバーガーを食べればその歴然たる差に気が付くはずです。要は送り手側がマーケットをナめているということなんじゃないでしょうか?(怒)

——音楽的質の低下が現在の状況を招いていると。

川添:また、何故に世界に目を向けて日本のPOP MUSICの世界進出を積極的に行おうとしないのでしょう? ボクと村井邦彦さんは1979年に細野晴臣さん率いる「Y.M.O」で世界進出を果たし、ヨーロッパで100万枚、U.S.A で100万枚売りました。1980年にはYMOは日本でも「社会現象」的センセーションを巻き起こし、この年だけで52億円の売上を記録し、レコード大賞ベストALBUM賞を獲得、マイケル・ジャクソンはYMOの「ビハインド・ザ・マスク」という曲を彼のSTAGEでカヴァーしています。その他欧米のMUSICIANS 達に大きな影響を与え、MUSICIAN’s MUSICIANと讃えられている事はご存知だと思います。そしてなによりも「テクノポップ」という新ジャンルを世界に認知させました。

YMOが初リリースしたファーストALBUMの初回イニシャルはたった2千枚!! 理由はこの音楽がどのジャンルにも属さないからジャンル別に番組編成されていた当時の日本のラジオ局にON AIRしてもらえなかったからです。苦肉の策で僕と村井邦彦さんとで考え出したのがアメリカ、ヨーロッパでYMOのALBUMリリースを実現し,PR LIVEをロスアンジェルスで行い成功させ、その実績を日本のマスメディアにFEED BACK して、いわば「イチロー現象効果」を巻き起こしたら勝てるのではないか? というかなり無謀な作戦でした。

色々な策を講じてA&M RECORDから世界発売を実現し、ロスアンジェルスのGREEK THEATER で行われた三日間の夏のROCK LIVE SHOW に出演させたところ、初日の一曲目「ビハインド・ザ・マスク」でいきなりスタンドオベーションの大喝采!! 日本から同行してもらったラジオ、雑誌などのマスメディアの方達も大喜びで即座にその状況を日本に伝え、NHKの夜七時のNEWSにも取り上げられ、あれよあれよという間に YMO旋風が巻き起こりました。

後付けで分析すれば、1980年はコンピューター時代の幕開けであり、日本はその分野のリーダー的存在として世界に認知されていて、YMOが創り出した電子楽器のみの音楽は新鮮の極致ともいえるものとして世界の観客に衝撃を与えたのだと思います。オリジナリティーを尊ぶ欧米の文化で、オリジナリティーとはその民族のDNAから生まれるものに他ならない事を認識すべきだと思います。

近くは、「そばにいるね」のレゲエバージョンをジャマイカのレゲエの大物SLY & ROBBIEの要望でカヴァーしたいとの要望があり、許諾条件として僕がプロデュースすること、SoulJa がラップで参加すること、SoulJaの英語詞を使う事、アレンジ及びサウンドクリエーションは「佐藤博」さんがおこなうこと、いわば日本人PROCUCEによる作品創りを行い、結果グラミー賞/レゲエ部門で史上初のノミネーションを達成しました。日本のPOP フィールドにも世界に十分に通用する優れたMUSICIAN達がいるのです。

——AKBやきゃりーぱみゅぱみゅはどうですか ?

川添:彼らは「音楽」というよりもむしろ「アニメキャラ」といった位置づけなのでは? 欧米にはキリスト教的文化の影響が根強くありロリコン的なものに対するタブーが強くあります。つまり欧米ではAKB のような作品創りは出来ない土壌です。一方、日本にはそれがありません。そういった部分で今はキャラクター商品価値で受けているのではないでしょうか? 彼らの音楽がスタンダードとして長く残るとは到底思えません。

——でも、日本ではその傾向がどんどん強くなっているような状況ですが…。

川添:繰り返しになりますが、日本では現在に限らず常に「アイドルマーケット」が存在しています。共通しているのは音楽とは無縁のキャラクター商品のようなものです。従って音楽そのものは幼稚極まりない作品で音楽の中身などどうでも良くいわばアニメキャラクター商品のようなものです。それはそれで存在していても一向に構わないと思いますが僕はこれらが「音楽」の範疇に入るとは到底思えません。

——こんなに素人の人たちが出てくるのは日本だけかもしれませんね。

川添:そうですね。そろそろいい加減目をさまして音楽の本質を大事にした作品を創る様にして欲しいですね。素人がはびこる音楽もどき作品は日本文化の幼稚化を招いている大きな弊害と言っても差し支えないのではないでしょうか? 海外ではすごく上手くても、若いとなかなか認められないんですよ。対して日本は素人文化です。これは異常現象です。日本には世界に通用する才能とスキルを持ったミュージシャンたちがまだまだ存在しています。今の日本のレコード会社はそれらのミュージシャンたちに活躍の場を与えず制作費がかからないという理由で素人の創る打ち込み低俗音楽を垂れ流してばかりで、じっくりと才能のある歌手やミュージシャンを育てていこうという姿勢が感じられません。僕に云わせてみれば「費用対効果」などという考え方はクソクラエです(笑)。

 

 

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「良い音楽」の感動力でメガヒットを描き出す 〜 プロデューサー/川添象郎氏インタビュー

Photos by Tomonori Kawazoe

——そもそも川添さんがプロデューサーとなったきっかけといいますか、どういうバックボーンから現在に至っているのでしょうか?

川添:高校を卒業する前に親父が「お前は将来何をやるんだ?」と聞いてくるんですよ。そんなこといきなり聞かれても、何も考えてなかったので、とっさに「音楽とか映画が好きだ」と言ったら、親父が「じゃあ大学なんか行く必要はない」と言って、僕は学校行くの嫌でしたから「しめた!」と思いました(笑)。

僕の親父の親友でロバート・キャパという世界的報道写真家がいたのですが、キャパが中心となって結成されたマグナムという写真家集団があって、彼らが日本に来ると必ず家に来ました。父は「お前、この人のアシスタントをやれ」と云うので、僕は彼ら写真家の撮影を手伝いました。つまり、いきなり仕事の現場に放り込まれてしまったわけです。

——いきなりですか。凄いですね。

川添:また、父母が始めた日本初のイタリアレストラン・キャンティによく来るスティーブ・パーカーという米国人のPRODUCERの奥さんがハリウッドスター/シャーリー・マクレーンでシャーリーとフランスの歌手で俳優の大スター(枯れ葉を歌った事で有名)が共演する映画の日本撮影の時も制作のパシリのパシリとして参加しその流れでMR. パーカーがカジノで有名なラスベガスのスペクタクルショーに舞台監督(ステージマネージャー)のパシリとしていきなり参加させられました。1959年、僕が19歳でした。思い起こせば乱暴な話です(笑)。

——その当時のラスベガスですからさぞかし華やかだったでしょうね。

川添:そうですね。シャーリーたちと一緒にそのショウを上演するデューンズ・ホテルという有名なホテルに下見に行った時、すごく輝きのある颯爽とした青年がやってきました。彼はシャーリーを見るとつかつかとやってきて大変礼儀正しく挨拶をしました。言葉は南部訛りなんだけど丁寧な言葉使いの実に行儀のいい好青年でした。彼の放つオーラが「格好いいな〜」と思って、よく見たらなんとあのエルヴィス・プレスリー(笑)。僕はほとんどミーハーにならないんだけど、そのときばかりはミーハーになっちゃって(笑)、「サインちょうだいよ」と思わず頼んだら快くサインしてくれました。今でも忘れられない鮮烈な想い出です。

——それくらいプレスリーは輝いていたと。

川添:もう光っていました。彼の一番いいときだったんじゃないですかね? 一流のエンタテイナーには共通してオーラがありますね! 僕がすごく恵まれているのは、そういったオーラを持っている人たちに偶然としか思えない出会いが20歳くらいの若い時代に経験出来た事です。フランク・シナトラ、サミーデイヴィスJr.、ハリー・ベラフォンテ、ポール・アンカ、他の1950年代のスーパースターたち。

その後、1960年〜から約4年間NEW YORKのグリニッジヴィレッジに住んだのですが、そこではボブ・デュラン、ソニー・ロリンズ、フランク・ザッパ、絵描きではサム・フランシス、ジャスパー・ジョーンズ、ラウシェンバーグ、ウォーホル etc、彫刻家のイサム・ノグチさん(父の友人だったのでとても親切にして頂きました)、現代舞踊家のマーサ・グラハム、ジーンアードマン、写真家コーネルキャパ、デニス・ストック etc、N.Y最高の舞台演出家ジェローム・ロビンス。

パリに行ったときにはデザイナーのピエール・カルダン、イヴ・サンローラン etc、舞踊家ジジ・ジャンメール、クラシックのチェリスト、パブロ・カザルス、ギタリストのセゴヴィア等々列記したらキリない程の本物のARTIST 達に会い言葉を交わす事が出来たのが僕にとっての最大の財産です。

真のARTIST に触れれば二流、三流の見分けはすぐに判ります。今の日本の駆け出し歌手や芸能人(芸-NO-人)をARTIST などと呼ぶのは全く「噴飯もの」です。

——ちなみに英語は喋れたんですか?

川添:英語は、ラスベガス行く前はちょぼちょぼだったんですけど、行って2ヶ月でベラベラになっちゃいましたね。スペイン語もスペインに行ってできるようになって、フランス語もそう。

——やはりミュージシャンも独特の英語を喋るんですか?

川添:そうですね。特にレコーディングセッションのときとかね。1978年にNYでその時代の大きな流れとして始まったFUSION MUSICのトップミュージシャンを10名集めて、ニューヨーク・オールスターズというユニットを作って、レコーディングをしたんですがそのときは大いに役に立ちました。おそらく日本人プロデュースのFUSION MUSICでは最初の大プロジェクトだと思います。

——スタッフ(STUFF)のメンバー達ですか?

川添:スタッフのメンバーからはDr/スティーヴ・ガッド、G/エリック・ゲイル、PIANO/リチャード・ティー、BASS/アンソニー・ジャクソン & ウィル・リー、そしてVive/マイク・マイニエリ、TP/ランディー・ブレッカー、T・SAX/マイケル・ブレッカー、A・SAX/デビッド・サンボーン etc という豪華メンバーでした。残念ながら、すでにリチャード・ティーと、マイケル・ブレッカーは故人になってしまったので二度とこのメンバーでのレコーディングは不可能です。

 

 

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「良い音楽」の感動力でメガヒットを描き出す 〜 プロデューサー/川添象郎氏インタビュー

Photos by Tomonori Kawazoe

——フラメンコギターにはニューヨークで出会われたそうですね。

川添:ええ。僕はグリニッジ・ヴィレッジという芸術村みたいなところに住んでいたんですが、ある日、すぐそばに「ヴィレッジゲート」というライブハウスへ遊びに行ったら、フラメンコギターを一本持ったおじさんが出てきて、椅子に座って弾き始めたんですね。その人はサビーカスという人で、当時最高のフラメンコギタリストだったんですが、そのとき僕は彼のことを知らなくてね。それで、サビーカスのフラメンコギターに僕は衝撃を受けました

——それまでギターを弾いたことはあったんですか?

川添:コードを弾くくらいしかやってなかったです。それでフラメンコギターを習い始めたんですが、フラメンコギターって譜面がなくて、先生が急に弾き始めるんですよ。でも、そんなのすぐにできないですよね?(笑) とにかく何をやっているかわからないから、「ゆっくり弾いてください」って先生に教え方を教えて(笑)、5つくらいの基本テクニックがあると言うので、「まずはその基本テクニックを練習してきます」と言って、家で徹底的に練習して、基本テクニックをマスターしました。

それで偶然だったんですが、サビーカスが僕の住んでいるアパート近くのスペイン料理屋にしょっちゅう来ていて、そこに行くとサビーカスが弾いているから、僕はダイレクトに教わったんですよ(笑)。後で日本に帰って、サビーカスに色々教わっていたと言ったら「嘘だろ?」って信じてもらえなくて(笑)。

——川添さんはそういうすごい人たちによく遭遇しますよね(笑)。

川添:「フォレスト・ガンプ」という映画があるじゃないですか? ガンプは無邪気にやっているだけなのに、歴史上の重要な人物に遭遇していきますよね。僕もああいう状態だったんですよ。僕が住んでいたビレッジのアパートの下に黒人のサックス奏者が引っ越してきて、朝っぱらから練習していてうるさいんですよ。最初は我慢していたんですが、一週間くらいしたらもう我慢できなくなって、扉叩いて文句を言いに行ったんです。それで話し合いをして、棲み分けを考えたんですが、ある日アメリカ人の友達に「あいつは誰だ?」と聞いたら「エリック・ドルフィーというサックス奏者で、けっこう有名なんだ」って云われました(笑)。

——えっ、あのエリック・ドルフィーだったんですか(笑)…怖いもの知らずですね?

川添:怖いものは何もなかったですよ。だって知らぬが仏ですから…..その頃「公民権運動」で黒人と白人の対立が激しく、白人が絶対寄り付かない物騒極まるハーレム地区のアポロ劇場にも平気の平左でJAZZを聴きに行ってました。もっともナイフはしっかり忍ばしてました。今考えればピストル出されたら適わないのだから意味なかったんですが…(大笑)。

——ハハハ….しかしどうやって生活してたんですか ?

川添:親父はお金を送ってくれないんですよ。「自分で稼いで生活しろ」みたいな感じでね。仕方ないのでギターを一生懸命習得して、一年くらいで免許皆伝みたいになっちゃったんですね。

ビレッジにはカフェがいっぱいありまして、そこにアーティストが出演して、灰皿をまわすとお金を入れてくれるんです。カフェのオーナーの一人でルーマニア移民の大男が居ました。極真空手の大山倍達さんがニューヨークに行ったときに、一番最初に戦ったジャック・サンダレスクというマフィアのボディガードをしていた男だったそうです。身長2M近い大男でした。

ジャックは「日本人は小さいから絶対に負けない」と思っていたんですけど、大山倍達に負けちゃって、それらか空手に凝りまくって、最終的に極真空手のニューヨーク支部長になるんですけど、そのジャックが僕に「日本人か?」って声をかけてきて、「そうだ」と言ったらすごく嬉しそうな顔をして「俺は空手をやっているから日本人が好きだ、日本人なら何か武道をやってるだろう?」と言うので「剣道をやってるよ」と言いました。僕は中学一年生から剣道をやっていて高校時代に2段を取りました。N.Yでも暇に任せてアメリカ人に剣道場で稽古をつけてました。僕は鹿児島ラサール高時代に「示顕流」というしごく猛烈な喧嘩剣法の稽古をした経験があり、その剣術の話をしたら、ジャックが「剣道より空手の方が強い」って言いはるんです。

「そんなバカなことないだろ。真剣でやったら死んじゃうんだよ?」って言ったら「大山先生はそんなこと言ってない」とあくまで突っ張るのです(笑)。「じゃあ決闘だ」ということになって、朝の5時にヴィレッジのブリーカー通りで決闘というか、立ち合いをすることになりました。ジャックは空手着に黒帯を締めてきて、僕はジーパンに竹刀を持って行ってね。妙な光景なので2,30人野次馬が集まって来ました。

——へぇ〜それでどうなったんですか?

川添:いざ立ち合いになり、示顕流独特の「とんぼ」という構えで向かったら、ジャックは間合いが取れないもんだから、なかなか、かかって来ない(笑)。それで時間ばかり経っちゃうから、僕の方から「さっさとこい」とからかったら、ヤミクモに突っ込んできた のでバツーン!と一発猛烈な引き面を彼の額に打ち込みました。そうしたら目が回っちゃったみたいで(笑)、へたっちゃって「参った!!」でケリがつきました。

——でもその辺では一番強いやつですよね? マフィアのボディガードなんですから。

川添:でも、とてもいい人で 「お前気に入ったから店で弾いていいよ」ということになってね。NY 時代はそれでしばらく食べていました。そのカフェでは3組くらい出演していました。その中にパーカッションを叩いて歌っている盲目のMUSICIANが居ました。パーカッションだけで歌ってました。リズム感もいいし、歌もめちゃくちゃいいんですよ。ある日彼が「SHO、ギターを教えてくれ」って言うのでギターを買うのにも付き合って、弦の張り方から始まり、フラメンコ奏法を伝授しました。才能豊かなのでいつの間にか自分の形を作っちゃってすごく良い弾き語りをする様になりました。

その数年後、僕は日本に帰国したのですがある日ラジオから聞き覚えのある声が聞こえてきて全米HITチャート1位、「ライト・マイ・ファイアー」ホセ・フェルシアーノ、なんと僕がギター伝授した彼だったんです。 まるで嘘みたいな話しですよね(大笑)。

——凄い話です…ちなみに今もフラメンコギターを弾かれたりするんですか?

川添:触る程度ですけどね。僕のギターは1962年にスペインに行ったときに、偶然買ったんですけど、細野晴臣さんが気に入ってアルファレコード時代のセッションのときに、いつもこれを使ってくれました。

8年くらい前に何気なく「アルカンヘル・フェルナンデス」とインターネットで調べたら、これがとんでもないギターだったんですよ。要するに世界最高クラスのフラメンコギターで特に僕の1962年制作のギターは三本位しか無く値段が付けられない程のものでした。(1000万円はするかな?)

——えっ! そんな貴重なギターなんですか?

川添:それを細野さんに言ったら「ひえ〜」とか言ってね(笑)。「川添さんに借りて、何気なくスタジオに置いておいたら、鈴木茂が蹴っ飛ばしちゃって、ひっくり返したりしていました !!」 なんて白状してました(笑)。罪滅ぼしに細野さんが昨年レコード大賞BEST ALBUM賞を獲った「HoSoNoVa」ALBUMでも使ってくれて、なんとギターの写真入りでクレジットしてくれました。

 

 

6.

「良い音楽」の感動力でメガヒットを描き出す 〜 プロデューサー/川添象郎氏インタビュー

——次回作のご予定はすでにあるのですか?

川添:今、長山洋子さんの歌手生活30周年記念の演歌をプロデュースしている最中です。長山洋子さんの歌唱力は素晴らしく、STAGEも実に華やかでやりがいがあります。僕が創るので なんというか演歌離れした作品ですが、作曲をしてくれた故「佐藤博」さんの霊をやすらかにする為にも、命懸けでHITさせたく頑張ってます。皆さん !! 宜しくお願いします。

——本当にすごいターミネーターぶりですね。今回お会いして、ものすごくお元気そうですし、今後のお話を伺うだけでワクワクします。

川添:有り難うございます。堺正章さんが 「ショーちゃんは3 大拘束を乗り越えてきた男だから」ってからかうんですよ、僕が心筋梗塞やって、脳梗塞やって、身柄も拘束もされているからって…(笑)。

——(笑)。川添さんは本当の意味でのプロデューサーなんですね。とにかく何か作りたくなっちゃう。

川添:そうです。暇があってもいつも何か創りたくなっちゃう。例えば「華を活ける」とか、スワロフスキーのビーズを使ってネックレス、指輪、ピアス等を創りまくるとか、トランプ手品の新手を考え出すとか…..種々雑多な芸当をやります。でもよく考えると「如何に女の子にモテるか!」というモチュベーションだったんだ(笑)。

そういえば最近はとても優秀な若いMUSICIANが僕のもとにに参集してきました。例えば「作田聖美さん」というクラシックサクソフォン奏者の天才MUSICIANはハンガリアのブカレスト器楽コンクールで日本人初の総合優勝を勝ち取った超美人ARTISTです。僕が親しくしている名アレンジャー、PIANISTの「島 建」さんの紹介で知り合ったのですが、家に来る男の子達が「あの〜僕自身がSAX になりたい〜」と不謹慎なことをほざいてます(笑)。

他にも、「奈良いつか」「奈良ひより」さんという姉妹VOCARISTは2人共とてもチャーミングな容姿と何よりも「ウタ」がとても良いです。スペインセヴィリア在住の21歳のスーパーフラメンコ・ギターリスト「徳永健太郎」君や、同じ21歳のセンスあふれるBASS PLAYER「千葉省吾」君、彼等の先輩にあたる「矢木一好」さんというフラメンコギターリストはオリジナリティ豊かな素晴らしい音楽創りに挑戦しています。

そして異色なのは「minor SOUL」というユニット名の米国籍でNEW YORK在住のこれまた21歳と18歳の若さのイケメン兄弟SINGER SONG WRITERで、1970年のサイモン& ガーファンクルを彷彿とさせる美しい高音のDUOです。これらの才能豊かな若い本物のMUSICIAN達をなんとか世に紹介し、リスナーを感動させたく未だにプロデュース業を続けてます。

幸い業界の大ベテランの方々、例えばスーパープロモーション能力の大御所、バーニングプロダクション社長/周防郁雄氏、田辺エージェンシー社長/田邊昭知氏、国際俳優/渡辺謙さんや坂口憲二を擁するK−DUSH会長/川村龍夫氏、エイベックスエンターテインメント顧問/稲垣博司氏、日本屈指の舞台制作会社/綜合舞台の西尾栄男社長、元コロンビア社長で未だに音楽創りに情熱を持ってマネージメント会社を経営していらっしゃる/中島正雄氏、NHK TVドラマの#1演出家の黛りんたろう氏、そして世界的広告代理店の顧問である村口伸一氏、などなど枚挙にいとまが無い程の40年に渡るいわば「戦友」的存在の方々にささえられてなんとかやっています。

また、STAFFとして幸か不幸か愚息の太嗣(HIROTSUGU)が現在ボクの家の部屋住み書生としてプロデューサー修行中でその仲間の良い友人達が手伝ってくれています。

——それでは今後もプロデュース業をお続けに?

川添:そういう業を持っているのでしょう。僕はサービス精神旺盛だから、人が感動してくれたりとか、喜んでくれたりとか、笑ったりしてくれるものを作りたいだけなんです。あと、この仕事をやっていてやっぱり良いのは、形で残るでしょう? 人間なんてどうせいつか死んじゃうんですから、後はどうなったって知ったことじゃないんですが、作品は残ります。僕はそういう「残る作品」を作れれば本望です。医者からは 「あんたは死ぬまで生きるから….大丈夫」と言われたのですっかり安心して生きてます(笑)。

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