SUGIZOと松任谷正隆、箱根アフロディーテ50周年記念イベントでピンク・フロイドを語る

アーティスト

SUGIZO&立川直樹

8月6日・7日に神奈川・彫刻の森美術館で開催された、「箱根アフロディーテ」50周年記念イベント「追憶のピンク・フロイド オーディオライブ」。会場は箱根の彫刻の森美術館内の「Art Hall」、抽選で選ばれたトータル約400名の招待者が参加し、さまざまな美術品に囲まれた贅沢なアートと最高の音響空間の中で行われ、まさに「ROCK meets ART」を体験できる貴重な機会となった。

箱根アフロディーテ公演のライブを当時のセットリストに従い、テクニクス全面協力による最高のオーディオ・システムで聴くスペシャルオーディオコンサートとともに豪華ゲストを迎え、案内役の立川直樹との熱いトークが展開された。

イベント初日の第1回目のゲストはSUGIZOが登場。セットリストの1曲目として今回発掘されたフィルムからレストアされた「原子心母」の映像を上映。

「映像として記録として残っていたのは凄い。ほとんど遺跡から発掘したような貴重なものですよね。(中略)でも映像を見て思うのは、システムも古いし、メンバーも若い、観ている人たちのファッションもクラシックだけど、素晴らしいなあと思うのは、箱根の風景、美しい大自然だけは変わらない、偉大ということですよね」

また、当時のセットリストに従って曲を聴いた後に、ピンク・フロイドのサウンドと影響について語った。

「ピンク・フロイドは、音そのもの、音の力、音の圧力、音のスピード、その辺に物凄くこだわって作っていたがゆえに、音響という意味あいで世界をリードしていた。(ライヴの)PAシステムに関してもどのアーティストよりも進んでいたし、“音の再生”ということに凄くこだわっていたと思う。この頃のピンク・フロイドは曲が挑戦的。実は気持ちよくて、永遠に何時間でも聴いてられる。この頃の感覚はポップカルチャーとして昇華され今に至っていて、50年前、いや、それ以上前から始まった、ピンク・フロイドが牽引してきた文化というものは確実に今でも影響がある」

「僕が最も好きなのはシド・バレット。ピンク・フロイド創設者で、ファーストからセカンドの途中までピンク・フロイドのリーダー的な存在だった。デヴィッド・ボウイやマーク・ボランもシドから多大な影響受け、シドが礎となっていた。その後にいわゆるグラマラスなロックの系譜があり、僕らもそこに憧れている。つまり活動初期、シド・バレットを擁したピンク・フロイドは、ある意味実はヴィジュアル的なロック、グラマラスなロックの総本山だったともいえるんじゃないかな」

松任谷正隆&立川直樹

イベント2日目の第2回目のゲストには、「箱根アフロディーテ」に当時実際に参加した松任谷正隆がゲストで登場。

「僕はピンク・フロイドが何者かも知らずに見に行ったんです。僕が19歳の時。『原子心母』の映像でいくと、引きの映像を撮っているカメラのあたりから見ていましたね。何も知らなかったから、びっくりしましたよね。最初はなんなんだろうと。ピンク・フロイドに本当にはまったのは1988年の武道館公演を見て。これはコンサートスタッフみんなに見せなきゃと思って、その足で夜に苗場(コンサート会場)に戻って、スタッフに絶対に見に行けって言って」

また、松任谷由実のアルバムのジャケット・デザインにヒプノシスを起用したことについて貴重な秘話を語った。

「会社を若返らそうと思って、僕の会社に“学生の社長”を入れたときがあって、帰国子女だったのですが、“君に好きなことをなんでもやらせるから、何がやりたい?”と聞いたら“私は由実さんのアルバムにヒプノシスのジャケットを使いたい”と。“じゃあ直接交渉してみな”と伝えたら本当に交渉して決めてしまった。ヒプノシス側に『昨晩お会いしましょう』のアルバムのテーマを話したら、デザインを20枚位持って、ポー(オーブリー・パウエル)が僕の家に来た。“どれを使ってもらってもいい”というので、最後に2枚だけ迷って、あれに決めた。その最後まで迷ったもう一枚はというと、そのあとのピンク・フロイドのベスト盤『時空の舞踏』のジャケになっていたのでびっくりしたんですよ。もし僕らが『時空の舞踏』のデザインを選んでいたら、ピンク・フロイドの方はどうしていたのかな」

箱根アフロディーテは1971年8月6日と7日、2日間に渡って神奈川・箱根芦ノ湖畔成蹊学園所有乗風台で開催された、ニッポン放送主催、海外アーティストを招聘した日本初の大規模野外ロック・フェスティヴァル。ジャンルを超えた当時の日本のアーティストとともに、海外からはピンク・フロイド、1910フルーツガム・カンパニー、バフィー・セントメリーが参加した、いわゆるフジロックやサマーソニックの原点ともいえる伝説の野外ロック・フェスだった。

その箱根アフロディーテでのピンク・フロイドを捉えた新発見映像を含む「原子心母(箱根アフロディーテ50周年記念盤)」が8月4日に発売され、デジタル・ブックレット「追憶の箱根アフロディーテ1971」には、前例やマニュアルもない中、50年前の日本人たちが様々な困難を乗り越えてこのイベントを作り上げていく物語が収録されている。

自然の中での初の大型野外フェスということで誰もが知識も経験のない初のイベント。会場の設定から始まって、舞台設営や電源、照明、音響、楽器類、仮設トイレから控室の設置、舞台を組むイントレ(足場)も、今のような軽量パイプではなく木材。丸太、釘とロープを使ってステージを設営した。また前日の大雨で最悪のコンディション。機材車が泥濘(ぬかるみ)にはまり動けなくなり、それを人力、ブルドーザーなどを駆使して牽引するなど、その実現に至るまでの様々な困難と努力、大変な苦労があった。

ピンク・フロイドのドラマー、ニック・メイスンは最新インタビューで当時を思い出しこう語っている。

「憶えていることの1つにステージがあるんだ。ステージが木でできていてね。確か竹もたくさん使われていたと思う。最高に美しかったし、木で組み立てるというのがとても日本的だと思ったんだ。私はその3年前まで建築専攻の学生だったから、その構造に目がいった。シンプルな構造ながらも、あのステージに載った機材の重さを考えると、本当によくできていたよ。実に20世紀的だった。何しろ崩れなかったしね(笑)」

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