ハイドパーク・ミュージック・フェスティバルが17年ぶりに復活 〜実行委員会 委員長 / トムズ・キャビン 麻田浩氏インタビュー

インタビュー フォーカス

ハイドパーク・ミュージック・フェスティバルが、4月29日・30日に埼玉・県営狭山稲荷山公園にて17年ぶりに開催される。ハイドパーク・ミュージック・フェスティバルは、2005年・2006年の2回に渡って、同場所にて開催。1960年代後半から70年代にかけて狭山の米軍ハウスに居住していた細野晴臣、小坂忠、洪栄龍、麻田浩、和田博巳(はちみつぱい)、岡田徹(はちみつぱい、ムーンライダーズ)といったミュージシャンが出演し、同じくかつて在住していたWORK SHOP MU!!などのクリエーターたちの協力のもとに行われた。今回は復活を記念して実行委員会 委員長 麻田浩氏にハイドパーク・ミュージック・フェスティバル開催のきっかけから、復活の経緯、そして最近観たアメリカのフェスについてまで話を伺った。

(インタビュアー:Musicman発行人 山浦正彦/屋代卓也)

 

小坂忠と交わした約束〜ハイドパーク・ミュージック・フェスティバル復活

──ハイドパーク・ミュージック・フェスティバルが17年ぶりに復活しますが、そもそも2005年にハイドパーク・ミュージック・フェスティバルを始めるきっかけは何だったんですか? 

麻田:当時、僕は自転車に乗るのが好きで、僕よりちょっと若い自転車仲間たちがいたんですが、彼らが音楽好きだったんですよ。

──そのお仲間はみなさん狭山の方なんですか?

麻田:そうです。僕や細野(晴臣)くん、小坂忠、洪栄龍、吉田美奈子とかは昔、狭山のアメリカ村というところに住んでいたんですが、その自転車仲間たちは子供の頃「アメリカ村には行ってはいけない」と言われていたそうなんですよ(笑)。確かに長髪で派手な洋服を着ている連中がいっぱい住んでいましたから、細野くんもそうでしたし、忠もそうだし(笑)。

──(笑)。

麻田:「だから僕らはあそこへ行けなかったんです」と。それで「アメリカ村に住んでいたアーティストたちにもう一度狭山へ戻ってきてもらって、ハイドパーク(県営 狭山稲荷山公園)で演奏してもらうことってできますかね?」と言われたから「できるんじゃない? 細野くんと忠に聞いてみるよ」と言って聞いたら「やるよ」と言ってくれて、そこから話が始まり、2年間ハイドパーク・ミュージック・フェスティバルをやったんです。

──その自転車仲間というのはミュージシャンなんですか?

麻田:いやいや、歯医者さんだとか洗濯屋さんだとかそういう連中で、音楽をやっていたのは僕だけだったんです。だから、本当に大変でしたけど、今回はサンライズプロモーションさんがついてくれているので、チケットのこととかそういうことは全部お任せしています。

──ちなみに麻田さんがアメリカ村に住んでいた頃も、あの公園のあたりはハイドパークと呼ばれていたんですか?

麻田:そうですね。狭山はジョンソン基地という米軍基地があったんですが、ハイドパークは将校たちのハウジングエリアで、僕らが住んでいたアメリカ村はもうちょっと下のほうの、いわゆる一般の兵隊さんのハウスでした。それでもまあ結構大きいハウスでしたけど。

──そして、1973年にジョンソン基地は日本へ返還されて、稲荷山公園という名前になったと。

HYDEPARK MUSIC FESTIVAL 2005 小坂忠氏と麻田浩氏

麻田:本当になにもない公園で、その「なにもない」ということはすごくいいことだと思っています。稲荷山公園って桜の名所で、4月になるとみんなお花見に来るんですが、桜って60年ぐらいが寿命で、もうとっくに60年すぎているのでずいぶん枯れているんですよ。それで「枯れちゃったらどうするのかな?」と思って聞いたら、県や市には植え替える予算がないらしいんです。「じゃあ僕らがコンサートをやって利益が上がったら寄付しますから」って、1年目は利益が出たので寄付しました。

それで2005年に小坂忠が出てくれたときに、忠は大満足で舞台を降りてきて「麻田さん、ここ最高だから続けていこうよ。僕もまた出るからさ」と言ってくれたんですけれども、2006年は赤字で、2007年は資金難で中止しちゃったんです。ですから僕の中では忠から「続けていこうよ」と言われたのが心の中にずっとあって、いつか再開したいなと思っていたんです。

ところが去年の4月29日に忠が亡くなって、だったら、あそこで忠のトリビュートをやりたいなと思ったんです。それで細野くんに相談したら「やろうよ」と言ってくれたんですが、彼はレコードを出さなくてはいけない契約があって、今年はライブをやらないらしいので、彼は出られなくなったんですけれども「応援するよ」と言ってくれてね。

HYDEPARK MUSIC FESTIVAL 2005

──小坂忠さんのトリビュートがきっかけになったと。

麻田:あと1967年のニューポート・フォーク・フェスティバルで無名のジョニ・ミッチェルやレナード・コーエンを観て「すごいな」と思ったように、まだ有名じゃないけれど「いいな」と思うアーティストを出そうと思ったんですよね。

──無名時代のジョニ・ミッチェルやレナード・コーエンを観ているってすごいですね。

麻田:ニューポート・フォーク・フェスティバルは僕にとってフェスの原点で、フォークからブルースから全部観られましたし、昼間はギターの弾き方のワークショップがあったり、すごく印象に残っているんです。あの当時はフォークという括りの中で観に行ったんですが、今考えると、すごくいい体験ができたなと思っています。

──伝説のフェスティバルですよね。

麻田:ボブ・ディランがニューポート・フォーク・フェスティバルでエレキを持って演奏して、それでブーイングをもらってというね。もともとニューポートってジャズのフェスだったんですが、そのあとフォークのフェスができて、今でもまだニューヨークでやっているのかな? また最近ニューポートに戻ったかもしれない。

──そこで観たのがジョニ・ミッチェルとレナード・コーエン。

麻田:まだレコードを出す前ですよ。ジョニ・ミッチェルを観たときに「すごいな、この人は」って思いましたね。変なチューニングもしていたしね。だから、いわゆる有名な人だけじゃなくて、そういう無名の人もどんどん出していくみたいなことがすごく新鮮だったんです。

──なるほど。

麻田:だから僕がフェスをやりたいというのは、基本としてそういうことができればいいなということなんです。それで初年度は当時、あまり知られていなかったSAKEROCKを出したんです。ご存じの通り、そこには星野源くんがいたんですが、僕やスタッフたちはすごく好きだったので「SAKEROCKを出そうよ」ということで出したんですけれどね。

 

若手&ベテランのコラボレーションとトリビュート

──初年度は雨がすごかったですよね。

麻田:そうですね。2日目はもうひざ下ぐらいまでくる豪雨でね。細野くんの前が佐野元春で、佐野元春の前が徳武(弘文)のラストショーがバックをヤったエリックアンダーセンかな? 徳武はいつも自分で雨男だって言っているから、まあしょうがないんですけど(笑)。

──(笑)。

麻田:それで佐野くんは佐野くんで、その日セッティングしていた曲目はスローなのもあったんですけど「みんな寒いだろうから」ってちょっとアップテンポな曲に変えてくれたりしてね。そうしたら佐野くんのちょっと前ぐらいから雨が弱くなってきて、細野くんのときはもう完全に止んだんですよね。あまりにも雨が酷かったのでお客さんは半分くらい帰っちゃったんですけど、それでもあのときは4,000人ぐらいいたのかな? 細野くんが出てきたらみんなワーッと立ち上がって、細野くんも驚いてね。というのも細野くんはそれまでほとんどライブをやってなかったんですが、その光景に彼もすごく感動したそうです。

細野くんは「麻田さん、こんな雨だったら中止にしたほうがいいんじゃないの?」って言っていたぐらいの雨だったんですけど、「大丈夫だって。雨はそのうち止むから」と言ってね(笑)。このハイドパークをきっかけに細野くんは自分でライブをやるようになったって言っていましたね。

──それだけ印象深かったんでしょうね。

麻田:フェスが終わっても雨の影響で、会場で打ち上げができず、仕方がないのでレストランの大広間みたいなところでやったんですが、SAKEROCKの連中が「あそこに細野さんがいるんですけど、話しかけてもいいですか?」って(笑)。「話しかけなさいよ、こんなチャンスないんだから」って、そこから細野くんと星野源くんたちSAKEROCKの連中との交流が始まったり、そういう面ではすごくよかったと思います。いわゆるベテランの人は、あまり若い人の音楽を聴くチャンスってないじゃないですか?ベテランの人には若い人の音楽を聴いてもらい、若い人には自分たちが尊敬するベテランの人たちと交流するきっかけが生まれ、その後コラボレーションでもできればいいんじゃないの? というのが僕らのフェスのひとつの目的だったんです。

もうひとつはずっとトリビュートをやってきたんです。高田渡のトリビュートをやったり、西岡恭蔵のトリビュートをやったり。高田渡のときは、トリビュートの1時間の枠の中で若い人が彼の歌を歌ったんですよね。そして、今年は小坂忠トリビュート。ちなみに以前、加藤和彦も出てくれたので、トリビュートを加藤和彦と小坂忠の2つに分けてやります。

──ハイドパーク・ミュージック・フェスティバルは、若いアーティストとベテランのコラボレーションとトリビュートが軸になっているんですね。

麻田:そうです。最近フェスがすごく多いじゃないですか? ただ、色々なフェスを見てみると、同じような人がずっと出ているんですよね。当然フェスって人気のある人が出ないと成り立たないということもあるんでしょうけれども、僕としてはいろいろなフェスを体験してきて「そういうのではないフェスがあってもいいんじゃないのかな?」とずっと頭の中にあって、それで今年再開をしようということになったんです。

──再開に関して、具体的に動き出したのはいつ頃だったですか?

麻田:忠が亡くなって細野くんと会った昨年の7月ですね。

──結構なメンバーが集まりましたね。

麻田:そうですね。僕らとしてはすごく良いメンバーなんですが、ただ一般的に売れている人はそんなにいないじゃないですか?(笑)そこが僕らの辛いところでね。

──よく考えたらトムス・キャビンがフェスをやるとこうなるという感じにはなりますよね。

麻田:そう?(笑) 本当は外国人枠もあったんですけれどもね。前は外人枠でマーク・ベノを出したんですが、コロナのこともまだあるので。

──準備は大変でしたか?

麻田:相変わらず大変ですね。僕らは普段やっているイベンターとは違いますから。だから、出てくれる人みんなに直接会いに行ったり、メールでお願いしたりね。でも第1回目、2回目を覚えているというか、そこに出たかったという若い連中がいっぱいいて、そういう子たちが「出ます」って言ってくれたんですよ。例えば、民謡クルセイダーズとか踊ってばかりの国とかね。在日ファンクの浜野くんは元SAKEROCKですし、田島(貴男)くんも出てくれます。あとムーンライダーズは、前回はメンバーの都合で3人で出てくれたんですが、今回はフルメンバーで出てくれますし、そういう面ではみなさんハイドパークのことを覚えていてくれたのはすごくありがたかったです。あと梅津(和時)さんは所沢に住んでいますし、イーノマヤコさんや笹倉(慎介)くんは狭山の人で、地元のバンドですし、民謡クルセイダーズは狭山じゃないんですけど、福生に住んでいるから同じようなものでね。

──みんなご近所ですね。

麻田:そうなんです、近所で。

──きたやまおさむさんや松山猛さんも歌うんですか?

麻田:きたやまくんは最後に少し歌うと思いますけど、基本的に司会進行をやってくれます。加藤くんのトリビュートをやるときには、きたやまくんにも出てもらいたいなと思っていたんです。

──他にも俳優の佐野史郎さんや、梅津さんのバンドには仙波清彦さんや久米大作さん、白井良明さんとか豪華ですよね。このメンバーはお1人で集めたという感じなんですか?

麻田:いや、川村恭子さんというライターがいるんですけど、彼女と僕がそういう窓口になってみなさんに声をかけてね。

──麻田さんの右腕だったみたいな、渡辺さんが亡くなっちゃったんですよね。

麻田:渡辺がいてくれたらねえ・・・あと昔トムズキャビンにいてSIONをやっていたリスペクトレコードの高橋(研一)が協力してくれました。

──17年ぶりってやっぱりすごいですよね。

麻田:そうですね。以前来てくれていた人ももうみなさんかなりのお歳ですからね(笑)。

──(笑)。チケットの売り出しはもう始まっているんですか?

麻田:始まっています。是非多くの方々に来ていただけたらと思います。

 

「ブルーグラスとカントリーを知らしめよう」と78歳でバンドを始める

──現在トムズ・キャビンというのはどういう形態になっているんですか?

麻田:会社としてはもうないんです。トムズ・キャビンは新宿でずっとやっていたんですけど、コロナで本当に仕事がなくなったので、住居のある狭山に移転して、そこで登記した「株式会社麻田」という会社をやっているんですが、トムズ・キャビンという名前が一応知られているからコンサートをやるときはトムズ・キャビンという名称を使っています。

──トムズ・キャビン=麻田さんみたいなものですからね(笑)。

麻田:(笑)。でもコンサートも今は大変ですからね。僕らの世代って地味なアーティストでもお客さんって来てくれたじゃないですか? 例えばトム・ウェイツでもなんでも。でも、今の若い人たちにどういう人が人気あるのか、僕は正直分からないんですよね。ちなみに僕が「やりたいな」と思ってやれなかったのがヴァン・モリソンとJ.J.ケール、キャプテン・ビーフハートなんですが、彼らはオファーを何度してもダメでしたね。結局ビーフハートも亡くなったし、J.J.ケールも亡くなったし。

──ヴァン・モリソンってなかなか国を出ない人なんですよね?

麻田:いや、出るは出るんですが、飛行機に長いこと乗らないみたいなんですよね。

──それだと日本には来ないでしょうね。

麻田:そうなんですよ。でも最近ハワイまで来ているらしい(笑)。3時間ぐらいだったら飛行機に乗るんだろうなあ。でも、エージェントの人からは「彼はキャンセルが多いからやめたほうがいいよ」って常に言われていましたけどね。

──でも、麻田さんはご自身のやりたいことの9割方はやったんじゃないですか?

麻田:まあそうですね。だから僕はよく言うんですけど、みなさんのおかげで自分の観たい音楽、聴きたい音楽が聴けたと。

──トムズ・キャビンが呼んできたアーティストたちが血肉になった人って、アーティストにも音楽業界にもいっぱいいると思いますよ。

麻田:そうだったら嬉しいですね。今タワーレコードで長門(芳郎)くんがパイド・パイパー・ハウスのコーナーを持っているので、そこでハイドパーク・ミュージック・フェスティバルのプロモーションイベントをやって、今度フェスに出てもらう“いーはとーゔ”という子たちに出てもらったんですが、ボビー・チャールズの歌なんか歌っていて驚きました(笑)。

──若いのにボビー・チャールズですか?

麻田:ビックリでしょう?

──たまに若いミュージシャンでそういう渋いところを聴いている人はいますよね。そういった彼らが有名になって、そのルーツまでファンが追ってくれると面白いですけれどね。

麻田:そうなんですけどね。今回は若い人たちも含めて、ほぼ思い描いたメンバーたちが出てくれるんですが、フェスってファンだから来てくれるというわけでもないので集客は大変です。先日、ムーンライダーズが三軒茶屋でやったライブを観に行ったんですが、3,000人近く入る会場が満杯でソールドアウトしていました。ただ、彼らがこういうフェスに出て、例えば1時間ぐらいしかやらないとなると、そのファンの方々もなかなか来ないみたいな。そこらへんが難しいところなんですよね。

──長い時間やってもらうわけにもいきませんしね。

麻田:ムーンライダーズとかトリビュートバンドでも出番は1時間ぐらいですからね。

──ちなみに麻田さんもアーティストとして出演しないんですか? 

麻田:いやいや、僕は出ないですよ。

──え、出ないんですか? 最近またカントリーバンドを始めたと伺ったものですから。

麻田:バンドは始めましたけどね。カントリーって今はもう忘れられた音楽みたいになっているんですが、アメリカでは相変わらず一番売れるレコードだったりするわけでね。あとカントリーのギターってアメリカの若いギタリストは大体みんな弾けるんです。

ところが日本でカントリーのギター弾きって今ほとんどいないんですよ。以前は徳武とかがそういうギターを弾いていましたけど。最近は東京事変、ペトロールズの長岡亮介が弾きますね。彼のお父さんはブルーグラスをやっていたから、亮介のことは小さいときから知っているんですが、彼ぐらいしかいないんですよね。だから彼のところにはすごくそういう仕事が回っていくみたいでね。

やっぱりカントリーって、今もう聴くチャンスがないじゃないですか? ラジオでは当然かからないし、CD屋さんだって作品がそんなにあるわけじゃないし。だからもう少しブルーグラスとカントリーを知らしめようということでバンドをやっているんですよ。

──素晴らしいですね。テイラー・スウィフトもカントリー出身ですよね。

麻田:彼女はカントリー出ですけど、もうあそこまで大きくなっちゃうとね。ガース・ブルックスとかもそうですけど、ロック以上になっちゃっていますからね。あのへんのカントリーの売れっ子は大変だと思いますよ。

──60代でバンドを始めるのはまだわかるんだけど、麻田さんのように78歳で再開始というのは本当にすごいなと(笑)。

麻田:いやいや(笑)。とにかくもう少しカントリーに興味を持ってほしいなという気持ちでやっているんです。

 

アメリカの個性的なフェスに見る、その多様性と文化

──今でもアメリカにはちょくょく行っているんですか?

麻田:去年3月に行ったきりですが、今でも海外のフェスにはときどき行っています。ひとつはサンフランシスコで「ハードリー・ストリクトリー・ブルーグラス・フェスティバル」といって日本語にすると「厳密にはブルーグラスではないけど」というタイトルで基本ブルーグラスの人が多いんですが、いろいろな人が出ていて。それはフジロックぐらいの規模なんですが、料金はタダなんです。

──タダなんですか?

麻田: ITで大成功した人がいて、その人はアマチュアでバンジョーを弾いていたんですが、その人がお金を全部出しているフェスなんです。

──すごい(笑)。

麻田:実はその人はもう亡くなったんですが、死ぬときに全部ファンドを組んで「今後10年はなんの問題もなくフェスがやれるから」とお金を残していったらしいんですね。そのフェスは本当に面白くて、例えばボズ・スキャッグスが出てきて、バックはカントリーの連中で「僕はテキサス生まれで、原点はこれなんだよ」って、ずっとカントリーを歌ったりとか、そういうのってあまりほかでは見られないじゃないですか?

──普段は見せないところですよね。

麻田:そういうのがすごく新鮮でね。

──ブルースマンを気取っているけれど、実はカントリーも・・・ということですよね。

麻田:そうですよ。あと、僕はマーク・リボーというギタリストをずっとやっているんですが、彼のマネージャーがテネシー州ノックスビルという町でビッグイヤーフェスティバルというフェスに関わっていて彼女から「日本にこのフェスを持って行きたいんだけど、是非一度観に来てよ」と言われて観に行ったんです。ノックスビルってそんな大都会じゃないんですが、そこで結構アバンギャルドなアーティスト、例えばジョン・ゾーンやマーク・リボー、ジョー・ヘンリーとかスパークスも出ましたけれども、いわゆるメジャーじゃないけれども面白い人たちが出ているんです。

──個性的なアーティストたちがテネシーに集まっていたと。

麻田:そう、個性的なね。そのビッグイヤーフェスティバルって本当に町を上げてのフェスみたいな感じなんですよ。ノックスビルはそんなに大きな町じゃないですが、ちゃんと3,000人クラスのオペラハウスや、2,000人収容のコンサートホールもありますし、100人も入らないような小さいところでは、それこそブルーグラスとかやっていたり、そういうことを小さな町がやっているんですよね。

僕は驚いたのは、例えばオペラハウスなんて、200席ぐらいがVIPシートになっているんです。「あれはなに?」と聞いたら、確かお金を10万円以上寄付している人たちはそこに入れるらしくて、「一番多い人は100万ぐらい寄付している」とか言われて「こんなマニアックなフェスに100万も寄付する人がいるんだ」と思ったんですよ。

──100万円はすごいですね。

麻田:フェスって一種の町おこしみたいなものだと思うんです。そのフェスは年齢層が高いんですが、そういった人たちがジョン・ゾーンやマーク・リボーみたいな、ちょっとアバンギャルドな音楽を聴きに来ているんです。それが僕には不思議な感じがして「こういうのもフェスのひとつの在り方だな」って思いましたね。

──ハイドパーク・ミュージック・フェスティバルの手本にもなりそうですよね。

麻田:そうそう。テネシー州のノックスビルなんて普通の人は知らないですしね。そこに、僕の中では大物ミュージシャンたちがたくさん来ていましたからね。しかも結構アバンギャルドなフェスなのにね。

──アメリカの音楽の懐の深さと言いますか、文化として成熟していますよね。お金持っている人がそこに寄付したりすることもそうですし。

麻田:「お金持ちがお金を出す」のが当たり前というかね。ソフトバンクの孫正義さんとかあんなにお金を持っているんだからフェスとかやったらいいのにと僕なんかは思うけれども(笑)、なかなかそういうことはしないじゃないですか。

──アメリカには起業して成功した人の中にも、熱烈な音楽ファンって結構いますよね。だから自分の好きなことには金を出すという。あと文化を伝えたいという気持ちも強かったり。

麻田:もちろん向こうはそういうことにお金を出すと税金の免除になったりするから、それもあるんでしょうけどね。

──いくらお金を持っていても墓場まで持って行けませんからね(笑)。

麻田:そうなんですよね。例えば、人材育成にお金を投じた松下幸之助さんみたいな方はいますが、日本って文化にはお金を出さないじゃないですか?でもカナダ大使館なんかは毎年カナダのアーティストを日本に呼んでいますし、同様にフランス大使館もやっていますよね。でも、日本の場合は本当にそういうことをしないですからね。

僕は一時期、日本のバンドを向こうに出していきたいと思っていましたけど、本当にポピュラー・ミュージックにはお金を出してくれなかったです。反対にトラッドな感じの民謡だとか能とかそういうのにはお金を出すんですけどね。だから、ピチカート・ファイブをやっているころは本当に苦労しました。何度お伺いしてもダメでね。

──サブスク時代になってくると、何でも聴けちゃうのに、地に足が着いていないというか、シーンが根付いていないですよね。そんな中、ハイドパーク・ミュージック・フェスティバルのようなイベントをやるのはすごく価値があると思います。

麻田:ありがとうございます。そう考えると、日高(正博)は本当に頑張っていると思います。フジロックをあそこまでにして、しかも今も続けているんですから。僕は昔、彼と一緒に仕事していたので、あいつの性格もわかるから「無理しないで」と思っていたんですけど(笑)、もう何年もやっているでしょう? 本当にすごいと思います。

──でも日高さんだって麻田さんの後輩みたいな人じゃないですか? 先ほどお名前が出たリスペクトレコードの高橋さんもそうですし。

麻田:高橋も地味だけどいい音楽を本当に一生懸命やっていますよね。あいつもちゃんとお金になっているのか心配になるんですが・・・人のこと言えないけど(笑)。でもすごくいい仕事をしていると思います。彼がネーネーズというのをやっていたときに、頼まれて向こうでコーディネートしたんですが、ライ・クーダーやデヴィッド・リンドレー、ジム・ケルトナーとかみんなやってくれてね。

──麻田学校出身の方々はみなさん大活躍されていますよ。

麻田:僕の影響はさておき、みんなすごく頑張っていると思います。ただ、お金のことを考えると、あんまり僕の真似はしないほうがいいよって伝えたいですね(笑)。

 

ハイドパーク・ミュージック・フェスティバル2023実行委員会より

はじめまして、ハイドパーク・ミュージック・フェスティバル2023実行委員会です。

2023年4月29日、30日の2日間にわたり、17年ぶりにハイドパーク・ミュージック・フェスティバルを開催することとなりました。2005年、2006年、2年続けて地元住民の手により埼玉県狭山市の稲荷山公園にて行われたミュージック・フェスティバルは伝説的に語り継がれています。今、再びこのフェスティバルを再開しようとしています。

すでに2022年11月1日に記者発表をしていますが、このフェスティバルを成功させ、会場である稲荷山公園の美しさを守り多くの人に知っていただくために、みなさまの応援・ご協力をお願いします!

「ハイドパーク・ミュージック・フェスティバル2023」開催応援プロジェクト