元『ヤング・ギター』編集長・山本隆士氏インタビュー【後半】

インタビュー フォーカス

山本隆士氏

中央大学在学中から新興楽譜出版社社(現シンコー・ミュージック・エンタテインメント)のジャズ誌『ダウンビート』でバイトを開始し、『ミュージック・ライフ』の副編集長を経て、1969年に『ヤング・ギター』を創刊。以後、98年まで30年の長きにわたり編集長を務めた山本隆士さん。同時にライヴイベント、TV・ラジオ番組制作、レコーディング・プロデューサーなど幅広く活動されてきました。まさに山本さんのキャリア=日本のロックの歴史とも言えるシーンの重要な語り部です。

また、1968年にいち早く渡米し、以後、英米の有名ミュージシャンとも数多くの親交を持つ山本さんに、その膨大な記憶の中から当事者でしか感じ得ない時代の空気も含めて、お話を伺いました。

 

はっぴいえんどの3rdアルバム『HAPPY END』の録音でロサンゼルスへ

──『ヤング・ギター』は70年代のアメリカン・ロックの情報とか充実していましたよね。

山本:そういう情報が少なかったんだよね。でも、『ヤング・ギター』がいきなり『ニューミュージック・マガジン』になったら売れないんだよ。マニアックすぎて。

──そのへんのバランスを考えられていたんですね。

山本:とはいえ、個人的には、やはりアメリカで受けたカルチャーショックがあったし、その頃の洋楽は勉強しましたけど。僕はバッファロー・スプリングフィールドが好きだったんですが、結局、ビル・グラハムの「フィルモア」以降のアメリカのバンドに興味を持ったし。もちろんその前のブリティッシュ・インベージョン時代のバンドたちも自然に耳には入ってきたんだけど。

──洋楽も聴きまくっていたと。

山本:そりゃ『ミュージック・ライフ』にいたら自然とね。

──先ほども少しお話に出ましたが、1972年の、はっぴいえんどの3rdアルバム『HAPPY END』のロサンゼルス・レコーディングに関わることになるきっかけは何だったんですか?

山本:はっぴいえんどが、自分たちが影響された音楽が生み出された場所に行ってみたいという話をしていたんですよ。大滝詠一と高田渡が話していたのかな? じゃあ、はっぴいえんどで行ってみようかと。簡単に言うとそういうことだったんです。それで「誰に頼めばできるんだろう?」という話になったときに、キングレコードの三浦(光紀、注10)ちゃんが僕のところに来て、「はっぴいえんどのラスト・アルバムをアメリカでレコーディングしたいんだけど」って相談されたから「やろうよ」と。

それでキャシー・カイザーという、のちにMCAで働くことになる女性に相談したら、彼女は業界中に顔が広い人で「できるよ」ということで、キングに予算を出させて、ロサンゼルスに向かったんですよ。

──そのときすでに、はっぴいえんどのメンバーとは面識があったんですか?

山本:うん。細野晴臣、松本隆はエイプリルフールの頃から知っているしね。

──みなさん、山本さんがいて良かったと思われたんじゃないですか?

山本:なんか当時の僕は、勢いがあったんだろうね。物事に怖がらなかったし。そのはっぴいえんどのレコーディングが、日本のバンドの海外レコーディングの最初だったんじゃないかな。リトル・フィートやヴァン・ダイク・パークスも参加してね。

──どのぐらいの日数でレコーディングしたんですか?

山本:サンセットサウンドレコーダーズというスタジオで2週間かな。よくできたと思うよ。やっぱりお金の問題があるじゃないですか。スタジオを押さえて、デポジットしなくてはならないし、ミュージシャンを呼ぶのにユニオンを通すと、シングル・スケールが幾らで、とか「ダブル・スケール(倍額)払うからどう?」みたいな交渉をして、チェックを切るのにも、ユニオンを通すとミュージシャンの健康保険代もプラスしなくちゃいけなくて…みたいなことを平気でやっていたんですよね。未だに自分でも驚くよ(笑)。

──ユニオンの話は聞いているだけで面倒くさそうですね。

山本:そうでもないんですよ。むしろ名指ししたミュージシャンも必ず入れてくれますし。結局、ユニオンを通したものと、通さないものがあったけどね。通さないのは「ダブル・スケールをキャッシュでどうだ?」と。みんなキャッシュの方が喜ぶからね。でもきちんとしたミュージシャンを入れるときにはユニオンを通してね。

──予算は潤沢だったんですか?

山本:キングの最初のバジェットがウン百万円で、実際はその倍かかって(笑)、キングが「払えない」って言ってきたんですよ。で、草野さんに「キングが払ってくれないんですよ」って言ったら、「それはおまえの責任だろ!」って言われてね(笑)。結局は払ってくれたんですけど。それでシンコーにはっぴいえんどのラストアルバムの著作権を全部持ってきて。

──万々歳ですね。

山本:ね。未だに売れているしね。その後も、高田渡のアメリカレコーディング(1976年『フィッシング・オン・サンデー』)とか、エイモス・ギャレットが参加した佐藤博のレコーディング(1976年『スーパーマーケット』)とかでまたアメリカに行くことになるんだけどね。矢野顕子もそうなんだよ。

(注10)三浦光紀(1944- ):音楽プロデューサー。1968年、早稲田大学卒業後、キングレコード入社。1972年にベルウッド・レコードを創設。小室等、高田渡、はっぴいえんど、あがた森魚などを発掘。1975年に移籍した日本フォノグラムでは、矢野顕子、喜納昌吉などを発掘。1980年、ジャパンレコード設立等など、常に音楽シーンの第一線で活躍。現在、自身の関わった作品を中心に、日本のフォークやロックの名盤保存及び伝承につながる仕事に取り組んでいる。

 

ジャクソン・ブラウンとの出会いと「テキーラ・サーキット」

──『HAPPY END』『フィッシング・オン・サンデー』『スーパーマーケット』、どれも名盤揃いですね。

山本:あと、天辰(保文、注11)ともアメリカに行きましたね。天辰はシンコーで『ぷらす・わん』という雑誌をやっていたんだけど、その『ぷらす・わん』が駄目になって、なぜか僕のところに来たんだよね。草野さんが「おまえのところに天辰を入れるから」って。それで来てすぐ「天辰を連れてアメリカに行ってこい」って言われて、アメリカのレコード会社のアポとか一切何もとらずにロサンゼルスに行ったんだよ。着いてすぐデヴィッド・リンドレーと寿司屋に行ったりしたけどね。

──それは西海岸だけですか?

山本:そう。それでシンコーってケチだから、「安いチケットを探して行け」って言うわけ(笑)。で、宿もお決まりのようにホリデーインでね。ホリデーインが良いホテルだと思っているから(笑)。でも、カリフォルニアへ行って、あんなホテルに泊まりたくないじゃない?(笑)これ天辰が言っていたんだけど、「ホリデーインに着いたら、山本さんが『こんなホテル、すぐキャンセルして違うところ行こう!』と言って、パームツリーに囲まれたプールがあるカリフォルニアらしいホテルに移ったんだよね」って。だって値段は大して変わらないんだから。

──そのとき取材はしたんですか?

山本:うん。そのときにインタビューしたのが、シン・リジィ。シン・リジィをインタビューしたのは日本人では僕たちが最初なんだよ。インタビュアーは天辰でね。それで、シン・リジィがサンタモニカ・シヴィック・オーディトリアムでジャーニーの前座をやったライブを観てね。あと、フライング・バリット・ブラザーズのインタビューもしたんだけど、彼らはレオン・ラッセルの前座で、そのライブもザ・フォーラムで観た。ニルス・ロフグレンのライブもカッコよかった。それと、西岡恭蔵が南米旅行からロサンゼルスに帰ってきた時に一緒になったんだよね。

──全部向こうへ行ってからの話ですか?

山本:全部行き当たりばったり。「ロサンゼルス・タイムス」のサンデーペーパーを買って、全部調べて。最近アメリカには行ってないけど、行くとサンデーペーパーを買う癖がついちゃっていますね。

──他に何か変わったことをしたりしましたか?

山本:あと、ある時、野球まで観に行ったものね。ダグ・アルドリッチがギターを弾いていたライオンというバンドのベーシストにジェリー(・ベスト)というやつがいて、僕らは“ジェリー藤尾”から「藤尾君」って呼んでいたんだけど(笑)、彼がバンドを辞めて、グットタイムチケッツに入ったのね。そこへ電話して、「ドジャーズのチケットをとってくれないかな」と頼んだら、ファースト側の前から3列目くらいの良い席を取ってくれてね。すごい迫力だったな。

ジャクソン・ブラウン

──ジャクソン・ブラウンに会ったのはそのときですか?

山本:いや、最初はズーっと前。ジャクソン・ブラウンに会ったのも日本人では僕が一番最初なんだけど、さっき話に出たキャシーに「ジャクソンがスタジオにいるから遊びに行こうよ」って言われて、遊びに行って一緒に写真を撮ってね。で、その次に会ったときは、ウォーレン・ジヴォンのレコーディングをやっていて、レコーディングが終わったあとにウォーレン・ジヴォンの家へ一緒に飲みに行ったときに、ジャクソンに「せっかく来たんだから君の取材をしたいんだけど」とお願いしたら、彼は僕がアメリカに住んでいると思い込んでいて「じゃあ来週のいつかにしよう」とかのんきなこと言うんだよね(笑)。

──(笑)。

山本:しかも「明日ツアーに出ちゃうんだよね」と。そこでジャクソンが「じゃあ明日の朝食を僕の家で一緒にしようよ」って誘ってくれて、ジャクソンの家に行って、朝食を取りながら話を聞いたんですよ。そうしたら一緒にツアーに行くワディ・ワクテルとウォーレン・ジヴォンがやってきて、それで4人で写真を撮ってね。実はワディ・ワクテルの兄貴のジミー・ワクテルとは親友だったんですよ。で、ジミーの親友がJ.D.サウザーで、彼の家にもシャンパンもって遊びに行ったりしてね。

──そうやってシーンに入り込んでしまうのがすごいですよね。

山本:なんでそうなっちゃったんだろうね。ろくに英語もしゃべれないのに(笑)。

──山本さんは日本人で一番外国人ミュージシャンの友達が多い人でしょうね。

山本:どうだろうね。結局、編集者っていろんなことに興味を持っちゃうんだよね。それが編集にも反映されるんだと思うよ。昔、ロサンゼルスによく行ってて、「テキーラ・サーキット」というグループがあったんですよ。要するにジョー・ウォルシュとか、ジャクソン・ブラウン、ウォーレン・ジヴォンもそうだけど、色々な人が集まってきて毎日のようにテキーラで酔っぱらっている連中のことなんだけど、そこに行くと日本人は僕一人でね。

──普通は入れてもらえないんですか?

山本:「なんで日本人は僕一人なの?」って聞いたら、「だってほかの奴らはstone-faceだもの」って。まあ、お世辞で言ってくれたんだろうけど(笑)。

ロスでは、1982年のTOTO『聖なる剣』のレコーディングにも立ち会っているんですよ。そのときにジェフ(・ポーカロ)の誕生日パーティーに呼ばれて、メンバーとスタッフたちと飲んで、翌日、お互いに二日酔いのままスティーブ・ルカサーのインタビューをしたんですよ(笑)。彼の家で話を聞いたんだけど、サービスでギターを持って自分の家のプールに入ってくれたりね。

──すごい…。

山本:その『聖なる剣』のワールドツアーのスタートが日本だったんですよ。倉敷市民会館。そのリハが倉敷市の児玉町というところの公民館を借りてやったんだけど、それも全部付き合っています(笑)。変な外国人が田舎町をうろうろしていたんだけど、誰も気づかなくてね。

──山本さんは愛される性格なんですね。

山本:ラッキーですよね。取材するにしてもミュージシャンとすぐ仲良くなっちゃうという。

──趣味と才能と運と時代が見事にはまったと。

山本:そうだね。時代時代に合ったんだろうね。

(注11)天辰保文(1949- ):音楽評論家。大阪外国語大学(現大阪大学)卒業後、新興楽譜出版社(現シンコーミュージック・エンタテイメント)に入社。音楽雑誌の編集を経て、76年からフリーランスとして活動を開始。以後、新聞、雑誌、ウェブマガジンへの寄稿、及び、トークイベントやラジオ番組への出演等を通じて、評論活動を行っている。レコードやCDのライナーノーツも多数。

 

ヴァン・ヘイレンの衝撃からヘヴィメタルへ舵を切る

──『ヤング・ギター』は80年代を迎えるとヘヴィメタルが中心となっていきますよね。このきっかけは何だったんですか?

山本:大きかったのはヴァン・ヘイレンとの出会いなんですよね。1978年にヴァン・ヘイレンが『炎の導火線』でデビューして、『ヤング・ギター』はそれまで日本のフォークやロックも英米の音楽もやっていたけれど、ヴァン・ヘイレンの音楽を聴いたときに「次はこれだ!」と思ったんだよね。ギターも進化しているし、80年代はこういう音楽だという兆しをヴァン・ヘイレンから感じたんだよね。日本もジャパメタと言われるシーンがあったから、それと並行して紹介していこうと『ヤング・ギター』も舵を切ったわけ。

エディ・ヴァン・ヘイレン(ヴァン・ヘイレン)

──なるほど。

山本:同時に「ジャパン・ヘビーメタル・フェスティバル」とかそういったコンサートも雑誌に跳ね返ってくるように仕掛けていったんです。そこでNHKに「これからはこういう時代になる」と話をしに行ったら、乗ってくれて、TVとFMで特番をやってくれたりしました。僕が総合司会をやって野音でね。あとほかの雑誌にも「取材してください」と呼びかけたり、シーンを作ろうとしていたんだよね。それで大阪がジャパメタの発祥地だったから、大阪城の野音で「グランドメタル」というコンサートも仕掛けて、プロデュースをやったりしました。

──山本さんのヘビメタ時代ですね。

山本:そっちの印象の方が強い人も多いんじゃないかな? TBSの「ピュアロック」というヘビメタ番組も、僕がカフェのマスターという設定で、そこに伊藤政則(注12)と和田誠(注13)が出演していた。その番組で発掘してヒットさせたのがエクストリームとかミスター・ビッグだよ。エクストリームはデビュー前にわざわざボストンまで取材に行ったんだよね。それでリハで聴いたのが「More Than Words」で、「これは絶対に日本でヒットする!」と思って僕と伊藤政則が押して、ヒットしたんだよね。

──すごい!

山本:遡っちゃうけど、ボン・ジョヴィとかもそうだよ。あとマイケル・シェンカーがロビン・マッコーリーと一緒に番組に出てくれて、目の前で「Yama’s bar song」という曲を歌ってくれたり。

それでTBSの「ピュアロック」が終わった後に、1990年の夏から「WOWOW ピュアロック」をやって、千葉テレビで「レッツ・ゲット・ロック」、それからテレビ埼玉で「ウェーブワールド」をやったんだけど、「ウェーブワールド」は特別取材とかしっかりやってくれて、それこそイングウェイ(・マルムスティーン)とかインタビューして結構面白かったよね。僕がインタビューしたアーティストの総集編をやってくれたりもしたね。

左よりイングウェイ・マルムスティーンとマイケル・シェンカー

──そういう映像を観たい人ってたくさんいると思います。

山本:さっき話した1983年、大阪の「グランドメタル」というイベントの映像が、1グループ1曲しか公開されていないそうなんだけど、僕はその映像を全部持っているの。で、あるときに大阪のロックバーに行ったら、そこの人が「是非観させてください!」って(笑)。

──いや絶対に観たいですよ。私は「スーパーロック」は観に行ったんですが。

山本:「スーパーロック」は84年の西武球場だよね。ボン・ジョヴィが出たり、ホワイトスネイクとマイケル・シェンカー・グループがダブル・ヘッドライナーでね。

今、ジャパメタ復活しているような気がするんですよね。先日、DEAD ENDのギタリストのYOU(足立“YOU”祐二氏)が亡くなってしまいましたが、その反響もすごかったです。結局、DEAD ENDに影響されたのがLUNA SEAだったり、L’Arc〜en〜Cielだったりするわけでしょう?

──LUNA SEAのSUGIZOさんも追悼していましたね。

山本:そうだったよね。今、70年代よりも80年代が興味を持たれるんだよね。Rajas、X-RAY、MARINO、BLIZARD、Make up、アルージュ、ANTHEM、44MAGNUM、ラウドネスとかまた注目されたりね。

──その80年代が『ヤング・ギター』のピークですか?

山本:そうかもしれないね。それで1998年10月まで編集長をやりました。

──30年ですか。すごいですね。その30年の間、『ヤング・ギター』は常にシンコーで一番売れた雑誌なんですか?

山本:そうでもないと思いますよ。やっぱり『ミュージック・ライフ』も人気があったしね。『BURRN!』も売れていたし。

──女子は『ミュージック・ライフ』を買って、男子は『ヤング・ギター』みたいな印象があります。

山本:でも、結局『ミュージック・ライフ』も取り上げるアーティストが『ヤング・ギター』ぽくなってくるんだよね。

(注12)伊藤政則(1953- ):音楽評論家。ヘヴィメタル専門誌『BURRN!』編集顧問。アイアン・メイデンやボン・ジョヴィ、メタリカ、エアロスミスなど、数多くの世界的なバンドと交流があり、「Masa-Ito」の愛称で親しまれている。ヘヴィメタルのみならず、60年代以降のブリティッシュ・ロック全般やプログレッシヴ・ロックにも精通。

(注13)和田誠:音楽評論家。愛称はキャプテン。1970年代から新宿などのロック喫茶でDJとして活動し、1975年にオールナイト・ニッポンのパーソナリティとしてデビュー。1987年よりTBSのHR/HM番組「ピュアロック」にレギュラー出演。ジャーニーの全作品にて日本盤解説を執筆。その他、HR/HM全般のCDに解説を寄せている。

 

スラッシュ(ガンズ・アンド・ローゼズ)

 

音楽と出会うきっかけ作りの大切さ

──山本さんはご自身の経験を話される機会は現在も多いんですか?

山本:うん、いろんなところでトークショーはやってるよ。実は、母校の高校からリクエストがあって「OB夢授業」というのをやっているんですよ。これは僕とか学校OBが講師となって、今の高校2年生に講義をするんですね。その僕の講義タイトルが「歌は世につれ世は歌につれ」でね。

──それはどんな内容を話すんですか?

山本:数年前はいきなりジョン・レノンの「イマジン」をかけたんです。それで「この歌知っている人?」って質問から始めて、60年代アメリカのカウンターカルチャーの話をし、1969年が日本のフォークとロックの夜明けであり、僕が『ヤング・ギター』を創刊した年であると、そういう話をしたんですよ。

──高校2年生だけに聞かせるのはもったいないですね。

山本:先生たちも聞きたいということで、生徒と一緒に聞いていましたね。先生たちは30〜50代だけど、その人たちには80年代の話をしたりね。

──その講義は今年もやるんですか?

山本:ええ。12月19日にやる予定で、それまでに何を話すか考えておかないと。

──若い人たちに話すのは面白いですか?

山本:そうですね。次世代を担う人達ですから、若い人たちにもできるだけわかりやすく、どういった話をしようかな?と思案しています。また、以前に受講したみんなが書いてくれた感想文がすごく良いんですよね。

──素晴らしいですね。山本さんの講義で「イマジン」を初めて聞いた生徒さんも多かったんじゃないですか?

山本:多かったですね。それで訳詞を読んであげてね。あまり政治的なことは入れないで、でも、ベトナム戦争や公民権運動の話をしつつね。

──そういうことをきっかけに若い人が過去の作品も含めて、洋楽を聴いてくれるようになったらうれしいですよね。

山本:そうですね。温故知新、そこから今の音楽、さらには将来の音楽を理解してくれたら嬉しいです。今、若い人たちに一番受けている洋楽はクイーンじゃないですかね。シンコーもクイーンに関する復刻書籍をたくさん出していますし、すごく売れているらしいですからね。

──今、若い人と話すとレッド・ツェッペリンやディープ・パープルはよく知らないんですが、「クイーンは?」って聞くと、みんな「知っている!」って言うんですよね(笑)。

山本:やっぱり映画(『ボヘミアン・ラプソディ』)の影響は大きいよね。でも、ほかのバンドだって、そういったきっかけさえあれば、若い子もみんな聴くと思うんだけどね。そういうきっかけ作りをもっとやっていけたらと思いますね。

──もっと話が聞きたいのですが、残念ながらお時間がきてしまいました。

山本:今日話したのは、ほんのさわりで、まだまだたくさんエピソードがあるからね。時間が幾らあっても足りないよ。もし何か聞きたいことがあったら、ミュージックマンを読んでいる読者のみなさんも、ミュージックマンにリクエストちょうだいよ。そうしたトークショーとか記事で答えるからさ!

──本当ですか?! よろしくお願いします!

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