第172回 ミュージシャン 浅倉大介氏 インタビュー【前半】

インタビュー リレーインタビュー

浅倉大介氏
浅倉大介氏

今回の「Musicman’s RELAY」はヤマハミュージックジャパン 小島高則さんのご紹介で、ミュージシャンの浅倉大介さんのご登場です。

中学時代にシンセサイザーの魅力にとりつかれ、探求を続けた浅倉さんは、高校時代からヤマハの電子楽器開発に従事しつつ、1987年からはTM NETWORKのマニピュレーター、のちにサポートキーボーディストを務められました。

平行して1991年にソロデビュー、翌年には貴水博之とのユニット・accessを結成しスターダムへ。また、作家としてもT.M.Revolution、藤井隆など数多くのアーティストに楽曲提供&プロデュースし、作った楽曲は750曲以上に及びます。

そんな浅倉さんにシンセサイザーの出会いから、ヤマハ伝説のデバッカー時代、そして先日行われたaccess無観客ライブまでじっくり伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

プロフィール
浅倉 大介(あさくら・だいすけ)


1991年デビュー。ソロアーティストとして、またaccess、Icemanとユニットとしても活動。2017年には小室哲哉氏とPANDORAを結成。コンピュータ、シンセサイザーなどのデジタルメディアへの積極的かつ斬新なアプローチが高い評価を受けている。

T.M.Revolution・藤井隆など他アーティストの作曲・編曲、プロデュース活 動も多岐にわたり、デジタルサウンド・クリエイター、キーボーディストとして柔軟な活動を展開している。

2020年に入ってから自身のソロプロジェクト「DA METAVERSE」での楽曲の連続配信やaccessとしても配信シングルを続けてリリース中。9月からは宇都宮隆氏、木根尚登氏とともに「tribute live SPIN OFF T-Mue-needs」ツアーに出演。また10月からはaccessのホールツアー「access 2020 LIMITED CONCERT SYNC-STR」もスタートする。


 

「音楽を支配すること」の快感

──前回ご登場いただいたヤマハの小島高則さんとはどのようなご関係なのでしょうか?

浅倉:僕はヤマハの開発セクションの仕事をしていた頃、シンセのセミナーとかもやっていました。EOSという小室哲哉さんがプロデュースしたシンセが出て、結構色々なイベントが全国的に行われていて、ちょうど小島さんが東海エリアを担当していたのかな?名古屋支店にいらっしゃって。その頃、東海エリアの仕事になると基本的には小島さんにお世話になっていたのが、僕が22、23の頃だったと思います。その後、小島さんは着々と出世されて、本社やアジアでお仕事をされるようになったんですね。

──小島さんは中国にも行ってらっしゃいますね。

浅倉:そうですよね。ユーザーに近いところで楽器をプレゼンテーションするときは、小島さんにお世話になっていますし、会ってもすごくフランクに接してくださいます。現在も小島さんは電子楽器のプロモーションを一手にやっていますよね。

──今も小島さんに何かご相談されることはあるんですか?

浅倉:ええ。楽器周りのことで本当に困ったときは、小島さんにお願いすればなんとかなると頼っています。話が飛んでしまうんですが、以前、上海で行われたイベントにaccessで呼ばれたんですが、現地で機材をどうやって借りたらいいのか分からなかったんですよ。アジア関係は全然わからなくて、頼んでもすぐに手に入らなかったりで、ふと「小島さんが今ちょうど中国にいる」と思い出したんです。それでメッセージを送ってみたら「すぐに用意するよ」って言ってくださって、会場にヤマハのシンセを何台か送ってくれました。

──良いタイミングで小島さんは中国にいらっしゃったんですね。

浅倉:あのときは本当に助かりました。最近ですと「楽器フェア」も全部小島さんがやっていらっしゃいますよね。今年は中止になってしまって残念です。

──小島さんも非常に熱心に取り組まれていたので、中止は残念ですね。では、小島さんとはかれこれ30年以上のご関係なんですね。

浅倉:本当にそうですね。お兄さんのような、先輩のような、プロデューサーのような・・・。本当にいつでも優しくしていただいています。

──ここからは浅倉さんご自身のお話を伺いたいのですが、お生まれはどちらですか?

浅倉:浅草です。下町出身ということになるんでしょうね。

──浅草と聞くと、お祭りなど華やかなイメージがあります。

浅倉:浅草って、今思えばイベントの街なんですよね。2か月に1回、なにかしらイベントをやっていて、それこそ三社祭から始まって、ほおずき市、お正月もそうですし、いつも街がイベントで盛り上がっている。そんな環境で育ってきたことが、今、エンターテイメントに関わっていることに関係があるのかな?と思ったりもしますね。といっても直接お祭りに参加していたかというとそういうわけじゃなくて、常に周りがそういうムードだったっていうくらいですが。

──お父様はどんなお仕事をなさっていたんですか?

浅倉:父親は水道工事の仕事をやっていました。父親が技術職だったので、なんでも作ってくれるんです。それこそ水道工事に使うパイプで作った乗り物とか、そういうのを小さいころから見て「物が作れるのってすごいな」と思っていました。完成品のおもちゃはあまり買ってもらえなくて、例えばレゴブロックとか、電子ブロックとか、組み合わせてなにかを作るものはよく買ってもらいました。

──なるほど。

浅倉:パーツから組み立ててひとつのものにするという。そういうおもちゃは買ってもらえていた気がしますね。

──音楽を始めるきっかけは何だったんでしょうか?

浅倉:小さいときから音楽を聴くのはすごく好きで、歌謡曲、クラシック問わずになんでも聴いてはいたんですが、聴いているうちに「自分だったらこうやって変えるのにな」って思ったんですよね。それで小学校4年生のときにヤマハのエレクトーンを始めて、気づいたらシンセを触っていたりとどんどん広がっていきました。

──その頃、ほかの趣味はありましたか?

浅倉:音楽ばかりでしたね。あと小学校の音楽の授業で合奏するじゃないですか? そのときに音楽の先生から「浅倉君、指揮をしてみなさい」と言われて、クラスの演奏の指揮をやったんです。

それで、遅らせたいところはこういう風に、早くしたいところはこういう風にと指揮のポイントを教えてもらって、実際にやってみたら、自分のタクトの振り方ひとつで音楽がどんどん変わっていくことに本当に感動しました。「音楽って一人で支配できるんだ!」ということを小学校の音楽の授業で体感したのが、僕の最初の一歩になるのかなと思いますね。

──「音楽を支配すること」の快感ですか?

浅倉:指揮者次第でテンポも音量も迫力もすべてが変わるという。本当にしびれましたね。

──その体験を与えてくれた先生は浅倉さんの恩師みたいな方ですね。

浅倉:そうですね。まだお元気でいらして、何年かに一回は会ったりしています。

──同時にエレクトーンの演奏も始められて。

浅倉:そうですね。楽器をやりたいなと思ったときに、いちばん惹かれた楽器がエレクトーンでした。男子って宇宙船のコックピットのようなコントロールパネルがずらっと並んだビジュアルって好きじゃないですか? そのイメージにエレクトーンは近くて、しかも色々な音色をひとりで出せる楽器がエレクトーンだったんです。

──やっていることは今もまったく一緒ですね。

浅倉:そう、全く変わらないんですよね(笑)。だから本当に初心のままずっとやっているだけなんです。

 

アルバイト先の楽器店でシンセを探求

──ひとりですべての音を作り上げて、まとめてということを何十年間もやっていらっしゃる(笑)。

浅倉:(笑)。なにが面白いって、電子楽器の世界ってセオリーがないんですよ。時代時代の機材がテクノロジーの進化にあわせてどんどん変わっていくのが、今も続けられているひとつの魅力だと思っています。クラシックはちゃんと技術を学んで、正しい奏法と歴史も知って、言い方は悪いですけど立派な先生につくためにお金も必要ですが、電子楽器の世界はすべてが自由で、それこそエレクトーンからはじまってシンセをやりだして、時代とともに作り方が変わっていきましたし、発表の仕方も聴き方も空間すらも変わってきたわけじゃないですか。

──機械の進歩とともに。

浅倉:ステイホームの時代に、音楽をオンラインで届けられるようになったりとかね。いきなり話をまとめちゃいますが、電子楽器の魅力って日々変化していくことかなと僕は思っています。

──シンセサイザーとの出会いはおいくつのときですか?

浅倉:中学生の頃ですね。エレクトーンってすごくいい楽器で、メロディとハーモニーとベースとリズムの基本を全部覚えられるという、音楽のスターターセットのような楽器だったんです。それで音楽の基本を一通り理解しつつ、「もっと自分で音が作れたらいいのにな」「好きなリズムが作れたらいいのにな」と、いろいろと調べる中で、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)を観たんです。ステージ上に3人ですごい音を鳴らしていて「これはどうやっているんだろう?」と思ったんです。

──やはりYMOの洗礼を浴びられたんですね。

浅倉:当時はすべてが新しすぎましたね。それまでの僕が観ていたテレビ番組『ベストテン』や『トップテン』『夜のヒットスタジオ』とかは、バンドが入っていて、ちょっと打ち込みを使った曲でも、テレビに出るときはバンドの演奏になっていました。なのにYMOは3人で、ドラムもエレクトリックだったりとか、生演奏では弾けないようなフレーズの音、今で言うシーケンサーからシーケンスされた規則正しい音が出ていて、衝撃を受けたんです。

それで調べたら松武秀樹さんという方が、MC-8というシーケンサーにデータをすべて打ち込んで、タンス(モーグⅢ-C)を鳴らしていると分かるわけです。ということはシンセサイザーとシーケンサーがあれば、自分の思うような音を全パート作れるんだというのを知ってしまったが最後…(笑)。

──(笑)。

浅倉:とにかく影響を受けて、冨田勲先生のレコードを聴きまくったり、浅草にコマキ楽器というお店があって、今はその名前がなくなってジャパン・パーカッション・センターや、ドラムシティとかが残っているんですが、そこで中学の終わりぐらいにアナログのシンセサイザーやリズムマシーンを手に入れ始めて、高校に入ったらその楽器屋さんでアルバイトを始めました。

──高校は都立蔵前工業高等学校に進学されていますが、これはやはりシンセとかを作りたいといった気持ちがあったから、工業高校を選ばれたんですか?

浅倉:いや、その学校には設備空調科というのがあるんです。

──ご実家の水道屋さんを継ぐ前提ですか?

浅倉:音楽で仕事ができるなんて中高生の頃は思いもしないですから(笑)。なので一応、家業を学べるような科がある高校を選びました。

僕が楽器屋さんでアルバイトを始めた頃というのは楽器の世界が大きく変わる時代で、それまでアナログシンセサイザーが主流だったのが、デジタルに置き換わっていくのと同時にMIDIが出始めたんですね。ただ、シンセサイザーが1台30万ぐらい、リズムマシンが百何十万円と、高校生の僕にはそうそう買えるものじゃなかったんですね。しかもその楽器屋さんに来る人たちは電子楽器が目当てじゃなくて、スナックが多い土地柄ですから、タンバリンとかマラカスとかで…(笑)。

──(笑)。

浅倉:そういった楽器はすごく売れるんですが、シンセサイザーを買いに来る人はまずいない。でも展示はしてあるので、僕は空いている時間に説明書を見て、ヘッドフォンをして「片っ端からシンセを学んじゃえ」と。

──触りたい放題。

浅倉:そうです。それで段々とわかってくるうちに、お店にあるMIDIに対応した楽器をつないで、シーケンサーも展示してあったので、それに打ち込んで全部鳴るようにしたり。

──楽器屋さんを勝手にスタジオ化しちゃったと(笑)。

浅倉:まさに(笑)。その楽器屋さんの社員の皆さんが優しくて、自由に触らせてくれたんですよね。それで新しい楽器が出ると、自分でチェックをしているうちに、ふいに予想せぬ動作を引っ張り出す方法を見つけ出したりしたんですね。リズムマシンでも「こんな音は絶対に出せないだろう」と、想定していない部分で変な操作をするとそれが出せるのを発見したり、お店でひとりで楽しんでいたんですよ。

そうしたらお店の担当だったヤマハ 東京支店の営業の方から「東京支店に会わせたい人がいる」と声をかけられて、当時、銀座にあったヤマハの東京支店で、デジタル楽器の東京エリアをすべて担当されていた方にお会いしました。そこで「想定以外の操作をするとこういうことが起きる」と話すと、「目の前でやって見せてくれ」と。それでやって見せたら、今度はその人経由で本社へ呼ばれたんです。高校3年生のときでした。

 

「CPUの気持ちになればすぐわかる」」ヤマハ伝説のデバッカーに

──本社というのは浜松ですか?

浅倉:浜松に呼ばれました。「ヤバイやつがいるぞ」という話が伝わったらしいです。とにかく楽器の不都合を見つけさせたらという(笑)。

──モニター役みたいな。

浅倉:今で言うベータテスターですよね。それで高校の先生もすごくいい先生で「こういうことをやっていて、浜松に呼ばれた」と報告したら、「それは就職活動のひとつとして、欠席にはしないであげよう」と配慮してくださって、浜松の本社に行くことになりました。

行ってみると、スタジオの中に制作途中の楽器が置かれていて「浅倉さんは初めてですから、2~3個でもバグが見つかればいいでしょう」と言われたんですが、1日中その楽器を片っ端からチェックして見つけた100個ぐらいのバグをバーッとレポート用紙に書いたら、向こうの人たちがビックリしていて。今でもそれは「伝説のデバッグリスト」として保管されているらしいです。

──すごい…。

浅倉:そこからシンセサイザーやエレクトーン、クラビノーバ、ポータブルキーボードと、チェックするようになりました。今は不具合があったらアップデートでどんどん直せますけど、当時の家電を含めたデジタル楽器は、ROMチップに焼き付けたプログラムを本体に内蔵するので、そうそう気軽にバージョンアップができないんです。

インターネットもなかったですから、特に楽器なんかちょっとしたことでも鳴らなくなったり、不具合を起こすと致命傷になるんですね。万が一にも「演奏中に鳴らなくなることがある」という話が広まったら、その楽器は普及しなくなってしまうので、責任重大なんです。

──浅倉さんのような作業をする方は何人かいたんですか? もしかして高校生でありながら、たったひとりでやっていた?

浅倉:もちろん他にもいらっしゃったとは思うんですが、僕は群を抜いていたみたいです。浜松にあるヤマハのイノベーションロードという大きなショールームに、今までの歴代のデジタル楽器が展示されていて、そこへ伺った時に本社の人たちと過去を振り返りながら話をしていたら「これも全部チェックしたやつ、あれも全部チェックしたやつ」となって、「ほとんどの主要機械のデバッグは浅倉さんがやっていたんですね」みたいな話になりました(笑)。

──浅倉さんはヤマハの伝説のデバッカーなんですね(笑)。ヤマハの電子楽器が今日あるのは、浅倉さんのおかげとも言えますね。

浅倉:当時はそんなことはわからないし、みんな手探りだったと思いますね。

──初めて浜松に行かれた頃って、ヤマハがDX7を出した頃ですか?

浅倉:いや、DX7はそのちょっと前ですね。デジタルシンセサイザーのDX7が世の中に出たときに、僕はまだ買えなかったんですが、そのときに同時にヤマハの音源を内蔵したMSXのパソコンを買いました。それにソフトウェアをいれるとシーケンサーになったり、音色をプログラムできるマシンになったりする、音楽専用のコンピューターで、それを手に入れました。

もちろん売っているソフトも使ってはいたんですが、「どういう仕組みで動いているんだろう」と知りたくなって、そこからいろいろな本を読んでいったら、プログラムを書けばプログラム通りに処理していくのと、あとCPUというのは足し算しかできないので、それをいかに高速で動かすかという、コンピューター自体の仕組みを知りたくなったり、コンピューターの世界にどっぷりはまってしまって、自分でもプログラムを書くようになっていきました。

当時のコンピューターって98とか88とか、電源を入れるときに簡単にベーシックは立ち上がりました。ただそれで書くと、自分がMIDIでやらせたいスピードに間に合わなくて「どうしたらいいんだろうな」と調べていくと、マシン語という言語があって、それでCPUを直接動かすことができるということを知りました。

今はC言語だったり、JAVAだったりでプログラムを書いて、それをインタープリターみたいなものにかけて、マシン語に直して、コンピューター上で動かしているんですが、僕はマシン語を直接書くというところに行き着いて、色々とMIDIのソフトを書いたりしていましたね。

──やっていることがミュージシャンというよりもデジタル技術者ですね。

浅倉:そうですね。もともとは音楽をやりたくてはまったんですが、そこから新しい音を生み出すための技術を知りたくなったんですよね。当時、ヤマハの人からなんでそんなにバグが見つけられるのかを聞かれて、これ自分では覚えてなかったんですが「CPUの気持ちになればすぐにわかりますよ」って僕が言ったらしいです(笑)。

──かっこいいですね(笑)。

浅倉:自分でも笑っちゃったんですが、でもそうですよね。CPUの気持ちになればどういうプログラムかわかるよと。

──それを高校生のときにおっしゃった?

浅倉:そう言っていたのが衝撃的だったと言われました。あと、なにかがある程度完成してチェックをする段階で、プログラムの設計者を聞いたりしました。「○○さんがリーダーで、○○さんがサブです」と聞けば、「じゃあこの辺をチェックしておけば大丈夫かな」と、人柄でプログラムにクセが出ることも、この頃にはわかるようになっていましたね。

──もしミュージシャンではなく、ヤマハでお仕事を続けていたらデジタル機器の開発トップとかになられていたんじゃないですか?

浅倉:どうなんでしょうね。当時、ほんの1年ぐらいの間にアナログがすべてMIDIとヤマハのXシリーズに置き換わった時代で、次の時代を作り出す、もっと言えば90年代の音を作り出すための機材の開発に関われたのは、今の自分にとって重要な仕事のひとつだったのかなと思います。

本当に面白かったですよ。DX7IIに関わっていた時は、発売日は決まっているのに、なかなか開発が追いつかなくて、当時のヤマハは日曜日と月曜日が休みだったんですが、火曜日から土曜日まで浜松に行って、日月は東京に戻ってくるみたいな感じでした。

──それも高校生のときですか?

浅倉:高校3年生と、卒業したあとですね。20、21までそんなことをしていました。デバッグで「おかしいぞ」と言うと、すぐにデータを設計チームが直して、またチップに焼いて、シンセの中の蓋を開けて埋め込んでというその繰り返しなんですけど、本当に最後のほうはみなさん徹夜状態で、僕が「これで大丈夫」と言うまで、ずっと続くんですよ。工場は工場で、チップ待ちの蓋が開いているシンセが大量に並んでいる状態だったらしいんですけど。

──壮絶ですね…。

浅倉:本当に完ぺきな、エラーが1個もない状態のシンセに追い込むというね。

──つまり浅倉さんがOKを出すのを全員が待ち構えているわけですよね?

浅倉:そうですね。深夜になると当時の課長さんがピザを取ってくれたりして(笑)。

──そんな高校生、見たことないですよね。前回の小島さんも中学校のころ「遊びに来ないか?」と言われて手伝っていたらしいですが、ヤマハってそういう社風なんですかね?

浅倉:そこはヤマハがすごいと思いますね。そういう風にちょっとやりたいことがある人間を呼ぶと、リソースとつながりが全部用意されている。やろうと思ってもなかなかできることじゃないと思います。しかもヤマハはそれが世界的なネットワークになっていますからね。

──そこまでのお仕事をなさって、ヤマハの名刺とかは持っていなかったんですか?

浅倉:1回も契約はしなかったですね、全部単発でのお仕事でした。しかももらったお金で次から次へと楽器を買っていました。とにかくヤマハの中で学びながら育ってきた感じですね。

──ヤマハってそういう意味では懐が深いですね。

浅倉:技術に惜しみなく投資していく感覚が素晴らしいと思いますし、あの頃のデジタル楽器は本当に面白かったですね。

 

ソロデビューのきっかけを与えてくれた小室哲哉氏との出会い

──そのヤマハでの生活が何年間ぐらい続いたんですか?

浅倉:21、2くらいまでかな? 高校を出て、しばらくはシンセサイザーのプレイヤー、マニュピレーターの生方則孝さんと福田裕彦さんの事務所に籍をおいて仕事もしていたときもありました。そのお二方も僕の師匠ですね。

──それはマニュピレーターとして?

浅倉:そうですね。ヤマハのデバッグの仕事をしながら。生方さん、福田さんはFM音源の音作りがとにかく天才的な人で、そのころFMで音を作れる人って世界に数人しかいなかったんですが、それを横で見ていて「新しい音ってこうやって生まれるんだな」と学びつつ、お仕事としても、何千音色を作ったのかわからないですが、ヤマハのFMチップが入っている小さなキーボードの音作りには大体携わりましたね。エレクトーンもそうですし、ショルキーとか、ほとんどのコードを作ったと思います。

──浅倉さんの音楽デビューはマニュピレーターから始まったということですか?

浅倉:その開発セクションからですね。音楽を奏でるというよりは「どうしたら新しい音が発音できるのか?」ということを、高校の終わりから21、2のころまでやっていました。そんな感じでヤマハの方とつながりがたくさんできた中で、22、3の頃にTM NETWORKというユニットが最新のシンセサイザーの音をたくさん使って曲を作っている中で、小室哲哉さんがライブでも打ち込みのサウンドをテープじゃなくて生で鳴らしたいとヤマハに問い合わせが来たらしく、「そんなことができるのはお前しかいない。浅倉行け!」と、送りこまれました(笑)。

──「浅倉行け!」ですか(笑)。

浅倉:(笑)。当時道玄坂のヤマハ渋谷店の3階にYAMAHA R&Dというのがあったんですが、そこで小室さんとお会いしたのが22、3の頃ですね。

── TM NETWORKが華々しく活動していた頃ですよね。

浅倉:そうですね。大ヒット曲が次から次へと出ていた時代です。

──そのときはどんな気持ちで仕事に臨まれたんですか?

浅倉:「自分の使命を全うしなきゃ」みたいな気持ちでしたね。それでTMがレコーディングで作った素材を全部生で鳴るように、たとえばホーンセクションだったりコーラスは全部サンプラーの中にデータにして入れていくんですが、まだ光ディスクもハードディスクもなかった時代なので、TX16Wというサンプラーがラックの中に10個入っているのが3つ、1公演にフロッピーディスクが200枚とか、そのぐらいのデータを用意していました。

そのあとに小室さんプロデュースのEOSというシンセサイザーがヤマハで出て、僕はTMとお仕事を一緒にやっていたので、セミナーであったり、イベントであったりとか、あとはシンセサイザー用のROMカードだったりスコアブックとか、マルチメディアな展開のお手伝いもかなり細かいところまでやらせていただきました。

EOSを使ってリミックスのコンテストをやるとか、いろいろな企画がヤマハであったんですが、その中で音を作ったりしているときに、小室さんが「自分でオリジナルの曲を作ってみなよ。ただ、全部オリジナルのアルバムじゃなくて、せっかくTMとのつながりがあるんだから、TMの曲をカバーをしたら」とおっしゃってくれたんですね。

──小室さんがカバーを提案してくださったんですか。

浅倉:ええ。普通「カバーをしていいよ」ってご本人が言わないじゃないですか(笑)。特に当時一番尖っていたTM NETWORKの小室さんから直接そんな声をかけてもらえるなんて、とてもありがたかったですし、そうしたらTM NETWORKを聴いている人たちにもスッと聴いてもらいやすくなるよとアドバイスしてくださったんです。

だから僕にとって小室さんはデビューアルバムのプロデューサーでもあって、アルバムの頭と最後にオリジナル曲を入れて、真ん中はTM NETWORKのカバーを自分なりにシンセで作ったのが、自分のソロデビューアルバム『LANDING TIMEMACHINE』です。24のときでした。

──ちなみに TM NETWORK がコンサートで全部生で演奏するというのは、もし小室さん自身にお時間があればできたことなんですか?それとも浅倉さんじゃないとできなかった仕事なんですか?

浅倉:とんでもなく時間をかければ、あと人手を集めれば小室さんにもできたと思います。当時、QX3というシーケンサーの打ち込みをさせたら僕より早い人はいないだろうというぐらい、シーケンサーにデータを打ち込むのが早かったんです。

──それでもそのライブ音源を作る仕事には、どのくらい時間がかかったんですか?

浅倉:2週間ぐらいですかね。その当時、ヤマハの合歓の郷でTM NETWORKはリハーサルをやっていたんですが、リハーサルの2週間前に呼ばれて、僕と小室さんでずっとデータと向き合っていました。小室さんはライブのアレンジをそこで作り、僕はもうずっとサンプリングしてはデータにして、他のデータも全部打ち込んで再現できるようにして。

──1日何時間やって2週間?

浅倉:ほぼフル稼働ですね(笑)。

──寝てるか食べているか以外は。

浅倉:そうですね、食事かちょっと仮眠する以外はほとんど、データを作成していました。

──うわぁ…。

浅倉:それはそれで面白かったんですよね。次から次へと誰もやったことのないことばっかりだったので。ただ時間さえかければやり遂げられるのと、やったことに対しての結果が、あらゆるもので初めてでしたから。テープじゃなくてデータで音源を再生できるという。

──聞いているだけでも果てしない作業に聞こえますが、まったく苦ではなかった?

浅倉:はい。「この日までに終わらないと、もう東京には帰さないぞ」みたいな冗談的なノリで(笑)。

──軟禁状態(笑)。

浅倉:すごくハイテクノロジーなことをみんなでやっているんですけど、体育会系な感じでね。周りからしたら何をしているのか、わからなかったでしょうね。

──ライブのときは自分もステージの上にいるんですか?

浅倉:最初のころはローディーさんに任せちゃってましたが、途中から実際に自分もステージで演奏しながらでした。うれしいことにそれも小室さんが声をかけてくれて、サポートのキーボーディストとして人前に立ちながら、データを再生する作業をしていました。

──YMOでいう松武さんの役というか。

浅倉:そうですね、そのデジタル版ですね。

 

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第172回 ミュージシャン 浅倉大介氏 インタビュー【後半】

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