第165回 ミュージシャン 野呂一生氏【後半】

インタビュー リレーインタビュー

今回の「Musicman’s RELAY」は山本恭司さんのご紹介で、ミュージシャンの野呂一生さんのご登場です。小学校時代に特殊な音楽の授業でその基礎知識を学んだ野呂さんは、中学時代にギターと運命の出会いを果たし、その才能を開花させます。カシオペアで出場したアマチュア・バンド・コンテスト「イーストウエスト」では2年連続でベストギタリスト賞を受賞し、79年アルバム「CASIOPEA」でデビューすると、その作編曲の能力と演奏力で高い評価を得て、カシオペアは瞬く間に人気バンドとなります。また、本格的な海外活動を開始し、多くの国々で演奏を繰り広げ、海外のファンも魅了しました。カシオペア第一期・第二期、カシオペア活動休止以後のINSPIRITS、そしてCASIOPEA 3rdと現在も精力的に活動を続ける野呂さんにギターのことから、カシオペアの活動、そして東京音楽大学における指導のお話までじっくりお話を伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

 

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第165回 ミュージシャン 野呂一生氏【前半】

 

「星座とか面白いんじゃない?」〜カシオペアの誕生

──プロとしてのスタートは何だったんですか?

野呂:初めて参加したプロの世界というのが、中山ラビさんというシンガーソングライターがメンバーを探しているというので、お会いしたら割と親しみやすい方だったので「じゃあやってみましょうか」ということになって、中山ラビ&大冒険というグループ名で、京都ツアーとかをやったんです。それと並行して、カシオペアの初期の形ができあがっていたので、中山ラビ&大冒険での活動は一応1年ぐらいで終わらせていただきました。

そのあとヤマハのイーストウエストに76年と77年、2回エントリーして、ベストギタリスト賞を2回いただきまして、1回目のときは、当時発売することになっていたSG-2000というギターを賞品でいただいたんですよ。でも2回目はトロフィーだけでした。「1回あげたからいいでしょ」みたいな(笑)。

──(笑)。その頃はまだヤマハのギターには触れてなかったんですか?

野呂:そうですね。このSG-2000は「国際的にいけそうなギターだな」と思っていたギターで、それをいただけたので嬉しかったですね。そのときはバイトでお金を貯めて買ったギブソンのレスポール・カスタムを使っていたんです。それでいただいたSG-2000を弾いてみたら、全然SG-2000の方がしっかりしている印象があったんです、重たいんですけど(笑)。「じゃあこれからはヤマハ(SG-2000)を使おう」となりました。

その頃ちょうど武蔵小金井というところに1人で住み始めることにしたんですが、当時は電話を引くための電話加入権がすごく高くて、今考えたらあれは何だったんだろうって思うんですけど(笑)、その権利を買わなくちゃならないということでギブソンを売っちゃったんです(笑)。当時は電話がないと仕事も受けられないですから、「ヤマハもあるし、俺はこれでいく」と。それからヤマハのギターが自分のトレードマークになったという感じですね。

──ちなみにギブソンはいくらで売れたんですか?

野呂:20万円ぐらいだったと思います。買ったときは27万円ぐらいしていましたから。「血と汗の結晶が電話になっちゃった」みたいな(笑)。でもやっぱり、どうしても1人で住みたいという欲求が強くて「これ以上親のスネはかじれないな」という気持ちもありました。

──その頃、ご家族は野呂さんの音楽活動を応援してくれる雰囲気だったんですか?

野呂:コンテストで賞をもらってからはガラッと変わりました。「これはいけるんじゃないか」って(笑)。それまでの「大丈夫なのか?」という雰囲気が「頑張れ!」になりましたから。だからコンテストは受けてよかったんだろうなと思っています。

──ヤマハのコンテストに出場したときのグループ名は?

野呂:カシオペアで出ました。カシオペアの初めの頃で、まだ違うメンバーで。ミニコミ誌が取材をしてくれたことがあって、そのときはまだセッションバンドで、一応グループという形ではやっていたんですが、名前も何も考えてなくて「グループ名がないと載せられない」と言われたんです。それでバンド名を考えていたら母親が「星座とか面白いんじゃない?」と。「それは宇宙的で面白いな」と思って、カシオペアという名前を付けたんです。当時「ザ・なんとかズ」とか、そういうのが一般的なバンドの名前だったので、カシオペアっていうと「変な名前だね」って言われましたね(笑)。

──斬新だったのかもしれないですね。

野呂:ある日、ライブハウスに行ったら、星座というのは合っているんだけど「ペガサス」と書いてあったり(笑)、「エチオぺア」って書いてあったこともありましたね。そのときは「俺たち無名だな」って痛感したものですよ。

──コンテストはオリジナルの曲で出たんですか?

野呂:オリジナルでしたね。それで同じコンテストでボーカリスト賞を取ったのが、桑田佳祐さんだったんです。そういう流れがあったので、何度かカシオペアとサザンオールスターズでイーストウエストウェイブというタイトルで、対バンをライブハウスでやったことがありますね。大体同じ年代だったので、すごく気もあって。でも、ある日ドカーンと向こうが売れちゃって(笑)。

──最初のカシオペアの活動は基本的にはライブハウスですか?

野呂:ライブハウスが主でしたね。月に12本ぐらい入っていたときもありました。

──それはお呼びがかかるということですか? マネージャーはいたんですか?

野呂:一応手伝ってもらっていた方がいて、その人がいろいろライブハウスを当たってくれました。最初は向谷(実)君の奥さんだったみどりちゃんという人が代理でマネージメントみたいなことをやってくれていたんですが、そのうち澤田さんという、当時フォーライフ・レコードに勤めていた方が手を挙げてくださって、そこからはセミプロ的な活動としてライブハウスとかでやっていました。

──そこから最初のアルバムが出るまで、どのくらい時間がかかったんですか?

野呂:実はテイチクのスタジオで1回レコーディングをしたんですよ。テイチクから出すということではなかったんですが、澤田さんがいろいろ走り回ってスタジオを準備してくれてレコーディングをしたんですけど、どこも買ってくれなかったんです。それで「どうしようか」と言っていたら、アルファレコードがすごく興味を持ってくれて、レコーディングをしたソースは「デモテープということで、それごと買い取ります」と。すごく救われましたね。

──アルファのどなたから声がかかったんですか?

野呂:言ってくれたのは村井(邦彦)社長だったと思うんですが、とても助かりました。当時アルファレコードは、松任谷由実さんやサーカスが大ヒットしていて、最新鋭の機材が揃っているスタジオを作ったんですね。そこでレコーディングを1からやってくれと。行ったら本当に最新鋭の機材ばかりのスタジオで「これはすごいな」と思いました。それで、たまたまトミー・リピューマさんと、エンジニアのアル・シュミットさんが日本にいるというので、アル・シュミットさんにレコーディングをお願いしたんですよ。トミー・リピューマさんも様子を見に来られて「5年先が楽しみだ」って言って帰っていったんですけど(笑)。

──それが79年の5月に出た「CASIOPEA」ですか?

野呂:そうです。40年前ですね。そのときにミックスで立ち会ったエンジニアの方が2人いて、どっちも若手で、色々なことをやってみたい世代なので「よし、じゃあこれ作ってみよう」と、色々なエフェクターとか当時あったものをフルに使ってミックスしました。そのときの1人が小池光夫さんで、今もマスタリングエンジニアでやっていただいています。
 

 

偶然同じようなものに集まってきた時代に表現した「自分たちなりの音楽」

──ファーストアルバム「CASIOPEA」の評判、売れ行きは?

野呂:売れ行き、反響ともにすごくよかったですね。当時、「ADLIB」など音楽専門誌の方々がたくさんとりあげてくださいました。

──時代的にフュージョンがオーバーグラウンドな存在になった時代ですよね。

野呂:「これから、君たちの音楽はフュージョンって呼ばれることになるから」って、そういう感じでした。「なんか変な名前」と思ったんですけど(笑)。

──そういう認識は自分たちにはなかった?

野呂:ええ。自分たちは「ただやりたいことをやっているだけ」という認識しかなかったので。クロスオーバーという言葉は出ていたかな。フュージョンという言葉がどうしてできたかというと、レコード屋さんで置く棚が欲しかったからだそうです。だから日本でできた言葉なんですよね。理由を聞いたら「ジャズやロックというのは、ワンワードで済むだろ」と。「じゃあ1ワードで済ませられる何かを作ろう」ということだったみたいなんです。クロスオーバーじゃ長いと。

──「自分たちがやりたいバンドをやっているだけ」ということは「海外アーティストのあれみたいなことをやりたい」とか、ライバル視していたバンドはいなかったですか?
 

野呂一生氏

野呂:当時は世界的に過渡期だったんじゃないかと思うんです。ジャズをやっていた人が、ロックみたいな、もっとファンク的なものをやりたいとか。ロックをやっていた人がいろんな要素が入ったものをやりたいとか。僕もそっち側だったんですが「ロックの音で」っていう。そういうところで、偶然同じようなものに集まってきた時代だったと思うんですよね。クルセイダーズやラリー・カールトンは「すごいな」ってみんな思っていましたし、それからウェザーリポートが来日したり、そういう時代だったんですね。だからそういう部分でいろんなジャンルからアーティストが集まってきて、似たようなものができてきた時代だったと思います。

──そのムーブメントの真っただ中、先頭にいた?

野呂:先頭ではないと思うんですけど(笑)、本当に同時期にそういうことを始めたという感じはあったと思うんですけどね。ただ、自分たちはジャズをやりたいとは思ってないし、そういう要素は取り入れるんだけど、自分たちなりの音楽でやっていきたいということですよね。

──海外と比べると、初期のカシオペアはよりスピード感というかというか疾走する感じがしますね。

野呂:若かったですから(笑)。

──ちなみにプリズムはもうデビューしていたんですか?

野呂:もうデビューしていましたね。カシオペアより早かったです。プリズム、THE SQUARE(現 T-SQUARE)、カシオペアの順です。SQUAREも1年早くデビューをしていました。インストゥルメンタルのバンドがやっと市民権を得たみたいな感じの時代でした。

──そこからたくさんのアルバムを作られ、たくさんのツアーをやって、40年ですか。

野呂:自分でも把握できてないです(笑)。自分たちで「第1期」と呼んでいるのは「MAKE UP CITY」というアルバムからですね。そこからスタジオ盤で神保彰君が参加したんです。その前に「THUNDER LIVE」というのを出しているんですが、それは彼が入ったばかりのときのお披露目的な作品でした。

──それはライブレコーディングですか?

野呂:そうですね。そこから89年までは第1期で、そこでメンバーチェンジをして鳴瀬(喜博)さんが加入します。鳴瀬さんは遥か昔のイーストウエストの埼玉ブロックの予選のときに審査員の先生だったんですよ。それで、鳴瀬さんからアンコールを受けちゃいまして(笑)「この曲しか仕込んでないので同じ曲をやらさせてもらいます」ということで、アンコールで同じ曲を演奏した記憶があります。その頃からのお付き合いで、その後びっくりセッションという名目で、いろいろライブハウスとかでセッションをさせてもらったり。1番最初にプロの世界を垣間見せていただいたのは、鳴瀬さんと中山ラビさんなんです。

──その鳴瀬さんがバンドメンバーになっちゃったという。

野呂:そうです(笑)。審査員の方がメンバーになっちゃったという。

 

世界中を駆け巡ったワールドツアーの経験

──カシオペアはワールドツアーもやっていますが、これはレコード会社の戦略だったんですか?

野呂:アルファレコードが「どんどん海外に出したい」ってことで、YMOもヨーロッパツアーを行っていたので「カシオペアも絶対に海外でやるべきだ」ということになったんですよ。

──歌がないから行きやすいですよね。

野呂:そうですよね、歌詞がないですからね。

──最初に公演を行った海外はどこですか?

野呂:ロンドンですね。大成功だったんですよ。「わけのわからない日本人がすごいことをやっているぞ」みたいな(笑)。そのときたまたまロンドン駐在のNHKの方が観にいらしていて、取材の映像を日本に送ってくれて、ちょうど報道番組の走りで「ニュースセンター9時」という番組がスタートしていて、そこでロンドン公演を取り上げてくださったんですよ。

──YouTubeに上がっているのはそのとき映像ですか?

野呂:多分そうだと思います。その後、作品でも出していますけどね。それがきっかけで、日本のメディアもすごく取り上げてくれるようになりました。ただ、海外ツアーに行っちゃうと、日本の情報というのが当時全然分からなかったので、日本が今どうなっているのか1か月くらい分からないまま帰国して「ああ、こうなっているんだ」みたいな。そんな感じでしたね。

──ヨーロッパツアーにインドネシアのジャカルタ、スラバヤ、ブラジルにも行かれていますね。

野呂:はい。ブラジルツアーにも2回。

──ドイツ、スウェーデン、デンマーク……すごいですね。どこも観客の反応は良かったですか?

野呂:すごく良かったですね。過去に行った国の人からの情報が他の色々な国に広がっていたみたいで、すごくいい感じで受け入れてくれました。

──日本と海外の観客では違ったものを感じますか?

野呂:日本ってバラードをやると「嗚呼」ってほっこりした感じの声援じゃないですか。でも日本以外だと、バラードとかが終わっても「ウァァァ!」っていう(笑)。あれは随分違うんだなと思いました。あとブラジルの人たちなんかは、出演者よりも踊りが上手いんですよ(笑)。

──やっていて一番楽しかったツアーはどこのツアーですか?

野呂:どこも印象に残っていますが、ブラジルですかね。ブラジルは縦長の国なので、行くところ行くところで人種が違うんですよ。北の方に行くと赤道に近いからアフリカ系の人が多くて、中央は日系の人とかも結構いて、下の方にいくとヨーロッパ系の人が多いという感じで、同じ国なんですが世界ツアーをやっているみたいな感じでした。

──海外ツアーでのエピソードはありますか?

野呂:ヨーロッパで歯が痛くなっちゃって、スウェーデンで一回歯医者さんに行ったんですが、「日本じゃこんな治し方はしない」みたいな感じでドリルでガーッってやられたら、かえって悪化しちゃって。それで、次のデンマークでもう1回歯医者さんに行って「うわ、ひどい治療をしている」って言われて(笑)。「応急処置をしておくから、日本に帰ったらこのカルテを持ってもう1回ちゃんと治してもらいなさい」って言われて。痛みも収まったので、そのままツアーを続行したんですけど。まあ歯医者さんツアーって感じですかね(笑)。

──体調をベストに整えるっていうのは大変なことですよね。

野呂:そうですね。まあ緊張をしているので、あまり風邪とかをひかないような状況ではあったんだと思うんですが、大きなトラブルはないですね。あ、機材的なトラブルはたくさんありましたね。

──例えば?

野呂:ブラジルで楽器が通関されなくて、初日は方々を訪ねて、全部借り物の楽器でやったという。

──あと、海外レコーディングもたくさんなさっていますよね。やはり国内とは違いますか?

野呂:日本語じゃないレコーディングというのは、必然的に空気感みたいなのが変わります。どこがどうのということじゃないんですが、やりとりを英語でやっているというところで、自分をストレートに出さないと相手に伝わらないんです。英語には「玉虫色」というのがないんですよ。だから思ったことをズバッと言わないと「お前は何を考えているか分からない」と言われちゃうので。そういうのが演奏にも出てくるんじゃないかなと思います。

あと時間的制限もあるし、短時間のうちに決定稿を出さなきゃいけないというのがあるので、潔いプレイではあるんです。でも日本だったらもっと録音するかもしれない(笑)。

──「潔い」というのは演奏の出来がいいということではない?

野呂:出来というよりも、潔さだけっていう感じです(笑)。やっぱり日本語でのやりとりって、ものすごくいろんな含みがあるんですよ。そういうのが全くないので、プレイにしてもより「でしょ?」っていうようなプレイをする。でないと分かってくれない。

──色々な国に行かれたと思うんですが、好きな国はありますか?

野呂:オランダがよかったです。夏のオランダはすごくきれいですし、いいですね。日が長いんですよね。冬はすぐに夜になっちゃうんですが。夏のヨーロッパはどこもよかったです。白夜も体験しました。

──そういう意味では、世界中をこれだけ回ったミュージシャンは少ないんじゃないですか?

野呂:よく行きましたからね。ただ、旅行だと国を見に行くわけじゃないですか。我々の場合は「観られに行く」っていう違いがありますから(笑)。

 

これからは好きなことを好きなようにやりたい

──1990年から2006年の活動休止までが第2期ですか?

野呂:はい。第2期というのはいろいろ実験的なものの、紆余曲折が多かったかもしれません。

──新しいことにチャレンジをしたり?

野呂:ある意味「マンネリ化したくない」ということで、いろんなリフレッシュできるものをよく考えなくてはならなかった時期だったと思います。遊んでいるようで遊んでないみたいな感じです。

──産みの苦しみというか、そういうのがあった?

野呂:そうですね。あとは鳴瀬さんの加入というのが大きいです。そこである意味、リズムセクションというのがガラッと変わったところがありましたから。ドラマーも日山(正明)君と、熊谷(徳明)君と、神保君と、3人ドラマーが変わっていますので。そういう意味でいろんなスタイルを暗中模索していた時期だったような気がします。2006年までにそういうものが自分の中で膨らみすぎちゃったというのがあるんです。曲数もすごく増えてきていたし、重圧に耐えきれなくなっちゃったところはありました。

──活動休止を言い出したのは野呂さんですか?

野呂:私です。「カシオペアという存在が、自分の中ではゴジラと一緒になっちゃった」みたいな、モンスター化しちゃったという感じはありました。「ちょっとここでエンドにさせてくれ」って。自分では解散という風に考えていたんですが、事務所的に活動休止にしてくれということで「いつ再開するかもしれないから」ということで。実際に再開をしましたけど。

──休止と発表したら、やはり楽になるものなんですか?

野呂:それまでは結構、体調不良とかあったんですよ。ヒジ痛になったりとか、身体がしびれたりとか。それがピタッとなくなりました。

──重圧だったんですね。

野呂:全部そういうところだったみたいです。それで「何もしないのもなんだから」と、もっとゆるいペースでバンド的な活動をしたいなというので、INSPIRITSというグループを立ち上げました。ドラムは神保君にお願いをするというのは最初から決めていたんですが、キーボードで扇谷(研人)君という、非常に優秀なキーボーディストがいて、扇谷君と一緒に何かやってみようかと。それで「知り合いでいいベーシストいない?」というので、箭島(裕治)君というベーシストを紹介してもらって、それまでいろいろ手伝ってもらっていた林(良)君という方にアンサンブル担当のキーボードになってもらって、INSPIRITSを立ち上げました。

それが2008年から。それで一昨年、自分が還暦のときにカシオペアが結成して40周年だったので、それとINSPIRITS結成が10周年ということで「4010」というライブをやりました。3時間ぐらいに及ぶライブだったんですが、それを映像作品として出させていただいたんです。

──「CASIOPEA 3rd」のときはかなりリラックスしてできましたか?

野呂:目的が前と全く違ったんですよ。というのは、これを立ち上げる前の2011年に東日本大震災があって、自分なりにも寄付や募金をやったんですが、「カシオペアをもう1回立ち上げたら、元気になってくれる人もいるのかな?」と、再度立ち上げることにしたんですね。ただ、今までのカシオペアとは違うものだということにしたいので「3rd」というのをあえて付けたんです。もう1つの3rdの理由はカシオペアだけだといろんな会社が音源を持っていますから、ベストアルバムとか同時に出しちゃうんですよ。そうすると、どれが本物なんだっていうことになっちゃうんで(笑)。それも1つの理由なんですけどね。

──これだけたくさん曲があると、自分でも忘れている曲っていうのはあるものなんですか?

野呂:いっぱいあります。

──(笑)。

野呂:だからやるとなったら、その都度その都度、譜面を見直したりとか、思い出し直したりしています。第2期までの自分のスタイルとは違って、今は「どうやったら楽しめるか?」とか、楽しんでもらって自分たちも楽しむのが第1目的なので、そういう部分での考え方は随分変わりました。

──それはやっぱり年齢からくるところも?

野呂:それもあるし、最初に立ち上げた目的というのが「元気になってほしい」というところからだったので、バンドをやる目的そのものが以前とは全然違います。

──野呂さんは東京音楽大学の客員教授でもあるわけですが、どういったことを教えているんですか?

野呂:基本的にはギターも教えているんですが、そのギターにもインスト科というのと、作曲科の中の映画放送音楽科という2つがあります。インスト科の生徒には、より複雑で理論的な背景のフレーズを教えて、映画放送の生徒たちは初心者が多いので、1から教える感じですね。最終的にはみんなが集まって、アンサンブルでレコーディングをするのが最終目標なんです。週に4コマをやっています。

──生徒に教えるのは楽しいですか?

野呂:自分の勉強にもなりますよね。普段なんとなくやっているものを正確に教えようと思うと、やっぱりきちんと調べなくてはいけない。だから、ある意味勉強の時間みたいな感じ方です。

──「こいつはすごい」という生徒はいますか?
 

野呂一生氏

野呂:いますよ。「それどうやっているの?」というのが(笑)。

──そういう人はやっぱり1日9時間練習するような人なんですか?

野呂:そうだと思います(笑)。まあそれも好きだからできるんだと思いますね。

──みんな「ミュージシャンになりたい」とか言いますけど、そこまでやれる人はめったにいないですよね。

野呂:「それだけ好きか嫌いか」というというところですよね。

──ミュージシャンを目指す若い人たちにメッセージはありますか?

野呂:「好きこそものの上手なれ」ですかね。嫌いなことはやらないほうがいい(笑)。「練習だ」って思っちゃうと、辛くなっちゃうんですよ。「遊んでいる」と思ってやればいいんじゃないかなとは思います。

──野呂さんは今も練習に結構な時間を割かれているんですか?

野呂:いや、今9時間もやったら、逆に弾けなくなっちゃうんで(笑)、必要なときだけウォーミングアップをして弾くというような感じでやっています。練習って20代から30代が1番やれる時期だと思います。

──最後になりますが、ミュージシャン 野呂一生として今後の目標はなんでしょうか?

野呂:今後は「好きなことを好きなようにやりたい」というのが、大前提ですね。作品ごとに、自分の中で強い思い入れに残るようなものをやっていきたいなと思うんですよ。それはなぜかと言うと、とっくに人生の折り返しを過ぎているんで、これから先の1つ1つの作品が、自分の中ですごく大事なものに思うんです。だから、それに見合うような作品を作っていきたいですし、プレイもしていきたいなと思いますね。

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