第72回 佐野 光徳 氏 (株)クリスタル・アーツ 代表取締役社長

インタビュー リレーインタビュー

佐野 光徳 氏
佐野 光徳 氏

(株)クリスタル・アーツ 代表取締役社長

今回の「Musicman’s RELAY」は加藤和彦さんからのご紹介で、(株)クリスタル・アーツ 代表取締役社長 佐野光徳さんのご登場です。大学時代に財団法人大阪国際フェスティバル協会でアルバイトをしたことからクラシック音楽の世界に入り、その後(株)梶本音楽事務所、(株)高柳音楽事務所を経て、(株)ナサ・アーティスツ・ビューローを設立。当時3千枚売れたらヒットと言われていた日本人クラシック・アーティストのレコードを1万枚以上売り上げました。’85年にはレナード・バーンスタインを音楽監督とする「広島平和コンサート〜世界巡礼の旅」を企画し、世界的な反響を呼びました。このコンサートがきっかけとなりバーンスタインの日本での相談役として欠かせない存在となります。そして「パシフィック・ミュージック・フェスティバル」を札幌で開催し、以降14回目まで企画プロデューサー、また昨年まで6年近く(社)クラシック音楽事業協会会長を務め、現在は(株)クリスタル・アーツの代表取締役社長として活躍する佐野さんにお話を伺いました。

[2008年5月8日 / 千代田区平河町 (株)クリスタル・アーツにて]

プロフィール
佐野 光徳(さの・みつのり) 
(株)クリスタル・アーツ 代表取締役社長


’52年生 大阪府出身。
大学時代に大阪国際フェスティバルでアルバイトをしたことからクラシックの世界に入る。(株)梶本音楽事務所、(株)高柳音楽事務所を経て’81年にクラシック音楽のマネジメント会社(株)ナサ・アーティスツ・ビューローを設立。’85年にはレナード・バーンスタインを音楽監督とする「広島平和コンサート〜世界巡礼の旅」を企画した。このコンサートよりレナード・バーンスタインの日本での相談役となる。そして’90年に「パシフィック・ミュージック・フェスティバル」をプロデュースし’03年まで企画を務める。’95年にナサの代表を退き新会社(株)クリスタル・アーツ・プランニング(現(株)クリスタル・アーツ)を設立し、’07年まで6年近く(社)クラシック音楽事業協会会長を務め、現在は(株)クリスタル・アーツの代表取締役社長として活躍中。

 

    1. クラシックとポップスの新しい形を探る
    2. コーラスをきっかけにクラシックの世界へ
    3. 「広島平和コンサート〜世界巡礼の旅」と「パシフィック・ミュージック・フェスティバル」
    4. バーンスタインとの運命的な出会い
    5. 長く残っていくものを作りたい
    6. 覚悟とイメージを持ち続けることが成功の秘訣

 

1. クラシックとポップスの新しい形を探る

−−前回ご登場いただいた加藤和彦さんとはどのようなご関係なんですか?

佐野:加藤さんとは10年程前に所属アーティストが出演していたコンサートでお会いしたのが最初なんですが、僕はもともと、中学生の頃から加藤さんのファンだったんです。はじめてお話しして、とても感じの良い方でますますファンになりました。

 それと、うちの所属アーティストの佐渡裕に、ゲームソフト音楽の録音の指揮をしてくれという依頼がゲーム制作会社から来たんです。そういう仕事はほとんど受けていないのですが、作曲が加藤さんだということで僕が強引に受けて(笑)。それからまもなく、加藤さんの昔のフォークグループのメンバーによって、北山修さんの還暦をお祝いするコンサートが大阪のフェスティバルホールで企画されていました。そのことで加藤さんから相談にのってほしいと電話をいただいたんです。それは『帰ってきたヨッパライ』の続編を、オーケストラを使って、交響詩にするっていう内容だったんです。それが大成功で…。そのときから色々なお話をいただいたり、食事をご一緒したり、最近では僕の方から「こんなこと、あんなことやりませんか?」と提案したりしています。

−−その提案とはクラシックとポップミュージックを融合させるということですか?

佐野:いえ。基本的に僕はクロスオーバーって間に合わせみたいな感じがしてあまり好きではないんです。クラシック音楽の仕事をしていますが、昔から色々なジャンルの音楽を聴きます。サザンオールスターズは多分出ているCDを全部持っていると思いますし、小野リサさんのCDも全部持っています。井上陽水さんも大好きです。あまりポップスのライヴには行かないのですが、何年か前、陽水さんのコンサートを横浜アリーナに聴きに行ったらPAの音があまりに大きすぎて、本当に気分が悪くなっちゃって・・・(笑)。

−−確かに音がバカでかいときってありますよね(笑)。

佐野:ありますよね。それで、たとえば陽水さんのコンサートとかを、どの席でももっと生音に近い究極のPA技術で聴かせるとか、クラシックと融合するんじゃなくて、もっと音楽的にできる方法があるんじゃないかと思ったのですね。それで加藤さんには色々と提案しているんですよ。たぶん僕らより上の団塊の世代の人でそういう音で聴きたい人はたくさんいるんじゃないかな?と。

−−クラシックコンサートは基本的に生音ですものね。多少PAとかはあるんでしょうけど。

佐野:そうですね。基本的にというかほとんど生音ですね。PAを入れるのは屋外公演などの特殊なケースしかないですから。今大阪で「1万人の第九」っていうコンサートをやっているんですが、会場が大阪城ホールなので、それは当然PAを入れています。でも、PA技術としては究極と思えるすごく微妙なことをやってもらっています。

−−やはり、音に対してものすごくシビアなんですね。

佐野:そこまででもありません。アーティストでもないし、僕は素人ですから。ただPAの技術者はもっと思考を積み重ねていらっしゃるでしょうから、そういうお話を伺ったり、質問したりしてみたいなとは思っています。

 楽器でもPAでも時代が進むにつれ技術革新しますよね。それによって作曲家・演奏家の創作、再現という行為の源になるイメージ、また、聴衆の期待するもの、色んなことが変わってくると思います。クラシックの世界もそうだったのではないでしょうか。ベートーベンとかモーツァルトの時代にやっていた演奏会と今とは、全然違うんじゃないでしょうか。例えば、ベートーベンやモーツァルトは、今のスタンウェイのピアノの音なんて、絶対イメージを持って作曲していないはずです。当時のピアノ・フォルテは機能的にも音色も今のものとはかなり違いがあります。ホールだって、キャパシティーも音響も、今とは全然違いますしね。しかも、放送とか録音機器が出てきてまだ数十年ぐらいですから、ベートーベンやモーツァルトの演奏や指揮を生で聴いた同時代の人ってちょっとしかいないと思うんですよ。モーツァルト自身が弾いていたピアノ演奏と、モーツァルトの楽譜だけをもとにヨーロッパのどこかの国でピアノの名手が弾いていた演奏は、ずいぶん違っていたのではないかと想像します。

−−当時どんな演奏がされていたかは我々には分かりませんよね。

佐野:楽譜にはアンダンテとかアレグロとか書いてありますけど、たぶんテンポの概念も今とは違ったと思うんです。今でも違う指揮者が同じ曲を演奏したら何分か違ったりしますけど、昔はもっと違ったんじゃないかなと思います。たぶん似て非なる物だった可能性もある、というような想像をするのが僕は好きなんです(笑)。

 

2. コーラスをきっかけにクラシックの世界へ

−−ここからは佐野さんご自身のことについてお伺いしたいんですが、大阪のご出身でいらっしゃるんですよね。今に繋がるような音楽的な環境でお育ちになったんですか?

佐野:いや、家庭環境はあまり音楽とは関係ありませんでした。僕は3人兄弟の末っ子で兄と姉がいるんですが、2人ともピアノを習っていたんです。でも僕だけピアノを習わせてもらえなかった。それが逆によかったようで…最終的に音楽に携わっているのは僕だけなんです。

−−「逆によかった」とはどういうことですか?

佐野:もしピアノをやっていたら、音楽大学に行って歌手を目指していたかもしれないので。小・中・高という長い間コーラスをやっていて、まわりの多くの友人たちは音楽大学へ行きました。でもなかなか演奏だけでご飯を食べていけないじゃないですか(笑)。

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−−確かにそうかもしれませんね(笑)。ちなみにご両親も音楽関係だったんですか?

佐野:音楽とは全然関係ありませんでした。父親は学校の教師です。音楽に親しんだのは、小学校のときに大好きだった素晴らしい音楽の先生からたまたま「コーラス部に入らない?」と言われて始めたのがきっかけです。

−−コーラスはいつまで続けてらしたんですか?

佐野:大学までです。僕の通っていた高校はNHKのコーラス・コンクールの近畿大会で優勝したりする、割と優秀な高校だったんです。そのコーラス部の先輩で音楽業界に入った人がいて、アルバイトにこないかと声をかけてくれたことがクラシック音楽業界に入るきっかけになったのです。

−−では、コーラスを通してクラシックの世界に入られたんですね。

佐野:そうですね。ただ、こう言うとよく「コーラスをしていたからクラシック」って思われるんですが、そんなことは全く考えてもいなかったんです。クラシック音楽は嫌いじゃなかったし、よくレコードを聴いたり演奏会に行ったりしてはいましたが、クラシック音楽の業界に特別な憧れがあったわけではありません。ただ、小澤征爾さんやバーンスタインは好きでした。小学校5年生の時に『ウエスト・サイド・ストーリー』を観て感動したんですが、中学1年のときにバーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルのレコードを聴いて、『ウエスト・サイド・ストーリー』の作曲者と同じ人だとわかったときは本当に嬉しかったですね。それ以来バーンスタインのことはすごく好きで、今でも一番好きなアーティストの一人なんです。

−−でも、佐野さんはビートルズやベンチャーズ、あとグループサウンズといったような世代ですよね?

佐野:そうですね。ビートルズは大好きで、ずいぶん聴いたし演奏もしました。僕自身もギターをやっていましたしね。でもジャンルでどうのこうのって思った記憶がないんですね。だから色んな分野に好きなアーティストがいたんです。

−−以前葉加瀬太郎さんにインタビューした時、大学に入るまでクラシック以外は聴いたことがないとおっしゃっていましたが…。

佐野:僕は全然そんなことはなかった。興味がなかったのは演歌とハードロックぐらいですかね。だからビートルズがロックだと言われてもちょっと困っちゃうんですよ。未だに何がロックかわからないという感じですね。

−−先ほどギターをやっていたと仰っていましたが、どのような音楽を演奏していたんですか?

佐野:フォークのグループを組んでいたんです。でもギターの真似ごとをしていた程度です。最近、ウクレレを始めようかなと思ってますけど(笑)。

−−大学卒業後にお入りになったのが梶本音楽事務所ですか?

佐野:はい。僕は学生時代に大阪国際フェスティバル協会で、「大阪国際フェスティバル」という、今は朝日新聞が主催でやっているクラシック音楽のフェスティバルでアルバイトをしていたんです。大阪にフェスティバルホールができた後、1960年代、70年代は、きら星のごとくクラシックのアーティストを海外から招聘し、国際音楽祭をしていたんです。それが「大阪国際フェスティバル」。それこそ東京からもたくさんの人が聴きに来るコンサートだったんです。そこで5年間アルバイトをしていたんですが、大学卒業と同時にアルバイトも辞めたときに、梶本さんから「うちにこないか」っていう話がありました。クラシック音楽が好きだったのと、小澤征爾の所属会社ということもあって、なんとなく。

−−梶本音楽事務所には長く勤めてらしたんですか?

佐野:梶本音楽事務所は3年ぐらいですね。その後、大槻楽器店の常務から一緒に会社作らないかと誘われて大槻プランニングという会社を作ったんです。その会社が大阪の全てのコンサート会場でレコードを売る権利を持っていて、それこそ演歌からロックまで色々なレコードを売りながら、ついでに会場で生の音楽を聴いたんですよ。

−−コンサート会場でレコードを売ってたんですか?

佐野:そうなんです。その当時は大槻楽器店が大阪のコンサート会場を全部仕切っていたので。それから1年ほど経ったときに、いくつかの事務所から東京に来ないかっていう話をいただいたんですね。結局27歳のときに東京に出てきて、高柳音楽事務所にいれていただいた。それで3年ぐらいしてナサ・アーティスツ・ビューローという会社を立ち上げました。

−−ナサ・アーティスツ・ビューローを立ち上げられたきっかけは?

佐野:当時は日本人アーティストでチケット収入だけで生計を成り立たせてる人がほとんどいなかったんです。日本人アーティストをもっとプロモートする方法はないかと思って立ち上げました。当時、若手のアーティストはどんどんうまくなっていましたから、無名のアーティストをプロデュースしていったんですね。その当時のクラシック音楽のアーティストは、レコードが3,000枚売れたらすごい売れたって言われていたんです。でも、他のジャンルだったら3,000枚ぐらいで売れたなんて言わないだろうと思って、なんとか1万枚は売ることを目標に、色々な策を講じました。そうしたら当時クラシックのチャートTOP10中8位くらいまでをうちのアーティストが占めるようになりました。

 

3. 「広島平和コンサート〜世界巡礼の旅」と「パシフィック・ミュージック・フェスティバル」

−−「広島平和コンサート〜世界巡礼の旅」はどういった経緯で開催することになったんですか?

佐野:当時、日本のクラシック音楽業界では、外国人アーティストを招聘はするが、日本人アーティストを同じ条件で海外に出すということが全くなかった。今もその状況はあまり変わっていませんが。もちろん、日本人アーティストが活躍できるマーケットが海外になかったこともありますが。そこで日本のお家芸である、原料を輸入して加工品を輸出するというのを応用しました。つまり、世界中から日本にアーティストを集めてコンサートを企画し、世界に出す。その中に「日本人の主張」を注入して、「広島平和コンサート〜世界巡礼の旅」と称し、広島、アテネ、ウィーン、ブダペストを回るコンサートを企画したのです。それで、レナード・バーンスタインにこのコンサートの指揮をしてもらいたいと思って、飛び込みで彼の事務所に行って思いの丈を言うことにしたんです。

−−バーンスタインの事務所は日本にあったんですか?

佐野:いえ、ニューヨークにあったんです。だからあてもないままニューヨークに行ってずいぶんコンタクト先を探したんですけど、帰国する前日にやっと糸口が見つかって、バーンスタインの宣伝担当のおばさんと会うことができたんですよ。当時70過ぎの方で、広島のコンサート以降95歳で亡くなるまで、会うと僕を息子のように思ってくださいました。初対面のそのときも2時間ぐらいずっと話を聞いてくださって、その場でヨーロッパにいるバーンスタインに電話をして「こういう若者が日本から来ている」と伝えたら、電話の向こうのバーンスタインが2年先のスケジュールを空けるよう指示してくれた。帰り際にハリー・クラウトというバーンスタインの事務所の代表に手紙を書きなさいと言われました。それで「広島平和コンサート〜世界巡礼の旅」の企画書と手紙を送り、広島、アテネ、ウィーン、ブダペストとツアーが実現したのです。これがバーンスタインとの最初の仕事です。

−−思いついた企画を即行動に移されていたんですね。

佐野:昔は元気でしたから(笑)。そのような経緯でバーンスタインの事務所の日本での代理をすることになったんですね。そんなことからバーンスタインと一緒に札幌でPMF(パシフィック・ミュージック・フェスティバル)を設立することになるんです。

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−−なぜPMFの会場に札幌を選ばれたんですか?

佐野:最初は北京と上海でやる予定だったんですよ。が、企画の途中で天安門事件が起こり、今後どうするかについてローマで会議が持たれました。いったんやめようということになったのですが、会議の翌朝バーンスタインとハリー・クラウトと話をしている時、日本に場所を移してできないか、ということになりました。朝食の時、関係者全員が居るところで、その線で行うということになったのです。その当時は今より開催時期が1ヶ月早くて、日本は梅雨の時期だったんですね。PMFは屋外を想定していましたから、天気はとても重要だったんです。なので「札幌には梅雨がない」って話を彼にしたんです。それでローマから直接札幌に下見に行くことになりました。札幌の「芸術の森」という施設に、会場にならないかアポイントメントなしで訪れたのですが、対応してくださった担当の人に「ウサンくさいやつが来た」みたいな顔をされて…(笑)。

−−大規模な話すぎて警戒されてしまったんですかね(笑)。

佐野:そうですね(笑)。たぶんバジェット的にはアジアで一番大きなフェスティバルだったと思います。世界中から優秀な演奏家を千数百人オーディションして、100人あまりのオーケストラを作るんですね。そのオーケストラを1ヶ月間猛トレーニングする。毎週リハーサルからコンサートまで1プログラム作る。1年目は1ヶ月間で色んなコンサートを取り混ぜ、82回演奏会をやりました。みんなに無茶だと言われましたが(笑)。

−−PMFはバーンスタインが発案者なんですか?

佐野:そうです。タングルウッド音楽祭という60年ぐらい続いている音楽祭がボストンの郊外にあるんですね。それはセルゲイ・クーセヴィツキーというバーンスタインの先生が作ったんです。その人はロシア出身の方なので、本当はタングルウッド音楽祭を、名前は忘れましたがロシアの東方の川のほとりに作りたかったらしいのです。アメリカに亡命したのでボストンに作った、とバーンスタインから聴きました。それがベースにあって、レニーは先生の遺志を継いでヨーロッパとアジアにも創設しようとしたのではないかと思います。

 当時、アメリカにいるクラシック音楽家というと、第二次世界大戦のときに亡命したユダヤ人がほとんどだったんですね。だからアメリカ人として純粋に出てきた最初のスターがバーンスタインなんです。そんなこともあって「タングルウッド音楽祭のようなものをアジアにも作りたい」ということから中国でやろうという話になったんです。でも中国でできなくなってしまって、会場を日本としたときに「日本でやるんだったら毎年やっていくフレームを作ろう」と始めました。

−−大規模なイベントですから続けるのが難しそうですけど長く続いていますね。

佐野:ええ。1年目は自分の会社で始めたんですが、ずっと続けるためにはこのフレームではできないと思い、開催権やスポンサーも含めて札幌市に全部移管したんです。それで、バーンスタインのオフィスも私の会社も札幌市と契約してプランニングをするっていう役目にしました。こんなに続くと思わなかったですけどね(笑)。

−−もともとは梅雨がないからという単純な理由で決まったとはいえ、札幌市は非常にラッキーでしたね。

佐野:でもね、その年から雨が降るようになったんですよ(笑)。会期中、レニーと顔を合わせるたびに、おまえ「雨降らない never rains in Sapporo」って言ったじゃないか!」って、その言葉が合言葉になりました。そのPMFをきっかけに、数年後、当時のPMFの音楽監督であるクリストフ・エッシェンバッハと札幌市長の桂さんが、昼食会の時にホールの話をしたことから、札幌に「キタラ」という音楽ホールができたんです。日本でも有数のいいホールで、音響的には一番いいホールかもしれないですね。

 

4.バーンスタインとの運命的な出会い

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−−バーンスタインとの印象的な思い出などはありますか?

佐野:バーンスタインが亡くなる直前は大変な重病だったんですが、すごい無理をして日本に来たんですね。それで、PMFの全会期を無事に終えた後、東京でのコンサートを1回振って、あとはキャンセルしたんです。その後、アメリカに帰ってタングルウッド音楽祭で1回だけ振って、10月に亡くなったんです。だから最後から二番目のコンサートはサントリーホールだったんです。この期間の思い出は溢れんばかりです。広島平和コンサートでもドラマはいっぱいありました。

−−ということは、ほぼ生涯最後の指揮を日本でされたんですね・・・。

佐野:そうですね、札幌と東京と、今となっては本当に貴重な来日だったんですね。あ、そうそう、広島平和コンサートの時に、当時は無名だった13歳のバイオリニストの五嶋みどりをバーンスタインに推薦したんです。次の年にバーンスタインがタングルウッド音楽祭で彼女を取り上げて共演したときに、同じ曲で弦が2回も切れたんです。クラシックの約束ごとで、バイオリンの弦が切れたらコンサートマスターのバイオリンを取って、コンサートマスターは隣の人のを使うっていうルールがあるんですね。それで次々にバイオリンを交換してほぼ止まらないで演奏した。それがニューヨークタイムスやボストンの新聞、ヨーロッパの新聞にまで全部一面に載ったんですよ。これも忘れられない思い出かな。

−−それは2回切れてもちゃんと落ち着いて演奏し続けたということでですか?

佐野:はい、そうです。世界の主要新聞の一面に載ったのは、バーンスタインが指揮をしていたからでしょうね。他の指揮者だったら話題にもならなかったでしょうけど。そういう劇的なことがバーンスタインにはいくつも起こるんですよ。五嶋みどりは僕がバーンスタインに紹介したけど、佐渡裕はバーンスタインが僕に紹介してくれたんです。そういう意味でもバーンスタインとの出会いはとても大きいですね。

−−少年の日にバーンスタインの音楽(ウエスト・サイド・ストーリー)を聴いて嬉しかったというお話と繋がっていますね。

佐野:そうですね。繋がっているんだと思いますね、やっぱり。何も思わなければそこには至らなかっただろうし、運命的な何かがあったんでしょうね。

−−バーンスタインはどんな方なんですか?

佐野:人間的にすごく大きな人で、とても暖かい人でした。ただ、時にはわがままなところもあって、カチンとくることがありましたけどね(笑)。一度、もちろん通訳を通じてなんですけど、あまり腹立つから「あんたは僕を選べるけど、僕もあんたを選べるんだからね」って言ったことがあったんです(笑)。

−−巨匠を前にすごいことを仰いましたね(笑)。

佐野:もういいやと思って(笑)。そしたらキュッと怖い顔になったんだけどすぐにニコッと笑ってうなずいてね。そうしたら、すごく気持ちが楽になった思い出があります。とにかく頭のいい人ですね。言葉遊びが大好きで、クロスワードパズルばっかりやってるんですよ。だから彼の作品は歌詞の言葉の選び方や韻の踏み方が本当に素晴らしい。バーンスタイン自身作曲のオペラやミュージカルの歌詞をずいぶん自分で手がけています。

−−歌詞も書かれていたんですか・・・すごいですね。

佐野:キャンディードはもちろんですが、『ウエスト・サイド・ストーリー』も彼がけっこう手伝ってるんじゃないかなあ。僕の想像ですけど。ウエスト・サイド・ストーリーってジェローム・ロビンズの踊りの振り付けが素晴らしくて、そっちに目がいきがちですが、バーンスタインが書いた曲がなかったらあの作品は絶対に成り立たなかったと思います。

−−そうですね。『ウエスト・サイド・ストーリー』の音楽はなんてかっこいいんだろうって思ってました。

佐野:そうですね。僕も10歳の時に初めて聴いて、本当にすごいなって思いました。彼はある意味でアメリカのスーパースターですよね。鯉沼ミュージックの鯉沼さんが、チック・コリアやキース・ジャレットとかを呼んで「トーキョー・ミュージック・ジョイ」というイベントをやったことがあったんですよ。それこそクラシックとジャズの融合なんですが、第1回目の時、制作のお手伝いしたことあるんです。そのとき鯉沼さんが「君はすごい人と付き合ってるんだな!」って言うから「どうしたんですか?」って聞いたら、鯉沼さんがちょうどロサンゼルスから戻られたときで、バーンスタインがグラミー賞でプレゼンターをしていたらしいんですけど、クリント・イーストウッドが出てきても誰が出てきても観客は拍手するだけなのに、バーンスタインが出てきたら瞬時に全員が立ち上がってスタンディングオベーションだったらしいんですね。それで「全然格が違う」って(笑)。

−−アメリカの中でも最も敬意を集める存在であったと。

佐野:葬儀のときの映像がYouTubeに上がってましたけど、工事をしていた人たちまで帽子を取って沿道にずらって並んで・・・。すごい映像でした。

−−バーンスタインはまさにアメリカの国民的なアーティストだったんですね。

佐野:そうですね、クラシックのアーティストというよりもそれを超えたところがあったと思います。バーンスタインの追悼コンサートは3回行われたんです。まずブロードウェイのバーンスタインとして1回。そしてクラシック音楽の指揮者、作曲家、つまりクラシック音楽家としてのバーンスタインとして。これはカーネギーホールでウィーン・フィルやニューヨーク・フィル、イスラエル・フィルなど、世界の7つのオーケストラからトップクラスの演奏家が集まってオーケストラを編成し、オープニングの曲を指揮者なしで演奏したのですが、まるでバーンスタインが指揮台に立っているかのように一斉に演奏を始めたんですよ。本当に素晴らしい演奏でした。最後に教育者としてのコンサートをニューヨークのセント・パトリック教会でやりました。ニューヨーク市長と札幌市長の弔辞もありました。私はカーネギーホールの追悼コンサートにしか行けませんでしたが、そのどれもが素晴らしいコンサートだったようです。この3つのコンサートは10月から12月にかけて行われました。

 

5. 長く残っていくものを作りたい

−−佐野さんのすごい所は日本の多くのクラシックアーティストをメジャーにされたことですよね。どのように発掘しプロデュースされたんですか?

佐野:僕は才能を見極めるなんて大それたことは思ってなくて、そんな耳も才能も持ち合わせていません。なんとなくとしか言いようがないんですよ。今もセオリーなんか何もわからないです。ただ一緒に仕事をやりたいと思ったアーティストをやっただけです。きっと、この人をプロデュースしよう、責任を持とうという「覚悟」だと思うんです。

−−なぜ、順調に仕事をされていたナサを辞めて、新たにクリスタル・アーツを設立されたんですか?

佐野:ナサでの12年でプロデュースしたアーティストはだいたい有名になったんです。それでもういいかと。一時期はこの仕事に興味がなくなったのと、一番いい時に一度人生をリセットしようと思ったんです。業界仲間にはずいぶん止められましたが。それで大阪に帰ってお好み焼き屋さんをやろうと思ったんですよ(笑)。お好み焼き屋をやりながらPMFの企画をやるのもいいかなと考えていたんですが、また事務所を作らざるをえなくなる事情ができたんです。それでクリスタル・アーツを作ったんです。

−−再びマネージメントに戻られたんですね。

佐野:そうですね。どちらかと言えばPMFのように毎年定期的に開催される企画をプロデュースするとか、ワールドカップの周年のイベントを企画するとか、最近はそういう仕事の方が多いんです。これからオペラを作ろうと思ってます。まだいつになるか決まってないですけど、今はそんなことを考えています。

−−以前、「日本の物語をオペラにするとしたら竹取物語だ」と仰っていたインタビューを拝見したのですが。

佐野:ああ!そうそう。僕ね、竹取物語は普遍性があると思うんですよ。童話にもなるし色事にもなるわけでしょう?男を翻弄する話なわけですから。

−−エンターテインメント性が高いお話ですよね。

佐野:ものすごく高いですよ。一番オペラになる題材で外国にも通じる話だと思ってるんです。

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−−それは是非実現させて欲しいですね。まだ具体化はしてないんですか?

佐野:考えてることは考えてるんです。最初は有名な作曲家でと考えたんですが、今は若くて才能のあるアーティストにお願いしようと思っています。本当に外国でも上演できるようにしたいので、日本語でやるつもりは全くないんです。振り返ってみると、結果的に僕はだいたい12年周期でエポックになることをやってきたようなのですが、次の12年目が65歳なので最後の12年なんです。だからあと10年しか時間がないんですね。

−−65歳で引退をお考えなんですか?

佐野:引退というか、ちょっと様子を変えたいなと思っているんです。幸いアーティストも僕より下の人が多いですし、佐渡裕を筆頭にいいアーティストもいっぱい出てきています。今プロデュースしたいアーティストが何人かいて、クラシック音楽業界を活性化する「システム作り」をやろうと思っています。自己満足で作品を作ってもしょうがないですから、長く残っていくものを作りたいなと思っています。

−−スタンダードになるようなものを作りたいと。

佐野:そうですね、結果的にそうなればいいですね。それと僕が65歳になるときがちょうどバーンスタインの生誕100周年なんですよ。バーンスタインは作品が多く残っている作曲家なんですね。ミュージカルもオペラもありますし、もっと大きいシアター・ピースの「ミサ曲」っていうものすごい作品があるんですよ。これはケネディ・センターのオープニングにジャクリーン夫人から委嘱された、オペラの大規模なもので、フルオーケストラとビッグバンド、ロックミュージシャン、ソリストが10人ぐらいいて、バレエ・ダンサー、それから子どものコーラスと大人のコーラスがいるっていうめちゃくちゃな規模の作品なんですよ。

−−ものすごいスケールですね。

佐野:これを佐渡裕指揮でやりたいなとか、いくつか考えていることがありますね。これまでバーンスタインのおかげで色んな人達と出会い、素晴らしい仕事をさせていただきました。そういうことを経て、自分があと何をすべきかと考えています。将来に繋がっていくような仕組みを創りたいと思っています。

 

6. 覚悟とイメージを持ち続けることが成功の秘訣

−−日本のクラシック界は今後どうなっていくとお思いですか?

佐野:日本ってここ数十年で、世界のクラシック音楽界の中で、特別な場所になったと思うんです。世界中のアーティストがこんなに多く来ている国もないだろうし、こんなに町々に良いコンサートホールがある国はないだろうし、ここ20〜30年という短期間に、これだけ素晴らしい技術を持ったアーティストが現れた国もないし、多分コンサートの開催数も世界で一番多いと思います。

−−指揮者の大友直人さんもインタビューでそう仰ってました。

佐野:はい。例えば、東京で一晩にいくつぐらいコンサートがあると思われますか? 平均30本ぐらいやってるんです。小さいのから大きいのまで全部入れると多いときは50本もあるらしいですよ。ポップスのコンサートってものすごく大きな規模なんですが、数からいうとポップスよりクラシックのコンサートの方が多いと思うんですよ。それと、この四半世紀という短い期間で日本のクラシックのアーティストたちは演奏が圧倒的に上手くなっているんです。

−−すごいスピードでレベルアップしてるんですね。

佐野:世界と肩を並べてるというかそれより上手かったりするんですよ。経済成長と一緒で短い間に平均的レベルが素晴らしく上手くなってるんです。指揮者なんてここ数十年でプロとアマぐらい違います。素人目にはたいした違いがなくても、やっぱり大きく違うんですね。そしてなおかつ、演奏会場の数。50年前は官民合わせて30箇所しかなかったんですが、今は3,000箇所ほどもあるんです(笑)。

−−桁が違いますね(笑)。

佐野:特に90年代から現在までに建設されたホールが1,800箇所ほどあるんですね。建設費に3兆8千億円費やしたというデータがあります。それだけ建設されたので、副産物として日本の音響設計は世界一になったのです。世界中から注文が来ているみたいですよ。

 日本のクラシック・アーティストたちはみんな4、5歳からレッスンをやっているんですが、その人間が何千人も音楽大学に入るということがずっと続いてるわけでしょう?こんな国って他にはないんです。クラシックの音楽番組だって、たぶんドイツとオーストリア以外では日本が一番多いと思います。アメリカなんて全くないですし、そもそも音楽の授業もないですからね。だから日本のクラシック・アーティストは独自の発展をすると思うんですよ。それに町々にこんなにいいコンサートホールがある国も他にないと思いますから、今後はそれをどう有効に使うか考えるのが僕らの役割じゃないかと思いますね。

−−せっかくいいホールがあっても、それを有効に使わないと意味がないですものね。

佐野:そうなんです。ほんとに地元の人に、ハード面でもソフト面でも「あってよかったな」って思ってもらえるように作らねばならないし、運営しないといけない。例えばハード面では、シドニーのオペラハウスを見てください。あれを壊すと言ったら地元住民から反対運動が起こると思いませんか?

−−そうですね。オペラハウスはまさにシドニーのシンボルですものね。

佐野:シドニーの宝物になっているわけでしょう?だからいかに住んでる人たちの宝物になるかですよね。日本でクラシックがどう発展をしていくかは僕にもわからない。だけどヨーロッパとかアメリカのような形ではないような気がしますし、客観的に見て本当に面白い国なんです。だから、その中で自分が何をすべきかしっかり考えないといけないと僕は思ってるんです。

−−それが今後10年間の課題なんですね。

佐野:そうですね。この10年で何をやっていくかは、丁度今が正念場だなと思っているところです。僕は突拍子もないことを言ったりやったりするほうだとよく他人から言われますが、自分ではそうは思っていなくて、自分の周りにある縁みたいなものの中でしか何もやっていけないわけです。

−−そして、その10年後にバーンスタイン生誕100年という頂点がくると。

佐野:それも縁ですよね。バーンスタインと個人的に親しくしている人は思いっきりたくさんいるだろうけど、こうして彼と一緒に、バーンスタインにとっても僕にとってもエポックになる仕事ができたことも縁だろうし、すごく幸運だったと思います。よく考えてみると、やっぱり周りの縁みたいなことでしか仕事してきてないんですよ(笑)。クラシックの企画でも10個考えるじゃないですか。ずっと色あせないで思い続けられるものは、不思議と材料が勝手に集まってくるんですよ。何かわからないけど、そういうことってありますよね。僕は本当に運が良かったとは思いますけど。

−−これまでたくさんの新しいことを成功されてきたわけですが、その秘訣は何だったのでしょうか?強い思いでしょうか?

佐野:みなさんがどう思われたかわからないですけど、たぶん今現在の僕だったら受け付けてくれないと思うんですよ。25年前、まだ若かったから「おもしろいやつが来たな」と思ってくれたのかもしれないですね。その頃ってもちろんたいした人脈もないし、本当に何もなかったんですけどね。今だったら、「変なおっさんがたわごとを言ってる」と思われるんじゃないかな。

−−閃いたときの自分の思いを徹底的に信じてやるということですか。

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佐野:そうですね。今まであまり、失敗したらどうしよう・・・とか考えたことがないんです。物事ってきっと経験からしか学べないと思うんです。失敗も含めて色んなことを積み重ねて自分の好きなことができるようになるでしょう。それは失敗しないと気付かない、学べないことが多いと思うんです。

−−では最後に佐野さんと同じような仕事がしたいと思っている若者達にアドバイスをお願いします。

佐野:僕に言えることがあるとすれば「覚悟」ですね。何をするにも覚悟のない人はあまり好きじゃないんで。覚悟のない人って何かをやる前にやれない理由ばかり探すんです。それって違うんじゃないかなと思う。何ごとも、とにかくやってみないとわからない。人を説得するということは、まず自分が心底納得しないと人は動かないと思うんです。何ごとも一人ではできない。周りの人に動いてもらうためには、納得してもらえるような自分を作るしかないと思います。そして、何かをやりたいと思ったときにそれをずっと思い続けられるかどうかはその何かを成す大きな要素だと思いますし、そのイメージを新鮮に持ち続けられるかどうかはとても大切なことだと思っています。

−−今後の益々のご活躍を楽しみにしています。本日はお忙しい中ありがとうございました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

 今回のインタビューは、これまでやや縁遠かったクラシックの世界に興味が沸くとても新鮮な内容でした。幼い頃からピアノを習う人々の数、音楽大学への進学者数、TVで頻繁にクラシックのコンサートが放映されること等がごく当たり前のことだと思っていましたが、それが日本だけの特殊なことだったとは驚きました。佐野さんがプロデュースされるバーンスタイン生誕100周年や竹取物語のオペラ化など、新しいクラシックの形を見られる日を楽しみにしています!

 さて次回は、作曲家/編曲家の服部 隆之さんのご登場です。お楽しみに!

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