ザ・フォーク・クルセダーズ「イムジン河」、1967年の発表から55年を経て2022年バージョンとなって9/28発売

アーティスト

ザ・フォーク・クルセダーズ「イムジン河」1968年版

ザ・フォーク・クルセダーズ「イムジン河」が1967年の発表から55年を経て、新たな翼を得た2022年バージョンとなって9月28日に発売される。

1967年にメジャー・デビューをする前のザ・フォーク・クルセダーズが発表した「イムジン河」。1968年2月20日、メジャー発売前日に発売中止となったこの楽曲は、様々なアーティストに影響を与え、今日まで歌い継がれている。そして発表から55年を経た2022年、ロシアとウクライナの紛争はあたかも1960年代の世界情勢を彷彿させる側面も持っている。

今作は「イムジン河」の1968年オリジナル・バージョンを含むこれまでにザ・フォーク・クルセダーズによって発売された4つのバージョンに加え、ザ・フォーク・クルセダーズのきたやまおさむと「イムジン河」の作詞者である松山猛を筆頭に、イルカ・川崎鷹也・クミコ・坂崎幸之助(THE ALFEE)・清水ミチコ・杉田二郎・南こうせつ・森山良子・上柳昌彦(ニッポン放送パーソナリティ)による最新レコーディング・バージョンを収録した「イムジン河」の集大成となる作品。CD発売直後の9月30日には東京・国際フォーラムにて音楽監督に高田連を迎えて「あの素晴しい歌をもう一度コンサート2022」が開催される。

きたやま おさむメッセージ

生き残る歌「イムジン河」

今回の新録は、私にとって五度目の「イムジン河」への参加となった。これを解説しておきたいと思う。まずは第1次の、アマチュアのフォークルのもので、300枚の私家版「ハレンチ」というアルバムに収録され、発売は1967年の秋の京都だった。初めて聞いた時(おそらく1966年頃)、「誰が祖国を二つにわけてしまったの」という松山猛のオリジナリティの高い歌詞が、私の心に鋭く突き刺さった。当時は2番までしかなく、下手な原語で一部を歌っていたが、やがて東京のコンサートで「大阪と東京の間でもし分断されていたら、今日この歌はここで歌えなかった」と私が述べたことを記憶する聴衆がいるほど、心に残る歌となっていった。

次いで、プロになった第2次フォークルの「イムジン河」で、1968年、3番の歌詞を得てスタジオ録音された。「帰って来たヨッパラィ」に続く第2弾として、発売前から深夜放送で話題となったが、私たちはこれを「朝鮮民謡」だと思い込んでいて、その認識不足が朝鮮総連のクレームにつながった。原作者が半島におられたという事実があり、レコード会社は本社の意向を得て発売直前に中止を決断した。発売中止になってから会社と交渉を繰り返したが叶わず、30年以上も経って2002年に発売がようやく可能となったものだ。

この2002年、第3次フォークルが坂崎幸之助の参加を得て再結成され、NHKホールの「新結成記念解散音楽會」で歌われた。このライブ盤には、分断されたものが結ばれることを願って私と加藤和彦による4番が加えられ、「イムジン河・春」として収録された。

さらに、加藤和彦が自死で逝った後になってしまったが、故人の発案でパトリック・ヌジェ(Patric Nugie)がロマンチックなフランス語で歌ったバージョンが録音された。坂崎と私がメンバーとなった第4次フォークルによる「若い加藤和彦のように」というアルバム(2013年)に収録されている。

そして今度のイムジン河・新録が五度目の「イムジン河」である。2002年の「春」をウクライナにおける戦争を意識して改変し、4番を作り上げた。評価はこれからだが、さまざまな意味の「和」に向けて、内容に相応しい形で集まった仲間たちによる、歌い分けて歌い継ごうというメッセージの溢れるものとなったと自負している。心より、ミュージシャンとその関係者に感謝したい。

私は、これまで「イムジン河コンサート」を何度か開催し、これ以外にも多くの「イムジン河」の制作に関わってきたが、出会ってから50年以上を経て、いま改めて思うことがある。皆は当時、発売中止になってひどく悲しんだが、発売中止になったからこそ記憶に残り、歌はフォークルだけのものではなくなった。おかげで歌は翼を得て飛び立ち、歌詞にはヴァリエーションも生まれ、多くの歌手やミュージシャンによって歌い継がれるようになったと感じる。これは、「音楽は国境を越える」というメッセージを正しく体現している歌として、苦しい困難を常に生き残る、世界でも珍しい「生きている歌」なのである。

最後に、この歌の如く、何があっても多くの人にできる限り生き残ってほしいと思う。

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