第214回 TYMS PROJECT 代表取締役社長 青木しん氏【前半】

インタビュー リレーインタビュー

青木しん氏

今回の「Musicman’s RELAY」は株式会社パワープレイミュージック 代表取締役社長 鶴田武志さんのご紹介で、TYMS PROJECT 代表取締役 青木しんさんのご登場です。

音楽に全く興味がなかった青木少年は、日比谷野音で観たコンサートに衝撃を受け、次第にコンサート業界で働くことを考えるようになります。音楽系の専門学校を進学後、ソーゴー東京で研修生として働きだし、卒業後に入社。数多くの現場をこなす中で、THE YELLOW MONKEYと出会います。

吉井和哉のソロ活動などもフォローしつつ、THE YELLOW MONKEY再集結時には旗振り役として活躍。TYMS PROJECTの代表に就任された青木さんに、ご自身のキャリアからTHE YELLOW MONKEYのこれからについて話を伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也、榎本幹朗 取材日:2024年3月13日)

 

小学校の頃までは音楽に全く興味がなかった

──前回登場頂いたパワープレイミュージック 鶴田武志さんとは、いつ頃出会われたんですか?

青木:最初の出会いは彼が九州のイベンターのBEAの社員で、僕はコンサート制作の立場として現場を一緒にやるようになった20代前半頃だと思います。これはあとから分かったことなんですが、僕が初めて付いたツアーで鹿児島へ行ったときに、とても印象に残るバイトチーフがいて、それが彼だったんですよ。厳密にいうとそれが最初です。

──最初から目立つ存在だった?

青木:非常にしっかりしていた印象でした。現地のイベンターさんを飛び越えて、現場のバイトチーフとやりとりをすることってあまりないと思うんですが、彼とはやりとりしていたんですよ。僕も初めてのツアーだったので、よくわかっていなかった部分もいっぱいあったんですけどね。

──鶴田さんが上京なさる前からのお付き合いということなんですね。

青木:そういう意味では業界内で一番長い付き合いかもしれないです。

──わかりました。ここからは青木さんご自身のことをお伺いしたいのですが、お生まれはどちらですか?

青木:生まれは東京の新宿区です。ただ新宿区には数年しかいなくて、その後、千葉の津田沼へ引っ越したので、育ったのはほぼ千葉です。

──お父さんも業界人だったんですね。

青木:そうですね。父親とはそういった話はあまりしたことないですけどね。

──家の中でお父さんが音楽を聴いていたりとかは?

青木:あんまりなかったと思いますし、僕も小学校の頃までは音楽に全く興味がなかったと思います。普通に部活をやったり、少年野球をやったりで、音楽を聴くようになったのは小6ぐらいからですね。

──何か楽器を習ったとかそういうことも特になかった?

青木:楽器を習ったこともないですね。ですから、幼少期の音楽に関わるような話は恐らく出ないです(笑)。

──ちなみに鶴田さんも「まったくない」とおっしゃっていました(笑)。「今もない」とか言って(笑)。

青木:言いそうですね(笑)。

──小6ぐらいから音楽を聴くようになったとおっしゃっていましたが、当時どのような音楽を聴いていたんですか?

青木:3つ違いの姉がいたんですが、姉とは仲が良くなかったので、姉が聴いているような音楽は意識的に避けていたんです(笑)。姉はBOØWYや尾崎豊さんとかを聴いていました。僕はちょっと下なので、印象に残っているのは初期のブルーハーツとかですね。本当の意味で音楽を自分で聴くようになったのは、そのあたりだと思います。

──やっぱり邦楽からの世代なんですね。

青木:一番最初はそうですね。そこから次第に洋楽も聴くようになりましたね。

 

「コンサート関係の仕事をしたい」と専門学校進学

──青木さんはバンドとか1回もやったことないですか?

青木:自分ではやったことないですね。ギターを買ったりとかしたことはありますけど、普通に挫折しました。そこに対してはそんなに欲もないというか「自分がやりたい」みたいものもなかったかもしれないです。

──別にステージの上に立ってやろうという気持ちもなかった?

青木:なかったですね。そのときには完全にリスナーで、コンサートへ行くことに夢中になっていたかもしれないです。中2のときに初めて友だちと日比谷野音へコンサートを観に行ったんですが、たくさん人が集まって1つのステージに向かって盛り上がるという単純な光景に衝撃を受けました。

コンサートというものの偉大さというか、エンタメがどうこうとかそんな考えは当時なかったですが、漠然と「これは面白そうだな」という気持ちはあったと思います。具体的に「コンサートの仕事をしたい」と思うようになるのは、高校生のときです。

──では、音楽そのものというよりは、ライブの魅力に先にやられたと。

青木:僕は完全にそうですね。音楽業界に入りたいという感覚ともちょっと違って、コンサートに関わりたいという気持ちが最初でした。例えば、レコーディングって技術や知識が必要なジャンルじゃないですか?僕は楽器を弾けるわけでもないですし、知識もないわけですから、そこには考えが及ばなかったんだと思いますし、多分そういう存在すらわかってなかったと思いますね。

──高校に入って何かしようというのはありましたか?

青木:高校はもうバイトばかりしていました。もちろんコンサートとかにも結構行きましたけど、それこそ洋楽を含めて音楽をたくさん聴くようになりました。

──高校時代、ライブ関係のバイトもされたんですか?

青木:本格的にバイトをするようになるのは音楽系の専門学校に入ってからですね。

──専門学校へはコンサート関係の仕事をしたいと思って進まれたんですか?

青木:そうですね。高校卒業の進路を決める高3の夏に「コンサート関係の仕事をしたい」と思って専門学校へ行きました。

──その決断に対して、お父様は何かおっしゃっていましたか?

青木:いや、別に何も言ってなかったですし、そんな細かく話した記憶もないんですよね。でも、こんなこと言っていいかわからないですけど、専門学校もほぼ行ってないんですよね(笑)。専門2年生の8月にはソーゴー東京に入っていましたので。

──在学中に入ってしまったんですか?

青木:入っちゃったというか一応、研修生という身分でしたけど、学校にはほぼ行ってなかったので。

──あまり大きな声では言えませんが、専門学校の卒業証書を持っていても何か起こるわけではないですからね(笑)。

青木:わからないながらも学校で学ぶよりも「現場のほうがいいな」と。やりたい仕事をもう決めているなら、そのほうがいいだろうという判断は間違っていなかったと思います。

 

在学中からソーゴー東京で研修に励む

──ソーゴー東京ではいきなり現場だったわけですか?

青木:即現場でしたね。もちろんまだ現場の仕事というレベルではないんですけど、運転したりケータリングを運んだり、現場にずっと行っていた気がします。どのアーティストにつくとかまだそういう話でもなくて、あらゆる現場に行っていましたね。

──現場のスタッフとして何から何まで。

青木:もちろんです。現場スタッフの下の下みたいな感じで。当時のソーゴー東京はそんなに社員も多くなかったですし、1現場にたくさん入るような体制でもなく、大体1人とか2人で回す感じでした。

──その後、専門学校を卒業なさって正式にソーゴー東京に入社されたと。

青木:そうですね。SING LIKE TALKINGの武道館の仕込み中に(笑)。4月1日が本番だったので3月31日の仕込み日の夜に、先輩からシーバーで「入社おめでとう」と言われたのを覚えています(笑)。

──いい話ですね(笑)。正式に入社していきなりSING LIKE TALKINGの武道館って凄いですね。

青木:それも現場の下の下みたいな感じで、普通に現場をやっていました。

──現場に入った瞬間から楽しかったですか?

青木:いやいや、とにかく大変で楽しくはなかったですね(笑)。「さすがに無理だな」「もう辞めよう」と正直思っていました。最初の半年くらいは津田沼から通っていたんですが、現場をやるには遠すぎて・・・。

──現場が23時に終わって、すぐ帰れるという距離じゃないですよね。

青木:ですから、都内で一人暮らしを始めたんですが、最初はやっぱり楽しくはなかったですね。でも、自分の中で2年は頑張って、次のことをやればいいなと考えていました。

──最近の人たちは1年ぐらいで辞めちゃう人も多いですよね。

青木:辞めちゃいますね。1年持てば・・・みたいな感じで、数か月って人も多いです。

──スタジオもそうなんですよ。「ほかにやりたいことができましたから」みたいに辞めちゃうんですよね。

青木:「やりたいことと違う」というところまで、まだいってないと思っちゃうんですけどね。

──よく言えばあっさりしていますよね。

青木:僕はバイトのときもそうだったんですけど、「辞める」というのがちょっと嫌だなというのが自分の中であったんだと思います。だから2年はとりあえずやろうと思っていました。

──でも、ライブの現場で味わう感動というのはひとしおですか?

青木:ライブはやっぱりそうですよね。現場では今も大変なことっていっぱいあるんです。でも、それを超える感動がありますし、そこがライブの魅力なのかなと思いますね。

──そういった感動を得られる仕事って他にはあまりないですよね。

青木:そうですね。だからこそコロナ禍は辛かったですね。ライブができないなんて初めての経験でしたから。

──仕事ができない。

青木:仕事ができないというか、コンサートを観れないという。あんなに観なかったのは、それこそ中学生以来初めてだったと思います。僕以外にもそういう方ってたくさんいると思いますし、コロナによってコンサートというものの価値観がまたちょっと変わったと思いますね。

 

THE YELLOW MONKEYのツアーが忙しくて悩む暇すらなかった

──ソーゴー東京に入社後はずっと現場仕事ですか?

青木:20代前半はとにかく現場だった気がします。遊ぶのにも必死でしたし(笑)、仕事も必死だった20代前半だったなと思います。その後、20代後半になってくると担当アーティストをすごく意識しだしたと言いますか、自分の担当として新人をやりたいとか、そういう意識が芽生えてきたと思います。

──20代のときに印象に残っているイベントなどありますか?

青木:社員になって1年目のときに初めてツアーを回ったのがTHE YELLOW MONKEYだったんですが、そのときは本当に何もわかっていなくて、行程表やチケットの押さえ方すら正直わからなかったです。その後、1年間で113本を回るツアーというのがあり「2年は辛抱しよう」と思っている途中でそのツアーが始まってしまったので、仕事をこなしているうちに気づいたら3年半ぐらい経っちゃったんです(笑)。結局、そのツアーのおかげで「辞めること」を考える暇もなく仕事をできたのは、今となってみればよかったなと思いますね。

──THE YELLOW MONKEYのツアーが忙しくて、悩む暇すらなかったんですね。

青木:なかったんですよね。目の前のことをずっとやっているだけで終わったので。

──暇だと余計なこと考えちゃいますからね。

青木:本当にそうだなと思いますね。

──がむしゃらに仕事をしていたと。

青木:仕事は本当に大変でしたけど、それこそ鶴田くんとかもそうですけど、仲間というかそういう人たちも増えていくわけじゃないですか?そういう出会いは楽しかったですよね。逆に地元の友だちは減りましたけどね。当時はまったく会えなかったので。

──地元の友だちというのは仕事が変わり生活が変わると、友だちは友だちだけど、自然にそこまで密接ではなくなりますよね。

青木:そうですね。同窓会みたいな機会もまったく行けない期間が続きましたし、友だちの結婚式とかも全然行ったことがなかったですし。

──そもそも人が休みのときに働かなきゃいけない仕事ですから、合わないですよね。

青木:地元の人とはまったく会わなくなったけど、音楽業界での仲間はみるみる増えていったなというのは楽しかったです。

──(笑)。では、怒涛の20代という感じだったんですね。THE YELLOW MONKEYとはそこから活動休止までお仕事をされるんですか?

青木:そうですね。活動休止も2001年の頭なので、実質5年ぐらいですけどね。

──その後、THE YELLOW MONKEYは15年間もバンドとして活動していなかったんですよね。メンバーの事務所はそれぞれ別になったんですか?

青木: 現在はTHE YELLOW MONKEYというバンドとしての活動とボーカルの吉井和哉のソロはうち(TYMS PROJECT)でやっていますが、他の3人はいまもBAJ(元BOWINMAN MUSIC)の所属ですし、過去の権利もBAJで持っているのが多いです。

バンドの再集結とか再結成って、人のしがらみとか大変な部分があるじゃないですか?でもTHE YELLOW MONKEYに関してはそういったことは一切ないですし、BAJ代表の大森(常正)さんはTYMS PROJECTの役員でもあるんですよ。大森さんはもともとライブハウスLa.mamaの店長で、そこでTHE YELLOW MONKEYと出会い、バンドと独立された方なんです。

 

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