第190回 株式会社カクバリズム 代表取締役 角張渉氏【前半】

インタビュー リレーインタビュー

角張渉氏

今回の「Musicman’s RELAY」はスペースシャワーネットワーク 上席執行役員 石田美佐緒さんからのご紹介で、カクバリズム 代表取締役 角張渉さんのご登場です。

ご兄姉の影響で音楽好きになった角張さんは、大学在学中からライブハウスやレコード店でバイトを始め、同時にインディーレーベルの運営も開始。2002年には音楽レーベル「カクバリズム」を設立。YOUR SONG IS GOODを皮切りにSAKEROCK、星野源、キセル、二階堂和美、cero、VIDEOTAPEMUSIC、片想い、スカート、思い出野郎Aチームなど、コアな音楽ファンをうならせるアーティストを多数輩出してきました。

そんな「好きな音楽を仕事にする」ことを実践してきた角張さんに、20周年を迎えるカクバリズムのこれまでとこれから、コロナ禍におけるインディーレーベルの現状、そして今後の目標など話をうかがいました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦 取材日:2022年2月24日)

 

ギターを持った角張少年に父親の一言「音楽なんて食えないからな」

──前回ご登場いただいたスペースシャワーネットワーク 石田美佐緒さんとはいつ頃出会われたんですか?

角張:石田さんとは2005、6年頃にカクバリズム所属のアーティストがスペシャでレギュラー番組を持たせてもらうことになって、その流れで初めてお会いしました。ちょうどスペシャが野外フェスとかを始めた時期で、うちの会社だとYOUR SONG IS GOODや星野源くんがいたSAKEROCKとかが出るようになって、そのフェスの統括が石田さんでした。あと他の野外フェスでも、よくお会いしていました。

──結構長い付き合いなんですね。

角張:でも、一緒に飲みに行ったりするようになったのは、この5、6年じゃないですかね。すごく優しくて元気な方なので、いろいろと勉強させてもらっています。石田さんは本当に気を使ってくれますね。アーティストにも優しい方ですし。

──ここからは角張さん自身のことをお伺いしたいのですが、お生まれは仙台だそうですね。

角張:はい。宮城県仙台市の海辺のほうですね。

──どんなご家庭でしたか?

角張:両親は産業廃棄物処理、いわゆる産廃の会社をやっていて、親父はオフコースとビートルズが好きでよく聴いていたんですが、加えて伊奈かっぺいという青森の漫談家みたいな人がいるんですが、「納豆をご飯茶碗にいかにつけないで食べるか」とか、そういう話を延々しているテープシリーズがあって、それを親父と母が、母方の実家に帰る車の中でよく聴いていた記憶がありますね(笑)。オフコースとビートルズと伊奈かっぺいのテープがルーティンで回っているような家庭環境で(笑)。

──すごい組み合わせですね(笑)。

角張:あと、7歳上の兄がいるんですが、崎谷健次郎さんや小比類巻かほるさん、ユーミン、あとKANさんの初期とかをよく聴いていて、その影響はあったと思います。当時はBOØWYが全盛期のバンドブームだったんですが、兄は日本人のシンガーソングライターが好きだったんですよね。洋楽でもビリー・ジョエルとかが大好きで。

また5歳上に姉がいるんですが、姉はストレイ・キャッツやクラッシュとかパンクが好きな人で、バンドブームも好きだったので、そこからフリッパーズ・ギターなど90年代初頭の渋谷系とか、まあ仙台ながらに流行っている音楽が、兄や姉づてに入ってくるという感じでしたね。

──みなさん楽器はやっていたんですか?

角張:2人ともピアノはやっていましたね。それで僕は中1のときに兄とギターを買いに行ったんですが、家に帰ってきて部屋でギターをペンペンやっていたら、親父が「音楽なんて食えないからな」ってわざわざ言いに来たんですよ(笑)。その光景はいまだによく覚えています。やっぱり親父は嫌だったんでしょうね。親父は以前から「測量士とかになってほしい」って言っていましたから。

──「音楽で食う」なんて一言も言ってないのに。

角張:言ってないのに「楽器を買うなんて」みたいな。ちなみに兄に聞いたら、兄も中1のときに鍵盤を買ったら親父に同じことを言われたって言っていました。

──お父さんは堅実な方だったけど、子どもたちは意外に音楽に親しんでいたと。

角張:そうですね。やっぱり姉の彼氏とかがバンドをしていたり、姉の影響が一番強いかもしれないです。

──なるほど。学生時代は何か部活をやっていましたか?

角張:テニスをやっていました。高校でもテニスをやっていたんですが、うちの高校は校則がない比較的自由な学校だったので、友だちのライブに行ったり、夜内緒でクラブに行ったりとかしていましたけど、入っていたテニス部は県大会で優勝するような部だったので、テニスも一生懸命やっていました。ただ最後の予選の前にバイクで事故って、レギュラー争いから外れちゃったんですよね。それで落ちこんでいたときに友だちと「バンドをやろう」みたいな話になり、学祭に向けて練習したりしていました。高3なんですけど(笑)。

──(笑)。

角張:それで「東京に行ったらなんとかなるんじゃないか」みたいな。あと服も好きで古着屋とかもやりたかったので、まずは東京に行きたいと思っていました。

──で、大学入学とともに東京へ?

角張:そうです、東京経済大学に入りました。そこは何がよかったかというと、キャンパスが国分寺にあったので、いわゆる中央線文化が根付いていたのと、当時、珍屋というレコード屋が駅の南口と北口にあって、そこの店員さんがシュガー・ベイブとか、はっぴいえんどとか、いろいろ教えてくれたんですよね。

──やはり中央線文化って大きいですよね。住まいも国分寺ですか?

角張:4年間、国分寺です。普通に安いアパートを借りて。で、当時西荻窪にWATTSというすごく小さいライブハウスがあったんですが、定休日だった月曜日に500円でライブを観られるという企画を友だちの先輩バンドがやっていて、そこに遊びに行っているうちに、バイト募集と書いてあったので応募して、大学1年生の冬から卒業するまでバイトしていました。最終的にはブッキングをやるぐらいまでになるんですが、そこで働きながらインディーレーベルをやり始めることになります。

 

オムニバスCDの成功から音源制作へ〜音楽レーベル「カクバリズム」設立

──インディーレーベルをやり始めるきっかけは何だったんですか?

角張:当時は月に10日から15日ぐらいは友だちのライブを観に行っていたので、そうすると知り合いで仲良くなったバンドとかに「今度オムニバス作らない?」と声をかけるようになったんですよ。全部真似事なんですけど。

──参照元があった?

角張:高校生のときに、今もうちに所属してもらっているYOUR SONG IS GOODというバンドのサイトウさん(サイトウ”JxJx”ジュン)というボーカルの人が、当時FRUITYというバンドやっていて、彼らが参加しているオムニバスライブVHS「生」というを仙台にいるときに観たんです。そこにはいろいろバンドが出ているんですが、FRUITYが飛び抜けて格好よくて、「こういう人たちみたいになりたい」と思ったんですよね。それで彼らがカセットテープのオムニバスを出していて、それもメチャクチャ格好よくて、GOING STEADYの安孫子(真哉)くんと一緒に「これみたいなのやりたいね」と話していたんです。

ただ「今はテープよりCDのほうが安いらしいよ」という話になって「じゃあCDで出そうか」としたら、GOING STEADYが所属していたUKプロジェクトから「うちの会社で流通したら」と提案してもらって。僕はDIYに憧れていたので、自分たちでレコード屋さんに連絡して1枚1枚卸していこうと思っていたんですが、さすがにそうはいかず(笑)、タワレコさんとかに一気にやってもらうという感じでしたね。最初は全部手作り&手渡しでやりたいと当時思っていたんですけど

──でも流通に乗っちゃったと。

角張:とはいえ一番最初は自分らで1000枚くらい手売りしてから流通に乗せてもらいました。それが結果5,000枚ぐらい売れて200万くらい口座に入ってきたんです。そうすると「これを元手に友だちのバンドのアルバムも作れるね」という話になり、それまでは音源をもらうだけだったのが、きちんとしたスタジオを予約してレコーディングできるようになったので、今となっては感謝していますけどね。

──それっておいくつのときですか?

角張:19、20歳ぐらいですね。

──その年齢だと初めての大金という感じですね。

角張:そうですね。「凄い!200万も入っている」みたいな。その儲かった200万で友達のバンドを沢山レコーディングしようと思ったんですが、当時は法人じゃなくて個人だったので、スタジオで「その日の分はその日払いしてください」って言われるんです。ですから、スタジオに入るごとに8万円とか5万円とか払っていくじゃないですか?それでリリースして流通を通して、自分のところにお金が入ってくるのは2か月後というのもよくわかっていなくて、あっという間にお金がなくなっちゃったんですよね(笑)。

──収支が合っていなかった?

角張:「これ、収支バランスってやつがまったくなっていないな」と(笑)。実は第5作目に先ほどお話ししたFRUITYというバンドのコンプリートベストを出させてもらうんですが、それが出る直前に200万円のお金がなくなっちゃったんですよね。で、そのFRUITYのコンプリートベストがメチャクチャ売れたんです。

当時、僕はディスクユニオンの下北沢店でアルバイトをしていたんですが、21歳の4月にバイトで入って、ユニオンでは自分の作品も売れるので、その年の冬に店でFRUITYのコンプリートベストを売ってました(笑)。そこでも300枚ぐらい売れましたね。

──1店舗300枚もすごいですし、トータル1万ってすごいですね。

角張:いやあ、すごかったです。

──今度はいくら入ったんですか?

角張:どうだったかな?とはいえ制作費も結構かかりましたし、広告や看板とかもやってみたりしましたね。具体的には覚えてないですが当時でいうとレーベルが救われた!って感じでしたね。当時はまだ安孫子くんと一緒にやっていたんですけど、徐々に個人的な嗜好のものをやりたいなと思って、翌年の2002年にカクバリズムを始めました。STIFFEENも続いていくんですが、だんだんカクバリズムのほうが忙しくなっていく感じでした。、安孫子くんもバンドの活動で忙しくなったというのもあって、僕はカクバリズムの比重が強くなっていく感じですね。

──では安孫子さんとは別れて。

角張:別れてっいうわけじゃないんですよね。お互いのペースでやろうって感じで。当時はお互いの好みや考え方も徐々に変わっていったんですよね。僕はマネージメントにも興味が出てきて。

当時の僕の周りのインディーバンドって、1枚目を出したら1,000枚売れて、その次出してもまた1,000枚とか、そういうことが多かったんですよね。1枚目と2枚目の間にマネージメントを何もしていないので、全てバンド次第というか、すごくバンドが頑張ったら2,000枚とか売れるかもしれないですけど、みんな働きながらやっているのでほとんどのバンドは何も出来ないですし、だからあんまり何も変わらないことが多かったんです

そのときに「次の作品までにいろいろやらなきゃいけないんじゃないの?」って思ったんですよね(笑)。当たり前なんですけど、そういうことを全然知らないので。で、「これはマネージメントというか宣伝、仕込みが必要だね」という話になり、それでユニオンで働きながら仕込みをやるようになっていくんです。

──なるほど…全部体験しながら学んでいったみたいな感じですね。

角張:今思えば、何も知らなくてよかったみたいなところはありますけどね。もし今みたいにネットがあって、事前に調べて知っていたら、レーベルとかやらなかったかもしれないなと思いますね。

──いろいろな人がそれを言っていますよね。「知らない強み」と言いますか。

角張:本当に知らない強みです(笑)。でもUKプロジェクトの人たちもそうですけど、当時、僕たちのことを面白がってくれた先輩たちがいろいろ教えてくれたんですよね。そういう人たちに対しては本当に感謝しています。

 

ディスクユニオンのバイトとレーベル運営の二足のわらじ

──当然、就職することもなく?

角張:東京経済大学って就職課がすごく頑張っている学校で、就職率97パーセントぐらいなんですよ。もう小さい会社から、全然有名企業じゃない会社とかにもどんどん入っていくので。簿記とか資格もしっかりとって。

──実務的な大学なんですね。

角張:そうなんです。ですから、一緒にクラブとかで遊んでいた子たちも最初は「いや、就職なんてしないでしょ」なんて言っていたのに、秋口ぐらいに会ったらみんな就職先が決まっていて「マジで?」みたいな(笑)。だから就職していないのはほぼ僕だけでした。

──たった1人?

角張:僕だけディスクユニオンでしたね。時給700円、当時の最低賃金で。他のみんなはSEの見習いとか、不動産とか。

──みんな、いざとなったら固い世界に進まれて。

角張:たまに会うと「うらやましいな、渉は」って言うんですよ。「渉はいいよな、好きなことやって。バイトでもさ」「サラリーマン嫌だよ」とか。それで28ぐらいに会うと、やれマンションを買い始めたりとか「レーベル、大丈夫?」とか言われるので、「うるせーな」と思って(笑)。それで35ぐらいになってくると、今度は応援されるみたいな(笑)。まあ、全然いいんですけど、面白いですよ。

──お父さんは何も言わなかったんですか?

角張:うーん…多分、わざと言わなかったのかもしれないですね。ちょっと記憶にないです。ただ、両親ともに卒業式には来てくれましたね。やはり3人目の、一番最後の子が大学卒業ってことは、子育てが終わったわけじゃないですか?だから、その後フリーターになろうがなんだろうが、好きにやればいいんじゃない?という感じだったと思いますよ。なんか2人ともすごく優しい顔していましたから。

──ご両親にとっても子育て終了の式だったと。

角張:だから「あとは勝手にやったら」ということだと思うんですけどね(笑)。親父としては何かあったら地元に帰ってきて、自分の会社で働けばいいという算段はあったと思いますけどね。その会社は今、兄が継いでくれてます。

──長男がゆえに。

角張:そうなんですよ。ただ、おばちゃんとかからは「帰ってきて、会社手伝いなよ」みたいには言われましたね。

──結局、大学を出てからもディスクユニオンで働かれたわけですね。

角張:そうですね。ユニオンも「レーベルをやっているバイト」ってことを認識してくれて、当時バイトでも、今日の業務報告みたいなことを掲示板に書けたので、「下北店のバイトの角張です!今度○○という作品が出るのでよろしくお願いします!」って書いたら、みんな応援してくれて、ユニオン全社・全店で推してくれるようになったんです。あれは嬉しかったですね。そのうちに取引先や雑誌社とかからユニオン下北店に連絡が来るようになっちゃって(笑)、僕も買い取りとかしながら、そういった電話の対応をしていたんですが、次第に「これは両立できないな」と思うようになりました。

──ディスクユニオン下北店がオフィス替わりになっちゃったと(笑)。

角張:カクバリズムで音源をリリースしてくれたYOUR SONG IS GOODってみんな働いていたので「僕は時間あるので動きますよ」とマネージメントぽいことも始めたんですね。それで、ユニオンも新譜が入ってくる火曜日と水曜日の週2勤務にしてもらって、新譜のポップを全部バーッと書いて貼りだして帰らせてもらうみたいな。あとはレーベルからちょっとだけお金もらうようになりました。その後、2004年に駒場に事務所を借りて、レーベルに専念するようになります。

 

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第190回 株式会社カクバリズム 代表取締役 角張渉氏【後半】

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