【追悼】折田育造氏インタビュー「キング・カーティスの謎盤『君だけに愛を』の真実」

インタビュー フォーカス

『ERIS』第33号

9月1日に亡くなった折田育造氏生前最後のインタビューをお届けする。

このインタビューは、鷲巣 功氏が電子書籍版音楽雑誌『ERIS』にて連載する「旧聞ゴメン」第26回「キング・カーティスの謎盤『君だけに愛を』の真実」の抜粋である(2021年7月15日発行の『ERIS』第33号に掲載)。取材は折田育造氏の自宅にて行われた。

なお、当該記事の全文は『ERIS』ホームページで、購読の申込みをすれば無料で読むことができるので、ぜひこの機会にご登録ください。

『ERIS』連載「旧聞ゴメン」第26回
キング・カーティスの謎盤『君だけに愛を』の真実(抜粋)
Text by 鷲巣 功

 レコード番号は「SMAT 2002」、初めてLPの現物を見て驚いたのは日本グラモフォンから発売されていた事だ。となると、ひとりの男に会ってどうしても話を聞かなければならない。

 ジョージ・マーティンとジミー・ミラーしか知らなかったわたしが、「日本にもレコード・プロデューサーがいるのか」と触発されたのは、折田育造の存在だ。かつて「ニュー・ミュージック・マガジン」には、毎号巻頭に「ピープル」という頁があり、そこで1970年秋に新譜LP『晩餐』が紹介された。陳信輝(ギター)、柳田ヒロ(キーボード)、加部正義(ベース)、つのだひろ(ドラムズ)の4人がフード・ブレインという名の下に長いインプロヴィゼイションを繰り広げたこのアルバムは、わたしの嫌いなハード・ロック的音楽だったが、吉田拓郎などより遥かに気持ち良く聞けた。ジャケットも衝撃的だったし、世界水準で張り合う心意気が頼もしい。
 「ピープル」の頁には取材嫌いのメンバー達に代って、企画制作責任者の折田育造が出て来て話していた。録音担当の吉野金次がその場に同席していたのも象徴的だ。この記事をわたしは繰り返して読んで、このレコード・プロデューサーの名前を心に刻んだ。

 その折田育造が1965年に日本グラモフォンに入社し、外国課に配属された時、既にアトランティック・レコードは契約下にあった。前身の日本ポリドールは1927年の創立で、日本コロムビア、日本ビクターと並ぶ外資提携レコード会社の古参だ。戦後53年に新体制の日本ポリドール株式会社となり、56年に日本グラモフォンと改名、71年にポリドール株式会社となるが、実態はほぼ同じ。今の首都高速道路大橋ジャンクションのある場所に、大きな本社を持っていて、目黒川沿いの電柱にはロゴ入りの「世界のレコード グラモフォン」という広告看板が連なっていたのを覚えている。その後ポリグラムとなり、ユニバーサルに吸収された。イギリスのポリドールは60年代後半に、ジミ・ヘンドリクス・エクスペアリアンス、クリーム、ザ・フーなど、先進的なロック・グループをたくさん抱えていた。

折田「ポリドールはその頃、ようやくそうなれたんだよ。アトランティックはその前にビクターが持ってたけど、やる気あんまりなくてさ。それで香港から回って来たのを獲ったんだ」

 当時ヨーロッパのレコード会社はアジア方面司令部を香港に置いていて、代理権の管理をしていた。アトランティックは以前ビクターからレイ・チャールズなどの目ぼしい物が国内でも出されていたが、制作宣伝がそれほど活発だった訳ではない。その後アトランティック・レコードはポリドールとの関係でイギリスを経由して日本に入って来た。既に黒人音楽の独立レーベルとして、オーティス・レディングを軸とするメンフィスのスタックス・レコードを世界に供給し、ウィルスン・ピケットやアレサ・フランクリンなどのR&Bスターがズラリと揃っていて、白人市場にも進出していた。

折田「61年頃からコースターズとかクライド・マクファターなんかが出て来ててさ。俺が本格的に仕事をするようになったのは、スタックスが盛り上がったオーティス・レディングの少し後で、アレサがコロムビアでうまく行かなかったのを引き抜いて来て、ヒットを出すようになった時だよ」

 一方、本来の親会社、ドイツ・グラモフォンは世界最古のレコード会社で、クラシックのレコードでは今も他の追従を許さない。本来はハードウェア屋なので上層部は技術系の人間が多かった。

折田「電気屋に音楽なんて分かりっこないから、キング・カーティス出すわけないじゃん。アルフレッド・ハウゼとかベルト・ケンプフェルトなんだから。だけどさ、サム・テイラーが全盛時代で売れてんだよ。長距離トラックの運ちゃんも聞くしさ。そういうのはウチにもないのかって重役が聞くから、『ニューヨークにキング・カーティスっていうのがいます』って言ったんだよ。カーティスがアトランティックの現場じゃ実質的な制作主任だってのは分かってた。アレサもカーティスが絡んでヒットが続くようになったしね。何故かこの企画はすぐ通った。曲目とナベプロは関係ないよ」

 70年に新しく創立されたレコード会社、ワーナー・パイオニアへ、アトランティック・レコードと抱き合わせのような形で折田育造は移籍する。西新宿のエフエム放送局にあったのはこの時の再発盤で、配られた見本盤を資料室が例外的に登録したのだろう。同社は米ワーナー・ブラザーズとオーディオ屋のパイオニア、それに最大手芸能社渡辺プロダクションの三者が出資していた。

折田「ワーナー・パイオニア時代には月に一度、社長のナベシン(渡辺プロダクションの創業社長 渡辺晋)が出社して来る。居眠りしてる俺を起すんだよ。『寝るな』って。机がすぐ側だったもんだからさ」

 わたしの興味は、これらの国内ヒット曲をどういう形でキング・カーティス自身に伝えたか、という点だ。譜面なのか、録音原盤だったのか、口頭説明があったのか、どうやってカーティスに楽曲を理解させたかを知りたかった。

折田「あー、分からないなあ。覚えていない。聞きゃあ分かる、ってんでレコードかテープだったと思う。選曲は俺になるけど、別に何の意図もなく、その頃に流行ってた曲を送っただけ。当時はみんなコレだから。『ダンス天国』はピケットのが好きだったけど、日本で圧倒的に流行ってたウォーカー・ブラザーズのを送った。この邦題は大橋巨泉だよ。その頃『ビート天国』ってラジオ番組をお昼にやっててさ、その連想じゃないかな。ビクター時代の話だけど」

 アトランティックの総師“ミュージック・マン”アーメット・アーティガンの武勇伝は日本でも知られている。兄のネスヒは、同社のもうひとつの看板であるジャズを統括していた。あのMJQを擁していたアトランティックだ。ネスヒは、一般的に弟よりも穏やかな性格という印象で通っている。

折田「日本からの発注だからインターナショナル部門。俺の窓口はずっとネスヒだった。原盤は米アトランティック。向こうでは発売にならなかったようだけど、通しのLPレコード番号も持ってる筈だよ。キング・カーティスがネスヒから、3000ドルくらいで請け負った仕事なんじゃないかな。1ドル360円の頃だよ。俺も録音に立合えるかな、と思ったんだけど行かせてくれなくてね。制作にはこちらから何の要望もしていない。人選も日程もカーティスが仕切った。あの頃アトランティック周辺には凄い演奏家がゴロゴロしてたんだね。ロン・カーターが入っててビックリしたよ」

 アトランティックのLPレコード番号は探しても見つからなかった。イギリスの熱狂的支持者がまとめたディスコグラフィにも録音記載はあるが、全て「unissued」とされているようだ。当然ながら北米本国では発売されなかった。新進気鋭のアリフ・マーディンが制作の仕切りだった、とグラモフォン盤の解説にあったが、果たしてこれはどうだろうか。さてこのニューヨーク録音を受け取って聞いて、企画者としてはどんな思いだったのか。

折田「まあ、こんなもんだってのが正直なところだったな。だって本人たちがやる気を起して作った訳じゃないからね。『ダニー・ボーイ』と、『アンド・アイ・ラヴ・ハー』は向こうが勝手に吹き込んで送って来た。『1、2曲は連中も自分たちで』というのを入れとけってところかな」

 そして売れ行きは…

折田「初回3千枚プレスっていう話だったけど。2千枚だったかな。売れてないとは聞いた。後の事は知らないよ。ネスヒもさ、お前たちがいろいろ言うから作ったのに全く売れてないじゃないか。日本からの原盤印税で制作費が回収出来るつもりだったのにどういう事なんだ、ってえらく怒ってた」

 怒られた話は取材中に2回も聞いたから、相当にお灸を据えられたんだろう。ただそもそもは、北米市場でこれが売れると考える方が、間違っているのではないか。
 吉岡正晴は自己のブログで「2000枚も売れずに…」と言っているが(「ソウル・サーチン、 https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-11451423451.html ここには各曲マトリクス番号やパースネルなどの録音詳細あり)、そんなに売れる訳がない。何せこれまで見た3枚全部が見本盤で、未だに市販品を見ていないのだ。

 相当に無理を言ってお願いした取材だったが、途中からは雑談になった。「自分より2年後に作曲も出来るのが入社して来て、すぐやめて自由が丘のレストランでピアノを弾いてた。カーステレオ用のカートリッジ収録曲のアレンジもやってた。そいつが筒美京平だよ」なんて話は貴重だろう。

鷲巣「曲目解説は北山幹雄さん」
折田「ああ、キタさんね」
鷲巣「折田さんは、昔エピック・ソニーから出てたジェフ・ベックのLPにも一文寄せてたね。バーナード・パーディの事ばっか言ってた。この日本で一番詳しいこのキング・カーティスの紹介文は、書いたの折田さんでしょ。よく知ってたね、その頃ここまで」
折田「そうかもしれない。でもはっきり覚えてないよ」

 一般的には、本人の語る処が事実とされる。ただ、そうであるなら裁判が揉めるのは何故だ。この突撃取材も結局は新事実や真相には迫れなかったが、日頃から何事も本人の話が一番信用出来ない、と肝に命じているわたしにはこれで充分だ。当事者に会えて直に話を聞けたのは、何よりも大きい。実は遥か昔にこの『君だけに愛を』について、少しだけ聞いた事があった。酒の席で隣り合った時に、口が滑ったような形で1分間ほど話してくれた。わたしは既にこのLPを知っていたし、先方も現役だったから、食い下がれば別の話も聞き出せたかもしれないが、今回より確かだったかどうかは不詳だ。

 折田育造は69年の海外視察の際、まずメンフィスのスタックスを訪れたという。まだ旧社屋で「汚いスタジオだった」そうだ。エム・ジーズには専用の部屋があって、アル・ジャクスンやダック・ダンと会えたという。アイザック・ヘイズが転身を試みた頃で、吹き込み直後の「恋の面影」を聞かされたそうだ。これもサム・テイラーばりの「ムードR&Bヴォーカル」だ。滞在中アイザックには、相当うるさく付きまとわれたんじゃないだろうか。心中お察しする。

 わたし自身、尊師にお会いするのは久し振りだった。今回の取材を通して、憧れのレコードプロデューサー折田育造の、キング・カーティスを始めとするアトランティック・レコード、R&Bへの限りない愛情がわたしの胸に伝わって来たのは、本当にとても嬉しい。レコードはこういう人に作って貰いたいね。
 折田育造はワーナー・パイオニアで邦楽部長、洋楽部長を経て、89年新設されたイーストウェスト・ジャパンの取締役に就任。最終的に95年、古巣のポリドール株式会社代表取締役社長となって引退した。その後で2年ほど前、病に倒れた。「現在も闘病中なのでこの取材は無理ではないか」、と周囲から言われた。ただ『君だけに愛を/キング・カーティス』には、本人の話が絶対に必要だ。何度も無理を言い、最終的に小手指まで押しかけて強引に会って貰った。
 実際には伝え聞くより遥かに元気で、安心出来た。普通の暮らしをしているという。調子にのったわたしの不躾な質問に答えながら、長い話をしてくれた。
 事前には、「病に倒れてからは記憶が曖昧だ」、「肝心な部分が不確かだ」などのお気遣いを沢山頂いたが、わたしにすればそんな事は昔からで、そういう部分も含めて、何も変わっていない。これが正直な感想だ。立派に現役でした。

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