第1回 折田育造 氏

インタビュー リレーインタビュー

折田育造氏
折田育造氏

ポリドール株式会社 代表取締役社長

この日本で 「ミュージックマン」と言えば、折田氏の名前を真っ先に挙げるのに誰も異存はないと思います。
 クラシックからカントリー、R&B、ロック、全てのジャンルに精通し、愛し続けている真の音楽人間。50年代からのロックの歴史をくまなく語れる驚異の音楽博士。氏の気さくであったかい人柄、溢れる音楽への情熱がまわりの人々を大きく揺り動かし、勇気づけていったのは洋楽関係者の間では有名な話。初めて語られる氏の個人史は並はずれた記憶力に圧倒されながらのロング・インタビューとなりました。 

[1999年12月9日 / ポリドール株式会社社長応接室にて]

プロフィール
折田育造(Ikuzo ORITA)
ポリドール(株)代表取締役社長


1941年11月29日 生まれ。1965年3月 慶應義塾大学経済學部卒。1965年4月日本グラモフォン(株)[現ポリドール(株)]入社。1970年10月ワーナー・パイオニア(株)[現(株)ワーナー・ミュージック・ジャパン]入社。1986年1月 同社邦楽部部長。1988年9月同社洋楽部部長。1989年11月 ウィア・ミュージック(株)代表取締役専務。1990年9月 同社代表取締役社長。1991年8月 (株)ワーナー・ミュージック・ジャパン代表取締役社長。1995年2月 同社退職。1995年3月ポリドール株式会社代表取締役社長就任。現在に至る。


 

  1. 少年時代–横浜「大きな船見てんのが好きだったよ」
  2. 原点–「進駐軍放送だよ、グランド・オール・オープリー!」
  3. 就職–「音楽は好きだったけどまさかレコード会社なんて!」
  4. 洋楽–ウィルソン・ピケット「ダンス天国」
  5. アメリカ–「はじめて行ったとこがメンフィス!」
  6. 現場全盛時代–「不良だよね、みんな(笑) よく考えたら、家庭放っぽって!」
  7. 配信–「音楽自体が底辺に広がる期待もある」
  8. これから–「可能性のある人たちをもっともっと見つけて行かなくちゃいけない!」

 

1. 少年時代–横浜「大きな船見てんのが好きだったよ」

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--まずは生い立ちなど。

折田:1941年、開戦直前の11月29日朝鮮半島と満州の国境生まれ。帰ってきて戦争だよ神戸行ったり明石に疎開したり。で戦後すぐは、昭和25年ぐらいまで佐賀の唐津ってとこにいて小学校3年の半ばから親父の転勤で横浜に行ったんだよ。鶴見の小学校から公立の中学行って磯子に越したのよ。県立の湘南高校行って、それで大学浪人して、慶應へ…。で昭和40年1965年だけど、東京オリンピックの翌年、ポリドールの前身である日本グラモフォンに入社と。

--大体どんな子供だったんですか?

折田:それで小学校横浜育ちじゃない、しかも鶴見区といったら、京浜工業地帯の中心地。当時は何も考えなかったけど、今思えば公害発生の真ん中に居た訳だ。しかも横浜の中心地はアメリカ軍に接収されていたんだ。で、親父は港湾関係の仕事をしていた。だから親父の会社があった大黒埠頭によく遊びに行ったんだよ。倉庫会社っていうか倉庫に港だから昔の大型船がのりつけてる…、船見てんのが好きだったよ。桜木町の今でいうみなとみらい、あそこ三菱のドックだったんだよ。

--ハマっ子、港町育ちなんですね。他に興味を持ったものは?

折田:興味の対象?なんだったんだろうなー。まぁ、音楽系は好きだったよね姉貴がコーラスやってたりしたから。学校の学内放送とかで、その時流れる音楽はさ、小学唱歌とかさ、クラシックの小品集?それでラジオ全盛だろ、ラジオだって5球スーパーとかまだあったじゃない、それでお袋がラジオ聴いてるのとかを聴く訳じゃない、津村謙とか岡本一郎とかディック・ミネとか春日八郎とか三橋美智也はもうちょっとあとだけどね、イヨマンテの伊藤久雄(笑) 、美空ひばり、笠置シズ子、とかっていたよね。だから一回目の紅白、去年が50周年だから、昭和25年だ。「君の名は」が全盛時で菊田一夫の数寄屋橋(笑) 美空ひばりは21年ぐらいかな、横浜の野毛の国際劇場とかマッカーサー劇場ってあったじゃない、あそこら辺でデビューしたわけだ。それで美空ひばりは16号線沿いに磯子のハマってところにマーケットがあって、そこの小さな魚屋が実家なんだよ。

--ウウッ!いきなりな展開、で歳で言うと美空ひばりとは?

折田:俺より上。ひばりは昭和12年ぐらいじゃない?生まれ。確か9つぐらいだろ、デビュー。だから、俺が磯子に昭和29年に移ったときは、ひばり大スターで近くの間坂と云う所に豪壮な御殿のような家に住んでいたね。今の横浜プリンスの近く。昔あそこ下は海だったんだから。俺は高校ぐらいまで泳いだんだ。海の家があったりして、

 

2. 原点–「進駐軍放送だよ、グランド・オール・オープリー!」

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--へー!!それで音楽の方は?

折田:ラジオを通じてだね。あれだよ進駐軍放送だよ、当時FENとはいわないけど、だから、それを聞き出してからだな。小学校のときもちらっと聴いてたけどわかんないから、中学ぐらいからのめり込んだな。中学から高校。んー大学の時はヨットやってたからあんまり…。俺、実はビートルズなんかしっかり聴いてないんだよ。馬鹿にされるから言わなかったけど。

--白状しましたね。(一同笑)

折田:だから、当時一番よく聴いてたのは1956から60年ぐらいまで、アメリカンポップス全盛時代。 FENは土曜日の夜の8時5分からのグランド・オール・オープリー。カントリーすごく好きだったから。ジャズはあんまりわからなかった、長いから。だけど、本来、とんで申し訳ないけど、クラシック好きだったから、小学校から中学はクラシックだよね。カラヤンがN響ふってる頃だから、1954年とか。

--幅ひろいんですねー(笑)

折田:クラシックはだからねー。あの重い、重いって言うか大曲とかそういうんじゃなくて子供心にセンチメンタルなの聴くじゃない、「トロイメライ」とかさ「乙女の祈り」とかさ、それからヨハン・シュトラウスのワルツ集とかさ、小学校から中学ね。それからあれが好きだった、フォスターね。あと賛美歌。あとになるとさ賛美歌の中にカントリー・シンガーが歌ってる曲いっぱいあるなとかさ、セイクレッド・ソングがいっぱいあるよね。

--でもなんかすごい早熟な子供ですね。

折田:そんなことないよ、あたりまえだよ娯楽がないんだもん。娯楽はさー、メンコとかさベーゴマとかさ、あとは陣取りとかチャンバラとかしてた。NHKのドラマでさ東千代の介とかさ中村錦之助がまだ…笛ふき童子とかさ。それで小学校のときなんかさ必ず映画見に行くんだよ映画鑑賞って、唐津いるときはね「子鹿物語」とか「ターザン」とか小学校2年か3年頃からな。「サンタ物語」とかさ「鐘の鳴る丘」とかさ。知らないだろ。当時は映画が娯楽の王者だから、昭和20年代。映画館はね鶴見だとね、レアルト劇場とかね、そこ行ってディズニーの「ファンタジア」見るとかさ。「ワンワン物語」はずっと後だけど…。「ファンタジア」は、横浜の国際劇場で見たんだ。それから当時の一番の趣味はさ、少年アサヒ年鑑とか飛行機の本とか、車。親父が倉庫会社やってたから、アメ車をいっぱい預かるわけだ。そうすると、俺の小学校がちょっと高台にあったから、5分ぐらいあるいて下におりると目鏡橋、第2京浜があったんだ。そこにアメ車いっぱい通るのよ。全部覚えちゃう、キャデラック、リンカーン、スチュードベーカー、シボレー、デソート、ビュック、オールズモービルとかさ!

--…!!見て全部分かるんですか!

折田:そうそう。あっ、これは52年型とか(笑) 親父の倉庫いくとさ、パッカードっていう今で言うロールスロイスみたいな大きなアメ車が置いてあったりするんだよ。中9人乗りぐらいなんだよ。それで、なるほどアメリカってスゲーやこんな国と戦争しちゃいけないやと思うよね。

 

3. 就職–「音楽は好きだったけどまさかレコード会社なんて!」

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--じゃあ、いきなり大人時代の話に変えます。慶應からの就職のときに考えることはあったんですか?

折田:おれ就職はね、音楽関係考えてなくて、商社とか普通の会社いきたかったんだよ。そしたら、見事落っこったんだよ。(一同笑)全部落ちたんだよ、成績悪かったから。Aが13しかなかったんだから、そうすると三菱商事とか三井物産とかAが40以上なきゃダメなわけだよ。

--特にレコード会社目指したわけではない?

折田:全くない。音楽は好きだったけどまさかレコード会社なんて夢にも思わなかった。だけど学校の掲示板にたまたま日本グラモフォンってあったから、当時は7月で就職決まっちゃうから。俺はまだなんか決まんないでさ、それで受けたんだよ。コネも何にもなくて…。ところが、日本グラモフォンは当時ね、途中で知ったんだけど、西田佐知子・園まり・日野てる子、といった3人娘で大きくなってた成長期だったんだ。当時レコード会社っていったらビクターとコロンビアとキングとテイチクと東芝ぐらいしかなかったから…。東芝は元気な新興会社といった感じで、ベンチャーズがアメリカで売れてたけどまだ…。ビートルズはまだかな?アメリカ63年の暮れだからな。レコード会社それしか受けてない。そしたら、ラッキーなことに学卒21人採った中に入ったんだよ。

--最初に行かされた部署は?

折田:外国課。まぁ結構英語できたのよ、そんな喋れないけど、英語は結構出来たと思う。

--外国課っていうのは洋楽っぽいんですか?

折田:いや、そうでもない。外国課っていうのがもう雑用みたいな所で、コレポンと輸出輸入業務と著作権。

--コレポン?

折田:だから、コレスポンデンス、向こうとのやりとり、手紙や商取引の。それから時々アーティストくるじゃない、そのケア。例えば、当時だとスタン・ゲッツとかさ、ちょうどMGMが日本コロンビアから移った時だから、スタン・ゲッツとかコニー・フランシスとかさ。クラシックで言えば、カラヤンなんかもそうだけど、あとタンゴのアルフレッド・ハウゼとかリカルド・サントスとか。

--そのあとの流れっていうのは?

折田:それで、著作権。印税計算。これは大変だった。経理でやるんだけど、経理でやったものを計算書つくんなきゃいけないのよ、楽曲ごとに枚数書いて、要するにレコード出荷の80%枚数書いて、印税いくらと、オリジナル出版社書いてとかさ、それで、それを全部タイプで打つの。なんで外国課行かされたかっていうと、俺タイプ出来たのよ、その、上手くないけど、速かったんだよ。ミスが多いけど一分間にフォーティーワーズって40語出来るの。40語っていうとワンワード・ファイブレターズなのよ。アルファベットあるだろ、あれ26文字か、あれを10秒ぐらいで打てちゃうんだよ。ピピピピっと。残業で、女の子二人と俺ともう一人、四人で。それで、たまたまさ同期で21人いた内、俺どっちみち音楽詳しいから洋楽行きたいって言ったんだ。当時の洋楽はすごいよ、筒見京平さんがいてさ。

--洋楽に京平さんいらしたんですか?

折田:うん、筒見京平さんとか松村さんとかいてさ。当時、和製ポップスってあったじゃない。途中から洋楽が邦楽やったじゃない。それを松村さんがやって、タイガースとかやってたわけ。松村さんはあのキングトーンズもやってさ、ドゥーワップのなんとかって言ってね。それで「グッドナイトベイビー」にムツヒロシって書いてあるんだよ。言わないんだよ、作曲家。本当は自分だから…。社員だからあんまり公に出来ない。筒見京平も同じ…。洋楽やる傍ら、すぎやまこういちさんからアレンジとスコアなどを勉強して…。それで俺、筒見京平さんにも随分世話になったよ。途中から洋楽になって、67年の1月か2月に。その時にビクターからアトランティックが移ったんだ。それで、あの野郎詳しいからこっちって。…という訳で洋楽に呼ばれた。

--なんでそんなに詳しかったんですか?

折田:ラジオとね、あと伊勢崎町行って、むこうの雑誌がいっぱいある訳だよ。ヒットパレーダーとかティーンマガジン。そうすると、当時の楽曲のベスト20とか、ビルボードなんかまだ日本に入ってきてなかったから、必死になって聴くわけよ、土曜の8時半からの TOP20っていうの、毎週土曜日、高校時代から聞くわけよ、それでヒアリングする訳、全部自分で。それで間違うじゃない、すごく。そういうのでタイトルとか間違ってる場合はティーンマガジンとかあーゆうの見てチェックする、あーそういう事か、と。だから、詳しいよ1958年の9月第1週のベスト10とか、1位「ネル・ディ・ピントディ・ブルー」即ち「ヴォラーレ」とか2位が「リトルスター」/エレガンツとかさ3位「ウエスタン・ムービー」/オリンピックス、4位「パトリシア」/ペレス・プラド、5位が先週何位から落っこちたリッキー・ネルソンの「プア・リトル・フール」とかさ。

--えぇーっ!!(笑)

折田:それで俺カントリーも好きリズム&ブルースも好きだろ、プレスリーとかチャック・ベリーとかリトル・リチャードとかエディ・コクラン、ジーン・ビンセント、エヴァリー・ブラザース……でも一番好きだったのはね。アイドルはね、リッキー・ネルソンだった。

--(笑)

折田:なんたって一番好きだった。それでさ、日本の番組はさ、L盤アワーとか、S盤アワーとか、ニッポン放送の日曜朝の10時にやるやつとか、文化放送のユアヒットパレードとかプレスリー一本、又は映画音楽の「エデンの東」なんかで、リッキー・ネルソンとかかけてくれないわけ。それからちょっと遅れてフランキー・アヴァロンとかフェビアンとかさ、それからもっと遅れてボビー・ライデルとかボビー・ヴィーとか出てくるんだけど。だけど、やっぱり黒人のグループ好きだったよ。昔の、バード・グループと言われている、ただそんな桜井ユタカさんほどは詳しくないけど。

--いやぁ、詳しいですよ!

折田:いや、百科事典みたいに詳しいんだから(笑) カメさん(亀淵昭信氏)とか。

 

4. 洋楽–ウィルソン・ピケット「ダンス天国」

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--それで洋楽に何年ぐらい居たんですか

折田:洋楽はね、67年から70年だから丸3年ちょっと、アトランティック担当。一番最初に出したのが「リトルマン」、ソニーとシェールの。もうすでに当たってたのよビクター時代に。それから当時フジTVの、たしか巨泉さん司会の音楽番組で大ヒットしたウィルソン・ピケットの”Land of 1000 Dances”、これも既にビクターが「ダンス天国」ってタイトルつけていて。アトランティックが日本グラモフォンに移ってきて、俺が「ハイ頂き!」ってそれをそのまま出して。それでソニーとシェールがそのあと「ビート・ゴーズ・オン」出して、それからボビー・ダーリンの「イフ・アイ・ワー・ア・カーペンター」、たしかオリジナルはティム・ハーディンだったかなあれは…。

--それで、そのあと邦楽いっちゃたんですか?

折田:邦楽いったのはね、アトランティックが移るってんで、じゃあ、お前邦楽やれってんで、タイガースやらされたの。それでその時、陳信輝なんかもやったの。タイガースはやらされたんだけど信輝達は俺が好きでやったの、マー坊(加部正義)と。

--タイガースは曲で言うと、どのへんなんですか?

折田:タイガースはね後半、「すばらしい旅行」とか。ヒゲのクニ河内さんたちと。弟が太鼓やってて、それで、ギターが水谷なんかがやってて。

--それとタイガースって関係あったんですか?

折田:いやメンバー以外にも当時のトップ・クラスのスタジオ・ミュージシャンを使ったわけだ。最後のスタジオ・アルバムで、すごくかっこいいアルバムになったと思うよ。解散の噂も出たり、いろいろ苦労もあったけどメンバーもすごく頑張ったんだ。

 

5. アメリカ–「はじめて行ったとこがメンフィス!」

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--60年代後期の話ですよね。その頃のアメリカはすごい時でしたね。

折田:これは亀淵さんが教えてくれた話だけど、彼は当時、66年か67年サンフランシスコに留学してたわけ、でモントレー・ロックフェスティバルで、例のフラワーパワーのころだよ。朝妻一郎さんも行って亀淵さんと合流したり、福田一郎さんが行ったり。だから、あの時のジミ・ヘンドリックスとかオーティス・レディングとか、ああいうのリアルタイムで見てる人って少ないよね。

67年だろそれが、68年ぐらいが一番脂ののりきっている頃だから、リズム&ブルースとかニューロックっていうか、僕の直接担当じゃなかったけど、伊伏さんて人がポリドールやっててジミ・ヘンドリックスとかビージーズとかクリームとかを担当していたんだけど、僕の方が詳しいから、WHOとかいろいろサポートした憶えがある。僕はアトランティック/スタックス担当でリズム&ブルース中心、オーティス・レディングだよね、サム&デイヴとか、ブッカーTとMG’sとか、それからもっと渋いウィリアム・ベルとかね、スタックスの。アトランティックだったらアレサ・フランクリンとかウィルソン・ピケットとかイイのが沢山あるよな。もう素晴らしいよなドン・コベイなんか!シビれるよね。それと、ビートルズとかリバープール・サウンズ以外に新しい波でさ、要するにスーパーグループ・ブームでアトランティックだったらレッド・ツェッペリンとかクロスビー・スティルス&ナッシュとか途中からのヤングなど。他にもヴァニラ・ファッジ、オールマン・ブラザーズ・バンド等、キラ星のごとくスーパー・アーティストがいたね。それでCBSはさ、当時はBSTとかシカゴとかサンタナとか…。

--ご自身のアメリカ行きは?

折田:69年の6月の1日だったかな15日に帰ってきたんだから。初めて行ったよ、当時、一番に行ったのはまず、スタックスレコード。はじめて行ったとこがメンフィスだよ。とんでもないよな。日本人が全くいないような典型的なディープ・サウス。スタックスレコードは黒人街のど真ん中にあるんだよ。社長がジム・スチュワートって銀行の受付やってたようなおっさんでさ、白人ね。それで副社長が黒人で。昔、映画館とかキャバレー改造したとこが本社で、スタジオはまだ8トラックの機材完備って時代。スタックスレコードではエディー・フロイドとかいろんなヤツに会ったよ。ブッカーT&MG’sのメンバーとか、アイザック・ヘイズとか。それからナッシュビルに行ったんだよ。あと、NYではヘアー観たりとかね。

実はその時のメインの目的はアトランティックのセールス・コンベンションだったんだ。その時のアトランティックはすごい時でさ、1969年の6月は3ヶ所でやったのよ。普通はNYとかマイアミとかバミューダとかリゾート地のどこか一カ所でやるんだが、当時は要するに一ヶ所に入りきらないということでNY、シカゴ、LAの三つに分けてやったのよ。それでNYをジェリー・ウェクスラーが仕切って、シカゴがアーメット・アーティガンで、LAがネスヒだったの。 NYでは会場がかの有名なウォルドフ・アストリア・ホテル!初めてのアメリカですごく興奮したよ。

話が長くなるねーこれじゃあ…。

 

6. 現場全盛時代–「不良だよね、みんな(笑) よく考えたら、家庭放っぽって!」

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--進まないですよ。じゃあワーナーに移られてからの話は省略しましょう! 70年11月11日の創立時からワーナーパイオニアの洋楽にアトランティックとともに移籍されて89年にWEA MUSIC の社長になられて、突然「イクゾー!」キャンペーンみたいな(笑)

折田:そうそうだから邦楽でプロモーションビデオ作った時に「イクゾー!」っていうタイトルにしてそこに5アーティスト入れて、

--でその中から槇原。

折田:そう、槇原。まぁね、あいつも…しょうがないね(笑)  まあ、そこまではラッキーだったよね、ワーナーの社長になってからだなつらい思いしたのは(笑)

--でもあの頃洋楽にいた人たちは横のつながりがあって、石坂さんとか、高久さんとか。

折田:結局ね、60年代終わりから70年代ってさ、音楽もすべてさ一番いいときじゃない。アーティストもリアルタイムでみんな輝いていたわけだし、ビートルズが解散した後の混沌時代たって、そのあと例えばイギリスからいろんなグループ出たり、ツエッペリンやストーンズが健在だったり、アメリカだってウッドストックとかその前のモントレーポップフェスティバルとか…。ああいうの含めてさ、ムーブメント的にはね 70年11月だっけ、ストーンズのオルタモントで終わってんだけど、ビジネスとしてはそこからだから…。

--その頃の方は今みんな社長とか、リーダーシップとられてる方が多いですね。

折田:そうだね、それで深夜放送全盛、もちろんテレビもメディアの一つだったけど、プロモーションビデオもそんなある訳じゃないから、深夜放送だろうメインは。それで深夜放送をまわるだろ、そうすると第二部までつきあうのは大変だから、午前3時ぐらいに…。スピークロウ(六本木、各社の洋楽マンが夜な夜な群れていた伝説のスポット)あたりしか空いてないって言うんでそこに群がってあーだこーだってやるじゃない、それで情報交換とかやるじゃない。今みたいに媒体がめちゃくちゃある時代じゃないから…。

--あそこでみんなが集まったことでひとつの情報発信の方向とか決まってたんですよね。

折田:そうそう。全盛は72〜3年から75〜6年かね、

--そこにいた人たちが今こうやってトップにいらっしゃることは想像できました?

折田:年齢見ていけば、みんな50過ぎになるわけだからね。それで数年一生懸命勉強って言うか、半分遊びだよ、不良だよね、みんな(笑) よく考えたら家庭があったって放っぽって!…

--壮絶な人たちでしたね!

折田:だから、今で言えばマーケティングの方向とかね、それをみんなで話し合ってた。だけどなんていうのかな、僕は音楽で偉くなってやろうとか金儲けしてやろうて言うよりか、いい音楽を広めたいっていうのはあったわな。ところが、僕が好きなような音楽はなかなか下世話にヒットするような音楽じゃないから、そこはちょっと俺が間違ったね(笑) エピック立ち上げて、今ソニーミュージックエンターテインメントやってる丸山さんとか、やっぱり現場の陣頭指揮で当時ビジネス的に一番難しいジャンルのロックやって、まぁソニーみたいにきちっとしたマーケティングである程度大きくするような会社ってそんなに無いじゃない。結構、経験則とか行動力とかキャラクターとかで当時は動いていた。

 

7. 配信–「音楽自体が底辺に広がる期待もある」

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--話をいきなり2000年にスイッチしていいですか?時間もないと思うので…。 音楽配信のこととか。

折田:あーただ、SMEの丸山さんなんか親会社の関係もあるけれど、レコード会社が一番本来は権利を持つべきだっていうところに立脚した上で考えられてるんだと思う。放っておくと、音楽関係者じゃない連中が入ってきて、それで配信をね、音楽制作の権利関係をよく理解しないでやったりするだろう?

--だから、そんな事になる前にやるべきだっていう?

折田:だって振り返ってみても60年代後半、ソニーができてさ、しばらく試行錯誤はあったとして、レコ大とか、ああゆうのでさ、プロダクションやアーティストが強くなってきて従来の力関係が崩れてきて、そういうの目の当たりにすると、ソニーの当時の大賀さんとか自前の、いわゆる自分の所で権利をある程度掌握できるようなアーティストを育成すべきだと主張されて、当時他のレコード会社も皆そういう気持だったよね。近い将来さ、e-コマースとか云われる時代をみて、やっぱりもう一度、先手を打って守るべき権利をしっかり守らなきゃってことだよ、だって本来、50 年代60年代からずっとレコード会社はその本分を守って生きてきたんだから。

--急速な各メディアの発達で益々混沌としてきました。

折田:レコード会社の基本というところで、常にそういう考えで来てるから、丸山さんが先に配信の形を示されたのはさすがだし、僕は自然だと思う。だから、うちもソフト主導の会社として、こういう配信に向かう動きは避けられないし、やらなきゃいけない。時期的にはまだはっきり言えないけどもうすぐね。ただそれがね。軌道にのるかどうかって云うのはまだわからない…。

--売れてる人はもっと売れて、売れない人はまったく売れないっていう2極化が極端に進んだ感じですよね。そういう部分は、あれは正常なんですか?

折田:それは俺達レコード会社にとっても、いわゆる1アーティスに集中しちゃうっていうのは、異常に思える場合もあるけど、ある意味じゃ止むを得ないっていうのもある。つまり、損益分岐点とか全てが上がっちゃった状態、やっぱり一時期ミリオンセラーが簡単に続出したことがあるでしょ、あれでなんかさ、バブルの後遺症じゃないけど、なんかすぐミリオンセラーって云うのをを頭においてそれなりのすごい立て方をする方法論が生まれたのよ。そうすると今までの3万枚とか 5万枚の想定と違って、宣伝コストなんかが暴騰しちゃって、…してるつもりはなくたって膨らんでいくよね、テレビ・スポットとかああゆうマーケティングコスト。それでこれ競争だから、エイベックスとかソニーがやると、他だってそれだけの可能性のあるアーティストやタイミングを選んで勝負をかける、ソニーだってエイベックスだって選んでやってるわけだから…。

だけど、一点豪華主義で大量に売る人が出てくる反面、逆にコツコツ手売りとゆうか、そういうアーティストも増えてきてるよ、実際は。それがすごい才能があってたまたま成り行きとゆうかラッキーでどーんと来ちゃうとまた、同じ、そうゆうタイプに入っちゃうようになる、パラドックス…。

--じゃあ、今のパターンは続くんでしょうかね?

折田:当分続くだろうね。ただね、これからはインターネットを通じてホームページから配信出来るとかそうゆう事があるから、新しい方法論で出てくるヤツもいると思うな、アーティストで。音楽自体そんな変わらないんだけど、新しいメディアの出現でマーケティングもディストリビューションもメチャクチャ変わると思う。

--そうすると、一極集中が不満な人はみんなそっちに向かうってことも考えられますね。

折田:考えられるね。だから、さっき言った混沌のなかで、やっぱりなんでもアリなんだけど、その中でどの方向を経営者として選んでいくかってゆうのはすごい大変だね。新しいパワー、優れたアーティストにいつも一番近いとこにいなきゃまずいわけじゃない。もうそれだけの話よ。

--どれだけアーティストを確保していくかって事ですか

折田:そうそう、権利をね、どれだけ任してもらう力を持てるかってこと、もう非常に簡単そうで難しいよね。だってやっぱりそれは一番大事なことだからね。

--じゃあ今後はレコード会社に管理されたくないってアーティストも…

折田:出てくるだろうな当然、レコード会社としちゃ問題、だけど期待もありますよ。というのは、音楽自体が底辺に広がるじゃない。

--いままでレコード屋さんにいってくれないような人たちが…

折田:今みたいにさ、一極集中で宇多田ヒカルが800万枚みたいな異常な段階だけど、ある程度そうゆうのがなくなるんじゃないかってそんな気がするんだよな。やっぱり、好みがさらに多様化して、興味さえあれば容易に入っていく訳だ。いまレコード屋さんに行ってさ、50のオヤジがさ、俺みたいに音楽詳しいとどこ行きゃどうってわかるけど、普通の人がさ…

--そうですよね、HMV行ったってどこがどうなってるかわからない。

折田:うん。じゃあ昔のさ、リッキーネルソンのレコード欲しいんだけどって言って”リ”のところ行ってもなかったりするじゃない。

--リッキーなんだけどマーティンだったり(笑)

折田:結局さ、ゲーム・オタクみたいにコツコツやってるヤツが突如ばぁーっと!そういう時代だよね。だってビル・ゲイツだってバカバカしくて大学ドロップアウトした訳だから。

--まぁ、この業界そうゆう夢持てるだけおもしろいですよね、やっぱり。

折田:ただ、成功したやつばかりを見るからだけど、その裏にはさ、その何十倍何百倍っていう死骸が累積しているわけだ。

一同=(笑)

--もうあんまり、時間もないと思うんですけど。最近の趣味って何ですか?

折田:何だろうな、趣味は体調をちゃんと整える為にやってる日曜朝のテニスだけかな?12〜3年やってるけど上手くなんない。いいんだ、上手くなんなくても。昔はバイクとかやったけど、もうやらない。

--酒はやってるんですか?

折田:酒は毎日。

--必ずですか?

折田:これはまぁしょうがないよな。身体はタフなんだ、足が丈夫だから!あのーこないださ、たまたまさ、久しぶりにデンオンで出したダイレクトドライブのアナログのプレイヤーあるじゃない、あれだしてさ、アナログ聴いたの。こんなにCDと違うのかって愕然としたよ。いや、前もさ、そう思ったけど、改めて!

--何を聴かれたんですか?すごく興味ありますねー。

折田:たまたまさ、ランディー・ニューマンの、映画のサントラあるだろ?(注:「ラグタイム」)あれとかP.F.M.聴くとさ、しびれるよなぁ! いや、どうしてもこっち来ちゃうなあ、話が…。あ、趣味ね、俺ボクシングが大好きなんだよ、ボクシングのことなら何でも聞いてくれ、全部知ってるから…。

 

8. これから–「可能性のある人たちをもっともっと見つけて行かなくちゃいけない!」

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--…!やめときましょう!今のJポップ・シーンについて。

折田:どんなデジタルの時代になっても声のパワーで伝えられる人は一番大事。宇多田の声はやっぱりすごいと思うよ。歌のうまいひとはもっといるだろうけど、あれは持って生まれたものだな。美空ひばりがアレサ・フランクリンとか歌ってくれてれば、日本の音楽業界はもっと早く開花してたかも知れない。今のJポップは相当なレベルいってる。若い人たちは既に日本独自のものを創り出してると思う。これからはもっと国外に発信していくべきだろう。そして俺達は可能性のある人たちをもっともっと見つけて行かなくちゃいけない!

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

大変に貴重なお話ありがとうございました。お伺いした後に思ったのは、やはり、折田氏の持つ音楽を想う熱きハートこそが、音楽業界の貴重な財産だということ、そしてそういう方が我々の上にいるんだという安心感でありました。さて、氏の次のご指名はワーナーミュージックジャパンの稲垣氏です。「きっと面白い話が聴けるから行ってみろ!」乞うご期待!

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