ジョージ・マッセンバーグ氏 来日インタビュー

インタビュー スペシャルインタビュー

ジョージ・マッセンバーグ氏
ジョージ・マッセンバーグ氏

プロデューサー、レコーディング・エンジニア、そしてGMLの製品およびシステムの開発者として世界的に著名なジョージ・マッセンバーグ氏が、このたび来日した。目的はエフ・ビー・コミュニケーションズ株式会社のレコーディング・スタジオ「SOUNDATELIER」のGMLオートメーション・システム・アップグレードの為のインストール作業。連日行われた作業でお忙しい時間を割いて、 Musicman-NETのスペシャル・インタビューを行うことができた。日本、そして世界中のスタジオがもれなくお世話になっているはずのGML。さらに、30年以上のキャリアを持ち、マルチな才能を発揮するマッセンバーグ氏の、知られざる素顔とは。レコーディング業界、ひいては音楽業界にかかわるすべての人に送る、貴重なインタビューとなった。

[2000年9月7日(木)/エフ・ビー・コミュニケーションズ株式会社にて]
 

George Y. Massenburg


1947年、ジョージア州メリーランド、ボルチモア生まれ。
幼少の頃からエレクトロニクス&サウンド・レコーディングに興味を持ち、15歳の時レコーディング・スタジオと電子工学研究室でバイトを始める。ジョン・ホプキンス大学でエンジニアの勉強をするも2回生のとき中退。1972年、パラメトリック・イコライザーを開発、AESで発表する。これ以降、世界中のマスコミで名が知られるようになる。1973〜4年  パリのヨーロッパ・ソナー・スタジオでチーフ・エンジニアを勤める傍ら、フリーのエンジニアリング&イクイップメント・デザイナーとしても活躍する。その後GML(George Massenburg Labs)を設立、1982年にレコーディング機器に必要なソフトを製品として発表。GMLではオートメーション・システム以外にもミキシング・コンソール、マイクロフォン・プリアンプなども生産している。また他社からの生産、開発に関する相談にも応じている。また、メリーランドのハンツヴィルに「ITIスタジオ」を、ロサンジェルスに「The Complex」を設立。ほかにもマリン・カウンティの「スカイウォーカー・サウンド」や「ザ・サイト」など、多数のスタジオの音響学的、かつ建築学的な設計を手がけている。最近ではモントリオールのマクギール大学(音響科学技術専門大学)、ロスのUCLAとUSC、 テネシーのMTSUなどで教鞭をとっている。現在、テネシー州ウィリアムソン・カウンティ在住。

これまで手がけた主なアーティスト

ビリー・ジョエル/ケニー・ロギンス/ジャーニー/マデリーン・ペルー/ジェイムズ・テイラー/ランディ・ニューマン/ライル・ラヴェット/アーロン・ネヴィル/リトル・フィート/マイケル・ラフ/TOTO/リンダ・ロンシュタット など・・・200枚以上のアルバム制作にかかわっている。

<グラミー賞受賞作>
リンダ・ロンシュタット「DEDICATED TO THE ONE I LOVE」(プロデューサー部門/1996)
リンダ・ロンシュタット「CRY LIKE A RAINSTORM, HOW I LIKE THE WIND」(エンジニア部門/1990)
テクニカル・アチーブメント(技術的貢献者への表彰/1998)
ほかにもMix Magazine TEC Awards等、数多くの賞を受賞している。

 

  1. ハードもソフトも大好きな機械少年
  2. エンジニアはプロデューサーを目指せ!
  3. 音楽は「ハート」で作るもの
  4. デジタル・レコーディングの可能性と課題
  5. 仕事は趣味の延長、でも夢は・・・ハワイ!
  6. インタビューを終えて

 

1. ハードもソフトも大好きな機械少年

—— 15歳でこの世界に入ったということですが、キャリアのスタートがとても早いですよね。自分の進むべき道がそのころすでに決まっていたんでしょうか。

私は機械が大好きで、小さい頃は整形外科医の父がメモ代わりに使っていたディクテイティング・マシーン(会話をメモする為のマシーン)に吹き込んだりして遊んでいたのを憶えています。8歳か9歳で小さいテープレーコーダーを買いました。DCバイアス(直流)のマシーンだったんですが、それが嫌だったので、自分で交流に改造してしまいました(笑)

—— なんでそんなことできるんですか(笑)

初めてこういう仕事に就いたのは15歳の時で、ジョン・ホプキンス大学の医学部で、カーティス・マーシャル教授に仕事をもらいました。彼は自分でマイクロミキサーを作ってしまうような人で、偶然電気屋で知りあって、彼に「よかったらいっしょに働かないか」と誘われたんです。

仕事は神経科医が脳波の検査に使う真空管のごくごく初期のコンピューターを扱う仕事でした。半導体とかが出てくるずっと前の1960年代のコンピューターです。私はそのころ、システムエンジニアを目指していて、自分で回路図を書いたりしていました。コンピューターの仕事と掃除夫と、両方やってましたよ(笑)

また同じ頃に、ボルチモアの小さなレコーディング・スタジオを紹介されました。主な仕事は車と銀行の広告音楽の仕事でした。でも仕事は昼間だけだったので、夜はスタジオにこっそり忍び込んで自分で音楽を作ったり、いろいろいじったりして憶えました(笑)。今はとてもそんなことありえませんけどね。

そのスタジオにはいろんないいマイクやテープレコーダーがありましたよ。マイクはノイマンのU47、U48やSM2、テレフンケン251、SHEPS 221B、あとAKG-C60、AMPEX 300、AMPEX351、AMPEX354 やAMPEX PR10 なんかね。AMPEX PR10ほどいいテープレコーダーはありませんね。私はコンピューターのバイトで稼いだお金でPR10を買いました。うまく動かなかったんですが、自分で直して使ってたんです。そのPR10で初めてレコーディングを体験しました。近所の学校のブラスバンドや合唱団なんかを、自分で録音しに出かけて行ったりしてました。

17歳の時にはレコーディング・スタジオで働きながら、ジョン・ホプキンス大学にも行っていました。でも学校には1年半しか行ってません。電気工学の先生とケンカしたんですよ。私が設計して持っていた回路図を見て、先生は「こんなのできるわけがない。システムエンジニアはハードやソフトのことには口出すな」と言うんです。でも私はハードウエアを組み立てて音を作り出すのが大好きだったんです。1965年のことですから、ソフトウエアなんてない時代ですよ。でもそのころには私はレコーディング・スタジオでエンジニアのプロとして働いてお金を稼いでいました。だから学校に行く必要なんてなかったんです(笑)

1967年だったか68年にITI(International Telecom Incorporate) を設立して、1971年、19歳の時、AESでパラメトリック・イコライザーを発表しました。同時に専門誌にも論文を発表しました。普通のイコライザーはすでにありましたが、パラメトリック・イコライザーは私のアイデアなんです。そして1972年に最初の製品を発表しました。でもそのときの共同経営者が悪いヤツで、私は無理矢理契約書にサインさせられて、ITIの権利や収入などはすべて彼の物になってしまったんです。

2年後、私は失意のうちにアメリカを離れてパリに移りました。26歳のときです。パリでフリーのレコーディング・エンジニアとして働き、フランス人の一人目の妻と結婚しました。

—— 一人目?何回ご結婚されたんですか?

3回です(笑)。彼女は女優でモデルで、スタイルもばっちりで、とても美しかったのですが・・・(苦笑)パリでの生活のことは、あんまり思い出したくないですね。 2年後にパリからロサンジェルスに帰ってきて、ロスには25年間住んでいました。

そのあいだに手がけたアーティストは、リトル・フィート、アース・ウインド&ファイアー、エモーションズ、デニス・ウィリアムズ・・・ほかにも数多くのR&Bのレコードを手がけました。 

スペシャル01ジョージ・マッセンバーグ1

 

2. エンジニアはプロデューサーを目指せ!

—— その後のご活躍はみなさんご存じのとおりですよね。 では、日本のミュージシャンで特に面識のある人はいますか?

あまりいません。強いて言えば尾崎亜美さんとか。彼女はすばらしいですね。また、つい最近はMisiaを2曲手がけました。直接会ってはいませんが、歌を聴く限り、とてもハートがあって何でも歌えるシンガーですね。ロックでもR&Bでもカントリーでも。

—— レコーディング・エンジニアで知っているのは?

たくさん知ってるけど・・・たくさんいすぎて、特定のだれかっていうのは今ここでは言えません。

—— ご自身では年平均どれぐらいのレコードに関わっているんですか。

プロデュース・レコードは年に1、2枚しかできませんが、エンジニアとしてならたくさんできますよ。昔はミキシングからオーバーダビングからすべて自分でやっていたので、エンジニアの仕事も時間がかかっていましたが、最近は分業してるので、少しは楽ですね。

—— 今後のご予定としては?

Misiaと、リンダ・ロンシュタットのクリスマス・レコード、ニュー・ジェニファー・ワンズ、来月はディクシー・チェックスのライブ(MBC TVスペシャル)とDVD、たぶんライブ・レコードにもなると思います。  その次はメアリー・チェイピン・カーペンターもやります。それと、私はモダン・カントリーは好きではありませんが、新人でとてもいいシンガーがいて、タミー・コクラン(Tammy Cochran)といいます。彼女もやる予定です。

—— お忙しいですね(笑)

いつでも忙しいですよ(笑)。私は3種類の仕事をしています。レコーディング・エンジニア、プロデューサー、そしてソフト設計者です。そのなかでもプロデュースがいちばん大変ですね。アーティストは自分のことしか考えてないし、レコード会社も気を使ってくれない(?)から、そこをまとめるのがつらいです。音楽的アイディアを自分でしぼりだしてながらやるんですから・・・。

—— 日本の若いエンジニアになにかメッセージをいただけますか。

ただのエンジニアではなくて、プロデューサーを目指せ!と言いたいですね。チャンスをつかみ、もっとチャレンジしろ、ということです。

—— 日本ではエンジニアはエンジニアで、レコード会社が牛耳って大プロデューサーを用意して、お金もコントロールしてるんですが(笑)

いい音楽をやるにはエンジニアで甘んじていてはだめです。プロデューサーに挑戦してみることです。たとえトラブルメイカーになったとしてもいいんです。 

スペシャル01ジョージ・マッセンバーグ2

 

3. 音楽は「ハート」で作るもの

—— 音楽を作るというお仕事でとくに気をつけていることはありますか。

いちばん重要なことは正直さ、真実の音楽であるということです。音楽というのはただミュージシャンが部屋で座って作るものではなくて、自然とどこかからかわきあがってくるものであるべきなんです。音楽とはハートの表現であり、文化の表現であるべきです。いい音楽というのは、人々が考え、感じたことや、伝統的な文化の特色から素直に生まれてくるものだと思います。

—— 現在のスタジオ業界の現状と問題点、将来の展望についてお聞かせ下さい。

はじめに言いたいことは、レコードビジネスは変わってしまったということです。

今レコード業界は再編成によって大きな会社が巨額を投じて動かすビッグ・ビジネスになっていて、利益は企業が吸い上げてしまっています。すべて商売の論理によって成り立たっている感じがあります。いいミュージシャンが心の底からわき上がってきたいい音楽を作り、それが広がっていくというのが少なくなってきているんです。 私の願いはここらで原点にもどって、いい音楽を個人が作るという風潮がもう一度復権してくれることなんです。

アメリカの議会が調査した結果、レコード会社各社はカルテルによってレコードの値段を18ドルに決めてしまっています。わざと高い値段にして大儲けしているわけです。これは違法なことです。その一方で、アーティスト印税、プロデューサー印税は逆にどんどん下げられていっています。

それから、ラジオにも問題があります。アメリカのラジオ局は、今はもう、はるか遠いL.A.やN.Y.で作られた番組をただかけているだけ、というのが現状なんです。リスナーの声は届いていません。

—— アメリカのラジオ局はそうじゃないと聞いていたのですが・・・
 

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4. デジタル・レコーディングの可能性と課題

—— 日本のエンジニアがいちばん興味を持っているアメリカのスタジオ・レコーディングの現状、たとえばPro Toolsのことなどについて教えて下さい。

Pro Toolsは今はもう標準装備ですね。アメリカでは毎月800台も売れてますよ。アメリカでスタジオを始めようと思ったら最初にそろえるのはもはや3348ではなく、Pro Toolsです。3348はPro Toolsに凌駕されて、もう終わりです(笑)。アメリカでは3348の中古価格がこの1年間で9万ドル(約950万円)から4万ドル(約420万円)にまで下がっています。

—— ほんとですか?日本では400万円かけてヘッド交換してるのに!!(笑)

Pro Toolsは3348より安くて便利ですが、最大の問題点は現在競争相手がいないことです。

アメリカにもアナログにこだわる風潮はありますが、私が思うに、一部のアナログ機器はもう終わってます。個人的にはアナログも使用していますし、アナログが消える、ということはないと思います。でもすべての作業がアナログで行われることはなくなっていくでしょう。

—— デジタル・コンソールはこれからどんどんシェアがひろがっていくということなんですね。

デジタル・コンソールはまだスタートしたばっかりだから、まだ何とも言えません。でもとても安いですから、普及していくことでしょう。ディレイが4/100秒程度なら許される範囲だ、というAESでの報告もあります。嫌な人は嫌かもしれませんが、慣れてしまうかもしれません。

—— 10年後はわからないかもしれませんが、5年後のスタジオレコーディングの現場はどうなっていると思いますか。

10年先、20年先のほうが簡単に言えますけど(笑)、2年、5年先というのはとても難しい質問ですね。だからスタジオ経営は難しいんですよ(笑)。スタジオ経営もそれなりのリスクをもってやっていかなくてはならないでしょうね。

—— 今日本のスタジオでもデジタル・コンソールを買おうか迷っている人はいると思いますよ。

日本のスタジオでOXFORD O3がまったく普及していないのには少し驚きましたね。あれは音質、操作性ともに、間違いなく現在ベストのコンソールだと思いますよ。 私は今度自宅のスタジオでOXFORD O3とPro Toolsを導入しようと思っています。

もちろん、Pro Toolsがあるからといって、すべてが完結してしまうわけではありません。Pro Toolsはいろんな使い方ができて便利ですが、ミキシングはできませんよね。マウスをクリックしてミキシングするっていうのは私の感覚に合わないんです。フェーダーを使うのがいちばんです。「プロ・コントロール」機能もなじみませんから。

もちろん、アナログが必要な場合もありますから、使い分けが必要だと思いますね。 

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5. 仕事は趣味の延長、でも夢は・・・ハワイ!

—— それではご自身のことについて伺います。個人的にはどんな音楽がお好きですか。

個人的には、なんでも、どんな音楽でも大好きです!! クラシックではラルフ・ヴォーン・ウィリアムズ(イギリスの著名なコンポーザー)がいいですね。バッハももちろん、アメリカンR&Bも好きです。 キング・カーティス(サクソフォン・プレイヤー)とか、スタックス・レコーズ時代の初期のBooker. T&MG’sとかね。 モダンカントリー以外ならなんでも好きです。モダンカントリーはHonestじゃない気がするんです(笑)

—— 趣味はありますか。

すべてですね。生活すべて、興味のあることすべてが趣味です。仕事も趣味の延長のようなものです。仕事を仕事だと思ってないんですよ。

—— 日本食がお好きだそうですね。特にそばがお好きだとか。

日本は大好きです。前に日本に住もうとしたこともあったんですよ。でもそれはちょっとムリでしたけど(笑)。日本の歴史ある古い文化に興味があります。日本の映画、『乱』(黒澤明)なんかも好きですね。日本食は寿司以外は好きです。寿司はあまり好きではありませんが、シーフードは大好きで、とくに新鮮なものはおいしいですね。名前はわかりませんが、好きなものはたくさんあります。そうそう、とくにウニが好きです。麺類も好きで、そばもうどんも好きです。味付けは関東よりは関西テイストのほうが好きです。とてもシンプルで、野菜もたくさん使ってますから。シンプルなそばは毎日食べてもいいです。ハンバーグはもういいです(笑)

—— ご家族は。

12歳の男の子と、妻です(笑)。3人目なんですけど、これが最後ですよ。妻はカナダのランキン・ファミリー(Rankin Family)という有名なフォーク・グループで歌っていたんです。とてもすばらしいシンガーでした。今度来るときは家族も連れてきますよ。

—— ご兄弟はいらっしゃいますか。

弟がいます。弟はおもしろいですよ。51歳なんですが、セールスマンで、ロッキードP3C(対潜哨戒機=海の中の潜水艦を見つけて攻撃するための飛行機)を世界中の軍隊を相手に売りまくってますよ。売り上げはかなりいいらしいです。

—— ご兄弟であまり共通点がないように思えますが。

いえ、私たちふたりの共通点はワーカホリック(仕事中毒)だってこと(笑)。あとは楽器を演奏することですね。私はトロンボーン、彼はクラリネットで、いっしょに演奏することもありますよ。

—— 夢はなんですか。

休暇がほしいです(笑)

—— さっき、バケーションはレコーディングだっておっしゃったじゃないですか。

(苦笑)私の夢はハワイに2週間行くことなんです。新鮮な魚をとってきて、さっと表面 を焼いて、しょうが醤油で食べたい。ビーチに歩いていけるような場所に小さな家を借りて・・・・・・

—— やっぱりお疲れなんですね・・・(笑)。さきほど伺ったお仕事のペースだと、12月なら夢はかなうんじゃないですか?

12月は値段が高いからだめなんです(笑)

—— 最後に、今後の人生の展望をお聞かせ下さい。60歳で引退しよう、とお考えだとか?

いえいえ、仕事は一生続けますよ。でも60歳をすぎてから重い物を持ったり、コンソールの下に潜ってメンテナンスしたり、そういう作業はしたくないですけどね(笑)。 モントリオールの音楽大学にはすばらしいスタジオがあるんですが、今ここで教鞭をとっています。それから、レコーディングについての本も書きたいです。

—— 若い人に自分の技術を伝えていくっていうことに生き甲斐を感じてらっしゃるんですね。

そうですね。教えるのは大好きだし、だれもやらないから、私がやるんです。音楽をめざしている若くてやる気のある人たちの役に立ちたいんです。

—— 今後のご活躍を期待しています。長い時間ありがとうございました。
 

スペシャル01ジョージ・マッセンバーグ5

 

インタビューを終えて

今回のジョージ・マッセンバーグ氏の来日は、2000年8月下旬、急遽決定したものでした。

そもそも当社の経営する「サウンドアトリエ」では、従来の日本でのGML代理店契約打ち切りに関するトラブルがあり、納品されたシステムを抱えたまま何ヶ月も待たされた挙げ句、たった1枚のFAXによって知らされた突然の来日。GMLユーザーとしては当然良いイメージを持ちようもなく、内心では「この際思い切り文句を言ってやろう」と手ぐすねをひいて待っていたのです。

ところが。9月5日に「サウンドアトリエ」に現れたジョージ・マッセンバーグ氏は、大きな機材を両手に抱え、たったひとりでやってきました。シャツとジーンズにジャケットというカジュアルないでたちで、マネージャーやアシスタントも見あたりません。

スタジオに入ったジョージ氏は、自らの手ですべてのインストール作業を行ってくれました。初日はなんと13:00〜26:30まで、夕食もとらずにミネラルウォーターだけ、次の日も朝の10:00には作業を再開するという熱心さで、「これぞプロフェッショナル!」と感動せずにはいられない集中力。

かと思えば「必要なソフトウェアを忘れてきた!」とその場で書き上げて(!)周囲を驚かせ、好物のお蕎麦を目の前に「ファンタスティック! (おいしそう!)」と両手を合わせたかと思えば、インタビューに使われたメモリー・スティック・レコーダーに目を輝かせて興奮するジョージ氏…
そのキャリアからはまったく想像できないほど気さくでラブリーな素顔をのぞかせてくれました。

私を含む我社の面々は、すっかりジョージ氏のファンになってしまいました。そういうわけで、お忙しい中時間を割いていただき、
この愛すべき偉大な「Musicman」の言葉を伝えるべく、musicman-net.comのスペシャル・インタビューが実現したのです。

インタビューはエフ・ビー・コミュニケーションズ株式会社で出前の山菜蕎麦を食べながら、とてもプライベートな雰囲気のなかで行なわれました。これまで雲の上の人だと感じられていたジョージ・マッセンバーグ氏を、少しでも身近に感じていただければ幸いです。

最後に、お忙しいにも関わらず、丁寧にインタビューに答えてくださいましたジョージ・マッセンバーグ氏、通訳としてご協力いただきましたプロメディア・オーディオ株式会社の片桐雅司氏に、この場をお借りしてお礼申し上げます。

Musicman発行人
エフ・ビー・コミュニケーションズ株式会社
代表取締役 屋代卓也

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