第135回 平山 雄一 氏 音楽評論家

インタビュー リレーインタビュー

平山 雄一 氏
平山 雄一 氏

平山 雄一 氏 音楽評論家

 今回の「Musicman’s RELAY」は元NHKディレクター湊 剛さんからのご紹介で、音楽評論家の平山雄一さんのご登場です。学生時代はバンド活動にいそしんだ平山さんは、78年より音楽評論活動を開始。J-POP創成期から音楽シーンに積極的にコミットし、観たライブは5,000本超、インタビューしたミュージシャンは2000人以上に及びます。また、原稿執筆と並行して、NHK-FM「サウンドストリート」のDJやイベント・キャスティング、コンサートのプロデュースなど、様々な角度から評論活動を展開されている平山さんにご自身のキャリアから音楽業界への提言、そして今後の活動の展望までじっくり話を伺いました。

2016年2月1日 掲載
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

プロフィール
平山 雄一(ひらやま・ゆういち)
音楽評論家


1953年1月10日東京都立川市生まれ。一橋大学社会学部卒。
1978年より音楽評論活動開始。
J-POP創成期から音楽シーンに評論家として積極的にコミットし、インタビューやライブ・ウォッチングなど徹底したフィールドワークを 行う。 これまで観 たライブは5000本を超え、インタビューしたミュージシャンは2000人以上に及ぶ。テーマを「ロックやポップスの日本化」に据え、 欧米で生まれた表現 手段がこの国ならではのスタイルを獲得していく過程を検証するために、若者の音楽に対する自己投影やカタルシスの 在り方を観察。21世紀 に入ってからは、 より広く「ロックやポップスのアジア化」の検証にテーマをシフトしようと目論んでいる。 同時に成熟した音楽ファンのためのイベント・キャスティングも手掛け、毎年、夏と冬にシリーズ・コンサートをプロデュースしている。また、2013年には音楽評論集『弱虫のロック論 GOOD CRITIC』(角川書店)を出版した。
一方、俳句にロックに通ずる詩情を感じて、年齢を重ねた世代ならではの深く簡潔な表現に魅かれて俳句作りを開始。現在、わらがみ句会代表。 俳句結社誌『鴻』でコラム「on the street」を連載中。音楽と俳句を結びつけた新境地の創出を目指している。


 

  1. 純邦楽の流れる家庭で育った幼少時代
  2. 大学現役合格はディランのおかげ
  3. 人に頭を下げるのが嫌でフリーになった
  4. 時代を変えてきた邦楽アーティストとは〜佐野元春、サザン、岡村靖幸、hide etc.
  5. アーティストを一番大事に考えられるかが大事
  6. ロックミュージシャンと俳人は生き方が似ている

 

1. 純邦楽の流れる家庭で育った幼少時代

−− 前回ご出演いただきました湊さんとの出会いはいつ頃だったんでしょうか?

平山:湊さんとの出会いはもう30年前ですね。僕は大学を23歳で卒業して、思うところがあり就職しないでいたら、雑誌『Player』で連載していた友達が留学か何かで急にアメリカに行くことになって、「編集部に話はついているから後を継いでほしい」と言われて、原稿を書いて持っていったら「お前、誰だ?」と、話なんて全然通ってなかったんですよ(笑)。

−− (笑)。

平山:でも原稿を見てもらったら「いいじゃん」と言われ、そこから仕事になっていきました。ただ、すぐには食えなかったので、今考えてみると良い経験だったなと思うんですが、阿久悠さんの事務所で阿久悠さん個人がミニコミを出していて、その編集のギャラで食い繋いでいたんです。そこで歌謡曲の世界に割と早めに触れることができて、阿久さんや三木たかしさん、都倉俊一さんなどにお会いできて、すごい経験だったなと思います。

−− 若き日に歌謡界の錚々たる方々と会っていらっしゃったんですね。

平山:ええ、もう財産ですよね。あの当時は仕事を断らずにやっていて、月60本くらい原稿を書いていたんですが、7:3で洋楽より邦楽の原稿が多くなっていった時代です。そうこうしているうちにエピック・ソニーが設立されて、日本のロックにすごく力を入れたんです。なぜかというと「親会社のCBSソニーとバッティングしないジャンルをやれ」と言われていたからなんですが、エピックの宣伝部長がNHKからラジオのパーソナリティ枠をもらっていたんですよ。普通だったら、当然エピック所属のアーティストをそこに入れますよね。でも、その宣伝部長から「平山さん、エピックの枠で入れておいたから」と言われて(笑)。その担当ディレクターが湊さんだったんですね。

−− それがNHK-FM『サウンドストリート』ですか?

平山:そうです。僕は渋谷陽一さんが辞めてから番組が終わるまでの1年ぐらいパーソナリティをやったんですが、そのときの同期が坂本龍一さんや「PSY・S」の松浦雅也さんなどそうそうたるメンバーでした。また、パーソナリティになる前から、夏休み特番なんかで、村八分とか日本のロックをかける番組を湊さんと作っていました。

−− 村八分というアーティスト名が放送禁止用語だったんですよね?(笑)

平山:そうです(笑)。「次の曲は村八分で『鼻からちょうちん』です」と紹介したら、ディレクターが飛んできて「まずい!」って言うんですよ。歌詞は全然OKなので「なんでだろう・・・?」と思ったら「バンド名が駄目なんだよ」と(笑)。ただ村八分を紹介したのは湊さんの番組じゃなかったですね。普通の音楽芸能班の番組で、湊さんだったらわかっていたと思うんですけどね。

−− その当時の湊さんは今とあまり変わらない印象ですか?

平山:まあ、昔から強気というか(笑)。でもすごくいいセンスをしているんですよね。若い人の心を掴むアーティストを見抜く。アジカンとかも早かったですね。すぐ電話かかってくるんですよ、「平山、アジカンってどういうバンドだ?」って。すごく面白い人です。

−− ここからは平山さんご自身についてお伺いしたいのですが、ご出身は東京の立川だそうですね。

平山:そうです。僕が子供の頃は立川の北側はわりと外国人タウンで、僕は南側だったんですが、家の近所に「ドミノ」というディスコがあって、そこに山口冨士夫のいたザ・ダイナマイツが出てたんですよね。もれてくる音をよく聴いてました。

−− どのようなご家庭だったんですか?

平山:父は塗装業をやっていたんですが、ものすごく音楽が好きな人でした。ただ、好きと言っても純邦楽が好きだったんですよね。都山流という尺八の先生をやっていて相当上手かったですね。

−− 尺八の先生だったんですか。

平山:本業は塗装業ですが、祖父の代に創業して、父はそういう意味では甘やかされて育ったというか、仕事は確立していたので、趣味に使う時間が多くて、うちによくお琴や三味線の方も来て演奏していました。その頃にものすごく腕のいい三味線弾きがいて、でも酒と女で身を持ち崩しちゃったんですが、月に1回ぐらい父がその人を呼ぶんですよね、飯食わせるために。その人はお酒飲むとダメになっちゃうので、飯食う前に父が三味線を弾かせるんです。その後、母の手料理を食べて酒を飲んで帰っていくんですが、その人にアーティストの原点を見たんですよね。音楽にはものすごく秀でているんだけど、ダメ人間というか(笑)。

−− (笑)。

平山:またそれを可愛がる父も面白いなと。一番印象に残っているのはその人と、東京で尺八の大会があると九州の人がよく泊まりにきていたんですが、鹿児島の人でものすごい上手な人がいて、普段父の尺八を聴き慣れているんですが、音量がその4倍くらい出るんです。繊細さみたいなところで言うと微妙なんですが、地域によって同じ尺八でもこんなに違うのかと思いましたね。

 

2. 大学現役合格はディランのおかげ

音楽評論家 平山雄一氏

−− 平山さんはお父様から尺八を習わなかったんですか?

平山:兄と弟は習ったんですが、僕はそっちじゃないなと。それでも大学からはザ・バンドのコピーバンドで楽器を始めて、自分で演奏しつつ聴いてくという感じでしたね。

−− 楽器はなにをなさっていたんですか?

平山:ギターとベースです。その頃、ザ・バンドの『ロック・オブ・エイジズ』のライナーを読んで、「音楽でものを書くのって面白いな」と思ったことを覚えています。

−− ちなみにどなたのライナーですか?

平山:松平維秋さんですね。松平さんが書いたザ・バンドについての文章が面白くて、そういう意味では憧れの人ですね。

−− 洋楽を聴き始めたのはいつ頃ですか?

平山:幼少期にラジオで「ユアヒットパレード」とか聴いていて、小学生の頃にちょうどビートルズですね。ビートルズが出てきたときは衝撃を受けましたね。

−− 洋楽を聴いている小学生は当時でも珍しかったんじゃないですか?

平山:あんまり浮いた感じでもなかったですけどね。それこそ山下達郎さんじゃないですが、「今週の洋楽ベストテン」とか書いて学校に持ってくる人いましたからね。でも最初に買ったレコードは、吉永小百合・和田弘とマヒナ・スターズの「寒い朝」です(笑)。ビートルズは『ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー』で難しいと思っちゃって、ザ・ローリング・ストーンズの方が好きになっていきました。『ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー』は今聴くとそのすごさが分かるんですが、当時はシンプルなストーンズの方がずっと好きでしたね。それで高校2年でボブ・ディランを聴いて、また衝撃を受けて。ディランを聴き始めた頃、受験勉強をしなくてはいけなかったので、例えば、日本史の本を10ページ暗記したら片面聴いていいとか、そういうことをしていました。

−− 学生時代の一番の趣味はやはり音楽を聴くことでしたか?

平山:僕は中学から国立にある桐朋に通っていたんですが、高校時代はラグビー部に入っていてラグビーもやっていました。僕らが高校のときって、団塊の世代の最後の方の時代だったので、一橋大学で学生運動をしていた奴らが桐朋にきて、職員室をバリケード封鎖したりしていました。考えてみるとめちゃくちゃな時代でしたよね。僕は岡林信康さんとかも聴いていましたし、ディランも聴いていたし、ラグビーもやりながら音楽にはまる感じでしょうか。そういう意味では豊かな高校時代だったんじゃないかなと思います。

−− 確か桐朋って男子校ですよね?

平山:そうなんですよ(笑)。国立には国立高校もありますが、あっちは共学じゃないですか? あと、国立音楽大学付属高校も第五商業も共学だったんですが、圧倒的に女子が多かった。国立音大の女の子たちはカジュアルでおしゃれな子が多くて、第五商業の女の子はセーラー服を捲し上げて自転車に乗っていたりして、どちらにも完全に圧倒されていました(笑)。

−− でもラガーマンってもてるんじゃないですか?

平山:うーん、あまりもてないですね。当時、サッカーよりは面白がられたかもしれないですけどね。当時のスポーツで言うと、圧倒的に野球だったんじゃないですかね。ラグビーは同好会から始まって、僕たちの代でクラブに昇格させてもらったくらいは頑張りました。

−− 女の子との交流は一橋大学に入られてからですか?

平山:いや、一橋に行くとさらに女がいなくて・・・(笑)。今は結構女子が増えているんですが、僕の時代だと多分、女子は5分の1もいなかったんじゃないですかね。むしろ津田塾大学の生徒と割と交流がありましたね。

−− 一橋大学にすんなり行けたということは、やはり平山さんは優秀だったんですね。

平山:いや、奇跡でしょうね。結構友達から恨まれましたもんね。一緒に遊んでいた奴らはみんな浪人したので。だから、ディランのおかげですよ。日本史の教科書を全部暗記できたのは、ディランを聴くためですから(笑)。

 

3. 人に頭を下げるのが嫌でフリーになった

−− 先ほど「思うところがあって就職しなかった」と仰っていましたが、それはどういう考えからだったんですか?

平山:うーん、やっぱり人に頭を下げるのが嫌だなということですかね(笑)。今、僕が大正大学でやっている授業というのは、「音楽の授業」というより「フリーランスの授業」をやっているんですよ。学生でフリーランスをやりたいという人にアドバイスというか。そこで教えていて気づいたんですが、人に頭を下げるのが嫌でフリーになったんですが、結局フリーってすべての人に頭下げなきゃいけないんですよね(笑)。

−− 最初は気がつかなかった?(笑)

平山:5年くらいして気がついて、「あー、こういうことなんだな」と(笑)。僕は一回も会社に入ったことがなくて、何年か前に一瞬、ある会社の平取締役になったときに、初めて自分の履歴書みたいなものを出したんですが、それまで履歴書なんて出したことがなかったですからね(笑)。考えてみれば、「頭を下げたくない」というのも生意気な話ですよね(笑)。

−− 我々もそうかもしれません・・・(笑)。

平山:あ、そうなんですね(笑)。早い話が、社長になっちゃえば良いですけどね。フリーランスはすべての人に頭を下げなくちゃいけないというのに気がついて結構ショックというか。面白かったです。

−− ちょっとロック的な生き方でもありますよね。

平山:そうですね。

−− そういう方は平山さんの世代にはいっぱいいらっしゃいましたか?

平山:結構いましたね。でも、親は怒りましたよね。やっぱり普通の路線を外れるわけじゃないですか。「どういう仕事をやっているんだ?」ということを親に説明するのも大変ですし、散々話した挙げ句に「お前はレコードを出さないのか?」とか言われて。そうじゃなくて、みたいな(笑)。

−− そして、音楽の仕事にずるずる行き始めちゃったと。

平山:ええ。先ほどお話した『Player』から始めて3年くらいで食えるようになりました。

−− ちなみにバンドはどのくらいやったんですか?

平山:大学1年のときから始めて、4年くらいのときに仲間がみんな就職していくじゃないですか。それで僕だけ別のバンドを組んで、ツアーで京都へ行ったり熊本へ行ったりするくらいのバンドだったんですが、プロになるかどうかというのは分からず、一応オーディションを受けて良いところまで行ったりはしていたんですが、そのときくらいから、もうそのバンドをやるよりも、書く方が面白くなっていたのかもしれないですね。ちなみに大学を卒業して30年目くらいに大学時代のバンドを再結成したんですよ。それは貴重な経験でしたね。一瞬であの時代に戻るというか。

−− 一瞬で戻っちゃう。

平山:そう(笑)。カラオケで昔の歌を歌うとかいう以上に、一緒に音を出した瞬間にスパッと戻れるのがすごかったです。あとバンド内のヒエラルキーも一瞬にして戻るんですよ。例えば、今、大企業で部長をやっている奴が、当時は「タバコ買ってこい」と言われるようなパシリだったりすると、それがそのまま戻っちゃったりして(笑)。

−− (笑)。

平山:バンドと恋愛ってすごく似ているなと思ったのは、バンドを再結成すると「何で解散したのか」ということを思い出すし、昔の彼女ともう一度付き合うと当時「何で別れたのか」もまた思い出すわけですよね。ただ、大人になっているから、「ここで揉めるだろうな」ということが分かるので、みんながそこで止める(笑)。まあ、歳を取って解散する必要もないんですけど(笑)。

−− 平山さんはプレイヤーとしての素養があったから『Player』で書きやすかったんじゃないですか?

平山:そうですね。横並びにスウィンギング・バッパーズの吾妻くんがいたり、『Player』はすごく面白かったですよ。ただ、原稿を書き出してから改めて譜面を読む勉強はしました。連載していたのも「アメリカン・ギター講座」というもので、例えば、エイモス・ギャレットの『ミッドナイト・アット・ザ・オアシス』のソロを、タブ譜じゃなくて五線譜にして書いたりしていたんですよ。あとはコード使いとかも相当勉強しましたね。

−− 平山さんは、ミュージシャン的な技量を持った音楽評論家のはしりかもしれないですね。

平山:そうですね。ただ、そういう先輩たちの嫌なところも見ていますからね。ミュージシャン的な技量を持っていると、どうしても「自分だったらこう弾く」みたいなことを言ってしまいがちなんですよ。「じゃあ、あなたがプロミュージシャンになれば良いじゃん」と言いたくなるというか。自分はあまりそういうのは好きじゃないので、言わないようにしていました。

あと、どれくらい難しいことをやっているかというよりは、その人がどれくらい新しいことをやっているのかをちゃんと説明できる人が書いた方が良いですよね。感覚だけではなくて、こういう音が新しいんだという。そうじゃないと、ものすごく叙情的な評論が多くなってしまいますし、僕はそういう評論はあまり好きじゃなかったですね。

−− 平山さんはどういった志で評論活動をなさっていたんですか?

平山:僕は、ロックがマニアのものではなくて、一般の中学生、高校生が聴く音楽として成り立つ現場にいるんだなということを83年くらいに感じたんですね。それで、この状況をきちんと見て、記録する人がいなければいけないなと思いました。レコード会社の宣伝部ってどうしても良い意味でウソをつくと言いますか、ミュージシャンそのものじゃないイメージを作り出して売ろうとする。それに半ば協力をしないといけない自分もいたりしました。その中で、「自分の使命は何か?」と考えたときに、できるだけフェアに情報を伝えることを心掛けました。

−− レコード会社が広告主になっている媒体がたくさんあった時代ですよね。

平山:そうです。多分日本というのは、媒体がリスナーよりも音楽業界寄りなんですよ。逆にイギリスなんかだと、完全にリスナー寄りというか、スターメイキング、スターブレイキングを平気でやるんですよね。思い切り持ち上げてスターにして、これで本が売れるじゃないですか。その後、そういう人たちのスキャンダルを暴いて、また本が売れる。レコードの売上とは関係なくビジネスしているから、音楽業界とは敵対しているんですよね。

−− 緊張感のある関係ですね。

平山:「他人のふんどしで相撲を取っていやがる」という言い方もできるんですけどね。何でそのことを知ったかというと、「ニューミュージックセミナー」というのがニューヨークで開催されていて、それにレコーディング取材にかこつけて、何年か行っていたときがあったんです。そのときに、ある教室で「ミュージックジャーナリズム」という講義を受けに行ったら、「君は何をやっているんだ?」と聞かれたので「こんな仕事をやっている」と仕事の内容を話したら、「それはパブリシストという仕事なので、こっちの講座へ行った方が良いよ」と言われました(笑)。でも、本当にその通りですよね。だから、ある意味自分は、ジャーナリストでもあるけど、ある時期はパブリシストの役割も背負っていたんだなと、海外へ行って知ることができたんです。

 

4. 時代を変えてきた邦楽アーティストとは〜佐野元春、サザン、岡村靖幸、hide etc.

音楽評論家 平山雄一氏

−− 平山さんはとにかく来た仕事は絶対に断らないそうですね。

平山:はい。音楽だけじゃなくて「なめ猫」の取材とかもやりましたものね(笑)。

−− (笑)。未だに断らないんですか?

平山:いや、今はそうでもないですね。断らないというのは、最初の5年間くらいじゃないですかね(笑)。それ以上やると、多分消耗戦になる気がして。実は谷岡ヤスジさんがそういうスタンスで仕事をやっていたので、僕も真似をしたんです。大手の少年マガジンでも、マイナーな週刊漫画ゴラクでも何でも、とにかく来た順番にやるという。すごいよなと思って。

−− 音楽評論家みたいな職業って生計が成り立つまで大変ですよね。僕は、それで飯が食えている人はすごいと尊敬していますし、平山さんも結局1度も就職せずに今日まで生きてらっしゃるわけじゃないですか。

平山:実は98年くらいに大きな境目があって、原稿料収入をその他の収入が上回るようになるんですね。それは単純に、原稿依頼の絶対量が減ったというのもありますし、他の仕事を始めたということもあるんですけどね。

−− それはテレビに出たことが大きかったんですか?

平山:いや、テレビは前からやっていました。それでも圧倒的に原稿のギャラの方が多かったんですが、90年代の半ばには「音楽評論家は絶滅危惧種になるな」と思っていたんです。78年に音楽評論家を始めて、その5年後、83年から音楽業界は右肩上がりが15年間くらい続いて、98年にCD売上のピークが来るんですが、その5年後の2003年に83年の数字に戻るんですよ。

−− 15年分の上昇が5年で元に戻るってすごいですよね。

平山:ものすごく面白い時期を経験したなと思うんですけど…(笑)。アーティストを育てる場合「こういう新しくて面白い人がいるから応援しよう」とみんなで盛り立てますが、マーケットの売上が十分に成立してしまっていると、余計なことを書く人はいらないし、余計なものも読みたくないという風潮になっていっちゃうんですよね。新人はレコード会社の力で思い切り宣伝すれば、それでリスナーに届いちゃうし、みたいなところで、もう音楽評論家は絶滅危惧種になるなと思っていたんです。

音楽の、特に雑誌メディアで言うと、一時期バンド雑誌がたくさん増えたじゃないですか。それで90年代には、例えばGLAYやLUNA SEAとか、大きいバンドが出て来て、雑誌もそこそこ売れていくんですが、やはり新人の供給ができなくなったり、売上が下がった途端にどんどん潰れていきましたよね。90年代にたくさんの音楽ライターが出てきましたが、8年後くらいにはほとんどの人が辞めていったんですよね。仕事がなくなって。だから今でも音楽評論家で食えている人は10人もいないんじゃないですかね。

−− 厳しい世界ですね・・・。

平山:音楽評論家で食えているイメージって、昔の考えで言うと、原稿料で食えていることかもしれないですが、僕も色々な仕事をしています。例えば、ホットスタッフ・プロモーションと「Ruby Tuesday」という新宿LOFTクラスのイベントと、「TUMBLING DICE」というBLITZクラスのイベントを連動させてやっていまして、イベントを始めて1年半ですが、ようやく定着してきました。若い人に見てほしいから入場料1000円でやっているイベントなんですが、その中で面白いバンドが出てくるようになってきた。そこで原稿を書いているわけではないですが、イベントを通じて新しい才能を送りだすのも、音楽評論家の仕事の1つかなと思います。

−− 平山さんは未だに年間何百本もライブを観ているんですか?

平山:そうですね、2015年は、11月末で110本ですから、130本ペースくらいじゃないですかね。もう年間250本とか観るのは無理ですね(笑)。完全に難聴ですし。僕の天敵に藤井修三さんというPAエンジニアがいるんですが、彼の音に僕の耳は絶対にやられましたね(笑)。

−− 音がでかい(笑)。

平山:そう、佐野元春とかをやっていたエンジニアで。

−− 平山さんは佐野元春さんについて「日本のロックシーンの中でエポックメイキングなアーティスト」だと書かれていますね。

平山:そう思いますね。正確に言うと、佐野さんは評論家ジェニックなミュージシャンで、その人を通して自分の意見が言いやすい。そういう意味で言うと、井上陽水さんはものすごく書きにくい。彼は歌だけで完成しちゃっているので(笑)。評論家ジェニックなミュージシャンの中でも佐野くんはとりわけ面白かったですね。

−− 平山さんの中で、時代を変えてきた日本のアーティストは、佐野元春の他だと誰になりますか?

平山:サザンが出てきたときも、それまでのバンドと完全に一線を画していましたし、言葉のリズムでいうと、岡村靖幸くんでしょうね。ミュート・ビートもすごかったと思います。彼らも他と全然違うことをやっていましたものね。あとはXのhideくん。デジタル・ロックで、あそこまで行けた人って未だにいないんじゃないかなと思います。90年代の後半になってくると、椎名林檎というとんでもない存在も出てきて、音楽性と破壊衝動の折り合いがすごく良いですよね。

−− 例えば、そこにユーミンとかは入ってこないんですか?

平山:ユーミンは僕が仕事を始める前にできあがっていた人なので、僕が語ってはいけないような気がする (笑)。当然僕もすごく影響を受けましたが、語るべき人が僕以外にいるんじゃないですかね。忌野清志郎さんなんかもきっとそうです。2000年代に入ると、サカナクションが面白いですね。山口一郎君は「みんなに分かる音楽を作るつもりはない」と結構はっきり言っていて、「本当に音楽が好きな人はコンサートに来てください」という、あの物言いというのは新しいですね。昔はそういうことを言える人がいっぱいいたんですけどね。今は自信がないのか、ケンカ売るのが下手なのか、あんまりいない。そう考えると山口一郎君はすごく面白い存在ですね。

 

5. アーティストを一番大事に考えられるかが大事

−− 2000年代に入ってから、すでに15年、ずっと音楽業界はやばいと言われ続けていますが、長年音楽業界でお仕事をされてきた立場として今、何が必要だとお考えですか?

平山:ビジネスに限って言えば、業態が変わっていくのは当たり前じゃないですか。それを素直に認めることだと思うんですけどね。分かりやすく言うと、僕が音楽業界とコミットしだして37年くらいになるんですが、最初の20年間くらいって、業界の集金役としてのレコード会社という役割があったと思うんですが、その集金役が機能しなくなったことを早くレコード会社自身が認めるべきだと思います。特に音楽評論家の立場から見ると、レコード会社が出す宣伝費がメディアを通って僕たちの原稿料になるじゃないですか。自分の収入が減ったというのは、レコード会社の集金力がなくなったということなんです。もちろん、評論家自身もメディアも新しい発信の仕方を考えなければいけないんですけど。かつては大きい予算をレコード会社が握って、戦略的に使えるという利点もあったわけですが、その時にレコード会社が儲けすぎてしまったのかもしれませんね。それで軌道修整が遅れた。

−− (笑)。

平山:自社ビルを持っているプロダクションはほとんどないのに、当時のレコード会社は結構持っていたりしたじゃないですか。でも、もうそういった時代は終わったんですよということを、それこそ10年前くらいに突きつけられているわけですからね。単純に言うと、アーティスト関連の売上があるとしたら、2000年までは3分の2がCDの売上で、後の3分の1が物販やマーチャンダイジング、CM出演料だったとすると、今って4分の1がCD、4分の1がライブのチケット収入、4分の1がライブの物販収入、その他という構造に変わっているんですよ。そこでイニシアチブを取るために、レコード会社が自社でプロダクション機能を持とうとしたり、ライブ制作の機能を持とうとしたりするんですが、そもそも発想が違うから無理があるんですよね。ライブの重要性を言いながら、いまだにCDの方が偉いと思っている。

−− うーん。

平山:あと、さっきもお話したように、83年から98年に売上がほぼ倍になって、3000億から7000億くらいまでになったんですよね。そこからまた売上がもとに戻ったわけですから、83年にいた人数に戻すべきなんですよね。その間に人が増えちゃったので。

−− レコード会社が果たしてきた最大の機能は、商社機能というか、豊富な資金を色々なベンチャーや子会社、アーティストにつぎ込んで、そのどこかで当たれば、効率良く回収して、それでまた資金投下していくみたいなことだと思うんですが、今はその資金が回収できないじゃないですか。

平山:競馬で言うと、レコード会社って恐らく20倍のオッズの博打を打っているんですよ。19個のアーティストに資金を突っ込んでも、最後の20個目が当たればリクープというか。でも、プロダクションってほとんど本命勝負というか、単勝で2倍とか3倍とかのギャンブルじゃないですか。その単勝の馬に関して、CD以外に今度はどんな商品開発をするのかという、真剣度が全く違うので。やっぱり、アーティストを一番大事に考えられるかどうかじゃないかな。

−− 例えば、ストリーミング配信についてはどういったご感想をお持ちですか?

平山:僕は“音楽のカタログ”としては賛成ですけど、同時に良い音楽を聴いてほしいんですよね。『弱虫のロック論』にも書きましたが、やはり「音育」みたいなことをやった方が良いと思っています。実際に子どもたちに美味しい物とか自然の物を食べさせて学ばせる「食育」ってあるじゃないですか。同じような教育が、音楽にもあってしかるべきだと思いますね。

−− 我々もすごく良い音楽をたくさん聴いて、楽しかった思い出があるので、それを今の若い人たちに「音楽って良いよ」って伝えていきたいですよね。

平山:ええ。あと「それが好きなら、これも聴いた方が良いよ」とかね。

−− そうですね、キュレーションというかレコメンドですよね。

平山:多分、昔はラジオがその役割を担っていたのかもしれないですけど、今はイベントかもしれないと言っているんですけどね。50人とか100人とか、対面で話せる数で、再生装置を置いて、解説しながら聞かせてたりとか。そういうことを丁寧にやっていくのが一番なのかなという話には今なっているんですけどね。それこそ湊さんなんかやりたいんじゃないですかね。昔の「サウンドストリート」のテープをみんなで聴いてみるとか。

−− なるほど。

平山:「サウンドストリート」は結構アーティストの生の言葉を聞けたじゃないですか。今はそういう番組がラジオでもなくなっていて、普通に考えるとインターネットなのかなと思うんですが、イベントという展開も多分あるんだろうなと思います。それを考えると、映画や美術も含めて、アートフェスティバルみたいなものがあったときに、音楽も小さいブースをもらってやっていくとか、結局それが一番早いような気がします。やはり対面で話すのが一番良いですよ。

−− でも、イベントだと全国津々浦々まで網羅するとなると大変な労力が要るわけですよね。

平山:それは、イベントに来てくれた人たちが、それぞれの場所に散って何かをやってくれると信じないと無理ですよね。例えば、インターネットで同じことをやろうとしても辛抱してくれないというか、みんな1曲聴くか聴かないかでそのサイトから離れていくじゃないですか。

−− ページに長く滞在してもらうには工夫が必要ですよね。

平山:逆手を取って、アマゾンとかと組むのが面白いのかもしれませんね。アマゾンとかで一番腹立つのは、例えば、井上陽水さんのアルバムを買おうとするじゃないですか。すると、「他の人は○○のアルバムも買っていますよ」と下にいっぱい出てきますよね。それは確かに、陽水さんを買った人が○○を買っているかもしれないけれど、ある種の見方からすれば、非常に迷惑なんですよね。おいおい、○○と陽水さんを一緒にするなよという(笑)。

−− (笑)。

平山:陽水さんをアマゾンで買いたいという人に、陽水さんのワンポイント何とかみたいな、短い200字くらいのコメントがついているけど、それを動画とかでやったりすると面白いですよね。陽水さんがどんな洋楽に影響を受けたかとか、誰と一緒にやっているのが面白いかとか、音楽キュレーターが動画で“アーティスト陽水”を紹介するアイテムってあるじゃないですか。そういうのが出て来たりする方が面白いかな。何が言いたいかというと、陽水さんを買いに行ったら、ちょっとジョン・レノンも買ってみようかなとなっていくようなレコメンドの仕方とかっていうのはあるかもしれないですね。

 

6. ロックミュージシャンと俳人は生き方が似ている

音楽評論家 平山雄一氏

−− 平山さんがライブで講演会みたいな、音楽を追究して喋るみたいなことって結構多いですか?

平山:年に4回くらいですかね。

−− そういうところに集まる人の年齢層とか、顔とか雰囲気はどんな感じの人たちが集まっているんですか?

平山:大学や専門学校から呼ばれたりすることが多いので、学生ですね。学生の前で授業して一番面白かったのは、「音楽の値段はいくらが妥当か」という話をして、その学生たちに、どんな形態で、いくらが妥当かというのを、一応フォーマットを作って、手を挙げさせたりしたら面白かったですね。

−− 学生の皆さんはいくらと答えたんですか?

平山:いやあ、本当にピンキリですよ。授業が終わってから学生と話すと、「僕たちが値段を決めて良いんだったら決めたいな」と言っていたんですよね。だから、タダは失礼というか、それはないだろうということはみんな理解している。そして、自分たちの生活の実情に合わせて、こんな形態でこれくらいだったら良いなという想いもあるんですね。

その授業の締めくくりは、大学を出て、もし音楽に関する仕事に就こうという気持ちがあったら、真剣に「いくらが妥当か?」ということを考えて、自分たちが決めた方が良いよという話をしました。「自分たちで決めて良いんだ」というか「決めるのは君たちでしょう」と僕は思っているんですが、「決めて良いんだ」というところから教えていかなきゃいけないんですよね。彼らの青春の過ごし方が、他人に決められた道、あらゆる場面でそういうことを強制されているから、そういうことを思わないのかもしれないですけど、「まだ全然やりようがあるな」と感じましたね。

−− 最後になりますが、平山さんの今後の目標や展望などお伺いできればと思います。

平山:音楽とは別に、俳句を30年近くやっているんです。それで何となく俳句とロックって近いなと思っていて、最近その確信が持ててきたので、それを合わせたような本が書きたいですね(笑)。

−− それは興味深いお話ですね。

平山:ロックミュージシャンと俳人って、生き方が似ているんですよ。「おくのほそ道」は、芭蕉の東北ツアーですからね。現地に行って、人を集めて俳句会やって、そこでお金を貰って、次に備えるみたいな。

−− 「おくのほそ道」は東北ツアーだったんだ(笑)。

平山:あと、生き方そのものが似ています。この間、あるストーンズ・ファンと話していて、キース・リチャーズが「ロックンロールって流浪しながらやるもんだ」って言っていたと。やっぱり定住しちゃいけないし、旅先で自分のやれることをやって、お客さんがいなかったら、いなかったなりの対価だし、たくさんいたらそれなりだしという中で作られていく音楽がロックンロールだという話を聞いたときに、あ、そうか、俳句とロックが似ているんじゃなくて、俳人とロッカーが似ているんだと気づいたんですよね。

−− いいですね〜(笑)。

平山:個人的にそういう生き方が好きなんですよね。最初の話じゃないですが、人に頭を下げるのは嫌だ、でもすべての人に下げなきゃいけないみたいな矛盾したものってありますよね。それは多分、芭蕉もすごく自分を大事にしてくれる、俳句の分かってくれる弟子のところは豪華にもてなしてくれるじゃないですか。そういう日もあれば、一人も弟子のいないところで泊まらなきゃいけないときに、馬屋を借りて寝たりするんですよ。それを嫌だと思っていないというか、それはそれで受け止めながら、旅をすることが目的なんですよね。そういうところがすごく面白いんです。

−− 芭蕉はロックだったんですね。

平山:忍者じゃなくて、あの人はロッカーだったんだと思います(笑)。吟遊詩人の多くは、豪華な家を建てるんじゃなくて、住む所を定めず、彷徨っていくじゃないですか。それにようやく気がついたというか、随分時間がかかったんですけど、本にまとめてみたいです。多分、それが『弱虫のロック論』の大人バージョンになるかなという感じですね。何も持たない社会的弱者で、表現手段しか持っていない人間がどんな対価を貰えるのか、どんな暮らしができるのか。あと、その暮らしそのものが表現にどういう影響を与えるのか、今だったら色々な例証を引いて書けそうな気がしています。

−− 本日はお忙しい中、ありがとうございました。平山さんの益々のご活躍をお祈りしております。

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