第130回 大友 良英 氏 音楽家

インタビュー リレーインタビュー

大友 良英 氏
大友 良英 氏

大友 良英 氏 音楽家

今回の「Musicman’s RELAY」は中村力丸さんからのご紹介で、音楽家 大友良英さんのご登場です。横浜に生まれ、10代は福島で過ごされた大友さんは、上京後、音楽活動を開始。ギタリスト、ターンテーブル奏者として即興&ノイズ演奏、そして自身のバンド「Ground Zero」で、国内のみならず、海外でも積極的に活動され、同時に映画・テレビドラマなど数多くの映像作品の音楽を手がけられてきました。近年は障害を持つ子どもたちとの音楽ワークショップや一般参加型のプロジェクトにも力をいれ、2011年の東日本大震災を受け福島で様々な領域で活動をする人々とともに「プロジェクトFUKUSHIMA!」を立ち上げるなど、音楽におさまらない活動でも注目されています。そして、記憶に新しい2013年『あまちゃん』の音楽で多くの人々を魅了した大友さんにたっぷりお話を伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
[2015年4月2日 / カフェ・アプレミディにて]

プロフィール
大友 良英(おおとも・よしひで)
音楽家(ギタリスト/ターンテーブル奏者/作曲家/映画音楽家/プロデューサー)


1959年横浜生れ。十代を福島市で過ごす。常に同時進行かつインディペンデントに即興演奏やノイズ的な作品からポップスに至るまで多種多様な音楽をつくり続け、その活動範囲は世界中におよぶ。映画音楽家としても数多くの映像作品の音楽を手がけ、その数は70作品を超える。
近年は「アンサンブルズ」の名のもとさまざまな人たちとのコラボレーションを軸に展示する音楽作品や特殊形態のコンサートを手がけると同時に、障害のある子どもたちとの音楽ワークショップや一般参加型のプロジェクトにも力をいれ、2011年の東日本大震災を受け福島で様々な領域で活動をする人々とともにプロジェクトFUKUSHIMA!を立ち上げるなど、音楽におさまらない活動でも注目される。
2012年、プロジェクトFUKUSHIMA ! の活動で芸術選奨文部科学大臣賞芸術振興部門を受賞、2013年には「あまちゃん」の音楽他多岐にわたる活動で東京ドラマアウォード特別賞、レコード大賞作曲賞他数多くの賞を受賞している。


 

    1. 高度成長期前夜の記憶がある最後の世代
    2. 福島への転校で味わった強烈なカルチャーショック
    3. 自分が分からないものに惹かれる癖〜シンセサイザー、ジャズ、阿部薫
    4. 師匠・高柳昌行との邂逅と決別
    5. 香港のレーベルから最初のアルバムをリリース
    6. 「この映画をよくするために」と考えたら曲が作れた
    7. 避けていた歌謡曲やストレートなジャズへの取り組み〜「音遊びの会」との出会い
    8. 自分のやっている音楽で朝ドラをやりたい〜『あまちゃん』が生まれるまで
    9. 試行錯誤を続けた「プロジェクトFUKUSHIMA!」の4年間
    10. もう一度、誰でもアクセスできる音楽を作っていく

 

1. 高度成長期前夜の記憶がある最後の世代

−−中村力丸さんとお知り合いになったきっかけは何だったんですか?

大友:力丸さんと出会ったのは、10年くらい前だと思います。歌手のさがゆきさんという方がいらっしゃって、さがさんは中村八大さんと最後の頃、仕事していた方なんですが、そのさがさんが中村八大さんの曲を歌うアルバムのプロデュースをしてほしいという依頼があり、その際に楽曲使用の許可を頂く中で力丸さんとお会いしました。その頃、力丸さんはフジパシフィック音楽出版(現 フジパシフィックミュージック)に勤めていらっしゃったんですが、驚くべきことに、力丸さんの隣の席に僕の高校時代の音楽仲間がいたんですよ。

−−それはどなたですか?

大友:桑原(聡)君という人で、今は部長さんをやっているのかな。それで桑原君は力丸さんの上司だったので、話がトントン拍子に進んで。そんな出会いでした。最初、八大さん関係の方なのでこっちもドキドキしていたんですが、桑原君がいたおかげで、ちょっとホッとしました(笑)。

それでアルバムが出来上がって、コンサートをやり、そのプロジェクトは一旦終わって、しばらく間が空いていたんですよ。僕としてはそう気軽に声をかけられる方ではないので、「いつか機会があったら…」と思っていたんですが、一昨年くらいに力丸さんの方から声を掛けていただいて、来年やる中村八大さんの企画の相談に乗って欲しいということで、その辺りからまた頻繁にお会いするようになりました。

−−やはり中村八大さんの存在は大友さんにとっても大きいですか?

大友:そうですね。「上を向いて歩こう」が発売されたときは、まだ小さかったので覚えてないですが、八大さんの歌は小さい頃よく口ずさんでいましたし、坂本九さんがとにかく大好きでした。僕は昭和34年生まれ、高度成長期前夜の記憶がある最後の世代ですが、物心つく頃は坂本九さんの全盛期でしたから。

−−お生まれはどちらですか?

大友:横浜です。当時できたばかりの団地で生まれたんですが、そこは四畳半と六畳とお風呂がついていて、若い夫婦が住む想定で作られた団地で、親はそこの抽選に当たって嬉しかったと言っていました。母方の実家が横浜の杉田にあったんですが、週末になるとそこに親戚や近所の人たちが集まって、宴会になるんですね。そのときにみんなで歌うのが坂本九さんやクレイジーキャッツの曲で、「シャボン玉ホリデー」や「夢で遭いましょう」をみんなで観るんです。

−−大友さんの音楽の原体験でしょうか。

大友:いまだに一番幸せな記憶がそれですよね。最近ドラマとかで昭和30年代の下町の風景が描かれますけど、まさにそういった感じでしたね。近所のお兄ちゃんがエレキギターを買って「不良」と呼ばれているとか(笑)。そんな世界ですよね。

−−大友さんのお父様は電気屋さんだったそうですね。

大友:正式には電気の技師だったんです。工場に勤めていて。うちにあるラジオやオーディオとか全部親父の自作で、テレビも自作でした。

−−テレビも自作ですか。凄いですね。

大友:親父に話を聞いたら、東芝とか大きな会社がテレビを作り出す前に、個人で小さいテレビを作る人がいっぱいいたそうなんです。親父もテレビを作って、一台売れたら一ヶ月暮らせたと言っていました。でも、大手企業がテレビを売り出したら、あっという間に立ちゆかなくなったので、工場勤めになったそうです。とにかくなんでも作っちゃう親父でしたね。最近、実家に帰ったら玄関に監視カメラがついていて、「どうしたの?」って訊くと、「作った」と言っていました。

−−お父様は今おいくつですか?

大友:86歳かな。その作業がプロの技なんですよ。丁寧な仕上げで。そういう親父のもとで育ったので、僕も小学校の後半くらいにはラジオを作るようになっていました。だから中学校のときはエンジニアに憧れて、それこそスタジオで働きたいと思っていました。

 

2. 福島への転校で味わった強烈なカルチャーショック

−−福島へはおいくつのときに引っ越されたんですか?

大友:小学校3年ですね。

−−それはお父様のお仕事の都合ですか?

大友:ええ。父親が勤める会社の新しい工場が福島にできて、父親はその工場の工場長になったんですね。1968年に父親が工場長として福島へ行って、高度成長期、東京の人間がたくさん地方へ行った中のひとりとして、僕も福島の学校へ転校したんです。

−−やはりカルチャーショックはありましたか?

大友:もちろん。それがなかったら音楽はやっていなかったと思います。当時、福島と東京は結構文化が違っていて、今考えると僕は田舎もそこに住む人たちもどこかで小馬鹿にしていたんだと思います。着ている服も髪型も「露骨に違うな」って思ったんですよ。別に僕がオシャレだったわけじゃないんですが、当時横浜の子が着ていた服と福島の小学生では全然違っていました。クラスのみんなは都会から転校生が来たっていうんで一斉にいじめる。で、僕は僕で、田舎を嫌っていているから、それが伝わって向こうはますますむかつくじゃないですか。今考えたら、都会から本当に嫌なガキが転校してきたんですよ。「なんだあいつ。むかつく」ってなるのは当然ですよね。

横浜にいる頃は割とクラスの中心的存在というか、みんなと楽しくやっていたのが、福島では急にマイナーな存在になって。友だちを作るのがどんなに大変かという経験をそこでして、家からあんまり出なくなって、結果ラジオを良く聴くようになったんです。それが音楽に深く入っていくきっかけになりました。

−−ずっと横浜にいたら、また違った人生を歩まれていたかもしれないですよね。

大友:たぶん、そうだったと思います。音楽は好きだったですけど、横浜にいた頃、「音楽をやろう」という強い気持ちは全くなかったですから、多分、違う人生だったんじゃないかなあ…(笑)。

−−(笑)。

大友:ラジオって夜になると東京から電波が入ってくるじゃないですか。横浜に帰りたかった僕は、東京から聴こえる電波に憧れたんでしょうね。しかも深夜放送ですから、ポップス、歌謡曲だけじゃなく、ロックとかが流れてきて、そこから音楽にどんどんのめりこんでいきました。

−−家に籠もって音楽に没頭されたわけですね。

大友:ただ、僕は家に籠もっていた記憶があるんですが、当時の友達に聞くと「全然そんなんじゃなかった。お前は学校で本当にうるさかった」って言われるんですけどね(笑)。

−−ご本人の記憶と周りの記憶がずいぶん食い違っていますね(笑)。

大友:本人の記憶だといじめられて家に籠もっていたんですけどね(笑)。でも、実際は結構騒がしいウザったい子だったみたいです。自分でも嫌になります。ただ福島に転校してからは、人との距離について本当によく考えるようになりましたね。それまでそんなことを考えたことなかったですけど。あと、方言も大きかったですね。今でも方言の差ってありますけど、当時はすごく強かったんです。僕1人だけ福島弁のネイティブじゃないでしょう? そういうことがものすごく気になっちゃって、あんまりしゃべりたくなかったです。癖で「なんとかじゃん」って言うと、「あ!”じゃん”って言ってる!」と言われ、福島弁をがんばって真似したら「違う」と言われ。弟は僕より3つ下なんですが、自然と福島弁になっていったのに、僕は福島弁も横浜弁も中途半端な感じが今でもありますね。

−−弟さんがいらっしゃるんですか。

大友:ええ。2人います。弟は父親と似た道というか、車のエンジニアになって。2人とも今はフランスに住んで、ヴィンテージカーの部品をつくったり修理をしています。

−−マニアックなご兄弟ですね。

大友:そうなんですよね。そっちの世界では弟たちは有名らしいんですが、僕は全然車のことを知らないですから。本当にそうですね、マニアックな兄弟で(笑)。

 

3. 自分が分からないものに惹かれる癖〜シンセサイザー、ジャズ、阿部薫

第130回 大友 良英 氏 音楽家

−−大友さんは中学時代にシンセサイザーを作ったそうですね。

大友:中学2年のときに作りました。シンセサイザーの、今まで聴いたことのないような音に凄く憧れたんですよね。だから最初はギターじゃなくて、シンセサイザーが欲しかったんですけど、1973年当時に出たミニムーグは80万とかものすごく高くて、中学生がバイトをして買えるような値段では全然ないですし、当時、福島の楽器屋さんにはシンセサイザーを置いてなかったんですよね。で、「初歩のラジオ」という雑誌に、簡単なシンセサイザーの作り方という記事が出ていて、要は発信器なんですけど、それを鍵盤に12個つなげて作りました。完成したときに「これで俺、中学でモテるだろうな!」と思って、学校に持って行ったんですけど、全然相手にされなくて。

−−「何それ?」っていう感じでしょうか。

大友:「曲を弾いて」って言われて、ビューッって音を出したら、「何だ、それ」って言われて…「駄目だ、モテないな」って思った記憶があります(笑)。そのときにさっきお話したフジパシフィック音楽出版の桑原君が別のクラスでバンドを始めたんですよ。で、女の子がキャーキャー言うのを見て、うらやましくて。「シンセサイザーじゃ駄目だな」と思って、ギターが欲しくなったんですよね。

−−やっぱりギターか、と(笑)。

大友:でも細かいことを言うと、最初はベースだったんですよ。ギターを触ってみたんですけど「難しそうだな」と思って。ベースは弦が4本ですし、低音がブイブイいうのがかっこいいと思って、ベースを買いました。でも、買ったばかりでバンドには入れないですし、1人でベースを鳴らしていてもつまらなくて、高校に入った頃にギターを買いました。

−−高校で初めてバンドを組まれたんですか?

大友:そうですね。高校には軽音学部とジャズ研があって、軽音学部はロック、ジャズ研はジャズをやっていたんですが、僕はジャズ研の方に入りました。なぜかというと軽音楽部はギターを弾く人がいっぱいいて、でもギターアンプは2台しかなかったので、ギターアンプに到達できないなと思ったんですよね。でも、ジャズ研はギターがいなかったので、「ジャズ研に入ってロックやればいいや」と思って (笑)。それでバンドをやり出して。

−−すごく現実的な選択をされたんですね。

大友:いや、単にセコいだけですよ(笑)。とにかくギターアンプで音を出したかったんですよね。それでジャズ研に入って、ロックをやろうと思っていたんですが、先輩に面白い人たちがいて、その人たちに感化されて結局ジャズをやり出すことになりました。僕らの世代だとジャズってちょっと古めかしくて、ロックの方が新しかったので、最初は「ジャズ?」って思っていたんですが、当時、福島にはジャズ喫茶が何軒かあって、背伸びしてジャズ喫茶に通ううちに、だんだんジャズが好きになっていきました。あとジャズ喫茶の企画でよくライブをやっていて、当時フリージャズの伝説のサックス・プレーヤーだった阿部薫さんが、福島のパスタンというジャズ喫茶に毎月のように来て演奏をしていたのを生で観られたのが大きかったですね。それで高校の終わりくらいには、いきなりフリージャズが好きになって。

−−音楽的には早熟な少年ですよね。

大友:早熟というか背伸びしていたんだと思います。人の分からないものを分かっているのは格好良いみたいな感じで。自分が分かるものより、分からないものの方についつい惹かれる癖があったと思います。

−−分かりやすい所にはあんまり行きたくない?

大友:うん。分かりやすいのを聴いていると「チャラい」とか、ちょっと馬鹿にしたりしてました(笑)。「そんなのはコマーシャルだ」って言ったりして、今考えるとすごく恥ずかしいけど(笑)。

−−若き日の大友さんは、ややへそ曲がりだったんでしょうか?(笑)

大友:ややじゃなくて完全にへそ曲がりですよ(笑)。ジャズ喫茶にはそういう傾向を持った子が集まってくるものだから、競争になるんですよね。「アイツあんなの聴いている」みたいな。インターネットのない時代だったので、情報を仕入れるのにも、そこそこスキルが必要だったんです。あと当時のジャズ喫茶にはミニコミやアングラな漫画が置いてあったので、僕らにとってみれば、福島から東京の都会を覗く窓というか、今のインターネットの代わりだったんだと思うんですよね。それで僕が浪人していた頃に阿部薫さんが死んじゃうんですよ。それが結構ショックで。

−−何で亡くなったんですか?

大友:ドラッグです。映画(「エンドレス・ワルツ」)にもなっていますが、睡眠薬を何十錠だか飲んで死んだから自殺みたいなものですよね。当時のパスタンには珍しくビデオがあったんですよ。なので、阿部薫さん追悼のときにライブの映像をビデオでずっと流していて、今でもそのビデオは残っていますが、客席に高校生の僕が映っているんですよ。そのビデオを阿部薫さんが死んだ後も何度も観たりしているうちに、いつの間にか「自分もこういう世界でやりたいな」と思うようになったんです。

−−もう浪人の頃にはそう思っていたんですね。

大友:ええ。その頃にプロになるにはどうしていいか分かんなくて、地元のキャバレーで「ギタリスト募集」って張り紙を見て行った事があるんです。下手くそだったので一ヶ月でクビになりましたけどね(笑)。

 

4. 師匠・高柳昌行との邂逅と決別

−−その後、大学に入学するために上京されるわけですが、やはり音楽活動が念頭にあったんですか?

大友:そりゃもう音楽活動です。でも親にミュージシャンになりたいとは言えないですし、あと自信が無かったです。ギターだってそんな上手くなかったですしね。

−−大友さんのお師匠さんである高柳昌行さんとはどのように出会われたんですか?

大友:当時、日本で一番難しいことを言っているジャズギタリストが高柳さんで、当然その文章も読んでいて、おっかないと思っていたんですけど、なぜか惹かれちゃうんですよ(笑)。実際、東京に来てライブを観ると凄いんですよ、訳分からないノイズを出していて。しかも客席には10人くらいしかお客さんがいなくて、その中に見たことのある顔がたくさんいるんです。それこそ殿山泰司さんが座っていたり、ジャズ評論家の副島輝人さんや清水俊彦さんが座っている。僕からしたら憧れの人達が客席にいて、ステージにも憧れの人がいて、もう本当にその場にいるだけで「うわぁ」って感じでした。だから自分の実力のことは差し置いて、本当にプロになりたいと思っているんだったら、一番ハードルが高そうな所へ行こうと思って、高柳さんのご自宅を電話帳で調べて、電話しました。当時は高柳さんだけじゃなくて、日野皓正さんや渡辺貞夫さんの家まで電話帳に出ていたんですよね。

−−恵比寿にあったヤマハのジャズスクールみたいな所じゃなくて、直接連絡されたんですね。確か高柳さんはヤマハで先生をされていましたよね。

大友:ええ。僕より5つくらい上の方はヤマハに通っていて、ちょうど僕が電話した頃はヤマハを辞められていたんです。なので、直接習いに行こうと思ったら「ミューズ音楽院でこれから教室を開くからそっちに来い」と言われて、通い出しました。ミューズ音楽院の生徒になったわけではなくて、週一回特別クラスをやるっていうので、そこに通って習い出したのが1980年ですね。

−−その後、高柳さんの付き人をされますね。

大友:ミューズ音楽院に通い出してすぐに高柳さんは病気で倒れて、半年くらい入院されたので、レッスンを1〜2回受けただけでブランクが空いちゃったんですよね。で、復活されたときにアシスタントがいないと動けない体になられていて、最初のうちは違う方がアシスタントをされていたんですが、習いに来ていた中で車の運転ができて、音楽に詳しくて生意気な奴がいると僕に白羽の矢が立ったんです。あと、僕は電気に詳しかったので、エレクトロニクスのリペアができたのも大きかったです。当時、高柳さんはギターだけじゃなくて色々なエレクトロニクスを使いだしていて、それをちゃんと分かってくれるアシスタントが欲しかったと思うんですよね。

−−そう考えると大友さんは適任ですね。

大友:一緒にやってみたら「コイツ電気に詳しいな」と。それで高柳さんと秋葉原に通うようになって、色んな機材を買ってきては組み合わせて、晩年の高柳さんの機械を作ったり、1984〜5年の2年間は本当にずっと一緒にいる感じでした。そのときにいわゆるボーヤをやりながら、音楽的基礎を作っていった感じですかね。

−−それは貴重な体験でしたでしょうね。

大友:本当に貴重な体験でしたね。毎日のように一緒にいて、高柳さんはこうやって音楽を作っていくんだっていうのを間近で見ていたわけですから。ただ、高柳さんとは1986年くらいから揉め出すんですよ。高柳教本というのが6巻くらいまであるんですが、2巻が終わるまではライブはやるなとずっと言われていたんですね。僕は2巻をとっくに終えて3巻目まで行っていたので、ライブをやっていいだろうと思っていたんですが、何か「ライブやっている」って言うと怒られそうな雰囲気だったので内緒でやっていたんですよ。そうしたら雑誌『ジャズ批評』に僕のライブ評が小さく出ちゃって、それを読んだ高柳さんから「お前ライブやっているのか?」と。僕も若かったから跳ね返って、それで関係が拗れちゃったんです。

−−何でライブをやってはいけなかったんですか? まだ早いってことですか?

大友:うん。「お前はまだまだだ」っていうことですよね。最初「2巻が終わるまでやるな」って言っていたのが、いつの間にか「4巻が終わるまで」になって、何か言っていることが違うじゃんみたいな。で、ある日突然バッハの難しい譜面を持ってきて「初見で弾け」って言うんですよ。弾けるわけがないのは百も承知で持ってきて、「これ弾けなかったら、もう一回1巻からやり直せ。そうしたら俺の所に置いてやる」って言われて、本気で跳ね返っちゃったんです。

−−それは理不尽な要求ですね。

大友:いや、いや、でも今考えるとなんですけど、高柳さんはすごく僕のことをかわいがっていて、手元に置いておきたかったのに、よそでライブをやったり、僕は自分のリズム感を鍛えたいと思ってブラジル人にサンバを習いにいっていたんですが、そういうのが気に食わなかったんですよ。

−−高柳さんはちょっと昔気質の方だったんでしょうか?

大友:はい、もうばきばきの江戸っ子みたいな人で。他の人に習ったりとか、そういうことも嫌だったのかもしれません。僕自身も、そういう気持ちに対して無神経きわまりない行動をとってたんです。ジョン・ゾーンというアバンギャルドの世界では飛ぶ鳥を落とす勢いのミュージシャンがいたんですが、彼は当時、高円寺に住んでいたので仲良くしていたら、それも気に食わなかったみたいで、ある日、呼びつけられて「お前、最近外人と仲良くしてんな」って言われたり。

−−外人って…(笑)。

大友:いやいやいや…みたいな(笑)。それで大喧嘩になりました。今になると高柳さんの気持ちも本当によく分かるんですけどね。でも当時は僕も真剣だったので、飛び出すときに高柳さんの名前を利用して世に出たって絶対思われたくないなって思ったので、高柳さんとのことは言うまいと心に決めました。でも今考えたら高柳さんの名前を出そうが出すまいが、たいして変わらないと思うんですけどね(笑)。

なのでしばらく、高柳さんのことには本当に触れずに来たんですが、去年、評論家の副島輝人さんのお葬式に行ったときに、高柳さんの奥さんと22年ぶりに再会して、当時のことを色々謝りつつお話をさせていただいたんですよ。そうしたら奥さんが「家に高柳のギターがあるんですけど、使いますか?」と、当時高柳さんが使っていたGibsonのES-175というもの凄く良いギターを譲って頂いて…本当に嬉しくて泣きましたね。

−−素晴らしいエピソードですね。

大友:いや、号泣しました。今頃、高柳さんは苦虫を噛み潰したような顔で「何でお前が俺のギターを弾いているんだよ」って言ってそうですけど…でも本当に感謝してるんです(笑)。本当に沢山のことを学びましたから。

−−(笑)。高柳さんも天国で反省されているかもしれませんよ。

大友:いや、いや、そんなことは絶対にないです(笑)。オレも相当悪かったですから。「大友の野郎…」って言っているのは想像つくんですけどね。でも、半分笑いながら言っていくれたらいいなって思ってます。ただ、実際には、仲直りできずに高柳さんは亡くなっちゃったので、それもあって「もうこの話は絶対に言うまい」と思っていたんですが、さすがに今となっては周りの人はみんな知っている話ですし、隠すのも変なので、聞かれたら言うようにしています。

 

5. 香港のレーベルから最初のアルバムをリリース

第130回 大友 良英 氏 音楽家

−−キャリアのスタートはどのような感じだったんですか?

大友:高柳さんのところにいる頃から、個人名義で色んなセッションに参加したり、誰かのバンドに加わったりしていました。

−−もうノイズを始めていましたか?

大友:そうですね。もうその頃は普通の音楽はやってなくて、即興演奏とか、ノイズとか、そんなのばっかりですね。その当時、僕は普通にギターを弾いてなくて、エレクトロニクスやターンテーブルを使ったり、ギターもノイズしか出ないように改造したギターを演奏していました。

−−私が大友さんのお名前を聞く様になったのは90年頃だったと思います。

大友:その頃くらいになるとライブハウスが結構満員になるようになっていました。とはいえ、それで食えるわけもないですし、あとやっぱり憧れている人たちって海外の人が多かったので、90年代に入ったあたりから、日本以外での活動がどんどん増えていきました。

−−積極的に海外へ出て行った?

大友:行きましたね。もうひとつのきっかけはやっぱり日本にいると高柳さんの影響で出られないライブハウスがあったりと、色々面倒臭かったんですよ。何でそんな事に気を回さないといけないんだと。じゃあ日本以外でやればいいやと思ったのが一番大きかったです。それで最初のうちは自腹で海外へ行っていました。

−−最初はどこへ行かれましたか?

大友:ロンドンとニューヨークでしたね。ロンドン、ベルリン、ニューヨークって分かりやすいですけどね。それ以前に日本に来日したミュージシャンたちに、「いついつにベルリン行くからライブやれないか?」と郵便やFAXを送って、向こうも気軽にライブを組んでくれて。

−−直接ミュージシャンのルートでライブをブッキングしていったと。最初の海外ツアーのお客さんの入りはどうだったんですか?

大友:無名ですから最初は大変でしたけど、それでも日本からミュージシャンが来るというだけで、結構観に来てくれたり、ジョン・ゾーンの企画だと人が入ったりしました。一回目はそんな感じでしたけど、その後、香港から自分の最初のアルバムが出るんですよ。

−−どのようなきっかけで香港からのリリースになったんですか?

大友: 80年代の終わりぐらいから香港にも頻繁に行っていたんですよ。当時結婚していた相手が留学で香港に行っていて、どうせ行くなら香港の人たちとも一緒にやろうと思っていたら、向こうの雑誌に”地下音楽”とか”雑音音楽”という字が出ていて「これだ!」と。それでライブに行って香港のミュージシャンと仲良くなって、向こうでもライブをやり始めました。そうこうしているうちに香港でノイズ系のレーベルが初めて立ち上がって、そこから声がかかったんです。

香港って1都市1国家みたいな感じじゃないですか。だから香港の中で売ることをあまり考えてなくて、最初から輸出することしか考えていなかったので、そこが日本のレコード会社と全然違うところでした。そのCDが香港から出たってことは、アメリカでもイギリスでも流通したんですよ。それがたぶん大きかったと思います。それでイギリスの『WIRE』という雑誌に取り上げられたりして、当時はまだ日本人でアバンギャルドミュージックをやっている人はあまり知られてなかったので、向こうのキュレーターや音楽イベントを企画している人からどんどん連絡がきて、あっという間に海外での仕事が増えました。

−−香港でのリリースが結果的に世界へ繋がっていったと。

大友:だと思いますね。あとジョン・ゾーンが呼んでくれたり、色んな状況が平行して起こっていたんですが、香港でCDが出たことは大きいと思います。

−−ちなみに大友さんは英語など、コミュニケーションは問題なかったんですか?

大友:最初は全然駄目でした。高柳さんのところにいた頃、海外から来るミュージシャンのコンサートに行って、やっぱり色々知りたいから話しかけても全然通じなくて、そのとき初めて英語の勉強をしました。中学の英語の教科書を買ってきて、そこからやりなおしました。

−−必要に迫られないとなかなか勉強しないですよね。

大友:もっと早くからやっておけばよかったと思いましたけどね(笑)。現場叩き上げのインチキ英語ですが、英語でしゃべると、福島弁とか気にしないでいいじゃないですか? ただの「英語の下手な日本人」になれるから、すごいラクだと思ったんですよ。やっと福島の呪縛というか、コンプレックスというか、そこから逃れられると。

−−大友さんはもともとグローバルな感覚をお持ちだったんじゃないですか?

大友:いやぁ、ドメスティックで上手くいかなくて。英語だとみんななまっているじゃないですか? インドなまり、中国なまり、ヨーロッパに行けば英語ネイティブはイギリスだけで、あとはみんななまっていますから、すごい気持ちがラクになりましたね。片言の言葉の世界の中にいて、日本人ってアイデンティティすらあまり必要ないわけで、一人の音楽家ってだけでいれたのは、本当に楽でした。

−−世界に出たら居心地がよくなったというのがいいですね。

大友:しかも、海外に出て、音楽で食えるようになったっていうのが嬉しかったですね。認められたなって。

−−その「音楽で食えるようになった」のはいつ頃ですか?

大友:1993年、32歳のときです。それまでは音楽の収入もあったけど、バイトもしていたんですよ。

−−ちなみに「絶対に音楽で食えるようになるぞ」という強い信念はあったんですか?

大友:ないない(笑)。僕のやっている音楽はノイズですよ?(笑) ポップスをやっていたら「いつかは…」って思ったかもしれないですけどね。

−−でも、そのノイズで食えるようになったんですから凄いですよね。

大友:食えるようになるなんて思わないですよ。周りを見ていてもノイズで食っている人なんていないですから。高柳さんでさえ、アバンギャルドな音楽では食えないから、ジャズをやったり、生徒に教えて食っていたわけで。ただ、80年代はバブルだったので、バイトの収入がいっぱいありました。月に15日も働けばラクに食えたので、人生を舐めていましたね(笑)。それで93年ぐらいから少しずつ映画の音楽をやるようになってきて、最終的には、映画やテレビの劇伴が収入源になっていくわけです。

 

6. 「この映画をよくするために」と考えたら曲が作れた

第130回 大友 良英 氏 音楽家

−−劇伴のお仕事は何がきっかけで始められたんですか?

大友:これも実は香港なんです。香港にしょっちゅう行っていたときに、当時の奥さんが学校の傍らでバイトしていたのが映画の配給会社で、そこから田壮壮という中国ですごく有名な監督の作品『青い凧』の音楽の話がきたんです。もともとこの映画をカンヌ映画祭に出す話があったんですが、文化大革命のことを扱っている映画なので、中国政府が制作を禁止しちゃったんです。そこで、彼女がバイトしている香港の映画配給会社のプロデューサーのシュウケイって人が、その映画を日本に持ち出して、日本制作にしてカンヌに出すという作戦を考えたんですが、お金が全然ないですから、誰か音楽を仕上げられる知り合いはいないか?と探していたら、自分のところのバイトの旦那が音楽家でノイズをやっていると。「ノイズってなんだかわからないけど、面白そうだからこいつにやらせよう」ということになって、僕に話が来たんです。

−−ノイズで知られている大友さんが、なぜ劇伴を依頼されるようになったんだろう…? とずっと疑問に思っていました。

大友:そうですよね(笑)。のちにシュウケイに同じ事を聞いたんですよ。そうしたら「大友の音楽を聴いたときはギャーギャーいっているだけでわけわからなかったけど、音楽やっている以上は何かできるだろうと思った」と(笑)。

−−(笑)。

大友:お金がなかったのも大きいけど、「こんな音楽やっている人にやらせたら、面白いものが出るかもしれないと思った」と言っていました。僕は映画が好きで、その人と映画の話はよくしていたので、「きっと映画にとっていいことをやってくれると思ったんだよ」って言ってくれて。

−−『青い凧』にはどんな音楽をつけたんですか?

大友:『青い凧』はある家族が文化大革命に翻弄される物語で、その映画を観たときに、さすがにノイズをつける映画じゃないなと思いました。それで子供が主人公だったので、童謡みたいな曲を作って、予算がないのでマンドリンとピアノ、打楽器のアコースティック編成で短い音楽をつけていきました。いくらノイズをやっているといっても、ギターは習っていましたし、ハーモニーも知っていましたし、一応譜面も書けるので(笑)。僕はそこで初めてメロディーを書いたんですよね。

−−依頼されて初めて作曲をしたんですね。

大友:作曲家になろうって気持ちはなかったですし、でも「この映画をよくするために」と考えたら曲が作れたんです。現在まで80〜90本テレビや映画の音楽をやっていますが、最初の作品の『青い凧』の音楽にはいまだに勝てない気がしているんです。自分でもそのくらいのものが作れたと思います。音楽をやっていてギターも上手くならないし、本当に才能ないなと思っていたんですが、そのときに初めて「メロディー書けるんだ」と気づくことができたんですよね。

−−元奥さんに感謝しないといけないですね(笑)。

大友:そうなんですよ(笑)。『青い凧』はカンヌ映画祭で上映されて評判になりました。中国政府が映画祭をボイコットしたことがスキャンダルになって、更に宣伝効果が生まれたので、中国政府にも感謝しないといけないんですけどね(笑)。その映画の中で音響と音楽部門だけが日本人が仕上げたことになっていて、日本の映画界の中で「大友って誰だ?」という話になり、その後、相米慎二監督など日本人の監督たちが声をかけてくれるようになりました。中国映画からもそれ以降話がきて、香港の映画業界が傾いちゃうまでの間、3年間で7本ほど音楽を作りました。ただ、映画も最初はきちんとした契約の方法を知らなくて、『青い凧』はカンヌまで出たのに、著作権使用料とか全然入って来なかったです。権利関係もよくわかんなくなっちゃって。

−−特に中国はわかりづらそうですよね。

大友:わかりづらい。間に入ってくれたプロデューサーも、コントロールできないくらいわけがわからない状態で、今は再発もできなくなっていて。YouTubeには上がっていますけどね。

−−経済的な成功は、その一作目ではもたらされなかった?

大友:全然。今でも覚えていますけど、制作費30万円ですから。本当にお金がなかったんですが、30万円でなぜできたかといったら、それまでノイズをやっていて、それこそこれまでも友人のスタジオや自宅で全部録音していた経験があったんで、逆に30万も出たらいい録音が出来るっておもったくらいです。実際はGOK SOUNDというインディペンデントのスタジオを使って素晴らしい録音が出来ました。

 

7. 避けていた歌謡曲やストレートなジャズへの取り組み〜「音遊びの会」との出会い

−−ノイズや即興演奏、映画音楽、そしてご自身のバンド Ground Zeroでの活動もありましたよね。

大友:ええ。バンドで食えるわけでは決してないですが、メンバーたちもみんな面白がってくれて、ヨーロッパやアメリカをずいぶん回っていました。今考えるとほんと楽しかったですね。色んなところへ行けて、美味しいものを食べられて、いい思いしてお金も入って。イソップ童話の「アリとキリギリス」で言えばキリギリスですよ。

−−いやいや、そんなことはないでしょう(笑)。

大友:Ground Zeroは自分のメインのバンドでしたけど、98年くらいになんとなく音楽的に行き詰まっちゃって解散しました。解散した39歳頃、人生最初で最後だと思いたいですけど、スランプみたいになっちゃったんです。それまで楽しくやれていたし、ものすごく思い上がっていたと思うんですよ。ヨーロッパやアメリカで注目されて、向こうの音楽雑誌の表紙とかにもなって、お金もそこそこ入ったりして。日本ではそんなに知られてなかったですけど、たぶん思い上がっていた。だけど、あるとき自分の演奏が本当に嫌になっちゃったんです。毎日演奏して移動しているじゃないですか? 繰り返しているだけに思えてきて。ノイズとか即興って一度しかできないから面白かったのに、「こうやるとウケる」というパターンがいつの間にかできあがってしまって、それをやってウケてっていうのが何もかも嫌になってしまって。

−−ご自身の中でマンネリになってしまったと。

大友:それと同時に体もちょっと疲れてきていて、それで一回全部やめたくなったのが98年ですね。

−−スランプもあったかもしれませんが、そこから色々なプロジェクトを立ち上げていきましたよね。

大友:そこから先の方が結局面白いというか、それまでは若造が単にいきがっていただけなんですよね。バンドの解散で今まで自分でやっていたノイズだけじゃない音楽がいっぱい見えてきました。一つは山下毅雄さんという、60年代にテレビ音楽を多く作られた方なんですが、『七人の刑事』や『時間ですよ』『ルパン三世』『ジャイアントロボ』とか、その人の音源を発掘するということをそのときやっていて、「僕は子供の頃どんな音楽を聴いていたんだろう?」ともう一回自分の過去を振り返る作業をしたんですね。なんでそんなことをしたかというと、ヨーロッパとかに行くと、「禅の影響は受けていますか?」とか「能や歌舞伎の影響は受けていますか?」とか必ず聞かれるんですよ。そんな影響あるわけないじゃないですか。お寺の息子じゃないですし。

−−そこで自分のルーツとはなんなのかを再確認したくなった?

大友:日本で生まれ育って歌舞伎のルーツがあったら、そりゃかっこいいかもしれないですけど、一般人ですし、仏教徒でもないですから。その度に、ヨーロッパの人たちの日本に対する偏見も感じたんですけど、同時に「そういえばどんな音楽を聴いていたんだろう?」って考えていくと、坂本九やクレイジーキャッツだったりするわけですよ。

−−テレビの音楽ですね。

大友:あと映画もそうですけど、バンドを解散してちょうど時間もできたので、山下毅雄さんの音源発掘を手伝ったりする中で、こういうことをやってみたいなって強く思うようになって、『山下毅雄を斬る』という山下毅雄さんの曲を僕がリメイクしたアルバムを作るんです。そのときまだ山下毅雄さんはご存命でしたので、実際にお会いして色々お話を聞いたりする中で、これまで自分が避けてきた歌謡曲やストレートなジャズも、自分流のやり方だったらできるかもしれないと思って、やりだしたんですね。もちろん、平行して即興やノイズもやっているんですが、そこで一つ自分の幅が大きく広がったと思います。20代の頃、全然弾けなかったギターを久しぶりに弾いてみたら、決して上手に弾けるわけじゃないですが、必要最低限のことはできるなと。あと、これだけキャリア積んで色々やっているので、いつの間にかハーモニーやアレンジのこともなんとなくできるようになっていて、そういった音楽が面白くなってきたのは大きかったですね。

ちょうどその頃、神戸で知的障害を持つ子供たちと一緒に音楽をやるグループ「音遊びの会」から声がかかったんですよ。それを受けてやってみて、最初は大変だったんですが、それが面白くて。僕がアバンギャルドとか自由とか言っていたものと全然違う形でわけのわからない音楽を演奏するんですよ。その子たちとはかれこれ10年一緒にやっています。そのあたりから、プロじゃない人とやる面白さを覚えてしまったんですよね。

−−それはどういうジャンルの音楽なんですか?

大友:その子たちの音楽は、とは言え完全に特殊な音楽ですよ。即興でやるわけなので。例えば、障害を持っている子たちでも頑張ればこんなに曲が演奏できるんですよっていうのはよく障害者施設でやるんですよ。それでみんなでそれこそ「上を向いて歩こう」を演奏しましたってなるんですけど、「音遊びの会」は面白くて、障害者が健常者みたいに演奏する必要はないと。障害者のやりたいようにやればいいじゃないかっていうので、自由に演奏させるんですね。でも、彼らは彼らなりの理由でちゃんと演奏していて、中には天才みたいな子もいるんですよ。楽曲は全然理解できないんだけど、リズムが鳴っていると、例えば4拍子が鳴っているところに3拍子で叩いたり、5拍子にしたり。

−−確かに天才的な感覚ですね。

大友:「天才だ!」って思うんだけど、楽曲の構成を理解してないから、決してそれがお金になることはないんです。だけどびっくりするような天才的な才能を発揮する。その子、たまにテレビのコマーシャルの曲を演奏しながら、違う曲を同じキーで歌ったり…というような子がちらほらいるんです。トロンボーンを持ったらいきなり音が出て、面白くなっちゃった子がいて、持ち方もめちゃくちゃなんだけど、「ブワッ!」って音だけは誰よりも大きく吹くとか、すごく面白い演奏だったんです。でも、トロンボーンの先生に習ったら、普通の面白みのない下手な奏者になっちゃったり。そういうのを色々見ていて、音楽を教えるってなんだろうとか、そもそも音楽をやるってなんだろうとか、色々考えさせられるんですよね。

 

8. 自分のやっている音楽で朝ドラをやりたい〜『あまちゃん』が生まれるまで

第130回 大友 良英 氏 音楽家

−「音遊びの会」での活動で、大友さんの音楽への向き合い方も変わっていきましたか?

大友:そうですね。ずっとその子たちと音楽をやっていく中で、自分の音楽性も変わっていきました。例えば、バンドをやっていた頃は、自分が思い描いたアレンジや音へみんなを引っ張っていったんですが、最近はもう「その音が出たなら、それでいいかな」みたいな(笑)。無責任に聞こえるかもしれませんが、無理矢理自分の思う方向に曲げるんじゃなくて、「その音がどう面白くなるか」をプロデュースしていけばいいという風に変わりました。それは『あまちゃん』の音楽とかにちゃんと結びついたと思うんですよね。たぶん20年前だったら同じ曲を書いたとしても、ああいう風に演奏させなかったと思います。『あまちゃん』のテーマ曲って、けっこうバラバラなんですよ。きっちり合わせようと思ったら合わせられる上手いミュージシャンたちなんですが、ちょっと雑にしていて。そのために練習はさせなかったんですよ。

−−練習なしだったんですか。

大友:プロだから、練習させちゃうと上手くなって、きっちり合っちゃいますから。そうではなくて、個性の違う人たちが、みんなでわいわいやっている音楽を作りたかったんですよね。『あまちゃん』の台本見たら、そういう話だったので。

−−コンクールで1位を目指すオーケストラでは、ちょっとイメージが違いますよね。

大友:そうなんです。コンクールで1位になるオーケストラの音って、良くも悪くも一つになるじゃないですか? それと全く反対の方向にしようと思って作ったんですけどね。吹奏楽の子たちが『あまちゃん』のオープニングテーマを演奏するのを聴くと、「なんでこんなきっちり合わせちゃうんだろう」って(笑)。あれは譜面通りに弾いたら、あのオープニングテーマにならないんですよ。サビのところの3連っぽい音とかが、微妙な符割りになっているはずなんですけど、譜面じゃどうしようもないからきれいに書くでしょう? そうすると吹奏楽団はその符割り通りにやるんだけど、そうすると、あのグルーヴ感は出ないんですよ(笑)。

−−そもそも、『あまちゃん』は誰からのオファーだったんですか?

大友:演出をしている井上剛さんからです。井上さんとは一緒にいくつもテレビドラマをやっていまして、震災の年の8月に福島でフェスティバルをやったときも撮影に来てくれて、そこで「大友さん朝ドラやらない?」って言われたんですよ。そのときは『あまちゃん』ってまだ決まってなくて、「宮藤官九郎さんの脚本、大友さんの音楽で朝ドラやれたら面白いな」って話でした。

同時に「大友さんで朝ドラって言うと反対されると思うから、上を説得するのに時間かかるかもしれないし、ダメかもしれない」とも言われました。それから7ヶ月経って、「許可おりないけど、デモを作ってくれない?」と。きっとデモを聴かせて説得しようとしたんじゃないかな。相当反対されていたんだと思います。NHKのドラマの音楽はたくさんやってきていたけど、やっぱりノイズでアンダーグラウンドっていうイメージが強かったですから、「朝ドラは無理でしょう」って言われていたんじゃないですかな。

−−僕たちも、大友さんが朝ドラやるのかってびっくりしました。

大友:そうだと思います(笑)。でも、さっきも言ったように、クレイジーキャッツとかがずっと好きで、コメディーの音楽は作ってこなかったですけど、いつかやりたいと思っていましたからね。

−−萩原哲晶さんみたいな?

大友:本当にそうですよ。でも、それをやる場はテレビだって震災を経験して強く思いました。いくらコンサートでやっても、フェスティバルでやっても、そこの会場には自分のことを知っている人しか来ないけど、テレビだと誰が観るかわからないでしょう? 普段僕の名前なんて全く知らない人たちのところにも届かせたいなと震災のときに本当に思いましたね。それで朝ドラの話がきたときは、昔だったら受けるか悩んだかもしれないけど、二つ返事で「やりたい」と言いました。朝ドラのために何かを曲げるんではなくて、自分のやっている音楽で朝ドラをやりたいと。

 

9. 試行錯誤を続けた「プロジェクトFUKUSHIMA!」の4年間

−−先ほど少しお話が出ましたが、「プロジェクトFUKUSHIMA!」はどういったきっかけで始められたんですか?

大友:もちろん震災と原発事故がきっかけなんですが、テレビのニュースで、ドイツの反原発デモをみたときに「NO MORE FUKUSHIMA」って書いてあるプラカートをみて、ドイツ人に「NO MORE FUKUSHIMA」って言われることになんかカチンときたんですよ。もちろん意図はわかるんですよ。

−−要するに「NO MORE HROSHIMA」の…。

大友:そうなんです。そのとき気になったので、広島の人に「NO MORE HROSHIMA」って言われるのは嫌か聞いたら「全然。誇りに思う」って言うんですよ。傷ついてない。対して、福島の人がなぜ傷つくかっていうと、元々福島にはコンプレックスがあるからだと思うんですよね。

−−それは大友さんだけではなくて?

大友:ではないと思うんですよ。福島の人に聞いても似たようなことを言いますから。そもそも東北弁でしゃべっていることにどこかコンプレックスがあるんです。そのことを上手く描いたのが『あまちゃん』で、東京の子が東北に行って東北弁になるなんて普通ない。あれだけでも東北の人はちょっと嬉しい(笑)。逆はあるじゃないですか? 東北人が東京に行って東京弁になるって。そのへん宮藤官九郎さんはよくわかっているんですよね。彼も東北出身ですから。東北で生まれ育った、東京に行ったこともない足立ユイちゃんが東京弁しゃべっている。あの感じもすごくよくわかる。『あまちゃん』はそのへんの色んなコンプレックスとか、社会的な構造を、難しいこと言わずに、笑いの中で上手く表現しているドラマだなと思うんです。だから『あまちゃん』を観て、この世で一番救われたのは僕だと思っているんですよ(笑)。

−−(笑)。

大友:僕が持っていた東北コンプレックスとか、色んなものを、宮藤さんが見事に溶かしてくれたような気がします。それで一つ気付きがあったのが、コンプレックスに正面からぶつかってもなんの解決にもならないけど、笑いに昇華することで、開くことがあるんだなってことで、『あまちゃん』をやりながら思ったのは、小難しいことなんか言わなくても、みんなが集まってわっと盛り上がるだけで、何かが開くなということなんです。

「プロジェクトFUKUSHIMA!」も今はそんな気持ちでやっています。最初に作ったときは、このままだと福島は放射能でまずいことになってしまうし、なんとかしなくてはという気持ちで始めたんですが、僕らは科学者でもないですし、社会学者でもないので、結局、放射能の問題に対してなにもできない。だから、プロジェクトをやっていく中で「盆踊りをやる」という方法に切り替えていきました。

−−福島は未だに16万人が帰宅できていませんし、難しい状況ですよね。

大友:僕は福島市で育ったんですが、今は避難してきた人たちが住んでいたり、福島市に住んでた友人でも避難した人がいたり、あ、でも避難って言葉を使うのもすごく気をつかいます。すごく複雑ですね。

−−福島から県外に避難してしまった人たち対する複雑な想いもあるわけですよね。

大友:あると思います。この4年間、本当にいろいろな人たちの異なる考えを前にしてきて、一言でこうだなんて僕にはいえなくなってます。もう人生の中で、こんなに悩んだ時期はないし、今でも悩み続けてます。それでも、何かをやることで情況が打開出来るというのを1年目のフェスティバルの中で体験し、それがその後の盆踊りや「あまちゃん」の音楽に結びついて行くんです。盆踊りを一緒にして打ち上げしたら、とりあえず意見がことなっていても同じテーブルには着けるなと思ったんです。話し合ったって埒があかない情況ってのがあって、そんな中で「一緒にやっていくにはどうしたらいいか」ばかりを考えていた4年間でしたね。

−−大友さんは学生時代から民族音楽を学ばれたりもしていましたよね。このあたりの素養も盆踊りに至る要素になっているのかなと思っていたんですが。

大友:今思えば、ですけどね。でも、中国とか色々な国の民族音楽を調べたりしていたくせに、一番身近にあるはずの盆踊りは「ビートがかっこわるい」とか思って見ないようにしていたんですよ。でも実際自分で音頭を演奏してみて、それでみんなが踊って、それを長時間やっているとトランスみたいになってくるんですよね。そのときに初めて、未だにその音楽が好きかはわからないですけど、面白さがわかったというか。やっぱりあのゆっくりしたビートの繰り返しに演奏している方も高揚してきますしね。一番すごかったのは、生演奏でやったんですけど、最初のうちはみんなステージを見ているんですよ。だけど、踊りが白熱してくると誰もステージを見ない。演奏している人は主人公じゃないんですよ。みんな自分たちが主人公で踊っていて、拍手も天に向かってしていたりして、場全体がグルーヴしてね。そういった光景を見ると、「これだ!」って思っちゃうんですよね。

障害を持った子供たちと付き合いだして、プロフェッショナルがやるのではない音楽の世界を見ていく中で震災があり、福島に入って、福島の人たちと何かやるといったときに、福島にはプロの音楽シーンなんてないですから、選べる選択肢がとても少ない中で盆踊りの面白さを見つけた。僕は今でもプロフェッショナルな音楽やノイズが大好きですが、それと平行してそうではないものも見えてきたのが、僕にはとても重要なことなんです。

−−このプロジェクトは今後も続けていく予定ですか?

大友:続けます。最初は僕がリーダーをやっていたんですが、もう疲れ果てちゃったので、リーダーは若い人に任せて、いちメンバーに戻ったので、今はほっとしています(笑)。リーダーって音楽以外のこともやらないといけないから本当に大変なんですよ。それこそ警察に使用許可を取りに行ったり、町内会に挨拶しに行ったり。それはそれでいいんですけど、もうさすがに疲れました(笑)。

 

10. もう一度、誰でもアクセスできる音楽を作っていく

第130回 大友 良英 氏 音楽家

−−『あまちゃん』前と後では何か変わりましたか?

大友:本人は何も変わってないと言いたいですけど、変わったような気がします。福島で活動していてもすごく活動しやすくなりましたしね。それまでは、「みなさんご存知ないかもしれないですが、テレビの○○という番組もやっていまして、ちゃんとキャリアがあります」って自分を説明するのがすごく大変だったんですが、『あまちゃん』以降は、「『あまちゃん』の大友です」と言うと色紙が出てくるようになりましたから(笑)、その辺は被災地でも活動は本当にやりやすくなりましたね。

同時に、自分の何が変わったかというと、毎朝普通の人たちが観るドラマに半年間関わりながら、僕の音楽なんかと全く接しない方と色々コミュニケーション取りながら、Twitterしたり、色んなところで色んな人と話をしながら作っていったところもあるんですよ。そうしていく中で、音楽の作り方が自分でも気付かないうちに変わっていったような気がします。元々そういう傾向を持っていたんですが、ますます「出た音は全て受け入れるぞ」みたいな方向に向かっていて、上手く言えないんですけど、「その人が出した音ならそれでいいんだ」というか、吹奏楽部みたいなやり方とは真逆で、出た音をどう面白くしてやるか、という方向にどんどん変わっていっているような気がしますね。

−−好きなようにやらせながら、それをまとめる。

大友:祭りの場がまさにそうなので、そういう場所を作っちゃえばいいんですよね。『あまちゃん』の場合は、僕の力というより能年玲奈ちゃんのあの素敵な笑顔と宮藤さんが考えたストーリーが場になったと思うんですけど、あの子がニコっとしたら、みんなオーケーみたいな感じになったので、あんなことができたのかなと思いますね。自分でも信じられないくらい曲を書いたんですよ。今書けって言われても、200曲も300曲も書けないですよね。でも、あのときは楽しくてどんどん思い浮かんで書いていました。自分でもわからないけど、あんなことってあるんですね。世間と一緒にグルーヴした感じというか。

−−でも、その後は『あまちゃん』のとき以上の忙しさになりましたよね。

大友:そうですね。『あまちゃん』をやったおかげもあるんですが、責任あるポジションの仕事がくるようになりました。今は国際交流基金と一緒に「アンサンブルズアジア」というプロジェクトでアジアの人たちとネットワークを作る仕事や、東京都がやる音楽祭「アンサンブルズ東京」のアーティスティック・ディレクターを頼まれています。

−−先日行かれていたバリ島やチェンマイもその一環ですか?

大友:そうです。去年も3回東南アジアに行っているんですが、今年もすでに2回行っていて、日本のアーティストと東南アジアのアーティストを出会わせるための回路を今作っています。その過程でフェスティバルをやったり、少しずつ成果が出始めています。僕自身のアルバムが出たのは香港ですし、自分が出って行ったのがアジア地域だったので、実は以前から「アジアン・ミーティング・フェスティバル」というイベントを自腹で何回か開催していまして、アジアの面白いなと思うミュージシャンを東京に呼んで、ライブハウスで日本のミュージシャンと共演してもらったりしていました。

−−公から依頼される以前から同じようなことをされていたんですね。

大友:何かでお金がポンと入ると、そういうことをやりたくなっちゃうんですよね(笑)。でも、自腹だと限りがありますから、5人呼んだらお金がなくなっちゃうんですけどね。

−−では、やりたいことがより大規模にできるようになったのが今なんですね。

大友:そうですね。でも税金を使うわけですから、気をつけないといけません。自分の音楽を売り込むことに使うみたいなことは絶対にしないようにしてます。

−−実際に会うミュージシャンも大友さんがコーディネートしているんですか?

大友:今は現地や日本の信頼できるディレクター4名に頼んで、様々な方向からネットワークづくりをしています。従来の音楽にとらわれない変わったことやっている人がいっぱい出てきてますから。可能性あるミュージシャンたちとネットワークを作りつつ、同時にそういうのとは全く関係のない一般の人たちともやっていけたらいいなと思っています。

−−色んな発見と言うか、新しいことができそうですよね。

大友:ヨーロッパだとなんとなくみんな英語ができるから、言葉が違ってもなんとかなるんですけど、アジアは共通の言葉がないから凄く難しい部分もあります。そんな中でも国がつくるものとは違うネットワークを作っていければいいなと思っています。福島のことも、アジアのことも、音楽人生の最後に向かっていくにあたって、自分がやらなくてはならない大きな宿題だと思っていて、例えば福島の中の文化と外の文化をどう開いて結びつけていくかとか、今はそんなことを考えています。

−−では、今後は自身の音楽活動と同時に、日本の音楽文化を担うプロデューサー的な立場で…。

大友:いやいやいや、そんな大きなことは言わないです(笑)。そうじゃなくて隙間ですよ。今までやってこなかったような。すごく大げさなこと言っちゃうと、20世紀の音楽って、100年の間に音楽の在り方がすごく変わってきて、一番変わった理由が録音だと思うんですよ。19世紀の人は録音物じゃなくて生の音楽を聴いていた。でも、20世紀に録音物ができたおかげで、僕らは世界中の音楽を聴くことができるようになったじゃないですか。ビートルズも、ルイ・アームストロングも、ウィーン・フィルも。

だから、「音楽は録音物だ」と思いこんじゃったというか、ずっとスピーカーが振動するものだけを聴いてきたんですが、世界中の音楽を聴けるようになった一方で、「演奏できない」と思う人が増えてしまった。昔は音楽をみんなでやっていたのが、いつのまにか音楽は専門家が演奏して、それを聴くというように、演奏者とリスナーが分かれちゃったんですよね。今はインターネットの時代になり、録音物が売れにくくなって、20世紀のように録音物で稼ぐような時代ではなくなってきています。そこでもう一度、誰でもアクセスできる誰でもつくれる音楽をやっていくという方に向かうのがいいんじゃないかと思っているんですよね。

−−そうなるとミュージシャンはどうやってご飯を食べていくのか、心配になりますよね。

大友:正直、難しいですよね。だって若い子はお金払って録音物を買おうと思ってないですものね。CDプレーヤーも持ってないし、携帯で聴いちゃうでしょう? 現実にアジア地域へ行っても、若い子たちはCDなんか持っていません。世界規模で考えていくと、録音物の販売ってもう厳しいです。でも、そんなこと言うと、豊かな録音物が生まれないじゃないですか。僕自身は録音音楽で育っていますから、録音音楽へのリスペクトもありますし、同時にライブもすごく大切です。

音楽って本来、演奏して前に置いた帽子でお金を集める、というすごく素朴なお金の集め方だったわけじゃないですか。例えば、武道館のコンサートだって、入場料をもらって、その収入をPAとかミュージシャンでシェアするという意味では全く一緒で、ある意味すごく健全な産業だったと思うんです。

−−ライブはむしろ活発になっていますよね。どこに帽子を置くのかわからなくなっていたミュージシャンも、お客さんの前に帽子を置かなきゃいけないんだと原点に戻ったといいますか。

大友:そうなんだと思います。産業が大きくなって、帽子を置いているカタチは変わってなかったのに、それが見えなくなっちゃっていたんですよね。これからはもう一回自分で帽子を置いて、「ありがとうございました」って言える関係になっていくのかなって思っているんですけどね。ある意味、この100年間が今までの音楽の歴史で言えば、かなり普通じゃなかったとも言えるわけで、僕らは録音の時代を通り過ぎて、インターネットの時代に入る中で、もう一度、音楽を売るってことがどういうことなのか、音楽を作るってどういうことなのか、なにが最善なのか、悪くないなって思える方法を考えるべきときなんだろうなと感じています。

−−本日はお忙しい中、ありがとうございました。大友さんの益々のご活躍をお祈りしております。(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

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