第30回 児玉 英毅 氏

インタビュー リレーインタビュー

児玉 英毅 氏
児玉 英毅 氏

株式会社研音
代表取締役社長 児玉英毅 氏

「Musicman’sリレー」記念すべき第30回目は、(株)研音代表取締役社長・児玉英毅氏の登場です。今や研音の役者なしでは日本のテレビ業界は成り立たないほど多くの売れっ子俳優をかかえる研音ですが、もともとはやはり音楽プロダクション。the brilliant green、平井堅等を筆頭に、近年はミュージシャンの躍進もめざましい研音の、そのヒットの裏側とは?また、社長自らが「最高」だと語る研音のスタッフ育成の秘密とは? 

[2002年9月10日/赤坂・(株)研音にて]

プロフィール
児玉英毅(Hideki KODAMA)
株式会社研音 代表取締役社長


1943年 2月16日 上海生まれ
1963年 日本グラモフォン(株)(のちのポリドール(株))入社。文芸部芸能課に所属。園まり、日野てる子等を担当。
1971年 アルカートプロダクションを設立。野口五郎を手掛ける。
1982年 (株)研音に専務取締役として入社。
1996年 4月、同社代表取締役社長に就任、現在にいたる。


 

  1. 「数字には強いんです」!? レコード会社の経理担当から念願の芸能部へ
  2. ついに独立!アルカートプロダクション設立  タレント第一号・野口五郎の大々ヒット!
  3. 研音大躍進の秘密…役者とミュージシャン、そしてスタッフの二人三脚
  4. the brilliant green、平井堅…ヒットの裏側
  5. 社長が太鼓判!うちのスタッフは最高です!
  6. 趣味は40年来のゴルフ トレードマークの髭の由来は無精髭?!
  7. いちばん大切なのは人を作ること…土台作りの重要性

 

1.「数字には強いんです」!? レコード会社の経理担当から念願の芸能部へ

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--児玉さんはあまりプライベートな面を公表されてませんが、今日は差し支えない程度でお伺いします。まずご出身はどちらですか。

児玉:僕は生まれは上海なんですよ。親父が貿易の仕事をしてましたので上海にいて、鹿児島に引き上げで来たのはたぶん4歳ぐらいの時だと思います。

--終戦の2年前のお生まれですよね。

児玉:そうです。(昭和)18年です。21年か22年に引き上げてきたんだと思います。じいさんも鹿児島で貿易をやっていたらしいんですね。そのつながりで親父がずっと上海にいて、お袋が上海に行って結婚して、僕が生まれたみたいですね。

--上海の記憶はあるんですか?

児玉:いやね、それが全然ないんですよ。5年ぐらい前に初めて上海に行ってみたんです。お袋からはけっこう向こうの話を聞いていたので、やっぱり行ってみたくて。

--どうでしたか?

児玉:自分たちが住んでた家はありませんでしたけど、その他の町並みはまだ健在だったんですが…

--見てもフラッシュバックはなかったんですか?

児玉:ぜんぜんわかりませんでしたね。

--まだ小さすぎたんでしょうね。

児玉:そうですねぇ。「三つ子の魂」っていうから、少しは覚えてるんじゃないかと思ってたんですけど、何もわからなかった。自分が小さい時の写真を見て「あれはここなんだよ」って言われるとわかるんですけど…。

まあそれで鹿児島に引き上げて来て、小学校まではいました。当時親父が東京に、お袋が鹿児島にいたんです。それで親父が小学校の時に死にまして、それから僕は東京の叔父の所にいたんですよ。中学は錦糸町の錦糸中学でね。中学時代はけっこう遊んでましたよ(笑)。

--単純に言うと悪かったんですね(笑)。プロフィールには「鹿児島高等学校卒」とありますが、中学は錦糸町、高校は鹿児島に行ったんですか?

児玉:何て言うんですかね…あんまり遊んでたんで、中学3年の2月ぐらいにお袋が迎えに来まして…

--東京に置いといてもろくなことがないと(笑)。

児玉:まあそうなんでしょうね。それで高校は鹿児島高校に行って、ずっと野球ばっかりやってましたよ。

--お母さんの狙い通りだったってことですね(笑)。ではこの世界に入られたきっかけは?

児玉:この世界に入ったのはね、高校卒業後にうちのお袋の兄貴、つまり叔父が昔の日本グラモフォン(元ポリドール)にいまして、「お前もいつまでも遊んでてもしょうがないから、ちょっと一回うちの会社を受けてみろ」って言ってくれて、試験を受けました。それでね、中学時代にうちに遊びに来ていた人たちは、要するにみんなポリドールにいたわけですよ。だから僕も知ってるし、向こうも知ってるし、なんとか入れてもらえたんです。運が良かったんですね。

--要するにコネですね(笑)。

まあそうですね(笑)。でもね、けっこう数字には強かったんですよ。そろばんとか簿記とかですね、ああいうのはけっこう得意だったんです。

--高校が鹿児島ってことは、高校卒業してから東京に戻ってすぐポリドールに入られたんですか?

児玉:いえ、その前に経理事務所でバイトしてたことがあるんです。だからポリドールの面接でも「経理事務所でバイトをしてます」って言ったから経理に配属されちゃったんですよ(笑)。

--そうだったんですか。なんか意外ですね(笑)。

児玉:そうなんですよ。経理に配属されて…あの頃レコード会社はみんな手形なんですよ。電卓なんてないから、そろばんでね。でもせっかくレコード会社に入って、なんで経理なんだ、って思いますよね?だったら他の会社でもいいじゃないかって。それで「レコード会社に入ったんだから文芸部に行きたい」って言ったんです。でも何がやりたいかって言っても、とくに自分にもなにもなくて…その頃、文芸部の中には制作と芸能っていう課があったんです。レコード会社で作家もアーティストも専属の時代ですから。

--今でいうプロダクションっぽいですね。

児玉:そうなんです。その頃はプロダクション自体がものすごく少なかったでしょう?だからレコード会社預かりのアーティストが多いわけですよね。それで文芸部芸能課っていうところに配属されたんです。

--機能も今のプロダクションみたいな部署だったんですか?

児玉:いいえ。その頃はテレビの歌番組があまりなくて、レコード会社がスポンサーになって番組を持ってたんですよ。そういうのを我々が「今週は誰にしよう」ってキャスティングをやってたんです。

--番組ディレクターということですか?

児玉:いいえ、テレビディレクターへのブッキングですね。要するにテレビ局は「売れてる人を入れてもらいたい」うちは「新人を出したい」わけですから。

--レコード会社にそういうセクションがあって、そういう仕事があったわけですね。

児玉:あったんですよ。その辺はすごく楽しかったですね。

--今のお仕事にきっちり繋がってますね。

児玉:そうですよね。僕は日本テレビ担当で、毎日、日本テレビに行ってましたよ。

--それはとてもいい経験になりましたね。

児玉:結構その時代は楽しかったですね。

--何ていう歌番組だったんですか?

児玉:何だったかなぁ。まあ「ポリドール・アワー」とか、そんな名前だったと思いますよ。

--ポリドール時代に担当なさっていたのは園まりさんや日野てる子さんだそうですね。

児玉:そうですね。僕がちょうど入った頃は西田佐知子さんですよ。「アカシヤの雨がやむとき」が絶好調で、日活で映画を撮ってましたね。その後は青山ミチさんとか…

--ああ、そのころなんですね。当時、折田さん(折田育三氏:元ポリドール(株)代表取締役)は洋楽にいらっしゃったんですか?

児玉:いましたね。折ちゃんは僕よりも早く辞めたんですよ。アトランティックのレーベルがワーナーに行っちゃったから。折ちゃんはあれが好きだったからね。

--レーベルについていっちゃったんですね。

児玉:そうなんですよ。

--折田さんは「Musicman」の名付け親だし、このリレーの第1回目にも登場していただいて、お世話になっているんですよ。

児玉:そうなんですか。僕なんかは友達っていうんですかね。折ちゃんが洋楽で、僕は邦楽で、けっこう仕事してましたからね。我々はたぶんレコード会社の一番いい時代にいましたね。好きなこともできたし。

--当時の方からは豪快な話をたくさん伺いますよ(笑)。またすごいキャラクターの方々が揃ってますし(笑)。

児玉:野武士が多かったですよ。うちの会社でもね、みんな上の言うことなんてあまり聞かないですから。もっともあの頃の上司、部長とかって、電気会社から来たりして、あまり音楽を知りませんでしたからね。宣伝なんかでもそうですよ。我々芸能関係の部署では、課長まではノウハウがある人がいるんですけども、部長なんかになると何もないんです。

--ただの管理職なんですね。

児玉:ええ。僕なんか毎日外に行くじゃないですか。そうすると査定が悪いんです。

--外出を仕事として認めてくれないんですね(笑)。

児玉:そう。なんで会社で仕事できないんだって言うわけですよ。それで相当喧嘩しましたからね。そうじゃなけりゃポリドールを早く辞めようなんて思わなかったですよ。

--何年いらっしゃったんですか?

6年ぐらいですね。

--20代のうちにもうお辞めになったんですね。

児玉:そうです。27歳の時ですね。

--レコードメーカーにいても先が見えないという理由からですか。

児玉:いや。そうではなくてね、上がわかってくれなかったっていう部分ですね。こんな会社にいてもたぶん長持ちしないんじゃないかなって思ったんですよ。

--要するにストレスがたまってきてたんですね。

児玉:何て言うんですかね、やっている仕事を理解してくれないと言うのもあったし、自分でやりたいっていう気持ちも持っていたからでしょうね。

 

2.ついに独立!アルカートプロダクション設立  タレント第一号・野口五郎の大々ヒット!

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--ポリドールをやめて独立して1971年にアルカートプロダクションを設立されるわけですが、これは野口五郎さんの事務所だったんですよね。野口さんはポリドールのアーティストだったんでしょうか。

児玉:いえ、僕が辞めてからデビューさせたんですよ。ポリドールで同僚の西川さん(西川宗明氏)と二人で会社をやろうと話していて、そのころ五郎はまだ中学生で作家の所でレッスンしていたんですよ。それで歌もうまいし「こいつと賭けてみようか」って言うことで。それで僕のほうが(西川さんより)若かったから、先にポリドールをやめてアルカートっていう会社を作ったんです。

--アルカートプロがNPプロ(NPミュージック・プロモーション)に名前が変わったんですか?

児玉:そうです。実はその時一度辞めたんですよ。どうして自分たちで創った「アルカート」っていう名前を勝手に変えるんだって、五郎の営業権だけ持って辞めたんです。だっておかしいでしょう?後から来て断りもなく社名変えるなんてね。だから辞めてアメリカ行ってしばらくフラフラしてました(笑)。でも結局五郎に戻ってきてくれって言われて半年ぐらいで戻りましたけど。

--そんなことがあったんですね。そのころの野口五郎さんていうのはほんとにもう、超売れっ子ですよね。レコードメーカーを辞めて、最初に会社創った第一号アーティストの野口五郎さんが大ヒット!すごいですよね。

児玉:そうですね。だけどやっぱり大変でしたよ。

--でも20代の若者の最初の仕事としてはもう大成功ですよね。めちゃくちゃ儲かったんでしょうね(笑)。すごいですね。

児玉:そうですねぇ…(笑)。まあ運がよかったんでしょうね。

--リレーに出られる方はみなさんそうおっしゃいますよ(笑)。僕はたぶん野口五郎さんと同じぐらいの年代なんですけど、彼がその当時どのぐらい売れてたかっていうのはよく覚えてますよ。何年間も、西城秀樹、郷ひろみ、野口五郎の3人しか歌番組には出てこない、っていう時代でしたよね。

児玉:たしかに売れてましたね。だけど最初に出したのはぜんぜん売れませんでしたよ。「博多みれん」ていうデビュー曲はね。

--演歌っぽかったんですよね。

児玉:演歌なんですよ。その頃ホリプロに藤正樹っていう演歌歌手がいて、たぶん若い演歌が来るんじゃないかという読みと、五郎を拾った作家が演歌の先生だったんです。だから博多どんたくに合わせて出したんですよ。ところがぜんぜん動かなくて、すぐ京平さんの所に行ったんです。京平さんはもうポリドールにいましたから。

--筒美京平さんと同じ時期にポリドールにいらっしゃったんですね。

児玉:そうですね。一緒でした。だからよく知ってましたからお願いに行ったんです。それが2枚目の「青いリンゴ」ですからね。

--そしたらいきなりドッカーンだったんですね。

児玉:そうですね。あれは早かったですね。やっぱり運がよかったんですね(笑)。

 

3.研音大躍進の秘密…役者とミュージシャン、そしてスタッフの二人三脚

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--研音に入られたきっかけは何ですか?

児玉:うちの代表の野崎(研音グループ代表・野崎俊夫氏)とよく遊んでたんですよ。

--野崎さんは研音の創始者ですか?

児玉:そうなんです。仕事ではなんの関係もなかったんですけどね、遊び友達で、週のうち3〜4日は一緒に飲んだりしてました。

--レコードメーカー時代からですか?

児玉:いや。野口五郎をやってる時ですね。ある所で出会って意気投合して、そこから毎日みたいな感じで…。

--ウマが合ったんですね。当時の研音というとアーティスト的には……

児玉:浅野ゆう子とか北原ミレイ…あと何人かはいたと思いますよ。

--野崎さんとお知り合いになって、うちに来てくれよっていうごく自然な流れなんですか?

児玉:もう普通の流れですね。僕がピンク・レディのケイちゃん(増田恵子)をよく知ってまして、仕事の部分では野崎に「ピンクのケイを預かってくれないか」って言われた時に「ああ、いいよ」って。そういう流れの付き合いですね。

--専務として入社なさったんですよね。

児玉:そうですね。

--その頃の研音っていうのはもう大きかったんですか?まだ今ほどではなかったんですか?

児玉:小さいですよ。僕が入った頃は役者やアーティストは何人ぐらいだったのかな。4〜5人しかいなかったと思いますよ。社員は多かったですけど。

--では児玉さんが入られた後に、研音は大きく変わっていくわけですね。

児玉:そうですねぇ。僕がちょうど入った頃に、堀江淳が「メモリーグラス」でデビューしてヒットしましたし、ケイちゃんの「すずめ」っていう曲も売れてましたね。

--「すずめ」を売ったのは児玉さんなんですか?

児玉:いや、それは違いますよ。

--たまたま、また運がよかったってことですか?入ってみたら二つドカンと(笑)。

児玉:うん。そうですね。ケイは本当に自分たちで面倒みてましたからね。そのあとが中森明菜とか石井明美ですね。

--ものすごい絶好調ですよね。それはやはり児玉さんなりのノウハウが大きな功をもたらしたってことなんでしょうか。

児玉:そういうことはないと思いますよ。ただやっぱり自分もいろんな部分で外との接点はありましたしね。夜はテレビ局の連中と毎晩付き合ったり、そういう人脈はあったかもしれないですね。

--お酒はお強いんですか?

児玉:いや、普通ですよ。

--毎晩遊んだり友達と飲みに行ったりするのが、全部仕事に繋がってきたということですね。

児玉:まあ、全部仕事に繋がるかと言えばそうではないと思いますけど、でも結構遊んでましたね(笑)。

--でもそれまではタレント数人の事務所が、児玉さんが入られてからは大当たりの連続っていうのは、やっぱりなにかあるんじゃないですか。

児玉:いや、そんなことないですよ。たまたま居合わせただけで…何て言うのか、方針の変更ですかね。一時期音楽番組がなくなってきて、歌を出しても使ってくれる場所がない状況があって…それで歌を一回やめてドラマをやろうということになったんですよ。そのころコマーシャルとかテレビドラマの主題歌ヒットっていうのが結構多かったからね。それで野崎と話しながら「やっぱり役者を育てないと歌は育たないよ」っていう、これが最初ですね。そこから役者に力を入れはじめたんです。

--それで財前直見さんを初めとする役者を重視するようになったんですね。

児玉:財前は18歳の時、高校出てうちに来たんですよ。「うちの会社で財前を売り切れなかったら誰も認めてくれないよ」っていうのが僕と野崎の共通認識としてあって、毎日そんな話をしてました。でも彼女も奥手なところがあってね…なんとかやってこれましたけど。

--最初の役者さんには特別な思い入れがあるんですね。

児玉:そうですねぇ。やっぱりこれを売り切らなかったら自分たちはダメなんだと思ってやってましたからね。

--でも僕らは音楽業界にはある程度のノウハウを持っているつもりですが、役者さんを育てるノウハウはまったくないわけで…歌手を育てるのとどう違うんでしょうか。役者を方向づけたりするノウハウっていうのは?

児玉:やっぱり役者は「目」ですね。男でも女でも目が鋭くないとやっぱりダメですね。

--その目を見極めることがいい役者さんを見つけられるかっていうことですね。

児玉:たぶんこれは他の事務所にもいろんな視点があるとは思いますけど…それとけっこう不良っぽい奴がいいですね。

--自己主張ができるってことですよね。

児玉:そうですね。

--そういう高校生を連れてきて教育されたりするんですか。

児玉:管理が一番大変ですからね。台詞なんかは、局の演出家が指導できるし、いくらでも努力でなんとかなりますけど。あとは自分が持ってるもので勝負ですから。

--要するにキャラクターの方が大事だと。

児玉:そうですね。それをいかにどういう形で売っていくかっていうことだけを我々は考えればいいわけですよ。

--児玉さんご自身が元々はレコードメーカー出身の音楽業界の方ですよね。いわゆる役者さんをマネージメントする経験はなかったわけですよね。それなのにどうしてこんなにうまくいっちゃったんでしょうか?

児玉:けっこう強引な所がいいのかもしれないですね。自分自身で信じちゃいますから「これは売れる」って。うちはAVECカンパニーという制作会社とかなり長く付き合ってるんですけど、うちの新人は必ずそこに連れて行ってレッスンしてもらいます。それで AVECが仕事をする時にはいい所で必ず使ってもらう。その代わり売れても必ず恩返しするという形で長年やってるんです。

--そういう協力体制ができあがってるんですね。それにしても歌手を売り出す場として音楽のためにドラマに着目されたというのがポイントですね。

児玉:やっぱり音楽の事務所ですかね。なんとか使って欲しい。でも売れてる役者がいないと使ってくれないでしょうから。

--レコード会社やプロダクションの経験でそのへんをよくわかってらっしゃったわけですね。

児玉:売れてるアーティストがいて「その楽曲を使いたい」っていうのはあるかもしれないですけど、新人やまだヒットしてない場合は、いくら曲が良くても使ってくれないですね。

--主演俳優を握ってると、融通が利くということですね。

児玉:うん、なんとかね。一応お願いできるからね。

--なるほど、これが研音の秘密だったわけですね。

 

4.the brilliant green、平井堅…ヒットの裏側

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--the brilliant greenのヒットは鮮やかな登場でしたね。音楽だけだと「所属は研音…?」ってちょっとイメージが違ったのですが…

児玉:そうかもしれないですね。彼らも京都に連れに行ったんですよ。楽曲はすごくいいですから。最初はみんな英語詞で、2枚、インディーズみたいな感じで英語詞のものを出して、3作目の時にドラマの主題歌でタイアップを取ったんです。たまたまブリグリを好きなプロデューサーだったから、ドラマの中でものすごくいい使い方をしてくれて…。

--研音と契約するときに児玉さんはその場にいらっしゃったんですか?

児玉:僕は京都まで行きましたよ。

--ご自身で行かれたんですね。他のアーティストもそうなんですか?

児玉:そうですね、音楽の場合はそういうことが多いですね。役者さんやモデルはけっこう紹介とかが多いですけどね。

--ご自身で児玉さんが京都まで行かれてたというのにはちょっとびっくりしました。

児玉:音楽の部分では行きますよ。いろんなテープとかたくさん聞きますし、いいと思えばね。

--デモテープも膨大な数ですが、全部お聞きになるんですか?それはやっぱりメーカーの方から…?

児玉:いいものは、やっぱりそうですね。

--それは一応、全部児玉さんがお聞きになるんですか。

児玉:来た物すべてではないですけど、聞きますよ。デフスターの吉田くん(吉田敬 氏:現(株)デフスターレコーズ代表取締役)とは昔からのつきあいなんですが…彼自身が紹介してくれたアーティストを一緒にやることも多いですし。

--平井堅さんもうそうですか?

児玉:平井はね、ソニーのオーディションで受賞して、加藤哲夫さん(現(株)エスエムイー・ティーヴィ代表取締役社長)が持ってきたんですよ、「やらない?」って。

--最初お聞きになった感想は?

児玉:歌はすごくうまいし、顔もいいから「歌がダメでも役者でもいいんじゃないの」とかって言ってましたね(笑)。でもほんとに歌がうまかったから、これは売れるだろうと1作目を「王様のレストラン」の主題歌にしたんですよ。ただ13万ヒットしましたけど、その後が売れなかった。ただうちの会社のいい部分で、役者さんにしてもアーティストにしてもけっこう仲いいんですよ。それで平井が最後のチャンスだと思って「楽園」を出す時に江角(マキコ)がスポットCMに出てくれたんです。

--すごいことですよね。

児玉:お互いに助けあおうという意識があるというか…そういうところが家族的だと思いますね。

--先ほどおっしゃっていた「売れたらお返しもする」っていうことが伝わってるんですね。

児玉:それをやらなかったら誰も付き合わないですよ。やっぱり自分たちが困ってる時に頼みに行くわけですから。

--逆もあってしかるべきだと。

児玉:それをやると、その時だけじゃないですからね。ずっと関係が続いていくでしょう。吉田さんも言ってますけど、やっぱり下にいいのがいないと上が長持ちしないんですね。全体を大事にしていけば、うまくまわるというか…

--そうやって役者さんとアーティストとうまくバランス取れてきてるんですね。

児玉:たまたまうまくいったんだと思いますよ(笑)。

--平井堅さんは「大きな古時計」で今週オリコン初登場第1位ですよね、おめでとうございます。(編註:2002年9月9日付オリコンチャートで初登場第1位。その後4週連続1位を獲得)

児玉:ありがとうございます。

--ああいう曲で1位っていうのは前代未聞ですね。

児玉:昔ながらの童謡でここまでね…。今でも毎日バックが5万ぐらいきてるんですよ。今年シングル100万枚いったのたぶん1枚もないはずですから、もしかしたら1位狙えるかな、とは思ってましたけど…正直驚きましたね。

--子供さんからお年寄りまでファン層の広い曲ですし、息も長そうですね。名曲ですから。これはやはり初めは発売する予定じゃなかったんでしょう?

児玉:これはですね、平井がもともと思い入れのある曲で、ライブなんかではやってたんですよ。それが去年NHKでこの曲のルーツをたどる番組(2001年8月放映・NHK「平井堅 楽園の彼方に〜アメリカ・大きな古時計を探して〜」)をさせてもらって…

--その番組見ました(笑)。

児玉:吉田くんがいろんなことを考えてああいう番組を企画したんですけど、それが好評で、結局リリースすることになったんですよ。

--番組は普通に見てましたけど、やっぱりあの曲を歌ったところで感動しましたね。

児玉:平井自身も小さい時から「古時計」に対する親しみがものすごくあったんだと思いますよ。

--彼の人間性が出てますね。

児玉:そうですね。音楽的にあれが癒し系っていうんですかね。ああいうのを持ってるのは強い感じがしますね。でもね、これだけ売れるとは正直思っていませんでしたけどね。

 

5.社長が太鼓判!うちのスタッフは最高です!

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--研音は1973年の設立と言うことですが、「研音」っていう名前はどこから来てるんですか。

児玉:これはですね、昔、研究出版っていうのが親会社だったんですよ。研究出版っていうのは、競艇新聞の研究っていうボートの新聞があるんですね。それが親会社なんです。代表の野崎がそこをやってまして、音楽事業部っていうのを創ったんです。それが独立して「研音」になったんです。

--そうだったんですか。プロダクションとしては老舗の部類ですよね。社長に就任なさったのは1996年ですが、社長になられてなにか変わられたことはありますか。

児玉:そうですね、あまり変わりませんね。やっぱり現場にいるのが好きなんですね。外にいるのが。

--今でも現場主義ですか?例えばコンサートに行ったり…

児玉:ええ。制作発表や役者の顔合わせにも必ず行きますよ。行ってると出てる役者もやっぱり安心感があるみたいですね。

--これだけのタレントさんがいらっしゃると大変お忙しいでしょうね。休みなしですか?

児玉:いやいや、休みはとりますけどね(笑)。

--どこかで誰かが何かをされてるような感じですよね。

児玉:毎月必ずありますからね。でもそういう仕事の流れなんですから。この世界はいつダメになるのかまったくわからないですからね。だからやっぱり下の部分を大事にして育てていかないと。

--そういう部分が研音の成長につながったんでしょうね。

児玉:たぶん代表の野崎の社員に対しての優しさが、会社の成長につながってるかもしれませんね。僕も若い頃、自分が一生懸命仕事をしてても上司に見てもらえなかったっていうのがあるから。仕事をよくできる奴には給料もたくさんやろう、という会社なんですよ。やっぱりそれがなきゃだめですよね。だから32〜33歳と40歳で、32〜33歳の方が給料多い奴もいるんですよ。

--年功序列じゃなくて能力給なわけですね。

児玉:会社に貢献してる者に関してはそれはもういくら払ってもいいわけですよ。

--グループ企業全部合わせると今社員はどのくらいいらっしゃいますか。

児玉:正社員で110人位ですかね。

--ヒット続出といっても、やはりうまくいかなかった場合もあるわけですよね。

児玉:もちろんそういうこともありますよ。

--どれくらいのスパンでそのへんを判断されるんですか。

児玉:うちは一応3年という形にしてありますね。お互いにまず3年がんばろう。だけど3年経った時に、まだ伸びる部分がある人は残しますし、3年間やってても最初の時と変わらない場合は、これはお互いに得はないですからね。本人も逆にかわいそうになってしまうし。そういう時はごめんなさいっていうこともありますよ。

--売れる売れないっていう違いはどこにあるんでしょうね。

児玉:全員が売れるわけじゃないですからね。僕らも自分たちで売れると思ったら必死にやりますし。

--ということは、まずスタッフが売れると信じられるなにかがなければいけないっていうことですよね。

児玉:うちはスタッフを一番大事にしてるんですよ。だからスタッフが「この子をやりたい」って言った時にはまかせますね。もし僕らが「売れるんじゃないかな」と思っても、一回現場のスタッフに渡すんです。それでだれも賛成しなかったらお断りするんです。やっぱりスタッフが一生懸命動くわけですから。そういう部分でうちのスタッフはいいですよ。これだけは思います。

--社長がそう断言できるっていうのはすごいですね。社員の採用は新卒募集ですか?

児玉:新卒も転職組も両方いますね。

--たぶん、このインタビューを読んでる人の中には、これから音楽業界や芸能界で働きたいと思ってるような人も沢山いると思うんですが、そういう人達へ何か言ってあげられることはありますか。

児玉:そうですね。やっぱりね、明るい子がいいですね。頭が良い悪いっていうよりも、明るくて…行動力があるというか、まめに動きそうな子ですね。だからうちも一時期、日体大などの体育会系を意識して入れてたことがありますよ。

--なるほど。明るくてフットワークが軽いということですね。体も丈夫だし。行けと言ったらすっとんで行くみたいな。

児玉:明るくてフットワークが軽くて、それとあまり頭良くてもこの商売に合うかどうかわかりませんし(笑)。自分を見てても思いますけど。

--なるほど(笑)。それは適切なアドバイスですね。

児玉:それとやっぱり人に好かれない奴はダメですね。それは何やってもそうだと思うんですよ。

--嫌われる奴入れてもしょうがないですからね。

児玉:どんな仕事でも嫌な時っていうのはあるわけですから。現場のマネージャーでもチーフクラスでも、ものすごく嫌な時が間違いなくあるでしょう。その時に自分が暗くなったら、周りもみんな暗くなっちゃいますからね。

--ほんとにそうですね。児玉社長自身、ご自分が明るい性格なんですね。

児玉:そうですね。だから間違ってたとしても、なんでも言ってくる社員のほうがいいんですよ。

 

6.趣味は40年来のゴルフ トレードマークの髭の由来は無精髭?!

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--では少しご自身のことについて伺いたいんですが、トレードマークのヒゲはいつ頃からなんですか?

児玉:これはね、ポリドールにいた時からですね。

--そんなに長いんですか。どうして伸ばし始めたんですか。

児玉:その頃は剃るのが嫌でこんなになっちゃったんですよ。

--最初は無精ヒゲだったんですか。

児玉:ええ。夏は暑いから、その頃は落としてましたけどね。だから30歳前ぐらいからですね。

--長いんですね。じゃあ昔からすぐにわかるっていうか、個性的なキャラクターだったんですね?

児玉:どうなんでしょうねぇ。「お前はすぐわかるよ」って言われますけどね。

--プライベートなことをお聞きしたいんですけども。ご家族、お子さんはいらっしゃいますか。その辺は秘密なんでしょうか。

児玉:秘密ってことはないですけど、子どもはもう大きいですよ。早く結婚しろよっていう感じですね。

--ってことは女の子ですね。

児玉:女の子はね、前のかみさんとの間に女の子がいます。これは「早く結婚しろよ」って言ったら「探してくれ」って。

--実はお子さんが業界にいる、っていう方がけっこうこれまでもいらっしゃるんですが…児玉さんは?

児玉:一応ね、いるんです(笑)。

--やっぱり(笑)。どちらにいらっしゃるんですか。

児玉:一人はユニバーサル、一人はソニー、一人はうちにいます。

--お子さんは合計何人ですか?

児玉:3人ですね。男二人に、女の子が一人。

--じゃあみなさん同じ業界にいらっしゃるんですね。どうですか?親としては。

児玉:別に特にどうってことはないですね。

--仕事以外の趣味はなにかお持ちですか。

児玉:そうですね、ゴルフは好きですね。うまくはないですけど。僕がポリドールに入った頃は、青山に会社があったんですよ。今の渡辺エンタテイメントがあるあたりですよ。

--ポリドールは青山にあったんですか。

児玉:ええ。青山にあったんですが、当時はあまり食べ物屋がなくて、原宿駅の方までよく昼飯食べに行ったんです。それで駅前にゴルフ練習場があったんですよ。

--原宿の駅前に練習場があったんですか。

児玉:そうなんですよ。そのころ課長だった人がゴルフ好きで。僕なんかゴルフのゴの字も知らないのに、その人のクラブを一本借りて、打ちっ放しやってたんです。ゴルフはそこからですね。

--じゃあずいぶん長いキャリアですね。

児玉:キャリアだけは長いんですよ。

--日音の恒川さんもお上手だそうですね。

児玉:恒川さんは今どのぐらいで回るんだろう?恒川さんはうまいんですよ。よく練習してます。あの人は真面目だから。僕はあまり練習しないですから。もう成り行きですね。

--そもそも恒川さんとはどういうお知り合いなんですか?

児玉:恒川さんとは僕が野口五郎をやってる時に知り合ったのかな。筒美京平さん関係でけっこう日音さんとやってたんですよ。だからもう30年ぐらい前ですね。僕が研音に来てから22年なんですけど、研音と日音は浅野ゆう子の時代からの長いおつき合いらしいんです。そんな話も恒川さんとしましたけどね。

 

7.いちばん大切なのは人を作ること…土台作りの重要性

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--では今後の目標とか展望がありましたらお聞かせ下さい。

児玉:そうですねぇ、もうそろそろ60歳ですから、なるべく早く辞めたいですね。そのために後任にはいい形で引き継ぎしないといけないですよね。我々の仕事ってアナログですからね。手作りのモノってありますよね。そういうものの土台の部分だけはしっかり作っておくっていうことは、スタッフにも再三言ってますよ。

そうやってスタッフの育成に力を入れていけば、そのうちにそのスタッフが担当したタレントが売れていったりすると、自信につながりますよね。そういう部分ってやっぱりプロダクションで一番大事だと思うんですよね。一応ホームページとか携帯サイトとかはね、時代に遅れるわけにはいかないし、ちゃんと別セクションでやってますけど、そういうコンテンツやソフト作りばかりやりすぎても逆に本人がつぶれてしまったりするかもしれないし…一番大切なのは人を作ること。それで結果はあとからついてくるものだと思うんですよ。

--あくまで料理の仕方の一つ。メニューの一つですからね。

児玉:ええ。だから本業を忘れて「こっちの方が儲かるから」って、そっちばっかりやってたらすぐダメになっちゃいますよ。だからやっぱり本体、土台だけはしっかりしてると他の商売の部分っていうのは、たぶんくっついて来ると思いますよ。

--人を育てるというのがプロダクションの基本だと。それはアーティストもスタッフもっていうことですよね。

児玉:アーティストも同じですね。これが育たないと絶対に残らないですからね。使われて終わっちゃうし。だからなるべく使われないように、いい形で使ってもらえるようにしないと。いいスタッフに限らずアーティストとか役者でも、みんな一緒にいいモノを長持ちさせるようにしていかないとダメだと思いますね。

--研音独自のオーディションはあるんですか。

児玉:オーディションはないんですけど、一回「デビュー」っていう雑誌で募集したんですよ。あれは大変でしたね。

--ものすごい数の応募が来ちゃうんでしょうね。対応しきれなくなっちゃうんですよね。

児玉:そうなんです。やっぱりね、いい才能は自分たちで探しに行かないと。全国のモデルクラブやなにかと提携してね、全国に告知はしているんですよ。だから連絡がきたら会いに行きますしね。

--スカウトマンは全国に張り巡らせてるわけですか。

児玉:それはやっておかないとダメですね。

--そういうことはいつぐらいからやってらっしゃんるんでしょうか。

児玉:もう5〜6年はやってますかね。やっぱり「人は人を呼ぶ」みたいなところがあるじゃないですか。それとやっぱりいいアーティストがいるといい人っていうのは集まってくるような気もしますね。

--そうなんでしょうね。ところで後継者についてはもう決めてらっしゃいますか。

児玉:うーん、これは早くしないといけないんですけどね。候補は何人かいますけど、まだ決めてはいませんね。

--じゃあ将来、どなたかにある程度お仕事を任せられて、悠々自適になった暁にはやってみたいと思ってらっしゃる事とかありますか。

児玉:たぶんね、悠々自適っていうのはできないと思いますよ。性格的に向いてないでしょうね。だからやっぱり何らかの形では、研音という中にはいると思いますよ。

--ではこれからもますますの御活躍をお祈りしております。今日はお忙しい中ありがとうございました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

--—今や知らない人のないヒット・プロダクションとなった研音ですが、100人以上の社員をかかえる大手プロの社長自らが「うちの社員はいいですよ」と胸を張って語る…これこそが研音の躍進のいちばんの秘密なのでしょう。

さて、児玉氏の多くの人脈の中からご紹介いただいたのは、BMGファンハウス代表取締役・田代秀彦氏です。異業種でのノウハウを活かした改革を続ける田代氏に、豊富な経験談をお伺いします。お楽しみに。

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