70年代ロック黄金期、音楽業界の舞台裏:音楽評論家と振り返る熱狂の時代〜天辰保文氏×北中正和氏インタビュー【前半】

インタビュー フォーカス

天辰保文氏

70年代のロック黄金期、レコード解説や紙媒体では多くの音楽評論家たちが活躍していた。今回、約半世紀に渡り第一線で活躍してきた音楽評論家の天辰保文氏、北中正和氏を招き、当時レコード会社(ワーナー・パイオニア)の洋楽部で両氏と仕事をしてきたミュージックマン発行人 山浦正彦が聞き手となり、熱かったあの時代を振り返ってもらった。現代の音楽ファンに何か得るものを感じ取ってもらえれば幸いである。

(インタビュアー:Musicman発行人 山浦正彦、屋代卓也 取材日:2023年12月13日)

プロフィール

天辰保文(あまたつ・やすふみ)


1949年、福岡県生まれ。音楽評論家。音楽雑誌の編集を経て、1976年に独立。ロックを中心に評論活動を行っている。新聞、雑誌、ウェブマガジンへの寄稿のほか、レコード、CD等でのライナーノーツも多数手がける。著書に、『ロックの歴史~スーパースターの時代』、『ゴールド・ラッシュのあとで』、『音が聞こえる』、共著に『ウエスト・コースト音楽百科』等がある。


北中正和(きたなか・まさかず)


1946年、奈良県生まれ。京都大学理学部卒業。音楽評論家。日本ポピュラー音楽学会、ミュージック・ペンクラブ・ジャパン会員。『ビートルズ』『ロック史』『毎日ワールド・ミュージック』『にほんのうた』『「楽園」の音楽』『ボブ・ディラン』など著書多数。


 

黎明期の『ニューミュージック・マガジン』にアルバイトで入社

山浦正彦(以下:山浦)この前、ひさびさに洋楽仲間が集まって昔話に花が咲いたんですが、中でも洋楽アーティストの素晴らしさを僕らに伝えてくれた音楽評論家の北中正和さん、天辰保文さんの70年前後からの貴重な話は、多くの音楽ファンにとっても興味深いんじゃないか?と、この場を企画してみました。

お二人は、天辰さんが日本のロック・ポップ・メディアのメインストリームであるシンコーミュージック、北中さんは『ニューミュージック・マガジン』からキャリアをスタートされていますが、まず北中さんが『ニューミュージック・マガジン』編集部へ入るまでをお伺いしたいのですが、北中さんがロックを聴き始めたのはいつ頃からですか?

北中正和氏

北中正和(以下:北中):ロックを聴き始めたのは高校からで、そこから大学にかけてよく聴いていました。僕は22の頃まで関西に住んでいて、ロックに出会う前はラジオでかかるものは何でも聴いているという感じでした。

山浦:記憶に残っている音楽の一番古い記憶は何ですか?

北中:一番古い記憶となると歌謡曲ですが、洋楽だと映画音楽かな?映画『エデンの東』『ウエストサイド物語』のヒット曲とか、そういうのが印象に残っています。あと、小島正雄さんのラジオ番組「9500万人のポピュラーリクエスト」でキャッシュボックスのチャートを紹介するコーナーですね。番組自体はカウントダウン番組ですが、それは読者からの投票と番組制作サイドの意向を合わせてチャートを作っていて、その中にキャッシュボックスのチャートを紹介するコーナーがあって、日本で発売されていないものも含めて毎週3曲ぐらいかかるのでよく聴いていました。

62〜3年頃は、アルドン・ミュージックに代表されるブリル・ビルディング・ポップのヒット曲がたくさんあった時代で、ロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」とかはよく覚えていますが、「ずいぶん粘っこい音だな」と思ったら黒人の音楽だったり、とにかくなんでもラジオで聴いていましたね。その頃は白人・黒人という区別が自分はまだついていませんでしたが。

山浦:周りの友だちも洋楽は聴いていましたか?

北中:中学までは奈良にいて、高校から大阪だったんですが、洋楽を聴いている子がいなくて、たまにフォークソングを聴いている人がいたり、ビートルズもいわゆる不良っぽい人が聴いている程度で、クラスで話し合う人はいなかったです。それで、大学に入ってから洋楽が好きな友だちがいたので、レコードを貸し借りしました。僕は「ライク・ア・ローリング・ストーン」を聴いてボブ・ディランにハマったクチなので、僕がディランのレコードを貸して、友だちからビートルズの持っていないレコードを借りたり、聴く音楽の幅が広がっていきました。

また当時、音楽を聴くメディアの一つにジュークボックスがありまして、普通の喫茶店にも置かれていたんですが、ラジオでもかからないような洋楽のシングルも結構あったので、それを聴きに喫茶店へ行っていました。あと、初期のディスコテック、ゴーゴー喫茶なんて言われていましたが、ここでも多少マニアックな洋楽がかかったので行きましたね。

天辰保文(以下:天辰):ゴーゴー喫茶は大阪・難波とかには結構ありましたよね。

山浦:私は山口出身ですが、そこではゴーゴークラブといっていたような気がします。盛り上がっていましたよね。

北中:大阪だとゴーゴー喫茶でタイガースやバニーズが演奏していましたけど、そういうところに行くと洋楽のカバーをやっているわけですよね。R&Bとかイギリスだとビートルズを中心にしたバンドものとか。

山浦:横浜のゴールデンカップスみたいな。

北中:そうです。そういうところで聴いている普通の洋楽ファンだったんです。それで、ボブ・ディランをきっかけにルーツ的な面にも興味を持ち始めたときに、高石友也たちが出てくるんですね。その後、フォークル(ザ・フォーク・クルセダーズ)が大ヒットして、フォークがブームになり、従来の歌謡曲じゃないものに関心を持つようになります。

山浦:大学卒業後はどうされたんですか?

北中:大学は理系だったので、一応製薬会社に就職したんですよ。でも入社した日から「これは合わないな」と気づいて(笑)、半年で退職し、当時はまだフーテンとかそういうのが流行っていた時期なので、ふらっと東京へ出て、友達の下宿に泊まったりしながらブラブラしていたんですが、大阪の知り合いを通じて『ニューミュージック・マガジン』にいた田川律さんを紹介してもらったんですよ。「面白そうだから会いに行け」って(笑)。それで会いに行ったら「『ニューミュージック・マガジン』は人手が足りないからアルバイトしないか?」と言われて70年から働き始めたんです。

屋代卓也(以下:屋代):それは東京に出てきた割とすぐですか?

北中:上京して2ヶ月ぐらいブラブラして、お金がなくなってきたのでバイトを探して、肉体労働していたんですが、そのあとすぐですね。

山浦:当時『ニューミュージック・マガジン』には誰がいたんですか?

北中:当時は編集長が中村とうようさんで、田川さんがいて、あと、河出書房にいた榊原さんという人が、河出書房が潰れて一時的に編集のプロとして加わっていました。田川さんもとうようさんも編集のプロじゃなかったですからね。編集部はその3人で、小倉エージさんは創刊当時から顧問なんですよ。『ニューミュージック・マガジン』は採算が取れるかどうかわからなかったので、エージさんを編集部員として雇う余力がなかったんですね。それでとうようさんが紹介したURCレコード系列のアート音楽出版に就職しつつ、編集部の会議に出席してアイディアを出していました。

山浦:『ニューミュージック・マガジン』を立ち上げたのは中村とうようさんですか?

北中:そうですね。当時クラシックの作曲家や劇作家のマネジメントをやっていた飯塚晃東さんの蝸牛社という会社があって、その飯塚さんととうようさんが1969年に共同出資して始めたんです。田川さんは大阪労音にいたんですが、辞めて、飯塚さんと働いていたときに編集をやるようになったと。そういう風に聞いています。

 

広告代理店への就職を蹴って大学留年〜シンコーミュージックへ

山浦:天辰さんが音楽と出会ったのはいつ頃ですか?

天辰:出身は九州の福岡県なんですが、父の仕事の都合で転勤が多くて、飯塚から小倉に移って、小倉でも中学が2つぐらい変わったりしました。さきほど北中さんもおっしゃっていたように、僕もラジオで三橋美智也とか歌謡曲を聴いていました。歌謡曲の他にもビリー・ヴォーン楽団だとか、パーシー・フェイスの映画音楽だとか、当時はいろんな音楽がラジオから流れていて、自分で選ぶというよりは、それを耳にしていたという感じでした。中学で放送部に入って、そこは僕も入れて部員は2人しかいなかったんですけど(笑)、2人で好きな音楽をかけていました。その友だちは酒屋の息子で結構財力があったので、エルヴィス・プレスリーやデル・シャノン、ベンチャーズとかそういうシングル盤を小倉のヤマハで買ってくるんです。

山浦:いいお友達を持ちましたね(笑)。

天辰:(笑)。それでいろいろ聴いたりしていたんですが、中学2年のときにラジオでビートルズの「抱きしめたい」と「プリーズ・プリーズ・ミー」を聴いて衝撃を受けました。なんかわけがわかんないけど、その日を境に世の中が変わっちゃったみたいで(笑)。それで、その友達と「ビートルズって良いね」とか、「デイヴ・クラーク・ファヴも良いよ」みたいなことを言い合いながら、いまでいうところの情報交換をしながら夢中になっていきました。田舎の中学生にはレコードとかはあまり買えなかったので、小さなテープレコーダーを買ってもらって、ラジオから流れている音楽を録音していました。ラジオにマイクを向けてると、母親のミシンの音とか掃除している音とか「晩御飯よ!」みたいな声が入っちゃったりして大変でしたけど(笑)。そのあとボブ・ディランを聴いたり、バーズを聴いたりするようになりました。

山浦:ビートルズやベンチャーズと出会うのはよく分かるんですが、例えば、バーズとかそういったバンドとはどうやって出会ったんですか?

天辰:ヤマハに行くとシングル盤とかコンパクト盤4曲入りみたいなものが売っていたので、そういうところで出会いました。もちろん、ラジオや友人もですが。

山浦:レコード屋での出会いですね。

天辰:より音楽を聴くようになるのは、大学へ入学するために大阪へ出てからです。一人暮らしをするようになると、自然と友達が集まるようになって、それまでの情報収集の量も質も圧倒的に違ってきました。そのうち知り合いも多くなって音楽好きの輪が広がっていきました。ただ、みんなと一緒にバンドを組んだり、サークルを作ったりはしませんでしたけど。

それで、大学時代には、ただ音楽を聴くだけじゃなくて「この音楽は何か違うな。何が違うんだろう?」と考えたり、「ビートルズが『Yeah!』と叫ぶ声はなんで格好いいんだろう?」とか、そういうことを言葉にしたら面白いんだろうなと漠然と思っていたんです。ですから、北中さんがいた頃の『ニューミュージック・マガジン』を初めて読んだときに、「こんな活字ばかりの雑誌が出てきたんだ」と思いましたし、読んでいると音楽自体が違うように聴こえてくる気がしたんです。

そうこうしているうちに大学4年間が過ぎ、でも特別音楽の仕事に就こうとは全く考えていなかったんですが、何か活字に関わる仕事がしてみたいと思って、広告代理店に就職が決まったんです。ところが、大学3 年頃からよく遊んでいた、競馬とロックが好きな友だちが、「卒論だけ残して、もう1年間遊ばない?」って言ってきたんですよ(笑)。

山浦:悪い友だちですね(笑)。

天辰:学費も月1,000円、年間12,000円の時代でしたから、親に負担をかけることはないだろうと、友だちと2人で1年間遊ぶというか、アルバイトしたりしながら色々やって、彼はその後、日本中央競馬会に入ったんですよ(笑)。

屋代:決まっていた広告代理店はどうしたんですか?

プラスワン創刊号

天辰:公衆電話から「すいません。僕一人っ子なので九州に帰らないといけないんです」と(笑)。就職に対して、かなりいい加減だったのかもしれません。それで別に何もすることもなく、卒業するまでぶらぶらしていたんですが、その彼が「こういうのがあるよ」と『ミュージック・ライフ』誌の別冊をつくるための、社員を募集する求人広告を教えてくれたんです。東京へ面接を受けに行ったら、草野昌一さんから「来年の春から来い」と言われたんですが、卒業を待たずに草野さんから再び連絡があって「今どうしてるんだ?」「ブラブラしています」「じゃあ早めにおいで」と言われたんです。

でもアパートとか何も用意してないですから、最初は草野さんの家にお世話になりました。随分後になって聞いた話ですが、僕と同じように草野さん宅に厄介になったという人はいたみたいなので、そうやって一時期的にいろいろ世話なさっていたみたいですね。そして入社後に配属されたのが『プラスワン』という雑誌で、確か、その始まりは『68+1』と言って、向こうのローリング・ストーン紙を意識したような、『ミュージック・ライフ』の別冊というか、季刊誌で始まった雑誌だったと思います。編集長として、水上(はるこ)さんが最初からいらっしゃったかどうか、記憶があやふやなんですが、僕はもちろん素人でしたし、僕以外の方たちも、編集のプロというよりは、ロック好きの若者たちが集まった楽しい編集部でした。

山浦:編集部に天辰さん以外に男性はいたんですか?

天辰:僕ともう一人上野さんというソウルとかが好きな方がいて、あと、女の子が2人かな、合計4人でした。『68+1』の創刊は1972年6月で、その後、季刊誌から月刊誌の『プラスワン』になり、版型もいろいろ変わったりしたんですが、なかなか売れ行きは良くなかったみたいで。それでも、サンフランシスコのロックを特集したり、レオン・ラッセルが表紙を飾ったり、トム・ダウドのインタビューがあったり。石野真知子さんという熱心な女性が編集部にいたので、日本のロックもいろんな形で取り上げたと思います。村八分を紹介したり、大滝詠一さんや松本隆さんがレコード評を書いていたり。渋谷(陽一)さんや大貫(憲章)さんなんかもよく遊びにきたりして、なかなか楽しかったんですが。北中さんと出会ったのもそうですし、原稿書いていただいたりして。

北中:今から思うとシンコーミュージックというのは老舗の大出版社で、ミュージック・マガジン社はシンコーがメジャーとすればインディーズみたいなものなんですね。僕は編集をやりつつ、空いているスペースを埋めるために文章を書いたりもしていたんですが、あるときに天辰さんから「何か書きませんか?」と電話をもらって、本来ならライバル関係にある会社なので書いてはいけないと思うんですが、そういう世間の常識も何もなかったもので、編集長に相談もせずに「いいですよ」と(笑)。

山浦:天辰さんもそういう認識なく依頼しちゃったんですね。

天辰:はい(笑)。当時、『プラスワン』で書いていただいたのが、渋谷さんに大貫さん、ブラックホークの松平維秋さんにも沢山書いていただいてました。あと、(小倉)エージさんに(中川)五郎さん、木崎(義二)さんとか、マガジンと重複していたんですよ。そもそも、あの当時、ロックについて書くことを職業にしている方ってそれほどいなくて、放送局の方やレコード会社の方が記事を書いたりしていましたよね。

僕がよく覚えているのは、とうようさんが『ニューミュージック・マガジン』の編集後記かなんかに「放送局の人じゃなくても、雑誌社や新聞社の人じゃなくても、誰でも好きな人が書けるのがロックなんだ」というようなことを書いていて、僕はそれにすごく心を動かされて「こういう仕事もいいな」「だったら書きたいな」と思ったんですよね。

 

音楽を社会的な背景も含めて捉える試み

山浦:結局『プラスワン』はどうなったんですか?

天辰:最終的には休刊というか、廃刊になって、僕は『ミュージック・ライフ』に引き取られることになります(笑)。そのときの編集長は星加(ルミ子)さんで、東郷(かおる子)さんや吉成(伸幸)さん、会田(裕之)さん、木島(章子)さん、宮坂(恵子)さんとかが編集部にいました。当時の『ミュージック・ライフ』はクイーンとかベイシティローラーズとか、そういうアーティストがメインの雑誌で、彼女たちは彼らの魅力もきちんと理解し、写真をパッと見て、これが誰だとかすぐわかるわけです。でも、僕は顔さえとかもわからなくて、使いものにならない(笑)。編集者としてもほとんど素人でしたしね(笑)。

山浦:(笑)。

天辰:若かったし、生意気だったんでしょうね(笑)。それで『ヤング・ギター』に移ることになります。そこで日本のアーティストたちの音楽をよく聴くようになったのが、その後すごく役に立ったというか勉強になりました。ただ、もともと僕は日本の音楽も好きで、それこそ先ほど北中さんがおっしゃっていた関西フォークは、僕が関西にいた頃に流行っていたので聴いていましたし、71年の第3回中津川フォークジャンボリーにも行って、サブステージで初めてはっぴいえんどを観たりしていましたけど。

山浦:天辰さんにとって『ヤングギター』はピッタリの場所だったんじゃないですか?

天辰:そうですね。山本(隆士)さんが編集長でいましたが、自由に好きなことをやらせてくれました。

山浦:山本さんも素晴らしいキャラクターの方ですよね。

天辰:ええ。楽譜のほうは諏訪さんという方がやって、僕はソフト面というか、レコード紹介やインタビューを担当したんですが、山本さんは、あの当時編集部にはいろんな日本のミュージシャンたちが遊びに来るので、主にそういうお客さんの相手役をしてくれていました。それって、雑誌の性格上とても大切なことで、取材を円滑に進めることができたり、情報をいただいたり、と。また、その頃よく木崎さんの家へ原稿を取りに行っていたんですが、『ニューミュージック・マガジン』の原稿を取りに来ていた北中さんとばったりお会いしたりもしましたよね。木崎さんが「これから原稿書くから、君たちはそこで自由にやっていてね」って(笑)。

山浦:(笑)。そう考えるとお二人の付き合いは長いですね。

天辰:僕はお会いする前から北中さんの原稿は読んでしましたし、それまで書かれていたものとちょっと違う言語で書かれているような文章だったので、「もっと読みたいなあ」と思っていました。

北中:今見ると『ミュージックライフ』にも結構詳しい記事が載っているんですが、基本的にはグラビアを中心にしてアイドル的にスターを売るような形で編集されています。で、『ニューミュージック・マガジン』はちょっと視点をずらして、写真は載らないけれど、その音楽についてもうちょっと突っ込んだ話をするというか、酒場のマニアックな音楽ファンがしゃべるようなものを、原稿として読める雑誌として出てきたと思うんですよね。社会的な背景も含めて音楽を捉えるという、中村とうようさんのキャラクター、考え方だったと思うんですけど。

だから、編集も『ミュージック・ライフ』ではやらないようなことを中心にやるというのがポリシーとしてありましたし、ちょうどあの頃、日本でロックのアルバムが本格的に紹介され始めた時期でもあったので、レコード会社がそういったメディアを必要としていたところもあったんじゃないかなと思うんですね。CBSソニーやワーナー・パイオニアのような外資系の合弁会社がいろいろできて、それまでの日本のレコード会社とは売り方が変わり始めた時期に『ニューミュージック・マガジン』はフィットしたのかなと思うんですね。

山浦:余談なんですが、僕が『ニューミュージック・マガジン』で衝撃を受けたのは、中村とうようさんがキューバにさとうきびを刈りに行ったりしたじゃないですか?

北中:あれは72年くらいですね。

山浦:『ニューミュージック・マガジン』をほったらかして行っちゃったんですね(笑)。当時、折田(育造)さんが「とうようさんがキューバにさとうきび狩りに行くというから応援したい」って言っていて「どういうこと? 『ニューミュージック・マガジン』はどうなるの?」って思ったんですよ(笑)。

北中:とうようさんはもともと京都での学生時代から中南米音楽同好会みたいなものに入っていて、そこには永田文夫さんという方もいたんですけれども、東京に出てきて『スイングジャーナル』なんかにいろんな原稿を書いたりしていたんです。その後フォークに出会ったり、ロックに出会ったりして『ニューミュージック・マガジン』を創刊するんですが、とうようさんの最初の本って実はラテン音楽の本(『ラテン音楽入門』)だったんです。ですから、その頃からキューバとは関心領域として繋がりがあったんだと思うんですね。

また60年代は国際的に左翼運動が盛んだったので、キューバが59年に社会主義国になったときに日本でも応援する人がたくさんいて、サトウキビ刈りのボランティア・ツアーが何度も実施されていたんですよ。とうようさんはその主催者と知り合いだったので「行ってくるわ」と。

屋代:本当にサトウキビ畑の農作業に行ったんですか?

北中:ええ。畑で作業をしたのは1ヶ月ぐらいだったと思うんですけど、あと2ヶ月くらいはキューバのいろんな人と交流したり、今で言うピースボートみたいなものだったと思うんですが。

山浦:帰国されてから、とうようさんに変化はありましたか?

北中:どうですかね(笑)。とうようさんが行く頃にはレコード会社が広告をいろいろ出してくれるようになって、多分経営基盤が安定したんだと思うんですね。今から振り返ってみるとですけど。ですから、その頃には僕も含めて編集部員はかなりいて、事務的に編集作業はできていたので、キューバへ行けたんだと思います。

山浦:当時『ニューミュージック・マガジン』ってどのくらい売れていたんですか?

北中:僕らも数字はわからないんですけど、当時3万部くらいと公称していたはずです。『ミュージック・ライフ』は10万部とか言っていたような。

天辰:僕も売り上げとか全然興味がなかったので、正直よく分からないです(笑)。

 

音楽誌の編集部が交流の場だった

山浦:僕は当時ワーナー・パイオニアというレコード会社にいましたが、『ニューミュージック・マガジン』とシンコーの『ミュージックライフ』の存在は非常にありがたかったです。こちらはプロモーションが仕事ですが、新譜が来たら真っ先に飛んでいくところが両編集部で、そこにいらっしゃる編集部とかフリーの評論家の人の力を借りてプロモーションするのが第一義でした。そこで、評論家の方の趣味嗜好を把握しながら原稿依頼したり、お話を伺ったり、すごく勉強になりました。ロックやポップを教えてもらった先生たちですよね。

当時メディアが力を伸ばすことでポップ文化、ロック文化が日本に根付いてきて、その後に続けとばかりに、渋谷陽一さんとかが頑張ってどんどん広がっていったと思うんです。でも、最近はその力も薄れてきているような気がします。フェスは盛況みたいですけど。

天辰:その話と直結するかどうかわからないですが、僕らが編集者だった頃って、直接原稿を取りに、書いていただいている人たちのところに行っていました。例えば、亀渕(昭信)さんにせよ、木崎さんにせよ。また、その逆でミュージシャンも含め編集部に遊びに来る人もたくさんいて、その中で交流が生まれる。

山浦:編集部が遊び場だったんですよね。

天辰:情報収集や交換の場としても機能していたと思います。ミュージシャンたちだけでなく、原稿を書いていただいている方たちも気軽に来てましたし、例えば、レコード会社のかたたちにしても仕事がなくてもフラリと立ち寄ってくれて、音楽の話のほかに、映画だとか、本だとかの話とか、時にはプライベートな話をしたりして親しくなったり、今はそういう場としてのフェスという部分はあるんじゃないのかなと思います。

山浦:なるほど。同じようなことがライブの場で行われているんじゃないかと。

天辰:海外アーティストのライブチケットは高くなったとはいえ、みなさん行っていますし、ライブ会場は埋まっていますよね。

山浦:天辰さんは海外取材も多かったんじゃないですか?

天辰:ここのところは行っていないですけど、80年代の頭ぐらいから90年代にかけては頻繁に行かせてもらってました。アメリカ西海岸はもちろんロンドンやカナダ、スペインとか、レコード会社からの依頼取材がほとんどでしたが。日本でも洋楽市場が大きくなり、アメリカやイギリスのミュージシャンの新譜が出たときやツアーを始めるときのプライオリティが結構上がってきて、「先乗りで取材してきてくれ」という依頼が多かったんです。福田(一郎)さんとか湯川(れい子)さんとか大御所の方たちは、レコード会社の方が何人かついてケアしなきゃいけないけど、僕とか、当時多分いちばん海外取材に飛び回っていた(中川)五郎さんとか、レコード会社はついていかなくてもいい(笑)。

山浦:天辰さんたちはケアなしで動いてくれる便利な人たちだったと(笑)。

天辰:そうですね(笑)。向こうでカメラマンと通訳をつけるから「それ以外は適当にやってくれる?」みたいな。取材に関しては時間がすでに決められていて、それ以外の時間は比較的自由だったので、日本で観られないアーティストのコンサートとかを観に行ったりしていました。

屋代:楽しそうですね(笑)。

天辰:楽しかったですね(笑)。思い出に残っているのは、(中川)五郎さんがドイツへ先乗りして他の人の取材をして、そしてロンドンで誰かの取材で僕と合流し、次は二人でニューヨークへ行って取材して、ニューヨークからナッシュビルへ行き、ナッシュビルでまた取材してナッシュビルからマイアミまで行って取材して帰ってくるという強行軍をやったことがあって、五郎さんはぼくより先乗りだったのでさすがに途中で倒れていましたけど(笑)。

山浦:天辰さんは「ラストワルツ※」を観たり、数々のコンサートを現地で観ていると思いますが、まずは「ラストワルツ」、ロック史に残る貴重なコンサートを見届けられた感動体験を改めて伝えてもらえますか?76年でしたよね?そしてその後、他のアーティストのライヴ体験、観られて良かったなと思うコンサートなどもお聞きしたいです。

※ラストワルツ:1976年にザ・バンドが米国カリフォルニア州サンフランシスコのウインターランドで行った解散ライブの名称。長年にわたってアメリカン・ロック界を支えたザ・バンドのラスト・ライブということで、豪華なゲスト・ミュージシャンが参加し、ザ・バンドとの競演を果たした。

天辰保文氏(ザ・バンドのビッグピンクの前)

天辰保文氏とロビー・ロバートソン(ザ・バンド)

天辰:そうですね、1976年ですね。会社を辞めてブラブラしてる頃で、山浦さんも良くご存知の加藤(正文)さんもぼくと前後してワーナーを辞めて、二人でよく遊んだりしていて、「一緒にカリフォルニアにジャクソン・ブラウンのコンサートでも見に行こうかと」と、そんな話で盛り上がってたんです。そんなときに、ソニーのディラン担当の(菅野)ヘッケルさんから電話をもらって、「ザ・バンドの『ラスト・ワルツ』にディランが出るみたいだよ、行くんだったら、チケットはなんとかなるよ」と。だったら是非と、お願いして。加藤さんは、仕事が入ってて、じゃあ、ロサンゼルスのホテルで待ち合わせればジャクソンも見れるね、なんて都合のいい計画を立てて(笑)。

それで、ぼくは一足先に発って。ザ・バンドもそうですが、ディランを見るのは、そのときが初めてで、ロックの王様のようでしたね。他にも、ジョニ・ミッチェルだの、ニール・ヤングだの、エリック・クラプトンだの、ヴァン・モリソンだの、それはもう夢の中にいるようでしたけど(笑)。でも、いちばんは、ザ・バンドの演奏がすごくて、最初の「クリプル・クリーク」の演奏が始まった瞬間に、渋いロック・バンドというイメージは僕の中で吹き飛んでしまいました。大袈裟な華やかさはないんですが、エレガントというかね、音にも強靭な弾力があって、5人のたたずまいも含めて、理想のロックの一つでした。それと、最後のセッションで、ニール・ヤングとスティヴン・スティルスがギターを弾きあって、肩を組んで帰っていく、その姿には、バッファロー・スプリングフィールド・ファンとしては感動しました(笑)。

加藤さんとは、そのあと合流して二人の珍道中が始まるんですが、それはもう話し出したらきりがないので(笑)。でも、一緒にサンフランシスコでグレイトフル・デッドのニュー・イヤーズ・イヴ・コンサートとか、ロサンゼルスのトルバドールでファンキー・キングスとか、沢山、いろんなのを見て楽しい時間を過ごしました。

その後、取材の仕事で印象に残っているのは、U2を比較的最初の頃から存在が大きくなっていく様子を見れたことですかね。「ヨシュア・ツリー」ツアーも何回か観ました。ロサンゼルス公演ではボブ・ディランが飛び入りしたんですよ。あとラジオの仕事だったんですが、ストーンズが初来日したときに、それに先行してロサンゼルスでやった公演ではガンズ・アンド・ローゼズが前座で、ゲストというか飛び入りでエリック・クラプトンが出てきたり、そういうのを観られたのは良かったですね。

屋代:今音楽メディアでそのように海外に取材に行ったりとかしているメディアってあるんですか?

北中:行っている人もいると思うんですが、最近は駐在員からのレポートとかが多いですね。

天辰:とにかくあの当時はみなさんすごく行っていましたよね。

屋代:当時はメールで写真も送れないし、スカイプみたいなこともできないし、行くしかなかった時代ですよね。

天辰:今は音楽業界で仕事なさっている方たちよりも、ファンのかたたちのほうが熱心で、どんどん海外に行って向こうでコンサートを観たりしていますよね。

屋代:会社のお金で行ける人はもうあんまりいないということですね(笑)。

天辰:多分ね(笑)。そういう意味では恵まれていたと思います。

山浦:リトル・フィートは観ましたか?

天辰:リトル・フィートは日本で、ですね。ローウェル・ジョージも存命で。北中さんはローウェル・ジョージの取材をしましたよね?

北中:ええ。取材時にバンドが2つのチームに分かれて対応していたんです。で、最初はローウェルがいなかったんですが、ローウェルのいたチームのインタビューが早く終わったので、ローウェルが僕のいた部屋へ入ってきて、途中から参加してくれました。

天辰:僕もローウェル・ジョージのいないチームで、ローウェルが「こっち終わったよ」って遊びに来た記憶があります。

北中:同じですね(笑)。

山浦:(笑)。

天辰:北中さんとはロサンゼルス一緒でしたよね。

北中:ドクター・ジョンとか観ましたよね。

天辰:ロサンゼルスでマルチカの誕生日パーティーみたいなのがあって、それに日本から何人か行ったときに北中さんとご一緒していて、時間があったから2人でドクター・ジョンを観に行ったんですよ。

屋代:山浦さんがワーナーにいたとき、海外取材を依頼するって少なかったんですか?

山浦:少なかったんじゃないですかね。そこにお金は使っていなかったですね(笑)。

天辰:ワーナーからの依頼で何回か行ったような気もしますが、多かったのはCBSソニーと当時のキャニオン・レコードですかね。誰かが海外へ行くという情報がレコード会社間で流れると、「じゃあうちのも取材してきて」という感じでした。

山浦:便乗して(笑)。

天辰:そういう気軽な感じでしたね(笑)。

 

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