第201回 株式会社阪神コンテンツリンク ビルボード事業本部 企画制作部長 長崎良太氏インタビュー【前半】

インタビュー リレーインタビュー

長崎良太氏

今回の「Musicman’s RELAY」は音楽&旅ライター/選曲家 栗本斉さんからのご紹介で、阪神コンテンツリンク ビルボード事業本部 企画制作部長 長崎良太さんのご登場です。大学在学中、ブルーノート大阪でのバイトから音楽業界のキャリアをスタートさせた長崎さんは、「招聘」という仕事の魅力に目覚め、ブルーノート名古屋の立ち上げに参加。ジャズを中心に多くのレジェンドアーティストをブッキングされます。

その後、2013年に阪神コンテンツリンクへ移籍。さらに幅広いジャンルのアーティストたちを洋邦問わず招聘し、Billboard Liveのブランディングに邁進。現在はBillboard Liveのブッキングをはじめとした企画制作全般を統括されています。そんな長崎さんに、やんちゃな街で育った少年時代から、大阪・名古屋時代のエピソードや現在のBillboard Liveにおけるお仕事まで、じっくり話を伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也、山浦正彦 取材日:2023年2月21日)

 

日々サバイブだった小中学校時代

──前回ご登場頂いた音楽&旅ライター/選曲家 栗本斉さんとはどういったご関係なのでしょうか? 

長崎:僕は2013年の9月までブルーノート名古屋の責任者をやっていたんですが、当時、栗本さんはBillboard Liveの社員としてブッキングをなさっていました。2012年頃に栗本さん得意の放浪癖がウズウズし始めたみたいで(笑)、会社を辞めて沖縄に移住することになったんですよ。

──(笑)。

長崎:ちょうどその頃、僕も転職を決意していて自分のキャリアを活かせる新天地を探していたんです。幸いテレビ局の事業部や音楽事務所、コンサートプロモーターなど いくつか声をかけてくださる会社があって、その中のひとつが阪神コンテンツリンクでした。

──そのときは名古屋にいたんですか?

長崎:東京と名古屋で半々くらいの生活をしていました。僕もブルーノート名古屋の責任者をやっていましたから、栗本さんを始め全国の音楽会場や野外フェスティバルの企画担当やブッキングの方々とはほぼみんな顔見知りでしたし、それぞれ情報交換したり切磋琢磨やっている仲だったんです。

実はそのとき「栗本さんが辞める」とは聞いていなかったんですが、とにかく即戦力を探しているから「興味ない?」みたいな話をして頂いていました。ただ、僕も自身の企画が色々と走っていて急に持ち場を離れるわけにもいかないですし、他社のオファーも聞いてみたいので「まあ、そのうち・・・」みたいな返事をしていたんです。でも、いよいよ栗本さんが家族と沖縄へ移住するとなったときに、再度話をして転職を決意することになります。1年以上かかったと思います。

それで、栗本さんとは引継ぎ期間として半年ぐらい一緒に働くことになりました。栗本さんはもう退社していて業務委託の立ち位置で、僕は正社員として入社して、そこで一緒にBillboard Liveのブッキングをやっていました。栗本さんは音楽的な素養も高い人ですし、今でもすごく信頼しています。

──年齢は近いんですか?

長崎:年齢は栗本さんが8つ上じゃないですかね。栗本さんは自由人なので、上司・部下という関係値ではなかったですし、今でもフラットに仲良くさせてもらっています。

──ここからは長崎さんご自身のことをお伺いしたいのですが、お生まれはどちらですか?

長崎:生まれは大阪市内の商店街で有名な千林というところです。東京で言うと北千住か立石みたいな感じと言いますか(笑)、血気盛んな商売人気質の街です。まあ下町ですね。

──ご両親も代々大阪ですか?

長崎:両親も親戚もみんな大阪で、僕も24、5で名古屋へ行くまでは大阪から出たことがなかったです。今勤めている阪神コンテンツリンクは阪急阪神ホールディングスグループの会社で、鉄道や百貨店、あと阪神タイガースがあったり、関西の生活に根付いている会社ですから、そういう意味ではこの会社にいてほっとする部分もあります。今は東京で生活していますけど、やっぱり根っこは関西人なんだと思いますね(笑)。

──ご両親はどんなお仕事をされていたんですか?

長崎:父親が大阪府の教員として中学校で数学を教えていたので、他府県に転勤とかはなく、そういうこともあって僕もずっと同じところで育ちました。母親はOLというか普通の勤め人です。ふたりとも70歳を過ぎた今も働いています。

──ご兄弟は?

長崎:姉と弟がいます。姉はすごく真面目な人なのに対し、僕はこんな性格なので(笑)、メチャメチャやってよく怒られていましたね。

──小学校、中学校ともに地元の学校ですか?

長崎:そうです。地元の小中学校に行くんですが、当時はとにかく荒れているというか不良が多かったので、小中学校ともに日々サバイブみたいな感じで(笑)、先輩には絶対服従。殴られるわ、「金集めてこい」とか命令されるわ、結構ハードコアな幼少期だったと思います。

──あまりガラはよくない環境?

長崎:良くないですね(笑)。当時は映画『ビーバップハイスクール』やドラマ『スクールウォーズ』が人気で、不良や暴走族が特に多い時代でしたし、育った土地柄的にもやんちゃな人が多くて本当にメチャメチャでした(笑)。学校の花壇が燃えていたり、学校の中にバイクが走り回っていたり、卒業式は毎年警察が学校を包囲していました。そういう感じが日常でしたね。

──なかなか本格派ですね(笑)。

長崎:子どもの頃はそれが普通だと思っていたんですよね。あれがちょっと異常だったんだと気づくのは高校に行ってからでした(笑)。

──大阪中がそういう状態だったわけではないですよね?

長崎:う~ん、当時の大阪は結構ひどかったと思います。校内暴力とかよく新聞の記事になっていましたし、全体的に荒れていたと思います。まぁ時代ですかね…。

──ワイルドな環境でお育ちになって。

長崎:自分はそういった悪さを先陣切ってやっていたわけではないですが、小さい頃から活発な方で、友達はいっぱい居ました。暴走族で先頭走っているような友達から、一方で家でゲームに明け暮れているオタクっぽい友達まで分け隔てなく仲良くしていたので、バランサーだったんだと思います。そんな性格だから子供会でも会長をやらされていました。それで中学に上がる頃に近所の先輩から「ラグビー部に入れ」って言われて、半ば強制的にラグビー部に入れられるんです。

──ラグビーは小学校からやるんですか?

長崎:はい。ラグビーボールを持っている子供は多いと思います。大阪はラグビーが非常に盛んで、ラグビー部はヒエラルキーで言うと頂点なんです。その下が野球部、柔道部で、サッカー部はさらにその下。とは言いつつ、いかにもモテそうなサッカー部に密かに憧れを抱きつつ、実際はラグビー部に入らないと先輩に殴られるから入るんですけどね(笑)。

──殴られる(笑)。

長崎:ですからラグビー部はもう吹き溜まりみたいな(笑)。そういう環境でしたから、中学校は日々サバイバルでした。そういった環境で胆力というか、根性がついたというか、世の中を達観したみたいな感覚は中学1年ぐらいで既にあったかもしれないですね。もう怖いものはない、失うものはなにもない、みたいな覚悟を持って小中学校時代を過ごしていましたから、そういう意味で度胸は据わっていたと思います。中学3年になると僕もラグビー部の副キャプテンになり、不良を管理する立場になっていたので、先生も不良に対して直接モノを言えないから僕を通して言ったりしてましたね。交渉役ですね笑。授業を抜けだした彼らを探しにいくのも僕の役目でした。

──サバイブするのに必死だったと。

長崎:ええ。そりゃ 急にトーナメント表作られて「おい お前ら1年今から全員でケンカしろ」とか先輩に言われるんですからね。鼻血が出てても「折れてないから全然OK!」みたいな(笑)。毎日そのレベルです。中学校は毎日終えると「やっと1日が終わった・・・」みたいな感じだったですね(笑)。

 

家の中では洋楽しか聴かなかった

──そんな過酷な環境の中で、音楽は聴かれたりしていたんですか?

長崎:音楽は大好きでよく聴いていましたね。僕は中学ぐらいに米米CLUBやプリンセスプリンセスみたいな世代なんですが、母親がビートルズの追っかけをやっていたような人なので、家にレコードがありましたし、常にNHK FMがかかっている家だったんですよね。ですから、僕は家の中では洋楽しか聴かなかったんですけど、学校に行けば学校に行ったで、みんなと話を合わせなきゃいけないですから、それなりに「ザ・ベストテン」も観ましたし、邦楽も聴くけど、それはカラオケ対策という処世術でした。やはり洋楽が大好きで、ビリー・ジョエルやケニー・ロギンス、スティービー・ワンダーみたいなアーティストをよく聴いていました。

──学校では話を合わせていたんですね。

長崎:まぁそういう環境でしたからね。家にいるときだけの楽しみとして姉と2人でエアチェックしたりしていました。ちなみに姉は『スクリーン』と『ロードショー』を2冊とも買うような映画マニアで、音楽ではニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックという当時のアメリカのアイドルグループが好きでした。当時ではマセていましたね。おかげで僕も当時の映画は結構詳しいです。

──家から一歩出ると歌謡曲や邦楽で、家のなかではアカデミックな曲も聴いていたと。

長崎:アメリカンポップスに魅了されたのと、原体験は映画音楽ですね。ハンス・ジマー、マイケル・ナイマン、ヘンリーマンシーニ… 映画のエンドロールを何回も一時停止してクレジットを読んでいました。自分には両極端な二面性があると思っていまして、家ではものすごくオタク気質で、なにかに没頭してそればかりやるみたいな感じ、1歩外に出るとスポーツやってヤンチャしてみたいな。それを子どもながらに使い分けていたように思います。今でもそういうところはすごくあります。

──そうしないと生き延びていけないということですよね。

長崎:そうですね(笑)。それが自分の性質なのか、生き延びる術なのかはちょっとわからないですけど。それで洋楽を聴くうちに漠然と「洋楽の仕事ができればいいな」と思い始めたのが中学2~3年生ですね。

──世代的にはマイケル・ジャクソンやマドンナとか、そういうアーティストがすごかった頃ですか?

長崎:物心がついた頃からマイケル・ジャクソンやプリンス、デヴィッド・ボウイ、マドンナとかが人気でしたね。彼らはみんなほぼ同い年ですしね。ちょっと親の世代だとビートルズを聴いたり、大阪城ホールにコンサートを観に行ったりとか、そういうことをしていましたね。

──ちなみに長崎さんの学生時代のファッションは、いわゆるヤンキーファッションだったんですか?

長崎:全然ですね(笑)。そういう先輩はいっぱいいましたけど、長ラン、ボンタン…もう見すぎて内心ちょっと小ばかにして「ああはならないようにしよう」と思っていました(笑)。

──ああなったらおしまいだと。

長崎:僕の世代は逆にそうなんですよね。1年上、2年上の先輩がもうヒドかったので。僕らはそれを見て逆に都会派というか、どちらかというと街で遊ぶみたいな感じが多かったですね。音楽でもクラブイベントをやっている友達がいたり、ヤンキーファッションのカウンターとして逆にコムデギャルソンを着たやつがいたり、そういうノリでした。

僕はそういったヤンキーばかりの小中学校が嫌で、高校はアカデミックなところに行こうと決めていたんです。とにかくこの不良の町から出たいと思っていたので、高校に行くときにいろいろ探して、大阪って学区制度があって、その学区内でしか進学できなかったので、「どうやったらこの人たちと無縁の生活ができるんだろう?」っていろいろ考えていたんです。

──やっぱり縁は切りたかったんですね。

長崎:もうお腹いっぱいでしたし、もうこれは環境を変えるしかないみたいな。もちろん私学に行くという選択肢もあったんですが、僕は小中学校とラグビーをやっていたので、そこそこラグビーが強くて家から遠くてほどほどに賢いところを探していたら、当時国際教養科というのができた時代で、その国際教養科とか理数科だったら学区関係なしにどこからでも受けられるという制度があって「これしかない」と。それで、ちょっと離れた高校を受けて、そこからはもう地元の先輩とかとはもうほぼ縁が切れて人生第2章スタートみたいな感じでしたね(笑)。

──脱出成功で(笑)。実際に遠い学校だったんですか?

長崎:大阪府立住吉高校という歴史がある学校で、同じ大阪市内なんですが、地元が北の端だとすると、その学校は本当に南の端ぐらいの感じの位置関係でした。東京で言うと足立区から世田谷区に通うみたいな感覚ですね。

──越境入学ですね。

長崎:もう越境もいいところですね。ですから、その学校には自分の中学からは僕1人しか入学しなかったです。学区がなかった分、いろいろなところから個性的な子が集まってくるんですよね。帰国子女の子も大勢いました。

──そこに入学できるということは、勉強はできたんですか?

長崎:数学に関しては、父親のおかげでいつも96点ぐらいで、1~2つはミスをするんですが、高得点を見込めてあとはそこそこみたいな、どちらかというとその一点突破ですね。英語は得意でその他の文系はボロボロだったんですが、理数系で得点を稼いでいくみたいな感じでした。

──でも家ごと引っ越したわけじゃないですから、地元に帰ってくるとそのやんちゃな雰囲気はそのままなわけですよね?

長崎:それはいまだにあります。駅前でたむろしているガラの悪い連中は だいたいがラグビー部の仲間です。「お前シュッとしやがって!」とか言ってからかわれます。

 

ブルーノート大阪で招聘の仕事に魅せられる

──高校生活はどうでしたか?

長崎:国際教養科という英語やアメリカ文化、欧米文化を学ぶカリキュラムでしたので、そういうことに興味がある子がいっぱい集まってきたんですよね。中学のときはクラスで1人いればよかった、ジギー・スターダストの話とかをできる子が高校にはたくさんいて、そっちのほうがマジョリティという環境に急になったんです。ですから、僕も楽しかったですし、周りの子もみんな「あ、ここではこういう話ができるし、ここは自分たちの趣味がマジョリティなんだ」って感じたと思います。

──大阪中からそういう話をしたい人が集まったと。

長崎:集まったんでしょうね。ですから、そのときにいい意味でカルチャーショックを受けたというか、こっちは居心地がいいし、中学が異常だったんだとそこで初めて気づいたんです。ブラックミュージックにどっぷりハマったのはこの頃です。ヒップホップもR&Bもいい時代でした。R&Bをまだブラコンと呼んだ時代です。1993年ですね。

あと高校でもラグビーは結構真剣にやっていました。子どものときからやっていますし、高校は公立校ですが、僕らの代だけすごく優秀なラグビー部の人たちが各中学からたまたま集まってきていて、そこそこ強かったんです。それで高校最後の大会で、強豪の大阪工業大学高等学校(現:常翔学園高等学校)とベスト8で当たったんですが、これがメチャメチャ強くて、そこで僕は「あ、これラグビーの道はないな」って悟ったんですよね(笑)。

──レベルが違うと。

長崎:カチカチでしたね。アスリートでした。体もデカいですし、コテンパンにやられたことで「はい次の人生」とラグビーを忘れることができました。それがなかったら大学でも社会人でもやろうと思っていたかもしれないです。

──ちなみにポジションはどこだったんですか?

長崎:僕は9番と15番を両方やっていました。走るポジションなので、運動神経だけである程度はできちゃうポジションなんですよね。でも、全国で優勝するレベルは違うなと。相手の大工大はあれよあれよという間にそのまま全国大会花園で優勝しちゃいますから「あいつらメチャメチャ強かったんだ」ってあとになって思いました。それでもその試合「前半20分までは6対0でオレ達が勝っていた」というのは同級生での酒の肴であり、ちょっとした誇りです。

それでラグビーをやめて「次はどうしようかな」と思っていたら、ラグビー部の誰かが「働きながら大学に行ったりできるところがあるらしい」と朝日新聞の奨学金制度を見つけてきたんです。お金のない家庭の子とかが新聞配達所に下宿して、新聞配達所が学費なり専門学校のお金を全部肩代わりして、それを働いて返すという、3食寮付きの制度があると。「じゃあラグビー部みんなでやるか。そこだったら別に親に学費を出してもらわなくてもいいし、念願の1人暮らしもできて一石二鳥じゃん」みたいな。それで何人かで申し込むことになったんですよ。

──ラグビー部みんなで申し込んだんですか。

長崎:そうなんですよ。でも結局やったのは僕ともうひとりの計2人だけ。何か特別な決意とか悲壮な覚悟があったわけではないですけど、勢いだけですね、悪ノリです。しかも一緒に申し込んだのにバラバラの配達所に赴任させられて、一緒に楽しもうと思っていたのにバラバラになっちゃったという。でも念願の実家脱出計画がうまくいって充実していました。18歳の頃です。

──新聞って何部くらい配っていたんですか?

長崎: 300部を朝の2時間半で配ってました。まず入寮初日に職場に行くと、パートのおじさん、おばさん方が挨拶もしてくれないんです。「どうせすぐ辞めるだろう」という空気に包まれていて、実際そうだったみたいです。10人来ても3日後に3人辞めて1ヶ月後には誰も居ない、みたいな。それで1週間くらい経った頃にパートのおばさんから話しかけてきてくれて「意外と続いてるね」って缶コーヒーくれたんです。でも、僕からしたら「おばちゃん、ゴメン、楽勝。しかもお金までもらえるし、最高っす。」みたいな。エネルギー有り余っていたので余裕でした。その日以降は毎朝缶コーヒー片手におばさんの生活のグチを聞く時間が加わりました。高校を出て、そうやって働きながら寮に入ってやっていました。新聞配達で月給30万円ぐらいくれて、住むところはタダ、3食タダで結構お金も入って、楽しかったんですよね。朝3時に起きて配って、ちょっと寝て遊んで、また夕刊を配りに行き、そのあとは折込チラシの営業で夜9時頃まで残業。そのあいだにちょっと大学の勉強をするみたいな生活でした。

──ちなみに大学はどちらへ行かれたんですか?

長崎:大阪工業大学です。大学に行くとみんなキャンパスライフを楽しんでいるわけですが、僕は高校で十分楽しみましたし、大学には本当に勉強をしにいっていたので、キャンパスライフを楽しんでいる空気感に馴染めなかったんです。しかも新聞配達でひと足先に社会勉強が出来てお金も持っていたし「これ大学に行く意味あるかな?」と僕は大学を辞めたんです。その後「なにか他に仕事はないかな?」と思っているときに、当時FM局のアルバイトとか、音楽業界系のアルバイト求人を軒並み探してきて、それこそソニーミュージックも受けましたし、とにかくいろいろバイトをやっていたんです。その中のひとつがブルーノート大阪でした。

当時、大阪で外タレを呼ぶってそこしかなかったぐらいの会社で、受付やって店番をしたり、チラシを作ったり、電話を受けたりとか、いろいろな雑務をやっている中で、外国人アーティストを招聘するためのビザの仕事や交渉など、そういう仕事があると初めて目の当たりにして「これは面白そうだな」と、招聘の仕事に魅せられて、そのあと当分そこで働くことになります。

──大学は1年の途中で辞めたんですか?

長崎:3年になるときですかね。その間1度休学したんですよ。学生課みたいなところに呼び出されて「いじめられているのか?」とか言われて、「いやそうじゃなくて」みたいな(笑)。「実はこうこうこうで、もう働いていて。勉強しに来ているんだけど学校の雰囲気がみんな遊びに来ているような感じで馴染めません」みたいなことを言って。

──ご両親は何も言わず?

長崎:言わないんですが、将来の不安はあったと思いますよ。僕が音楽系の仕事をしたいなと思っていても「同じ英語を使って仕事をするなら貿易系とか通関士とかどうなの?」みたいなことは節々でアドバイスしてくれて。それでその頃、商業英語や通関士の勉強もしていたんですが、今、業務上は同じことをやっていますからね、人生わからないものです(笑)。だから無駄ではなかったなと今にして思いますね。まあ、いろいろ将来の可能性を模索する中で、音楽の仕事と言っても、当時ハタチそこそこの若造に音楽の仕事にはどういうものがあるのかなんて、きっとわからなかったと思うんです。

──それは分かりませんよね。

長崎:それでブルーノート大阪で何年か働いていたんですが、2001年にブルーノートを名古屋に作るという話が出てきたんです。ブルーノート事業ってフランチャイズでして、当時東京・大阪と経営母体が違ったんです。名古屋は地元の株式会社ダイテックというIT企業が名乗りを上げてブルーノート事業をやることになっていて、その目的のために社内ベンチャーを立ち上げたところでした。自社で持っているテナントビルの有効活用の一環で、いろいろなアイデアがあった中 決まったのがブルーノート事業ということです。社内ベンチャー事業だから新規で人を探していて、当時、僕は24歳とかだったと思うんですが、声をかけて頂きました。

そのときはまだ将来も音楽の仕事をするか、通関士になるか、いろいろ悩んでいる頃でしたが、「やってみろ」と言われたときに、これはチャンスになるかもしれないと思って、名古屋は通過するだけで行ったこともなかったですが二つ返事で「行きます」と。それで、スグに新幹線飛び乗って名古屋に行ったんです。建物はあるけど、まだなにもできてない状態からのスタートだったので、ベニューを作る作業と、あとはチームを作らないといけないので採用活動、あとオープン日は決まっていたのでブッキングや宣伝とか、やることが山積みでした。

 

アーティスト送迎からキッチンまで何でもやったブルーノート名古屋時代〜巨匠オスカー・ピーターソンとの想い出

──最初に集められたのは何人ぐらいだったんですか?

長崎:最初は5人ぐらいのプロジェクトチームで、IT会社から幹部も出向で来ていました。その事業会社のオーナーというのが、株式会社ダイテックの堀誠会長という方でした。このダイテックという会社はガソリンスタンドのPOSシステムや、土木CADの全国トップシェアを誇る会社で、ものすごく技術もお金も持っているんです。そんな会社がなぜブルーノート事業をオーナー自らの肝いりでやろうとしたのか当時はよくわからなかったですね。

──オーナーの方はおいくつだったんですか?

長崎:当時65歳ぐらいだったと思います。堀会長は創業オーナーで、かつ公認会計士と大変頭の切れる大経営者で、そんな方の傍にベッタリと張り付いて、経営学や、座学だけでは決して学ぶことのできないリアルな経営哲学を叩き込まれました。「独立自尊・顧客創造」という理念をはじめ、「入りを量りて出を制す」など数えきれないほどの金言を頂きました。「取引業者先のプロよりもプロになれ」とよく言われました。例えば、印刷業者よりも印刷に詳しくなり、音響など専門的なことからも逃げるなということです。ブルーノート事業は結構早い段階で軌道に乗りました。そうしたらオーナーは大きな戦略以外は何も言わなくなって「あとはよろしく」という感じで舵取りを任せてくれていたんですね。今から考えると結構な権限、裁量をいただいていたと思います。おかげで寝る時間以外はほとんど仕事していましたが笑。結果、名古屋に11年いることになるんですが、その間は本当にいろいろなことを経験させてもらいました。いまでもビジネスマンとして堀会長のことを最も尊敬しています。

──業務は多岐にわたったんですか? 

長崎:もうなんでもやりました。外国人って朝5時のフライトとかで来たりするんですが、それを空港まで迎えに行くんですよ。ですからもう会社のすぐ近くに住んでいました。

──お迎えまでやるんですか。

長崎:迎えに行ってホテルまで届けて、僕はちょっと車のなかで仮眠して、そのまま9時に出社してデスクワーク片付けて。

──うわあ。

長崎:「人手たりないからエビの皮むくのを手伝って」とか言われてキッチンを手伝ったり(笑)、そのまま客入れしてライブやって機材バラして搬出してトラック送りだして夜またピアノの下でちょっと仮眠してみたいな。

──かなりハードですね。ミュージシャンを1から10まで面倒見なきゃいけないわけですか?

長崎:そうですね。当時知り合ったアーティストは今みんな出演してくれるので、結果アーティストやマネジメントとすごく仲良くなったのでそれはよかったなと思いますけどね。

──よく続きましたね。

長崎:もう毎日必死でした。やはり音楽が好きですし、好きなアーティストを自分で呼んで自分でケアして、お客さんもチケットを買って喜んで帰ってくれたらみんなハッピーという気持ちは根っこにはありますからね。これも中学時代のラグビー部よりは全然マシですしね。

──長崎さん的にブルーノート名古屋時代に最も印象に残っているライブは誰になりますか?

長崎:オスカー・ピーターソンですね。ジャズジャイアンツと評されるピアノの巨匠が亡くなる前の、晩年のライブです。敬称はミスターではなく「ドクター」みたいな。大変なビッグネームです。Dr. ピーターソン。しかも気難しい。

──なかなか面倒臭い方なんですね(笑)。

長崎:契約には「ホスピタルライダー」というのがあって、送迎はバスじゃなくてハイヤーでとかいろいろ細かく契約条項があるわけですよ。もちろんスイートルームですし、家族でくるからコネクティングルームで「この部屋しかダメ」みたいな。僕が日本での責任者だったんですが、当時20代ですから、オスカー・ピーターソンの全盛期なんて生まれてないですし、ただ身体のデカいピアニストと思っていた程です(笑)。まあピアノの前に立つとオーラはすごかったですし、調べれば調べるほど「とんでもない人を今相手にしているな」と思いましたけどね。

とにかく滞在中は大変だったんですが、無事にツアーを終えて帰国した後にオスカーと奥さんから手紙が届いて、僕とオスカーが写っているA3サイズくらいの大きな紙焼きの写真にサインと「サンキュー」みたいなメッセージが書いてあったんですよ。それでふとオスカー・ピーターソンのオフィシャルサイトを見にいったら、「サンキュー、リョウタ。すごく楽しい日本ツアーだった」みたいなことがたくさん書かれていたんです。僕はアーティストからサインをもらわないですし、写真なんて撮ったことないですし、結構仕事と割り切ってやっているんですが、それはすごく感動したんですよね。でも、オスカーはそのあとすぐ亡くなってしまいました。オスカー・ピーターソンという偉大なピアニストと貴重な1週間を一緒に過ごせたのは、僕にとって今でも宝物ですね。

──仕事柄エピソードに事欠かない感じなんでしょうね。

長崎:話せばいっぱいありますよ。言えない話も含めて逸話はいっぱいあります(笑)。でも、好きなアーティストに限って、あんまりいい思い出がないんですよね。意外と嫌なやつだったなとか(笑)。

──(笑)。あと、相手が大物だとどうしても構えちゃったりしますよね。オスカー・ピーターソンには当時あまり知らないこともあって構えずに接したから逆によかったんじゃないですかね。

長崎:そうかもしれないですね。向こうもそのほうが心地いいと思うんです。自分のことは知ってくれているけど、決してビッグファンじゃないというそのスタンスが多分一番心地いいというか。ファンだとやっぱり接しにくいと思うんですよね。だから僕は今もそれを自分の行動の指針にしているんですが、すごく客観的にアーティストを見ています。距離感もそうですし、近づきすぎないけどそばにいるという。その距離感って長くやらないとつかめないものですし、うまく説明もできないですから、自分の後輩や後進の人に教えるのもなかなか難しいんですよね。

 

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第201回 株式会社阪神コンテンツリンク ビルボード事業本部 企画制作部長 長崎良太氏インタビュー【後半】

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