第154回 音楽評論家 吉見佑子氏【後半】

インタビュー リレーインタビュー

今回の「Musicman’s RELAY」は株式会社フジテレビジョン 三浦 淳さんのご紹介で、音楽評論家 吉見佑子さんのご登場です。実家への反発から若くして芸能の道を志した吉見さんは、大阪での芸能活動を皮切りに歌手やディスクジョッキー、声優など幅広くご活躍され、音楽ライターとしての活動が加わると、その驚異的な「人と出会う能力」を存分に発揮。忌野清志郎、坂本龍一、小室哲哉、YOSHIKI、SEKAI NO OWARI等々、多くの若き才能たちと出会い、あるときはライターとして、あるときはプロデューサーとして後押ししていきます。そんな常に新しいものを追い求めてきた吉見さんにじっくりお話を伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

 

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第154回 音楽評論家 吉見佑子氏【前半】

 

才能のある人と売れるものが好き

――吉見さんは洋楽も興味なかったんですか?

吉見:全く興味がなかったです。ちょっと横道に逸れますけど、お金がないときに「ローリング・ストーンズのブックを作ってくれ」って依頼が来たんですよ。私はすごく洋楽がわかっていると思われていたみたいで、キングレコードから「小冊子を一冊やってくれ」と。ローリング・ストーンズ、全然知らないですよ、私。でもお金がないから引き受けたんです。それで友達に「ローリング・ストーンズって何人?」って聞いたら、その人もその人なんですけど「ビートルズがイギリス人だからアメリカ人だよ」って。考えられないよね。

――無茶苦茶ですね(笑)。

吉見:そう(笑)。それで私はアメリカ人だと思い込んで「星条旗を踏みつけて」って文章を書いたら、すごくウケたんですよ。アメリカ人だと思っていたから「星条旗を踏みつけて」って書いたのに「いい原稿だ」って言われて。それくらいひどかった。

――それ、暴露していいんですか?(笑)。

吉見:いいでしょう、もう。昔の話だから。細野晴臣さんがプロデュースした山田邦子の12インチのレビューを書いたときも、45回転で聴かなきゃいけないところを33回転で聴いちゃって、「さすが細野晴臣。どこにも山田邦子の面影はない」とか書いちゃう(笑)。

――回転数が違うから声も違って(笑)。

吉見:そう(笑)。それでも通ったのよ。

――それは面影ないですよね。

吉見:面影ないですよ(笑)。それぐらい無知。色々な人に「恐れを知らぬスピード感と無知」って言われました。でも、インタビューでは矢沢永吉とかにすごく気に入られたんですよ。「吉見と話していると友達と喋っているみたいでいいよな」とか言われて。それからは独占取材になるわけ。達郎さんとも大喧嘩したし、大瀧詠一さんとも喧嘩してきたけど、なぜか私を指名してきた。理由はみんなそれぞれなんですけどね。今でも達郎さんとは仲良しなんですが、達郎さんは私の音楽をわからないところがいいと思っているみたい。

坂本君が私に言ってくれたことは「みんな僕のインタビューをするときに僕のことを調べてきて、知っていることばかり聞くから、すごくつまらない。でも吉見さんは好意だけがある。好意だけあればいいんだよ、インタビューは」って言ってくれましたね。私は好意がない人にはインタビューなどできなかったので、すごく嬉しかったですね。「会いたいから聞きにいく」という単純な動機だけなんですよ。

――でも喧嘩しちゃうんですね。

吉見:うん。大瀧さんとは『A LONG VACATION』のときの取材で喧嘩しましたね。彼とは昔から面識があったけど、『A LONG VACATION』を聴いたら本当に素晴らしくて「取材したい」と言ったら、もう十何年間も取材を受けていなかった大瀧さんが「吉見さんならいいや」と言ってくれたんですけど、「どんな車に乗っているの?」とか「どんなパジャマで寝ているの?」とか「どんな家に住んでいるの?」って聞いたら怒り出しちゃって、「そんなこと聞きたいなら松本隆のところに行けよ」って言うわけ。「君が会いたいのは、俺じゃなくて松本隆だろ」って言って喧嘩になって、それをそのまま原稿に書いたんだけどボツになるんですよ。

で、何カ月か経って『A LONG VACATION』は大ヒットするんですよね。そうしたら大瀧さんが「売れたあとにファンから来た手紙がみんな吉見さんの質問と同じ内容だった」って謝ってくれたの(笑)。だって『A LONG VACATION』で大滝詠一を知ったファンは「大滝詠一って海のそばに住んでいるのかな?」とか思うわけじゃない? 車とかたくさん出てくるから「車好きなのかな?」とか。だから同じように聞いてみたら「僕は何年間もスタジオにいただけだ!」って怒鳴られたのよ。そんなこと私と関係ないし、買う人には関係ないんだけど、そういうことがなかなかわからなかったんでしょうね。

――ひょっとして吉見さんってミーハーなんですか?

吉見:そうなんです。私は芸能ライターと同じようなものだったと思うんですけど、清志郎の一件でみんな誤解したんですよね。坂本龍一を好きになったときにテクノの仕事がいっぱい来たけど、私はテクノのことなんかわかんないわけですよ。それから次に好きになったYOSHIKIのときもヴィジュアル系がいっぱい来ちゃって、「いや、YOSHIKIがいないとダメなのよ。YOSHIKIにしか興味がないから」って断っていました。

――水上はるこさんや東郷かおる子さんもミーハーなところがありますが、音楽のことを一生懸命勉強されていましたよね。

吉見:私は音楽には興味がなかったから。

――要するにいい男が好きだった?

吉見:いい男というよりも才能のある人が好きだったんです。あと、売れるものが好き。売れないものは嫌いだったんですよ。つまらないから。

――逆に言うと吉見さんは売れるものがわかる?

吉見:素人だからわかるんじゃないかな。坂本君が「一番難しいのは素人を続けること。やっぱり習った腕は鳴るんだよね」と言っていましたね。「いつも素人でいることができれば絶対勝てるんだよ」って。坂本君と出会ったとき彼は28、舘ひろしは30、福山雅治は21、エイベックスの社長の松浦勝人も28だったし、とにかく若くてこれから何かが始まるような人が好きなんですよね。セカオワ(SEKAI NO OWARI)のFukaseも23くらいだったかな。インディーズのときに出会っていますからね。

 

 

アーティストと契約してプランニングするスタイルへ

――吉見さんはライター業務だけではなく、プロデューサー的な仕事もされていますよね。

吉見:ライターをずっとやっていましたけど、「これってどこでお金に化けるの?」って思ったんですよ。カメラマンって最初は2,000円のギャラでやっていても、コマーシャルの仕事でも来ればあっという間に化けるじゃないですか。でも、ライターって当時のギャラは400字2000円でしたけど、400枚書いて80万で、たとえ直木賞を獲ってもたいして変わらない。で、私はお金が欲しかったから「このままじゃダメだ」と方向を変えるんですよ。

――例えば、どんなことをされたんですか?

吉見:邦楽アーティストのライナーノーツの仕事が来たんですけど、冗談じゃなくギャラが2万7,000円だったんです。それで「ふざけんな」と思って「30万円」にギャラを引き上げました。なぜ上げたかと言うと、アルバムについているライナーノーツって、そのアルバムを持っている限り一生捨てないわけで「それって宣材と一緒じゃない?」という理屈が私にはあったわけです。その2万7,000円は洋楽の慣習に倣っているんでしょうけど「邦楽は違うでしょう?」と言ったりしてトラブルを起こしていたわけです(笑)。

それから『non-no』にミュージシャンが出るときは音楽ライターやカメラマンを連れてきてページジャックするんですけど、私はそんなことをやっても意味がないと思っていたんですね。つまり『non-no』のことは『non-no』の編集者の方が詳しいわけで、音専誌と同じ原稿を載せても意味がないんですよ。だから私がやるときは「インタビューは私がやります。でも、原稿を起こすのは『non-no』でやって、『non-no』が必要な原稿を書いてください。それを事務所やアーティストがチェックして、最後に私がチェックしますから」って言ったんですよ。そうやったら絶対『non-no』のファンが欲しがるページになるわけです。

――ちゃんとターゲットを見据えてページを作らなきゃダメだと。

吉見:そう。単にページジャックしても意味ないというのが私の考え方でした。その後、アーティストと契約するスタイルに変えて、アーティストサイドで原稿をチェックしていました。要するにパブリシストみたいなもんですよ。どうプランニングしていったらいいか考えたりね。

――PR担当ディレクターってことですよね。

吉見:まぁ、そうですね。1983年頃、私は『若い女性』いう雑誌のグラビア3ページの取材交渉から原稿、カメラマンの選定、タイトルから全部やっていたんですが、そこで井上陽水さんを取り上げたんです。まず1ページ目で築地の魚河岸に陽水さんが立っている。で、パッとページを開けると陽水さんと着物を着た私が物干し台に一緒に立っているというグラビア。取材後、陽水さんから「こんなに取材でもてなしてもらったのは初めてです。感謝しています」って葉書が来たんですよ。これをもらったときは本当に嬉しかったですね。

それで「来年は陽水さんと仕事しよう!」と思って売り込みに行くんですよ。「私と契約してください。必ず役に立ちます」って言ったら、すんなり契約してくれたんです。陽水さんと契約したとき、彼がリリースしたアルバム『バレリーナ』の売り上げって7万枚だったんですね。で、私が契約したその1年半後にリリースした『9,5カラット』は150万枚いくんです。私は何もしてないんですけど、フォーライフは「吉見は魔法使いだ」と勘違いしてくれて(笑)。

――いや、本当は何かしたんでしょう?(笑)

吉見:たいしたことはしてないですよ(笑)。それから7年くらい契約してもらって、陽水さんのパブリシストみたいな形でお仕事をもらっていました。それで私のことが噂になってどんどん契約が増えたんですけど、80年代って割とお金にならなくて、90年代からは「はっきりしないお金をもらうのが嫌だな」とか思っていたりしてね。「でも、お金を稼がないとな」と思った1990年代後半に丸山(茂雄)さんが「吉見が貧乏じゃまずいだろう」と言ってEPICソニーで契約してくれたんですよ(笑)。そこでもやっぱりパブリシストみたいな形でTM NETWORKに関わるようになって、小室哲哉に出会うわけです。

それで小室さんがTRFを立ち上げたときに、TMをやっていたディレクターの小坂洋二さんが「やらない」と言ったので、ここでエイベックスが登場するんです。松浦さんはまだ28か29で、町田にいたんですけど、青山まで来てもらって会ってTRFを手伝うことになりました。当時、私のほうがテレビに詳しかったから、フジテレビのきくち伸さんを小室さんに紹介して、小室さんが司会を務めた『TK MUSIC CLAMP』に繋がります。ちなみに私が出演していた『MJ -MUSIC JOURNAL-』が、TRFが最初に出たテレビ番組だと思います。

――TRFってEPICが「ノー」と言ったからエイベックスに行ったんですか?

吉見:そうです。常に小室哲哉という人は自分が出した答えの未来に興味がありましたからわかりにくかったような気がします。

その後、小室さんはglobeをやるじゃないですか。あれも当初はソニーでやる予定で話が進んでいたんですが、担当する予定だった部署のトップと小室さんが合わなくて、急転直下、小室さんが「エイベックスでやるから」と言ってきて大変でした。エイベックスも「えぇー、ウチで!?」みたいな(笑)。いろいろありますよね。

――ちなみに松浦さんを吉見さんに紹介したのは誰なんですか?

吉見:小室哲哉さんですよ。小室さんはTMをやっていたときからマハラジャでよく遊んでいたんですよね。それでTMのツアーが終わってからも夜マハラジャでDJしたりしていたんですけど、そのマハラジャの宣伝を請け負っていたクリエイティブマックスに千葉さんがいたんです。松浦さんは貸しレコードをやっていて、洋楽がたくさん借りられる中、邦楽で一曲だけすごく借りられていく曲があると。それが「Get Wild」で「この人と会いたいな」と思っていたらしく、千葉さんが小室哲哉さんを松浦勝人さんに繋ぐわけですね。

――あと小室さんとYOSHIKIさんを引き合わせたのも吉見さんだそうですね。

吉見:そうそう。YOSHIKIも私が紹介しました。YOSHIKIに「誰か会いたい人はいますか?」と訊いたら「坂本龍一さんに会いたい」って言ったんですよ。「ごめんなさい。昔親しかったんだけど、今はニューヨークで連絡先がわからないんです」って言って、「小室哲哉さんはどうですか?」って言ったら「会ってみたい」と。それですぐ小室さんに連絡して、西麻布のキャンティに小室さんはポルシェで、YOSHIKIはセドリックに運転手付きで来たんですよ。キャンティの人には「すいません、とがった靴を履いた人が来ますけど大切なお客様だから」と言って。

――(笑)。

吉見:で、小室さんを紹介した。後から小坂さんにすごく怒られるんですよ。「吉見さんは人を紹介するときにビジョンがない」と。「だから二人で盛り上がってV2になって7千万もかかったわけでしょう?」って怒られました。「それは二人に言ってほしいよ」と思いましたけどね(笑)。

 

 

「見たことない」ものが一番面白い

 

音楽評論家 吉見佑子氏

――吉見さんのようにアーティストと近くなれる人は稀有ですよね。

吉見:業界からは好かれてなかったと思いますけどね。スターダストの細野(義朗)さんが私のことを調べたらしいんですよ。そうしたら雑誌社の編集長クラスはみんな私のことを知っているけれど、「『絶対に付き合わない方がいい』と言っていました」と。それで「だから僕はあなたと付き合います」って言ってくれたのですよ。すごいよね。その一言は忘れられないです。「え、みんな『付き合わない方がいい』って言ったのに?」と言ったら、細野さんは「吉見さんはアーティスト側だからでしょう?」と。アーティストを守る、味方する人って雑誌社にとっては面倒くさいじゃないですか。私は、自分のクライアントは雑誌社じゃなくてアーティストだと思っていたんですよ。

――吉見さんはアーティストサイドに立つから、メディアにとっては面倒な人になってしまう。

吉見:そうですね。昔、吉見佑子みたいな人間を作ろうって何人かがやったことがあるんですよ。『PATi・PATi』とかで専属ライターみたいな人を立てて。うまくいかなかったみたいですけどね。でも私は私でその専属ライター的なところから逃げましたからね。

これでもライターになったときに結構期待されたんですよ。「田辺聖子みたいになれ」ってすごく言われて。で、文春で連載を持って「いずれ芥川賞とか直木賞とか獲るのかな」とか思ったんですけど、そのうちに「私の性格じゃ、この道は無理だわ」って思うんです。私って一回でできないことってしないんですよ(笑)。努力が大嫌いで、努力しなきゃできないことはやらないから「これは絶対無理だ」と思って、ライター的な仕事は離れるんです。

――それ、いくつのときですか?

吉見:30くらいですね。私ってずっとサバイバルを研究してきたんですよね。別に頭は良くないし、良い学校も出てないんだけど、生きることの達人になるしかないなと思ったんですよね。

――最近は定期的にお友達会みたいなことをやっているそうですね。

吉見:そうそう。森永博志さんが借りた大きいアトリエで毎回ご飯会をやっています。基本的には4人とか5人とかなんですけど、同じ職業の人をできるだけ呼ばないんですよ。例えば、料理人と人工知能の研究者とレコード会社の人がいたり。YO-KINGとかよく来てくれますし、あとハンバーガー屋のオーナーとかbonoboってクラブの成浩一さん。この人がすごく面白い人なんですよ。最近出会った中ではナンバーワン。あまりに面白くて初めて会った翌日また会いました(笑)。

――その食事会はなにか目的があってということでもなく?

吉見:適当ですよ。でもコムアイが遊びに来たからYO-KINGに紹介したら、『RISING SUN ROCK FESTIVAL』で一緒にやったとか、そういうことはありますよ。

――吉見さんは人と人をつなげる天才ですよ、本当。

吉見:あと田中開くんという人がいて、これがまた最高な奴なんですよ。ゴールデン街に3坪のビルを買って、レモンサワー専門店みたいなのをやっているんですが、彼、田中小実昌さんの孫で、お父さんはドイツ人。すごくイケている奴だから成くんに紹介したら、ものすごく盛り上がったりね。「この人にこの人を会わせたい!」と思うと、とにかくいてもたってもいられないんですよね。そういうのが趣味というか、自分がそこにいなくても全然オッケー、とにかく出会わせたいんですよ。

――若い人たちの情報ってどうやって入ってくるんですか?

吉見:全部たまたまです。まぁ日々探し物というか、ときめくものをいつも探している感じ? この生き方が正しいのかどうかもわからないけど仕方ないですよね。「若い人が好き」というこの気持ちが今後どういう風になっていくのかなって思いますけど。

――この先の展望ってありますか? 

吉見:今日を精一杯って感じですよ。とにかく新しいものにどれだけジョインしていけるかって感じかしら。古いものが嫌いなわけじゃないけど、どんどん新しいものが入ってくると、古いものと別れていかなくちゃならないのが「年を取るってことなのかな」と思いますね。結局、私は明日を見るというか「どうするの? これから」って考えるのが好きなんですよね。私のではなく誰かの明日を探すのが趣味というか。

――これからも吉見さんは好奇心の赴くままに動いていくと。

吉見:そうですね。ゆるふわギャングを見たときも面白いと思いましたし、あいみょんは古い感じの女の子だけど、「君はロックを聴かない」って歌はやっぱり今の子じゃないと書けないでしょう? 男の子の立場で「ロックなんか聴かないと思うけど、僕に寄り添ってもらいたいから君にロックを聞いてほしいんだ」って歌うんですけど、タイトルを見たときに「あ、やられた!」って感じましたよ。

やっぱり「見たことないもの」が一番面白いですから、その見たことのないものをいつも探している感じです。「新しいものなんてもうない」とか言うけど、新しいものってやっぱりどこかからやって来るんですよ、絶対。

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