第16回 小林克也 氏

インタビュー リレーインタビュー

小林克也 氏
小林克也 氏

DJ / 俳優 / ミュージシャン

熱血DJ大貫憲章氏にご紹介いただいたのは、日本が誇る偉大なディスクジョッキー、小林克也氏。今年3月に還暦を迎え、盛大なパーティが催されたことは「Musicman-NET」でもお伝えしたとおりです。DJの第一人者としてはもちろんのこと、数多くのCMや司会、さらに俳優、ミュージシャンとして幅広く活躍し、英会話の達人としても絶大な信頼をよせられている克也さんですが、その英語力に隠された秘密とは…?「スネークマン・ショー」制作中のエピソードとは…?
これまであまり語られなかった克也さんの半生と、業界の「管理職」としての苦言も交えて、ざっくばらんに語っていただきました。

[2001年4月12日/東京青山・ザ・ガーデンにて]

プロフィール
小林克也(Katsuya KOBAYASHI)
DJ / 俳優 / ミュージシャン


1941年3月27日生まれ。広島県福山市出身。
慶応大学在学中よりコンサート司会、DJを始め、DJ、俳優、ミュージシャンとして活躍中。
現在3つのラジオ局で週末合計19時間の生放送音楽番組を担当。
ラジオ聴取率調査ではいずれの番組もNo.1を獲得、名実ともに日本のDJ界の第一人者。

<担当番組>
●ZIP HOT 100(ZIP-FM)
●FUNKY FRIDAY(NACK 5)
●ビートルズから始まる。(BAY FM)
●お願い!DJ!克也とノリちゃん
 はっぴぃウィークエンド(ニッポン放送)
●小林克也のスーパーミュージックスタジアム(ニッポン放送)
●ベストヒットUSA(VJ)
●にほんごでくらそう──英語による日本語講座(NHK教育)

ミュージシャンとしては「スネークマンショー」関連のアルバム16枚、ナンバーワン・バンドとして11枚のアルバムを発表。多数のCMや映画・テレビ出演に加え、「小林克也のアメリ缶」をはじめとする著作も多く、幅広く活躍中。

【Musicman-NET SPECIAL REPORT】「SWEET SIXTY THE還暦!」小林克也氏還暦パーティ潜入レポート

 

  1. ポリドール折田育造氏と小泉首相の共通点は…
  2. ラジオは夢のおもちゃ箱!?体で覚えた英会話
  3. 学生ガイドからナイトクラブ司会者…そしてラジオDJの道へ
  4. 売れっ子DJ小林克也、ついに全国区に
  5. 運命を変えた「スネークマン・ショー」
  6. 「ベストヒットUSA」の波紋
  7. インタビューの紆余曲折…英語は今でも勉強の日々
  8. 社会のなかの「音楽産業」
  9. 音楽ジャーナリストとしての使命
  10. 形にこだわらず、いい音楽を伝えたい

 

1. ポリドール折田育造氏と小泉首相の共通点は…

小林克也2

--まずは還暦おめでとうございます。先日のパーティは錚々たる面々が駆けつけた盛大なものでしたね。

小林:あれでもね、(もし僕が)直接連絡してたら来てくれるような人たちが来てくれなかったんだよ。桑田(佳祐)くんは子供の春休みに合わせてハワイかなんかの別荘に行ってるっていうのはわかってたんだけど、ほかにも(シャララカンパニーの)佐藤輝夫は確認入れたら「あーそうだ!(予定)入れてないわ!」って言ってさ。彼は来てくれたからよかったけど、来られなかった人は残念だったね。

--月並みですが、還暦のご感想は?

小林:感想は…後になってくるもんだよね、ああいうものって。なったから「あぁー」っていうんじゃなくて、何かの弾みで「そうだよなー」とか。例えば今度4人、首相候補がいるじゃない?橋本さんは63歳なんだとかさ。そういうような時に自分のことがわかるわけよ。小泉は…彼はやっぱり大学の同期なんだよ。彼の方が若いんだけどね(笑)

--学校も一緒なんですか?

小林:学校が一緒なんだ。折田育造さんと俺と小泉は同期なの。

--克也さんと折田さんが同期なのって、還暦パーティの席で初めて知りましたよ。

小林:そうなんだよ。俺ほら、前にワーナーパイオニアで仕事してた時に「折田、見たことあるな」「俺、ツェッペリンをやってたから」「いや、そうじゃなくて」みたいな話だったんだけど(笑)。その時はわかんなかったの。それで「絶対見たことがある。会ったことがある」って言ってて。あのなんか独特のノリが絶対知ってるって思ってた(笑)

--同期っていうと同じ科なんですか?

小林:いや、同じクラスなのよ!折田さん、話の仕方がダラダラダラダラしてるからさ、あの(パーティの)ときよくわかんなかったかもしれないけどさ、同じクラスなんだよ。

--そうだったんですか〜。

小林:うん。だから、顔、会ってるわけ。だけど、学校に前半はあんまり行かなかったの。折田育造もあれでしょ?なんか、落こったかなんかしてズレてんだよね(笑)。それで同じクラスだったと。

--克也さんもズレてるんですか?

小林:俺は、1年浪人して入って。最初に落ちた時のクラスが、同じクラス。落ちたショックでずーっと行ってないわけよ(笑)。夏…秋ぐらいまで。それでちょっとやっぱりヤバイかなって思って行きはじめたら、ちょっと違うんだよね、なんか雰囲気が。そういうクラスだったの。一緒に落ちたやつが3人ぐらいいて(笑)、それは友達だったわけ。

--小泉さんは?

小林:小泉はよそのクラスだもん。折田と俺は同じクラス。

 

2. ラジオは夢のおもちゃ箱!?体で覚えた英会話

小林克也3

--克也さんのエピソードっていうと、やっぱり「ラジオを聞いて英語を覚えた」ていうのが有名ですけど。「ウソでしょ!?ラジオだけで覚えられるもんなの?」って普通の人は思いますけどね…。

小林:まあそれは、話としてまとめたら「ラジオで覚えた」ってことになるけど、相互的なもんだよね。要するに、バンドなんかでもボーカルで歌ってるやつは覚えんの早いよね。英語でもね。

--やっぱり耳ですか?

小林:耳もそうだけど、体全部ですよ。

--ビートっていうことですか?

小林:いや、そういうノリっていう意味じゃなくて、自分の興味だとか、そういうこと全部ですよ。あと時代もありますよね。僕らの頃は、ハングリーな時代だったから。当時ラジオは戦略に使われていたわけだからね。例えば、「ボイスオブアメリカ」が聞こえる所ではね、必ずちょっとこうやると、もうラジオ北京とかラジオモスクワが聞こえるわけ。そうやってお互いに消し合ったりとかさ。そういうことをやってたわけ。

だから、昔のラジオとかこうやってつまみをいじるじゃない?そうするといっぱい聞こえるんだよ。韓国語とか中国語とかさ。子供の時、うちにこれくらいのラジオがあって、誰もいない時にこうやってたら…おもちゃ箱だよね。

--なるほどね。

小林:それで、マネするようになるわけ。韓国語だとか一番最初にマネできるんですよ。似てるから。

--けっこう、英語に限らずやってたんですね。

小林:英語…中国語とかね。でもうちのおふくろは「それはやんない方がいい。おまえの顔だと間違えられるから」と(笑)。中国語、すげーうまかったんだと思うんだよね(笑)

--「タモリの4カ国語ラジオ」みたいなのと同じですね。

小林:そう。だって彼もそうなんだもん。福岡なんかもっとすごいよ。下手すると日本語よりも韓国語の方が聞こえるわけですよ。

--タモリもラジオ育ちってことですか?

小林:そうそうそうそう。それで、どうして英語が引っかかるかっていうと、歌があるし、文化があるし、ハリウッドの映画があるし。あと時代的なって言ったのはね、その音はリッチな音だったわけよ。飢えた人間にとってはさ。ステーキの音だたりとかさ…ね?物質的な豊富さに裏打ちされた音なわけですよ。だから、今の子供たちが憧れるのとぜんぜん違うよね。

--でもそういう時代に育った音楽好きな人、ほかにもたくさんいるはずなのに、同じような朝妻さんや折田さんの話を聞いても、「ラジオで覚えた」っていう人はあんまりいませんよね。だから「広島県に一人いた」っていうことで(笑)

小林:うん、まあそんな感じだよね(笑)。だからある程度のエクスペリアンスはみんな持ってるんだよ、たぶん。それが、どれだけ深かったかっていう。だって俺たちの頃は、内田裕也もかまやつもみんなホウキでこうやってた(ギター抱えて弾くまね)っていうからね。

--そういう人はみんなこの業界に集まってきてるっていうことですよね(笑)

小林:そうそう。そうだね(笑)。そうとも言えるよね。だから、みんなそれやったっていうの。

--でも、その頃ラジオ聞いた人はたくさんいるでしょうけど、そういう風にしゃべれるようになったのは小林さんだけなんだから(笑)

小林:ただラジオ聞いたからそれでしゃべれるようになるわけじゃないんですよ。例えば中学で英語を勉強するようになると「あれ?この音の固まりは俺は知ってるな」っていう発見があるんですよ。子供の頃からやってからね。

--学校の勉強がそれまでのラジオで聞いたものとリンクしていくんですね。

小林:そうそう。あとディクテーションとかやったりするでしょ。簡単なやつですよ。例えば、「Would do you like better…なんとか〜」みたいな。そういうの俺、簡単に書けちゃうんだけど、パッとクラスを見ると…みんな…書けてないんだよね。

--あはははは(笑)

小林:それ俺、満点だったの。そうすると「あ、秘かに俺ってすげえんだ」と思うわけ。そういうのがパワーになって、よけい学校の勉強にも力が入るんですよ。

--何歳で、ほとんど話せるようになっちゃったんですか?

小林:ほとんど話せるっていうのは、なかなか難しいですよ。わかんない単語もいっぱいあるわけだし。僕の場合はアメリカ人と会話を交わしたことがなかったのにしゃべれたっていうのはおもしろいですよね。

--おもしろいですよね(笑)

小林:福山に宣教師がいて、教会まで遊びに行ったことがあるの。その時にアメリカ人と初めて話したんだけど、向こうが日本語うまいから、日本語でしゃべってるわけ(笑)。だから初めて英語で会話したのは、「ガイド試験」のときね。ガイド試験の英語のインタビューがあるんですよ。

--ガイド通訳みたいなものですか?

小林:うん。通訳、案内。それで、その時にしゃべれたんですよ、何か知らないけど。

--何歳の時ですか?

小林:19歳ですね。それでしゃべれて、それからお金をもらってアメリカ人を案内するような感じになって。僕はけっこういい加減で勉強はあんまりしない方だから、しゃべって、何の苦労もないから、まぁ、自分はしゃべれると思ってたんですよ。ところが、だんだんいろんな体験してくと、結局しゃべれない、いろんなことを知らないんだな思い知るわけ。

まず大学で経済学部は英語の本買わされて、経済を英語でやるんだよ。これがちんぷんかんぷんなの。経済のことが何もわかんないうちに、専門書でやるわけだから。それが大っ嫌いでさ。そういう挫折はありましたよ。

 

3. 学生ガイドからナイトクラブ司会者…そしてラジオDJの道へ

小林克也4

--最初に始めた仕事らしいことは何だったんですか?

小林:大学時代からやってた仕事らしいのは、今話したガイドとかそういうやつね。これがまた稼ぎが良かったんだよ。大学時代からやってたガイドと、ナイトクラブの司会ね。これが身を誤らしたんだ(笑)

--学生の身分でけっこうな金額が入りますよね。

小林:そうなんだよ。大卒初任給の3倍ぐらいの金が入るんですよ。それも夜いくだけでね。

--それは楽しかったでしょうね〜(笑)。ナイトクラブってどの辺だったんですか?

小林:そのころのナイトクラブで一番有名なのがラテンクォーターですね。E.H.エリックさんが夜ごと司会やってたんですよ。ほかにもコパカバーナっていうのがあって…ビーンコンセプションって知ってる?ベンチャーズのライブ聞くと、ハローなんとかなんとかって、変な日本語でしゃべる司会者いたでしょ?あのフィリピン人の司会者が、コパカバーナにいて。ずっとあとには、ジェイク・コンセプションのビッグバンドが入ったりとかもしてたところですよ。それで僕がやってたのは「ゴールデン月世界」っていって赤坂にあったんですけど、エディー高橋っていう日系の人が司会やってたんだけど、その人が日曜日どうしても休みたいって言うんで、学生だった俺になぜか話がきてね。やってくれって言われたけど、俺、人の前でしゃべったことないわけよ。

--それはしゃべりじゃなくて英語力をかわれてだったんですね。

小林:そう、英語力よ。やっぱりバイリンじゃないとダメ。赤坂だから、日本語と英語でみんないるんだもん。

--そうするとやっぱり少ないから、風の便りで克也さんのところまで話がいっちゃうんでしょうね。

小林:そうそうそう。いきなりそういうような所でしゃべったことないのに、ライトが当たるのよ、スポットがバーンッて。でっかいクラブだから、コンサートみたいなライトで目が見えなくなるの、最初。それを浴びて「こんばんは、ようこそなんとかへいらっしゃいました。ドリーミングなんとか」ってやるわけ。やったことないのにね。そうやって最初からしゃべってたんだけど、なかなかうまくいかないんだ。芸能部の人が「あの人使わないでください」って言ってたらしいんだけど(笑)、そんなこと俺に言わないで、日曜日になるとシカトして…客少ないじゃん?だから、俺に頼むの。そのうち慣れてきちゃって…その司会をやってた奴が、ヒデとロザンナで当たっちゃってさ。それで司会なんかやってる場合じゃねーやっつって…やめちゃったの(笑)。まあヒデとロザンナが当たるのはちょっと後になるんですけど、そういう自分の仕事がいろいろ当たって。

--ヒデとロザンナも司会とかやってたんですか?

小林:いや、やってないですよ。その司会の彼がMCやってたナイトクラブに、カサノバセっていうイタリアバンドが出てたんですよ。それがロザンナのおじさんが2人と、ドラムスがロザンナの兄貴。だから親せきバンドなわけ。

それで、ロザンナが遊び半分で来て、ちょっと歌ったりしてたの。それでロザンナにレコーディングの話が出て…

--それで、デビューしちゃったんだ。

小林:うん。それで僕もだんだんやるようになって…いろんなショーがありますよね。テンプテーションズとかポール・アンカ、トリニ・ロペスだとか、そういう風なショーから、クレイジーフォースの踊りのショーとか。そういうようなことをやるのがずーっと続いてたんですよ。

--ワーナーでお仕事始められたのは…71年ぐらいでしたっけ?

小林:そうだね。そのころまでクラブの仕事してましたよ、たぶん。

--最初に出たラジオは何なんですか?

小林:最初に出たのはワーナーの「バブリングポップス」っていう番組。

--あれが最初だったんですか。ワーナーの誰が小林克也を発見したんでしょうね。

小林:それはね、ニッポン放送に出入りしてたミキサー上がりの人間が俺を知ってて「番組やりたいんだよねー俺は」みたいなことをよく話してたの。それが、小田ちゃん(小田洋雄氏:現(株)マザーランド代表取締役)と友達だったの。

--そうでした。小田さん(当時ワーナー邦楽宣伝課長)が連れてきたんですよね、最初は。

小林:そうそう。小田さんが「おまえ番組やらせるから」って請け負ったの。そん時にいい奴がいるからって。最初はね、八木誠かなんかで考えてたらしいんだ。それで、八木ちゃんのデモテープを聞かせてもらったの。同じ「バブリング・ポップス」っていうタイトルで。それで…、まぁ、八木ちゃんはね、その頃からすでに有名だったんだけどね。とにかく、英語もできる、みたいな感じで俺になっちゃって。1971年くらいにスタートしたのかな。

 

4. 売れっ子DJ小林克也、ついに全国区に

小林克也5

小林:もともとラジオは聞いてたんだけど、特に60年代のラジオってすっごいおもしろかったんですよね。いわゆる「ウルフマン・ジャック・ショー」とはまたちょっと違うけど、ああいうラジオの独特なおもしろさっていうのがあって。そういうのを聞いてるから、あの…ラジオってそういうことができると思ってたんですよ。自分はそれまでラジオ関東とかの好きな番組しか聞かないから。日本のいろんなラジオっていうのを聞いてなかったからね。だから「バブリング・ポップス」の話が来たときに、「ワーナーパイオニアのこういう風なアーティストを紹介する番組なんだけど」って言われて…この人はどういうアーティストでどんな音楽で…って解説するのが日本の洋楽番組だっていうのを、そこで知るわけですよ(笑)。挙げ句には「克也さん、3分余っちゃったから3分しゃべってくれ」って言われても何しゃべっていいのかわかんないし。そういうのがすごい苦手だったから。「あ〜困っちゃったな」なんて思ってたね。

--そういうアドリブはだんだん出てくるようになってきたんですか。

小林:いや、出てくるようにはなんないよ。

--要するに番組的な制約の中でやってたんですね。

小林:そういうことになるよね。でもおもしろいことにね、そのワーナーの「バブリングポップス」っていう番組をやり始めたらすぐだよね。一発露出すると話は変わってきて、ニッポン放送から話がかかってきて、すぐ番組がスタートして、それで、大阪の方でスタートして、みたいな。

--あの頃、僕らもぺーぺー時代で、なんでこんなすごい人がこんな身近にいるんだろうって思いましたけどね(笑)

小林:あぁ、そうかねぇ。あのころのことを思うとね、今でも一番好きだったのはね、ワーナーのプロモーション用のスライドを作る仕事。

--プロモーション・ビデオの前の時代の話ですね。

小林:そうそうそう。好きなことやっていいからおもしろかったよ。あの頃はね、ワーナーパイオニアでけっこうおもしろい人いてね。小柳ルミ子だっけ?あれのコマーシャルも。俺、ほら、出入りしてたから、行ったらコマーシャルいっぱい作らされるわけ。

--何でも勝手にやらせればなんとかなるっていうのがありましたよね(笑)

小林:そうそう。俺、口出すの好きだから「〜なんとか夜霧の札幌」っていうのにさ、おもしろくないからディレイみたくかけちゃって、「夜霧の札幌ポロポロポロポロ…」って(笑)

--それは、みんな怒ってましたよ(笑)

小林:怒った怒った(笑)

--あっはっはっは(笑)

小林:でも、そうやったほうが覚えるよねえ?(笑)あれは怒られちゃってさぁ…そういう怒られるのもあったけど、スライドは楽しいことができて…。

--いやーあれは、いい時代だし、後にも先にもないけど、ああいう文化の時期ですよね。

小林:そうそうそうそう。

--「安くあげるにはスライドだー」みたいな(笑)。でも今思うと、あれは克也さんがいたから成立してたのかもしれないですね。

小林:ああまあね。そうかもね。

--克也さんは声が特徴的だから、ラジオ向きなんですよね。こんなに特徴のある声で英語までしゃべれる人なのに、全国区じゃなくてもったいないなあって思ってましたけど、それもあっという間に広がっていきますね。それで次の展開は?

小林:ええと、「オールナイトニッポン」かな。あ、その前にFM東京だね。FM東京で、俺が英語だけしゃべる「ラヴサウンドスペシャル」とか。

--あ、それ聞いてました。覚えてます。

小林:ああいうやつとか。逆にまったく違う「サウンドフリーー」とか「ナガオカ・ワールドミュージック」とかそういうやつ。英語部担当みたいな。「克也さんちょっと番組の中で叫んでくれ」みたいなさ。

で、その後が「オールナイトニッポン」かな。だけど、「オールナイトニッポン」は6ヶ月でクビになるんですよ。俺が月曜日やって、火曜がカルメンで、あのねのねとか泉谷しげる、斎藤アンコウさんなんかやってたんだけど。俺は、斎藤アンコウさんの裏で、FM東京で深夜やってたの。それで、ニッポン放送が「アンコウさんの裏でやってるとはけしからん」っていうことで。糸井さんと同じような契約でうちの専属、嘱託契約してくれないか、って、ニッポン放送の4〜5人に囲まれて言われて。

--へえ〜(笑)

小林:だけど、俺は考えてみるとFM東京の方が早いわけよ。だからやっぱり筋通して、こっちが早いからやめられないって言ったら、じゃあこっちやめてくれって言って、やめちゃったの。

 

5. 運命を変えた「スネークマン・ショー」

小林克也7

小林:それでラジオの番組ずっとやってて、76年…75年なんだけど、パーティにも来てた桑原(茂一)くんね、当時は桑原茂って言ってたんだけど。彼は「ローリングストーンマガジン」の営業をやってたの。あの頃はおもしろかったんだ、「ローリングストーン」はね。いきなり電話かかってきて「克也さん、克也さんを”DJ OF THE YEAR”にするから…」ほんとかよ、おまえって(笑)

--はははははは(笑)

小林:次の号見たら「DJ OF THE YEAR/小林克也」って(笑)そういうノリだったんだよね。彼はファッション関係に強かったんだけど、BIGIのファッションショーの音楽やってる人が、「ウルフマン・ジャック・ショー」みたいな50’sとか60’sのやつをやりたいって言って、俺はそういうマネ得意だったから、ものマネを作ったんですよ。そしたら、すげえ好評で。それでエドウィンが全国に800店舗ぐらいある店で、こういうDJを流したいからどんどん作ってくれって言われて。TBSサービスに計算してもらったら、カセットで権利をクリアしたりすると、めっちゃくちゃ金がかかるんですよ。800本作ると。だから、俺は「そんなんだったらラジオの番組作ればいいじゃない」って言ったの。ラジオの番組2つぐらいできちゃうからね。ラジオの番組だったら、スポンサーだし、コマーシャルも入ってるわけだから、それをそのまま流せるからさ。そしたら、エドウィンがオッケーって言ったんですよ。それで、エドウィンの提供で、ラジオ大阪とラジオ関東で始めたんですよ。

--最初はそういう経緯だったんですね。

小林:DJは俺がやってたんだけど、そこでウルフマン・ジャックの精神をもらったわけ。どういうことかっていうと…ウルフマン・ジャックと俺は2回ぐらい会ったことあるんだけど、ウルフマン・ジャックっていうのはさ、あの、アルバム見たことある?ウルフマン・ジャックのアルバム。

--ジャケットはあるけど、中身は聞いたことないですね。

小林:あれはね、レオン・ラッセルとかさ、錚々たる連中が推薦文書いてるわけ。それが誰かわかんないわけよ。黒人か白人かもわかんない。黒人だろうとか。それから、下手すると宇宙人か?とかね。

--声のコメントってことですか?

小林:「ウルフマン・ジャック・ショー」っていうのは、実際に、1962年ぐらいにメキシコのボーダーのこっちから違法放送みたいにやってた放送局があったんだよね。

--違法放送でやってたんですか?あれは。

小林:違法なんじゃなくて、アメリカの中でやるとあんな電波使えないんだけど、メキシコ(とアメリカ)のすれすれのメキシコ側から、強力電波で放送するとカナダの向こうまで届く。それで、コーラだとかキリスト教だとかから金とってやってたんですよ。キリスト教なんか、金出たらしいんだよ。要するに布教になるでしょ。「バイブルアワー」みたいのがあったりして。それで、金もらって、そこから放送してて。そのなかに「ウルフマン・ジャック・ショー」があって。トラックの運転手だとか、子供が夜聞いたりしてたらしいんだよ。で、親に「聞いちゃいけない」って言われて。それでラジオっていうのはやっぱり、誰がやってるかわかんないていうのがいいんですよ。それで俺らもそのノリで「スネークマンショー」をやってたんですよ。

実際、街の声でね、俺が聞いて「おもしろいな」と思ったのは、「スネークマンショーっていうのがあって、なんか大阪で、カワムラリュウイチっていうDJがいて、彼がやってるらしい」とかね。

--たしかに誰がやってるかわかんないですよね。

小林:俺も「へぇー、カワムラリュウイチがやってるんだ」とか何も言わなかったの。「へぇー、そうなんだぁー」って言って。それで、成功したなーと思って。だけど、なんか、自分がやるのおもしろくないから、なんていうのかな…誰かわからないようにするっつうのは難しいから、じゃあっていうんで、FM東京でちょっと知ってた伊武(雅刀)連れてきて「こういうのやろう、こういうのやろう」って言って。それからだんだんあれが番組になって。それから、細野晴臣なんかと出会って。細野が「増殖」をやるときに、ギャグみたいなのを流行らしたいと。過去の録音の中から彼が選んで、あれ入れたんですよ。

--あの辺のギャグって歴史に残るギャグだと思うんですけど、誰が考えたんですかね。

小林:あれはね、最初のうちはね、伊武(雅刀)とか桑原(茂一)くんも放送とかあんまり知らなかったから、最初は僕が先生みたいなもんで。最初の頃のやつはね、ほとんど僕。あとチーチ&チョンものが多いでしょ?「だれ〜」とか。あれのアレンジ。俺がやってた。で、だんだん、伊武とかがわかってきて。「これはなんですか?」とかあるでしょ?あれはね、構成作家とか特にいないから、いつもあるテーマがあるわけ。たとえば、「コンドーム買いに行くのは最高にはずかしい」っていう、すっげーテーマなんだ。あれで、3つか4つできてんの。1つは、高校生が店行くわけ。オヤジが「なんだっ?」っていうと、「これは何ですか?」「これは胃腸薬だろ」「これは何ですか?」「これはコンドームだろ」「……」「使うのか?」「すみませんでしたーっ」って(笑)

--ふははは(笑)

小林:違うバージョンでもあったけどね。

--「スネークマン・ショー」ってアルバム16枚も出てるんですか?

小林:詳しく言うと、普通のが3つぐらいと、海賊版みたいなのが出て、違うバージョンみたいなのが出たりして。それから俺がNACK5でラジオの番組やってたんですよ。「スネークマンズロックショー」。で、それもアルバムになってて。

--よくネタつきなかったなっていうぐらいありますね。これは収録の時も仲間内でやっぱり笑ってたんでしょうね。

小林:いやー、笑う時と笑わない時と苦しい時とかね(笑)

--あるんですか(笑)

小林:やっぱり、苦しいよね。あの…1回しか笑わないじゃん、そういうのって。

--2回3回は苦しいですよね(笑)…たしかに毎回本人が笑ってたらおかしいですね(笑)

小林:あっという間にできるやつもあるのよ。あの、シンナー吸えっていうのがそれ。あれは、タクシーに乗って文化放送からコロムビアに行くときに、新しいビルが建っててさ、それを棟上げじゃないけど、こう、建ったばっかりで、セメントが荒くぬられているような所でさ。工事の現場の格好したおじさんがさ、こうやって、自分たちが参加したんだ〜みたいな感慨深げに3人ぐらいこうやって(腰に手を当てて上を見上げて)見てるんだ。なんか、逆光でさ、その光景がすげーよくてさ。ぱっと渋滞して止まったらさ、シンナーがすげー臭うんだぁ(笑)

--あははは(笑)

小林:それで、シンナーの中でこうやってさ、鉢巻きまいてみたいなのが(笑)あいつら、おっかしいなと思って(笑)ぜったいおかしいよな(笑)。そんな話をして。とにかく、笑っちゃって、壁やりながら、こここう落ちるやつやろうって。あれはね、ほんとはね、ステレオって、左右じゃない?あれを上から落とすっていうのはできないものかなっていってね。最終的にできなかったんだけど、けっこうあれは苦労したけど、できたのは一発でできた。苦労したのはね、上まで行って、いっせいのってステーンッてこうやって落ちるわけ。でも、その効果がでない。聞いたらね。

--そういうことを音だけで表現するのはかなり難しいですね。

 

6. 「ベストヒットUSA」の波紋

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--最初にラジオを始めた頃はやりたいことできなかったんでしょうけど、「スネークマンショー」ではやりたいことをやりました!って感じですよね。そのあとテレビですね。

小林:そうね。テレビ朝日から話があったのは1980年ぐらいだよね。その頃は、ビデオクリップっていうのが出始めなんですよ。新進のアーティストは作ってたんですよ。日本テレビ「水曜イレブン」では、洋楽を愛川欣也さんと今野雄二さんが紹介してて、すげーかっこいいビデオのクリップが出たりするんですよ、時々ね。「これが今、ニューヨークでなんとかでご覧下さい」って言って紹介するんだけど、もう、ものの30秒ぐらいたったら、愛川さんが「コンちゃんこれが今なんとかなんとか〜」ってふって、今野さんがばーって言うわけ。そうすると、ビデオクリップがせっかくあるのに、それを…見せなかったんですよね。しゃべって。

1980年にその話があった時にね、それまで俺テレビに顔出してないし、顔出さなくても十分CMだとかめちゃくちゃ忙しかったりして、なんだかんだ効率よくやってるのに、テレビで効率の悪い仕事なんかしたくないと思って。一応、断れって言ったんですよ。で、俺は絶対やらないって言ってたんだけど、断ってなかったんだよね。

--断ってなかった?

小林:うん。で、最後は、FM東京までみんな押し寄せてきて。こういう番組でこうだこうだって言って。いわゆるビデオクリップを紹介していきたいんだと。

--一つ新しいことをやるぞという意気込みがあの番組の制作陣にありましたよね。

小林:そうそう。だから、これからはまだ、ほら、ビデオテープデッキが普及する前なんだけど、それにあわせて録画するのを狙おうっていうのもあったし。それでだから、MTVより早いんですよね。

--そうなんですか?MTVよりも早いんだ。

小林:早い。最初はほら、ビデオクリップがあんまりなくて、向こうの音楽のショーを買ったりしてたんですよ。東北新社がね。だけど、やり始めて…終わると思ったんだよね、すぐ。たいしたお金もかかってないわけだし、終わるんじゃないかなと思ってたら…テレビ朝日のディレクターかなんかの結婚式かに出た時、隣にビートきよしがいて、そこにテレ朝の偉い人がいて「あの番組な。あれ当分続くよ」「え?」「あれ、なかなかいいんだよ」って言われてね(笑)

--視聴率とれないって最初言われてたんですよね。

小林:当時さ、12チャンネルで、洋楽の番組があったじゃない。それが1%なんだ。よくいって1.5%なんだ。だから、洋楽人口っていうのは、1%強だったんですよ。12チャンネルあたりが取れるのが。ところが、あれスタートしたら3とか、平気でいくんですよ。で、5とかいくし。それで、なんだっけ、ゲストが出たりすると5倍とか3倍とか増えるっていう。レコード会社かなんかが調べたらそうらしいって。そういう影響力があるのがわかって。それでだんだん…8年半、続いちゃったっていう。

--8年半も続いたんですか?確かにうちの会社の女の子とかは、小林克也さんっていうと、とにかく「ベストヒットUSA」って、みんなそれしか言わないですよ。「小中学生の時見てました」って。

小林:やっぱりそうなんだね。

--テレビ朝日系列で全国に放送してましたもんね。

小林:そうそうそう。全国30局ぐらい。

--そこで、小林克也っていう名前が、完全に一般的なものになっちゃったんですよね。それまで業界的の人だったんだけど、あれで一般的なイメージになりましたね。僕らだって顔知らなかったですよ。ラジオやCMで声聞けばすぐわかりますけど、街で会ってもわかんなかった。

小林:あぁ、そうだよね。だから、「ぴあ」の一言みたいなのあるじゃない。「はみだし」?あそこに、「小林克也の顔を初めて見たとき、坂本龍一の声を初めて聞いたときよりもショックだった」とかなんとか書いてあって(笑)

--あははは(笑)

小林:それで「ベストヒットUSA」を石井聰亙っていう監督が見てて「逆噴射家族」っていう小林(よしのり)さんのマンガを映画化する時に「あいつはいい」ってひらめいたらしいんだ(笑)

--ひらめいたのね(笑)それでドラマいっちゃったんですよね。

小林:そうドラマ、映画に入っちゃって(笑)

--とにかく、克也さんは業界の人っていうイメージがあったから、役者になった時はひっくり返りましたよね(笑)

小林:そうだよね。ひっくり返るよね(笑)

--あれは自分でもやってみたかったんですか?

小林:いやあ、引っぱり出されたって形だね。考えたんだけどね。それまでも近いことはやってたな、みたいな。

--「スネークマン・ショー」だってラジオ劇ですよね?

小林:うん。ARBのボーカルの彼、石橋稜が原田美枝子と結婚したんだっけ?。結婚する前ぐらいにね、彼女と飲んだんですよ。もう大ベテランですよね。そん時にね、「映画なんてものはね、テクニックだとか、そんなこと考えたらおしまいよ、ここよ」って言って(笑)(胸を指して)「ここよ」って言われたけど、「ここよ」って言うのは簡単だけど、どういうことなんだろうなって思ってて。まぁ、不安で不安でしょうがなかったけど。やっぱり、「ここよ」っていうのは今頃になってわかるよね。

--やっぱり新しい領域に足を一歩踏み出すっていう時には、克也さんといえども、そういう不安はあるわけですか。

小林:それはあるある。

--だんだん手を広げていって、今やたいがいのことは大丈夫なんでしょう。

小林:だけど、逆に言うとね、何をやるからいいっていうんじゃなくて、誰とやるといいっていうことはあるね。

例えばね、俺が「逆噴射家族」でキレちゃうお父さんやったわけですよ。そうするとテレビでそういう役くるんですよ。やってほしいから。そうすると、もうそこ行ったときには、もう、小さくなるんですよ、やることが。もう守りに入ちゃって。期待されてる通りにやるわけでしょ。そうするとね、やることが小さくなちゃって、おもしろくないんですよ。

--同じ役は受けなかったんですか。

小林:いやいや、けっこう、2〜3回やりましたけど。やっぱり、こんなの求めてるんだなって思うと…

--それなりになってしまうわけですよね。

小林:そうそうそう。だから、あんまり楽しくないよね、そういうのって。楽しいっていうのはね、やってる時に楽しい楽しいっていうんじゃなくてね、もうこんなのやめちまいたいなみたいなのがあるんですよ。で、ちょっと後になって振り返ると、あーあれは充実してたな、いいなっていう。だから、ほんとおもしろいですよ。映画なんか終わった時には「こんなのもう2度とやんねーよ」って思うんだけど、またしばらくたって話がくると、やっちゃうんだよね(笑)

--克也さんのチャレンジャー精神は、並々ならぬものがありますよね。

小林:いや、違うって。それはね(いろんなことをやっているように見えても最初は)、誰かが引きずってったりとかね、そういうやつだもん。だって、映画だってそうだし。

--俺は何だってやってやるんだっていう感じでもないんですかね?

小林:そんな感じじゃないんですよ。

 

7. インタビューの紆余曲折…英語は今でも勉強の日々

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--「ベストヒットUSA」ではいろんなアーティストにインタビューされてますけど、そうやって英語でインタビューされるようになったのはいつごろですか?

小林:本格的にインタビューするようになったのはウドーさんがロックエクスプロージョンなんかやってたころかな?まだアダジオダンサーとかさ、いろんな色ものもブッキングしてたころね。俺ウドーさん昔からよく知ってたから。それで「ビル・チェイスがあるんだよ、とにかくインタビューしてくれ。放送局に配るから」って言われてね。本格的にやるようになったのは、その頃だよね。

でもアーティストにインタビューするようになると、やっぱり自分が英語がしゃべれないなっていうのがわかるわけですよ。アーティストにいろんな質問をして、質問が返ってきて…まぁ、なまってるやつはわかんないっていうもありましたけどね。ベイシティローラーズとかは、最初はさっぱりわかんなかったもん。何言ってるか。

--だいたいアメリカ英語ですもんね。

小林:そうそうそう。それで、アメリカ英語でも、例えばトム・フォガティとかしゃべり方わかりづらかったし…

--南部だからですか?

小林:南部じゃないんだよ、サンフランシスコの辺でしょ?

--そうなんですか。なんか南部のイメージだけど、違うんだ。

小林:出身は違うんだよ。音楽はそうだけどね。ドゥービー(・ブラザーズ)なんかもそうだよね。白人だけど黒人みたいなしゃべり方したりする(笑)。そういうこともあるし、それにいかに自分が単語知らないかっていうのがわかったりするわけよ。インタビューするとね。「勉強しなきゃだめだな」みたいなのがあるわけですよ。それで、勉強のマネごとみたいなのやってたけど、最終的にヤバイなって思ったのは、やっぱり「ベストヒットUSA」。インタビューすると、テレビに映るわけよ、リアクションが(笑)

--見てる方は完璧に見えましたけど。

小林:いや、そうじゃないよ。「ちょっとここは英語がやばい…」とか、俺が見るとわかるわけ。「あっ、これはテレビで白日の下に晒されてるな…やらなきゃ!」っていうんで、俺それからの方がかえって勉強したよね。

--勉強っていうのはどういうことをされたんですか?

小林:なるべく新聞読むようにして、新しい単語が出てきたら一応メモしといて…

--それは、英語だけじゃなくて、知識吸収にもなってるんですね。

小林:そうそうそう。だから、それものすごく勉強になったよ。あの、経済のこととか、政治のこととか。そういうのわかるわけですよ。ただ、単語力とか英語力っていうのは、なかなか上昇しないね。単語なんかもう…メモるじゃない?ノートにメモるわけ。それで、意味を書いてないで、メモっとくのね。それで、パッと開けた時に、近い意味はわかるんだけど、ほとんど意味忘れてたりするの。それでまた新聞見て、これメモするの3回目だとか4回目だとか…。もう忘れてるやつとかまた調べちゃったりしてね。

--こっちは天才としか思ってないけど、実は、勉強で苦労されてたんですね。

小林:いやいや、今でもやってるよ。忘れないように。

 

8. 社会のなかの「音楽産業」

小林克也11

--英語の勉強にインターネットとか使ったりしますか?それともあんまり見る暇ないとか?

小林:いや、そんなことないけど…あんまり見ない方かな。見ないっていうか、今はインターネットすっげー便利になってるけど、だいたい音楽の情報なんかはもう習性でさ、「ビルボード」読んだりとか、イギリスは「NME」読んだりとか、押さえとくとだいたいわかるんだよね。何が出てきたとか。何がホットだとか、どんな音が話題だとかね。

--今もそういう雑誌はチェックされてるんですね。

小林:うん。だから、それ見てるとインターネットでわざわざ行く必要ないしね。「ビルボード」のインターネットは過去の情報を調べられるのは便利だよね。だけどそんな(調べる必要のある)仕事してないから。

--克也さんの場合、音楽がすべてではないですからね。

小林:なんかこう…。なんていうんだろうな、どんなものが起きてるかっていうね。あの…、俺よく話してわかってもらえる場合とわかってもらえない場合があるんだけど、経済的なものとか政治的なものとか、みんな一緒に動いてるじゃん。それで俺たちが首突っ込んでる所っていうのは流行歌の世界だから。産業じゃなくて。だからもうそれの一部っていうような感じだから。情報っていうのは「ビルボード」読んで「NME」読んでりゃいいとか、インターネット見てりゃいいってもんじゃないよね。

--そうですね。

小林:全く違うよそれ。あれは問題としてはクロスオーバーしてるじゃない。経済ニュースであり音楽ニュースであり…あるじゃない?だから一つの大きな出来事があったら、流通にまで影響与えたりするじゃん。世の中のトレンドみたいなものもあって、それでどういう風なものを使って録音してるとかね。今日さっきね、勝木(ゆかり)くん、S.E.N.Sの彼女と会ったんだけど。彼女たちのレコーディングは、音楽にホコリ入れたくないって言って、自分の部屋を掃除して、それでパソコンに向かって曲作って、(パートナーの)深浦(昭彦)くんの所に送って、帰ってくるのを待ってる(笑)。だからレコーディング期間は顔を合わせないっていう。

--へぇ〜。

小林:そういう風な音楽作りになってるんじゃない。今はね。同時にまぁ、逆に例えばセッション的なものから出るおもしろさみたいなものもおそらくあるんだろうし。だから、そういう音楽が作られる様だとか、どういう風なもくろみを持ってそれを産業製品・工業製品化するかっていうのはさ、やっぱ一つの産業だから。

--異種参入っていうか、純粋な音楽業界人じゃない、いろんな巨大な組織とか入ってきますよね。ネット時代になるとますますね。どう変化して行くかわかんないですね。

 

9. 音楽ジャーナリストとしての使命

小林克也12

小林:それとね、俺たちはどっちかっていうと、ジャーナリストの端くれでもあるんだよね。ジャーナリストっていうのは、モンスターが生まれたら、それを壊すようにしなきゃダメなんだよね。いわゆるはびこるモンスターをね。例えばわかりやすい話、宇多田(ヒカル)が盛り上がってきた時、最初はすげー注目するけど、そのあとワーッとバケモノになった時に、今度は俺たちの役目は宇多田を倒すことなんだよ。それは変な意味じゃないんだよね。例えば小さいことなんだけど、俺がZIP-FMでやってる番組の後に、宇多田のコーナーがあったわけ。それで、いつもは予告してたんだけど、宇多田がアメリカの学校行くから、4月から宇多田のコーナーがなくなるっていうのよ。それはわかってるわけ、ね。それを「克也さん、宇多田のことは触れないでくれ」って言うわけだよ。

--うーん…。

小林:「どうして?」って言ったら、事務所から言われて、宇多田の番組がなくなるっていうのは言いたくないんだと。

--それはわかるような気がする(笑)

小林:ね?俺は頭にくるよね?何で言っちゃダメなんだって。だから、そういう風になった時は、すでに宇多田は一つのモンスターであると。そしたらそのモンスターを倒すのは、野党心を持ったジャーナリストとして当たり前のことだよね。水平感覚。責任感でもあるわけだから。

そういう風な意味じゃ例えばさ、日本のレコード業界のこれとこれが外資系になったとかさ、タワーレコードがきて、アメリカ資本となんとか資本っていう割合見るとさ、どういう風なものが売れるのかとかさ。もうレコード屋が上の方じゃ、不動産屋感覚というか投資家感覚になっちゃってて。いわゆるクリエイトしてないとか…そういう状況を見透かすじゃない。どういう風な形態でバックストリート・ボーイズが作られて売れるとかさ、わかるわけだよね。そうすると、逆に今度はそうじゃない所に目を向けて、そういうところから来てるものばかりじゃないんだよみんな!とか、そういう風な使命がけっこうあるわけだよね。新聞だとか雑誌だとかそういう風なのじゃなくて、今の空気がこうなんだと。どっかに、そういう風な(ある種作られた状況とは別な)ことをやってるやつが絶対いるはずだから、それを探したりとかするのが…。

--役目?

小林:うん。役目だと。探してそれを知らせたりする。探してそれがダメだったら「おまえこれダメだ」って言ってやるのも役目だし(笑)。それは、俺はまあ、もう60歳だし。

--けっこう引導渡した人いますか?

小林:いるよ、やっぱりね。それを言ってあげないと、やっぱり目が覚めないんだ。管理職的にはそうでしょ?「この仕事向いてないから辞めた方がいいよ」って言ってあげるのは。

--お話を伺ってくると、克也さんの仕事って、年を経るごとにどんどん領域が広がってますよね。

小林:そうだね。広がってるよね。やることはね。

--でもやっぱりアーティスト性があるっていうか、結局小林克也さんて、要するにアーティストなんだなっていう感じがしますね。わきあがってくるものを出したくなるっていうタイプのアーティストですよね。

小林:自分をメッセージするっていうのはそうかもしれないね。でも俺の場合はわき上がってくるっていうよりも、他の人を見たり紹介したり、この人のいいところは何だろうとか、悪いところは何だろうとか、そういうのを見つけて紹介したいのね。新しいものを見たときに、前に似たようなのがあったなとか、どこが新しいのかなとか、いろいろな気持ちがあるわけ。例えば洋物だったら、日本にこういうのはないな、とかね。

--それもジャーナリスト感覚っていうことですよね。

小林:うん。そういう感覚のことが多いと思うよ。俺ね、ディスコのDJもやったことあるんだよ。ビブロスと同じような作りをしてるジュンガ、あれが銀座にオープンした時に、俺とFENのやつとかがレコード回してたんですよ。あとディスコのサンプラーってワーナーでは作ってないけど、ビクターだとやってるでしょ。山下達郎の「Come Along」っていうDJ入りのアルバムが売れたじゃない。あれはディスコ用としてもともとにまいたやつなの。それでDJの話に戻ると、俺の知ってるDJ、ディスコで皿回してるほうのDJね、彼がニューヨークから帰ってきて、偶然飛行場かなんかで会ったのかな。そしたらそいつがウォークマン持ってて興奮してて、「克也さんニューヨークすっごいんですよ。聴いてくださいよ」って言って聴いたら、クイーンの「ギャンギャン、ギャギャギャンギャン…」ってやつ聞かせてくれてね。

--「We Are The Champion」ですね。

小林:そう。要するにあれはスクラッチの音楽なわけ。「わーすげー」と思って。それでそいつはレコードもいっぱい持ってきてて、六本木かどこかでかけたらしいんだ。そしたら店長が走ってきて「おまえ何遊んでるんだー!」って、怒られちゃったって後で聞いたんだけど(笑)。俺はもう、あの音が耳についちゃって、それで、スタジオでキュッ、キュッって、あの音を出したくて、フェーダーをくっと上げたりするわけよ(笑)。どうしてやっていいかわかんないわけ。音楽で、リズムのそれに似た音を探してさ。キュッてやるんだけど、違うんだよね(笑)

--あんな大胆なことしてるって想像できないですよね(笑)

小林:全然わかんないよね(笑)。それで、シュガーヤングかなんかのRAPを日本語でやろうってことになって、スネークマンショーで、「ごきげんいかが1・2・3」ってけっこうシングルでヒットしたんだけど。それは、リズム感の悪いRAPっていったらこうだろうみたいな、そういうテーマだったんだけどね(笑)

--そのテーマって英会話の「アメリ缶」でも応用してましたよね?(笑)

小林:うんうん。やってる(笑)

--さっき、引きずられてやってる、みたいなことおっしゃってましたけど、やっぱりそういう新しいものをどんどん取り入れていく姿勢が克也さんの中にあるんですね。

 

10. 形にこだわらず、いい音楽を伝えたい

小林克也14

--現在はラジオのレギュラーを3本持ってらっしゃるんですね。

小林:週末にね、計18時間の生放送があるんだよ。金、土、日に生放送があるの。

--18時間生?すごいですね!

小林:よく言われるけど、生の方が実は楽なんですよ(笑)

--これから挑戦したいことってありますか?抱負とか。

小林:抱負はないですよ(笑)

--ないんですか(笑)。じゃあお仕事以外のプライベートな時間の過ごし方っていうのは?

小林:ひとりでレコード聴いたりとか…。特に決まってないですね。

--この前のパーティではナンバーワン・バンドを従えていっしょに歌ってましたけど、いかがでした?

小林:初めてああいうの歌ったから、わけわかんなくなっちゃった(笑)。いきなりあんなの歌えっこないじゃん。余興だよ。

--パーティでも感じたんですけど、克也さんは音楽業界と放送業界の架け橋としてすべてを一体化してる貴重な存在ですよね。あそこに集まった今の業界のトップの方たちは、みんなラジオに情熱持ってる人が多いわけでしょう。だから、もう一回ラジオからもっとパワーが出る方向に、これからも克也さんが力になっていただけるとすごいうれしいです。最後に、今のラジオ業界に対して何か一言お願いします。

小林:そうだね…形にこだわらない方がいいと思うんだ。AMも、FMもね、形にこだわってるから。あんまりよくないことじゃないかなと思う。音楽番組は、音楽の楽しさみたいなものを伝えられればいいと思うんですよね。どういうことをやっても、音楽が楽しく。例えば、僕は平凡な言い方してるんだけど、同じ曲でも、あいつがかけてる時よりも、俺がかけてる方がかっこよく聞こえる、よく聞こえるよって。それだけですよ。

--若手DJももっとがんばってくれよってことですね。

小林:どういうことかっていうと、例えば、ジョン・レノンの「イマジン」っていう曲が「かっこいい」っていうのは一つの言い方なんだけど、一番「イマジン」らしく響くのは、どういうことか、わかるよね?ただ紹介ばっかりじゃなくて精神的なものもあるだろうし、その人の態度もあるだろうし。具体的にいうと、「イマジン」を生かすために、その前に何をやったらいいかとかね。それから、どういう風なことをしゃべったらいいのかとか、あるしね。

--いろんな状況のなかでさっと短い間に考えて話すことが重要ですよね。同時にジョークのセンスも克也さんのセンスになかなか他の人がついていけてない感じがしてるんですが(笑)

小林:ジョークっていうか、ユーモアっていうのは、すごく大切なんですよ。今のラジオにはそういうユーモアがないんですよ、あんまり。特にFMはないですよね。

--克也さんがいくらおもしろい、すごいことを言っても周囲がそれに反応してないっていうのが、悔しい、歯がゆい気がしますよ。若い人がだけじゃなくて、もっと周りがついていけばいいのになって思いますね。

小林:そうだよね。俺はみんなそういう風なこと感じないのかなと思うんだよね。感じてたら、来るはずなんだよね。

--ついていけない人が多いんですよね。テレビであれ、ラジオであれ、どんどん克也さんが発信してくれると、日本の文化も上がるのになって思いますよ。今後のさらなるご活躍を期待しております。本日はどうもありがとうございました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦) 

声を聞けばだれでも「克也さん!」とわかってしまう唯一無二の存在ですが、あまり知られていない「スネークマン・ショー」以前のご活躍や、アーティスト・インタビューの苦労話など、知られざる素顔を伺うことができました。そして、克也さんが放送業界、ひいては音楽業界のなかでいかに希有な存在であるか、なくてはならない存在であるかということを痛切に感じさせられました。さて、次回克也さんにご紹介いただいたのは、パーティでも司会の大役を務められた後輩DJの代表格、赤坂泰彦氏です。お楽しみに!

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