ボブ・ディランのマネージャー

コラム 高橋裕二の洋楽天国

11月15日、ボブ・ディランのライブ・アルバム「コンプリート武道館」が発売になった。

スーパースターには優秀なマネージャーがいる。エルヴィス・プレスリーのパーカー大佐、ビートルズのブライアン・エプスタイン、イーグルスのアーヴィン・エイゾフ、マイケル・ジャクソンのフランク・ディレオ。そしてボブ・ディランのアルバート・グロスマンだ。

ボブ・ディランは1962年8月20日、アルバート・グロスマンとマネージャー契約を結ぶ。ボブ・ディランが21歳、アルバート・グロスマンが36歳だった。この年の3月にはデビュー・アルバム「ボブ・ディラン」が発売されていた。しかしアルバム・チャートにはランキングされなかった。

アルバート・グロスマンはシカゴで生まれた。シカゴのルーズベルト大学で経済を学び、卒業後はシカゴ住宅局に勤める。元々フォーク・ミュージックが好きで、住宅局を辞めた後、「ゲート・オブ・ホーン」というクラブを経営する。バーズを結成する前のジム・マギンや18歳のジョーン・バエズが演奏した。その後ニューポート・ジャズ・フェスティバルの創設者ジョージ・ウェインと知り合い、ジョージやピート・シーガー達とニューポート・フォーク・フェスティバルを立ち上げる。1959年の事だ。

1962年、ピーター・ポール&マリーを結成し、マネージャーに収まる。「500マイルも離れて」「レモン・トゥリー」「天使のハンマー」や「花はどこへ行った」を含むデビュー・アルバム「ピーター・ポール&マリー」はビルボード・アルバム・チャートの1位を獲得し、プロデューサーとクレジットされたアルバート・グロスマンは一躍脚光を浴びる事になる。このアルバムの音楽ディレクターはミルトン・オクーンで、後にジョン・デンバーの名プロデューサーになる。いずれにせよ、1位獲得アルバムのプロデューサーであるアルバート・グロスマンの、マネージャーを引き受けるというオファーは、ボブ・ディランにとっては願っても無い事だっただろう。

ボブ・ディランは1963年に2ndアルバム「フリーホイーリン・ボブ・ディラン」(最高位22位)、64年には「時代は変る」(最高位20位)、同年に「アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン」(最高位43位)を発表した。しかしセールスは伸びなかった。65年の「ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム」でビルボード・アルバム・チャートのベスト10入りし、最高位6位になった。このアルバムのジャケット写真は、ウッドストック近くのベアズビルにあるアルバート・グロスマンの自宅で撮影された。ボブ・ディランの右奥で赤い服を着ている女性がアルバート・グロスマンの妻サリーだ。

この年(1965年)、アルバート・グロスマン達が創設したニューポート・フォーク・フェスティバルに出演、エレキ・ギターでの登場が大ブーイングを浴びる事になった。アルバート・グロスマンは保守的なフォーク・ファンを目の当たりにする。翌66年、アルバム「ブロンド・オン・ブロンド」を発売直後の7月29日、ウッドストック近郊でオートバイ事故を起こす。アルバート・グロスマンの家から自宅に戻る途中だった。そしてボブ・ディランは表舞台から姿を消す。

1967年、ビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニーがモントレー・ポップ・フェスティバルに登場する。目玉は女性ボーカルのジャニス・ジョプリン。ボブ・ディランの事故後、グロスマンは新しいスターを探す。アルバートはバンドの演奏を観て、「ビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニーは要らない。ジャニス・ジョプリンだけでいい」と決めた。アルバート・グロスマンはマネージャーになり、ジャニスは独立し、ボブ・ディラン同様、アルバム「コズミック・ブルースを歌う」をコロンビア・レコードから発表する。この時の社長はクライヴ・デイヴィス。アルバート・グロスマンはコロンビア・レコードと契約が終了していたボブ・ディランを、クライヴ・デイヴィスと交渉する事になる。

クライヴ・デイヴィスの自伝「The Soundtrack of My Life」の中でボブ・ディランとの契約が書いてある。クライヴ・デイヴィスがCBSレコードに入社し、法務担当者としての最初のアーティスト契約がボブ・ディランだった。当時CBSレコードのスタンダードな契約は「5年契約 50万ドルの保障 10枚のアルバム発売」。アーティスト印税は最高で5%だった。

社長になったクライヴ・デイヴィスは、既に契約が切れているボブ・ディランの契約更改を、オートバイ事故以来姿を消したボブ・ディランが曲を書けるかどうか、歌えるかどうか、演奏できるかどうかといった情報が全くない中でやらなければならなかった。ボブ・ディランのマネージャーはアルバート・グロスマン。業界ではタフ・ネゴシエイターとして知られている。そのアルバート・グロスマンからクライヴに連絡がある。映画会社MGMのレコード部門がボブ・ディランを契約しようとしていると。グロスマンが言うMGMのオファーは破格の「5年契約 150万ドルの保障 12%のアーティスト印税」だった。

このオファーにCBSレコードは勝ち目が無かった。基本は「5年契約 50万ドルの保障 5%のアーティスト印税」だ。この時アレン・クラインが登場する。アレンはローリング・ストーンズやブライアン・エプスタイン亡き後のビートルズのマネージャーをやっていた。悪名は高い。映画会社MGMの大株主でもあった。アレンはクライヴにMGMのこの条件が妥当かどうか聞いてきた。結果MGMの役員会はボブ・ディランの契約を承認しない事にした。

ボブ・ディランとCBSレコードの契約更改は、「5年契約 前渡し金はゼロ 発売枚数は規定しない 10%のアーティスト印税」となった。極めて異例な契約で、ボブ・ディランは発売枚数にしばられない「自由」を勝ち取り、クライヴ・デイヴィスは「音楽業界の勲章アーティストであるボブ・ディラン」を勝ち取った。

1970年の7月17日、ボブ・ディランとのマネージャー契約が終了した。様々な噂が流れた。通常アーティストの収入の10%~15%がマネージャー手数料だが、アルバート・グロスマンは25%をボブ・ディランから取っていた。またアルバート・グロスマンはボブ・ディランの為に作った音楽著作権会社の売上の50%を取るとボブ・ディランが勘違いし疑い始めた。いずれも真意の程は定かで無かった。同年10月4日、ジャニス・ジョプリンが突然亡くなった。ジャニスが亡くなった事でグロスマンはマネージャー業から引退を決意する。

ウッドストック近郊のベアズビルにスタジオを建て、インディーズ・レコードのベアズビル・レコードを立ち上げた。トッド・ラングレンやユートピアが在籍した。日本ではランディー・バンウォーマーの「アメリカン・モーニング」がヒットした。当ブログの筆者はCBSソニー(現ソニーミュージック)時代にベアズビル・レコードの契約に携わり、何回もアルバート・グロスマンに会った。もうボブ・ディランが言うような「話すと言うよりは唸る」ではなく「若い好々爺」だった。カンヌで開かれる国際音楽産業見本市MIDEM(ミデム)の際は、カンヌの山間のレストランで、上司の金井ともどもディナーをご馳走になった。食べたことが無いほど美味しかった。レストラン名を失念したので、フジパシフィックミュージック会長の朝妻一郎さんにお聞きしたら、「ムーラン・ド・ムージャン」だろうと教えてくれた。

アルバート・グロスマンはその後もMIDEMを訪れ、1986年1月25日、MIDEMに向かう機中で、心臓発作の為亡くなった。享年59歳だった。

高橋裕二の洋楽天国記事提供元:洋楽天国
高橋裕二(たかはし・ゆうじ)
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