訃報:ミートローフ(ロック・ミュージシャン)

コラム 高橋裕二の洋楽天国

1月20日、ミートローフがナッシュビルで亡くなった。74歳だった。1977年に発売したアルバム「地獄のロック・ライダー」が全世界で大ヒットした。

以下は当ブログが10年前の6月に書いたもの。スーパー・スターには優秀なスタッフがいるという話。ミートローフを見出し、売り込み、スーパー・スターに育てあげた男。

アメリカ時間で水曜日(6月8日)、ロック・アーティスト、ミート・ローフの制作者(A&Rマン)のスティーヴ・ポポビッチがテネシー州マーフリーズボロのアパートで死去した。68歳だった。

CBSレコード(現ソニーミュージック)を退社して1年後、自らインディーズ・レコード会社「クリーブランド・インターナショナル・レコード」を立ち上げた制作マン(A&R)のスティーヴ・ポポビッチは超特大のヒット・アルバムを生み出す。アーティストは巨漢のミートローフ。プロデューサーは鬼才トッド・ラングレン。作詞作曲はジム・スタインマン。シングル「66%の誘惑」のヒットでアルバム「地獄のロック・ライダー」はヒットした。しかしシングルはビルボード・チャートで最高位11位、アルバムは最高位14位という結果だった。このロック・ミュージカル風アルバムがその後凄い事になる。

20歳になったスティーヴ・ポポビッチはCBSレコード・クリーブランド営業所の倉庫の仕事を見つける。その後営業所で在庫チェックやセールスを経て地区の宣伝マンに。その実績がニューヨーク本社に伝わり、クライブ・デイビス社長の人事でCBSレコード傘下のエピック・レコードで宣伝部門の副社長に抜擢される。音楽業界誌ビルボードの主催で、全米のラジオ局の幹部が選ぶ1972~1973年の「最優秀宣伝マン」に選ばれた。

エピック・レコードの宣伝担当副社長としてボストンやチープ・トリックのヒットに深く関わった。またモータウン・レコードから離れたかったジャクソン5をエピックに移籍契約させる時の裏方のリーダーだった。1977年、CBSレコードを退社後自分のレコード会社「クリーブランド・インターナショナル・レコード」をスタートさせる。クリーブランドは生まれ故郷だ。

「地獄のロック・ライダー」はもともと作曲家のジム・スタインマンがミュージカルのために書いたものだ。ミートローフを含むレコードの為の録音は1975年に始まっていた。スタジオはジャニス・ジョプリンやボブ・ディランのマネージャーでもあったアルバート・グロスマンがウッドストックに持っていた「ベアズビル・スタジオ」。当時グロスマンが持っていた「ベアズビル・レコード」にはユートピアが在籍、ユートピアのリーダー、トッド・ラングレンはジム・スタインマンとミュージシャンを集める。

集められたのはブルース・スプリングスティーンのバック・バンド、Eストリート・バンドやユートピアのメンバーやエドガー・ウィンター。プロデューサーはトッド・ラングレン。エンジニアーの1人は若き日のジミー・アイオヴァイン。今はレディー・ガガのレコードを発売するインタースコープ・レコードの社長だ。

ジム・スタインマンはこのアルバムの売り込みを開始した。最初にCBSレコード(現ソニーミュージック)のクライブ・デイビス社長に断られる。理由は、「役者はレコードを作るな」だ。当時ミート・ローフは「ナショナル・ランプーン・ショー」と一緒に役者としてツアーをやっていた。次にRCAレコードに持ち込んだが断られ、ワーナー・ブラザーズ・レコードの御大モー・オースティンは気に入ってくれたが、彼の同僚達が反対した。最終的に殆ど実績がないインディーズのスティーブ・ポポビッチのクリーブランド・インターナショナル・レコードが手を挙げ契約に至る。1977年10月21日、クリーブランド・インターナショナル・レコードはCBSレコードから販売される事になる。

前述したように、アメリカの反響は最初はそこそこだった。しかしイギリスでの受け方は尋常ではなかった。フリートウッド・マックの「噂」に破れるまで、イギリスのアルバム・チャートに474週間(約9年間)ランク・インという記録を持つ。イギリスの成功はヨーロッパ諸国のセールスにも大きな影響を与えた。最終的にはアメリカでも1400万枚という驚異的な売り上げを記録した。下記は歴代の全世界アルバム売り上げベスト10だ。

歴代の全世界アルバム売上ベスト10。発売年と販売枚数も記す。

1位)マイケル・ジャクソン「スリラー」1982年1億1100万枚
2位)AC/DC「バック・イン・ブラック」1980年4900万枚
3位)ピンク・フロイド「狂気」1973年4500万枚
4位)映画サウンド・トラック盤「ボディガード」1992年4400万枚
5位)ミート・ローフ「地獄のロック・ライダー」1977年4300万枚
6位)イーグルス「グレイテスト・ヒッツ 1971~1975」1976年4200万枚
7位)映画サウンド・トラック盤「ダーティー・ダンシング」1987年4200万枚
8位)バックストリート・ボーイズ「ミレニアム」1999年4000万枚
9位)映画サウンド・トラック盤「サタデー・ナイト・フィーバー」1977年4000万枚
10位)フリートウッド・マック「噂」1977年4000万枚

スティーブ・ポポビッチは販売元のCBSレコードを訴えた。これだけの大ヒット・アルバムなのに原盤印税の未払い分があると。裁判の結果5億7,000万円(1$82円換算)を勝ち取った。その後もこのアルバムが再発売された際(2005年)、原盤権を表示する「クリーブランド・インターナショナル・レコード」のロゴをジャケットに記載しなかったという理由で再びCBSレコードを訴え、4億1,000万円を勝ち取った。

筆者は当時CBSソニーに在籍しており、部下の村上太一(元番組制作会社ユナイテッド・プロジェクト)がこのアルバムの国内盤担当ディレクターだった。名古屋営業所から本社の制作スタッフになった彼にとっての初のアルバム。アルバムは日本では売れなかったがシングルの「66%の誘惑」は良いタイトルだと思う。村上君は2008年10月、若くして亡くなった。

筆者がスティーブ・ポポビッチと会ったのは「地獄のロック・ライダー」が大ヒットして少し沈静化した1980年代の初頭。フランスのカンヌで開かれる世界的な音楽見本市「MIDEM」でだ。まだ会場が木造の建物で、表通りから木の階段を上る。クリーブランド・インターナショナルのスタンドでポポビッチが1人で売り込みの為のアーティスト・ポスターを丸めていた。きさくな100%音楽人間だった。

生まれ故郷のオハイオ州クリーブランドからテネシー州マーフリーズボロのアパートに引っ越したのは息子の家族がそこに住んでいたからだという。引っ越しても息子の家にはお世話にならなかった。

ちなみにA&RとはArtist & Repertoireの略で、アーティストの発掘や育成とレパートリーは文字通り曲目。アーティストが歌ったり演奏したりする曲を探したり見つけたりする事。レパートリーはフランス語が元なので、欧米の業界関係者はよくアーティスト・アンド・レパトワという。これらの仕事はレコード会社の中枢で、その職にある人をA&Rマンと言う。

 

高橋裕二の洋楽天国記事提供元:洋楽天国
高橋裕二(たかはし・ゆうじ)
インタビュー

関連タグ

関連タグはありません

オススメ