惜別 「折田育造さんを偲んで」 朝妻一郎氏 特別寄稿

コラム Musicman

朝妻一郎氏

 折田育造さんが9月1日に亡くなった。しばらく心臓の病を得て入院生活とその後のリハビリの毎日を過ごしていて我々の前に顔を見せていなかった折田さんから”イチローさん元気になったから・・“と本当に元気な声で電話がかかってきたのは6月の終わりか7月の初めだったように思う。”じゃ折田さん緊急事態宣言が解除されたら会いましょう!”というこの1年以上常套句になっている言葉で電話を切ったのだから、その後折田さんが脳出血を起こし、その手術は成功したのにすぐ急変して亡くなられたという連絡をもらった時はただただびっくりして言葉もなかった。

 折田さんと言えばアトランティック・レコードで、アトランティックと言えば折田さんだった。それまでビクター・レコードが発売していたアトランティック・レコードの発売権が日本グラモフォンに移ったことからそれまで外国課で著作権や印税の支払いをしていた折田さんが洋楽をやりたいと言っていた希望をかなえられて洋楽に異動になりアトランティックを担当することになったのだ。

 69年に折田さんはアトランティックのワールドコンヴェンションに参加するためにアメリカに行っているが、これはその2年前にワーナーに買収されたアトランティックの海外担当だったネスヒ・アーティガン(アーメットのお兄さん)からのリクエストだったのではないかと考えられる。日本では東芝が配給していたワーナー、グラモフォンが配給していたアトランティック、ビクターが配給していたエレクトラのそれぞれの契約が切れる70年にはワーナー・グループとして日本に進出する計画が進んでいたが、その中心人物がネスヒだった。彼はアトランティックの担当になった折田さんの素晴らしいミュージックマンぶりに感銘を受け、”日本法人をスタートする時には折田育造が必要だ!”と考え、日本側のパートナーだったパイオニアや渡辺プロの関係者にも”必ずイクゾー・オリタを迎え入れるように!”と要求したのではないかと推測される。
 こうして70年にワーナーパイオニアが誕生し、折田さんはワーナーパイオニアに移っている。
折田さんはこの辺りのことについては全然話してくれていなかったが、もう少し詳しくいきさつを聞かせて貰っていたら、と残念でならない。

 洋楽に来られた最初のころは酔っぱらうと誰彼となく抱きついてほっぺたにブチュとして回ってもみんなから愛されていた折田さん、中村とうようさんがご自分の死後のことを託していった正義感が強く人間的にも信頼のおける折田さん、本当に緊急事態宣言の明けた後、ゆっくりスタックス・レコードの話でもしたかったです。でも多分もうそちらに先に行っている桜井ユタカさんとオーティス・レディングのどの曲が一番良いのかで、長い会談を続けているのかもしれませんね。

 ご冥福をお祈り申し上げます。

朝妻一郎

筆者プロフィール

朝妻 一郎 (あさつま いちろう)

株式会社フジパシフィックミュージック 代表取締役会長
一般社団法人日本音楽出版社協会 顧問

昭和18年 東京生まれ。パシフィック音楽出版時代より、ザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」、モコ・ビーバー・オリーブの「海の底でうたう唄」、加藤和彦/北山修の「あの素晴しい愛をもう一度」をはじめ、山下達郎、大滝詠一、サザンオールスターズ、オフコースなど多くのアーティストのヒット作りに携わっている。執筆活動では、著書に「ヒットこそすべて」(2008年9月)、共著書に「ポピュラー音楽入門」「ビートルズ その後」、監修書に「アメリカレコード界の内幕」など。

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