スティーブ・ジョブズが世界の音楽産業にもたらしたもの(10)〜若き日の挫折と、音楽産業を救うふたつの原石「未来は音楽が連れてくる」連載第58回

コラム 未来は音楽が連れてくる

最終回へ向けて

 

 

 

▲Bob Dylan『The Times They Are A-Changin’』(1964)。ジョブズは、この歌の詞を朗読して初代Macを発表した。その歌詞は、変革の時代にあるいまの音楽産業のことを歌っていると言われても全く違和感がない。

本連載も最終回が迫ってきた。いま、音楽産業はエジソンが世界初のメジャーレーベルを立ち上げて以来、初めての大転換を経験しつつある。

それはiTunesが興した以上の何かであり、そこには21世紀のエジソン、スティーブ・ジョブズの若き日の挫折と、壮年期の人格的成長が深く関わっている。今回、書いていく話はそういったものである。

3年前、アクセスモデル時代の到来を日本に問うべく、Pandora、Spotifyの成り立ちを詳らかにした。爾来、およそ100万字を費やそうとしている。SpotifyやPandoraが「答え」と考えていたなら、そこまでの字数は要らなかった。

我々は、自分たちの手で答えを創る時代に生きている。いまの音楽産業に必要な答えは、たとえば世界の音楽配信事情を読めば書いてある、といったほど安直ではない。Spotifyから始まった定額制配信のブームは解答に至る大切な過程であるが、答えそのものではない。

たいていの物事は表に現れる前から始まっている。筆者がストリーミングの専門家と呼ばれるようになったのも15年近い昔だ。当時、定額制配信の将来を周囲に語っても全く理解されなかったのがなつかしい。いまではテレビや新聞が筆者のところに話を聴きに来るが、そのうち収まるだろう。実にボブ・ディランが歌うように、今あるものはすぐ過去となる。

「未来を予測する最善の方法は、それを発明することだ」

アラン・ケイのこの言葉をジョブズは度々引用した。とてつもなく凄い何かを創る。そこに情熱を燃やす魂の煌めきのみが、時代の行き先を照らし出している。

移ろいゆくこの世界で永遠に新しい光とは、創造の精神なのだろう。触れたかったのはそれであり、伝えたかったのはそれだったように思う。

 

 

失敗を繰り返した若き日のジョブズ

 

学生時代のジョブズは精神の解放、覚醒或いは悟りに強く惹かれていた。だから起業した頃、彼はAppleを去り、福井県は永平寺の僧になろうか本気で迷っていた。

「ビジネスマンにはなりたくなかったからね」と彼は振り返る。「あんなふうになりたくないと思うやつばかりだった」(※1)

結局、敬愛する知野弘文老師にジョブズは心を打ち明けたが、老師から日本語訛りの英語でこう諭された。すべてが修行、事業も座禅も同じ修行なのだと。この時、彼の道は定まった。

旅こそが報い。一意専心。

アメリカ人らしく、禅語は彼の仕事哲学となった。そして禅僧が只管打坐するがごとく、コンピュータ革命の実現に打ち込んでいくのである。

それから6年後ーーー。

パルアルト郊外の、広大な自宅でひとり雑誌を広げたジョブズは得意顔だった。別冊『最新ジョブズの本』。20代の半ばにして、権威あるTIME誌にここまで取り扱われる起業家にじぶんはなったのだ。だが読み終える頃には彼の体は震え、赤面していた。

Apple I、Apple IIを創った天才ウォズニアックこそ真のヒーローで、ジョブズは友人の立場を利用し、口先で財を成したビジネスマンにすぎない。それがTIME誌の評価だった。

「スティーブは、回路づくりもデザインも、あるいはコーディングも一切やってない。彼はコンピューターに本当に関わってきたとはいえないんだ」

取材に答えたウォズニアックのその言葉は、彼の心臓を突き刺した。

醜聞も添えられていた。

ジョブズは、実の親に捨てられたことに苦しんできた。なのに高校時代のガールフレンド、クリスアンとの間に生まれた娘を認知しようとすらしない。会社のみんなは心配している…。親友のコトケが周知の事実と思い、この話題を記者に語ってしまった。

他のApple社員も辛辣だった(※2)。「技術のことはあまりわかっていない」「フランス国王にしたらさぞかし立派だったに違いない」等々。

1500万人の読むメディアで、彼は自画像を初めて知った。それはかつて思った、あんなふうになりたくない軽薄なビジネスマンそのものだった。

70年代の西海岸で多感な時代を過ごした彼は、ディランやビートルズの創作活動に憧れ、Appleを創業した頃、ガレージ裏でよくギターを爪弾き歌っていた。

じぶんの天命は音楽ではない。かわりに人類の最大の発明であるコンピュータの創成期に立ち会う幸運に恵まれた。この世界で、音楽に匹敵する何かを創りあげたい。その欲望に苛まされてきた。

そんな彼にとって「口がうまいだけのセールスマン」という風刺画以上に、核心を突いた侮辱はなかった。彼は涙さえ流した。じぶんの作品を完成して、みずから証明するしか無い。いま手がけているMacintoshを最高の作品に仕上げ、ウォズのApple IIを超えてやる。そう誓ったのである。

その闘志が、若い彼を歪めたのかもしれない。

高校時代、ボブ・ディランの大ファンになったのは、大学生だったウォズニアックの影響だった(※3)。ふたりで電話会社AT&Tをハッキングし、世界中にいたずら電話をかけまくった。そして共に起業した。だがいまや、彼はウォズニアックに激しい敵意を向ける他なかった。

大学を中退した頃、ジョブズは彼女のクリスアンと一緒に、コトケの家へ転がり込んだ。コトケとは何十冊もいっしょに精神世界の本を読み、屋根裏で座禅を組んだ。いっしょにインドまで行き、『あるヨギの自叙伝』に二人とも心酔した。だがもう、二度と彼と口をきかなかった。

それから2年後ーーー。

詩の朗読から始まった株主総会はこれまでなかったし、これからも無いだろう(※4)。1984年1月24日、ディランの『時代は変わる』を開会の冒頭に詠み上げる若きジョブズに、生真面目な証券アナリストたちは目を白黒させ、彼に慣れた記者たちは冷笑を送った。

今の敗者が勝者にかわる? 上場以来、Appleは負けが込んでいるではないか。彼らはそう思ったのである。

共同創業者ウォズニアックの傑作Apple IIの大成功を見て、IBMがすばやくパソコン事業に参入し、わずか二年でAppleを追い越した(※5)。

それは巨人らしからぬ素早さだった。

イノベーションのジレンマを避けたIBMは、少人数のチームでIBM PCを完成させ、ソフトは外注を活用。小さなベンチャーだったマイクロソフトのMS-DOSを標準OSに採用することで、わずか数ヶ月で追撃してきたのだ。

先駆者Appleの方は、自失点を繰り返していた。

大ヒット作Apple IIの後継機、Apple IIIは成功間違いなしのはずだった。だが経営陣がマーケティング主導で仕様を決めたので、何もかもがちぐはぐで、Apple IIとの互換性をほとんど喪失。ソフトウェア開発者のApple離れが始まった。

しかもジョブズがコンパクトな美しいデザインとファンレスの静音に拘ったあまり、窮屈な中、オーバーヒートした基板が問題を起こした(※6)。ディズニーランドを借りきって盛大にお披露目した直後、ハンダ付けの不良で全店返品対応という醜態を晒してしまう。

続いて出したLisaは、パソコン史上初となるGUIを備えた、画期的な製品となるはずだった。

だがジョブズの独裁に開発チームが愛想をつかし、彼を追放。エンジニアが民主主義で仕様を決めてしまう。エンジニアたちの理想を全て詰め込むと、価格1万ドル、当時の日本円で200万円以上に。彼らは高額なLisaをビジネス市場で売ろうとしたが的外れだった。企業は格安のIBM PCのほうを喜んで買った。

その失態はAppleが、早くも大企業病に罹ったことも暗示していた。

Lisaチームから追放されたジョブズだったが、ジェフ・ラスキン率いるMacintoshチームを乗っ取った。そしてウォズニアックが飛行機事故で入院したのを機に、彼のApple II部門から才能あるエンジニアと予算を強引に奪い取った。

「海軍に入るより海賊になれ」

そう書いたTシャツを配り、100人のAクラスだけを集めたチームを本社ビルから隔離して率いてきた。後に『イノヴェーションのジレンマ』のクリステンセン教授が範とする手法である。

Appleの罹った大企業病を治すのはそれしかない、そうしなければ会社はいずれ崩壊する。そう思ったからである。もうMacが失敗したらAppleには何も残らない。そこまで来ようとしていた。リリース予定日を二年も跨ぎ、開発費は見積の二十五倍に膨らんでいた。

20代半ばのジョブズは、才能を集める才に長けていただけでない。とびきり優秀ゆえに一筋縄でいかない彼らを、最高にエキサイティングなヴィジョンで燃え上がらせ、一つにまとめ、情熱的な説得で、ひとりひとりのどんな些細な役割にも、世界的な使命感を与えて回った。

誰かが難所を乗り越えると、ジョブズはすぐに小切手を切って特別ボーナスを渡しに行き、握手して労った。チームがマイルストーンに到達すると、シャンパンを開けこれを祝った。三ヶ月に一度、ハワイ合宿へチーム全員を引き連れて行き、士気を高めた。

オフィスにはゲーム機やピンポン台、搾りたてのオレンジジュースとにんじんジュースと、最高級のオーディオがあった。当時、CDは誕生したばかりだったが、Sonyの創った世界初のCDプレイヤーと、第一陣として発売されたCDアルバム100枚のすべてが揃っていた。

生涯最高の仕事をひとりひとりにしてもらいたい。

そのためには最高の仕事場を提供すると若きジョブズは考え、実行したのである。遊び心あふれた飛び切りのオフィス。後にGoogleなども踏襲するシリコンバレーのこの職場スタイルは、ジョブズが始めた伝統だったといわれている。社員が病気にかかれば風邪薬から手術代まですべて払った(※7)。

その楽しげな外観とは裏腹に、長時間労働を競い合う過酷な職場でもあった。若き船長は疲労困憊の海賊たちを鼓舞しつづた。

楽しみも苦しみもいずれ過ぎ去る。だが決して消え去らない幸福がある。それは魂のすべてを叩き込んで、何かを成し遂げた者にしか味わえぬ誇りであり、充実感である。そう彼は信じて部下を率い、約束の地へ辿り着いた(※8)。

ジョブズは、これから披露する作品に絶対の自信があった。

ディランの詩を朗読した後、かれはおもむろにコンピュータ産業の歴史を語りだした。研究施設を埋め尽くす、巨大なメインフレーム・コンピュータの時代はIBMが創った。しかし冷蔵庫サイズのミニコンピュータが登場した時、IBMはこれを軽視し、DECが王座を奪った。

Apple Iの登場で、コンピュータが机に置けるサイズまで小さくなり、ミニコンからパソコンの時代となった。その時も、IBMは「こんなおもちゃ、マニアしか使わない」と鼻で笑った。だが、Apple IIの成功で眼の色を変えた。

先駆者の後に、模倣者が続くのが世の常だ。

彼らの戦略は決まっている。模倣にちょっとばかりの目新しさを装い、価格競争に持ち込んで先駆者の利益を奪い取る。結果、世界に模造品があふれ、人類の精神は後退することになる。模造品には粗悪な精神が宿っているからである。それがジョブズの感じ方であり、彼にとって、IBMのPCはそれだった。

先駆者のすべきことはただひとつ。本質的な変化をふたたび、みたび、世に問うことだ。

全米に衝撃を起こした『1984』のCMをスクリーンに映した後、ジョブズは言った。今から見せる製品は、コンピューターと個人のあいだにあった垣根を取り払う画期的なものである、と。

「では直にお見せしましょう」

シルクハットからうさぎを取り出すように、キャリーケースから片手でひょいと一体型のMacintoshを出し、机に置いた。人類の誰もがコンピュータを持つ時代を到来させる。その決意を表現した演出である。

フロッピーをMacの口に放り込むと、ヴァンゲリスの『炎のランナー』が会場に流れる。音楽に乗って「M-A-C-I-N-T-O-S-H」の文字がスクリーンをゆっくり横切ると、シニカルな批評家はみな熱狂者に変わった。

世界初の美しいフォント表示。それは技術と芸術が交差した瞬間だった。ずっと続くスタンディング・オベイションの最前列には、感激のあまり泣きじゃくる100人のMacの開発スタッフたちがあった。

「週90時間、喜んで働こう!」「旅こそ報い」と叱咤激励するジョブズの元、休日の無い徹夜だらけの1000日を過ごした。無数の難関を創意と工夫で乗り切った。そしてAppleはふたたび世界を変えたのだ。

最前列のスタッフ陣を壇上から見つめるジョブズも、目に涙を浮かべていた(※4)。

※1 マイケル・モーリッツ著『スティーブ・ジョブズの王国』(2010)プレジデント社 第十章 p.207
※2 ジェフェリー・ヤング著『スティーブ・ジョブズ パーソナルコンピュータを創った男(下)』(1989)JICC 第十四章 p.75
※3 https://plus.google.com/+CarmsPerez/posts/GnVTvQNgvpf
※4 Jeffrey S. Young “Steve Jobs: The Journey Is the Reward” (1987), Scott Foresman, chap.16
※5 スティーブ・ウォズニアック『アップルを創った怪物』(2008)ダイヤモンド社 第一五章 p.324
※6 ジェフェリー・ヤング著『スティーブ・ジョブズ 偶像復活』(2005)東洋経済 第二章 p.90
※7 Jay Elliot, William L. Simon “The Steve Jobs Way” (2011), Vanguard Press, Chap.2 pp.51
※8 Adam Lashinsky “Inside Apple: How America’s Most Admired–and Secretive–Company Really Works”(2012), Business Plus, Chap.2 pp.47

 

 

その天分を蝕んだ若きジョブズの欠点

 

ディレクターということばには監督という意味がある。映画監督もその一例だ。彼らは必ずしも脚本を書かない。演技をしない。だが作品を生み出す、紛れも無いクリエイターである。

エンジニアでもプログラマでもない。ただの目立ちたがり屋と詰られてきたジョブズだったが、Macintoshの制作により偉大なるディレクターと認められた。そして彼の魂が求めていたクリエイターの称号をようやく手に入れた。

彼は、数百人の事業部を率いることになった。取締役会からも信用を得て、未経験の若造からも卒業できたからである。そして彼は思った。Macを創った小人数精鋭のベンチャー方式で、Appleを蝕みだした大企業病を駆逐してやる、と。

「AppleはこれからFortune 500企業(アメリカの代表的500企業)のお手本になるチャンスを持っていると思う」

ジョブズは記者にそう語った。

「売上が何十億ドル(何千億円)の規模になると、会社は自動的にヴィジョンを失っていく。現場と経営陣に幾重もの中間管理職ができる。そうするとプロダクトへの愛と情熱が消えていく仕組みが出来上がるんだ」

社交界の華形となったジョブズは当時、プレイボーイ誌の取材を受け、そう答えている(※1)。

「クリエティブなやつらがクリエイティブなことを思いついても、そこから五人の上司を説得しないと実現しなくなる。優秀な人間ほどバカバカしくなって辞めていき、平凡なサラリーマン集団になる訳だ」

言葉つきは傲慢だったが、後に史上最高の経営者となる片鱗が光っているように感じる。が、それを現実とするには、当時のジョブズは何かを欠いていた。

「君らは失敗した」

事業部長に就任して初めて、部下を招集した彼は刺すような目線でそう言った。その先には、部門統合で改めて部下となった大所帯のLisaチームがいた。失敗するようなBクラス選手はここにいてほしくないので、兄弟会社で働くチャンスを与えようと思う。あと太りすぎたので人数を減らす。そう言って左遷・解雇を宣告した。

Bクラスの人材を排し、Aクラス選手のチームをキープする。

初代Macの開発でジョブズの掴んだ成功哲学である。しかしLisa部門には、正しい監督がいればAクラス選手として働ける人材が残っていた。Mac部門で最高のエンジニアだったアトキンソンは、そう振り返っている。

さらにジョブズは言い放った。Lisaチームは全員降格する。Macチームの部下になってもらう。上司の許可無くMacチームのあるビルへの出入りも禁止する、と。その宣告は、部門の多数を占めるLisaチームの労働意欲を根こそぎ奪った。

この決定はしばらくして、昇進したはずのMacチームの労働意欲をも奪うことになった。部下の給料を知る立場となり、自分たちがLisaチームに比べかなり安い給料で働いていたことに気づいたのだ。

薄給で3年間、週90時間の激務を強いられていたのか…。

彼らは騙された気持ちになった。ジョブズは疲れた彼らを癒やすため、五年勤続者に一ヶ月の休暇を与えるサバティカル制度を導入した。そして年俸に匹敵する臨時ボーナスを出し、かれらの努力に報いようとした。

しかしこれが、会社の稼ぎ頭だったウォズ率いるApple II部門の怒りを買ってしまう。

Apple IIが稼いでいたから、その金でMacを開発できたのではないか。なのにジョブズは感謝するどころか、温厚なウォズニアックを怒らせるほどにApple IIを古いだの何だのと散々こき下してきた。あまつさえ我々の稼ぎをさらに奪い、Macチームにだけ莫大なボーナスを払うのか。

たちまち社内でジョブズは孤立していく。だが、四面楚歌は彼の耳に届いていなかった。遠く離れたNYでほとんどを過ごすようになっていたからである。

「ビジネス界のロックスター」、彼の得たその称号は世界初のものだった。

オノ・ヨーコの家に行き、ゲストに来ていたアンディ・ウォーホルの見守る中、ショーン・レノンにMacをプレゼントした。ミック・ジャガーの家にも行き、同様のことをした。若きジョブズは高級ワインを空ける華やかなNYの社交界に魅了されていく。

「NYの方が知的な女性は多い」

そのうちそんなことを言い出してジョブズはNYから帰ってこなくなったが、Macチームがそれで不満をいうことは無かった。会長に会うためならファーストクラスに乗って移動できたのである。

半年後の夏。ハワイ合宿に集ったAppleのセールス部隊は興奮していた。

ジョブズは、この合宿のために短編映画を特別に創っていた。彼の率いるMac軍が艱難辛苦の末、IBM軍を打ち破るという脚本である。意図の通り、販売部員たちは足を踏み鳴らし、合宿は意気軒昂の様相を呈した。しかしその裏で、ジョブズはひどく落ち込んでいたという。

わずか半年で、Macが全く売れなくなったのだ。

 

 

会心作が売れない。自信を喪失するジョブズ

 

電話の発明にも匹敵するーーー。

それだけの革命的なものを創ったとジョブズは信じていた。電話の登場以前、モールス信号を40時間かけて覚えた技術者しか、通信技術の恩恵を浴することはできなかった。同様に、Mac以前のコンピュータは呪文のようなコマンドラインを覚えたオタクしか使うことができなかった。

だがグラハム・ベルが電話を発明すると、誰もが通信技術を使えるようになった。技術が後ろに隠れ、髪を撫でる櫛くらいに日常的な道具に変わった。

同様にMacのマウスとGUIで、コンピュータは物々しいものから、一般人でも使えそうな身近なものに変わった。初めジョブズはMacintoshではなく「バイシクル(自転車)」と名付けようとさえしていた。肉体労働ではなく、頭脳労働を助ける道具を、この星の民衆は初めて手に入れたのである。

春が過ぎ、夏が過ぎ、秋になるとジョブズは販売数の報告を見るたびに、情緒不安定な言動を見せるようになった。彼は、会議で標的を見つけては当たり散らした。

じぶんの全てを叩き込んだMacintoshを、世界は認めない。世界がじぶんを否定しようとしているような、不信感に彼は苛まされるようになった。幼き頃、親から捨てたれたと知ったときのこころの傷がふたたび開いたのかもしれなかった。

しかし調査の結果、失敗のほとんどがジョブズ自身に起因することがわかった。

初代Macには拡張スロットが無かった。ハードディスクが無かった。冷却ファンが無かった。

どれもジョブズが周囲の反対を押し切って決めたものだ。老若男女がコンピューターを持つ時代を呼び寄せるには、ハードは限りなくシンプルでなければならない。そう信じていた。彼が間違えたのは、彼が正しかったからだ。

「Apple IIまではハードウェアで拡張する時代だった」Macの開発中、ジョブズはインタビューで答えている。「これからはソフトウェアでマシンをカスタマイズする時代になる」

その予見は、あまりにも先を見すぎていた(※)。当時のCPUは貧弱で、GUIの処理にほとんどパワーを吸い取られていた。それでソフトを動かそうにも、さしたることは出来ないことを見落としていた。

http:/https://s3-ap-northeast-1.amazonaws.com/migrate.musicman-net.com.modernmechanix.com/the-making-of-macintosh-an-interview-with-the-macintosh-design-team/

もっと致命的だったのは、OSが高度に複雑化して、ソフトウェアの開発が格段に難易度を増したことだった。Apple IIやIBM PCに比べ、Macの対応ソフトはほとんど無いという状況に陥った。

Macを客に売ったら、ソフトが売れない。拡張スロットが無いから、周辺機器も売れない。結果、販売店は客にIBM PCを薦めてばかりいる。それが調査の報告だった。サードパーティの利益を軽視したジョブズは、エコシステムの構築に失敗したのである。

だが失敗は、大きなインスピレーションを与えてくれもする。

Macの誕生はソフトとハード双方の天才がいて起きた奇跡だったが、ハード側の天才バレル・スミスは、次こそ予算内でハードディスクを内蔵してみせると張り切っていた。

スミスはエンジニアだったが、価格を下げるため流通面でも画期的なアイデアを出した。注文が入ったら工場から航空便でMacを届ければいい。そうすれば倉庫がほとんどいらなくなる。在庫を無くす、このクレイジーなアイデアに感じ入ったジョブズは、これを断行しようとしたが、あまりに常識外れだと取締役会に止められてしまう。

追い詰められると、人の本質が見えてくる。あれこれMacの改善案を出す。そんな程度の反撃策で彼は満足できなかった。そんな仕事はBクラスの人材でも出来る。

Apple IIがそうだったように、いずれIBMかどこかがMacを真似してくる。AppleがAppleであり続けるためには、Macに匹敵するとんでもなく凄い何かを再び出さなくてはならない。若きジョブズはすでにその構想に夢中となりつつあった。

それがMac Phoneである。

 

 

Mac Phone。やり残した宿題

 

その日、プレイボーイ誌の編集部に一本の電話がかかった。

「スティーブ・ジョブズだ」とその声は名乗り、ジョン・レノン最後のロングインタビューを手がけたデビッド・シェフ記者につないでくれと指名してきた。

それでシェフはApple社に招待された。『ダ・ヴィンチ』『ミケランジェロ』と名付けられた会議室を通り抜け、『ピカソ』という名の部屋にジョブズと入る。そしてロングインタビューが始まった。

話も佳境に入り、Macもいずれ古くなる日が来るか、というシェフが問うと、ジョブズは紙を取りスケッチを始め、こう答えた。

次の進化でコンピュータは携帯できるほど小さくなり、ネットワークに繋がり、電話とすら融合するかもしれない、と(※1)。スケッチが整うと、「それはiPadにそっくりなデッサンになった」とシェフは振り返る(※2)。

それこそ若きジョブズが、AT&Tと共に進めようとしていた極秘プロジェクトだった。

電話の発明者ベルを始祖に持つAT&T社はその頃、Appleとの共同事業を強く所望していたという。これに好機を見たジョブズは、研究段階にあったフラットパネルやタッチスクリーンの技術者を呼び、Appleの取締役会でプレゼンを繰り返していた。

しかしそれらは研究の端緒についたばかりで、製品化を取締役会に提案するにはあまりにも未完成だった。

「スティーブは、水平線のかなた、数千マイルも向こうを見ることが出来ます」腹心だったジェイ・エリオットは言う。「でも、そこにいたるまでの道がどうなっているかは見えないのです。これがスティーブの才能であり、失脚の原因です(※4)」

リムジンでやってくるAT&Tの重役陣と、ぼろぼろのジーンズを履いたAppleのエンジニア陣との会議も全くまとまらなかった。そして格上のAT&Tが支配権を言い続けたことで、このプロジェクトは暗礁に乗り上げてしまう(※5)。

若きジョブズの足元は崩れ去ろうとしていた。

1984年の暮れ。販売目標の10%しか達成できず、初代Macの在庫処分が始まった頃。ジョブズの事業部は崩壊状態に入り、すべての開発が止まっていた。全員降格でやる気の失ったLisaチームと、燃え尽きてしまったMacチームから成っていたためである。

そして、何とか引き締めようと躍起になったマネージャーのボブ・ベルヴィールと、Mac OSの中心的エンジニアだったハーツフェルドが衝突し、大喧嘩になってしまう。

「ソフトウェアチームは完全にやる気がなくなって、何ヶ月もなにも出来てないです」と相談するハーツフェルドに、ジョブズは「おまえ、何を言っているのか分かっているのか!」と怒鳴った(※4)。

「今が最高潮で、Macチームは上手くやっていて、俺も人生最高の時を迎えているんだ」

その言葉を聴いて、ハーツフェルドは退職を決意した。対するマネージャーのベルヴィールの方も心が折れ、会社を去ろうとしていた。何年も土日返上で会社に尽くしたため離婚となり、妻と子供を失ったのだ(※6)。

ハードウェアの要だったバレル・スミスも会社を辞めた。ジョブズが、IBMの支配するオフィス環境を奪い取る開発計画を優先し、スミスの進めていたハードディスク付Macの開発を反古にしたからだった。敵愾心のあまり、ジョブズはAppleの不得意なビジネス市場へ向かおうとしていた。集中を欠く戦略だ。

共同創立者のウォズニアックも会社を去った。じぶんのApple II部門がジョブズからずっと蔑ろにされ続けてきたと、彼は記者に答えた。

その前後、ジョブズは出張で日本に来ていた。

スタジオエンジニアの使っていた巨大なテープ録再機が、手のひらサイズのWalkmanになったとき、音楽生活に革命が起こった(第一巻第三章)。同じようにMacを限りなく小型化する技術はないか、日本に探しに来ていたのである。

実際このときSonyにも来社し、尊敬する盛田昭夫と時間をともにしている(第一巻三章)。

ジョブズを気に入った盛田は、みずからSonyの工場案内を買って出てくれた。ジョブズは、その整然とした美しさに強く感銘を受けた。帰国後、Sonyの工場ユニフォームをまねて、同じデザイナーに頼んで自身のユニフォームまで作っている。黒のタートルネックだ。

夜は盛田の招待で、河豚を食べた。かたわらにいた腹心のエリオットは、この時の会話を鮮明に覚えているという。盛田とジョブズ、ふたりの年齢は三〇歳以上離れていたが、瓜二つの価値観を持っていた。

ふたりとも、じぶんの欲しいプロダクトを創るという信念を持っていた。じぶんの創るものを愛し、完璧に仕上げなければならない。そのためには会社自体を、じぶんの作品として磨き上げる必要がある…(※7)。ふたりの会話は、ビジネスには何が大切かを教える授業のようだったという。

同行した腹心のエリオットはIBM出身で、ジョブズの10歳年上だった。穏やかな彼が側にいるときは、癇癪持ちのジョブズも人が変わったように落ち着いたという。だがキヤノン、Sonyに続いてエプソン社に行った時ばかりは、そうはいかなった。

エプソンの本社は長野にあった。同社が東京によこした高級車へ乗ったジョブズは途中、雪崩で通行止めに会う。しかたなく駅へ連れて行かれるが電車も不通で、結局八時間かけて長野についた頃には、彼の頭は沸騰していた。

ロビーに入ると、ジョブズは挨拶もなおざりに寿司が食いたいと言い出し、出迎えるエプソン社員に寿司ネタを言いつけると、重役室に入っていった。

会議室にはエプソンの製品がズラリと並んでいたが、説明を始めたエプソンの社長に「こんなものはクソの役にも立たない」とジョブズは言い放ち、呆然とする重役たちを背にものの数分で会社を去っていった。

帰りの電車の中。まだ冷や汗の引かない常識人のエリオットを相手に、ジョブズは恋愛相談を始めた。最近、新しい恋人が出来たけどやっぱりうまくいかない。終生の伴侶がほしいという。エプソンのことは全く気になってないようだった。そしてエリオットの腕を掴んでジョブズは言った(※8)。

「俺だって普通の人間だよ。どうしてみんな、それがわからないんだ!」

 

 

▲ジョブズがフォークの女王ジョーン・バエズと交際していたのは、いまでは有名な逸話になった。子供がほしいジョブズと意見が合わず別れたが、ふたりの友情は続いた。この映像はバエズが、ボブ・ディランの『風に吹かれて』を歌うもの。その歌詞は苦難続きだったNeXT時代のジョブズにぴったり嵌る。

アメリカに戻った頃には、現場から次々と告発文がAppleの取締役会に届くようになっていた。ジョブズがすべてに口出しして、会社をめちゃくちゃにしていると。

結局、年明けの株主総会では初の四半期赤字を発表せざるを得なくなった。そればかりか開発陣の大混乱で、発表すべき新製品は何も出来上がってないという最悪の事態を迎えていた。

新製品無きプレゼンを、何食わぬ顔でこなしたジョブズだったが、トラウマ級の冷や汗を味わっていた・・・

>> 最新刊で公開予定!

【本章の続き】
■NeXT Cube。放埒な完璧主義がもたした失敗作
■ジョブズとゲイツ。失敗作とインターネットの誕生
■偉大なる経営者スティーブ・ジョブズの誕生した瞬間
■音楽産業を変えるふたつの原石

>>次の記事 【連載第59回 スティーブ・ジョブズが世界の音楽産業にもたらしたもの(11)〜Spotifyが誕生するまで】

[バックナンバー]
 

 


著者プロフィール
榎本 幹朗(えのもと・みきろう)

 榎本幹朗

1974年、東京都生まれ。音楽配信の専門家。作家。京都精華大学講師。上智大学英文科中退。在学中からウェブ、映像の制作活動を続ける。2000年に音楽TV局スペースシャワーネットワークの子会社に入社し制作ディレクターに。ライブやフェスの同時送信を毎週手がけ、草創期から音楽ストリーミングの専門家となった。2003年ライブ時代を予見しチケット会社ぴあに移籍後、2005年YouTubeの登場とPandoraの人工知能に衝撃を受け独立。

2012年より『未来は音楽を連れてくる』を連載・刊行している。Spotify、Pandoraをドキュメンタリーとインフォグラフィックの技法を使って詳細に描き、 日本の音楽業界に新しいビジネスモデル、アクセスモデルを提示することになった。 音楽の産業史に詳しく、ラジオの登場でアメリカのレコード産業売上が25分の1になった歴史とインターネット登場時の類似点 や、ソニーやアップルが世界の音楽産業に与えた歴史的影響 を紹介し、経済界にも反響を得た。

寄稿先はYahoo!ニュース、Wired、文藝春秋、プレジデント、NewsPicksなど。取材協力は朝日新聞、Bloomberg、週刊ダイヤモンドなど。ゲスト出演はNHK、テレビ朝日、日本テレビなど。音楽配信、音楽レーベル、オーディオメーカー、広告代理店を顧客に持つコンサルタントとしても活動している 。

Facebook:http://www.facebook.com/mikyenomoto
Twitter:http://twitter.com/miky_e

関連タグ

関連タグはありません

オススメ