開放的な春の陽気が漂う2024年4月27日(土)の午後、東京・紀尾井ホールで上野耕平サクソフォンリサイタルが開催された。今回の演奏会は “with アンサンブル” と題されており、日本を代表するアンサンブルメンバーたちも駆けつけ、後半プログラムを大いに盛り上げた。この一公演のみのスペシャルコンサートの模様をお伝えしよう。
洒脱なエンターテイナー・高橋優介とのデュオは最高のカップリング!
今年デビュー10周年を迎えるサクソフォニストの上野耕平。昨年9月には4年ぶりに新アルバムもリリースし、ますます円熟味を増している。つねに舞台上で200%のエネルギーを放出し、フレッシュな若々しさで聴衆を魅了し続ける上野に “円熟味” という言葉は決してふさわしくないようにも思えるが、そのあふれんばかりの熱量と華麗なる技巧、そして何よりサックスという未知なる楽器の特質と可能性をここまでに高めたその音楽的知性と芸術性は、ますます高みへと進化し続けている。特に今回の演奏会前半で繰り広げられた、華やかな技巧を聴かせながらも孤高ともいえるほどに研ぎ澄まされた深遠な音の世界は、まさに ”円熟味” という言葉がふさわしいほどに大人の色気も感じさせた。
ただし、”孤高” といっても、決して独りよがりな音楽はせず、パートナーやメンバーたちの力を信じ、彼ら一人ひとりの存在を輝かせ、よりいっそう相乗効果を導きだすのが上野流。今回の “リサイタルwithアンサンブル” は、まさに上野の真の音楽家としての器の大きさを余すところなく堪能させてくれる最良の機会だった。では、当日の模様を振り返ってみよう。
プログラム第一部——相思相愛のパートナーであるピアニストの高橋優介とのデュオで聴かせた前半第一曲目は、プラネル「プレリュードとサルタレロ」。数分の小曲だが、早くも上野が紡ぎだすムーディな旋律があたたかく空間を包み込む。紀尾井ホールが誇る繊細で豊麗な音響空間を最大限に生かし、深くゆったりとブレスを取りながら伸び伸びと歌い上げる上野の音に、客席も瞑想的空間に引き込まれるような感覚を覚えたことだろう。ちなみに前半4曲はすべてアルトサックスによる演奏だ。
二曲目はお馴染みデュボワ「ディヴェルティスマン」。他愛もないフレーズによって成り立っているような軽妙な作品だが、サクソフォンとピアノの超絶技巧によるライブ感あふれる掛け合いが楽しく、聴いていても心地よい。二人の音楽性とテンペラメントがこうも見事に同調した生命感あふれる演奏を同じ空間で目の当たりにできるのは、聴き手としても最高にエキサイティングな体験だ。
第二楽章では、ピアノが奏でるエキゾチックな近代和声にのった美しく、色気のある上野のロングトーンが、そして、終楽章では全身でリズムを刻みながら軽やかに華麗な技巧を披歴する上野のモーションに絶妙なセンスで応える高橋の名人芸ぶりが大いに客席を高揚させた。高橋はヴィルトゥオーゾなピアニストであることは間違いないが、むしろ内に秘めた(表情には絶対に出ない!)そのさりげなく洒脱なエンターテイナーぶりが上野との最高のカップリングを生みだすのだろう。
続いての曲は ボザ「アリア」。上野いわく「アルトサックスの音色を堪能するには最高の一曲」というが、バッハのアリアのような敬虔なメロディが次第に哀愁を帯びたロマンティックなものへと変化していく様を、一切の雑念をそぎ落とした透明感のある音で聴かせる。真っすぐな思いに導かれた深みのある歌心の余韻が会場空間を満たした。
前半最後は、かのジョン・ウィリアムズによる「Escapades」。天才詐欺師の生き様を描いた映画『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』から生まれ出た作品だ(原曲はアルトサックスとオーケストラのための作品)。冒頭、上野はピンクパンサーが出てきそうなスリリングな情景描写で軽妙な音を聞かせるかと思えば、ウィスキーの琥珀色の香りが似合いそうなジャージーでムーディな旋律では、その多彩で巧みなフレージングによって、渋みのある都会的で艶やかな音を空間いっぱいに響かせる。そのストーリーテリングは、語り口こそやさしいが、驚くほど力強さに満ちており、人生の絶頂期にある天才詐欺師のみなぎるオーラとカリスマ性、そしてダンディズムや色気があふれんばかりに感じられた。
ピアノの高橋が描きだすバックドロップ(背景)の描き方の巧みさにも大いに助けられているのは間違いない。とにかく、カメレオンのように千変万化する登場人物が、摩天楼の中を華麗に、大胆に生き抜く様子を映像のごとくに鮮やかに紡ぎだす二人の冴えわたるセンスに終始感心させられた。
一貫して、両者が「新しい音を創り出す‼」という情熱と気迫に満ちあふれている様子も伝わってきて、この二人の音楽家のスピリットの凄まじさを改めて感じさせられた。しかし、決して気負うことなくあくまでも自然体のままなのがこの二人のさらなるスゴさなのだ。両者ともに一席弁じて爽やかに舞台から去って行くさりげない姿もまたカッコ良かった。
ソプラニーノ・サックスの新たな音色に世界初演も
後半プログラム最初の一曲は、前半の続きで上野と高橋のデュオによる 旭井翔一「Eclogue [田園詩]」。なぜこの作品をあえて別枠の後半プログラムにもってきたかというと、前半のラインナップの流れに沿ったアルトサックスでの演奏ではなく、あえてソプラニーノ・サックスという未知なる楽器を用いての演奏だからだ。上野自身、数年前から開発に携わり、改良に次ぐ改良を重ね、満を持して生みだされたというこの新楽器。実に制御するのが難しく、改良を重ねたことでようやくステージで音を聴かせる楽器にまで進化させることに成功したそうだ。
実際にステージ上で聴くとノンビブラートのような乾いた響きが独特な世界観を生みだし、この [田園詩] という副題が与えられた楽曲の特性を最大限に引き出していた。上野のテクニックと力量をもってしてもフラットな音程に聴こえてしまいがちな、ある種、原始的な響きすら感じさせるこの楽器の音を、上野はむしろ楽器に寄せる愛情をあふれんばかりに表現するかのように効果的に生かし、この作品が全編に湛える「無垢な」色合いを見事に表現していた。
また小さな楽器を力いっぱい響かせるその情熱あふれる息づかいが、この作品の根底にある “命あるもの” を輝かせる。ともすれば無機質ともいえるモノトーンなキャンバス地に潤いをもたらすピアノパートとの相乗効果も見事で、二人はその美点をも十分に熟知し、引き出していたのが印象的だった。
そして、ここからが “with アンサンブル” スペシャルコンサートの本領発揮。次なる ミヨー「スカラムーシュ」では、通常ピアノとの共演で演奏されることが多いこの作品を、あえてクラリネット、ファゴット、ホルン、オーボエ、フルートという木管五重奏との共演で聴かせた。特に第一曲目のVifでは、アルトサックスを囲んで、木管、金管という、いわゆる(サックスの)同族楽器たちが繰り広げる洒脱な会話が不思議と聴き手の想像力を掻き立てる。会場の聴衆もこの作品の魅力を数倍楽しんだことだろう。
本プログラム最後を飾るのは、イベールの代表作「アルト・サクソフォンと11の楽器のための室内小協奏曲」。当日、上野のために駆けつけた日本を代表する11人の各種弦・管楽器奏者たちがリアルにステージ上に登場し、それだけでも迫力があった。
「イベールは『11人の楽器奏者一人ひとりが主役である』と考えていたのでは……、という信念が以前から僕の中に強くあって、かねがね日本を代表する音楽家の仲間たちとともにその思いを実現したいと考えていました。今日、まさにその夢が実現しました」と演奏前に上野がそう語っていたのも興味深かった。
当作品はサックス奏者にとって、オーディションやコンクールで必ず課題曲や勝負曲として扱われる作品だけに、実は上野自身にとってもあまり良い思い出がないそうで、「だからこそ、この作品の真価を導き出せることをよりいっそうやってみたかった」という。それだけに上野率いるアンサンブルの意気込みが冒頭から伝わってきた。アルバン・ベルクの室内管弦楽曲を思わせる音の厚みと密度の濃い色彩に加え、まさに一人ひとりが主役と感じさせるオーケストレーションの妙で客席を圧倒。魅惑的な音の渦の中で奏でられる上野の音の安定感もまた格別だ。
サックスのソロで始まる後半のラルゲット。前述のように盤石なアンサンブル(オケ)に支えられている安心感からだろうか、上野はひときわスケールの大きいフレージングで腹の底から深い音を聴かせる。続く、アタッカで入るアニマートからは全員が一つになって今日のこのスペシャルなひとときを心から楽しんでいる様子が音にのって伝わってきた。
アルトサックスによるソロ・カデンツァのくだりでは、上野はこの作品が持つ独特の言語を自由闊達に繰り出し、華麗なる技巧で雄弁に語ってみせた。まるで仲間たちに触発されて、上野にさらなるインスピレーション舞い降りてきたかのような得も言われぬ数十秒だった。
互いが刺激し合い、楽しみながら瞬間に火花を散らす喜び——これこそが音楽をする醍醐味なのだと改めて感じさせられる好演。演奏を終えた直後の、「弾き始めると一瞬にして終わってしまうんですね。だから、始めなければよかった……と思うほど、楽しいひとときを過ごしました」という上野の言葉が実に印象的だった。
舞台上の12人に惜しみない拍手が贈られた後、アンコールの一曲を演奏。再びピアノの高橋とともに、近年、(上野に)献呈されたという唯一無二の作品を本日初めてソプラノサックスで演奏した。
新進気鋭の作曲家 山本菜摘による 「上野耕平さんのための」 というこの作品。今回が正真正銘の世界初演だというから客席も大いに沸いた。ソプラノサックス奏者としての上野のアイデンティティを象徴するかのように繊細で歌心に満ちた美しい作品——淡い香りを漂わせる余韻あふれる演奏で上野と高橋は ”特別なひととき” を締めくくった。
終演後のサイン会の様子
取材・文:朝岡久美子