ローリング・ストーンズ、キューバ・ハバナでの無料コンサートが決定

コラム 高橋裕二の洋楽天国

ローリング・ストーンズ、キューバ・ハバナでの無料コンサートが決定

3月1日、ローリング・ストーンズがキューバの首都ハバナで3月25日に無料コンサートを行うと発表した。アメリカとキューバの国交回復で実現した。ミック・ジャガーは昨年(2015年)10月、会場探しでハバナを訪れていたという。直前の3月21日、現職のアメリカ大統領としては88年振り、オバマがハバナを訪問する。

当ブログの筆者も6年前の2009年10月、定年退職後キューバに旅行した。以下がその時のブログ。

私的な一人旅で、現地時間の10月3日からキューバのハバナにある「ホテル・サラトガ」に投宿している。

ギタリストのライ・クーダーが友人であるレコード会社の幹部と、キューバのミュージシャンとアフリカのミュージシャンでアルバムを作る話が、アフリカのミュージシャンに不都合が生じ、企画が流れた所から「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」のアイデアがスタートする。ハバナの人たちでさえも殆ど名前を知らない老ミュージシャンを集めてアルバムを作るのだ。1997年、このアルバム「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」は全世界で大ヒットを記録する。日本でもキューバ音楽に全く関心がない人たちにまで浸透、空前の大ヒットとなった。哀愁みを帯びたCDの1曲目「チャン・チャン」に魅了され、ハマった人は数えきれない。

2年後の1999年、ライ・クーダーの友人であるヴィム・ヴェンダース監督がドキュメンタリー映画「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」を完成させる。映画の冒頭で老人コンパイ・セグント(ギター)がおんぼろのアメ車で、今はもうないが、往年の音楽とダンスが華やかりしころのクラブの場所を探している。ハバナの街と高齢のミュージシャン達の音楽にかけるひたむきな気持ちを、淡々と映像に納めている。渋い役者のようなシンガーのイブライム、孤高のピアニストのルーベン、職人のべーシストのオーランド、笑顔が全てを表すギターのコンパイ・セグンド、4人とも既に鬼籍に入った。

今回実際来てみると、ハバナの旧市街には、スペインの植民地時代を彷彿とさせる重厚な、それでいて崩れ落ちそうな石造りの住居がいたるところにあり、そこに市民は屈託なく住んでいるように思われる。ここハバナで「老人と海」を書いた作家アーネスト・ヘミングウェイの家にも行ってみた。山あいの中にある大きな敷地とつつましやかな家。1899年の生まれなので、今年が生誕110年だ。

1980年、長嶋茂雄は巨人軍の監督を辞任する。当時は解任だとの噂も出た。この長嶋茂雄に一人の若者が新幹線のグリーン車内で偶然アドバイスをする。この若者は当時洋楽アーティストの来日を招聘しており、米国バークレイ音楽院でドラムスを学んだという変わり者。この時は解散したベイ・シティー・ローラーズの分裂組を日本に呼んでいた。バークレイはボストンにあったのでアメリカのメジャー・リーグにも詳しかった。またキューバ野球の知識もあった。

彼の夢は「ジャズ・ドラマー」だった。彼が招聘したいのはジャズっぽい本格派。「イラケレ」というキューバのバンドに興味を持ち、彼等が所属する米国のコロンビア・レコードの日本での窓口であるCBSソー・レコード(現ソニーミュージック)の当方にアプローチ。日本と国交のないキューバにもアプローチしていた。キューバ最大の輸出産業は砂糖。彼は当時日本にキューバ政府の出先は無いが、キューバの「砂糖公団」の日本の出先とコンタクトを取っていた。結果イラケレの来日コンサートはかなわなかったが、ビザの取得が殆ど不可能な当時の状況で、彼の手配で浪人中の長嶋茂雄はキューバ野球視察の為ハバナに渡る。

1981年、キューバ野球も盛り込んだ長嶋茂雄の著書、「ネバー・ギブ・アップ」が発売となる。若者の名前は「林博道」。いまや日本の興行の最大手である、H.I.P.の代表だ。

余談だが、キューバの入国審査でも出国手続きでも、私のパスポートにはどこにも証明するスタンプがない。当時国交が無かったアメリカに旅行する為の配慮だったかもしれない。

記事提供元:洋楽天国


高橋裕二氏インタビュー

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