夏の終わり。Spotifyへ託された夢〜Napsterの物語(中)「未来は音楽が連れてくる」連載第43回

コラム 未来は音楽が連れてくる

連載第43回「夏の終わり。Spotifyへ託された夢〜Napsterの物語(中)」
▲ショーン・ファニングの現在。Napsterで富を築くことは無かったが、歴史に名前を刻んだ。その後、ゲーム会社を創業しEA社に売却。続いてSNSのPathを創業。他にショーン・パーカーと、ビデオ・チャットのAirtimeをやっている。
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アメリカ初の世界的ヒットメーカーは、なぜ安宿で死んだのか

 

スティーヴン・フォスターが22歳の時にリリースしたデビュー曲はアメリカ史上空前のヒットとなった。ドットコム・バブルから遡ること150年前。同じ西海岸に起きたゴールドラッシュは、東部のアメリカ人だけでなく、ヨーロッパからも人々を引き寄せた。フォスターの曲はフォーティー・ナイナーズ世代のアンセムとなり、アメリカ中で彼の曲が演奏されるようになった。

アメリカだけでなかった。欧州、北アフリカ、インドでもフォスターのデビュー曲はヒットした(※)。「おお、スザンナ」は、アメリカの音楽産業が初めて経験した国際的なメガヒットだった。

(※ John M. Murrin(2013)Liberty, Equality, Power: A History of the American People, Concise Edition; 6 edition, Cengage Learning, pp.238 )

5000部捌ければトップ・ソングだった時代に「おお、スザンナ」の楽譜は10万部のセールスを国内で記録した(※)。現代のアメリカの売上規模に直せば2000万枚クラスだろうか(※)。

(※ http://www.meetthemusicians.us/stephen-foster.asp )
(※ http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_best-selling_singles )

だが、フォスターが受け取った著作権収入は、100ドルだけだった(※)。印税ではなく買取だったからだ。著作権料を集める団体が無かったので、個人の作曲家はパブリッシャーの言いなりだった。

(※ David S. Kidder, Noah D. Oppenheim(2007)The Intellectual Devotional: American History: Revive Your Mind, Complete Your Education, and Converse Confidently about Our Nation’s Past, Modern Times , pp.49)

金を払ってくれるだけ、まだましだったかもしれない。当時、海賊版の出版は日常茶飯事だったからだ。

1831年の著作権法改正で、アメリカでもようやく作曲の著作権が認められた。だが法律はまだ穴だらけで、編曲すればじぶんの曲にすることが出来た(※)。NYの人気バンドを率いるE.P.Christyは、フォスターの曲を自分名義に変えてリリースした(※)。

(※ Copyright Act of 1909, Section 1 / Van Lindberg(2008)Intellectual Property and Open Source: A Practical Guide to Protecting Code, O’Reilly Media, pp.78 )
(※ Maurice Hinson, June Montgomery(1997)Meet the Great Composers, Alfred Music , pp.29)

実際には編曲すら不要だった様子だ。それはそうだ。著作権管理団体がなければ、違法コピーの取り締まりも存在しない。作曲家たちが自己防衛のために、ASCAP(JASRACに近い存在)を設立するのは66年後の1914年だ。「おお、スザンナ」は16の出版社からリリースされたが、フォスターに金が入ることは無かった(※)。

(※ John M. Murrin(2013)Liberty, Equality, Power: A History of the American People, Concise Edition; 6 edition, Cengage Learning, pp.238 )

海賊版コピーとライブ。

このセットによって、街々でフォスターの曲はシェアーされ、「おお、スザンナ」は国民的な人気を博した。大きなプロモーション効果だった。だが当然ながら、作曲家のフォスターに還元されることはなかった。それはプロモーションなのだろうか?

音楽リスナーも、フォスターに金を払うことは無かった。

いや、彼らは払っているつもりだったのかもしれない。レストランやバーに行き、音楽を楽しむ。バンドにチップを渡す。食事代を払う。金は払っているじゃないか。全国の街でそれは起こった。だから、フォスターの収入は一曲描き上げるたびに出版社からもらう数十ドルが全てだった。そんな時代に彼はフルタイムの作曲家で家族を養っていくと決めた。アメリカ音楽の父は、アメリカ史上初の職業作曲家でもあった。

その後も、国際的なヒットをいくつも飛ばした。「故郷の人々」「懐かしきケンタッキーの我が家」「老犬トレイ」はどれもデビュー作並に売れ、イギリスでは、アメリカ以上によく売れた(※)が、もちろん、彼に富が還元されることは無かった。

(※ Eneas Sweetland Dallas, Once a Week Magazine, July 15 1871, London)

フォスターの音楽には黒人奴隷へのシンパシーがあふれていた。フォスターの曲が全国的に流行したことが、リンカーンが奴隷解放運動を進める下地を作った。当時の作家・社会活動家フレデリック・ダグラスの言だ (※)。

(※ John M. Murrin(2013)Liberty, Equality, Power: A History of the American People, Concise Edition; 6 edition, Cengage Learning, pp.238 )

フォスターの生活はセレブから程遠いものだった。結局、作曲で稼いだ生涯収入は1万5091ドル(※)。このアメリカ最初のヒットメーカーの年収は、現在価値に直すと平均で390万円程度だった(※)。アッパーミドル出身の夫婦の借金は徐々に嵩み、妻子とは別居することになった。

(※ 1849〜1864年の合計。Mike Read(2000)Major to Minor: The Rise and Fall of the Songwriter, Sanctuary Publishing ,pp.42 )
(※ http://www.measuringworth.com/index.php 1860年のCPIをベースに、1ドル100円で換算し11年で割った )

1864年。奴隷解放をめぐる南北戦争も、終盤に差し掛かっていた。

NYの安宿に篭もり、エアーピアノで作曲を続けるフォスターの体を、貧しい生活が蝕んでいった。食事といえば林檎をかじり、酒をあおるだけ。ほどなく体調を崩し、高熱で朦朧としたフォスターは、転倒のはずみにガラス鉢でひたいを割った。そして、大量出血で死んだ。

傍らには、書き終えたばかりの「夢路より」があった。小銭入れにあった38セント。それが彼の全財産だった。

 

 

Naspterの困った筆頭株主たち

 

2000年5月11日。

「ゴールドラッシュの再来」がもたらした最後の光彩が、サン・フランシスコのメイソニック・センターを包んでいた。ウェブ業界のオスカー、ウェビー賞の授賞式に集った3千人は、その名が会場に響くのを待ち構えていた。

「音楽部門の優勝は、Napsterです!」

スタンディング・オベーションが起こり、Napster開発者のショーン・ファニングがはにかみながら花束を受け取った。レコード産業が苦虫を噛む一方、2000万人の音楽ファンがNapsterに熱狂していた。19歳のショーン・ファニングと20歳のショーン・パーカー。受賞パーティでは、共同創業者ふたりの知己を、誰もが得ようと集まってきた。ふたりの少年はドットコム世代の偶像になったのだ。

談笑していたパーカーの肩をいきなり誰かが掴んだ。振り返るとNapsterに投資したロン・コンウェイがいた(※)。パーティの場に似つかわしくない深刻な顔でコンウェイは、Napsterが倒産しそうだと耳打ちした。大袈裟すぎる、と思ったが、静かな場所で話を聞くうちに事態が分かってきた。ファニングの叔父ジョンが出資話を次々とぶち壊していたのだ。

(※ http://tech.fortune.cnn.com/2013/09/05/napster-oral-history/ )

Napsterにはビジネスモデルが無かった。金を稼いだ瞬間、「私的複製」に基づく合法性が失われる。そう考えていたからだ(連載第42回)。投資家たちから運転資金を集め続けなければ倒産する。

社会現象を起こすほどの人気を博しながら、Napsterへの評価は下がり始めていた。訴訟リスクだ。裁判で違法と認定された場合、出資金は水疱に帰する。それだけでない。潜在的には史上最高額、とも噂される天文学的な賠償金が待っている(連載第42回)。Napsterが潰れても、株主となったVC(ヴェンチャー・キャピタル)には支払いの義務が残るかもしれなかった。

あるいは二十歳のパーカーの構想通り、上手くいくかもしれない。メジャーレーベルがNapsterをサブスクリプション・サービスに変えて、合法化する。確率の低い、ハイリスク・ハイリターンのシナリオだった。ハイリスクの博打で生き残る鉄則は、賭け金を少な目に積むことだ。Napsterの評価額を一気に下げれば、投資は考えられなくもない。そう考えてくれるファンドもあった。

だが、筆頭株主のジョン叔父は「うちの会社は既に10億ドル(約1000億円)の価値がある」「レコード会社なんて全部買収してやる」と交渉相手の前で宣う男だった(※)。VCは辟易して次々と逃げていった。

(※ Joseph Menn “All the rave” chapter 9)

最後まで残ったのがハマー・ウィンブラッドというVCだ。創立者のハマーは焦っていた。彼のファンドはドットコム・バブルに乗り遅れ、ほとんど儲けていなかった。そこでドットコム企業に集中投資したのだが、この月、ついにバブルの崩壊が始まり、大損を被りつつあった。冷や汗が背中をたどる日々を送っていたハマーには、一発大逆転しか道が残されていないように見えていたろう。

ショーン・ファニングたちはジョンのところへ直行した。そして煽て上げた。叔父さん、あなたは最高の起業家だ。誰もが尊敬している。今こそスタッフたちの嘆願を聞くべきだ…。いい気分になったジョンはしぶしぶ6,500万ドル(約65億円)の評価額を受け入れた。

倒産すれすれのNapsterにハマーのつけた評価額は破格だった。ドットコム・バブルが破裂した2日後の5月22日。ハマーはNapsterという名の大博打に1,300万ドル(約13億円)を投入し、20%の株式を獲得。Napsterの筆頭株主となった。「私はレコード産業の悪夢である」とハマーは宣言した。

「Napsterを糾すくらいなら1,300万ドルを失ってもいい…。そう考えた瞬間、私の心に得も言われぬ平安が訪れた」とハマーはフォーチュン誌に語っている(※)。彼はNapster革命に、自分の存在意義を見出そうとしていた。VCに出資したパートナーの平安はどうなるのだろうか。ハマーは、バブル崩壊で平常心を失っていたように見える。

(※ http://money.cnn.com/magazines/fortune/fortune_archive/2000/08/14/285578/index.htm )

5月22日。

とまれ倒産の危機は去った。契約が成立した晩、ファニングとパーカーの二人は、先のコンウェイが開いたチャリティー・パーティに招待されていた。

ウォーレン・バフェットがそこにいた。mosaicを創り、Netscapeを上場させたマーク・アンドリーセンがいた。サン・マイクロソフトを創ったビル・ジョイがいた。タイガー・ウッズとラウンドする権利を誰かが65万ドルで競り落とし、歓声が上がっていた。カクテルグラスの鳴る音がさざめく中、ふたりの若者は目も眩むような思いで立ち尽くしていた。俺たちも、こういう人たちの仲間になったんだ…。

IT産業の先輩たちは、ショーン・ファニングのP2Pを絶賛していた。

マーク・アンドリーセンは「一世代に一度しか登場しないレベルのアイデア」と評した。インテルの会長アンディ・グローヴは「インターネットは全てNapsterのようなテクノロジーで再構築されることになる」と語った(実際にはクラウドがその役割を果たしたが)。

Googleを創ったラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンは、どんなにNapsterがクールか、ファニングに滔々と語って羨ましがったという(※)。Napsterの分散コンピューティングを超えたい、という思いが、後にGoogleをクラウド・コンピューティングへ導いたのかもしれない。

(※ Alex Winters “Downloaded” 00:40 – 00:50)

だがファニングには先輩たちの称賛よりも、何よりもうれしいことがあった。

ジョン叔父が会社からついにいなくなるのだ。叔父に取って代わり、ハマー・ウィンブラッドが筆頭株主となった。そしてNapsterのCEOは、弁護士のハンク・バリーに変わることになっていた。弁護士が社長になれば、裁判からも解放される。またプログラミングに専念できるようになるはずだ。

法律や戦略のことはわからない。でも、最高のプロダクトを創りつづけていれば、いつかきっと道が拓けるーー。それが、19歳のファニングが信じていたことだった(※)。

(※ http://tech.fortune.cnn.com/2013/09/05/napster-oral-history/ )

新CEOのハンク・バリーは、元プロ・ドラマーの弁護士という異色の経歴を持っていた。バンド活動に熱中して大学を中退。バンに乗って全国を巡り、ライブ活動を中心に7年間やっていた。29歳のある朝、目が覚めると服が臭った。それでバリーは復学し、著作権が専門の弁護士となった。Napsterが創業した直後にちょうどハマー・ウィンブラッドのパートナーとなっていた。

ハマー・ウィンブラッドにNapsterの話を持ってきたのはバリーだという。ミュージシャン出身の彼は、Napsterの起こした流通破壊に惚れ込んでいた。Napsterは、メジャーが支配する音楽業界に革命をもたらす、と考えた無数の人間の一人だった。

少数派のひとりでもあった。業界の下馬評では、Napsterの勝訴は見込み薄で固まっていた。一方、ハンク・バリーは「Napsterは勝訴できる」と確信していた。それで、Napsterの暫定CEOを引き受けた(※)。

(※ Joseph Menn “All the rave” pp.336)

だが、ハンク・バリーの勝算はCEOに就いてわずか一週間あまりで崩れ始めることになった。

 

 

Napsterの運命を決めたemail

 

5月末日。

「これはあなたが書いたものですね?」
「そう・・・だと思います」

RIAA(米レコ協)サイドの弁護士の質問に、パーカーは答えるのがやっとだった。脈打つ鼓動が法廷に鳴り響くようだ。相手弁護士の口元には笑みが浮かんでいた。

ーー 音楽趣味などの情報をNapsterに提供すれば、ユーザー・エクスペリエンスが向上していく。ユーザーはこれを理解してくれるでしょう。ただし名前や住所などセンシティヴな個人情報と、使用履歴は切り離して置く必要があります(音楽の違法コピーを交換している場合は特に重要です)。

ーー 僕が先に記した戦略(CDの紹介やレコメンデーション・エンジン等)は、RIAAとの交渉を有利にするはずです。僕らは音楽の違法コピーを入手可能にしているだけではない。需要も創り出しているんだと向こうは見るからです。

まずかった。その2枚のプリントは、確かにパーカーがしたためたemailだった。設立からしばらくは、少年パーカーが戦略立案の中心だった(連載第42回)。裁判から離れた視点で読むと、少年が1999年秋に書いたこの文章は、ずいぶん時代を先取りしている。

パーカーたちは、デジタル著作権法(DMCA)に定められた免責条項(セーフハーバー)の適用に、Napsterの命運を預けていた。ファイルの交換はユーザー同士が直接行う。Napster社が提供しているのはリアルタイム検索だけだ。検索結果の先に違法ファイルがあったとしてもYahoo!やGoogleが責任を問われないように、Napsterもセーフハー バーの適用で合法性を維持しようとしていた。

だが、セーフハーバーが適用外になるケースもある。サービス・プロバイダが、事前に違法性を認識していた場合だ。

「音楽の違法コピーを入手可能にしている」という箇所が読み上げられた時、顎に手を当てていたマリリン・パテル裁判官の目がメガネの後ろから光った。宣誓証言に提出されたこの書類が、決定的な意味を持ちうることを示していた。

その後、繰り返しこのemailは裁判所のスクリーンに表示されることになる。その度に雰囲気はNapsterに不利な方へ向かった。

「あれはブレーンストーミングの過程で書いた文章だった」と、後年のパーカーは語る(※)。

彼は初期、セーフハーバーD項に基づき、Napster社自体は合法だと信じていた。勿論、ユーザーが違法コピーをトレードしてることも認識していた。ユーザーの個人情報を守り、ユーザーが訴えられないよう配慮する必要がある。だから、会社内でタブー用語だった「違法コピー」に言及したという。

(※ Alex Winters “Downloaded” 01:05 – 01:15)

宣誓証言の翌日。会社に致命傷を与えたパーカーの名は、Napsterの公式ホームページから削除された(※)。オフィスにいると、針の筵に座らされているようだった。

(※ Joseph Menn “All the rave” pp.232)

6月12日。宣誓証言から2週間後。

決定的な証拠を得たRIAAは、Napsterの停止を求める仮処分申請を裁判所に提出した。だが皮肉な話だ。あの大失策がきっかけとなって、パーカーの建てた戦略は最終段階へ向かうことになったからだ。

 

 

メジャー・レーベルの頂点はNapsterの合法化に動いていた

 

Sonyのビデオデッキ判例と、セーフハーバー条項。ふたつの法例がNapster社の勝算だった。その一角が早くも崩れ去った。就任早々ハンク・バリーは方針を転換せざるをえなくなった。

ジョン叔父の意向で、Napsterはレーベルとの交渉を拒絶してきたが、バリーはこれを一転。メジャーレーベルでNo.1のシェアを持つユニバーサル・ミュージックを擁するヴィヴェンディ・ユニヴァーサル。そのチェアマンのエドガー・ブロンフマンJr.とコンタクトを取ることに成功した。

シーグラム財閥の御曹司に生まれ、映画プロデューサーを経た後、ユニバーサルを買収してレコード・ビジネスに参入したブロンフマンは、作曲家の顔も持つ異色のオーナーだった。映画「タイタニック」でも使用され、日本でもミリオン・セールスを記録したセリーヌ・ディオンの「トゥ・ラヴ・ユー・モア」は、彼とデヴィット・フォスターの共作だ。

ブロンフマンも大多数の業界人と同じように、Napsterの敗訴を確信していた。放っておけばNapsterは消え去るという読みだ。それでもNapsterとの交渉に応じた理由は2つあった。

「Napsterは始まりに過ぎない。代わりがすぐ登場するだろう」というのが理由の1つ目だ。ブロンフマンは「裁判に勝って戦に負ける」将来を予測していた。すでにオープン・ソースで、サーバ不要のNapsterクローン、Gnutellaが登場していた。

2つ目の理由は上記の理由と重なる。「Napsterの巨大なユーザー・ベースを、持続可能なビジネスモデルに組み込む」チャンスを感じたのだ(※)。RIAAは裁判に勝てば役割を果たせるが、ブロンフマンの立場は違う。レコード産業の売上をいまのまま保つ方向へ導く責務があった。

(※ http://www.josephmenn.com/excerpt_la_times.php )

7月5日。

カルフォルニア空港でブロンフマンとバリーは会った。メジャーレーベルから楽曲使用許諾をいただけた場合、Napsterは売上の10%を渡す用意がある、とバリーは述べた。

この男は状況を把握してない・・・

 


▲Napsterのドキュメンタリー映画が2013年のSXSWで発表されている。展開がスピーディで、パーカーたちのインタビューも豊富だ。邦訳がないが、お薦めしたい。報道の裏で展開されていたドラマを体感することができる。

「あともう少しだ」とブロンフマンはバリーに囁いた(※)。
「あともう少しでした」と13年後、ローゼンは振り返った(※)。

>> 続きは書籍で!

【本章の続き】
■Napsterの運命を決めたemail
■連邦議会もNaspterに救いの手を差し伸ばしていた
■連邦議会で四面楚歌となったRIAA
■Napsterの合法化はもう少しのところまで来ていた
■アメリカ最強の弁護士がNapsterに付く
■予言を的中させたローレンス・レッシグの慧眼
■アメリカ最強の弁護士、1日で敗れる
■Napsterの夏の終わり。Spotifyへ託された夢
■コートニー・ラヴ。革命なのか反乱なのか

「未来は音楽が連れてくる」電子書籍 第2巻

次回は佐々木俊尚さんとの対談を公開!
>>次の記事 【「未来は音楽が連れてくる」佐々木俊尚氏 × 榎本幹朗氏 特別対談【前編】】

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著者プロフィール
榎本 幹朗(えのもと・みきろう)

 榎本幹朗

1974年、東京都生まれ。音楽配信の専門家。作家。京都精華大学講師。上智大学英文科中退。在学中からウェブ、映像の制作活動を続ける。2000年に音楽TV局スペースシャワーネットワークの子会社に入社し制作ディレクターに。ライブやフェスの同時送信を毎週手がけ、草創期から音楽ストリーミングの専門家となった。2003年ライブ時代を予見しチケット会社ぴあに移籍後、2005年YouTubeの登場とPandoraの人工知能に衝撃を受け独立。

2012年より『未来は音楽を連れてくる』を連載・刊行している。Spotify、Pandoraをドキュメンタリーとインフォグラフィックの技法を使って詳細に描き、 日本の音楽業界に新しいビジネスモデル、アクセスモデルを提示することになった。 音楽の産業史に詳しく、ラジオの登場でアメリカのレコード産業売上が25分の1になった歴史とインターネット登場時の類似点 や、ソニーやアップルが世界の音楽産業に与えた歴史的影響 を紹介し、経済界にも反響を得た。

寄稿先はYahoo!ニュース、Wired、文藝春秋、プレジデント、NewsPicksなど。取材協力は朝日新聞、Bloomberg、週刊ダイヤモンドなど。ゲスト出演はNHK、テレビ朝日、日本テレビなど。音楽配信、音楽レーベル、オーディオメーカー、広告代理店を顧客に持つコンサルタントとしても活動している 。

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