[Alexandros]
初のベストアルバム『Where’s My History?』のリリースを機に、メンバー4人が改めて[Alexandros]とは何なのか?をいくつかのトピックに分けて語る前後編インタビュー。一貫したセルフプロデュースについて語ってもらった前編に続き、後編では[Alexandros]の楽曲の大きな特徴である、帰国子女の川上洋平が紡ぎだす日本語と英語が入り混じった歌詞、そして、デビューを目指すための覚悟を決めた4人暮らしの真相、そして、今ぶつかっている過去最大の壁に迫った。
トピック②英語が話せる
■今の方がデビューした頃よりも英語が喋れてる気がする
――4人中、川上さんと磯部さんというふたりが帰国子女で英語が喋れるわけですが、そのプロフィールにデビュー当初は注目が集まっていたし、歌詞の英語と日本語のハイブリッドっていうのは音楽的な特徴でもありますよね。
川上洋平(Vo・G):ファーストアルバムは英語の曲が多くて、だんだん日本語が増えていきましたね。英語の方が発しやすいんで、ボーカリストとしては歌が上手い/下手の前に、日本語より英語の方がちゃんと発声できてる瞬間が多いんですよ。それで最初は多かったのかな。あと、僕は単純にあまり日本のバンドから影響を受けてないってところもあって。でも日本の舞台でやっていくためには日本語で書かないとなって思ったし、それで自然と日本語も書くようになって、セカンドアルバムくらいから英語と日本語のハイブリッドさが目立つようになったっていうのはありますよね。
――リリースの時系列としては英語の多いファーストアルバムから、その後のファーストシングルの「city」で「日本語の曲も書くんだ?」って思ったリスナーも多かったのではと。
川上:ファーストアルバムが出て半年後くらい『city』が出たんですよね。すぐに「あれ? 英語のバンドじゃないんだ」って思わせたっていうのは方向性として大きかったと思います。特に戦略っていう感じではなかったけど、「英語でやるバンドなんでしょ」って言われると「いや、違うよ。日本語でもできるよ」って言いたくなってたんでしょうね。作家的に覆したかった感があったのかもしれない。アルバムからすぐにシングル出さなきゃいけなかったんだけど、「city」の原型はあって。本当は「Rocknrolla!」でも良かったんだけど、サトヤスが入ったばかりだったこともあってあまりハマらなくて。その中でハマったのが日本語の「city」だったっていう。
――メロディと一緒に出てくる日本語と英語の比率はどう変化してきてるんですか?
川上:基本的には英語が多いですけど、昔に比べたら日本語が出てくることも増えてきましたね。今は英語が6割、日本語が4割くらいかな。でも数年前からニューヨークに行くことが多くなって、向こうのプロデューサーとめちゃくちゃやりとりしてたから、また自分の中に英語が戻ってきた。10代の頃は普通に喋れてたのに、日本に帰国してサラリーマンとかやってるうちに喋る機会が減っていって。だから、今の方がデビューした頃よりも英語が喋れてる気がする。ヒロもそうかもしれないけど。
磯部寛之(B・Cho):間違いないね。
川上:発音とかすごいシビアになったし。
川上洋平
――磯部さんは、ロスから帰国後喋るようにしてたんですか?
磯部:喋るようにしてた時期はありますけど、英語を忘れないようにっていうよりは、アメリカの友達が恋しくて電話して普通に喋ってたって部分が大きくて。それ以降はそんなに喋ってなくて。だから洋平と同じように、ニューヨークに行って戻ってきてる感に正直びっくりして。「あ、俺こんなに忘れてたんだ」って思ったし、思春期にロスに住んでた時に極めて近い感覚に戻ったというか。せっかく戻ったんだから大事にしようって思ってますけどね。
川上:ロスから日本に帰国してから向こうに電話してた?
磯部:してたよ。超寂しかったから。俺おこづかいは全部国際テレホンカードに使ってたもん(笑)。
川上:そうなんだ(笑)。俺は家の電話からかけてたから、親が電話料金見て「何これ!?」って驚いてた(笑)。
磯部:あははは。5千円のテレフォンカード買ってたんですけど、公衆電話からかけるってこともあってそんなに長い時間話せないんですよ。でも学校始まる前、朝早くに家出てかけてた。
白井眞輝(B):時差があるからね。
磯部:そうそう。ちょうど学校始まる1時間前くらいに公衆電話に着いてかけると、向こうが夜でちょうどよくて。
川上:そんな切ない時期があったんだ。知らなかったよ。
磯部:俺ほんと嫌だった。「日本にどうやって馴染んだら良いかわからないよ」って思ってた。こんな俺でもそんな時期があったんですよ(笑)。基本人懐っこいんですけど。それで高校入ってベースに触ることになるんですけど。でも、日本からロスに行った時もチームスポーツに救われたところがあって。全然英語できなくて「どうしよう」って思ってたところでバスケとか水泳始めたら、同じものを好きな人が集まってきて遊ぶ環境の中で、言葉がわからなくてもちょっとずつ伝えようとしてくれる人が幸運にも周りにいて。
磯部寛之
――白井さんは昨年のSpotifyのオンラインイベントで中国語を話してましたけど。
白井:あれは丸暗記してただけですけど(笑)、趣味で中国語を勉強してた時期があるんですよね。ライブで現地に行った時に、MCとかで喋れたほうが距離が縮まるかと思って。
川上:うちら結構早い段階からアジアにツアーで行ったりしてて。今でもそこにファンはいるだろうと信じて、その人たち向けにもSNSとかで発信しているつもりなので。やっぱり他の国の人が聴いても楽しめるような音楽を作れるようにいたいので、そこは意識してますね。
――サトヤスさんも英語を勉強してましたよね。
庄村聡泰(Dr):ニューヨークにいる時、語学学校に行ってましたね。文法を学んだってよりは、どういうチャンネル感で話したらいいのかっていうのがよくわかりました。行ったおかげでちゃんとした英語を喋ることを諦めて、超楽になりました(笑)。幸い現地で会う人の中で、基本的に誰よりも俺が音楽詳しかったりしたので、どこ行っても楽しく友達が作れましたね。
川上:ニューヨークっていろんな人種がいるってこともあって、意外と英語喋れてない人も多くて。英語喋れるけど、発音はメキシコ訛りだったり。それでも通じてしまえる世界でもあるから、臆することなくコミュニケーションが取れる場所ではある。日本の方が発音が違うと突っ込まれたりして。そういう意味ではサトヤスはほんと良い時間になったんじゃないかなって。
庄村:うん、そうだね。
庄村聡泰
トピック③全員一緒に住んでいたことがある
■一緒に暮らしてたからこその一致団結感は生まれた
――元々前のドラムとこの3人で暮らしてて、サトヤスさんが正式メンバーになったところで前のドラムが住んでたところにそのまま入れ替わりで住むという。
川上:巨人軍の寮みたいなね(笑)。
――サトヤスさんに加入当時「住むのが条件だけど良い?」と伝えたそうですけど。
川上:それどうだったの? 「一緒に住んでくれ」って言われて。
庄村:俺はそれまでずっと実家暮らしで、プロのミュージシャンになって実家出るって、こんな素敵な理由ないじゃないですか。
川上:確かにね。でもひとり暮らしが良いとかなかったの? 「なんでお前らと一緒に住まなきゃいけないんだ」って(笑)。
庄村:全然なかったよ。おもしろそうだし、体験してみたかったし。
川上:あ、そう。良かった。
庄村:マンガ好きとしては、トキワ荘みたいで素敵だなって。
磯部:だからサトヤスが入ることになって、そのこと少し話したんだよね。結局強制入寮みたいな感じだったけど。前のドラムがバンドを抜けて家からも出るとなると、残りの3人で家賃払うのきついよねって。
川上:(笑)その話もあったね。
磯部:だから「ちゃんとサトヤスは入寮してくれるかな?」って(笑)。
白井:もしダメだったら前のドラムにそのまま住んでもらうっていう話もあったよね。
磯部:ああ、そうそう。
川上:あははは。ひどいな。
白井:そう、家賃のために(笑)。
磯部:サトヤスに断られることも想定しておかないといけないので(笑)。でも、ふたつ返事で喜んで来てくれたから良かったけど。
――サラリーマンだった数年間は、仕事が終わった後、地下の防音室で夜な夜な練習や制作をしていたわけですよね。
磯部:ほんとそうですよ。サラリーマンやってたのは最初の3年でしたね。会社辞めてからもしばらく4人暮らしは続いてて。
川上:デビューするまで3年。デビューしてから3年。合計6年くらい続いてたのかな。
庄村:4人暮らしが終わったタイミングのツアーのタイトルにもしてるよね。
川上:ああ。「四人暮らしを解消すれば君も…Perfect Body!!」ってツアーあったね(笑)。
――今思うと、その共同生活がバンドに与えたものって何だと思いますか?
川上:一緒に生活することで、人や世間に対する考えがだんだん一致してきて。もともと同級生で近い感覚は持っていたけど、それがさらに近くなった。今は離れて暮らしてますけど、一緒に暮らしてたからこその一致団結感は生まれたと思いますね。
白井眞輝
■会社とバンドとどっちを選ぶかっていったらもちろんバンドだった
――そもそもなんで一緒に住むことになったんでしたっけ?
川上:大学卒業してヒロが一流企業に就職して、すぐ福岡転勤になって。でも、バンドに本腰入れるためにやっぱり帰ってきてほしいって話になって。そこまでするのであれば、拠点を一緒にしようと。一緒に住んで、夜な夜な曲を作るくらいの本気にならなければいけないよねって。だからヒロの転勤が大きなきっかけではあった。
磯部:当時俺は、月曜から金曜まで福岡で仕事して、週末はバンドのために東京に帰ってたんです。お金もないから、それぞれのメンバーの実家に泊めてもらってたんですけど、その日ちょうど洋平の家に泊めてもらってて。夜洋平と話をして、「そもそも何歳になってもバンドを続けるために就職したよね」と。「でもこの状態はさすがにそろそろどっちか選ばないといけないかもしれないね」って。良い会社で刺激的ではあったんですが、もちろんどっちを選ぶかっていったら俺はバンドを選ぶって決めて、その部屋で親父に会社を辞める電話をしたんですよ。それで東京に帰ってくるんだったら4人一緒に暮らして、もう本格的にどっぷりバンドモードになろうよっていう。そういう会話をしたのをすごく覚えてます。
――そこでより覚悟を決めたっていう。
川上:それまでも覚悟は決まってたけど、「実際じゃあお前らちゃんとやってるのか?」って訊かれたらできてなかったのかもなって。4人でがっつり毎日練習して曲作ってっていう環境を整えられてたかっていったら違ったし。ほんとに自分たちが何をやるべきなのか、誰に見せるべきなのか、どうしたいのかってところも日々話し合えてるわけじゃなかった。そういう意味でも4人暮らしっていうのは必要だったのかなって思いますね。
磯部:なかなか会えなかったしね。
川上:うん。言葉では「何よりもバンドだ」って言ってたけど。
磯部:それは俺の転勤のせいってのもあったけど。
川上:いや、でも俺も何ヵ月か大阪に出張してた時期もあったから。
磯部:そっか。でも「4人暮らしもおもしろそうだね」ってなったし、一体感がそれによって生まれるんだなって期待したし。俺はもう、会社辞めて何の肩書もない状態で世間に放り出されるってことで、逆に精神的に無双状態に入って(笑)。捨てるものがなかった。
川上:でもヒロの会社の人は、入ったばっかで「バンドやりたいから辞める」って言われて絶対「あいつバカだな」って思ったと思うんですよね。ちゃんとやっていけて良かったよね、ほんと(笑)。
磯部:普通に怒られたからね(笑)。福岡営業所の上司に話して。大きい会社だったんで、「新入社員の研修費考えたことある?」って言われて。たくさん新入社員はいるんだけど、ひとりあたり計算しても相当研修費がかかってるらしくて。「それを会社に還元する前に辞めやがって。しかも俺の元に来た瞬間に辞めるってことは俺の査定にも響くんだぞ」と。「ごもっともでございます。返す言葉もございません」って感じでしたね(笑)。
川上:そういえばまーくんもさ、4人暮らしするために「引っ越し手伝うわ」ってまーくんの家に集まって。そこでレンタカーで荷物運ぶのをお母さんが心配そうに見てるわけなんですよ。一緒に暮らしてた息子が出ていくと。そしたら出発した途端に車ぶつけて(笑)。
白井:(笑)レンタカー、みんなでシェアしようってなったんだけど、マニュアル車が来て。それでみんなが「運転できない」って言うから、俺もトラック運転したことないのに仕方なく(笑)。そしたらラーメン屋の張り出してる屋根にこすって。いきなり警察沙汰ですよ(笑)。
川上:しかも早朝で雨でね。これはもう前途多難だなって(笑)。
磯部:先行き不安だったよね(笑)。
川上:お母さんも目の前で息子送り出した瞬間に事故ってるんだもん(笑)。不安だっただろうね。最初はそんな感じだったよね。
川上洋平
――川上さんも最初会社辞めたことを親に言ってなかったですよね。
川上:言ってなかったです。僕もヒロと同じでメーカーに勤めてて。デビュー決まった頃にリーマンショックの影響で会社が早期退職者を募ったんですね。それで「はい!」って手上げて。俺もめっちゃ怒られたけど、辞めることになって。そこからみんなで同じところでバイトし始めて。でも親には1年くらい辞めたこと言ってなくて。だから、実家帰る時は世界情勢のこと調べて。それでスーツ着て「今日上司がさ」とか「今太陽電池がさ」とか嘘ついてましたね(笑)。
磯部:もうリストラくらったお父さんだよね(笑)。
――それで、ラジオ番組の企画で収録中に親に電話して、バンドでデビューしてるってことを伝えたという。
川上:そうなんだよね。「メディアの世界ってこうなんだ! 怖っ!」って思った(笑)。バンドマンなんだからかっこつけさせろよって思ったけど(笑)。でもほんとウチの親父怖かったな。マジギレしてたからね。それでラジオのディレクターがびびってて。それまで和気藹々と収録してたのに。「これ、収録で良かったね」って。
磯部:洋平のお父さん、俺もめちゃくちゃお世話になってて良い人なんですけど。ドッキリ仕掛けていいタイプじゃないんですよね。相手を間違えた(笑)。
川上:今でも「ためになることすごい言ってくれるな」って思うんですけど、戦時に生まれたとにかく厳しい人で。親が進んでほしいと思ってた道とは違ったけど、そういう人を出し抜いてでもっていう力をもらえたところもあったと思うのでありがたいですけどね。リキッドルームのワンマンの時に初めてライブを観に来てくれて。そこで「これだけのお客さんがいて、仕事として成り立ってるんだな」って目の当たりにしてから応援体制になって。
――関係者席でご家族がノリノリだったの覚えてます(笑)。
川上:(笑)あの父親はね、死ぬか生きるかをマジで体験してる人だから、そりゃ怖いわ。どこかに疎開した時に、「戦闘機のパイロットの顔が見えた」って言ってて。それで撃ってくるから汽車からみんなで脱出したとか。だから、映画とかで走ってる汽車から飛び出してかっこよくコロコロコロって転がるようなもんじゃないからなって。ほんとのインディ・ジョーンズやってたんだから(笑)。そんな人からしてみたら、手塩にかけて大学まで行かせた息子が「バンドでデビューするから会社辞める」って言ったら、まあ怒りますよね。だから俺は父親を責められないし。でも、そういう親だって知ってても、「俺は音楽やりたいんで。ごめんなさい」って言えるくらいの強い気持ちが持てて良かったなって感謝してますね。
――でも皆さん家族に認められるようになれて良かったですね(笑)。
磯部:(笑)そういう意味ではもっと恩返しはしたいですけどね。認めてもらえるのがゴールっていうよりかは、これからやっぱりもっと、どんどん誇れる息子たちになっていかなきゃいけないわけだし。
川上:そうだよね。
磯部:この歳になって言うのもあれだけど(笑)。
白井:俺は音楽学校出てるんで、何も裏切ってないっていうか(笑)。逆にすごくまっとうな道でここまできたんで。
川上:一番順当だよね。
白井:だから親に対しての反骨心とかもないです(笑)。
■もしかしたら今が一番高い壁なんじゃないかなって
――いろんなことがあった11年で。下積みもあり、改名もあり、サトヤスさんの勇退もあるわけですが、逆境の度に乗り越えてきた、その根底には何があるんだと思いますか?
川上:上ってってやるっていう反骨精神だと思いますよ。今思うと、逆境があって精神的にありがたかったなって。満足感や上った感、覆した感って、足枷にもすごくなるから。だから、今そこと戦わなきゃいけない時期だと思います。アリーナツアーもスタジアムライブもできた。欲しい物も買ったし、高級時計もみんな持ってるし、もう全然暮らしていけるわけだから、あとはもう女優と結婚するなりして(笑)、「それでいいじゃん!」ってなっても良いかもしれないですけど。でも、ここがもしかしたら一番高い壁なんじゃないかなって思ってて。「満足しちゃっていいよ」っていう悪魔の囁きってめちゃくちゃ怖い。今38歳だけど、生きてきて初めてなんだよね。こっからうちらは何と戦っていけばいいんだろう、何をガソリンとして燃やすのかっていう状況が。だから、戦わなきゃいけないと思ってます。やっぱり俺たちの目標はあくまでも一番だから。やっぱり上には上がいるし、自分たちがほんとの意味で見たい景色、光景っていうのは見れてないから。やっぱりまだまだ満足しちゃだめだと思う。
――皆さん結婚してないのも珍しいですよね。
川上:してないですね。
磯部:しちゃダメってわけじゃないんですけどね。でも、満足の話で言ったら、俺は満足できるポジションって思ったことは一度もなくて。こんなところで満足するために会社も辞めて4人暮らししたわけじゃないし。まだ[Alexandros]って全然知られてなくて、悔しい思いをすることの方が正直多いんですよ。「あ、そのバンド知ってる! すごい!」って反応の方が少ないですよ。その辺歩いてる人の反応としては、「ああ、あの鳥の曲でしょ?」くらいの人の方が圧倒的に多いと思う。だから、こんなところであぐらかいてるようじゃダメだし。[Alexandros]っていうものをもっと高めていくのが生涯の目標なはずだから、ここで[Alexandros]ってブランドに仮にメンバーがぶら下がったらもう落ちると思う。そこは自分としては当然の渇きなんですよね。
――まだまだやることありますからね。
川上:やらなきゃいけないことだらけですよ。
磯部:でも、誰に何を言われても諦めないってことだけはもう我々には染みついてるから、これからも諦める気はさらさらなくて。絶対成し遂げたいと思っています。
――よくわかりました。今日はありがとうございました!
4人:ありがとうございました!
撮影=岩澤高雄(The VOICE) ヘア&メイク=坂手マキ(vicca)
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