追悼 折田育造 師「音楽を愛し、仲間を愛し、業界を愛した人」

コラム Musicman

ワーナーパイオニア洋楽本部(1973年頃)最前列中央に折田育造氏、最後列左から2番目に筆者の山浦正彦氏

Text by 山浦正彦(Musicman共同発行人/ex-Warner Pioneer)

69年にビクター入社、六本木のフィリップス事業部に配属されていたボクが師と出会うのは翌70年に近所にワーナーパイオニアという新レコード会社が出来た時だった。ある人の世話で新会社の面接を受けることになり、その時の面接官が折田さんだったのだ。営業部配属で憧れのディレクターへの道に遅れをとっていたボクは洋楽部の採用枠に飛びついた。

発足当時にワーナーPの洋楽レーベルはワーナー、リプリーズ、アトランティックの3つ。実は音楽好きとは言っても5~60年代のオールドポップスからベンチャーズ、ビートルズに熱中しただけのひよっこが簡単に洋楽ディレクターになれるとは思えない。でもボクには特別な武器が一つだけあった。大学時代に何故かブッカーT& the MG’sのバンドをやっていたのだ。折田さんという人がアトランティック担当だったという話を聞いたときから、如何にブッカーTの音楽が素晴らしいか、を一点集中、熱く語った。で、めでたく採用決定というわけだ。

入社したらまず、昼のランチは今尾課長、折田係長に誘われるのが日課となった。そこでビックリしたのは折田さんは必ず、どこでもまずビールを1本注文するのだ。「え?昼から?!」そこから毎日、折田ワールドの全開快走を目撃することになるのである。まずは音楽の話をし出すとメチャクチャ熱いし詳しいし止まらない。話は縦横無尽、歴史に広がりこぼれ話まで。業界のことも人も事件、ニュースも隅々まで知ってるし、なぜそこまで知ってるのか意味不明。人好き、酒好きも度を越して男にも抱きつきキスをする。深夜まで飲んでは道路の真ん中に大の字に寝る。でも翌朝、遅刻もせず平然と出社してくる。まさに業界の怪人か?

1年ぐらい経ってうっすらわかってきたことは当時テレビ朝日通りと呼ばれる六本木の裏通りに団長と慕われる伊藤さん経営の「スピークロウ」というルーム・バーが各社洋楽業界人の溜まり場となっていて、夜な夜な情報交換テスト盤交換などが行われていた。そこには3大名士、折田、石坂高久氏を始めとする幹部から新人までが業界の振興に向けて熱い夜を過ごしていたのだ。なんて楽しくて実のある時代だったんだろう。

でも折田さんの天性の吸収力、記憶力は類い稀な才能だ。コンピューターで言えばスパコンか?というぐらい。例えば2~30年前の出来事でも「レッド・ツェッペリンが新大阪で東京に戻るとき、あれは確か、え~っと、そうそう○時○分発ののぞみ○号だったんだが××××××××」と話し始めて止まらないのだ。「あん時のアイツのレコーディングはジム・ゴードンがドラムでベースがチャック・レイニーで××××」ってな話は日常茶飯事。音楽の詳しさは誰にも負けないでしょう?と聞くと「いや、上には上がいるんだ。朝妻とカメさん(亀渕昭信氏:元ニッポン放送代表取締役社長)には敵わないよ」といつも言っていた。

折田さんは本当に音楽を愛し、仲間を愛し、業界を愛してた。ボクがワーナーに不義理し飛び出して15年後に書籍『Musicman』を準備する時、真っ先に協力をお願いしたら「いくらでも力になる」言ってくれ、またウェブ版においてもリレーインタビューのスタートにあたりトップバッターに立ってくださった。

彼の大きな仕事の功績には触れませんでしたが、本当にステキな、大きい愛の人でした。ありがとうございました、折田さん、一方的に私の恩師だと思っています。安らかに!

関連タグ

関連タグはありません

オススメ